荘厳たる王宮殿の一角。
静寂を背負い、多くの官吏と民衆の見守る中、金箔の鳳凰紋が美しい深紅の紅円衫を身に纏った女が歩いていた。
宮殿へと続く階段の上、両脇を女官に支えられながら一段一段ゆっくりと登っていく。
頭は編んだ髪を幾重にも重ねたオヨモリに仕上げられ、左右と天辺にはトルジャムという揺れる装飾の施された髪飾りが添えられていて、一歩踏み出すたびにシャランシャランと揺れては耳に心地良い音を奏でていた。
重たい頭と、大礼服以上に、彼女の肩には果てしない重責が乗っている。
(今日から国母になるのよ、私は…)
ともすれば折れそうになる心を奮い立たせて、階段を登り切ると、その先には、彼女の緊張と不安を全て包み込むような笑顔を浮かべてこちらを見つめる男の姿があった。
この男は、大楊国第28代国王・名をイ・ソジュンという。
「王様」
その笑みに安堵して近づく彼女に、王は目を細める。
「余の妃は、まこと美しい」
「からかわないでください」
差し出された手を取り、横に並べば、眼下には人の海が見えた。
「王妃、パク・ソアーーーー」
王妃の名が、官吏により叫ばれると、歓声が沸き起こる。
「これが、余の、そしてそなたの民たちだ」
全ての者たちが、並ぶ二人を仰ぎ見ている。
止まない歓声と、その迫力に圧倒され、大礼服の下で全身に鳥肌が走る。それを知ってか知らずか、王の握る手に力が込められた。
見やれば、彼女が愛してやまない優しい夫の目があった。
「大丈夫だ。余は、そなたを信じている」
「はい、王様」
「我が王妃、ソア。国母として民の手本となれ」
「ーーーありがたき幸せにございます、王様」
沸き起こる万歳の声の中、二人は互いに見つめ合い、目を細めて微笑んだ。
これは、不幸な道を歩んできた下女が、王からの寵愛を受けて王妃にまで昇りつめる物語ーーーーー
・
・・
・・・…
「ソア!どこにいるんだい!朝餉はまだかい!」
「は、はい!ただ今お持ちします!」
自分を呼ぶけたたましい声に、慌てる黒髪の小柄な少女は名をパク・ソアと言った。反物を売る商家で住み込みの下女をしている。
長い黒髪を後ろで一つに結んだだけの彼女は、身なりこそ貧しいものの、整った顔立ちをしていた。凛とした大きな瞳に高い鼻梁に少しぽってりとした唇が美しさの中に可愛らしさを演出している。
この屋敷の下女であるソアは、朝から夕方まではここで働き、夜は奥方の妹にあたる女将の酒場に手伝いに行かされていた。昨夜も遅くまで働きへとへとになって帰ってきて布団に倒れ込むようにして寝たのもつかの間、あっという間に朝を迎えた。
眠たい目をこすって、頬をパチンと両手ではたく。
「しっかりするのよ、ソア」
気合を入れてから、ソアはかまどで温めていた朝餉をよそい、盆に乗せて運んだ。
「どれだけ待たせれば気が済むんだい、こののろまが」
「ったく、稽古に遅れたらどうしてくれんのよ!」
「申し訳ありません、っつ」
一人娘のハユンが手に持っていた手鏡をソアめがけて投げつけた。それは、ソアのおでこに当たり畳へと落ちる。割れなかったのが幸いだった。
ソアと同じ年のハユンは、特にソアにあたりがきつかった。気に入らないことがあると、ソアのせいでなくともこうしてあたりちらしてはソアを痛めつけた。
主人と奥方、娘のハユンの分の盆を運び終えたソアは、部屋の隅にひっそりと息をひそめて座り三人が食事を終えるのを待つ。
三人は、ソアが居ないかのように楽しそうに会話に花を咲かせる。ソアは俯き、時が過ぎるのをじっと待つのが日課だった。
「ちょっと、なにぼうっとしてるの?はやく下げてちょうだい」
「はい、かしこまりました」
何をやるにも、文句がセットになるのはもはや日常。酷い時は熱い汁の入った椀を投げつけられたり、髪を掴んで水桶に突っ込まれたりと嫌がらせも少なくない。
「では母上、父上、行って参ります」
ハユンは、毎週決まって伽耶琴の稽古に行っていた。お気に入りの下男に伽耶琴を持たせて輿に乗って出かけていく。
その姿を見る度に、ソアは昔の自分を思い出して胸が痛くなる。
(大好きだった伽耶琴)
自分も子どもの頃はハユンのように伽耶琴を習い、『お嬢さま』と呼ばれていたのに、と。
(もう一度弾きたいな…)
しかし、同時に自分のあかぎれたカサカサの手指を見ては悲しくなるのだった。幸せだった子ども時代の思い出は、ソアをこの世につなぎ留め、時には虚しさを与える表裏一体の思い出でもあった。
「あぁ、ソア。私の部屋に置いてある着物のほつれを今日中に直しておいて」
盆を下げるソアを呼び止めたのは、ハユンだ。
自分よりも身分が低い下女の自分をハユンがなぜこんなにも気に入らないのか、ソアにはわからなかった。しかし、それにはソアの出自が関係している。
ソアはもとは両班の娘だったのだ。
ハユンは、下女が両班の娘だったという事実が気に食わないだけでなく、ソアの見目が綺麗なのも許せなかった。
昔、ソアがまだ10歳の頃、王宮に仕えていた父親が不正を働いたせいで一族は失脚。身分剥奪となり父は投獄され、母もソアも下女としてそれぞれ奉公に出された。それ以来父とも母とも会えていない。
