「成瀬。ここの書類作成がきちんとできてないんだけど」
「え、わたしはちゃんとしましたよ」
「いや、成瀬はできているかもしれないけどな。この班のリーダーは成瀬なんだから、できていないところはリーダーの成瀬にしっかりまとめてもらわないと困るんだよ」
いかにも正論だと言ったように書類を差し出す担任の顔を見上げる。顎に生えている髭が視界に入り、なんだか不快な気分になった。理不尽な言動で生徒を叱りつける彼は、当然生徒からの人気は底をついている。じっと見ていると、先生は困ったように眉を寄せて、大きなため息をついた。
「まったく……成瀬には期待してるんだ。問題児が多いグループで大変だと思うが、まあ上手くやってくれよ」
書類を押し付けるようにして、「あー、忙しい忙しい」とわざとらしく呟きながら、先生は足早に教室を出ていった。
大人はずるい、と思う。どうしたって、仕事という壁を盾にされたら、それ以上踏み込んではいけなくなってしまう。素直に頷くしかなくなってしまう。そんなの卑怯だ。
(わたしも忙しいんですよ、先生。決して暇なわけではないんです)
そう言えたら、どんなに楽か。
結局は引き受けるしかない自分の弱さが悔しい。
「まあ上手くやってくれよ……か」
わたしだって、好きでこのメンバーになったわけじゃない。問題児と呼ばれるような男子とグループを一緒にしたのは先生じゃないか。みんなの意見も聞かず、一人で勝手にグループを決めてしまったのは先生なのに。
頭の中で毒を吐きつつ、一人取り残されたわたしは息を吐いて書類に視線を落とした。
「なにこれ、全然できてない……」
もし、提出できるレベルを五と仮定するならば、この書類の完成度はニだ。半分にすら到達していない。提出期限は明日だというのに、この記事の分担である男子たちは、丸投げしたまま帰ってしまったり、部活に行ってしまったようだった。
そのうちの数人はおそらく部活中だと思うので、今からでも持っていけば多分間に合う。けれど、部活中のところに乗り込む勇気も、そんなことをしてまでお願いする気力も、わたしにはなかった。もし、明日になってやらずに持って来られては堪らない。あの男子たちは平気でやりかねない。それくらい、彼らへの信頼度は底をついていた。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
こんなことなら、女子組がもう少し多く受け持つべきだった。そうすれば、容量良く進められたというのに。もっと計画性を持ってできたはずなのに。なのに、彼らはそれをぶち壊した。そしてきっと悪びれもせず、明日もふらふらと学校に来るのだろう。
そう思うと、腹が立って仕方がなかった。どうして真面目にやっている人が、こんな役を背負わなければならないのだろう。憤りを抑えるように目を閉じると、先生の言葉が蘇ってくる。
『成瀬には期待してるんだ』
期待? ……冗談じゃない。思い返すたび反吐が出る。わたしは何でも屋じゃない。これから書かなければならない量を考えただけでも頭痛がしてくるようだ。
それも、たった一人で、たった一日で。
完全に不可能ではない量ではあるものの、随分と時間がかかってしまうことは目に見えていた。頑張れば、きっと今日中に終わる。帰ってから取りかかっても、頑張り次第で二時間あれば終わるだろう。それでも、自分の時間を彼らのために使うのは、なんだか癪に触るものだ。どうして、と思わずにはいられない。
悪いのは明らかに男子なのに、どうして先生は彼らには何も言わず、わたしに押し付けるのだろう。責任は彼らにあって、わたしにはないはずなのに。
……リーダーだから。
そんな理由だけで、全ての責任をわたしが負わなければならない。それが、とてつもなく悔しかった。
こうして『真面目だから』『しっかりしているから』という理由だけで重荷を背負わされるリーダーは、いったい何の利益を得られるのだろう。誰もが当然の如く仕事を押し付けて、まるでわたしが快く受け入れているかのように、嫌な仕事をさせられる。
学校では『人間は誰もが平等だ』なんて言うけれど、果たしてそれは本当だろうか。平等であるならば、リーダーなんていらない。責任を負う役割なんて、誰一人としていらないのだ。
「真面目」や「しっかり者」の判断基準はいったいなんなのだろう。
わたしだってみんなと同じようにまとめ役なんてしたくないし、課題だって提出するのは面倒くさいと思う。先生にいちいち笑顔で接するのも疲れるし、はやく家に帰って好きなことをしたい。
それでも、投げ出さずにやっているだけだ。
鉛のような感情が、ふと口から溢れる。
「好きでやってるわけじゃないのに……」
悲しい、むなしい、息苦しい。
目を瞑って、ふ、と息を吐き出す。
────抑えて、おさえて、見せないで。
出しちゃだめだ。自分のためにも、周りのためにも。わたしの言葉は、みんなを不幸にするから。いくら思っても、それを言の葉にのせてはならない。
心の中で唱えて、己を戒める。
深呼吸をしたら、それでおしまい。
机の上に書類を置いて、個人ロッカーに向かう。学級委員の仕事があって、鞄の準備がまだできていなかったのだ。クラスメイトたちはとっくに帰宅したり、部活に行ってしまったため、教室にはわたしだけが一人取り残されているみたいだ。
黙々とロッカーから鞄と資料をとって、再び席に着く。引き出しの中にしまったままの教科書類をがさっと取り出すと、ずしりと重かった。
窓に視線を遣ると、わたしの沈んだ気持ちには似つかわしくない、真っ青な空が広がっていた。雲一つなく、美術に疎いわたしが見る限りでは一色で染められた空。けれどきっと、この空は一色じゃなくて、少しずつ変化しながら広がっているのだろう。
引き寄せられるように窓に近寄って、その窓を開ける。その瞬間、あたたかな春風がふわりと入ってきて、髪の毛が揺れた。
「はぁ……」
ため息がこぼれ落ちる。
だめだ。新学期だというのに、ちっとも楽しくないし、むしろ疲労が半端じゃない。
窓から少し身を乗り出してグラウンドに視線を遣ると、野球部が部活をしているのが小さく見えた。野球のルールはいまいちよく分からないけれど、ボールを投げたり、バットで打ったり、塁に向かって走ったりするのでものすごく大変なスポーツであることは理解している。
もう少し手前に視線を遣ると、そこでは陸上部がトレーニングをしていた。後輩らしき女の子に、クラスメイトの河野さんが笑顔で何やら話しかけている。
そうか、わたしたちはもう先輩なのだ。
改めて実感する。初々しく入学したあの日から月日はあっという間に流れ、わたしは今や新入生を迎える在校生の一人となっているのだ。最近、時の流れが驚くほど早い。などと、現役高校生である現在ですでに思っている時点で、将来が心配になってくる。
『お前、俺のこと好きになるよ』
その途端、脳内でリフレインする言葉に、慌てて頭を振った。入学式を思い出すたび、こうして流れてくる記憶。声も、表情も、空気の硬さも、瞳の奥の柔らかさも。すべてがあのときと同じように蘇ってくる。
「……っ」
最悪だ。忘れようとしていたのに、また思い出してしまった。窓を閉めて、ガチャリと固く鍵をかける。蘇る記憶にも蓋をして、頭の中で鍵をかけた。
(部活、行かないと)
部活の存在を思い出し、どんよりと気分が落ち込む。怒りやらなんやらですっかり忘れていたけれど、今日は普通に部活の日だった。時計を見ると、開始時刻をとっくに過ぎている。完全な遅刻だった。
────もういっそ、帰ってしまおうか。
そんなずるい考えが浮かび、目を瞑って天井を仰いだ。大きなため息をゆっくりと吐きだす。ため息を吐くと幸せが逃げる、なんて言うけれど、もとよりわたしに逃がせるほどの幸せなどない。
いつからわたしはこんなふうに思ってしまうようになったのだろう。もともとバスケは嫌いじゃなかったし、サボるだとかは基本できない質だった。それなのに、今では引退を心待ちにしている自分がいる。いかに楽をして部活を終えようかと考えている自分がいる。
机の上に積み重ねた教科書を鞄に詰める。ただひたすら、無心の作業だった。
こうしてたくさんのものを持って帰るのは、家で予習復習をするためだ。
授業で分からなくならないように。小テストで良い点がとれるように。そんな思いで日々怠らず続けている努力の甲斐あってか、大きく失敗はしていない。なんとか授業も理解できている。
ただ、油断は禁物。二年生での学習定着が受験の合否を大きく分けるのだと、塾の先生が口を酸っぱくして言っているから。
「……何してんだよ、こんなとこで」
鞄に視線を落としていると、ふいに耳に届いた言葉にびくりと肩が跳ねる。心臓が揺らされたような感覚だった。
そんな、嘘でしょ。
最初は聞き間違いかと思った。けれど、聞き間違えるはずがなかった。一年間ずっととなりで聞いてきた声を、今さら間違うはずがなかった。
「……星野」
そろりと視線を上げると、教室の戸のそばで眉を寄せている星野と目が合った。彼はまっすぐにわたしを見据えたまま、目を逸らさない。
「お前、なにしてんの」
「先生に、頼まれごとしてたから遅くなって。今は鞄の準備、かな」
何かが詰まってしまったように声が出しづらい。それでもなんとか絞り出して小さく答えると「あっそ」と興味のなさそうな声が返ってきた。自分から訊いてきたくせに、呑気なやつだ。
ため息を吐きそうになるけれど、なんとか堪える。
そんなわたしを一瞥もせずに、星野は黙ってわたしの前の席に座った。何も言わないで、ただ窓の外を眺めている。彼の行動が読めなくて、わたしはやや困惑しながら訊ねた。
「どうしたの、星野」
「……別に」
そっけなく返される。突き放す口調というよりは、これが彼の普通なのだ。たいていのことには興味がない。そして、自分のことにもあまり踏み込まれたくなさそうな、牽制をするような、不思議な空気を纏っている。
少し近づけたと思えば、スッと離される。逆に離れようとすると、いつのまにか前よりも近づいている不思議な距離感のなかでわたしたちは過ごしている。仲がいいのか悪いのか分からない。苦手だと思うことはあるけれど、なぜか嫌いにはなれないからだ。
(好き……っていうのも、違うけど)
脳内で一人会話を繰り広げつつ、ふと彼の服装に目を遣ると、彼が部活のTシャツを着ていることに気がついた。
「部活……じゃないの?」
小さく問いかけてみると、真っ黒な髪を揺らして、くるりと星野は振り返った。カラコンでもつけているのかと疑いたくなるような色素の薄い瞳が、まっすぐにわたしを見ている。途端に動悸がして、呼吸が苦しくなって、思わずその瞳から逃げるように目を逸らした。
「それは、お前もだろ」
クスリと悪戯っぽく笑った星野が、椅子にもたれて息を吐いた。ふっと空気が緩むのを感じる。
どことなく気まずい空気が和らいだことに安堵し、ロッカーからとってきた資料本を持ち上げた時だった。ひらり、と書類の何枚かが床に落ちた。慌てて拾おうとするけれど、それより先に星野が手を伸ばしてすばやくそれを拾う。
「なんだよ、これ」
「それは……」
言い淀んでいると、再び射抜くような視線が向けられた。ドキリと心臓が大きく鼓動して、額に汗が滲む。視線の鋭さだけで、責められているような気持ちになった。嘘をついても、すべてお見通しだと。海の色をした瞳が、そう言っている気がした。
言ってしまおうか。心の内をすべて話してしまおうか。
家に帰って一人でやるのは、苦しい。わたしばっかりがやらなきゃいけないなんて、嫌だ。
ふと口を開きかけて、慌てて固く口を結ぶ。
きっと、話し出したら止まらなくなってしまう。すべて、声に出してしまう。もし、取り返しがつかないことになったら遅いのだ。
──── 過ちを、繰り返すわけにはいかない。
「ほら。この書類、明日が締め切りでしょ。ちょっと間に合わなくて」
結局、言えなかった。脳内に潜むもう一人の自分が、言ってはいけないと叫んでいた。刺すようなまなざしから逃げるように、視線を床に落とす。
けれど、ドン! と音を立てた星野に、びくりと肩を震わせながら顔を上げる。そのまま引きつるような笑みを浮かべて、何事もなかったようにふるまおうとした。
(大丈夫。わたしはちゃんと、笑えてる)
……笑えている、はずだ。
何度も何度も暗示をかけるように、ひたすら繰り返す。
星野はわたしを真正面からまっすぐに見つめている。まるで嘘を見抜くかのように────否。
「嘘つくんじゃねーよ」
あっさり見抜かれてしまった。どうしよう、と焦る気持ちとは裏腹に、淡い嬉しさが心の中に生まれたような気がした。
彼はいつだって、わたしの嘘を見抜いてくる。大抵はそれによって損をすることが多い。けれどたまに、本当にごくわずかではあるけれど、気付いてくれて嬉しいと感じる時がある。
彼はこうして唯一、わたしの"無理"に気付いてくれる存在だった。
書類の文字を目でなぞった星野は、わたしの机に書類を置いて「シャーペン」と一言呟いた。
「……え」
「もたもたしてねえで、はやく貸せよ」
差し出したシャーペンをひったくるようにして受け取った星野は、カチカチと数回のノックの後、何かを書き始めた。驚いて凝視していると、紙の上にすらすらと文字が書き込まれていく。あっという間に達筆な美文字が並んでいった。
「……星野、どうして」
星野は一度視線を上げて、ちらりとわたしを見た。それからまた紙に視線を落として、黙々と文字を書き続ける。
(もしかして、手伝ってくれるの?)
