つん、とつつけば、優しく愛らしい感触が指先に残る。
これは、永遠に触れていたくなるな……。
と、まろやかな白餅にするように、つい悪戯に摘んでしまうと、
「ん……」
可愛い声を漏らして、鼓水が身じろぐ。
慌てて手を引っ込めた。
すぐにすやすやと寝息が聞こえてきた。
湖底に広がる我が屋敷に届く日差しにも、夏の訪れを感じるようになってきた。
細やかに気遣って私に尽くしてくれている鼓水だったが、縁側にそそぐこの日差しの心地よさには敵わないらしく、こうして時折、子猫のように眠りこけてしまう。
白い肌に微かに桃色が差している。
規則正しい寝息が微笑ましい。
なんともあどけなくて、尊ささえ感じる。
柔らかな髪を、湖底の冷気をはらんだ風が揺らすと、小さな果実のような唇が微かに動いた。
私は纏っていた羽織を脱いで、鼓水にそっと掛けた。
「……うん」
鈴音のような愛らしい声が漏れて、柔らかい睫毛が揺れた。
黒々と艶光る瞳が現れる。
どの人間よりも瑞々しい精気と清らかさを放ったそれは、寝惚け眼であっても宝石のように綺麗で、私の心は甘い疼きを覚える……。
「わ、私ったらこんなところで転寝を……!」
飛び起きた鼓水に、私は笑みを向けた。
「すまぬ、起こしてしまったな。せっかく気持ちよさそうに寝入っていたのに」
鼓水は顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「も、申し訳ありません! 今日は天気が良くてつい!」
「疲れているのではないか? 何度も言っているが、家事などしなくていいのだぞ?」
「いいえ。離れていた二年間、私は透冴様に尽くしたいと心の底から望んでいました。こうして願いが叶った今は、とても幸せなのです」
と、無邪気に笑う。
水面に映える日光のきらめき。
鼓水のこの笑顔は、そんな情景を思い起こしてしまう。
私が一番好きな、瑞々しく美しい光景のひとつを。
「さぁ、お日様が高くなる前にお洗濯物を干してしまいませんと。今日は暑くなりそうですね」
と、鼓水は袖をまくる。
現れた白い細腕が清らかで眩しい――ふと、その二の腕に釘付けになった。
痣、だろうか。
いや、それにしてはあまりにも生々しく見える。
火傷の痕のように。
私は思わずその腕を掴んだ。
「この焼き印は?」
突然のことに鼓水は目を見開き、そして当惑するように目を伏せた。
その様で直感する。
この痛々しく焼き付けられた痕は、鼓水にとって触れてほしくない過去なのだと。
つい口走ってしまった我が短慮を後悔したその時、鼓水が小さな声で答えた。
「これは幼少期に付けられた奴隷の証です」
予想していた答えに、苦い思いが走る。
胸が締め付けられるような痛みを感じながら、とつとつと続く言葉に耳を傾けた。
「幼い頃に両親を亡くし身寄りを無くした私と弟は、騙されるように人買いに買われ、奴隷とされました。その時付けられたのが、この痕です」
と、袖を捲り上げて、鼓水は痕を見せてくれた。
白い腕に痛々しく浮かぶ、赤黒く焼き爛れた痕。
紋章のようなそれの下には、漢数字も押されていた。
まるで物に付ける品番のように……。
「私達の本当の故郷は別にあります。今の村には、弟と一緒に奴隷として連れて来られました。姉弟一緒に買われたのは旦那様のせめてもの情けだったかもしれません。弟がいてくれたからこそ、私は生きてこられましたから」
故郷を想うような遠い目は、悲しみの色が滲んでいた。
浅ましくて残酷。
私が毛嫌いしてやまない人間の本性。
それに鼓水もまた傷つけられていたのかと思うと、怒りが沸き起こってくる。
「おまえはここに始めて来た時、『自分から進んで生贄になった』と言ったな。どうして縁もゆかりもない村人のために自らを犠牲になどと?」
「塵芥にも等しい奴隷の身。最期くらいは人様のために働いて、生きた証を残したかったんです。唯一の肉親である弟も救えると思えば、なおさら……」
鼓水は戸惑うように微かに沈黙した後、小さな声で答えた――が不思議と穏やかな微笑を浮かべた。
「……なのに、こうして透冴様と出会えて、こんなに幸せになれたなんて……。人の運命とは、不思議なものですね」
「鼓水……」
気恥ずかしげに俯く鼓水を、私は思わず抱き寄せていた。
か細く、小さな身体。
この儚げな身に辛い過去を背負っていたのだと思うと、胸を掻きむしりたくなるような切ない想いに襲われる。
「辛い思いをしてきたのだな」
鼓水は無言だった。
その重々しい沈黙が、悲しい過去について多くを語っている気がした。
「……ですが、今となってはこの痕に感謝すら覚えるのですよ」
思わぬ言葉に訝しむ私に、鼓水は弾んだ声で続けた。
「透冴様の元より戻ってから私は巫女と崇められました。何もかもが一変しましたけれども、この焼き印のおかげで驕らずにいることができました。どんなに崇敬されようが、私は奴隷。ただの鼓水なのだと。今となっては、この焼き印も私の一部です」
鼓水を抱き締める腕に、力が入った。
切なく、甘く、苦しい――このままずっと離さず腕の中でしかと守っていきたい衝動に駆られる。
この気持ちは、なんなのだろう。
恐らくこれも、鼓水を愛するが故の心の揺れのひとつ。
奴隷として扱われ、我が身を犠牲にしようとした鼓水。
そこまでないがしろにした鼓水を、村の人間は手のひらを返したように崇敬し、巫女と担ぎ上げた。
つくづく人間とは、愚かで勝手な生き物だ。
私は、人間が嫌いだ。
だが、鼓水は特別だ。
何よりも大切な、私の愛しい妻だ。
「そう考えると、こんなちっぽけな私のことも、天の神様はちゃんと見ていてくださったのだなぁ、と思いますね」
天界の連中が?
しみじみと言う鼓水に、私は思わず眉根を寄せた。
「鼓水。それは考えすぎだ。あいつらはそんな慈悲深くはない」
「え? ……まぁ、そうでした! 天の神様は透冴様のご同輩でしたね」
いつか天の神様をご接待することになったらどうしましょう……! と慌て始める鼓水を見つめていると、自然と口元に笑みが寄る。
もし本当に、天界のやつらが鼓水を遣わせたというのなら。
お節介だと思いながらも、私は心の底から感謝するしかないだろう。