ドンッ、とわざとらしく身体をぶつけられて、思わずよろける。

「栞ちゃんっ」

 パッと伸ばされた手に支えられて、なんとか倒れずにすんだ。「ありがとう」とお礼を言いながら身体を起こす。

「今の絶対わざとだよね。ありえないんだけどっ」

 眉を寄せて言う可奈は、「大丈夫?」と大きな瞳でわたしの顔を覗き込んだ。すれ違った後ろの方でクスクスと小さく(わら)う声が聞こえてくる。

「あんなの放っておこう。どうせ栞ちゃんのことが羨ましいんだよ」

 そう言いつつ、わたしよりも可奈の方が悔しそうな顔をしている。今にも泣き出しそうな可奈の肩を引き寄せて、ポンポンと軽く叩いた。

 あの日を境に、わたしたちバスケ部二年生の関係はギスギスし始めた。もともと仲が良いとはお世辞にも言えなかったけれど、今はもう最悪だ。険悪以外のなにものでもない。お互い気を遣って抑え込んでいたものが、ついに爆発してしまった。当然と言えば当然の流れであり、逆に回避することができたかと問われれば完全に否とは答えることができない。
 わたしが我慢すればきっと、こんなことにはならなかった。

 中山さんたちのグループとわたしが対立し、それを庇って可奈まで巻き込まれそうになっている。特に中山さんたちは学年でもいわゆる"陽キャ"と呼ばれるところに属していて顔が広く、バックには敵に回すと厄介な人物が何人も潜んでいる。きっとわたしの知らないところで既に悪口大会が開催され、あることないこと話が盛りに盛られて広い範囲に伝わっているのだろう。

 悪口や噂話の場合、きっかけの善悪なんて関係ない。大切なのは、「誰が」話すかだ。仲が良い子が嫌な思いをしたのなら、出来事に関係なくつい同調したり共感してあげたくなる。そういう面では、たとえわたしなんかが数少ない友人に中山さんたちの悪口を言ったところで、圧倒的人脈と確固たる権力の持ち主である中山さんたちに敵うはずがなかった。

 これは紛れもなくわたしの言動が招いてしまった結果だから、仕方のないことだ。傷つかないわけじゃない。やめてほしいとも思っている。けれど、人間である限り。女子である限り。特に多感な女子高生である限り、一度崩れてしまった人間関係の再構築はほぼ不可能に等しい。
 どう頑張ったってギスギスする前のようには戻れないし、一度言ってしまった言葉は取り消せない。彼女たちの言葉がわたしの心に深く突き刺さったように、わたしの言葉もまた彼女たちの心にも少なからず影響を与えてしまっただろう。

「星野!」

 隣のコートから大きな声が聞こえてきて、無意識のうちに視線が吸い寄せられる。
 ボールを受け取った星野はなんなく敵をかわし、ゴールに一直線に進んでいった。シュートをする直前でくるっと手を回して、ブロックのタイミングをずらし、華麗にダブルクラッチを決めた。ナイシュー、と声があがる。隣では可奈がパチパチと小さく拍手をしていた。

「栞、そろそろ合わせの練習するよ」
「……はいっ」

 声をかけられて少し狼狽えてしまう。声の主は麗華先輩だった。真波先輩ではなかったことに少しばかり安堵し、コートに入る。

「栞ちゃんっ」
「ん?」

 名前を呼ばれて振り返る。可奈は自らの拳を握り、ガッツポーズをしていた。

「頑張って!」

 ふ、と笑みが洩れる。
 嫌味がなくて、嫉妬すらもまったくないんだろうなと思う。純粋で、(けが)れなくて、心が綺麗なんだなと、彼女の性格の良さを改めて痛感した。同時に、彼女を傷つける存在から何が何でも守り抜こうと誓った。今回ギクシャクしたのは可奈を庇ったのがきっかけであっても、内容はほぼわたしのことだ。負い目を感じてほしくないから、中山さんたちとの出来事は隠し通すつもりだ。

「ありがとう」

 ふうっと息を吐いて、まっすぐにゴールを見つめる。

 応援してくれる人がいる。期待してくれる人がいる。バスケを続ける理由がまだ分からないのなら、まっすぐに応援してくれる彼女のために、わたしはその期待に全力で応えよう。先輩、後輩、そして出たい気持ちを強く持っている同級生のために。

『しおりは大きくなったら、バスケット部に入るの?』
『うんっ!』

────大好きなお母さんのために。




「よう」

 可奈が部室から出てくるのを待っていると、ふいに横から声がした。振り向くと、そこにはやけに穏やかな星野の顔があった。彼は目を細めて「なんか久しぶりだな」と呟く。

「……そうだね」

 一緒に帰った日から、星野のことをなんとなく避けてしまっていた。特に話さなくても生活に支障はないあたり、わたしたちの関係性はますます複雑だなあと思う。名前をつけにくい、つけられない関係性だ。結局、あの出来事はわたしの中ではなかったこととして扱われている。それはきっと、星野も同じだろう。

「今日……なんかあったか?」
「なんかって……何が?」
「それを訊いてんだよ」

 ふはっと笑った星野は、艶のある黒髪をさらりと揺らした。

「特に何もないけど、どうして?」
「なんか、プレーがいつものお前と違ったから」
「えっ」

 それは今日、顧問の先生にも、あの真波先輩にも言われた。『今日のプレー、栞らしさが出てていいじゃん』と。気持ちの持ちようでプレーは大きく変わってくるのだと、今この瞬間で認識する。

「……なかなか良かったんじゃねえの」

 一瞬耳を疑った。わたしのプレーをいつも批判してくる、あの星野が。厳しいことしか言ってこない、星野が。

(今、わたしのプレーを褒めた……?)

