「わっ」
「えっ?」
「えーっ!」
あちこちから声が上がる。私の出現に驚いているのは明らかだった。気まずさに慌てて顔を下に向ける。いつもよりもずいぶん内股になった爪先が、自分の情けなさを体現しているようだった。
一気にざわざわし始めた教室の奥のほうから、「もしかして!」という大きな声が聞こえてきた。思わず目を向けると、こちらを指さしているいかにも活発そうな女子と目が合った。
「白瀬真波ちゃん!?」
ばくっ、と心臓が胸の中で飛び跳ねた。そして内側からどんどんと激しく叩いているのを感じる。
硬直したまま動けない私を、漣が「入れよ」と振り向いたけれど、身体中に重りを結びつけられているみたいに身動きがとれない。
「あっ、一〇番の白瀬さん!?」
他の女子が声を上げた。一〇番、というのは私のこのクラスでの出席番号らしい。さっき担任から教えてもらった。
「白瀬って、ずっと休んでた子だよね?」
「わー、すげー!」
「へえ、来たんだー」
「なあなあ、どうして休んでたん? 病気? 怪我?」
「お前、そういうこと訊くなよ。デリカシーねえな!」
「あっ、ごめん、白瀬さん!」
「ね、今日からは学校来れるの? 明日からもずっと?」
男女問わず押し寄せてくる人波と、次々にぶつけられる質問に圧倒されて、私はさらに全身を強張らせた。冷や汗がこめかみを伝うのが分かる。
すると、斜め前に立っていた漣が、ふいに右手を胸の高さまで上げた。
「お前らなあ……」
苦笑いを浮かべたような横顔が、クラスのみんなを見ている。
「ちょっとは遠慮しろよ。いきなりそんながっついたら、びっくりするだろ」
とたんに、私を取り巻いていた人だかりが、さあっと崩れた。
「そうだよね、ごめんごめん」
「ずっと気になってたからさー、思わず」
「白瀬さん、またあとで話そうね!」
手を合わせて謝り、そして手を振りながら去っていく。
私は目を丸くして漣を見た。こんなに一瞬で、みんなが彼の言うことを聞くなんて。まさに鶴の一声のようだった。それだけ人望があるということだろう。
心の中で、また黒い感情が湧き上がり始める。私とは正反対な漣。みんなに愛され、信用され、尊敬されている。羨望なんかない。ただ、苛々する。
「真波の席、そこだってさ」
漣が指で示した後方の席に、私は無言のまま向かった。ありがとうも言えない。
彼はいつものように呆れ顔で肩をすくめ、教卓の目の前の席に腰を下ろした。
私は下を向いて鞄から教科書を取り出していく。その間にもちらちらと不躾に向けられる視線が突き刺さった。質問攻めも困るけれど、こんなふうに興味津々で見られるのも居心地が悪かった。
「なになに、漣、白瀬さんと知り合いなの? 真波って呼んでたよな」
漣の隣の席らしい男子が、彼に話しかけるのが聞こえてきた。いちおうひそひそ声で話しているつもりらしいけれど、思いきり聞こえる。どうせならもっと音量落としてよ、とむかむかしながら思った。
「知り合いっていうか……前話しただろ、俺、親の知り合いの家に下宿させてもらってるんだけどさ、真波はそこんちの孫なんだよ」
「えっ、マジで!? ひとつ屋根の下ってやつ?」
「まあな」
「マジか! 女子と同居? やべー、運命? 恋の予感? 映画みてえ!」
「なに言ってんだよ、ばーか」
漣がおかしそうに笑った。私はそれを見て、ちゃんと否定してよね、と内心でなじる。そういう誤解が、あとから面倒な状況を引き起こすことだってあるのだ。
「白瀬さん」
ふいに隣から声をかけられて、私はびくりと肩を震わせた。おそるおそる横に目を向けると、そこにいたのは、満面の笑みをこちらに向けている女子だった。
「初めまして! 私、橋本由佳って言います。よろしくね。せっかく隣の席だし、分かんないこととかあったらなんでも聞いてね!」
よろしく、と答えようと思ったのに、喉を絞められたように苦しくなって、声が出なかった。
彼女は一瞬不思議そうに首を傾げたけれど、気を取り直したようにまた笑顔を浮かべて口を開く。
「漣くんと同じ家に住んでるんだってね。すごいね! 漣くんが一緒だったら、なんでも安心だよね! よかったね」
なにか言わなきゃ、と思うのにやっぱり声を出せなくて、無言のままの私をよそに、彼女は途切れることなく話し続ける。
「このクラスね、男子も女子も仲いいし、すごい雰囲気いいよー」
彼女の言葉に、周りの生徒もうなずいたり、話に加わったりし始める。
「そうそう。担任もまあけっこういい感じだし、当たりだよねー」
「みんないい人だからさ、困ったら誰にでも安心して声かけて大丈夫だよ!」
「いろいろ不安かもしれないけど、まあ、肩の力抜いていこうぜ!」
私に向けられるたくさんの視線、優しげな言葉、親切そうな笑顔。それらに囲まれていると、どんどん動悸が高まっていく。
どれが本当の笑顔で、どれが本当の言葉なんだろう。いや、全部うそかもしれない。一ヶ月も欠席していた私への無神経な好奇心や、特別扱いをされていることに対する敵意が隠されているかもしれない。
そう思うと、膝の上で握りしめた指が震え、額や背中に冷や汗が流れ、ぐっと胃のあたりが痛くなってきた。視界が焦点を失ったようにぼやけていく。息が苦しい。
「おい、真波?」
突然、強く肩を揺さぶられた。
「大丈夫か?」
漣だった。真横に立って、怪訝そうな表情で私の顔を覗き込んでいる。
見慣れた仏頂面を見たせいか、ふっと肩が軽くなった。息を深く吸い込み、肺に空気を送り込むと、気分もだいぶよくなる。
でもやっぱり声は上手く出せなくて黙り込んでいると、漣が眉をひそめて凝視してきた。そして彼は振り向き、背後のクラスメイトたちに声をかける。
「お前ら、とりあえず席戻れ。いきなりこんなに囲まれたらびびるだろ」
彼らは「そうだった。ごめん」「はーい、了解」と口々に言って散っていく。
それを見届けて、漣が私の横で腰を落とした。
「お前、どうしたの? 気分悪い?」
悪いけれど、それを漣に言いたくはない。
「……別に、どうもないけど?」
私に向けられていた注目がなくなって、声がちゃんと出るようになったことに安堵しながら小さく答えると、彼はまた眉を寄せた。
「じゃあ、なんで返事しなかったんだよ? せっかくみんな声かけてくれてたのにさ」
私はまた「別に」と呟く。事情を話すつもりもなかった。
「ただ、したくなかっただけ」
漣が呆れたように肩をすくめた。
「なんだよそれ、女王様か。そんなんじゃ友達できねえぞ」
無神経な言い方にむっとして、睨み返す。
「友達なんかいらないもん。どうせ……」
友達なんて表面上だけの関係なんだから。どうせいつか裏切るんだから。続きを口にするのはさすがに思いとどまった。そんなことを言ったら漣は強く反発しそうだと容易に想像できた。