心の中で思うだけで、口には出さない。
きっと、これ以上訊けば鬱陶しいと思われてしまう。最悪の場合、じゃあやめる、なんて言って放りだしてしまうかもしれない。そんなことは絶対に避けたかった。無駄に一年間一緒にいたため、大まかな星野の性格は分かってきたつもりだ。
「お前もやれよ。間に合わねえんだろ」
やや荒い口調の星野に促されて、ペンケースから水色のシャーペンを取りだす。
「どうせ発表テーマ同じだし。そこにある資料使って書けばいいんだろ」
確認されて小さく頷くと、星野はそれに対して反応せず、また視線を紙に落とした。
(やっぱり、手伝ってくれるんだ。部活中のはずなのに、わたしのために、きてくれた?)
天地がひっくり返ってもありえないようなことに思考が突き進んでいく。まさかそんなわけない、と脳内で否定を繰り返し、シャーペンを強く握った。
本当はこれから部活に行くつもりだったけれど、こうなったら予定変更だ。仕上げてから部活に行くしかない。星野が原稿を作成してくれているようなので、わたしはポスターの作成をしよう。
たくさん文字を書かないといけない原稿を任せてしまって大丈夫だろうかと思いつつ、なんだかんだいって、本人が選んでやっているのでまあ良いのだろうという考えに至る。
太陽の光が差す中、二人で黙々と作業をすること三十分程度。カチ、カチと静かな教室に時計の秒針の音が、やけに大きく響いている。
その間わたしは定規で線を引きながら、彼と過ごした一年間のことをぼんやりと思い返していた。
入学式翌日の変な発言のあと、わたしはそれなりに彼を警戒していた。だからあまり近づかないようにしていたのだけれど、向こうはまるで懲りずに、熱心に絡んできた。近づくなオーラをそれとなく出していても、まったく気遣うようすなどなく、いつも裸足で踏み込んでくる。
彼は土足じゃない。いつだって、正直でまっさらな裸足で、わたしを連れ出そうとするのだ。
それなのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
そして気づけばわたしのほうが、彼を目で追うようになった。わたしから話しかけにいくことも増え、一緒に帰ったこともあった。友情の延長。そんなふうに、わたしは彼との関係性を捉えていた。
不思議だけれど、恋愛とは少し違うような気がする。彼のことを素敵だと思う時もあれば、苦手だと感じる時もある。好きと嫌い、その狭間に立っているような人だった。
そう思い込んで自分を納得させないといけない理由が、わたしにはあったから。
(違う。星野は、そんなんじゃ)
ぎゅっとシャーペンを握る。同じように、心臓がキュウッと縮むような気がした。そして、
「────なあ、栞」
ドクッ、と大きな音を立てる。いいや、違う。心臓だけではなくて、身体中に鼓動が響き渡るような感覚がした。ふわふわとした感覚に包まれ、頭も心臓もどうにかなりそうだった。
星野はたまに、わたしを名前で呼ぶ。単なる彼の気分なのだろうけれど、それでもわたしの意識はそのたびに、彼に引っ張られてしまう。
彼がわたしを名前で呼ぶときは、彼が別の誰かに変わる、合図だから。
「な、なに」
「今日の部活は、サボろうぜ」
にっ、と笑顔が向けられる。これ以上見ていると何かが起こりそうな気がして、思わず目を背けた。視界からその笑みを追いやり、刺々しい自分を呼び起こす。
「サボるって……この前部活に対して熱い思いを語ってなかったっけ。この間、怒ってきたじゃない」
「それはそれ、これはこれ。そりゃあ、部活の時はいつだって本気だよ。やってることに手は抜かない。でも、たまには休憩だって必要だろ?」
星野らしいと言えば星野らしい考えだった。『やると決めたら全力でやる』というのが、彼のモットーらしい。適度に休憩をしながら、楽しくバスケをしているのだ。ただ、決めるときは決めるのだから、そこが彼の魅力であり憎らしい部分でもある。
シャーペンを走らせる星野の手元を見つめる。細くて長い指。わずかに浮き出た血管。ふと男性らしさを意識してしまって、どうしたらいいか分からなくなった。
視線を彷徨わせていると、再び「栞」と名前を呼ばれた。慌てて返事をしたけれど、思わず声がひっくり返ってしまい、顔に熱が集まる。うつむいたわたしに、小さな笑いが降ってきた。
「お前、なに緊張してんの」
「し、してない。星野相手に、緊張なんてするわけないじゃん」
「あっそ」
放るように言いながら、星野はまだクスクスと笑っている。囁くように笑うのは、普段教室で無表情を極めている星野には見られないことで、なんだかおかしな気持ちになる。彼がわたしのことを名前で呼ぶのも、こんな顔をするのも、ふたりきりの時だけだから。
いったい何がおかしいんだか。もしかして、この嘘すら見抜かれている?
不安な気持ちを紛らわすために、おろしている髪を手で梳いた。気持ちを落ち着かせるように、何度も髪に指を通す。
「お前それ、癖だよな」
びくっと身体が跳ねた。星野は海色の瞳でわたしの動作をじっと見つめ、言い放つ。薄い唇がゆるりと綺麗な三日月型をつくり、星野が浮かべた艶っぽい表情に、わたしは思わず息を呑んだ。
「え……?」
「髪触るの、お前の癖」
自分ではこの動作が癖だという認識はなかったけれど、言われてみれば癖なのかもしれない。
不安なこと、悲しいこと、嬉しいこと、嫌なこと。ふと感情が動いたとき、無意識のうちに髪を触っているのかもしれない、と思った。
ふっと真剣な表情になった星野は、薄くて形の良い唇をわずかに震わせる。
「────お前が俺に、最初に言った言葉を覚えてる?」
名前を呼んだのは、きっとこれを訊くためだったのだろう。突然、空気がガラッと変わって、星野が星野じゃなくなった。
星野がまとう空気が一気に変わって、いつもの星野を見失う。
わたしは、この雰囲気を纏う星野が、苦手だ。
明確な理由を問われれば「なんとなく」と曖昧に答えるしかないけれど、とにかく苦手だった。すべてを見抜かれてしまうような気がして。彼がわたしにしか見せない顔で、ただそこにいる。
まっすぐに向けられる、いっさい澱みのない瞳を見つめ返す。日差しを受けて煌めく瞳は、どこまでも澄んでいた。
「……『あの、わたしに何か用ですか』だっけ」
出会いというものは時が経てばだいたい薄れていくものだけど、わたしと星野の場合は違う。
はじまりが、強すぎる。
あれだけ強く心に残る出会い方は、これまでもこの先もないと思うくらいだった。
だから、忘れたくても忘れられない。わたしはできるだけ思い出したくないし、記憶から消去してしまいたい。けれど、気を緩めるとふとしたタイミングで頭の中に浮かんできてしまう。
少しだけトーンを落として答えると、星野は瞬きせずこちらを見つめてから「ふーん」と曖昧な相槌をしてシャーペンを置いた。
どうしてそんなこと訊いたのだろう。特に興味がないなら、いちいち思い出させないでほしい。こっちは完全に忘れ去りたいと思っているのに。
「終わり。お前は? まだやってんの」
「え」
原稿に視線を落とすと、もう完成していた。紙を手に取って、文字を目でなぞる。文章も、字も本当に綺麗で、完璧な原稿だった。思わず感嘆の声が洩れる。
「すごっ。本当に終わってる……」
「なんで疑ってんだよ」
ふはっ、と笑う星野は、シャーペンをわたしのペンケースに入れると、頬杖をついた。身体の向きは変えずに、わたしのほうを向いたままで。
「お前もはやくやってしまえよ」
うん、と頷いてペンを走らせる。けれど、手元をじっと見られていて、なんだか落ち着かない。ドクン、ドクンとうるさいくらいに、鼓動が大きく鳴り響いている。
星野はわたしに口出しをすることはなく、黙ってポスターと窓の外へと視線を交互に流している。彼の目が動くたび、ともなって揺れるまつげがすごく長かった。
妙な緊張の中、作業すること十数分。
「……できた」
なんとか書き上げて、ふうっと息を吐く。ペンを置いた途端に、どっと安堵が押し寄せてきた。二人での作業だったから、一人でやるよりも大幅な短縮ができた。それは、文才に恵まれた星野が原稿を受け持ってくれたからというのが大きい気がする。
これで、明日は安心だ。そう思いながら書類をまとめていたときだった。
「……これ、お前の担当じゃないんだろ」
「えっ」
ひら、と書類の一枚を手に取ってふと呟いた星野は、「どうせ押し付けられたんだろ」と小さくため息をついた。唐突に見破ってくるものだから、驚きで目が落ちそうになる。ハッと目を見開いて星野を見つめると、呆れたように眉を寄せた星野が、苛立ったように言葉を吐き出した。
「なんでいつもお前はさ……」
強く言い返せないんだ、本当に口がついてるのか? そんなふうに言われるような気がして、バッと顔を下げる。身構えないと耐えられないようなことを言われてしまうような気がした。
けれど、ふ、とひとつ息を吐いた星野は、そのままのトーンでおだやかに告げた。
「書類の量結構多いんだから、一人で溜め込もうとするなよ」
柔らかい口調に驚いて顔を上げると、そこにあったのはひどく優しい眼差し。いつも鋭くて冷めた視線を送ってくる彼とは似ても似つかないような瞳の色だった。
────これだから、苦手なんだ。
星野は星野らしく、横暴な振る舞いで、わたしを嘲り笑って、馬鹿にしていればいいのに。
こうしてふと優しい顔をするから。
苦手なのに、嫌いになれない。気を抜くと、変な感情が生まれそうになってしまい、自分が間違った方に流れないように、精一杯阻止しなければならなくなるのだ。
「だって、先生に頼まれたから……」
視線から逃げるように顔を背けて、ぼそりと告げる。言い訳をしておけば、いつものように呆れた彼が興味をなくすと思った。それでも、少し声に苛立ちを混ぜた星野は、言葉を続ける。
「無理なことは無理って言えよ」
「言えたら、苦労してないよ」
最初から、星野の言うようにきっぱりと断ることができたなら。男子たちに、強く言う力がわたしにあったのなら。きっと、こんなことにはならなかっただろう。
それはわたしがいちばんわかっている。だけどいくら分かっていても、実際に行動できるかどうかは別問題だ。
「だったら」
星野はふと、そこで言葉を切った。おのずと視線が上がり、瞳に星野が映る。
澄んだ切長の瞳。スッと通った鼻筋。薄くて潤いのある唇。ニキビ知らずの白い肌。
その美しさに、思わず息を呑んだ。あまりに儚くて。消えてしまいそうで。
悔しくなるほどの美貌をじっと見つめる。
時が止まった────そんな気がした。
時計の秒針だけが響く、ふたりきりの教室で。はっきりと、わたしの耳に届いた言葉。
「──── 俺を、頼れよ」
向けられる瞳は、濁りなんてひとつもなく、ただまっすぐで。彼が持つ光はなんて綺麗なんだろう、と思った。