「なんつー顔してんだ、馬鹿」

 驚きを隠せずじっと見つめていると、星野がそう言って視線を逸らした。頬がわずかに桃色に染まっているように見えて、ますます困惑する。

「今の、本当?」
「……じゃあな」
「ねえ、ちょっと星野!」

 振り返ることなくスタスタと去っていく星野の背中を見つめる。身をひるがえす前のわずかな沈黙は肯定ととらえて良いのだろうか。

 彼はいつだって良くも悪くも正直だ。だって、いつもあれだけわたしのことを否定できるのだから。
 そしてそれはただの悪口ではなく、わたしが力を抜いていることを見抜いた上での厳しい言葉だったりする。
 だからこそ、ちゃんとわたしのプレーを見た上で、褒めてくれたのだろう。だとすれば、さっきの言葉に偽りはないはずだ。

「おまたせ、栞ちゃんっ! ……あれ、いいことあった?」

 いつの間にか緩んでしまった口許を、そっと手で押さえる。

「……ううん、別に」

 なんて、そんなふうに勝手に口が動いてしまう。

 ああ、やっぱり。
 わたしは彼とは違って嘘つきだ。



「あ、これ」

 階段を降りる途中の踊り場に貼ってある、一枚のチラシに目がとまる。同じようにチラシを覗き込んだ可奈は、「今年もやるんだ、お祭り!」と目を輝かせた。
 そこには、毎年行われる祭りの情報が大きく書かれていた。この祭りは、田舎であるこの辺りでは一番二番を争うほどの大きなイベントであるため、学生はもちろん、たくさんの人が楽しみにしている夏の風物詩のひとつでもある。いつもはやくから情報が出回り、この時期になると誰もが友達や恋人と一緒に行く約束をして、ワクワクし始めるのだ。

日付(ひづけ)、大会と被ってない?」
「あっ! ちゃんとずれてる! ラッキーだねっ」

 そう言って可奈は、ぱあっと満面の笑みを浮かべた。去年の夏祭りは、バスケットの大会と被ってしまったため、朝早くから夕方まで試合をして、帰ってから祭りに行く余裕なんてなかった。だから去年はわたしも可奈も、残念ながら祭りには行っていない。だからこそ、今年はどうか被らないでほしい、と思っていた。

「栞ちゃん、一緒に行こうよ」

 目をキラキラと輝かせる可奈に頷く。もちろん、と言うように、強く。

「やったー! 嬉しいな、今から楽しみすぎる!」

 子供のようにばんざいをしている可奈を見ていると、わたしもとても嬉しくなる。こんなに喜んでくれるなんて、思わなかったから。

「ねえ、栞ちゃん浴衣着る? もちろん夜までいるよね? かき氷とか綿飴とか、食べたいなあ」

 はやくも祭りに思いを馳せて、「あー、どうしよう」と言いながら頬に手を当てる可奈。そんな彼女を見ていると、自然と笑みが溢れた。

「ふふっ。気がはやいなあ」
「だって楽しみなんだもん!」
「お祭りの前にインターハイがあるんだよ?」

 インターハイ出場の常連校とまでは言えないけれど、数年に一度チャンスがあれば出場できるほどそれなりの実力を持ったうちの学校は、今年は見事勝ち進み、インターハイに出場する。トーナメント制で行われるため、負けたらそこで終わりだ。祭りに思いを馳せるのもいいけれど、まずは目の前に迫る大会に備えなければならない。
 そう思いながら、バスケットに対しての自らの気持ちの高まりを感じた。それはきっと、応援したり褒めてくれたりする可奈と星野が影響しているのだろう。相変わらず自分の単純さに笑いが込み上げてくるけれど、それが原動力となっているのなら、なんら問題はないはずだ。

「インターハイ、頑張ろう! 絶対絶対、勝ち進もう!」

 意気込む可奈はぐっと拳を握りしめてわたしの目の前に突き出した。コツン、と同じようにして拳を合わせる。

「私はいつでも栞ちゃんの味方だからね!」

 透き通る青空からまっすぐに届く光が、可奈の横顔を照らす。

(わたしも、いつだって可奈の味方だよ。何があっても絶対守り抜いてみせるから)

 ふんわりと笑う可奈を見ながら、心の中で強くそう思った。