そのときちょうど、担任が教室に入ってきてホームルームの始まりを告げ、漣が仕方なさそうに席に戻っていったので、私は心底ほっとした。
「——お前、態度悪すぎだろ」
四時間目の授業が終わり昼休みが始まってすぐに、私は漣に教室の外へと連れ出された。そして、人がほとんど通らない廊下の端まで連れていかれ、険しい表情で唐突にお説教が始まる。
「なんなんだよ、せっかくみんなが気い遣って話しかけてんのに、むすーっとしてさ。感じ悪い。せめて普通に受け答えするくらいできないわけ?」
「できない」
同い年のくせに偉そうに説教をしてくる彼への反発心から即答すると、これ見よがしのため息で返された。
「お前なあ……」
態度がよくないのは、もちろん自分でも分かっていた。さすがに声が出なくなったのは朝だけだったものの、休み時間になるたびに話しかけてくる橋本さんや、入れ替わり立ち替わりやって来てなにかと質問をしてくる他の生徒たちに対して、うつむいたまま「まあ」「いや」の二言だけで返していたからだ。
でもしょうがないじゃない、と思う。一年半以上〝教室〟から離れていた私にとっては、会ったばかりの同年代の人間に囲まれてあれこれ声をかけられるというのは、苦痛以外のなにものでもないのだ。
しかも、遠くで漣が、友達に囲まれて楽しげな笑い声を上げたり、自ら進んで先生の手伝いをしたり、他の生徒に頼られていちいち親切に対応したりしているのが見えて、余計にむかむかしてしまったのだ。
「ていうか、漣こそなんなの。みんなにいい顔しちゃってさ。そんなにいい子ぶりたいわけ?」
自分への批判をこれ以上聞きたくなくて、わざと話題を変える。
「半日見てただけでもよーく分かったよ。漣って、うちのおじいちゃんたちだけじゃなくて、先生にもクラスのみんなにもずっと、いい子ちゃんやってるんだね。よくやるよね」
一気にまくし立てると、漣が大きく目を見開いた。
「いい子のふりなんかしてたって、なーんもいいことなんかないのに」
思わずそう言うと、彼が意外そうにぱちりと瞬きをした。
「なに、真波、〝いい子のふり〟とかしたことあんの?」
まさかそんなふうに自分に矛先を向けられるとは思っていなかったので、びっくりして言葉を呑み込んでしまった。それから慌てて口を開く。
「今は漣の話してるの! 私のことはどうでもいいでしょ——」
「どうでもよくねえよ」
遮るように漣が言った。
「どうでもよくなんかない。誰がそんなこと言ったんだ?」
そう言った彼の目つきは、怖いくらいに真剣だった。私はなにも言えなくなり、口をぱくぱくさせたあと、うつむいた。
漣もなにも言わない。間に流れる空気が、一気に重苦しくなる。沈黙が肩にのしかかるようだった。
「……この前も言ったけど」
しばらくして、彼がぽつりと言った。
「お前っていっつもその顔してるよな」
私はのろのろと顔を上げて彼を見る。意味が分からなくて苛々した。
「その顔、やめろよ。見てるだけで不愉快」
「……その顔って、なに」
「唇尖らせて、眉ひそめて、すっげえ不服そうな、つまんなそうな顔。ほら、今も」
思わず右手で口許を押さえた。
自覚はしていた。いつも私は、拗ねたような卑屈な表情をしている。
「それ、やめろ。見てて嫌な気分になるし、周りまでつまんなくなるから」
でも、しょうがないじゃない、と心の中で叫ぶ。
仕方ないでしょ、私はこういう性格でこういう顔なんだから。嫌なら無視すればいいじゃない。顔も見ないようにすればいい。どうしていちいち構ってくるの? どうして放っといてくれないの?
口に出せない思いを目に込めて、じろりと漣を睨む。
「またその顔。俺まで不平不満病がうつりそうだわ」
その言葉に、全身の血がかっと頭に昇った気がした。
「俺、お前みたいなやつがいちばんムカつく」
ぐっと唇を噛みしめ、拳を握りしめる。
もう無理。もう嫌だ。
「私もあんたみたいなやつがいちばん嫌い!」
私は鋭く叫んで踵を返した。
漣と話したあと、下を向いてただひたすら時間が過ぎるのを待ち、放課後になったと同時に、呼び止める担任の声も無視して教室を飛び出した。
朝来た道を、倍くらいのスピードで戻り、電車に飛び乗って鳥浦の駅で降り、いつもの海に辿り着いたときに、やっと足を止めた。そして海岸に下り、あの砂浜に腰を下ろした。
家も学校も嫌だ。どうしてみんな放っておいてくれないの。どうして話しかけてくるの。私のことは透明人間だと思って放置しておいてくれたら、私だって誰の邪魔にもならないように息をひそめて気配を殺して、無害な存在として静かにしてるのに。わざわざ私なんかに興味をもって構ってくるから、上手く対応できなくて嫌な態度を取ってしまうんだ。お願いだから、放っといてよ。
自分でもどうにもならない心の叫びが身体中を駆け巡っていて、息もできないくらい苦しかった。
抱えた膝に顔を埋め、ぎゅっと目を閉じて、繰り返す波の音を聞くともなく聞く。そうしていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
ずいぶん時間が経ってから、ゆるゆると目を上げると、目の前には夕焼けのオレンジと夜の青が入り混じった空、そしてそれを鏡のように反射する海が広がっていた。
もうこんな時間なのか。そろそろ帰らないと、夕飯の時間だ。
頭ではそう思っているのに、身体が動かない。
じりじりと水平線に沈んでいく夕陽をうつろな目に映していると、ふいに、砂を踏むかすかな足音を耳がとらえた。
予感があって、振り向く。
「幽霊さん……」
思わず呟くと、今日も白いシャツを着た彼が、肩のあたりまである少し長めの髪をふわふわと風になびかせながら、ふ、と口許を緩めた。
「やっぱり俺、君の中では幽霊ってことになってるの?」
ふはっ、とおかしそうに彼は笑った。
その笑顔を見た瞬間、一瞬で涙腺が崩壊した。自分でもびっくりするほど、ぼろぼろと涙が溢れ出してくる。
「おお、どうしたどうした」
彼はやっぱりおかしそうに笑いながら、そっと私の泣き顔を覗き込んでくる。
「なんかつらいことがあったんだね。そっかそっか」
なにがあったの、とか、話してみて、とか、理由を訊ねたりはせずに、ただ「うん、うん」とうなずいている。それで逆に涙が勢いを増してしまった。
「いいぞー、若者! 泣け泣けー!」
彼が応援するように拳を空に突き上げた。その様子がおかしくて、私は思わず泣きながら噴き出す。
泣き笑いの私を、彼は柔らかい眼差しで包んだ。
「涙は全部、海が受け止めてくれるから……」
そう言って、彼は私の隣に腰を下ろした。その視線は、夜色に沈みつつある海を眺めている。
