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いきなり外縁廊下に現れた主君を追って、すわ一大事と衛士長梁雲嵐が景旬殿の庭を駆けてくる。
「陛下、いかがなされました」
「どこだ?」
亡霊を見たかのように皇帝の表情はゆがんでいる。
「陛下、お気を確かに」
「これはいったい何なのだ」
ゆるんだ帯を引きずりながら大帝国の頂点に立つ男がうろたえている。常に威厳に満ち、周囲を睥睨する陛下の姿からは想像もできない狼狽ぶりに雲嵐も呆然と立ち尽くすしかなかった。
未知の香りに誘われ、自らが亡霊と化したかのように皇帝は衛士長を置き去りにし、漂うように廊下を歩いていく。
「何だ、何なのだ」
蓬莱山の梅の香、桃源郷の果実からしたたる蜜、天女の焼く菓子にもまして心を震わせるかぐわしさ。狩猟民族の記憶、草原を駆け抜け大帝国を築き上げた祖先の血を騒がせ、そして男の本能を抑えきれないほどに生命力をかき立てる魔性の香り。
――俺を呼んでいる。
地位も立場も忘れ、もはや一人の男として劉暁龍はさまよい歩いていた。廊下の角で迷える男の足が止まった。
――いる。
この角を曲がった向こう側に気配を感じる。見たい。知りたい。おまえはいったい誰なんだ。
だが、体が震えて足が前に出ない。ふっと、吐息がこぼれる。息すらまともにできていなかったことに気づいて、我を取り戻す。
馬鹿な……臆病者が。皇帝のくせにおびえるとは。なんと情けないことよ。暁龍は己を笑った。
ふと足元を見ると、庭園の土の上に梁雲嵐が岩のように控えていた。主君の狼狽ぶりに衛士長までも視線をそらして困惑している。
そうだ、何を恐れている。この天下に俺の思うままにならぬものなどないではないか。玉座の前では誰もがひれ伏し、寝所ではどんな絶世の美女でもみな喜んで帯を解くのだ。あの女……、麗花……とかいうあの女だってそうだ。都の男どもがみなうらやむような美女が俺にすがりつくのだ。この世に手に入らぬ物などあるはずがない。
だが、そうやっていくら己を奮い立たせてみても暁龍は足を踏み出すことができなかった。
いまだ俺の知らない何かがある。角を曲がったその先に、自分の知らない何かが待っている。
見ようとすればするほど不安が高まっていく。劉暁龍は、自分のその気持ちがどこから沸き起こってくるのか、その理由すら分からず困惑していた。
どれくらいの時が過ぎたのだろうか。ふと、気がつくと、闇に慣れた目にはまぶしいほどの月明かりが廊下をくっきりと浮かび上がらせていた。暁龍は導かれるように角の向こう側へと足を踏み出した。堂々と近寄れば良いものを、どうしても忍び足になってしまう。
青い月明かりに照らされた外縁廊下に、その女はいた。華奢な体を支えるように手すりに右手をついて空を見上げている。西域風の横顔に皇帝は目を奪われていた。鼻をくすぐる香りにめまいを覚える。色素の薄い金色の髪一本一本が月明かりに染まったように光り輝き、まるで匂い立つ様が目に見えるようだった。
飛びついて抱きしめたくなる衝動に駆られるのに、また足が止まってしまう。異国の者のようだが、言葉は通じるのであろうか。かすれる声を絞り出しながら暁龍は声をかけた。
「そこで何をしている」
振り向いた女の顔には警戒の色が浮かんでいた。
「月を……」と、女が視線を空へ流す。「月を見ておりました」
暁龍は流暢な返事に安堵したが、それはそれで、たずねたいことがあふれ出して何を言えばいいのか分からない。ようやく出てきたのは自ら赤面してしまうような問いかけだった。
「そなた……、天女なのか」
女も困惑気味に頬をこわばらせながら再び暁龍へ視線を向けた。
「いいえ、西域の者です」
男が一歩踏み出そうとすると、女はおびえて後ずさろうとする。
「どなたですか」
暁龍は手のひらを相手に向けながら立ち止まった。
「怪しい者ではない。俺はここの主だ」
「そうでしたか。どなたか存じませんが、豪勢なおもてなしありがとうございます」
――宮廷の主を知らぬとは。
暁龍は自分のことを皇帝と知らない相手にますます興味を抱いていた。
「そばへ……」と、そっと声をかける。「そばへ寄ってもよいか」
皇帝である自分が相手に許可を求ようとしていることに、暁龍自身が動揺していた。命じ、求め、服従させる。逃げる者は捕らえさせる。他人への配慮など、皇帝にそんなものは無用だ。
女は答えずに、また月を見上げた。暁龍は外縁廊下の手すりを伝いながらゆっくりと、蜻蛉を捕まえようとする少年のように女の方を真っ直ぐに見つめたまま、一歩一歩近づいていった。
「なぜ月を見ていた」
「郷里でも眠れぬ時はこうしていました」と、女はようやく暁龍に笑みを見せた。「異国でも月の美しさは変わりません」
女の隣に立って彼も月を見上げた。
――月とは美しいものなのか。
これまでの人生でそのように思ったことはなかった。不思議なものだ。何度も目にしたありふれた景色なのに、心安らかな気持ちになる。