朝から晩ならず夜中まで働かされているが、賃金は一切貰えず、下女以下の扱いを受けているのはそのためだった。
もうかれこれ7年の年月が流れ、今ではもうこれが日常となり色々なことを諦めてきた。
「3着もある…」
朝餉を片付け、洗濯を終えたソアはハユンの部屋に積まれた着物を見て愕然とする。
この後、買い出しへ行き、昼餉を作り、その後は夕餉までに部屋の掃除と洗濯ものを取り込んで…、とやることは目白押しだ。なのに、その合間にこれを今日中になど、無理難題もいいところ。
「ソア、今日の買い出しは私が行ってくるから、あんたはこれを片づけちゃいな」
声がしたほうを振り返れば、そこにはソアと同じ下女で先輩のミンソがいた。彼女は、住み込みではなく近場から通っている。彼女だけが、この家の中で唯一ソアを助けてくれる人物だった。
「でも…」
この家の家事以外、商いの手伝いで忙しいミンソに頼むのは気が引けた。
「今日は、旦那様も奥様もお出かけだから、大丈夫だって。上手く手を抜くよ」
「ミンソさん…ありがとうございます!たすかります!」
有難い申し出を受けて、ソアは早速裁縫に取り掛かった。
「綺麗な色…」
淡い桃色のチマチョゴリに手を滑らせる。王宮に仕える官吏だった両班の娘だったソアはハユンが着ているよりももっと上等な着物を着ていた。
「人の運命とは、なんて無情なのかしらね」
両班のお嬢さまはある日突然10歳という幼さで下女として奉公に放り出されたのだ。
家のことなど何一つできなかったソアを押し付けられたこの家を思えば、今こうして住まわせてもらい食事を与えられているだけでも感謝しなければならないとソアは酷い仕打ちにも耐えていた。
いや、耐えるしかなかった。
反抗して追い出されても、ソアに行くところなどなく、道端で野垂れ死ぬか男を買わされ性奴隷のような一生を送るしか道はない。
「あら、ちゃんと終わってるじゃない」
稽古から帰ってきて、綺麗に直してある着物を見て顔をしかめるハユンを横目にソアはせっせと仕事をこなす。
家人たちが夕餉を終えた頃、外はもう薄暗くなり始めていた。ソアは下げ物を洗い終えると、息をつく間もなく、酒場へと急いだ。
酒場に向かうソアの足は軽やかだ。
(今日はいらっしゃるかしら…)
よく店に飲みに来る常連客を思うと、あれほど辛かった酒場の手伝いも楽しみに思えるから不思議だった。
そして、夜もとっぷりと更けた頃、ソアの願いが叶う。
「ーーー空いているか?」
声と共に店のドアをくぐる長身の男が現れ、ソアの胸はトクンと弾む。
「ソジュンさま、いらっしゃいませ!どうぞ、こちらへ」
彼は頻繁に店を訪れる常連の上客で、名をソジュンと言った。年のころは恐らくソアより少し上の20そこそこだろう。色素が薄いのか、薄い栗毛に良く似合う白い肌は美しく、反して目鼻立ちは殿方らしく凛々しかった。
着ている服も上等で言葉遣いや立ち居振る舞いからも両班だろうと一目でわかる御仁だったが、店主とその女将もなぜそんな高貴なお方がうちみたいな大衆酒場に来るのか見当がつかない、といつも首をかしげている。
もともと、ソジュンがうちの店に来るようになったきっかけはソアだった。奉公先からこの酒場に来る途中、道をさまよう彼に声をかけたのが始まりだ。
『何かお困りですか?』
突然後ろから声を掛けられて驚いたのか、ソアを見つめたソジュンは目を見開いて固まっていた。
『…あ、いや…、その、この辺りで酒が飲めるところはどこだろうか、と…』
『えっと…、旦那様のような高貴なお方の行かれるようなお店は存じ上げませんが…町の酒場で良ければすぐそこにありますよ。私が働いている所なんですけど、豚肉とにらの包子が美味しいいと評判のお店なので良かったらどうぞ』
『そうか…、では、案内してくれるか』
それ以来、ソジュンはソアの働く店によく足を運ぶようになった。
いつも一人で静かに酒を飲み、時折つまみや食事を注文して、会計の際には決まって釣銭はいらないと言って帰っていく。
そんな懐の広いソジュンが来ると女将は上機嫌だし、いつもソアに優しく話しかけてくれる彼との時間はソアにとっても楽しみになっている。
「何か良いことでもありました?」
なんとなくいつもより表情の明るいソジュンは、「バレたか」と頬を緩ませる。
「あぁ、仕事が捗ってな」
「それはそれは、お酒も進んじゃいますね、ふふ」
冗談めかして言うと、「こやつめ」とおでこをトン、と突かれた。
ソジュンは、ソアを下女ではなく一人の人間として相対してくれる数少ない相手だった。いつも言葉を交わすのはほんの僅かな時間だけれど、ソジュンと話していると日頃の嫌なことを忘れられた。
それともう一つ、ソアはソジュンに幼き記憶の中にいるシウという男の子の面影を見ていた。
ソジュンの、きりっとした涼しい目なのに、ソアを見つめる優しい眼差しがシウを思い出させ、ソアを懐かしくさせた。
(シウは、今頃どうしているかしら)
おぼろげな記憶の中にいるシウという男の子とは、ソアがまだ両班だった頃、毎年夏の休暇で訪れる避暑地で出会った。