そうか、泣いてもいいのか、と思った。ここで私が泣いても、見ているのは幽霊さんだけだ。誰にも知られなくて済む。おじいちゃんにもおばあちゃんにも、お父さんにも、漣にも。
そう思ったら、不思議なことに、逆に涙の衝動が治まってきた。
最後の涙がすうっと頬を伝ったあと、私は情けないかすれ声で訊ねた。
「……幽霊さんも、涙を海に受け止めてもらったことがあるんですか」
すると彼は声を上げて笑った。
「また幽霊って言った」
彼は本当に楽しそうに笑う。まるで、世界には楽しいことと幸せなことしかないんだ、というように。
「でも、申し訳ないけど、俺は幽霊じゃないからなあ」
顔を覗き込まれて、私は涙でぐちゃぐちゃの顔を少し伏せた。
「じゃあ……ユウさん、って呼びます」
「えっ?」
とたんに彼が大きく目を見開いた。
「あ、『幽霊』の『ユウ』さんってことで」
ははっ、とまた彼が笑った。
「やっぱり幽霊から離れてくれないんだ」
底抜けに明るいその笑顔を見ていると、心の奥底に溜まった澱のようなどろどろとした暗い感情が、少しずつだけれど、浄化されていくような感覚に包まれた。
なんとなく気恥ずかしくて、私は膝を抱えた腕にあごをのせる。
鳥浦は田舎だし、人と人との垣根が低すぎて、やっぱり好きにはなれないけれど、それでも彼が暮らしている町なんだと思えば、少しはやっていけそうな気がしてきた。
そのときだった。
「真波ー!」
突然どこからか大声で名前を呼ばれて、私ははっと顔を上げた。漣の声だった。
振り向いて確かめると、後方の堤防の上に小さな人影が見える。
「そんなとこでなにしてんだよ! じいちゃんばあちゃんが心配してるぞ!」
私はふうっとため息を吐いた。まさか彼にこんなところを見られるなんて、最悪だ。
「お迎えが来たみたいだね」
くすくす笑いながらユウさんが言った。
「お迎えっていうか……なんかつきまとわれてるっていうか」
「いいじゃん。心配してくれる人がいるって、素敵なことだ」
「そうですかね……」
軽く首を傾げたとき、また「真波! 早くしろよ」と聞こえてきた。
私はうんざりしながら、ゆっくりと腰を上げた。
「お騒がせしてすみませんでした……帰ります」
ユウさんは「うん」とうなずいてから、「またね、真波ちゃん」と言ってくれた。
漣が私を呼んだのを聞いて、名前を悟ってくれたのだろう。漣とは全く違う、優しくて柔らかな呼び方だった。
うしろ髪を引かれるような気持ちで彼に頭を下げ、私は漣の立つ堤防へと階段を上った。
漣まであと数歩のところで、私は砂浜へと目線を落とした。
ユウさんは波打ち際に佇んで、月明かりの海を眺めていた。あの夜と同じように。その背中を、私は静かに見つめる。
私の視線を追って、漣も海へ目を向けた。
「……あれ、誰?」
彼の問いに、私は小さく、知らない人、と答える。私のせいでユウさんに迷惑をかけるのは嫌だった。
「ふうん……」
漣はユウさんを値踏みでもするようにじっと見つめてから、興味を失ったように目を逸らす。
「……お前、ずっとあそこにいたのか? 学校終わってからずっと?」
「どこにいようと私の勝手でしょ」
つっけんどんに答えると、彼が呆れ返ったように肩をすくめる。
「勝手だけど、じいちゃんたちには心配かけんな」
ちらりと見ると、漣は制服のままで、こめかみには汗が浮いていた。
もしかして、帰宅してからずっと私のことを探していたんだろうか。だとしても、おじいちゃんたちに頼まれて仕方なく、だろうけど。
「とっとと帰るぞ」
「……分かってるって」
歩きだしながらもう一度海のほうを振り向くと、今度はユウさんはこちらを見上げていた。私に気づくと、笑顔でひらひらと手を振ってくれる。またね、頑張れ、と言うように。
私も小さく手を振り返しながら、ユウさんがおじいちゃんちの下宿人だったらよかったのに、と心の底から思った。
「こんばんは」
小走りで駆け寄って声をかけると、振り向いたユウさんが微笑みを浮かべて「こんばんは」と返してくれた。
高校に通い始めてから、二週間が経った。家は相変わらず息苦しかったし、学校もやっぱり居心地が悪い。
クラスメイトたちは懲りずになにかと声をかけてきて、やっぱり私は上手く応えられず、そのたびに漣がやって来てなにかと口出しをしてくる。疲弊しきって帰宅したらしたで、「友達はできたね?」、「勉強にはついていけそうね?」とおじいちゃんたちから質問攻めに遭う。
それでもなんとか耐えられたのは、初登校の日以来、毎晩夕食のあとに家を抜け出して、この砂浜でユウさんと会っているからだ。昼の間をなんとか我慢すれば、ユウさんと会って話せる。そう考えるだけで、かなり気が楽になった。
ユウさんは、第一印象に違わず、とても穏やかで明るくて優しい人だった。話せば話すほど、それが伝わってくる。
そして不思議なことに、誰かに自分の話をするのが苦手な私でも、彼が聞いてくれていると、次々と言葉を生み出すことができた。直接的な関わりがないからこそ、逆に気楽になんでも話せるのかもしれない。
「誰が嫌とか、なにか言われたとかじゃないんですけど、なんか嫌なんですよ。空気が嫌っていうのかな……とにかく居心地が悪くて。自分でも理由がよく分かんないんですけど、一日中どこにいても、誰を見ても、なんだか苛々しちゃって……」
今夜もまた、私はとりとめのない、まとまりのない内容をつらつらと話す。今までどんなに嫌なことがあっても誰にも打ち明けず胸の内に秘めてきた反動か、ユウさんを前にすると、まるで堰を切ったように本音が唇から溢れ出してしまうのだ。
こんな湿っぽい話をしたら、たとえばおじいちゃんやおばあちゃんは必要以上に心配するだろうし、漣に話したりした日には「俺もお前を見てると苛々する」などと一刀両断されるに決まっている。
だから、「うんうん」、「へえ」、「そっかあ」などと柔らかい相づちを打つだけで、余計なことは言わずに聞いてくれるユウさんは、私にとって本当にありがたい存在だった。慣れない土地で我慢しながら過ごして溜まった日中の不満やストレスを、夜の海で一気に吐き出すことで、私はなんとか精神のバランスを保っていた。
「今日は六時間目に、バスの……あ、来月遠足があるらしいんですけど、そのときのバスの座席決めがあって、座席表見たらいちばん前の席はひとり席だったんです。私はそこの席がいいと思って。みんなが仲良しの人たちと席埋めていったらどうせ私は最後に余って自動的にひとり席になるからちょうどいいって思ってたんです。そしたら、漣のやつがいきなり『橋本さんたちは三人グループだから、真波も入れてやってよ』とか言い出して、はっ!?ってなって。マジで余計なお世話!ってめっちゃムカつきました。ほんとあいつ、勝手なことばっかり……」