女はまだ月を見上げている。暁龍はそんな彼女の横顔を、視界の隅にとらえて盗み見ていた。悟られぬように息を深く吸い込む。とろけそうな香りに男の本能がざわめく。だが、暁龍は手を出すことができなかった。恐れていた――失うことを。
この手につかもうとすれば煙のごとく消え失せるのではないか。触れた途端に砂となって指の間からこぼれ落ちてしまうのではないか。実は本当に月から舞い降りてきた天女なのではないか。無理矢理手に入れようとしたら月に帰ってしまうのではないか。
――不思議な女だ。
だが分かる。この女だ。出会えたのだ。ようやく出会えたのだ。放してはいけない。絶対に放してはいけない。どれほどの富を費やして世界中を探しても二度と手に入れることはかなわないだろう。
暁龍は再び月を見上げてその光に目を細めた。西域の女を見たことも抱いたこともある。だが、そんなことは何の自信にもつながらなかった。暁龍はこの女を征服したいのではないことに気づいていた。もしそれならば、すぐにでも衛士に命じて捕らえさせ、縛り上げればいい。南洋の熟れた果実の皮をむくように女の服を剥ぎ取って欲望を満たせばいいのだ。
だが、違う。
――俺はそんなことをしたいんじゃない。
では、何なのか。暁龍はそれが分からなくて動揺しているのだった。
分からない。俺はいったい何をしたいんだ。肩に手を回し抱き寄せたい。そのようなことなど、これまでに何度もしてきたことだ。女はみな喜ぶ。常にそうだったではないか。
と、その瞬間、暁龍は体の震えを止めることができなくなった。
違う。みな、本当に喜んでいたのか。俺と寄り添い、触れ合うことに、女たちはみな喜んでいたのか。違う。俺じゃない。俺自身ではない、皇帝という位に寄り添う名誉に喜んでいたのだ。暁龍は自分を抱きしめるように胸の前で堅く腕を組んだ。
俺は誰にも愛されたことなどなかったのだ。
――そして、俺は心から誰かを愛したことがないのだ。
女というものを、自らの権力を誇示する獲物としか見ていなかったのではないか。俺はなんて寂しい男なんだ。
不意に、幼少期の記憶がよみがえる。帝位継承権とは無関係に後宮の片隅で暮らしていた頃のことだ。あの頃の暁龍は誰からも期待されず、ひっそりと生きていた。
一方で、皇太子である長兄には訪問者が絶えることはなく、次から次へと貢ぎ物が届けられていた。長兄が庭を歩いてつまずいただけで庭師が責任を問われ処刑されたこともある。宝玉のごとく大切に扱われた長兄に比べて、武芸で体を鍛えられた自分の方が生き残ったのは今でこそ言える皮肉だった。序列下位の弟である暁龍は長兄のそばに気安く近寄ることすら許されていなかった。
そんなある時、たまたま宮中行事で一緒になった時、長兄が側近たちに気づかれないようにささやいた言葉を思い出す。
「俺は何でも持っているが、おまえがうらやましいよ」
その言葉の意味を当時の俺は理解できなかった。幼少だったからでも、愚鈍だったからでもない。長兄と同じ立場になってみなければ理解できない感情だったのだ。
今の俺の手の中には常に蜻蛉が握られているようなものだ。だが、同時に、目の前を自由に飛んでいく蜻蛉がたくさんいる。俺は手に入れたようで、何も手に入れていないのだ。手の中の蜻蛉を握りつぶしたところで、蜻蛉を支配することなどできない。捕らえようと息を潜めてそっと近寄る時の高揚感も、逃げられた時の悔しさも、空の彼方へ去っていく蜻蛉に、まるで好敵手をたたえるような感情を覚えるすがすがしさも、今の俺は求めることができないのだ。俺は手に入れてきたのではない。あらゆるものを失ってきたのだ。
――俺は孤独なのか。
この異国の女と同じ境遇なのか。
「どうかなさったのですか」
一体どれほど月を見上げていたのだろうか。ふと見れば、女が暁龍を見つめていた。最初の警戒感は消えて丸みを帯びた頬の輪郭が柔らかく輝いている。思いがけず、女の手が伸びてきた。暁龍ははじけるように一歩退いた。
「涙が……」と、女は手を止めてささやいた。「なにゆえに泣いていらっしゃるのですか」
――泣くだと?
この俺が?
自分自身で目の縁に指をあてると、確かにそこは湿っていた。
「月が……」と、彼は女の目を見つめて答えた。「月が美しかったからだ」
「ええ、本当に」と、女は暁龍の手に自分の手を重ねてきた。
その途端、彼の目から涙がこぼれ落ちてきた。雪解けの水を集め、奔流となって大地を押し流す大河のごとく、彼の目から涙があふれ出してくる。
「そなたが教えてくれたのだ」
女の骨張った指が涙を拭ってくれる。
「月が美しいと、そなたが教えてくれたからだ」
今度は暁龍が自分の手で女の手を包み込んだ。
「そなたの名は」
「カーサリー」
「名の由来は」
うつむいた彼女の頬にほんのりと赤みが差した。
「美しい月」
皇帝はその西域の姫をそっと抱き寄せ、深く息を吸い込んだ。
庭園の陰に控えた衛士長梁雲嵐が、月明かりの下で抱き合う二人の姿を見上げていた。雲がかかってあたりが闇に沈む。再び雲の切れ間から青い光が降りてきた時、二人の姿は消えていた。
天下を意のままにする男は、その夜初めて、天上の悦楽を知ったのだった。