「遅い遅い! もっとスピード上げて!」
「レイアップ外したら連帯責任でコートダッシュだからね!」

 よく通る大きな声が体育館に響く。その声に続いて「はい!」と揃った返事が聞こえてきた。主に試合に出るレギュラー組はコートで実践練習、ベンチメンバーやベンチ入りできなかった子はコートの隅でドリブル、パス、シュートなどの基礎練習を行う。わたしはコート、可奈はコートの隅でそれぞれやるべきことをこなす。

「栞、そこ狭い、邪魔っ!」
「す、すみません」

 ポジション取りが上手くいかず、キャプテンのドライブの邪魔になってしまった。慌てて飛び退くと、チッ、と隠す気などさらさらない真波先輩の舌打ちが聞こえた。どんよりと気分が落ち込む。誰だって、舌打ちをされて良い気分はしないだろう。

「あー」

 そのとき、隅の方から落胆の声が聞こえた。視線を遣ると、ガコン、という音とともにボールがリングに跳ね返って落ちてくるところだった。どうやらレイアップが外れたらしい。パタパタとボールに近寄る女子を目で辿る。

「ごめんなさい、みんな」

 謝罪しながらボールを拾っていたのは可奈だった。謝罪を聞くより先に、一斉に皆が走り出す。可奈もボールをコートの隅に置いて、少し遅れて走り出した。

「栞!」

 名前を呼ばれて我に返る。ものすごい速さで飛んできたバスケットボールをなんとかキャッチし、シュート体勢をつくる。

(可奈、大丈夫?)

 頭の隅でそんなことを思いながら、ワンフェイクを入れてディフェンスをかわし、ゴールめがけてシュートを放った。
 入れ、とただそれだけを願いながら。

***

「成瀬ちゃん、ちょっと」

 練習か終わり、着替えて鞄の準備をしていると、急に声がかかった。手を止めて、鞄を置いたまま立ち上がる。

「はい」

 頷いて部室を出る。眉間に皺を寄せて歩く真波先輩に連れられて、体育館倉庫までやってきた。
 ドク、ドクと心臓が嫌な鼓動を繰り返している。今日は何を言われるんだろう、と逃げ出したい気持ちになりながら、拳を強く握りしめた。

「今、何月?」
「……七月、です」
「インターハイまであと何ヶ月?」
「一ヶ月も、ありません」

 まるで尋問だ。ひやりと汗がこめかみを伝う。

「だよね? あんなフリーのシュート、外されたら困るんだけど」
「……すみません」
「ポジション取りも上手くできない、シュートは外す。だったらあんたいったい何の役にたつわけ?」

 ぐっと言葉に詰まる。真波先輩の言う通りだ。それは自分だって分かっている。押し黙ったわたしに、真波先輩は一歩近付いた。

「あたしはね、麗華に勝たせてあげたいの。あの子がどれほど頑張ってきたか、どんなにチームのために尽くしているか、あんた知らないでしょう?」

 視線を床に落とす。唇を噛んでいると、頭上からはぁ、と盛大なため息が落ちてきた。

「この前も部活休んでたし、もうちょっとレギュラーの自覚持ちなさいよ。あんたの立場になりたい人なんてたくさんいるんだから」
「……はい」
「それだけ。もう帰って良いわよ」

 お疲れ様でした、と一礼して倉庫を出る。倉庫を出た瞬間、張り詰めていた空気から解放され、押し寄せてきた安堵でガクッと膝の力が抜けた。

「っ、はぁ……」

 わたしは真波先輩が苦手だ。言い方がきついことや不機嫌を露わにするところも苦手だけれど、一番苦手なのはあの冷めた眼差しだ。いつなんどきも、どんなことをしても責められているような気になってしまう。あの目を向けられると、ギュッと心臓が縮み上がって、呼吸が上手くできなくなる。
 だから、苦手だ。

 ゆっくりと手をついて立ち上がる。歩きながら深呼吸をして呼吸を整えた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。単純な動作を繰り返して気持ちを落ち着けて、部室に戻る。
 そのとき、部室のドアにかけた手が、止まった。ハッと目を見開く。