「困ったときは言え。一人で溜め込むな。お前には……俺がいる」
分かったか、と彼らしい乱暴な口調で念を押されてしまえば、素直に頷くしかなかった。先ほどの言葉が繰り返し頭の中で再生される。瞳の熱も、声の柔らかさも、空気の硬さも。きっとまたわたしは、忘れることができないのだろう。
「よし。じゃ、帰るか」
「え、まだ鞄の準備が……」
「おっせーな。置いてくぞ」
その言い方だと、彼の中ではどうやら一緒に帰ることになっているらしい。たしか部活をサボると言っていたっけ、と思い出し、その誘惑するような響きに鼓動が速まっていく。
「ま、待って……!」
ガタ、と椅子を鳴らして立ち上がった彼は、後ろを振り返ることなく教室を出ていく。
わたしは急いで鞄に残りの物を詰め、慌ててその背中を追った。
◇
ふと、わたしたちの関係性はなんだろうって考えたときに。
友達、は少し距離が近すぎて。他人、は距離がありすぎて。
恋人、ではないから、きっと友達と他人の間の関係なんだろうな、と思う。
友達以上恋人未満なんて言葉があるけれど、わたしたちは他人以上友達未満……いや、他人以上恋人未満の方がしっくりくるかもしれない、なんて。当たり前のようなことをぼんやりと思う。それくらい、わたしたちの関係は常に変化していて、広い範囲を彷徨っているから。
明確にこれ、と言える、ピッタリの表現が見つからない。
(それでも下校を共にしてしまうくらいには、それなりに気を許しているんだよね)
彼と一緒に下校するのは、そんなに嫌ではない。むしろ、この独特な空気感が心地よかったりする。
そんなことを考えて、悶々としながら歩く。
「……なんつー顔してんだよ」
わたしの顔を覗き込んだ彼が、訝しげに眉を寄せた。なんつー顔、って。わたしはいったいどんな顔をしているんだろう。それを知っているのは、正真正銘、星野だけだ。
ぼんやりと考えながら、視線を前に戻して、少しだけ上を向く。
澄み渡る青空、少し広い道路、左右に生い茂る緑。目に映るのは、いつもと変わらない田舎の風景。
あたたかい風が頬を撫でて通り過ぎてゆく。今日の風は、なぜだかいつもより心地が良い。
「……ねえ、わたしたちって」
ふと声を出すと、わたしに合わせて、星野の足もピタリと止まる。顔を向けた星野と、まっすぐに目が合った。
吸い込まれそうな瞳は透き通っていて、ひどく神秘的だった。それでいて、一度捉えたら離さないような強さを奥に秘めているような。人を惹きつける、不思議な瞳。
花を、空を、雨を、雪を綺麗だと感じるように。
……星野の瞳もまた、綺麗だ。
言葉を続けようと思ったけれど、続けられなかった。口を開いて、訊こうと思ったけれど、訊けなかった。
────関係性に名前をつける必要なんて、果たしてあるだろうか。
そう思うと同時に、多分わたしは怖かったのだ。
明確に、言葉にしてしまうのが。彼から返ってくる答えを聞くのが。
「……なんでもない」
ふるふると首を横に振って、また歩き出す。となりで星野が「相変わらずだな」と可笑しそうに笑った。
「それにしても、やっぱりなんか変な感じ」
「何がだよ」
「こうして星野と帰ってること」
すっ、と遠くに視線を流した星野は「確かにな」と呟いた。どこまでも穏やかで、静かで、あたたかい空気。沈黙の中でも、不思議と気まずさはなかった。
部活を休んで、こうして肩を並べて帰っている。
────紛れもなく、星野とだ。
鬱陶しいと思うことだってあるし、煩わしいと思ってしまうことだってある。喧嘩っぽくなってしまうのは事実だし、口数が少なく、時々発せられる言葉に棘があることも知っている。
それでも、他人、と言い切ってしまうことができないのはなぜだろう。その答えを知るために、わたしは彼のとなりに並んでいるのかもしれない。
「沢原、怒ってるかな」
顧問の名前を出して、星野が天を仰ぐ。わたしも視線を上にしながら、鬼の形相で仁王立ちする顧問の姿を思い浮かべた。
「そりゃ、無断で休んでるんだもん。怒ってるでしょ」
「俺は一応顔出して伝えてきたから、無断じゃねーし」
のんびりと歩きながら、星野が告げた。彼はなんの躊躇いもなく、おだかやなこの時間に爆弾を投下したのだ。
聞き捨てならない台詞に、ピタッと足を止める。
「え、あんたちゃんと言ってきたの?」
「おう」
「じゃあ、無断欠席はわたしだけ?」
さあっと血の気が引いていくわたしに飄々とうなずいた彼は、躊躇なくずんずんと先へ進んでいってしまう。堂々としていて、サボりを大したこととは思っていないようすだった。それよりも、無断欠席だと分かって焦るわたしを、どこか嘲笑うような。
「ちょ、星野……」
声にならない声が消えていく。
背中を向けて、前へ前へと歩く星野は、まるでわたしの声など聞こえていないようだった。
さっきまで、罪の意識は軽かったのに。
自分と同じ状況の人が数人いるだけで、まるで罪が軽くなったかのような錯覚を起こす。やってしまったことは、軽くなることも、なくなることもないのに。それなのに、悪いことをしたのが自分だけだと気づくと、そこでようやく自分がしてしまったことの重さを痛感する。
「わたし、やっぱり戻る」
こんなところにいてはだめだ。すぐに戻らないと。戻ったところで、きっともう遅いと思うけれど。
それでも、衝撃の事実を知った手前、罪悪感を感じずにはいられなかった。
(いや、違う)
自身の言い訳を否定する。
最初から罪悪感は感じていたのだ。それでも、一緒に帰ってみたかった、なんて。きっと、彼の瞳に囚われたせいで、感覚が麻痺してしまったのだと思う。
そう、思うことにする。
くるりと踵を返すと、後ろから「成瀬!」とわたしを呼ぶ声が聞こえた。
「戻らなきゃいけないの。星野はこのまま帰っていいから」
「……違う違う。今の、嘘だから」
「嘘?」
眉を寄せて振り返ると、したり顔の星野と目が合った。彼は悪戯っぽく白い歯を見せて笑い、手招きをしている。
「嘘って、どういうこと?」
「お前のことも俺のことも、ちゃんと顧問に言ってきました。だから、無断欠席ではありません」
「……え、いつ」
「教室に残ってるお前に会う前」
初めからこうなることはお見通しだったかのように、ふはっと笑みをこぼす星野の顔をじっと見つめる。
その顔を見ると、安心したような、それでいて腹立たしいような、複雑な感情が入り混じる。顧問に部活の欠席を伝えていた星野をさすがだと思うと同時に、無断欠席ではないと分かっていた上でわたしをからかっていたのかと怒りたくもなってくる。
やけにのんびりしていると思っていたのだ。
ため息を吐くと、空を仰いだ星野は「まー、サボりには変わりねえけどな」と呟いた。
その顔からは焦りや罪悪感は微塵も感じられない。わたしはそれでも、"サボり"というなんとも学生らしい言葉に淡い憧れのようなものを抱きながら、それをしている今、少々後悔が芽生えていた。誰かに見られたらどうしよう、と心の中ではビクビクして、怯えて。きっと、勘のいい星野には気付かれている。
彼はそれを見て、いったいどんな気持ちだったのか。となりで歩く女が、罪悪感に苛まれ、渋い顔をしているのだ。さぞかし面白かったことだろう。
「うわー。あんた、そういうとこだよ。残念なところ」
「指摘されたところ以外は完璧ってことか。遠回しに褒めてる?」
「いったいどうやったらそんな解釈になるの」
つかつかと歩み寄って、その脇腹を軽く小突く。
「いって!」
「あんたが馬鹿なこというからよ」
「暴行罪で訴えるぞ」
いつものように軽口を叩きながら、再び彼のとなりに並ぶ。視線を絡ませながら、互いに歯を見せて大きく笑った。めいっぱいの笑顔。学校という囲いのなかでは浮かべられない、そんな彼だけに見せる表情。
(ああ、やっぱりここは居心地がいい)
どんなに抗おうとしても、結局はこの結論にたどり着く。
声に、言葉に、行動に出さなければ、いくら心の中で思っていても許されるから。とどめておけば、表面上に出さなければ、大丈夫。
無理やり自分を納得させて、となりを歩く星野を見上げる。
「星野はさ、いつからバスケやってるの?」
ふと気になって訊いてみた。
あれほどの実力を持っているのであれば、歴もそれなりに長いだろうから。単純に、彼に対する興味から生まれた質問だった。
「……小四の頃」
「すご。七年間」
「別にすごかねえだろ。もっと小せえ頃からやってる奴なんてたくさんいる」
「ううん。十分すごいよ」
わたしがバスケを始めたのは、中学二年生の頃だ。それも、自分から望んでではなく、人数が足りないからとたまたま兼部させられただけにすぎない。結果としてチームに求められるようになって、最初入っていた茶道部をやめてバスケ部に転部した。
茶道からバスケ。
イメージだけで言えば真逆とも言えるようなまさかの転部に同級生は驚いていたけれど、正直どうでもよかった。茶道部だって、入りたいけど一人では勇気がなくて入れない、と言った友人に頼まれてなんとなく入部した。だから、辞めるときもたいして何も感じなかった。
ただ、ひとつだけ違うところがあるとすれば。昔から、バスケには興味があったということ。
それはきっと、母の影響。
『しおり。すごいね、かっこいいね』
テレビを食い入るように見つめるわたしに、柔らかな笑みを浮かべる母がいたから────。
「お前は? なんのためにバスケをやってんだよ」
そんな星野の言葉に、ぐんと意識が戻された。星野からの質問を頭の中で反芻する。
……なんのため? そう訊かれると、上手く答えることができない。むしろわたしが訊きたいくらいだ。
────わたしは、なんのためにバスケをやっているのだろう。
黙り込むわたしに、星野がいつものように、ふ、と息を吐いた。なかなか答えが出てこないわたしに苛立っているのだろうか。おそるおそる視線を移すと、淡々とした表情でわたしを見ていて、また不思議な気持ちになる。
「単純に好きだから、とかじゃねえのかよ」
「……分からない」
「あ?」
「好きかどうか、分からない」
はっきりと告げた。これは紛れもないわたしの本心だった。
嫌い、と言えば嘘になるけれど、好きかと訊かれて「当然」とうなずけるほどではなかった。
「なんだよそれ。ここまで続けてんのに?」
「だって、辞める理由がないから……」
いつだってわたしは、辞める理由を探している。続けたい理由ではなく辞める理由を探して、ずっとずっと、自分と周囲を騙して生きている。
なんだか居心地が悪くて、話題を変えようと星野に話を振る。
「星野は、どうなの?」
なんだか今日は、質問してばかりだ。星野がいつもより素直に答えてくれるから、それに甘えてしまっているのかもしれない。
「俺は────」