静かな湖畔を囲む避暑地で、ソアはシウと水遊びやかくれんぼをしてよく遊んだ。他に子どもがおらず、退屈だったソアには良い遊び相手で、シウもまたソアに懐いていた。
『ーーーソア、伽耶琴を弾いて聴かせて』
湖畔にかかる桟橋の上、シウにねだられたソアは、伽耶琴を膝にのせると見事に音を奏で始める。ピンと張られた弦がソアの細い指先に弾かれる度に、芯の通った清らかな音が白樺に囲まれた湖畔の空気を震わせた。
心地よい風が白樺の葉を揺らし、伴奏してくれているようだし、水面はソアのメロディに合わせるようにゆらゆらと陽の光を返している。
ソアは、とても静かなここで奏でる伽耶琴が一等好きった。
『間違えずに弾けた!』
最後の音まで勢いよく弾き終わると、ソアは晴れ晴れとした気持ちでシウを振り返る。
『まぁ、悪くはない、かな』
それは、シウの中ではまずまずの誉め言葉。ソアは、素直じゃないシウを、ふふふと笑う。
『嬉しい!』
そしてなにより、ソアの伽耶琴を弾いてほしいとねだるシウが純粋に愛おしかった。
『調子が良いからもう一曲ね』
『眠くなってしまうな』
『まぁ、シウったら酷い』
『ーーーシウさま、そろそろお屋敷に帰る時間でございます』
その声に二人はがっくりと肩を下ろす。
振り向けば、桟橋の入り口でシウの従者が立っていた。
その従者は、腰に刀を下げて常にシウとその周りに目を光らせているた。その鋭い目つきがソアは苦手だった。
周りの大人たちはシウのことを「さま」付けで呼んでいるのを、ソアはなんとなく好きじゃない。きっと自分なんかよりも位の高い家の子どもなんだろう、と思っていたけれど、子どものソアにそんなことは関係ない。
一度両親にも「シウさま」とお呼びしなさい、と言われたが、ソアは聞かなかった。というのも、シウ本人がそれを望んでいなかったから。
『シウさまシウさまって呼ぶけど、みんな俺のことなんか見ちゃいないんだ』
そう言って悲しそうに歪められた綺麗なシウの顔に、ソアは彼の心の叫びを垣間見た気がしたのを覚えている。
『シウ、また明日会える?』
渋々立ち上がった彼に投げかければ、『もちろんだ』と返ってきてソアの心は上を向いた。
別れの挨拶を交わして、シウと従者の姿が白樺の林に消えるまでずっと伽耶琴を奏でていた。
二人は毎日のように湖畔で会い、仲を深めていった。休暇の終わりには『大きくなったらソアと結婚する!ソアは俺が守るからな!』と半べそをかきながら離れるのを嫌がったほどだ。
ソアと背丈が変わらないくせに、いつも大人ぶってソアを守ろうと奮闘していたのを思い出してふふ、と笑った。
「なんだ、にやけて。何を思い出していたのだ?」
「昔のことを少し。仲の良かった人は元気にしているかな、と懐かしんでおりました」
「…仲の良かったその者とは男か?」
「えぇ、そうですけど」
「もしや、恋仲だったとか?」
「まさか、…でも、そうですね、今になればあれは恋心だったのかもしれませんね。今となってはもう会うことすら叶わないですけど」
休暇の後は、両親同士が交流があったことから、時折手紙のやり取りをしてシウの様子を知ることができていた。しかし、ソアが10歳の時に下女となってからは会うことはもちろん、便りすら送ることは叶わなくなった。
「…そうか…。それは、寂しいことだな…」
ソジュンは、まるで自分の事のように悲し気に呟く。それを見て、ソアは胸の奥が温まっていくのを感じる。
(ソジュンさまは、心の優しい人だわ…)
穏やかな物腰でやわらかさを纏ったソジュンの優しいまなざしに、ソアは癒されそして自分でも気づかないうちに惹かれていた。
「毎度ありがとうございます、旦那さま」
会計を済ませ、ご機嫌な女将に挨拶をしたソジュンは店を出た。ソアは、見送ろうと一緒に外へとでた。
「いつもありがとうございます。お気をつけてお帰りくださいね」
「あぁ、そなたも帰り道は気を付けるのだぞ。それと、何か困ったことがあればいつでも私に言え。力になってやる」
「はい、ありがとうございます」
「あぁ、それと、これを」
手に置かれたのは、先ほど土産にと注文していた餅菓子。まだほんのりとあたたかく、甘い香りがする。
「えっ、でも…」
「女将に見つからぬようにな」
ソジュンはこうしてこっそりソアに恵んでくれることが多々あった。毎日の食事を満足に取れることが少ないソアにとっては有難い恵みだ。
「いつもすみません、ありがたく頂戴します」
ぽん、と頭にソジュンの手が置かれ、撫でられた。優しい手はくすぐったい。
(妹みたいに思ってくれてるのかな…)
瘦せこけた体を見て不憫に思っての事とはわかっていたが、それでもこうして気にかけてもらえるのは嬉しかった。
「ソア…」
名を呼び、見つめる深い茶色の瞳は、何か言いたげに揺れている。頭を撫でていた手が耳を掠め、頬を包む。
ふと、視界が影ったと思えば、ソジュンの顔が近づいた。
「え…?え?…今…」
(おでこに…なにか…)
「ソアが他の男の話をするものだから、妬けてしまったではないか」
「妬ける…って、どういう…」
「ーーーーおやすみ、ソア」
ソアは驚きのあまり口をパクパクとさせ、柔らかな感触の残るおでこを手で押さえた。
(ええぇっーーーー!?)