「……ほんと、うざいよね」
「とりま練習来ないでほしいよね、下手なら迷惑かけるなっつーの」

 そんな声が部室の中から聞こえてきたから。思わずドアノブから手を離して、ドアを見つめた。壁が薄いのか、小さくとも声ははっきりと聞こえてくる。鞄を取りに入ろうにも入れず、盗み聞きをしてはいけないと分かっていても気になってしまい、やや逡巡する。わたしが悩んでいる間にも、会話は弾みを増し、より大きくはっきりと耳に届くようになった。

「でも、あそこまで下手だと大変だよね」
「可哀想だよね、うちら。今日のダッシュだって、ほぼ可奈のせいじゃん」

 ────可奈。

 親友の名前は、嫌でも耳が拾ってしまう。息を潜めて会話を聞く。自分のことを言われているわけではないのに、ドクンドクンと嫌な鼓動が響いている。

「休んでくれないかな」
「あー、いっそのこと怪我とか、さ」

 ガチャッ、というドアの音でバッと振り返った彼女たちは、バツの悪そうな顔をしてわたしを見つめた。

「栞……」
「────そういうの、よくないと思う」

 はっきりと告げると、彼女たちはますます顔を歪めて、ひきつり笑いを浮かべた。取り繕うような笑み。けれど、黙っていられなかった。可奈だって、一生懸命練習している。それを罵倒するなんて卑劣だ。

 休んでくれないかな。怪我とか、さ。
 どうしてチームメイトにそんなこと言えるんだろう。彼女たちに人の心というものはないのだろうか。

「そんな陰口言っちゃだめだと思う」

 厳しい口調で告げると、そこにいた三人組のひとり、中山(なかやま)さんが、「何よ」と眉根を寄せた。あとの二人も渋い顔をしている。

「いちいち口出ししないでくれる? 言うも言わないもうちらの勝手じゃん」
「そうだよ。栞には関係ないでしょ」
「本人に直接言ってるわけじゃないんだからさ」

 彼女たち一人ひとりは弱いのに、三人集まるとこんなにも棘のある言葉をぶつけることができるようになる。人間って、すごく醜い。

「可奈だってたくさん努力してるの。それを罵倒するのは違うと思う」
「余裕そうにしちゃってさ。栞、そういうとこあるよね」
「偉そうな感じ」
「お高くとまってるっていうか」

 言葉が三倍になって返ってくる。会話の内容はいつしか可奈のことからわたしのことに変わっていた。冷静だった口調が、互いにヒートアップしていく。

「なんか、最近の栞変だよ」
「うん。レギュラーのくせに余裕そうにしちゃって」
「本気でやってないよね、練習」

────栞からは、やる気を感じない。

 その言葉が放たれた瞬間、プツ、と何かが切れる音がした。今にも切れそうなところを必死に必死に繋ぎ止めていたのに、一度ちぎれてしまえば元に戻ることはない。

「……なん、で」

 低く、唸るような声が口から溢れる。自分でも聞いたことがないような声だった。自分はこんなにも憎しみを込めることができたのか。怒りを込めることができたのか。それに初めて気付くと同時に、この感情の抑え方をわたしは知らなかった。