星野はまっすぐ前を向いて、その瞳の奥に強い光を宿したように見えた。不思議な瞳が、より一層煌めいて魅力を増す。
ふとこちらを向いた星野と、ばちっ、と目が合う。海色がわたしを映した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
けれど次の瞬間、すっとその色は消えてしまった。あっという間に光がなくなった目を、少し切なげに細める星野。
「お前と同じようなもんだよ」
その言葉だけで、これ以上入ってくるなと、線を引かれたような気がした。
「……ごめん」
反射的に謝ったわたしを見ることないまま、星野は鞄を肩に掛け直した。
「成瀬」
前を向いたまま、星野がわたしを呼ぶ。ドク、と心臓が大きく鼓動した。ただでさえ静寂に包まれていたのに、かすかな風の音さえも聞こえなくなる。そして、ぽつりと告げられた一言。
「────海、行くか」
彼の唇は震えていた。何が彼をここまで深刻な顔にさせるのか、そんなことは分からない。けれど、いつもの勢いのまま、おざなりな返事をしてはいけないということだけは、唐突に理解できた。それくらい、わたしたちを囲む空気は、張り詰めていて、硬い。
目の前にある分かれ道。右に行けば、わたしの家の方角。左に行けば、海がある。出逢った日、屋上から見た海が、広がっているはずだ。
「寄り道」という、どこかワクワクするようなそんな響きに憧れないと言ったら嘘になる。
けれど。
『────なんて、いなくなっちゃえばいいんだ!』
突然、脳内に流れ込んでくる記憶に、思わず頭を抱えた。
さっきまで聞こえなかった風の音が、鳥の声が、虫の声が、まばらにある民家から聞こえてくる声が、堰を切ったように耳に流れ込んでくる。動悸がして、息が荒くなっていく。肩を揺らして、浅い呼吸を繰り返す。
「う……っ」
痛い、苦しい、息ができない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい────。
キーンと耳鳴りがして、激しい頭痛に襲われる。心臓の鼓動が速くなっていき、どっどっと血液が全身を駆け巡っているのが分かった。
忘れてはいけない痛み。ずっと、覚えていなければいけない苦しみ。
「……おい、大丈夫か」
彼にしては焦ったような声が降ってくる。そして、うずくまるわたしの肩にそっと手が置かれた。
「……ほ、しの。ほしのっ────」
無我夢中だった。
ただひとつ思ったことがあるとすれば、たしかな存在がそばにいるという事実を確かめたかったということ。
確実な何かを求めて必死にしがみつくと、やや静止した後、それ以上に強い力で抱きしめられた。ふわ、とどこか懐かしい香りがわたしを包み込む。強引だけれど、それ以上に優しい力だった。
「お願い、どこにもいかないで……っ」
「落ち着け、成瀬」
「星野……ねえ、ほしのっ」
「言ったろ。俺はここにいる。お前の────栞のそばにいるよ」
何度も流れて、頭にこびりついて離れない記憶が再び流れだす。ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。あとからあとから溢れてくる涙は、星野の服を濡らしてしまう。
「ほし、の。ごめ……濡れ、る」
離れようとしても、背中に回った腕により力が込められるだけ。
星野は何も言わず、わたしを決して離さなかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。長くも短くも感じられた時間のあと。
「ほしの……海には、行けない」
ひとしきり流した涙が乾き、そう告げたわたしの頭を。
「分かった」
小さく頷いて、星野はゆっくりと撫でた。
「───…栞ちゃん! 昨日部活来なかったけど、どうしたの!? 大丈夫だった?」
教室に足を踏み入れた途端、わたしに気付いた可奈が駆け寄ってくる。明るめのミルクティーベージュのボブヘアを、今日は綺麗に外ハネにしている彼女。彼女がわたしのそばに来ると同時に、甘い余韻を残すシャボンの香りが鼻腔をついた。
「今日、外ハネなんだ。可愛いね」
そう言うと、彼女は「ありがとう」と目を細めて嬉しそうに口角を上げた。こういう素直なところも、彼女の魅力の一つだと思う。しばらく頬を緩めていた彼女は、突然思い出したように顔を固くした。
「……って、そうじゃなくて! 連絡もくれないし、返信もこないし。すっごく心配したんだからね?」
唇を尖らせる可奈を見て、たしかに連絡してなかったな、と思い出す。
「私嫌われちゃったかと思ったんだから!」
あの後、どうやって家に帰ったのかよく覚えていない。
気付いたら一人で部屋にいて、泣き腫らした目のままベッドに倒れ込んで、そして朝を迎えていた。スマホを構う時間なんてなかったのだ。
けれど、返信がなかなかこなかったら不安にもなる。わたしだって、可奈から返信が戻ってこなかったら、きっと不安になるだろう。嫌われたと思ってしまうかもしれない。
……悪いこと、しちゃったな。
傷つけてしまったという罪悪感が心を支配する。息を吐き出して、不安げに瞳を揺らす存在をぎゅっと抱きしめた。
「可奈のことを嫌うわけないでしょ。でも、返信できなかったのはごめん。それは良くなかったと思う」
素直に謝罪すると、可奈は腕の中で「いいよ」と呟いた。顔を上げた可奈は、花が咲くようなとびきりの笑みを浮かべた。
「事故にあってたりしたらどうしようって、部活中ずっと不安だったんだ。でも、そんなことなくてよかった。私の思い過ごしで、本当によかった」
「ごめん。ちょっと色々あっただけだから」
「……色々?」
眉を寄せた可奈に、曖昧に頷く。一瞬、彼女の顔にふっと影がかかったように見えた。
(まずい。余計なことを言ってしまった)
途端に後悔に襲われる。今、わざわざ意味深な発言をする必要なんてなかったはずだ。それなのに、ふと口をついてしまった言葉は簡単に取り消すことができない。
「それよりさ、可奈。今日のお昼は、中庭で食べない?」
突然の話題転換に、可奈が「え」と目を丸くする。それでも彼女は優しいから、「うん、そうする!」とすぐに快諾してくれた。
「でも、どうして?」
「いつも教室だとつまらないじゃない? たまには景色を変えてみてもいいかもって」
「たしかに。ナイスアイデアだよ、栞ちゃん」
本当は、星野と同じ空間にいる時間を、少しでも減らしたかっただけ。でも、そんなことは可奈に言えるはずもなく。にこにこと笑みを浮かべている可奈を見ると心が鈍く痛むけれど、それさえも自分の中で正当化して、「でしょ?」と無理やり口角を上げた。
『……ほ、しの。ほしのっ────』
『お願い、どこにもいかないで……っ』
昨日の自分が、いったい何をしてしまったのか。夜が明けて、日が昇って。ようやく落ち着いて、あまりの羞恥でどうして良いかわからなくなる。
なんてこと、したんだろう。
勝手にしがみついて、名前を呼んで。大号泣して、挙句の果てには「いかないで」だ。
いったい誰に人生最大の醜態を晒しているんだと、昨日の自分を殴り倒したい気分だ。
『言ったろ。俺はここにいる。お前の────栞のそばにいるよ』
芯のある強い声が、頭の上で響く。思い出した途端、顔に熱が集まっていく。
羞恥とはまた違う意味で。
きっと昨日は、お互いどうかしていたのだ。そもそも、一緒に帰ることになったこと自体が、はじめから大きな間違いで。一瞬で消えてしまう夢のようなものだったのだ。どちらにとっても。たいして気にするようなことではない、そんなもの。
「お、星野!」
そんな声で、視線が教室の戸に引き寄せられる。いつものように、特にセットすることない髪を無造作にかき上げながら、一直線に席に着く星野。一瞬目があったような気がしてドキリとしたけれど、たいして反応を示さないまま着席してしまった。
ほら、やっぱり。星野にとっても、そんなもの。
だから、わたしがいちいち気にする必要なんてない。昨日の出来事はどうせ夢だったのだから。
彼のことだからわざわざ話をしてこないだろうし、わたしだって記憶から消してしまいたいような出来事をいちいち掘り起こしたくもない。
普段なら少し苛立たしく感じてしまう彼の無頓着さも、今日ばかりは逆にありがたかった。
***
「成瀬ちゃん」
昼休み、可奈とともに中庭に向かっている途中で、突然後ろから声をかけられた。振り向いてその姿を認識し、反射的に頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちはっ」
わたしに続くようにして、可奈もペコリと頭を下げた。
「そんなに丁寧にしなくていいのにー。ねえ、麗華?」
「ほんとほんと。気遣わないでいいよ?」
あはは、と笑う彼女たちは、我が女子バスケ部のキャプテン麗華先輩と、副キャプテンの真波先輩。ずっと頭を下げていると「顔あげて」と声が降ってきた。ゆっくりと顔を上げる。
「昨日、部活に来なかったのはどうして?」
あくまで穏やかな口調で、その裏に鋭い棘を潜めて。怖いほどに満面の笑みで、真波先輩が訊ねてくる。
覚悟は、していた。どうせ言われるだろうなと。
それでもせめて部活中だと思っていたのに、よりによってこんな昼休みに。
「今、どれくらい大切な時期か分かってる?」
「……はい」
「私たちはね、もうすぐ引退するの。この夏が終わったら、引退。だから負けるわけにはいかないの。それは分かってるよね?」
「……はい」
夏が終わる。それはすなわち、負けるということ。
もうすぐやってくる夏の大会が、三年生の集大成、引退試合だ。予選、そしてインターハイで勝ち進めなければ、先輩たちは引退する。だから、こんな時期にスタメンのわたしが休んでいる暇などなかった。そんなことは分かっていた。
そしてそれはまた、星野も同じ。でも、彼はきっと大丈夫だろう。先輩からも、後輩からも、顧問の先生からも厚く信頼されているから。
「すみません」
うつむくと、小さく舌打ちが聞こえたような気がした。でもこれは、仕方のないこと。休んだのはわたしが悪いし、先輩にどうこう言える立場じゃないのが後輩だ。
「ったく、ちゃんとしてよね」
「ま、成瀬ちゃんには期待してんだからさ」
うわべだけの言葉を言ってわたしの肩をポンと叩き、彼女たちは去っていった。嵐が過ぎ去っていき、安堵でほう、と息をつく。横に視線を遣ると、可奈が青白い顔をしてわたしを見ていた。
「ごめん、栞ちゃん……」
「え?」
泣きそうな顔で、そんなことを洩らす可奈。これではまるで可奈のほうが叱られたみたいだ。
「どうしたの」
「守れなくて……」
唇を噛み締める彼女は、どうやら罪悪感を感じていたらしかった。そんなもの、彼女が感じる必要などないのに。可奈は優しすぎるのだ。わたしのことをまるで自分のことのように思ってくれる。