今日はこの話をしようと決めていたので、勢い込んで話してしまってから、ふと我に返った。ちらりと隣を見上げる。
「……なんかごめんなさい、いつもこんな話ばっかりで」
するとユウさんがびっくりしたように目を丸くした。
「え、なんで?」
「いや、毎晩こんな愚痴ばっかり聞かされたら気分悪いですよね。ユウさんって話しやすいから、思わず喋りすぎちゃって……すみません」
私が小さく頭を下げると、ユウさんがふふっと笑った。
「そんなことないよ。むしろ、高校生の話なんか普段はなかなか聞かないからさ、新鮮だよ。あー懐かしいなーって自分の高校時代思い出したり」
「ユウさんの高校時代……」
私は思わず呟いてから訊ねる。
「どんな高校生だったんですか?」
ユウさんが微笑み、海のほうを見て遠い目をした。少し黙り込んでから、ゆっくりと口を開く。
「好きなもののことばっかり考えてたかな」
私は「好きなもの……」と彼の言葉を繰り返した。
「ユウさんの好きなものって?」
気になって訊くと彼は目を丸くして私を見て、それからなにかを考えるように斜め上を見て答えた。
「うーん……バスケとか」
とか、と言うので、他にも〝好きなもの〟をあげるのだろうと思って待っていたら、彼の言葉はそこでいったん途切れた。
「バスケ部に入ってて、毎日部活のために学校行ってたなあ。楽しくてたまらなくて夢中だったんだ。勉強は嫌いだったから、あんまりしてなかった。それでよく怒られてた」
いたずらっぽく笑った彼は、誰に怒られていたかは言わなかった。でも、ユウさんみたいな人も、親や先生に怒られたりしていたのかな、と思うと、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「バスケやってたんですね。ユウさんがスポーツしてるのとか、なんか想像できないなあ」
私の中でユウさんは、いつも静かな瞳で海を見つめている儚げな人、というイメージだったので、激しく身体を動かすのが好きだなんて意外だった。
すると、彼のほうもどこか意外そうな顔をした。
「へえ、今の俺ってそういうふうに見えてるんだ。学生のころは、『部活バカ』とか言われてたのにな」
彼が懐かしそうに微笑む。
「子どものころは野球ばっかやってて、中学から高校まではバスケばっかやってたよ。今もたまに仕事が休みの日、友達と草野球とかストリートバスケとかやってるよ」
「えっ、そうなんですか」
さらに意外な情報だった。そういえば、彼はいつも私の話を聞いてくれているばかりで、自分の話をほとんどしない。
休日に友達とスポーツをする彼の姿を思い浮かべながら、じわじわと好奇心が湧き上がってきた。彼のいろんな顔を、もっと知りたい。
「ユウさんって、普段は……というか、お仕事はなにしてるんですか?」
思わず訊ねてから、慌ててつけ加える。
「あっ、すみません、差し支えがなければ……」
私の言葉に、彼はおかしそうに笑った。
「偉いね、そんな言葉使えるなんて」
なんだかまた子ども扱いされているようで、少し悔しい。思わず唇を尖らせたとき、ユウさんがふいにうしろを向いて腕を上げた。
「あそこの青い看板、見える?」
彼が指さした先には、海岸沿いに建つ一軒家があった。建物の脇に、街灯に照らされた淡いブルーの看板が立っている。遠いうえに夜なので、書かれている文字は読み取れなかった。
「あれ、俺の店」
えっ、と私は目を丸くして彼を見上げた。そこには少し照れくさそうな笑みがある。
「喫茶店をやってるんだ。朝から晩まで、ずっとあそこで働いてるよ」
「えっ、お店やってるって、ユウさんが店長ってこと?」
「うん、こう見えてね。まあ、店長っていっても、バイトもいなくて俺ひとりなんだけど。——『ナギサ』っていう店だよ」
その店名を口にするとき、ユウさんはなんだかとても嬉しそうな微笑みを浮かべた。見ているこちらが満たされた気持ちになるくらいに。自分の店のことを心から大切に思っているんだろうな、と思った。
「店のキッチンに立って窓の外を見ると、ちょうど海が見えるんだ。いつでも海が見えるところで働きたくて、あの場所を選んだんだよ。午前中とか夜はあんまりお客さんも来ないから、だいたい景色を眺めてる」
そう言ってから、ユウさんは小さく笑って「実はね」と私を見た。
「あの日も、店のキッチンで片付けしながら何気なく海のほう見たら、真波ちゃんがここでうずくまってるのが見えて。それで気になって下りて来ちゃったんだよね」
あの日というのは、彼と二度目に会った日、私が初めて高校に行った日のことだろう。そういえば、いつもユウさんが夜の散歩をしている時間よりもずいぶん早かったのに、なぜか彼がここに現れたのだ。
あのときの私は学校のことで頭がいっぱいで気がつかなかったけれど、あれは偶然ではなく、彼がわざわざ仕事の手を止めて来てくれたのだと、今になってやっと分かった。
「そうだったんですね……すみません……ありがとうございます」
今さらながらにお礼を言うと、ユウさんは心底驚いた顔をした。
「どうして? 俺は自分が気になったから勝手に様子見に来ただけだよ。真波ちゃんが謝ることもお礼言うこもなんてないよ」
それでも、仕事の邪魔をしてしまったのが申し訳なかったし、そしてなにより、私は嬉しかったのだ。仕事中だったのに、わざわざ私のところまで来てくれたことが。
「本当に、ありがとうございます。あのときユウさんが来てくれなかったら、私……」
その先は、上手く言葉にならなかった。でもユウさんは続きを促したりすることなく、「それならよかった」と屈託なく笑った。
「ユウさんて、何歳なんですか?」
唐突に訊ねてしまった。彼の少年みたいな笑顔と、店を経営しているというギャップが気になってしまったのだ。
「俺? 今年で二十六だよ」
ということは、私の十歳上だ。改めて、ずいぶん年が離れているんだなと思った。
「でも、よく友達から『いつまで経ってもガキっぽいな』って言われる」
彼はくすくすとおかしそうに笑って答えた。
私から見れば、ユウさんの落ち着きやおおらかさは十分に大人っぽいと思うけれど、確かに彼には〝大人〟特有の近寄りがたさや威圧感は皆無だった。それはきっと彼の本来の性質なんだろうと思う。
「……ユウさんが鳥浦にいてくれてよかった、知り合いになれてよかった、って私は思ってます」
また唐突な言葉になってしまった。普段あまり人と会話をしないので、私はどうも適切なタイミングで適切な言葉を出すのが苦手だ。
それでもユウさんは、にっこりと笑って「ありがと、嬉しい」と答えてくれた。その笑顔が、私を妙に落ち着かなくさせた。
◇
五月も末になり、ようやく学校にも少しずつ慣れてきた。