「ふわぁぁ」
眠たい頭を何とかお越して、ソアはあくびを一つ。そしてクリアになっていく頭が、昨夜のソジュンを思い出して、頬を朱色に染めた。
「おでこに…く、口づけされちゃった…っ」
あれは、なんだったのか、と昨夜は帰ってからもなかなか寝付けなかった。
(今まで、触れても頭を撫でるくらいだったのに…)
ソジュンの真意は全くもってわからないが、ソアは天にも昇るほど嬉しくてたまらない。妹の様に思ってくれているのだとしても、ソジュンに会えて話せるのならそれで構わなかった。
「そうよ、ソジュンさまは、私のことなんて妹のようにしか思ってないんだから、変な期待はしちゃだめね」
両班の娘ならともかく、下女のソアがあのような高貴な御仁に恋焦がれ、想われたいだのと望むことすら烏滸がましいというものだ。
(自惚れたらだめ)
ソアは自分を戒めるかのように冷水に顔を浸して洗い、気を新たに一日の仕事を始めた。
しかし、自惚れてはいけない、と自らを戒めたソアをよそに、あの日以来ソジュンは隙を見てはソアに思わせぶりなセリフをかけるようになった。
可愛い、とか綺麗とか、時には『ソアが嫁に来てくれたら良いのにな』なんて求婚とも取れかねないセリフまで出てくる始末。
慣れないソアは、いつも顔を真っ赤にしてソジュンから顔を逸らすしか出来ない。されど、そんなソアも可愛いと言わんばかりにソジュンは慈愛に満ちた瞳でソアを見つめてくる。
ソジュンの言葉攻めに耐える日々が続いたある日、片付けを終えて店を出ると、なんとそこには灯篭を手にしたソジュンの姿が。
「そ、ソジュンさま!?こんな遅くにどうなさったのですか?」
「今日は仕事が終わらなくて間に合わず、こんな時間になってしまったのだが…ソアの顔が一目見たくなった。せっかくだから家まで送ろう」
「嬉しいです…ありがとうございます」
(わぁぁ…っ、ソジュンさまってば、急にどうしちゃったのぉ…)
平静を装っていたソアだが、内心はもうドキドキだった。
灯篭の火の明かりが二人の進む道を優しく照らし、火照った頬を春の匂いを含んだ柔らかい夜風が撫でていく。
(そんな風に言われたら、勘違いしちゃう…)
「ソアは…、私に会いたいと思ってくれることはあるだろうか…」
「…も、もちろんです…」
「そうか…、それは嬉しいな」
(ーーー家に着かなければ良いのに…)
このまま、二人でどこか遠くに逃げてしまいたい。そしたらどんなに幸せだろうか、とソアは絵空事を思う。
叶わぬ恋だとしても、胸のときめきはソアにとってツラいことだらけの日常を鮮やかに色付けてくれた。ソジュンの存在が、ソアを勇気づけてくれていることは言うまでもない。
けれども願いは虚しく、ソアの家はもうすぐそこだ。
「あの…、家がもう見えましたので、ここまでで大丈夫です…」
「ソア…」
「は、はい…」
呼ばれて、足を止める。
向き合えば、思いつめたような顔のソジュンがいた。
とても、静かな夜。人気もなく、月だけが二人を優しく見下ろしている。
「私は、どうしたらいい…」
「え?」
「このまま、ソアを連れ去ってしまいたいーーー」
何を言われたのか、理解するよりも早くソジュンがソアの手を取り、駆けだした。
「そ、ソジュンさま、ど、どこへ…?!」
返事は、なかった。
(どこへだって良いわ、ソジュンさまと一緒なら)
来た道を戻り、店を過ぎて反対側へと早足で進んでいく。
ソアは必死についていくだけで、それ以上言葉を発することは憚られた。
ようやくたどり着いたのは、高級な佇まいの宿屋だ。両班や裕福な者しか泊まれないような宿屋の前でソジュンは歩を止める。
「こ、ここは…」
「私が使っている宿だ」
手をつないだまま、躊躇なく扉を引いて入ると、受付台の向こうに座っていた店主が目を向ける。軽く会釈をしたソアだったが、店主はこちらをーーー正確にはソジュンを認めて目をひん剝いて駆け寄ってきた。
「イ様!お、おかえりなさいませ!」
「あぁ、世話になる」
ソジュンは、手に持っていた灯篭を店主に押し付ける。
「あっ、そ、そちらのお嬢さまは…?!」
「連れだ、気にせずともよい」
「は、はい、承知いたしました。ごゆるりと」
ソジュンは店主をあしらい、まるで我が家のようにソアを導いた。
(こ、これって…そういうことよね…)
いくらそういうことに疎いソアでもわかる。
ーーーカチャリ
部屋に入り、鍵を閉めたソジュンは、ソアを抱きしめた。腰と頭に手を回し、隙間を埋めるようにしっかりと。
上等な絹の衣がソアの頬に滑らかに触れる。
胸が苦しかった。ソジュンが、自分と同じ気持ちでいてくれて、こうして求められることが信じられない程にたまらなく嬉しいのに、それがまるで現実味を帯びていないということをソアは頭の隅で理解していたから。
(それでも、良い。例え、一夜限りの夢だとしても、構わないーーー)
「ソア…」
ソジュンの顔が間近に迫り、どくどくと激しい鼓動がソアの耳をうるさくさせる。
鼻を掠める香の匂いと共に、唇に置かれた柔らかな感触。
それは、スローモーションのようにゆっくりとした動作だった。
とろんと艶っぽい瞳に見つめられて、口づけされたのだと遅れて気づいた。次の瞬間には視界が反転。ソアは、軽々と抱き上げられて寝台へと運ばれる。
そっと、丁寧に布団の上に座らされて、また唇が重なる。今度は、角度を変えた濃厚な口づけだった。
「ん…、っ」
口づけとはなんて甘美なものだろうか、とソアは蕩けてしまいそうになる。ずっとこうしていたい、と思わせる心地よさがあった。
「そなたがたまらなく愛しい…」
ソジュンの切なげな横顔を、窓の飾り格子から注ぐ月明りが照らす。
「で、ですがソジュンさま…、私のような下女では…ソジュンさまのお相手には…っ、」
ふさわしくない、と開いた口は、ソジュンのそれに塞がれた。
「んっ…は…あっ」
(やだ…声が)
自分のものとは思えない嬌声が部屋に響くも、それどころではなかった。
「そなたが欲しい、今すぐ私のものにしてしまいたい」
(どうしよう…、すごく嬉しい…)
信じられない気持ちと、嬉しい気持ちとが同時にこみ上げてくる。惹かれていたソジュンに、欲しいと言われて嬉しくないはずがなかった。
「ソアの気持ちを聞かせてくれ」
「わ、私も…ずっと、ソジュンさまをお慕いしておりました…」