一緒に笑って、泣いて、喜んで、怒って。高校に入って知り合って友達になり、さらに友情を深めて親友になった。彼女は知り合ってからずっとこうだ。いつもわたしのそばにいてくれる唯一の存在。わたしにとって、なくてはならない大切な存在だ。
「大丈夫だよ可奈。可奈が謝る必要なんて、少しもないから」
「でも、麗華先輩たち言い方きついし……何も言い返せなくてごめん」
「気にしてないから大丈夫だって」
可奈は少し……いや、かなり心配性だと思う。先輩に言われるのは日常茶飯事でなんでもないことだし、さっきのはまだ優しい方だった。ベンチメンバーである可奈はあまり見たことがないのかもしれないけれど、試合の時のスタメンへの口調はあんなものとは到底比にならないほどだ。
厳しい実力の世界だということを知っているからこそ口調だって荒くなってしまうだろうし、思いが強いからこそ怒鳴ってしまうことだってある。でもそれは、正しいキャプテンと副キャプテンの在り方。
過ぎてしまったことはもうどうしようもない。昨日の自分はサボるという道を選んだ。この事実は変えようがないのだから、反省したらもう割り切って前に進むしかない。
「わ、美味しそうな卵焼きだ」
中庭に鎮座するベンチに並んで座り、なおも暗い顔をしている可奈のお弁当を覗き込む。そこには美味しそうな卵焼きが二つ入っていた。
どうにかして彼女の沈んだ気持ちを上げないと。その一心で、思ったことを声に出してみる。さらりと吹く風に髪が揺れ、石鹸の香りが鼻先をかすめた。
「……一個、いる?」
消えそうな声で訊ねてくる可奈。ここで断ってしまったら、彼女はもっと落ち込んでしまうような気がして、慌てて口の端を上げて笑みをつくった。
「うん。いる」
その言葉に、わずかに目を開いた可奈。少しだけ頰が緩んでいる気がして、小さく安堵する。
「あ……箸、ないや」
しかし、いつも昼食を購買のパンで済ませているわたしは、今日もいつも通り箸を持っていなかった。
(手掴み、はさすがにダメだよね)
そう思うけれどそれしか方法がなく困惑していると、横からスッと箸が差し出された。
「使って」
「いいの? ありがと」
箸を受け取って、卵焼きを掴む。そのまま口に運ぶと、ふわふわの食感と、ふんわりとした甘さが口内に広がった。
「甘っ。美味しい」
「そう、かな」
「うん。めっちゃ美味しい。わたし、これくらい甘い方が好き」
素直に感想を告げると、可奈はパァッと顔を明るくした。思いが顔に出やすいところも、可奈の魅力の一つだ。面を被ることなく、感情と表情が直結している。時にそれは難点になる場合もあるだろうけれど、そんな性格がわたしは結構好きだ。
嬉しいことは全力で表現してほしいし、嫌なことは包み隠さず顔に出してほしい。言葉だけの飾りの関係ではなくて、心から「親友」と呼べる関係性をこれからも続けていきたいから。
「私も……好きだよ」
これくらい甘い方が、と続ける可奈に箸を返して、「ありがとう」と卵焼きのお礼を言った。可奈は丸い目を少しだけ細めて、うん、と呟く。
毎日飲んでいるせいで、もはや相棒とも言える甘めのミルクティーを喉に流し込みながら、頭上に広がる青空を見上げる。
今日の空も、青一色だ。雲一つない、澄み渡る綺麗な空。
「……綺麗」
となりで同じように空を見上げた可奈がぽつりと呟いた。それからわたしに視線を戻して、にこりと笑う。
「栞ちゃん、中庭に誘ってくれてありがとう。こんなに綺麗な空が見られて、私今すごく幸せ」
「こちらこそ、快諾してくれてありがとう」
星野から離れたいがために咄嗟に提案した嘘だったのに、何も言うことなくこんなにも素直に頷いてくれて、お礼まで言ってくれる。まるで自分が悪いことをしているような、モヤモヤとした感覚になる。罪悪感を感じずにはいられなかった。けれど。
「また誘ってね」
そう言って彼女がふわりと笑うから、わたしはいつだって、その優しさに甘えてしまうのだ。
◇
「遅い遅い! もっとスピード上げて!」
「レイアップ外したら連帯責任でコートダッシュだからね!」
よく通る大きな声が体育館に響く。その声に続いて「はい!」と揃った返事が聞こえてきた。主に試合に出るレギュラー組はコートで実践練習、ベンチメンバーやベンチ入りできなかった子はコートの隅でドリブル、パス、シュートなどの基礎練習を行う。わたしはコート、可奈はコートの隅でそれぞれやるべきことをこなす。
「栞、そこ狭い、邪魔っ!」
「す、すみません」
ポジション取りが上手くいかず、キャプテンのドライブの邪魔になってしまった。慌てて飛び退くと、チッ、と隠す気などさらさらない真波先輩の舌打ちが聞こえた。どんよりと気分が落ち込む。誰だって、舌打ちをされて良い気分はしないだろう。
「あー」
そのとき、隅の方から落胆の声が聞こえた。視線を遣ると、ガコン、という音とともにボールがリングに跳ね返って落ちてくるところだった。どうやらレイアップが外れたらしい。パタパタとボールに近寄る女子を目で辿る。
「ごめんなさい、みんな」
謝罪しながらボールを拾っていたのは可奈だった。謝罪を聞くより先に、一斉に皆が走り出す。可奈もボールをコートの隅に置いて、少し遅れて走り出した。
「栞!」
名前を呼ばれて我に返る。ものすごい速さで飛んできたバスケットボールをなんとかキャッチし、シュート体勢をつくる。
(可奈、大丈夫?)
頭の隅でそんなことを思いながら、ワンフェイクを入れてディフェンスをかわし、ゴールめがけてシュートを放った。
入れ、とただそれだけを願いながら。
***
「成瀬ちゃん、ちょっと」
練習か終わり、着替えて鞄の準備をしていると、急に声がかかった。手を止めて、鞄を置いたまま立ち上がる。
「はい」
頷いて部室を出る。眉間に皺を寄せて歩く真波先輩に連れられて、体育館倉庫までやってきた。
ドク、ドクと心臓が嫌な鼓動を繰り返している。今日は何を言われるんだろう、と逃げ出したい気持ちになりながら、拳を強く握りしめた。
「今、何月?」
「……七月、です」
「インターハイまであと何ヶ月?」
「一ヶ月も、ありません」
まるで尋問だ。ひやりと汗がこめかみを伝う。
「だよね? あんなフリーのシュート、外されたら困るんだけど」
「……すみません」
「ポジション取りも上手くできない、シュートは外す。だったらあんたいったい何の役にたつわけ?」
ぐっと言葉に詰まる。真波先輩の言う通りだ。それは自分だって分かっている。押し黙ったわたしに、真波先輩は一歩近付いた。
「あたしはね、麗華に勝たせてあげたいの。あの子がどれほど頑張ってきたか、どんなにチームのために尽くしているか、あんた知らないでしょう?」
視線を床に落とす。唇を噛んでいると、頭上からはぁ、と盛大なため息が落ちてきた。
「この前も部活休んでたし、もうちょっとレギュラーの自覚持ちなさいよ。あんたの立場になりたい人なんてたくさんいるんだから」
「……はい」
「それだけ。もう帰って良いわよ」
お疲れ様でした、と一礼して倉庫を出る。倉庫を出た瞬間、張り詰めていた空気から解放され、押し寄せてきた安堵でガクッと膝の力が抜けた。
「っ、はぁ……」
わたしは真波先輩が苦手だ。言い方がきついことや不機嫌を露わにするところも苦手だけれど、一番苦手なのはあの冷めた眼差しだ。いつなんどきも、どんなことをしても責められているような気になってしまう。あの目を向けられると、ギュッと心臓が縮み上がって、呼吸が上手くできなくなる。
だから、苦手だ。
ゆっくりと手をついて立ち上がる。歩きながら深呼吸をして呼吸を整えた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。単純な動作を繰り返して気持ちを落ち着けて、部室に戻る。
そのとき、部室のドアにかけた手が、止まった。ハッと目を見開く。
「……ほんと、うざいよね」
「とりま練習来ないでほしいよね、下手なら迷惑かけるなっつーの」
そんな声が部室の中から聞こえてきたから。思わずドアノブから手を離して、ドアを見つめた。壁が薄いのか、小さくとも声ははっきりと聞こえてくる。鞄を取りに入ろうにも入れず、盗み聞きをしてはいけないと分かっていても気になってしまい、やや逡巡する。わたしが悩んでいる間にも、会話は弾みを増し、より大きくはっきりと耳に届くようになった。
「でも、あそこまで下手だと大変だよね」
「可哀想だよね、うちら。今日のダッシュだって、ほぼ可奈のせいじゃん」
────可奈。
親友の名前は、嫌でも耳が拾ってしまう。息を潜めて会話を聞く。自分のことを言われているわけではないのに、ドクンドクンと嫌な鼓動が響いている。
「休んでくれないかな」
「あー、いっそのこと怪我とか、さ」
ガチャッ、というドアの音でバッと振り返った彼女たちは、バツの悪そうな顔をしてわたしを見つめた。
「栞……」
「────そういうの、よくないと思う」
はっきりと告げると、彼女たちはますます顔を歪めて、ひきつり笑いを浮かべた。取り繕うような笑み。けれど、黙っていられなかった。可奈だって、一生懸命練習している。それを罵倒するなんて卑劣だ。
休んでくれないかな。怪我とか、さ。
どうしてチームメイトにそんなこと言えるんだろう。彼女たちに人の心というものはないのだろうか。
「そんな陰口言っちゃだめだと思う」
厳しい口調で告げると、そこにいた三人組のひとり、中山さんが、「何よ」と眉根を寄せた。あとの二人も渋い顔をしている。
「いちいち口出ししないでくれる? 言うも言わないもうちらの勝手じゃん」
「そうだよ。栞には関係ないでしょ」
「本人に直接言ってるわけじゃないんだからさ」
彼女たち一人ひとりは弱いのに、三人集まるとこんなにも棘のある言葉をぶつけることができるようになる。人間って、すごく醜い。
「可奈だってたくさん努力してるの。それを罵倒するのは違うと思う」
「余裕そうにしちゃってさ。栞、そういうとこあるよね」
「偉そうな感じ」
「お高くとまってるっていうか」
言葉が三倍になって返ってくる。会話の内容はいつしか可奈のことからわたしのことに変わっていた。冷静だった口調が、互いにヒートアップしていく。
「なんか、最近の栞変だよ」
「うん。レギュラーのくせに余裕そうにしちゃって」
「本気でやってないよね、練習」
────栞からは、やる気を感じない。
その言葉が放たれた瞬間、プツ、と何かが切れる音がした。今にも切れそうなところを必死に必死に繋ぎ止めていたのに、一度ちぎれてしまえば元に戻ることはない。
「……なん、で」
低く、唸るような声が口から溢れる。自分でも聞いたことがないような声だった。自分はこんなにも憎しみを込めることができたのか。怒りを込めることができたのか。それに初めて気付くと同時に、この感情の抑え方をわたしは知らなかった。