授業についていけるかを少し不安に思っていたけれど、ここの高校はそれほど進路指導に熱心ではなく進度もけっこうのんびりとしているので、もともと勉強が苦にはならない私は、日々の予習と復習でなんとか遅れを取り戻すことができた。
もっと心配だった人間関係も、なんとか平穏を保てている。私は中学時代の苦い経験から、なるべく誰とも深い関係を築かずにいたいと考えていた。そうすれば面倒なことにならずに済むから。そんな私の内なる思いがにじみ出ているのか、最近はクラスのみんなも先生たちも、必要以上に話しかけず基本的に放っておいてくれるようになった。——ひとりを除いては。
「真波、お前、部活入らないのか?」
昼休みが始まると同時に、漣が声をかけてきた。お弁当を持って誰もいない最上階の階段に足を運び、踊り場でひとりの時間を謳歌するのが学校での唯一の楽しみなのに、どうして話しかけてくるんだろう。
不機嫌を隠さずに「入らない」と短く答えると、彼は「なんで?」と問いを重ねてきた。迷惑だ。
「別に入りたい部活ないし」
「それなら、女子バレー部に入らないか? 今人数が足りなくて困ってるらしい」
「嫌だ。部活をやること自体が面倒くさい」
漣が苦々しい顔で「無気力人間」と呟いた。
「はあ? 部活は任意でしょ。入る入らないは個人の自由じゃん」
漣は男子バレー部に所属している。だからこそ、女子バレー部なんて私的にはいちばんありえなかった。これ以上、漣と一緒の空間にいる時間を増やしたくない。学校が終わってから彼が部活を終えて帰宅するまでの時間が、私にとっては貴重な〝漣から干渉されずに済む時間〟なのだ。
「どこでもいいけど、どっかの部活に入れば友達もできるだろ」
「友達なんかいらないって、何回言ったら分かるの?」
眉をひそめて答えると、漣は「ほんと意地っ張りだな」と吐き捨てるように言った。
「なんとでも言えば。私はひとりが好きなの」
友達なんかいてもろくなことはないと、私は嫌というほど知っているのだ。
まだなにかを言いたげな漣の横をすり抜けて、私は教室をあとにした。
ひとりの解放感を満喫しながらゆっくりと昼食を終えて、予鈴が鳴ったあと、用を足してから教室に戻ろうとトイレに向かった。そうして個室を出ようとしたとき、ドアの向こうから女子の話し声が聞こえてきた。
「あの白瀬って子、なんなんかなー」
あ、と思わず声が出そうになる。私はドアノブにかけた手をそっと離した。続きを聞きたくないけれど、ここで扉を開ける勇気はない。
「ほんとそれ。なんで誰とも話さないんだろ?」
女子トイレは鬼門だ。閉じられた空間という油断からか、噂話や陰口に精を出す女子たちは少なくない。
「声かけてもまともに反応しないよね。なんか感じ悪いよねー」
「漣くんの下宿先で一緒に住んでて、漣くん面倒見がいいからいろいろ気遣ってるみたいだけど、相手があんな子じゃ大変だろうな」
「迷惑と思ってても、優しいから絶対言わないよね。漣くん可哀想」
「ていうかさ、せっかく漣くんが声とかかけてあげてるのに、すごい態度悪くない?」
「わかる! めっちゃ嫌そうな顔してるよね。ありえない」
「漣くんに失礼だよね。見ててムカつく」
容赦なく飛んでくる否定的な言葉。言われて当然の内容ばかりだし、人との関わりを拒絶しているのは本当だから仕方がないことだと自覚はしているけれど、普段は私に対する不満などおくびにも出さずにいる人たちが、私のいないところで好き勝手なことを言っているという状況が、こたえた。中二のときの苦い記憶が甦り、足元が崩れていくような感覚に襲われる。
「N市に住んでたらしいし、うちらのこと馬鹿にしてんじゃない?」
「あー、田舎者とは口ききたくない!みたいな?」
「うちの親が言ってたけどさー、なんか白瀬さんのお父さんって社長らしいよ」
これだから田舎は嫌だ。個人情報保護なんて、ちっとも頭にないのだ。大っぴらにしていないことでも、いつの間にかみんなに知られていたりする。息苦しい閉塞感。
「えっ、マジ!? じゃあ、お嬢様ってやつかー」
確かにうちのお父さんの肩書きは社長だけれど、お嬢様などという言葉が似合うような大企業でもなんでもなくて、ただの自営業に毛が生えたような家族経営の小さい会社だ。それなのに、社長の娘というだけで、小学校でも中学校でも、何度勝手なことを言われてきたことか。
「じゃあ、あれ? 下々の者と関わると品が落ちちゃう、とか思ってんのかな」
「あははっ、そうかも! うちら品ないもんね」
「あんたと一緒にしないでよ!」
きゃはは、と笑った彼女たちは、そのあと今流行りの芸人の話題で盛り上がり、楽しげに騒ぎながらトイレを出ていった。
こんなの、どうってことない。心の中で呟く。
無責任な噂話も、悪意のある陰口も、これまで標的にされたことはある。別に直接的な被害を受けたわけではなく、うざいとか死ねとか言われたわけでも、殴られたり蹴られたりしたわけでもないし、大したことではない。忘れてしまえばいいことだ。
頭では分かっているのに、向けられた言葉がいつまでも私の中をぐるぐる駆け回って薄れてくれないのは、どうしてなんだろう。
午後の授業の間は、ずっと下を向いていた。顔を上げてしまうと、さっきの噂話の人たちは誰なのかと探してしまいそうだったからだ。知らなくてもいいことは知らないままでいたかった。
放課後になると、うつむいたまますぐに教室を出た。早足で駅に向かい、電車に飛び乗る。
鳥浦の駅に着いてからは、わざとゆっくり歩いた。それでも気がついたら家の前に来ていた。
ただいま、と絶対に誰にも聞こえない声で呟き、玄関で靴を脱ぐ。洗面所で手を洗っていると、洗濯物を干し終えたらしいおばあちゃんがかごを抱えて入ってきた。
「あら、まあちゃん。お帰りなさい」
いつものように笑顔で声をかけられる。
初めのころは慣れなかったけれど、最近はなんとか普通に「ただいま」などと対応できるようになっていた。
でも、今日は、だめだった。我ながら強張った表情と声で「うん」と呟くことしかできない。
おばあちゃんは不思議そうな顔で少し首を傾げてからまた笑顔に戻り、「おやつのビスケットがあるよ」といつものように言う。私が帰宅すると、おばあちゃんは律儀に毎日おやつを出してくれるのだ。せっかく用意してくれたのだから、と思っていつもはお礼を言って食べているけれど、今日はそんな気分にはなれなかった。
私はうつむいたまま、「ごめんなさい、食欲ないから」と洗面所を出た。するとおばあちゃんが慌てたようにあとを追ってきた。
「どうしたんね、まあちゃん。学校でなんかあった?」
私は引きつりそうな顔に必死に笑みを浮かべて、「別になにもないよ」と答える。それでもおばあちゃんは眉を寄せて覗き込んできた。