素直な気持ちを伝えれば、ソジュンはその端正な顔に美しい笑みを浮かべた。
「ソア…すぐにはそなたを迎えには来れないが、必ず迎えに行く」
「私を…迎えに…?」
「あぁ、そうだ。だからそれまで信じて待っていてほしい」
ソジュンは襟もとから革ひもを引っ張り、外す。そしてそれをソアの首にかけた。
「これは…」
「玉指輪だ」
革ひもには、二連に結ばれた翡翠の玉指輪が通されていた。透き通るような緑色が美しく、手に乗せるとキンと涼やかな音が響いた。
玉指輪は、既婚女性だけが身に着けることを許された特別な指輪。女子なら誰しも殿方から贈られることを夢見るものだ。
「こ、こんな、高価なもの…」
「そなたのためにと作らせたのだ、受け取ってくれ」
「私のために…」
「ソア。私の妻になってくれるか」
(ほ、ホントに…ソジュンさまと…)
一夜限りだと思っていたソアは、あまりの嬉しさに声が出なかった。目に涙を溜めながら、首を縦に何度も振る。
ソジュンは受け入れられたことに安堵したようで、笑みが一段と和らいだ。
「そなたはもう私のものだ。誰にも渡さぬ」
また、きつく抱きしめられた。首を縦に振ったものの半ば信じられないソアは、ソジュンの胸にすがり嬉し涙を流す。そして、次には抱きしめられたまま布団に倒れ込み、背中に布団を感じた。
深い口づけを受けながら、服が解かれていき、ソアが身に着けるものは、首紐と玉指輪のみとなってしまった。
「色の白いそなたに翡翠はよく似あうな」
「あまり見ないでください…こんな貧相な体…」
まじまじと見下ろされて両腕で体を隠すように抱きしめるも、ソジュンの手がそれをよしとしない。
「何を言う、とても美しい体だ、ソア。もっとよく見せてくれ」
「ーーーあっ」
腕が布団に縫い留められ、露わとなったソアの体に口づけが落とされる。
微かな痛みを伴って、赤い花弁がいくつも刻まれた。
密着する肌から伝わる体温に体の芯が溶かされていき、ソジュンのささくれ一つない滑らかな手がソアの体を滑り、潤す。
男性経験のないソアにとっては、全てが初めてのことで、ソジュンによってもたらされる快感にもれそうになる嬌声を押さえるだけで精一杯だった。
押し寄せる波に身を任せ、何が何だかわからぬままソアはソジュンを受け入れる。
「ソア、好きだ、愛しているーーー」
繋がったまま、愛を囁くソジュン。ソアは、その言葉を、声を忘れないように心の奥深くに刻み込んだ。
ふと、頬に心地よさを感じて瞼を持ち上げると、ソジュンの優しいまなざしが近くにあり胸が跳ねる。ソジュンの指がソアの頬を撫でていたようだ。
「寝てしまいました…」
「無理をさせたな。つらいだろう」
(うわぁぁ…恥ずかしいっ)
さっきまでの情事を思い出し、たまらず、ソアは両手で顔を覆った。
全てが怒涛の速さで過ぎていき、まるで夢を見ているようだったが、これは現実。下腹部に感じる鈍い痛みが何よりの証拠だった。
「そう言えば…、もう伽耶琴は弾かないのか?」
「え…、どうしてそれを…?前にお話しました?」
伽耶琴が弾けることなどソジュンに話しただろうか、とソアは首をかしげる。
「あ、あぁ…、以前弾いていたと話してくれただろう」
「あ、はい…今はもう…楽器もありませんし、もう何年も触っておりませんので、もう忘れているかと」
「そうか、それは残念だな。いつかそなたの伽耶琴を聴きたいものだ」
ソアも、同じことを思った。もしまた伽耶琴を触れるなら、その時はソジュンに聴かせたい、と。
(きっと、さぞ酷い音でしょうけど…)
ソジュンなら、そんな粗末な音色でも微笑んで聴いてくれるに違いない、とソアは伽耶琴を奏でる自分とそれを優しく見守るソジュンの姿を思い描いた。
「ソア、さっきも言ったが、すぐにはそなたを迎えにはこれない」
静かに言われ、ソアは手から顔を上げる。至極申し訳ない顔のソジュンに、笑顔で「はい」と返事をした。ソジュンが、これ以上悲しまないように。
「だが、必ず迎えにいく」
「いつまでも、お待ちしております」
ソアは、ソジュンの腕の中で幸せをかみしめて、目を閉じた。
「ーーーやっぱりこない…」
厠で汚れのない下着を見てソアは、顔を青くさせた。月のものがかれこれ三月きていないのだった。
一月目に来なかった時は、遅れているのかと思った。それから1週間2週間と毎日のように下着を確認してはため息をつく日が続き、最近疲れているせいだ、そのうちくる、と自分に言い聞かせ二月が過ぎ、そしてとうとう三月が経った。
ソアは信じられない思いだった。
(たった一度…しかも初めてで…?そんなこと、ある?)
神様のいたずらとは、こういうことを言うのかもしれない、とソアは思ったが、男女の営みの先に起こりうる自然の摂理であることは間違いなかった。
「どうしたら良いの…」
神様のいたずらだろうが自然の摂理だろうが、出来てしまったものは仕方がない。無かったことにはできないのだ。
だとすれば、これから先、どうすればいいというのか…。
迎えに来ると言ったソジュンは、あの日からプツリと姿を見せなくなった。迎えに来るどころか、あれほど足しげく通っていた酒場にさえ来なくなった。一度たりとも、だ。
あれから、もう三月が経つ。
「大丈夫。ソジュンさまは、必ず来てくれる」
自分に言い聞かせるように言って、ソアは襟もとから首にかけた紐を引っ張る。その先には、二連になった翡翠の玉指輪が通されていた。
(なんの模様かしらね…)
よくよく見ると、二連の指輪に跨いで何か彫りが施されているが、細かすぎてなんの模様なのかわからない。
それに今は、指輪の模様よりもお腹の子が最重要課題だ。
腹はまだ全然膨らんでいないが、ここ数日悪阻のような症状が出ていた。食べ物の匂いを嗅ぐと吐き気がする。あと、酒の匂いもダメだった。
だから、食事もあまり進まず、最近疲れが取れない日が続いていたし、あまり悪阻が酷くなれば周りに気づかれてしまうだろう。
どうすれば妊娠を隠し通せるだろうかと、ソアは頭を悩ませていた。
住み込みの下女が子を産むなど、言語道断。赤子などなんの役にも立たないどころか世話がかかり𧏚つぶしが増えるだけなのだから。
万が一知られれば、下ろせと言われるのは明白だし、きっと今以上の酷い扱いを受けるだろう。