「……なんでベンチの人に、そんなこと言われなきゃならないわけ」
まだ顧問の先生やキャプテンや真波さんに言われたほうがよかった。なんなら星野でもよかったかもしれない。それなのに、よりによって、どうしてこんな人たちに。
「……は?」
「どういうつもり」
「そっちの方がよっぽど酷いじゃん」
顔を赤くして真っ直ぐにわたしを睨みつけた三人は、「栞ばっかり、ずるい」と口を揃えて呟いた。
「うちらだって努力してるのに」
「どうしてたいして頑張ってない栞にとられなきゃいけないの」
「あたしたちだって、試合に出たいんだよ」
濁流のように押し寄せた気持ちは、両者ともに止まるはずがなかった。心の奥底に秘めていた汚い感情が、混ざり、まざる。
「……努力が報われないことを嘆くより、報われるほどの努力をしたら?」
ああ。言ってしまった。
ガラガラと何かが音を立てて崩れ落ちていく。どこまでも深い奈落の底に堕ちていく。
強引に鞄に物を詰め込んで、足早に部室を去った。一言も発することなく、彼女たちと視線を合わせることもなく。
苦しい。痛い。────哀しい。
黒い感情がどろどろと混ざり合って、わたしを呑み込んでいく。巨大な渦に取り込まれ、自分が禍々しい何かに嵌まっていくような、そんな感覚がした。
*
一人になって、激昂の波がおさまると、今度はひどく大きな罪悪感に駆られた。
どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。あんなのは、完全な八つ当たりだ。
確かにわたしが練習にあまり力を入れていなかったのは事実だし、余裕そうにしていると思われても仕方がないような態度をとっていたのもまた事実だ。だから、彼女たちが言ったことは間違っていない。
あまりにも正論すぎて、悔しかったのだ。痛いところを突かれて、つい言い返してしまった。今まで抑え込んでいたものが一気に出てしまった。我慢していた黒い感情を彼女たちにぶつけてしまった。
「最悪」
自分はなんて愚かで、惨めで、最低な人間なんだろう。結局抑え込めていないし、口に出してしまった。言葉にしてしまった。
薫風を頬に感じながら、フェンスにもたれる。目の前には、住み慣れた小さな街が広がっていた。
「……消えたい」
独りごちる。今なら、誰もいない。誰も見ていない。本音を吐き出したって、いいだろう。"闇アピ"なんて言葉で否定的に片付けられてしまうようなこの思いも、胸の中に生まれているのは事実。包み隠さず、出す場所だって大切だ。
死にたいわけじゃない。
けれどふと、ここじゃない、どこかに行ってしまいたい。時間という概念が存在しない、永遠に時間が流れる、時が止まった世界があるのなら、そこに逃げてしまいたいって。そう、思う時がある。
将来のこととか、友達のこととか、親のこととか。周りの人のこととか、自分のこととか。そういうものを考えなくても済む世界に行けたのなら、どんなにいいだろう、と思った。
それがたとえ誰もいない、一人だけの世界だったとしても。スマホやテレビのない、世界だったとしても。
澄み渡る天色の空。ふわりと浮かぶ白い雲。深緑の木、咲き誇る真紅の花。
そして、青い────海。
広大な自然が広がる場所であるのなら。わたしはそれ以外、何もいらない。
「ははっ」
そんな夢物語に、思わず自嘲的な笑みが洩れる。ありもしない、叶いもしない、そんな夢をみているのだ、わたしは。
「……弱いなあ、わたし」
言葉にして輪郭を持たせると、余計に胸の奥に刺さるものがあった。それでも、言わずにはいられなかった。自分を罵倒する言葉をつらつらと並べていく。
「惨めだな。何やっても上手くいかない。結局人のこと傷つけて、生きてる価値あるの?」
唇から溢れるものは、わたしが言われたくない言葉だ。人に言われたくないからこそ、自分で口にすることで、どん底まで自らを追い込む。その方が、はるかに楽だった。人から言われるよりも、ずっと。
「どうして……はやく、かえってきてよ」
ふと、抑えていた感情が溢れ出す。
寂しい。虚しい。────会いたい。
わたしの背を撫でて「大丈夫だよ」って言いにきてよ。昔みたいにわたしを抱きしめてよ。何年経っても、やっぱりわたしは慣れることなんてできない。
あなたがいない世界で生きていくことが、こんなにもつらいなんて。
わたしはこんなにも弱くて、脆くて、すぐに壊れてしまうから。絶対にあなたがいないとだめだったのに、どうして消えてしまったの。
「───…馬鹿っ……」
どうして大切なものはいつも、わたしの前からなくなってしまうのだろう。
(それは、違う)
勝手に被害者面するな、ともう一人の自分が叫んでいる。つうと頬を伝う一筋がアスファルトに零れると同時に、ははっ、とまた乾いた笑いが洩れた。『なくなってしまう』なんて、それじゃあわたしは可哀想な被害者だ。
(正確には『なくした』でしょう、自分自身で)
目だけを動かして空を見上げる。今日の空は灰色の雲で覆われていて、まるで惨めなわたしを戒めているようだった。
「……ごめんね」
そんな呟きはきっとあなたには届かない。わたしはこれからも自分が犯した罪を背負って生きていかなければならない。だって、正真正銘。
『いなくなっちゃえばいいんだ!』
一瞬の感情のせいで。言葉という刃物のせいで。
あなたを殺したのは────わたしなのだから。
◇
ドンッ、とわざとらしく身体をぶつけられて、思わずよろける。
「栞ちゃんっ」
パッと伸ばされた手に支えられて、なんとか倒れずにすんだ。「ありがとう」とお礼を言いながら身体を起こす。
「今の絶対わざとだよね。ありえないんだけどっ」
眉を寄せて言う可奈は、「大丈夫?」と大きな瞳でわたしの顔を覗き込んだ。すれ違った後ろの方でクスクスと小さく嗤う声が聞こえてくる。
「あんなの放っておこう。どうせ栞ちゃんのことが羨ましいんだよ」
そう言いつつ、わたしよりも可奈の方が悔しそうな顔をしている。今にも泣き出しそうな可奈の肩を引き寄せて、ポンポンと軽く叩いた。
あの日を境に、わたしたちバスケ部二年生の関係はギスギスし始めた。もともと仲が良いとはお世辞にも言えなかったけれど、今はもう最悪だ。険悪以外のなにものでもない。お互い気を遣って抑え込んでいたものが、ついに爆発してしまった。当然と言えば当然の流れであり、逆に回避することができたかと問われれば完全に否とは答えることができない。
わたしが我慢すればきっと、こんなことにはならなかった。
中山さんたちのグループとわたしが対立し、それを庇って可奈まで巻き込まれそうになっている。特に中山さんたちは学年でもいわゆる"陽キャ"と呼ばれるところに属していて顔が広く、バックには敵に回すと厄介な人物が何人も潜んでいる。きっとわたしの知らないところで既に悪口大会が開催され、あることないこと話が盛りに盛られて広い範囲に伝わっているのだろう。
悪口や噂話の場合、きっかけの善悪なんて関係ない。大切なのは、「誰が」話すかだ。仲が良い子が嫌な思いをしたのなら、出来事に関係なくつい同調したり共感してあげたくなる。そういう面では、たとえわたしなんかが数少ない友人に中山さんたちの悪口を言ったところで、圧倒的人脈と確固たる権力の持ち主である中山さんたちに敵うはずがなかった。
これは紛れもなくわたしの言動が招いてしまった結果だから、仕方のないことだ。傷つかないわけじゃない。やめてほしいとも思っている。けれど、人間である限り。女子である限り。特に多感な女子高生である限り、一度崩れてしまった人間関係の再構築はほぼ不可能に等しい。
どう頑張ったってギスギスする前のようには戻れないし、一度言ってしまった言葉は取り消せない。彼女たちの言葉がわたしの心に深く突き刺さったように、わたしの言葉もまた彼女たちの心にも少なからず影響を与えてしまっただろう。
「星野!」
隣のコートから大きな声が聞こえてきて、無意識のうちに視線が吸い寄せられる。
ボールを受け取った星野はなんなく敵をかわし、ゴールに一直線に進んでいった。シュートをする直前でくるっと手を回して、ブロックのタイミングをずらし、華麗にダブルクラッチを決めた。ナイシュー、と声があがる。隣では可奈がパチパチと小さく拍手をしていた。
「栞、そろそろ合わせの練習するよ」
「……はいっ」
声をかけられて少し狼狽えてしまう。声の主は麗華先輩だった。真波先輩ではなかったことに少しばかり安堵し、コートに入る。
「栞ちゃんっ」
「ん?」
名前を呼ばれて振り返る。可奈は自らの拳を握り、ガッツポーズをしていた。
「頑張って!」
ふ、と笑みが洩れる。
嫌味がなくて、嫉妬すらもまったくないんだろうなと思う。純粋で、穢れなくて、心が綺麗なんだなと、彼女の性格の良さを改めて痛感した。同時に、彼女を傷つける存在から何が何でも守り抜こうと誓った。今回ギクシャクしたのは可奈を庇ったのがきっかけであっても、内容はほぼわたしのことだ。負い目を感じてほしくないから、中山さんたちとの出来事は隠し通すつもりだ。
「ありがとう」
ふうっと息を吐いて、まっすぐにゴールを見つめる。
応援してくれる人がいる。期待してくれる人がいる。バスケを続ける理由がまだ分からないのなら、まっすぐに応援してくれる彼女のために、わたしはその期待に全力で応えよう。先輩、後輩、そして出たい気持ちを強く持っている同級生のために。
『しおりは大きくなったら、バスケット部に入るの?』
『うんっ!』
────大好きなお母さんのために。
*
「よう」
可奈が部室から出てくるのを待っていると、ふいに横から声がした。振り向くと、そこにはやけに穏やかな星野の顔があった。彼は目を細めて「なんか久しぶりだな」と呟く。
「……そうだね」
一緒に帰った日から、星野のことをなんとなく避けてしまっていた。特に話さなくても生活に支障はないあたり、わたしたちの関係性はますます複雑だなあと思う。名前をつけにくい、つけられない関係性だ。結局、あの出来事はわたしの中ではなかったこととして扱われている。それはきっと、星野も同じだろう。
「今日……なんかあったか?」
「なんかって……何が?」
「それを訊いてんだよ」
ふはっと笑った星野は、艶のある黒髪をさらりと揺らした。
「特に何もないけど、どうして?」
「なんか、プレーがいつものお前と違ったから」
「えっ」
それは今日、顧問の先生にも、あの真波先輩にも言われた。『今日のプレー、栞らしさが出てていいじゃん』と。気持ちの持ちようでプレーは大きく変わってくるのだと、今この瞬間で認識する。
「……なかなか良かったんじゃねえの」
一瞬耳を疑った。わたしのプレーをいつも批判してくる、あの星野が。厳しいことしか言ってこない、星野が。
(今、わたしのプレーを褒めた……?)