「……なんでベンチの人に、そんなこと言われなきゃならないわけ」

 まだ顧問の先生やキャプテンや真波さんに言われたほうがよかった。なんなら星野でもよかったかもしれない。それなのに、よりによって、どうしてこんな人たちに。

「……は?」
「どういうつもり」
「そっちの方がよっぽど酷いじゃん」

 顔を赤くして真っ直ぐにわたしを睨みつけた三人は、「栞ばっかり、ずるい」と口を揃えて呟いた。

「うちらだって努力してるのに」
「どうしてたいして頑張ってない栞にとられなきゃいけないの」
「あたしたちだって、試合に出たいんだよ」

 濁流のように押し寄せた気持ちは、両者ともに止まるはずがなかった。心の奥底に秘めていた汚い感情が、混ざり、まざる。

「……努力が報われないことを嘆くより、報われるほどの努力をしたら?」

 ああ。言ってしまった。
 ガラガラと何かが音を立てて崩れ落ちていく。どこまでも深い奈落の底に堕ちていく。

 強引に鞄に物を詰め込んで、足早に部室を去った。一言も発することなく、彼女たちと視線を合わせることもなく。

 苦しい。痛い。────哀しい。

 黒い感情がどろどろと混ざり合って、わたしを呑み込んでいく。巨大な渦に取り込まれ、自分が禍々(まがまが)しい何かに()まっていくような、そんな感覚がした。




 一人になって、激昂の波がおさまると、今度はひどく大きな罪悪感に駆られた。

 どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。あんなのは、完全な八つ当たりだ。

 確かにわたしが練習にあまり力を入れていなかったのは事実だし、余裕そうにしていると思われても仕方がないような態度をとっていたのもまた事実だ。だから、彼女たちが言ったことは間違っていない。
 あまりにも正論すぎて、悔しかったのだ。痛いところを突かれて、つい言い返してしまった。今まで抑え込んでいたものが一気に出てしまった。我慢していた黒い感情を彼女たちにぶつけてしまった。

「最悪」

 自分はなんて愚かで、惨めで、最低な人間なんだろう。結局抑え込めていないし、口に出してしまった。言葉にしてしまった。
 薫風を頬に感じながら、フェンスにもたれる。目の前には、住み慣れた小さな街が広がっていた。

「……消えたい」

 独りごちる。今なら、誰もいない。誰も見ていない。本音を吐き出したって、いいだろう。"闇アピ"なんて言葉で否定的に片付けられてしまうようなこの思いも、胸の中に生まれているのは事実。包み隠さず、出す場所だって大切だ。

 死にたいわけじゃない。
 けれどふと、ここじゃない、どこかに行ってしまいたい。時間という概念が存在しない、永遠に時間が流れる、時が止まった世界があるのなら、そこに逃げてしまいたいって。そう、思う時がある。

 将来のこととか、友達のこととか、親のこととか。周りの人のこととか、自分のこととか。そういうものを考えなくても済む世界に行けたのなら、どんなにいいだろう、と思った。

 それがたとえ誰もいない、一人だけの世界だったとしても。スマホやテレビのない、世界だったとしても。

 澄み渡る天色(あまいろ)の空。ふわりと浮かぶ白い雲。深緑の木、咲き誇る真紅の花。
 そして、青い────海。

 広大な自然が広がる場所であるのなら。わたしはそれ以外、何もいらない。

「ははっ」

 そんな夢物語に、思わず自嘲的な笑みが洩れる。ありもしない、叶いもしない、そんな夢をみているのだ、わたしは。

「……弱いなあ、わたし」

 言葉にして輪郭を持たせると、余計に胸の奥に刺さるものがあった。それでも、言わずにはいられなかった。自分を罵倒する言葉をつらつらと並べていく。

「惨めだな。何やっても上手くいかない。結局人のこと傷つけて、生きてる価値あるの?」

 唇から溢れるものは、わたしが言われたくない言葉だ。人に言われたくないからこそ、自分で口にすることで、どん底まで自らを追い込む。その方が、はるかに楽だった。人から言われるよりも、ずっと。

「どうして……はやく、かえってきてよ」

 ふと、抑えていた感情が溢れ出す。
 寂しい。虚しい。────会いたい。
 わたしの背を撫でて「大丈夫だよ」って言いにきてよ。昔みたいにわたしを抱きしめてよ。何年経っても、やっぱりわたしは慣れることなんてできない。
 あなたがいない世界で生きていくことが、こんなにもつらいなんて。

 わたしはこんなにも弱くて、脆くて、すぐに壊れてしまうから。絶対にあなたがいないとだめだったのに、どうして消えてしまったの。

「───…馬鹿っ……」

 どうして大切なものはいつも、わたしの前からなくなってしまうのだろう。

(それは、違う)

 勝手に被害者面するな、ともう一人の自分が叫んでいる。つうと頬を伝う一筋がアスファルトに零れると同時に、ははっ、とまた乾いた笑いが洩れた。『なくなってしまう』なんて、それじゃあわたしは可哀想な被害者だ。

(正確には『なくした』でしょう、自分自身で)

 目だけを動かして空を見上げる。今日の空は灰色の雲で覆われていて、まるで惨めなわたしを戒めているようだった。

「……ごめんね」

 そんな呟きはきっとあなたには届かない。わたしはこれからも自分が犯した罪を背負って生きていかなければならない。だって、正真正銘。

『いなくなっちゃえばいいんだ!』

 一瞬の感情のせいで。言葉という刃物のせいで。
 あなたを殺した(・・・)のは────わたしなのだから。