「真波ちゃん、包丁さばきがいいね」
 調理台に置いたまな板の上でサラダ用の野菜を切る私の手元を覗き込んで、ユウさんが少し驚いたように言った。
「え、そうですか? まあ、実家では毎日ご飯作ったりしてたので……」
「へえ、そうなんだ。偉いなあ、すごいね」
 にこにこしながらそう言われて、なんだか気恥ずかしくなって下を向く。偉いだのすごいだのと褒められることには慣れていないので、どんな顔をしていいのか分からない。
「学校に行ってるのにご飯も作るなんて、大変でしょ。よくやってたね、偉いよ」
 ユウさんは臆面もなく偉い偉いと繰り返す。彼に褒められているのだと思うだけで、なんだか胸のあたりがざわざわして、頬が熱いような気がした。
 お母さんが入院したころから、炊事や掃除洗濯などの家事は母屋に住んでいる父方の祖母がやってくれていたけれど、包丁がまともに扱えるようになってからは晩ご飯の調理は基本的に私がやっていた。祖母は『父親なんだからあなたがやりなさい』とお父さんに言っていたけれど、仕事が忙しくて帰宅は夜九時を過ぎることも多かったので、私も弟もお腹が空いてしまって、お父さんの帰りを待ちきれなかったのだ。だから、否応なしにやっていただけなのだけれど、おかげで料理だけはそれなりにできる。
「でもお前、そんなに料理できるのに、家だと全然手伝わないよな」
 突然カウンター越しに顔を出した漣が、にやにやしながら言ってきた。せっかくユウさんから褒められていたのに、水を差されたようでむっとする。
「うるさいよ、漣! いつもひとりで作ってたから、手伝いってどうやればいいか分からなかっただけだし」
 というより、おばあちゃんと台所でふたりきりになったらなにか会話をしなくてはいけない、と思うと気が引けていたのだ。でも、あの日おばあちゃんに投げつけてしまった暴言についてちゃんと謝ってから、話をすることに対する拒否感は少しずつ薄れてきていた。
「それに最近はちょこちょこ手伝ってるし!」
「へえ? ふうん?」
「なにそれ、腹立つなあ。さぼってないでさっさと自分の仕事しなよ」
 漣は「はいはい」と逃げるようにホールへと走っていった。
「でもほんとにすごいと思うよ、真波ちゃんは。俺なんて高一のころは包丁もまともに触ったことなかったなあ。料理しなきゃと思ってはいたんだけど、いつも買ってきた弁当で済ましちゃってた」
 私はトマトを切る手を止めて、思わず隣を見上げた。
「え、自分でご飯用意してたんですか?」
「うん、家族がね——」
 彼が答えかけたそのとき、ホールのほうから「ユウさーん」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「取り皿ってこれくらいで足りますか? いちおう、聞いてる人数より多めには出しときましたけど」
 漣がそう言いながらカウンターの前にやってきた。ユウさんがテーブルの上に並べられた食器類に目を向け、「うん、それだけあれば大丈夫」と笑顔でうなずく。
「了解です。じゃあ、コップも同じくらい並べときますね」
「よろしく。真波ちゃんも漣くんも働き者だなあ。助かるよ」
「いえいえ、暇人なんで、なんでも言ってください」
 漣は愛想よく笑って、食器棚のほうへと足を向けた。
 昨夜はさんざんユウさんについて「危ない」などと失礼なことを言っていたくせに、漣はもう彼にすっかり馴染んでいた。というよりは、懐いたというほうが正確かもしれない。会って数分でにこやかに「ユウさんって、めっちゃいい人だな」と、ゆうべの自分の発言などすっかり忘れたかのように私に報告してきたくらいだ。警戒心の強い漣の懐にまでするりと入ってしまうなんて、やっぱりユウさんは人たらしだな、とつくづく思う。
 ユウさんは私のうしろでコンロの前に立ち、大量のおかずを手際よく次々と仕上げていった。山積みの玉子焼きと、ウインナー、アスパラベーコンに唐揚げ。子どもが喜びそうなおかずばかりだ。
 野菜を切り終えた私は、棚に並べられている食器を見回して、サラダに合いそうなガラスの小鉢を見つけた。さっそく盛りつけようと手に取ったとき、ユウさんが「あ、それね」と声をかけてきた。
「ちっちゃい子も来るからさ、ガラスだと落っことしたりして危ないから、プラスチックのにしよう」
「あ、そっか、そうですね……」
 そんな細かいところにまで気を遣っているのか、と感心してしまう。明るくて朗らかで気配りもできて、完璧な人だ。私には絶対真似できない。
「奥のほうに白いプラスチックの器があるから、それ使ってくれる?」
「はい、分かりました」
 言い方もいちいち優しい。漣みたいな命令口調は、決して使わない。ユウさんが苛々したり怒ったりするところなんて、想像すらできなかった。どうしたらこんなに穏やかになれるんだろう。