「なんつー顔してんだ、馬鹿」
驚きを隠せずじっと見つめていると、星野がそう言って視線を逸らした。頬がわずかに桃色に染まっているように見えて、ますます困惑する。
「今の、本当?」
「……じゃあな」
「ねえ、ちょっと星野!」
振り返ることなくスタスタと去っていく星野の背中を見つめる。身をひるがえす前のわずかな沈黙は肯定ととらえて良いのだろうか。
彼はいつだって良くも悪くも正直だ。だって、いつもあれだけわたしのことを否定できるのだから。
そしてそれはただの悪口ではなく、わたしが力を抜いていることを見抜いた上での厳しい言葉だったりする。
だからこそ、ちゃんとわたしのプレーを見た上で、褒めてくれたのだろう。だとすれば、さっきの言葉に偽りはないはずだ。
「おまたせ、栞ちゃんっ! ……あれ、いいことあった?」
いつの間にか緩んでしまった口許を、そっと手で押さえる。
「……ううん、別に」
なんて、そんなふうに勝手に口が動いてしまう。
ああ、やっぱり。
わたしは彼とは違って嘘つきだ。
「あ、これ」
階段を降りる途中の踊り場に貼ってある、一枚のチラシに目がとまる。同じようにチラシを覗き込んだ可奈は、「今年もやるんだ、お祭り!」と目を輝かせた。
そこには、毎年行われる祭りの情報が大きく書かれていた。この祭りは、田舎であるこの辺りでは一番二番を争うほどの大きなイベントであるため、学生はもちろん、たくさんの人が楽しみにしている夏の風物詩のひとつでもある。いつもはやくから情報が出回り、この時期になると誰もが友達や恋人と一緒に行く約束をして、ワクワクし始めるのだ。
「日付、大会と被ってない?」
「あっ! ちゃんとずれてる! ラッキーだねっ」
そう言って可奈は、ぱあっと満面の笑みを浮かべた。去年の夏祭りは、バスケットの大会と被ってしまったため、朝早くから夕方まで試合をして、帰ってから祭りに行く余裕なんてなかった。だから去年はわたしも可奈も、残念ながら祭りには行っていない。だからこそ、今年はどうか被らないでほしい、と思っていた。
「栞ちゃん、一緒に行こうよ」
目をキラキラと輝かせる可奈に頷く。もちろん、と言うように、強く。
「やったー! 嬉しいな、今から楽しみすぎる!」
子供のようにばんざいをしている可奈を見ていると、わたしもとても嬉しくなる。こんなに喜んでくれるなんて、思わなかったから。
「ねえ、栞ちゃん浴衣着る? もちろん夜までいるよね? かき氷とか綿飴とか、食べたいなあ」
はやくも祭りに思いを馳せて、「あー、どうしよう」と言いながら頬に手を当てる可奈。そんな彼女を見ていると、自然と笑みが溢れた。
「ふふっ。気がはやいなあ」
「だって楽しみなんだもん!」
「お祭りの前にインターハイがあるんだよ?」
インターハイ出場の常連校とまでは言えないけれど、数年に一度チャンスがあれば出場できるほどそれなりの実力を持ったうちの学校は、今年は見事勝ち進み、インターハイに出場する。トーナメント制で行われるため、負けたらそこで終わりだ。祭りに思いを馳せるのもいいけれど、まずは目の前に迫る大会に備えなければならない。
そう思いながら、バスケットに対しての自らの気持ちの高まりを感じた。それはきっと、応援したり褒めてくれたりする可奈と星野が影響しているのだろう。相変わらず自分の単純さに笑いが込み上げてくるけれど、それが原動力となっているのなら、なんら問題はないはずだ。
「インターハイ、頑張ろう! 絶対絶対、勝ち進もう!」
意気込む可奈はぐっと拳を握りしめてわたしの目の前に突き出した。コツン、と同じようにして拳を合わせる。
「私はいつでも栞ちゃんの味方だからね!」
透き通る青空からまっすぐに届く光が、可奈の横顔を照らす。
(わたしも、いつだって可奈の味方だよ。何があっても絶対守り抜いてみせるから)
ふんわりと笑う可奈を見ながら、心の中で強くそう思った。
今日は一日空は薄暗く、灰色の雲が浮かんでいた。ちょうど帰宅しようと靴を履いたときに小雨が降り出し、一気に激しいものに変わった。
よかった、と内心でほっと息を吐く。備えあれば憂いなし。鞄に忍ばせておいた折り畳み傘を取り出してパッと広げると、鮮やかな水縹色が目の前に広がった。透き通る半透明の水縹はとても綺麗で、雨だというのに少しだけ気分があがる。自然と口角が上がるのを抑えて、傘を差した。
そこでふと、となりに人の影を感じて振り向く。
「……わ、っ」
思わず声が出てしまったのは、となりに星野がいたからだ。黙って突っ立っている星野は雨具らしきものは何も持っておらず、ただ空を見上げて逡巡しているように見えた。もう一度空を見上げて空模様をうかがう。当分雨は止みそうになかった。
「……傘、ないの?」
小さく訊ねると、海の色をした綺麗な瞳が流れてわたしを捉える。トク、と鼓動が響いたような気がして、思わず傘の持ち手を握りしめた。無表情で佇んでいた星野は、少しだけ眉を下げて「ああ」と呟く。周りを見てみると、残っている生徒はもうほとんどおらず、見知った顔はいないようだった。
このまま置いて帰ってもいいのだろうか。いや、それはさすがに薄情すぎないか。一応、知り合い以上の関係なのだから。
ぐるぐると頭の中で自問自答を繰り返す。誘って断られたらどうしよう、と思ったけれど、やはり放っておくことはできなかった。
「……入る?」
もごもごと口を動かして、躊躇いがちに訊いてみる。星野はゆっくりと瞬きをし、こちらにスッと視線を流した。
「いいのか」
「だって、このままじゃ帰れないでしょ、星野」
とりあえず断られなかったことにどことなく安堵し、ふうっと小さく息を吐く。入って、と促すように少しだけ傘を傾けると、「悪い」と呟いた星野は傘に身体を滑り込ませた。
パラパラと傘に打ちつける細やかな雨の音。低いとは言えないわたしの背よりもはるかに高い星野が濡れてしまわないように、やや高めに傘を固定して歩く。星野の方に傾けているから左肩が若干濡れてしまっているけれど、身長差があるから仕方がない。すると、ちらとわたしに視線を向けた星野が、無言でわたしの手から傘をさらって、わたしの身体全体が入るように持ち直した。その流れるような動作と、ふいに触れ合った指先に、体温が上昇していくような感覚がする。
「……あ、ありがと」
「ん」
視線を彷徨わせてなんとかお礼を言う。たいして気にした様子もない星野は、ふと視線を上げて傘を見た。
「綺麗だな、この色」
「……え?」
まさか傘について褒められるとは思っていなかったので少々驚く。嬉しさと驚きとが混ざり合って、なんとも言えない感情に包まれながら、「星野もそう思う?」と呟いた。
「ああ。なんていう色?」
「水縹だよ。水色の古い言い方なんだって。空の色みたいですごく綺麗だから、わたしはこの色が好きなの。雨も、なんだか好きになれるような気がして」
「……ふうん」
いつも通り興味のなさそうな声で返事をする星野。そんな反応をするなら、わざわざ訊かなくてもいいのに、と、心の中で少しだけ文句を並べながら、星野のとなりを歩く。
通学路に生徒はいなくて、たまにすれ違うご婦人がにこやかに「いいわねえ」なんて言って通り過ぎていく。そのたびにわたしたちは黙って会釈をした。
なかには「お似合いねえ」なんて言葉を贈ってくる方もいて、内心、そんなんじゃないのに、と答えながらも笑顔を絶やさないでいた。同じ傘に入るだけで、やはり恋人とか、それに近しい関係に見えるのだと。俗に言う"相合傘"の威力は凄まじいなと感じながら、足元が濡れないように注意しながら歩く。
星野は道路に視線を落として、静かに歩いている。この前一緒に帰ったときとはまた違う雰囲気に、なんだかひどく落ち着かない。あの日は晴れ、今日は雨。空模様だけでこんなにも空気が違ってしまうのだと思いながら、しんみりした空気を打ち消すために、下を向く星野におもむろに声をかけた。
「前、向いて」
バッ────と。
急に視線を上げてわたしを見つめた星野は、こっちが驚いてしまうほどに目を丸くしていた。ピタリと星野の足が止まって、それにつられるようにしてわたしの足も止まる。
そこにあるのは、雨の音だけが響く、静寂。
「え……どうしたの、星野」
微動だにしない星野に、幾度かの瞬きを繰り返し、訊ねる。黙っていた星野は、「あ、いや」と彼らしくない焦ったような返事をして、再び前を向いた。
「……大丈夫?」
「ああ────ごめん」
余計に微妙な雰囲気になってしまって、なんとなく気まずくて視線を彷徨わせる。それからまた降りてきた沈黙。もうどうしようもなくて、ただひそめるように息をして、家までの道を歩いた。
「え、星野……?」
わたしの家の方向に向かう星野に首を傾げると「送るよ」と小さく告げた星野は、静かに前を見据えた。
「え、でも悪いし……」
「じゃあ、はい」
「え……?」
差し出された傘。迷うことなくわたしを見つめる星野をじっと見つめ返す。
「星野、濡れちゃうよ」
「これ、お前の傘だろ。ありがとな」
そこまで言われて気付いた。傘は一本しかなくて、当然ながら途中で別れたらどちらかは傘なしで帰らなければならない。わたしが送らなくていいと言えば、星野はここから傘なしで帰るつもりなのだ。
「だ、だめだよ星野。……分かった。送って?」
慌てて言うと、ふっと息を吐き出した星野は再び歩き出す。そのとなり、肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に並んだ。
これはカップルの送る送られるなんかじゃなくて、ただ単に緊急事態なのだ。雨が降ってきて、傘がひとつしかなくて。星野が濡れてはいけないから、最善の策をとっただけ。何度も自分に言い聞かせる。けれど妙に落ち着かなくて、どこに向けたらいいか分からない視線を左右に揺らす。
となりから香るシトラスの香りと、すらりと高い背は、彼の存在を存分に主張していた。
安心感。形容するなら、きっとこれ。
となりに星野がいる。たったそれだけの事実にわたしはやはり弱いらしい。