考えただけでぞっとした。
(どうにかしないとだけど…)
産むとなればどうすれば良いのか…、世間を知らないソアには見当もつかなかった。
そして、それから数日後、ソアが最も恐れていた事態が起こる。
「あんた…、もしかして妊娠してるのかい?!」
店の外で吐くソアの背中にかかった女将の声に、体が凍り付いた。料理を運んでいる最中に吐き気を催して慌てて外に出たのだが、それを不審に思った女将が様子を見にきた事に気づかなかった。吐いているところを見られてしまい、血の気が引いていく。
「ち、違います…、ちょっと最近、調子が良くなくて、風邪をひいただけです」
「あぁっ!イさまだね!?前に朝帰りしたって姉さんから聞いたよ!その辺りからイさまもぱったり来なくなって…。やっぱりあんたのせいだったんじゃないか!この売女が!恥さらしもいいとこだねぇ!ーーーちょっとあんた!聞いておくれよ!」
「あ…女将さん…まっ…」
ソアの言い分など聞く気もない女将は、店内に入っていってしまった。
(どうしよう…知られちゃった…)
まさか、奥方がソアが朝帰ってきたことに気づいていたとはソアは思いもよらなかった。
そして、女将はその後ソアを連れて家に帰り、その場で妊娠の話を伝えた。
「ソアが妊娠してるっていうのかい?!本当かい!?」
奥方が、目を吊り上げてソアを睨みつける。
「あの…違うんです…その…」
「姉さん、間違いないよ。この子今日だけじゃなくて少し前から食べ物の匂いに敏感に反応してたから」
「相手は誰なんだ?」
それまで黙っていた主人がソアに聞くが、ソアが答えるよりも先に女将がソジュンの事を店に来る上客だと説明する。
「このっ!身の程知らずが!恥を知りなさい!」
あまりの奥方の怒号にソアは肩を縮こませる。罵声を浴びることは、どれだけされても慣れない。
「けど、男がそれっきり店に顔も出さなくなったところを見れば、捨てられたんだよこの子は」
ソアは何も言い返さなかった。例え、ソジュンの言葉を言ったところで今の現状を思えば誰も信じないとわかっているから。
「とにかく、こんな夜更けじゃ医者も呼べない。話は医者に妊娠を確かめてもらってからだ」
主人は、ソアの腕を掴むと力任せに部屋へと連れていき、中へと押しやった。
「逃げようなんて馬鹿な真似は考えるなよ」
扉が締められると、外でガタガタと音がする。部屋の扉が外からつかえ棒か何かで閉じられてしまったようだ。母屋の片隅にあるソアの部屋は、物置小屋で扉以外には小さな換気用の小窓しかなく、逃げようにも逃げられない。
「あぁ…うっ…うぅ…」
ソアを、絶望が襲う。
ソジュンに会いたいと、ソジュンのあの逞しい胸に抱きしめられたいと、強く思った。
けれど、それは叶わない。
ソアには、ソジュンが今どこでどうしているのかさえ知らないのだから。
(ソジュンさま…早く、迎えにきてください…早く…)
ソアの願いは虚しく、小さな窓から朝陽が注ぐ。
「ソア!起きろ!」
泣きつかれて眠ってしまったソアは、物々しい声に目を覚ます。
開け放たれた扉から主人たちが姿を現した。主人と奥方、ハユンが厳しい顔つきを向けている。
「先生、こちらです。お願いします」
後ろから現れたのは、手に大きな鞄を抱えた初老の男と中年の女性。
「どれ、ちょっと失礼するよ」
男は、ソアのそばまできて手を取ると脈を取り出した。その動作で、彼が医者だということに気づき、もう後がないことを知った。
「確かに、妊娠していますが、この週数なら薬を飲めば大丈夫でしょう。どれ、持ってきたあれを煎じてこの娘に飲ませてくれ」
そう言われ、隣に居た女が奥方とハユンと共に厨へと姿を消した。
「あ…、あの…く、薬とは」
「腹の子を下す薬だよ。なぁに、下痢くらいの腹痛だから、心配はいらん」
(やっぱりそうよね…)
それだけ言うと、医者は出ていき、残った主人がソアを見下ろしていた。その顔には、怒りや呆れ、侮蔑が浮かんでいる。
そして主人は部屋へ入りソアに近づいて、囁いた。
「お前は見目だけは良いから、ハユンが嫁いだら私の妾にしてやろうとこれまで優しくしていたというのに…。どこの馬の骨かもわからん男に処女を持っていかれるとはなぁ、とんだ誤算だったが、まぁ今回は多めに見てやろう。そんなに子が産みたいのなら、私の子を産ませてやる」
それだけ言って主人は部屋から出ていった。
「…そ、そんな…っ」
主人の思いもよらない思惑に衝撃を受け、ソアはその場に泣き崩れた。子を下ろすだけでもショックだというのに、あんまりだ。小屋には、ソアの悲痛な鳴き声が響き渡る。
(ソジュンさま…)
浮かんでくるのはソジュンの姿。
あの日のソジュンの愛の言葉とこの胸にある翡翠の玉指輪だけを心の支えに、信じて待っていた。
いくら信じているとは言え、この三月の間顔も見れていない事がソアを不安にさせ、もうソジュンは迎えに来てくれないかもしれない、と思ったことも数知れず。
それでも、ソジュンのあの優しい眼差しは偽りではないと、ソアは今でも信じている。
(お子を、どうか助けてください…)
胸にある指輪を握りしめて、ソアは一人静かに涙を流した。
それから程なくして、主人と下男によって庭に連れ出されたソア。泣きながら懇願するも虚しく、煎じた薬が目の前に置かれる。
「さぁ、飲め」
椀に入ったそれを虚ろに見つめるだけで、ソアはどうにも手にできない。これを飲めば自ら腹の子を殺すことになるのだから、それだけはしたくなかった。
痺れを切らした主人の目配せを合図に、下男がソアを羽交い絞めにする。
「悪く思うなよ」
後ろで下男が呟く。その下男は、普段ソアを気にかけてくれる事もあったが、主の言うことには逆らえない。下男とて好きでやっているのではない、ということを同じ境遇のソアはよくわかっていた。
静かに涙を流すソアの鼻を主人がつまんで固定すると、椀を口にあてがい流し込んだ。
「飲み込め」
「ぶっ」
ソアは口いっぱいに入った薬を勢いよく吐き出す。それは、主人の顔や体に飛び散り服を汚した。
「っ!!このっ!端女が!」
ーーーーバシン
平手打ちがソアの白い頬に浴びせられた。口の中に鉄の味が広がり、残った薬と一緒に再度吐き出す。その目には強い光を宿していた。
(この子は、殺さない…、殺させない!)
