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「ソア!どこにいるんだい!朝餉はまだかい!」
「は、はい!ただ今お持ちします!」
自分を呼ぶけたたましい声に、慌てる黒髪の小柄な少女は名をパク・ソアと言った。反物を売る商家で住み込みの下女をしている。
長い黒髪を後ろで一つに結んだだけの彼女は、身なりこそ貧しいものの、整った顔立ちをしていた。凛とした大きな瞳に高い鼻梁に少しぽってりとした唇が美しさの中に可愛らしさを演出している。
この屋敷の下女であるソアは、朝から夕方まではここで働き、夜は奥方の妹にあたる女将の酒場に手伝いに行かされていた。昨夜も遅くまで働きへとへとになって帰ってきて布団に倒れ込むようにして寝たのもつかの間、あっという間に朝を迎えた。
眠たい目をこすって、頬をパチンと両手ではたく。
「しっかりするのよ、ソア」
気合を入れてから、ソアはかまどで温めていた朝餉をよそい、盆に乗せて運んだ。
「どれだけ待たせれば気が済むんだい、こののろまが」
「ったく、稽古に遅れたらどうしてくれんのよ!」
「申し訳ありません、っつ」
一人娘のハユンが手に持っていた手鏡をソアめがけて投げつけた。それは、ソアのおでこに当たり畳へと落ちる。割れなかったのが幸いだった。
ソアと同じ年のハユンは、特にソアにあたりがきつかった。気に入らないことがあると、ソアのせいでなくともこうしてあたりちらしてはソアを痛めつけた。
主人と奥方、娘のハユンの分の盆を運び終えたソアは、部屋の隅にひっそりと息をひそめて座り三人が食事を終えるのを待つ。
三人は、ソアが居ないかのように楽しそうに会話に花を咲かせる。ソアは俯き、時が過ぎるのをじっと待つのが日課だった。
「ちょっと、なにぼうっとしてるの?はやく下げてちょうだい」
「はい、かしこまりました」
何をやるにも、文句がセットになるのはもはや日常。酷い時は熱い汁の入った椀を投げつけられたり、髪を掴んで水桶に突っ込まれたりと嫌がらせも少なくない。
「では母上、父上、行って参ります」
ハユンは、毎週決まって伽耶琴の稽古に行っていた。お気に入りの下男に伽耶琴を持たせて輿に乗って出かけていく。
その姿を見る度に、ソアは昔の自分を思い出して胸が痛くなる。
(大好きだった伽耶琴)
自分も子どもの頃はハユンのように伽耶琴を習い、『お嬢さま』と呼ばれていたのに、と。
(もう一度弾きたいな…)
しかし、同時に自分のあかぎれたカサカサの手指を見ては悲しくなるのだった。幸せだった子ども時代の思い出は、ソアをこの世につなぎ留め、時には虚しさを与える表裏一体の思い出でもあった。
「あぁ、ソア。私の部屋に置いてある着物のほつれを今日中に直しておいて」
盆を下げるソアを呼び止めたのは、ハユンだ。
自分よりも身分が低い下女の自分をハユンがなぜこんなにも気に入らないのか、ソアにはわからなかった。しかし、それにはソアの出自が関係している。
ソアはもとは両班の娘だったのだ。
ハユンは、下女が両班の娘だったという事実が気に食わないだけでなく、ソアの見目が綺麗なのも許せなかった。
昔、ソアがまだ10歳の頃、王宮に仕えていた父親が不正を働いたせいで一族は失脚。身分剥奪となり父は投獄され、母もソアも下女としてそれぞれ奉公に出された。それ以来父とも母とも会えていない。
朝から晩ならず夜中まで働かされているが、賃金は一切貰えず、下女以下の扱いを受けているのはそのためだった。
もうかれこれ7年の年月が流れ、今ではもうこれが日常となり色々なことを諦めてきた。
「3着もある…」
朝餉を片付け、洗濯を終えたソアはハユンの部屋に積まれた着物を見て愕然とする。
この後、買い出しへ行き、昼餉を作り、その後は夕餉までに部屋の掃除と洗濯ものを取り込んで…、とやることは目白押しだ。なのに、その合間にこれを今日中になど、無理難題もいいところ。
「ソア、今日の買い出しは私が行ってくるから、あんたはこれを片づけちゃいな」
声がしたほうを振り返れば、そこにはソアと同じ下女で先輩のミンソがいた。彼女は、住み込みではなく近場から通っている。彼女だけが、この家の中で唯一ソアを助けてくれる人物だった。
「でも…」
この家の家事以外、商いの手伝いで忙しいミンソに頼むのは気が引けた。
「今日は、旦那様も奥様もお出かけだから、大丈夫だって。上手く手を抜くよ」
「ミンソさん…ありがとうございます!たすかります!」
有難い申し出を受けて、ソアは早速裁縫に取り掛かった。
「綺麗な色…」
淡い桃色のチマチョゴリに手を滑らせる。王宮に仕える官吏だった両班の娘だったソアはハユンが着ているよりももっと上等な着物を着ていた。
「人の運命とは、なんて無情なのかしらね」
両班のお嬢さまはある日突然10歳という幼さで下女として奉公に放り出されたのだ。
家のことなど何一つできなかったソアを押し付けられたこの家を思えば、今こうして住まわせてもらい食事を与えられているだけでも感謝しなければならないとソアは酷い仕打ちにも耐えていた。
いや、耐えるしかなかった。
反抗して追い出されても、ソアに行くところなどなく、道端で野垂れ死ぬか男を買わされ性奴隷のような一生を送るしか道はない。
「あら、ちゃんと終わってるじゃない」
稽古から帰ってきて、綺麗に直してある着物を見て顔をしかめるハユンを横目にソアはせっせと仕事をこなす。
家人たちが夕餉を終えた頃、外はもう薄暗くなり始めていた。ソアは下げ物を洗い終えると、息をつく間もなく、酒場へと急いだ。
酒場に向かうソアの足は軽やかだ。
(今日はいらっしゃるかしら…)
よく店に飲みに来る常連客を思うと、あれほど辛かった酒場の手伝いも楽しみに思えるから不思議だった。
そして、夜もとっぷりと更けた頃、ソアの願いが叶う。