「もしかして……お友達と喧嘩したん?」
遠慮がちな表情から、私の中学時代のことをなにか知っているのだと悟る。もしかしてお父さんが伝えたのだろうか。言わないでほしかったのに。
私はぐっと拳に力を込めて、ふるふると首を振って否定する。
「……もう部屋に戻るね」
歩き出した私を、おばあちゃんがまた追いかけてきて、
「たまごアイスもあるよ」
と唐突に言った。予想もしなかった言葉をかけられて、思わず足を止める。
たまごアイスというのは、水風船のような半透明のゴム袋の中に、バニラ味のアイスクリームが入っている氷菓だ。なんで今おばあちゃんは、わざわざそれを言ったのか。
「……いらない。せっかくだけど、お腹空いてないから……」
よく分からないけれど、私は首を横に振る。それでもおばあちゃんは、取り繕うような笑顔を浮かべながら「でも」と食い下がるように続けた。
「ほら、あの、たまごアイスだよ? まあちゃんが……」
おばあちゃんの言葉を遮るように、私は思わず、
「だから、いらないってば!」
と叫んだ。おばあちゃんの目が大きく見開かれる。声を荒らげてしまった自分に動揺しながらも、私は勢いを止められずにきつい口調で続けた。
「私もう高校生だよ? そんな子ども向けのアイスなんかいらないよ」
おばあちゃんは大きく息を吸ってから、「……そうやねえ」と項垂れた。
縮こまった小さな肩に罪悪感を覚えたけれど、上手く言葉が出てこなくて、小さく「ごめん」とだけ呟いた。
「……今日は疲れたから、部屋に行くね。晩ご飯もいらない……」
振り切るようにして、部屋の戸に手をかける。でも、おばあちゃんはまだ諦めてくれなかった。
「まあちゃん、大丈夫なん? 力になれるかは分からんけど、話ならいくらでも聞くよ。ばあちゃんに話してみないね」
しつこい。心配してくれているのは分かるけれど、話したくないと気づいてほしい。
「本当になんにもないから、気にしないで」
「そんなん言うてもねえ……」
困ったように手で首を押さえたおばあちゃんが、ぽつりと呟いた。
「話してくれんと分からんからねえ……。きっとお母さんも心配しとるよ……」
お母さん、という単語が耳に入った瞬間、ぎりぎりのところで持ちこたえていた細い糸が、ぷつりと切れる音がした。
「——そんなわけないじゃん! もう、うるさい! 知ったような口きかないで!!」
鋭く言ったそのとき、「おい!」とうしろから強く手を引かれた。驚いて振り向くと、いつの間に帰ってきたのか、漣がそこに立っていた。今日は部活がなかったんだろうか。
彼はひどく怒ったような顔をしていた。
「お前……どうしてそんなこと言えるんだよ。ばあちゃんはな……」
責めるような口調に、私はきつく彼を睨み返した。
きっと漣の目には、私はひどく恩知らずで非情な孫だと映っていることだろう。でも、家族に恵まれて、みんなからたくさん愛されてきた漣に、私の気持ちなんて分かるわけがないのだ。
なんにも知らないくせに。私がどんな思いをしてきたか、今どんな思いをしているか、なんにも知らないくせに。偉そうに口出しなんてしないで。そもそも、漣がこうやっていちいち私に構うせいで、私は女子たちに睨まれてしまったんだ。
「うるさいなあ、もう、放っといてよ!」
私は漣の手を振り払い、その肩を強く押してかたわらをすり抜けると、まっすぐに玄関に向かった。もう全部全部嫌だ、とはち切れそうな心が叫んでいた。
夕焼け色に染まる町を駆け抜けて、気がつくとあの砂浜の近くまで来ていた。
堤防に手をついて下を覗き込んでみる。オレンジ色に輝く砂の上には誰もいなかった。
顔を上げて、国道の先にある薄青の看板を見つめる。ほとんど無意識に足を動かして、その店の前に立った。古い建物をリフォームしたらしく、外壁はペンキで白く塗り直してあり、入り口のドアは真夏の海のような鮮やかなコバルトブルーに塗られていた。その上に、『ナギサ』と書かれた看板がかかっている。
ドアの脇にある小窓から覗くと、中には誰もいないようだった。
ひとつ息を吐いてからドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。頭上にぶら下がっているドアベルがからころと鳴った。
「いらっしゃいませ!」
すぐに明るい声が飛んできた。カウンター席の奥から満面の笑みでひょっこりと顔を出したのは、白いシャツに焦茶のエプロン姿のユウさんだった。
「あれっ、真波ちゃん!?」
目をまん丸にして、キッチンからぱたぱたと出てくる。夜の海で見るどこか儚げな彼とは、ずいぶん印象が違った。太陽のように陰ひとつなく明るい。
「えーっ、びっくりした! 来てくれたんだ!」
きっと高校生がひとりで来るような店ではないのに、嬉しそうに出迎えてもらえて、もしかしたら追い返されてしまうかもしれないと不安に思っていた気持ちが急速に萎んでいく。それで緊張の糸が切れたのか、一瞬で目頭が熱くなった。
じわりと視界がにじみ、涙が溢れてしまっていることを知る。泣くつもりなんかなかったのに。
「わっ、大丈夫!?」
ユウさんが私の肩をそっと押して、近くの椅子に座らせてくれた。
「どっか痛い? 転んだ? お腹壊した?」
私の顔を覗き込み、心配そうに問いを重ねてくる。まるで泣いている子どもへの対応そのものだ。高校生にもなって、転んだとかお腹が痛いくらいで泣かないし、と心の中で言ってみるけれど、声にはならなかった。
「体調不良とか怪我ではない?」
私はこくりとうなずいた。
「そっか……うん……」
彼は私を落ち着かせるように肩をとんとんと叩いた。それで逆にたがが外れたようになってしまい、私は嗚咽を洩らしてしゃくり上げながら、涙ににじんだ情けないかすれ声で「おばあちゃんに……」と呻いた。
「おばあちゃんに、ひどいこと、言っちゃったんです……」
心配して気を遣ってくれているのは分かっていたのに、自分の中の苛立ちや焦燥に抗えなくて、素直にありがとうも言えず、ひどい言葉をぶつけてしまった。
「謝らなきゃって、思ったのに、なかなか、言えなくて……」
嗚咽が邪魔をして、上手く喋れない。それでもユウさんは柔らかい表情でうなずきながら続きを待ってくれている。
「そしたら、あいつが帰ってきて……偉そうに説教してくるから、今謝ろうと思ってたのにって腹が立って……。ほんといつも上から目線だし……ムカついて、そのまま飛び出してきちゃった……」
我ながら幼稚な言動だった。あとから考えたら後悔も反省もするのだけれど、そのときには自分の感情に流されてちゃんとした対応ができないのだ。私はどうしてこんななんだろう、と自己嫌悪に陥る。