「調子に乗るのも大概にしなさいよ!」
「薬のかわりを持て」
「こちらに」
怒りに昂った主人が、女から椀をひったくる。
「おい、鼻をつまめ。私が口を閉じる」
「わかりましたわ」
奥方に鼻をつままれ、口で息をするしかなくなったソアに主人が薬を注ぎ、すかさず口をつまんで塞がれてしまう。
(も、もう…息が…)
「ーーーー何をしている!今すぐその手を離せ!」
天を裂くような声と、大人数の走る足音に、その場にいた誰もが驚き固まった。
「ぐはっ…けほっ…」
すんでの所で解放されたソアは、どうにか薬を飲みこまずに済んで、その場に脚から崩れ落ちた。
「ど、どうしてお役人さまが、このような所に…?」
青い官服を纏い頭に烏帽子を被った男が一人と、その後ろに槍や剣を携えた数十人の武官が騒然と並んでいた。青い官服は従六品以上の階位を表す位の高い官吏だ。
「パク・ソアさま」
(え、私…?)
ソアと目が合うと、官吏はソアの疲弊しきった顔を見て慌てたように駆け寄ってくる。
「お怪我は?」
ソアは、けほけほと咳こみながらもどうにか首を振る。むせ過ぎて喉が苦しくて声が出なかった。官吏が手を上げると、後方から2人の女官が現れてソアに駆け寄り、持っていた布で濡れた顔を優しく拭ってくれた。
とりあえず助かった、と安堵のあまりまた涙がぽろぽろとあふれ出る。
「一体、これはどういうことか、ご説明願いたい。今飲ませようとしていたものは何ですか?」
「そ、それは…」
「答えよ!」
「…腹の子を下ろす薬です」
後ろに控えていた医者がおずおずと言う。
「ーーーーなんと畏れ多いことを…」
官吏の手が怒りにわなわなと震える。
「このお方は、これから国王さまの寵妃となられるお方。お腹のお子は紛れもなく王の子なるぞ!」
「なんっ…」
「お、王さまですって…っ!?」
次々に言葉にならない驚きの声があがり、ソアを含めた皆の顔が青ざめていく。
(ソジュンさまが…、国王さま…?)
何かの間違いじゃないか、とその場に居た誰もが思った。
「そ、ソアが…寵妃…?あ…あの…、お人違いでは…」
奥方にそう訊ねられた官吏は「私の言葉を信じられぬのか」と冷たい視線を向ける。
「パクさま、玉指輪はお持ちですか?」
言われて、ハッとしたソア。
震える手で首の紐を手繰り寄せた。翳りを知らない翡翠の玉指輪がぽろんと姿を現す。紐を首から外すとそれを官吏へと手渡した。それをまじまじと見た官吏は一人深く頷く。
「この指輪に刻まれた龍紋が何よりの証だ」
(あれは、龍だったの…?)
「そ、そんな…」
「な、なんということ…」
「知らなかったとは言え、王の子を殺そうとした罪は重い。これは明らかなる不敬罪!この者たちを捕らえよ!」
「ひぃっ」
「お、お許しをっ!」
「母上、父上!?一体何がどうなってるの?!」
泣きながらおろおろとするハユンを哀れに思いながらソアは、女官に支えられて屋敷の外へと連れ出される。そこには豪奢な輿が用意され、周りには何ごとだと町人たちが物見遊山に集まり人だかりができていた。
ソアはそれすらもどうでもよいほど、体も心も疲れ切っていた。
「もう大丈夫ですよ、ご安心ください」
輿に乗せられると、先ほどの官吏が来て玉指輪を返してくれた。
「あ、あのっ…、薬を少し飲み込んだかもしれなくて…お腹のお子が心配なのです…」
「それはさぞかしご心配かと存じます。宮殿に着いたら、直ちに内医院の医師に診てもらいましょう」
「ありがとうございます…」
御簾が下ろされほどなくして、輿が動き出す。
久しぶりに乗った輿は快適で、揺られているうちに何度もこっくりこっくりと船をこぎながらもどうにか到着まで意識を保った。
「パク・ソアさまをお連れいたしました」
御簾があげられ、眩い陽の光と共に名を呼ぶ声がソアに届く。
「ソア!」
見上げれば、停められた輿の目の前の階段からかけ降りてくるその人は、ソアがずっと待ち望んでいた人。
「…ソジュンさま…っ」
輿から転げ落ちそうになるソアは、駆け寄ったソジュンに抱き留められる。それはきつく抱きしめられ、息もつけぬほどに。でもそれすらも喜びとなってソアを包み込む。
「ソア…、会いたかった…」
(本当に、迎えにきてくれた…)
しかし、ソアは大事なことを思い出し、慌ててソジュンの胸を押して離れる。
「も、申し訳ございません、無礼をお許しください…王様」
両手を高い位置で重ね、膝を折り礼を取ろうとするも、それはソジュンの手で阻まれた。ふわり、と浮いた体はいとも容易くソジュンの両腕に抱えられてしまう。
「わっ…え、えっ…王様!?」
「まずはそなたの治療が先だな」
連れられた先は、宮殿のソジュンの寝所だった。そこには既に内医院の医師が待機していて、ソアを寝所に寝かせるや否や診察が始まる。
「御医よ、どうだ。子は無事か」
布越しに、医師の指がソアの脈を診る。御医と呼ばれた医師は至極穏やかな顔で微笑み頷いた。
「はい、王様。脈に乱れはなく、お子も無事です。パク・ソアさまも、今は落ち着かれているようですが、気が少し弱っておりますのでしばらくは安静になさるのがよいかと。体を温め、滋養のあるものを食べさせてあげるとよいでしょう。後ほど妊婦に良い薬を煎じてまいります」
それを聞いて、ソアは大きく息を吐いた。一番の不安が取り除けて、ようやく心の底から安心できた。
「そうか、ご苦労であった、下がってよい」
「はい。失礼いたします」
御医が立ち去り、広い部屋には静寂が訪れる。体を起こしたソアは、その目から涙が零れていくのを止められない。
「ソア、すまなかった」
寝台の蚊帳を手で避けてソアのそばに腰掛けると、震える華奢な手をそっと包み込んだ。
ソアは、泣きながら首を横に振る。涙が頬を伝い顎先からぽたぽたと布団を濡らした。
「助けてくださりありがとうございます…王様」
「遅くなって、申し訳なかった。重臣たちの首を縦に振らせるのに手こずってしまった」
そんなことは、どうでも良かった。今、こうしてソアはソジュンに会えた。
あんまり涙がこぼれるものだから、ソジュンが袂から絹のハンカチを出して濡れた頬を拭ってくれる。
「謝らないでください…、王様はこうして私とお腹の子を救ってくれました」
そう、お腹の子も無事なのだから、何も言うことなどない。
「私とそなたの子が、いるのだな」
「はい。王様に会えない不安な日々も、この子と頂いた玉指輪のおかげで耐えることができました」
必ず迎えにくる、と誓ったこの玉指輪が不安に押しつぶされそうになる心をどうにかつなぎ留めてくれた。
「ーーーー参ったな」
「え…?」
ソアは、一瞬拒まれたのかと思った。ソジュンは子を望んでいなかったのでは、と。
しかし、それは杞憂に終わる。
「私は、これまで己の身が滅ぶのも厭わない覚悟で政を行ってきたというのに…、ソアと子どもが愛おしすぎて、これでは死ぬに死ねない」
「そんな、やっとお会いできたというのに、死なれては困ります」
冗談めかして言ったソアを、ソジュンの深い茶色の瞳が覗き込む。
「やっとソアの笑顔が見れた」
言われて、ソアも久しぶりに笑ったという自覚を持った。あの一夜以来、ソジュンが来なくなったことで酒場の手伝いも以前のようにツラいだけの仕事に戻ってしまったし、何より月のものも来なくて不安ばかりがソアを占領していたから。
「ずっと、お会いしとうございました」
「私も、会いたかった」
掌がソアの頬に触れ、首筋へと滑る。ソジュンが触れたところが、熱い。
「こうしてソアに触れて、口づけたくて仕方なかったんだ」
黒髪を手で梳くように、頭に回されたと思えば、口づけられた。
柔らかな感触に、あの日の夜が思い出されてソアは体の芯が疼く。身をよじりながら縋りき、甘美な口づけに必死に応えた。
「ーーーん…、お、王様、」
「名を呼んでくれ、ソア。そなたの鈴のような声音で私の名を」
「ソジュンさま…」
熱く見つめ合い、また近づく距離。
目を閉じてそれを待つソアだったが、一向に唇に感触はなく目を開けると、ソジュンは片手で額に手をやり俯いていた。
「ソジュンさま…?どこかお加減でも…!?」
「ーーーいや、そうではない」
「では…」
なんだろうか、とソアは首をかしげる。何か、粗相をしてしまったか不安になった。
「違うのだ…、これ以上は…我慢がきかなくなりそうで…」
我慢の意味を遅れて理解したソアは、一層頬を染めた。
「も、申し訳ありません…」
(そ、そうよね…お腹にお子がいるのだからお相手は…)
「謝ることではない。…まぁ、正直な所を言えば、ソアを独り占めできないのは残念だ」
「まぁ、ソジュンさま…、ふふふ」
その言葉の通り、心底残念そうに言うソジュンが可愛くて、思わず笑ってしまう。二人しかいない部屋にソアの声が響いた。
「ソアの、笑い声が、昔から好きだった」
「昔だなんて、ずいぶん大げさです」
「そんなことはない。思い続けてかれこれ7年以上だ」
「ーーーーえ?」
7年という数字は、ソアには苦い思い出しかない。父が失脚し全てを失ったのがちょうど7年前。
「…湖畔の別荘でのことを、そなたは覚えていないだろうか」
(うそ…)
「え…、だって…名前が…」
ソアの記憶にある少年は、シウという名前だ。
「王族は、成人すると名を改めるのだ」
「そんな…、シウはソジュンさまだったのですか…?え、でも、シウは私と同じくらいの年頃だったはず…」
あの当時ソアよりも少し背丈が低いくらいで、てっきり同じか年下だと思っていた。ソジュンはソアの2つ上だ。
「女子の方が成長が早いからな。ソアはあの時から伸びていない様に思うぞ」
「ソジュンさまが大きくなりすぎなんです」
ソアは頬を膨らませるも、すぐにそれは緩んでしまう。
(ソジュンさまがシウだったなんて…嬉しい)
「ずっと、気になっていたんです。シウはあれからどうしているかと」
湖畔で過ごしたシウとの時間は、確かにソアにとって特別な時間だった。同じ年頃の子と遊ぶ機会がそもそも少なかったこともあるが、真っすぐに自分を見るシウがソアには眩しく憧れていたのだ。
「あの時から、私の妻はソア以外考えられなかった」
確かに別れ際に『結婚する』と叫んでいたけれど、まさかそれほどまでに思ってくれていたなんて、とソアは驚く。
「では…、酒場の近くで会ったのも、偶然ではないのですか…?」
ソアの問いに、ソジュンはその端正な顔に笑みを浮かべて頷く。
その事実を知って、溢れた涙が頬を濡らした。
「ソア、今度伽耶琴を弾いて聴かせてくれ」
ソジュンに、ーーーシウに、伽耶琴をせがまれて、ソアは嗚咽が押さえられなかった。
まるであの頃に戻ったような錯覚に陥る。ソアの耳にはあの、白樺の奏でる葉の音が聞こえるようだった。
返事の代わりに何度も頷いてソジュンに縋りついた。そんなソアを、ソジュンは優しく抱きとめる。
「よいかソア、私のそばを離れることは許さない。これは王命だ」
「ーーーーはい、王さま。この身が果てるその時まで、おそばを離れずお仕え申し上げます」
ソアは、恋焦がれた愛する人の胸に、頬をすり寄せた。
ーーー永寿853年。
大楊国において、パク・ソアという寵妃が後宮の鳳珠殿に置かれる。
身分が低かったパク・ソアは、国王イ・ソジュンの子を身籠っていた事から階位従三品にあたる淑容を賜り異例の昇格を果たした。
これは、不幸な道を歩んできた下女が、王からの寵愛を受けて王妃に昇りつめるまでの、始まりの物語…ーーーー
「約束の玉指輪」 ー 完 ー