「あいつって、下宿してる漣って子のこと?」
ユウさんが静かに訊ねてきた。私は涙を拭いながら首を縦に振る。
「いちいち私のことに口出しして怒ってくるんです。学校でも、家でも……」
すると彼は、ふふっと小さく笑い声を洩らした。
「なんか分かるなあ、その子の気持ち。なんていうか、真波ちゃんって、ちょっと放っておけないような感じがするもんな。たぶん漣くんも、真波ちゃんがひとりで頑張ってるのを見てられなくて、サポートしたくて思わずいろいろ言っちゃうんじゃないかな」
思いもよらない言葉に、私は大きく目を瞬いた。涙が睫毛の上で細かく弾ける。
「……そんなんじゃないです。私のこと、いちばんムカつくって言ってたし。だから文句言いたくなるだけだと思う……」
「そうかなあ」
ユウさんは笑いを含んだ声でそう言ったあと、口調を改めて「おばあさんのことは大丈夫だよ」とうなずいた。
「大丈夫、きっと分かってるから。真波ちゃんがすごく苦しい思いをしてて、だから素直になれなくて、今は反省してることも、真波ちゃんのおばあさんは、きっと全部分かってる。……家族って、おばあさんってそういうものだと思う」
彼は海側の出窓の向こうへ視線を投げた。
「俺にはもう祖父母はいないんだけどさ、幼馴染の子のおばあさんを昔からよく知ってるから、どういう思いで孫のことを見守ってるのか、なんとなく分かるんだ。無償の愛っていうのかな、無条件に孫のことが可愛くて仕方ないっていうか。本当に海みたいに広くて深い愛情で、悩んでることも、素直になれないことも、心に秘めてることも、ちゃんと理解してくれてて、どんなことでも受け入れてくれるんだと思う」
ユウさんの言うことはとても抽象的で、私には難しすぎた。でも、彼が私に伝えようとしてくれていることだけは理解できた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、こんな面倒な私を引き取ってくれて、いつも優しく気を遣ってくれていた。最初のころは、口には出さないけれど本心では迷惑に思っているのではないかと疑っていたけれど、一緒に生活するうちに、優しくしてくれる気持ちはどうやら本物らしいと、ひねくれ者の私にも分かってきた。
それなのに、今日は、学校のことで気が立っていて、しかもお母さんのことに触れられて理性を失い、あんなひどい言葉を投げつけてしまった。
どうしようもない激しい後悔が、私を内側から苛んでいた。時間が戻せるのなら、すべてやり直したい。でも、過去に戻るなんて不可能なのだ。だから、せめて。
「……謝りたい。おばあちゃんに、ごめんなさいって、謝りたい……」
呻くように言った私に、ユウさんが「うん」と明るく答えた。
「大丈夫、大丈夫。気持ちが落ち着いてからちゃんと謝れば、大丈夫だよ」
彼の言葉を聞いていると、不思議と本当に大丈夫な気がしてくる。
家に帰ったらすぐに、ちゃんとおばあちゃんに謝ろう。ごまかしたり恥ずかしがったりせずに、心からの謝罪の言葉を伝えよう。驚くほど素直に、そう思えた。
「……明日も、来ていいですか」
思わずそう口にしてしまってから、彼の邪魔にならないか、と心配になって、慌ててつけ足す。
「あの……ちゃんと謝れましたって、報告に……」
ユウさんがにこりと笑ってうなずく。
「もちろん! それがなくたって、いつでも、毎日だって来てくれていいよ」
「……ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げた。涙はいつの間にか引いていた。
ものすごく図々しいことをお願いしていると自覚していたけれど、今の私にとっては彼が唯一の心安らげる存在なのだ。
「あ、そうだ」
ユウさんが突然なにかを思いついたように手を叩いた。
「玉子焼き、好き?」
唐突な問いに戸惑いながらも、私はこくりと首を縦に振る。
「よかった。じゃあ、ぜひ食べていって」
「え……いいんですか」
「どうぞどうぞ。ていうか俺、玉子焼きを食べてもらうのが好きなんだ」
「……そうなんですか」
分かるような分からないような理由だったけれど、私は「じゃあ、お言葉に甘えて」とうなずいた。
「ちょっと待っててね、すぐ作るから」
ユウさんがぱたぱたとキッチンに戻っていく。
私はホールにひとり取り残され、手持ち無沙汰に店内を見回した。 四人がけのテーブルが四つと、カウンターに四席。定員二十名ほどで、一軒家のリビングとダイニングキッチンを改装したような造りだ。カウンターの左側には大きな出窓があって、そこからも海を眺めることができる。
テーブルも椅子も、壁や建具もすべて木製。ひどく静かで、そして温かくて落ち着く感じの店だった。まるでユウさんそのものだ。
なんとなく席を立って、オレンジ色の夕陽が射し込む出窓の前に立ってみる。
線対称の空と海をぼんやりと眺めていると、出窓の天板に、コルクで栓をされた片手ほどの大きさのガラス瓶が置かれているのを見つけた。屈み込んで見てみると、中には見たこともない貝殻がいっぱいに詰められている。淡いピンク色に透き通った、とても綺麗な貝殻だ。
なんていう名前の貝かな、と考えていたとき、キッチンでユウさんが「できたよ」と声を上げた。振り向くと、呼ぶように手招きをしている。私は貝殻の入ったガラス瓶をもう一度ちらりと見てからカウンターに向かった。
「どうぞ、召し上がれ」
青いラインが入った真っ白な角皿の真ん中に、向日葵の花びらのような鮮やかな黄色の玉子焼きが盛りつけられている。美味しそう、と思わず呟くと、ユウさんは嬉しそうに笑った。
綺麗に切り分けられたひとかけを箸でつまんで口に運ぶ。温かくて優しい味だった。なぜだかまた、引いたはずの涙が少し込み上げてきた。
「玉子焼きって、なんか元気が出るよね」
口いっぱいに広がるほのかな甘みを噛みしめながら、ユウさんの言葉に私は「はい」とうなずいた。
食べ終わったらすぐ家に帰って、おばあちゃんに謝ろう、と思った。
それ以来、放課後に『ナギサ』に通うのが私の日課になった。
ホームルームが終わると同時に学校を出て、家に荷物を置いて着替えるとすぐにナギサへ向かう。そして夕飯の時間ぎりぎりまで居座る。
ナギサは、田舎の小さい店のわりに、お客さんがけっこう多かった。席がいっぱいになることはないけれど、まだ日が出ている時間帯にはたいてい誰かが店にいる。初めて訪れたあの日店に誰もいなかったのはとても運がよかったのだ。
今日も、入り口のドアを開けると、四、五人の先客がいた。
「いらっしゃい」
ユウさんがいつものように笑顔で迎えてくれる。
私は定位置の、カウンターの端の席に腰を下ろした。頼むのはいつもオレンジジュースだ。恥ずかしいけれど、コーヒーは苦くて飲めない。
毎日喫茶店でお茶をするなんて高校生にしては贅沢かな、とも思うけれど、昔から趣味もなく土日にどこかへ遊びに行ったりもしない私は、お小遣いやお年玉がかなり貯まっていて、たとえ毎日喫茶店に通ったとしても当面お金が底を尽きることはなさそうだった。
ユウさんは接客で忙しいので、私も話しかけたりはせずに大人しくしている。遅い時間になってきて客足が途切れがちになるときは、何気ない会話をしたりもするけれど、あの日のように悩みや気持ちをぶちまけたりはしない。それでも、この穏やかな空間にいるだけで心が浄化されるような気がして、十分満足していた。
私がこの席を気に入っているのは、ここに座ると、出窓のガラス瓶がよく見えるからだ。窓から射し込む光に照らされて、半透明に煌めくピンク色の貝殻。
あの日は気が動転していたので気がつかなかったけれど、ナギサの店内には、至るところにこの貝殻が置かれていた。壁にかけられた額縁の中で色ガラスのかけらと一緒に花の形に貼りつけられたものや、カウンターの上のガラス皿の上に何枚か集められたもの、そしてキッチンの脇にある棚にかけられた二本のネックレスの飾りもピンクの貝殻だ。
そのすべてが、海に反射して店内に満ちる光を受けて透き通り、控えめにきらきら輝いている。幻想的なほど綺麗な光景だった。これがこの店の温かさや優しさのもとなのかな、となんとなく思う。
「前から気になってたんですけど、このピンク色の貝殻って、本物ですか?」
注文の品を出し終えて仕事が一段落したユウさんに訊ねると、彼はやけに嬉しそうに笑った。
「これ、気になる?」
そう言って彼は、棚にかけてあったネックレスの一本を、私に手渡してくれる。細い金色のチェーンに通された、淡いピンクの貝殻。
初めて間近に見て、その美しさに目を奪われる。窓のほうに向けて光に透かしてみると、桜の花のひとひらのようだった。
「本物の貝殻だよ。桜貝っていうんだ」
「桜貝……」
見た目の印象通りの名前だった。
「すごく綺麗な貝ですね。ユウさん、桜貝が好きなんですか?」
だからこんなふうにたくさん集めているのかな、と思って訊ねる。彼は「うん」と屈託なく笑った。
「桜貝はね、『幸せを呼ぶ貝』って呼ばれてるんだよ」
「幸せを呼ぶ貝、ですか」
うん、とユウさんは微笑みながら窓の向こうの海を見た。
「見つけると幸せになれるって言われてるんだ。貝殻を拾ってお守りとして身につけたりね。このあたりの海岸でもたまに拾えるよ」
「もしかして、あの中に入ってる貝殻も、ここで拾ったんですか?」
私は出窓のガラス瓶を指さした。白い陽射しの中で光を放っている、澄んだ桜色の綺麗な貝殻たち。
「うん、そうだよ。散歩のときとかに見つけたやつを拾ってきて、あの中に集めてるんだ」
ユウさんはとても優しい笑みを浮かべてうなずいた。彼にこんな眼差しで見つめられる桜貝たちを、少し羨ましく思う。
そのとき、背後で入り口のドアベルがからんころんと音を立てた。目を向けると、白髪頭のおじいさんが店内に足を踏み入れるところだった。毎日のようにやって来る常連客だ。
「いらっしゃいませ!」
ユウさんがいつもの人懐っこい笑顔で挨拶をする。おじいさんはテーブル席に腰かけながら、「こんにちは、ユウくん」と答えた。
この店に通うようになっていちばん驚いたのが、これだった。ユウさんは、本当に〝ユウ〟という名前だったのだ。幽霊のユウさん、という失礼なあだ名をつけてしまったと思っていたのに、まさか本名と同じだとは思わなかった。
「ホットと玉子焼きで」
おじいさんが注文を入れると、ユウさんは「はーい」とうなずいてキッチンに入っていった。
喫茶店に来てコーヒーと玉子焼きを頼むなんて、普通に考えたらなんだかおかしいけれど、この店では定番の注文パターンだった。ほとんどのお客さんが、飲み物と玉子焼きを注文する。ナギサの名物は、なぜか玉子焼きなのだ。
「ユウくんの玉子焼きは、なんだかあったかい味がするんよなあ。味つけは違うはずなのに、なんでやろうなあ、亡くなった妻が毎朝焼いてくれた玉子焼きを思い出すんよ……」
おじいさんはにこにこと微笑みながら玉子焼きに箸を入れる。他のお客さんも同じようなことを言っているのを聞いたことがあった。
「うん、やっぱり美味しいなあ」
「ありがとうございます! この玉子焼きには、愛がいっぱい詰まってるんで」
へへへ、とユウさんが照れくさそうに笑いながら言った。
「本当にうまいよ。ユウくんがナギサを始めてくれてよかったなあ。このあたりには遅くまでやってる喫茶店がなかったからね、年寄り連中はみんな喜んでるんだよ」
「俺もみなさんがいつも来てくれて喜んでますよー」
ユウさんは心から嬉しそうに答えた。
彼がこの店を始めたのは、三年ほど前のことらしい。他のお客さんとの会話に聞き耳を立てて得た情報によると、彼は高校卒業後、部活の先輩のつてを頼って隣のS市の大きな喫茶店で五年ほど働き、開業資金を貯めた。そして鳥浦に戻ってきて、町で唯一の定食屋だったけれど店主が高齢になって閉業してしまったこの店を買い取り、自分の手で改装して喫茶店にした。
ナギサは早朝から近所のお年寄りが集う憩いの場になっているらしい。明るくて人懐っこいユウさんは、おじいさんおばあさんたちのアイドルのような人気者だという。
私も同じようなものだ。学校には相変わらず馴染めないけれど、この店にいる間は、憂鬱なことはすべて忘れてほっと安心できるのだ。
ユウさんはすごいな、と思う。店の中を忙しそうにくるくると立ち回る姿を見ていると、さらにそんな尊敬の気持ちが強まる。私と十歳しか変わらないのに、もう自分の店を持っていて、しっかり切り盛りしていて、しかもお客さんから信頼されて愛されている。本当にすごいし、かっこいいなあ、と思う。
海でふたりで話しているときは、どこか少年っぽい雰囲気を感じていたけれど、店にいるユウさんは、やっぱりものすごくしっかりした大人に見えた。
「そういえば、明日は〝子ども食堂〟の日よねえ」
ふいに反対側から声が聞こえた。入り口の右側の席に座っていた常連のおばあさんが、ユウさんに声をかけている。彼は「はい、そうです」と笑顔でうなずいた。
「最近は何人くらい来とるん?」
「だいたい十から二十人くらいですかね。小学生の子たちが多いですけど、その子らが弟とか妹も連れてきてくれるんで、けっこう賑やかですよ。本田さんもよかったら顔出してみてくださいね」
「あら、こんなおばあちゃんが紛れ込んでしまっていいんかねえ」
「もちろんいいですよ! 子どもたちも喜ぶと思います。お時間あるときにぜひ様子見に来てみてください」
ユウさんは生き生きとした表情でそう言った。