「……こっち」
車の通りが多い場所に来ると、星野はわたしの腕を掴んで歩道側に引き寄せた。その途端、トクンと甘く奏でられる心音。異性慣れしていない鼓動はいつだって正直だ。
(いや、違う。勘違いしたらだめ)
さきほどの淡いトキメキこそが勘違いだと己に言い聞かせて、頭を振る。
────何度言ったら分かるんだ。過ちを繰り返してはならないと。
何度も何度も、その言葉を繰り返す。自分を騙して、全部を押しとどめるように。
それからふたりして黙々と歩き、家に到着する。
「えっと、その傘、貸すね……?」
というかそれしかないだろう、と、自分で言っておきながら自答してしまう。ここまで送ってもらって傘なしで帰れなんて、そんな鬼みたいなことできるはずがない。ようすをうかがうと、星野は「悪い」と言って少しだけ頭を下げた。
「乾いたら返すから。明日には返せないかもしれない」
こんなに雨が降っているのだ。そう簡単には乾かないだろう。目の前に立つ星野を見つめる。
特別な時間だった。あまりにも贅沢な時間だった。幸せで、悲しくて、苦しくて、それでもやっぱり嬉しい時間だった。
────もう一度を願うのは、わがままだろうか。誰かに怒られてしまうだろうか。
そんな考えが浮かんでしまったわたしはすでに手遅れだったのだろう。
「……次、急に雨が降ったとき」
「え?」
「今日みたいに急に雨が降って、わたしが困ってるとき、返しにきてよ」
気付いたら口走っていた。ほんの些細な、小さなことでいい。何か"繋がり"がほしかった。
「そんなの、お前が困るだろ。お前の傘なのに」
「……いいよ」
ほとんど無意識だった。それくらい必死だった。もう一度だけでいいから、彼とこうして一緒に帰りたかった。
「折り畳みだし、いつも使うわけじゃないから。それに、折り畳み傘は他にも持ってるから」
「だけど、お前」
「だから急な雨に降られて困ったとき……そのときは星野が迎えにきてくれない? 今日の借りを返してくれない、かな」
「いつになるか分からねえのに?」
「それでもいいよ……待ってるから」
言ってしまってから自分でも、何を言っているんだ、と恥ずかしくなる。
『急な雨に降られて、傘がなくて困ったときに迎えにきて』なんて、そんな曖昧であやふやなことを言っても星野を困らせてしまうだけだ。
恋愛ドラマの主人公になったつもりかと、自分を罵りたくなる。
それでももう一度、一緒に帰りたいと思ってしまった。彼が許してくれるのなら、もう一度だけでいいから、同じ時間を共有したかった。
こうして同じ傘に入って他愛もない話をしたかったと言ったら、彼はなんて言うだろうか。心の奥深くに眠るわたしは、いったいなんて言うのだろうか。
そこまで考えて、さすがにわがままの度がすぎると気付いて、慌てて取り消そうと口を開いたとき。
「分かった。だいぶ先になっても文句言うなよ」
小さく頷いた星野は、透き通る瞳でわたしを見つめた。透明な雨に紛れる星野の瞳は、とても綺麗だ、と純粋に思う。
出逢った時から。この人の目は、いつだってきれいだ。
「……約束」
小指を伸ばして、星野を見つめる。これは昔からの癖というか、約束事をするときの絶対的なマイルールだった。わずかに目を開いた星野は、それからひどくゆっくりと目を細めて、わたしの小指に長い指を絡める。
「約束、忘れないでね」
「ああ、分かってる」
キュッと力を込めて、それから指を解いた。彼ならわたしのわがままもなんだかんだ言ってきいてくれるんじゃないか、って。そんな自惚れたことを思ってしまう。
次の瞬間ふっと浮かべられた微笑みを見て、傘を持ってきていてよかったと心底思った。
「ありがとな、栞」
「こちらこそ、送ってくれてありがとう。気をつけてね」
「じゃあな」
くるっと背を向けた星野。
不思議だ。彼のことは苦手なはずなのに、わたしはいったい何をしているのだろう。
「……ほんと、どうかしてる」
小さく息を吐く。水縹が遠ざかっていく。その淡い光が小さくなって角に消えるまで、わたしはいつまでも見守っていた。
◇
「ナイシュー!」
「次ディフェンス、マーク捕まえて!」
インターハイ初戦、第四クォーター残り五分。大きな声がコート上を飛び交い、声援が響き渡る。点差は二点差でうちのチームが負けているけれど、五分五分の勝負。接戦であるため、わたしを含めるいつものレギュラーメンバーで構成されたスタメンがずっと起用されている。
当然体力的にキツく、何度も諦めたいと思ってしまうけれど。今までのわたしなら、力を抜いていたかもしれないけれど。それでも、今は。
「頑張れ、頑張れっ!」
耳に届く声援。汗を拭って、懸命に足を動かす。
可奈、中山さん、麗華先輩、真波先輩、星野。
負けるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。みんなの思いを背負ってたたかうために、わたしはコートに立っている。
「リバウンド!」
身体をぶつけてマークマンを押し出して、ボールに向かって思い切りジャンプする。指先まで神経を集中させた、そのときだった。
「……った……」
ドンッ、と身体に衝撃が走る。そのままぐらっと視界が揺れて、コートに倒れ込んだ。相手選手と接触したんだ、と気付いたときには、すでに足首に鈍い痛みが走っていて、視界には茶色い床しか映っていなかった。
……嘘でしょ。
わたしはいつも間が悪い。どうして、こんなときに。
涙が溢れそうになる。笛によって試合が中断され、誰かがこちらに走ってくる音がした。それは数人のもの。可奈と、あとは誰だろう。ぼんやりとそんなことを考えていたときだった。
「立てる?」
聞こえてきたのは、可奈とはまったく違う響きで。驚いてその姿を瞳に映す。
彼女は。いや、彼女たちは。
「……中山さんたち……?」
支えられるようにしてコートから出る。隅の方に座らされて、救急セットを持ってきた中山さんは黙って処置を始めた。
「どこが痛い?」
「……あ、足首」
素早く様子をみた中山さんは、テーピングテープを取り出した。
「成瀬。お前、大丈夫か」
状態を見にきた監督に迷いなく頷く。お前はこの先まだ出れるのか、そう問われている気がした。
「出れます。まだやれます」
監督は静かに考えていたけれど、わたしの目を見つめ返すとこくりと頷いた。
「そうか。だが、無理だけはするな」
「はいっ」
そう言った監督はベンチに戻っていく。
今しか、ない。ここしかないんだ。
わたしは静かに中山さんに向き直った。伝えなければならないことがある。
ずっと後悔していた。あんなふうに八つ当たりをしてしまったこと。
「中山さん、あのときはごめ────」
「今謝罪とかいいから」
ピシャリと言い放たれて、言葉を呑み込む。言わせてもくれないのか、彼女は。足首に巻かれるテープを見つめながら、その手際のよさに驚く。
「……ベンチメンバーは、これしかしてあげられないから」
「えっ」
「……コート上で活躍するのは、あたしたちにはできないことだから」
ぽつりと。それだけ言って、口を結んで処置を施してくれる中山さん。見ていたら、分かる。こんなに綺麗にテーピングできるのは、たくさん練習したからだ。巻き方を調べて、覚えて、練習したからだ。
わたしたち選手が試合に少しでもコンディションよく出れるように、サポートするために。
……ああ。
わたしはどうしてあんなに酷い言葉をぶつけてしまったのだろう。つくづく自分が嫌になる。
裏方にまわることは、誰もが葛藤なくできることではない。上の人を支える、なんて簡単な言葉だけれど、実際に快くできる人はほとんどいないだろう。
「マネージャーがいない分、テーピングはうちらの仕事だし。あんたは気にせず試合してきなさいよ。……はい、終わり」
「……うん」
こくりと頷くと、苦い顔をした中山さんはわたしを横目で睨んだ。けれどそれは以前のようなものではなくて、少しだけ優しさが含まれているような。
「すっごい変な顔してるよあんた。スタメンは堂々としていないと」
「……ありがとう。それと、本当にご────」
「ああ、もういいってば! ほんと学習しないねまったく……それなりに頭いいんじゃないっけ」
ふいに視線が絡まる。数秒間見つめ合って、中山さんは茶色い瞳をふっと柔らかく細めた。
「次、交代でしょ」
突き出された拳におずおずと拳を合わせる。
崩れた人間関係の再構築は不可能だとずっと思っていた。一度仲が悪くなってしまえば、もう終わりだと。けれど、それはわたしの勝手な思い込みで。
「栞……がんばれ」
気づけていないだけで。
わたしの周りには、優しさが溢れているのかもしれない。
わたしが抜けている間に点差は離され、まもなく十点差になろうとしていた。ピーッという審判の笛を合図に、他の選手と入れ替わる。
わたしの背中を押してくれる人がいる。
可奈に、麗華先輩に、真波先輩。中山さんに、星野。そして、大好きな人。
真波先輩からボールを受け取って、中に切り込んで確実に二点を取る。こうやってディフェンスを崩していけば、勝機は十分にあるはずだ。ゴールにボールを入れるたび、ナイシューとベンチから声があがる。
残り三十秒、三点差。相手がスローインを入れようとしている。
「か、かて……」
勝てる。小さくても、そんなことを口に出すだけでいい。それだけで、いいのに。
「だめだ……言えない」
唇が震えて、吐きそうになる。何も言えないまま、相手のオフェンスが始まってしまう。
ファウルゲームに持ち込まなければならない。必死にファウルをしにいくのに、上手くボールを回されてどんどん時間だけがすぎてゆく。焦りが募れば募るほど、強引な動きが増えてしまって。やっとファウルしたときには、時間は十秒を切っていた。
監督によってタイムアウトがとられる。水分をとりながら監督の指示を聞き、返事をしてコートに戻る。
「栞。あんたなら大丈夫。何があってもカバーするから」
コートに入る直前、真波先輩がわたしの背中を叩いて、となりを通り過ぎていく。
「……っ、ありがとうございます!」
いつも怖い先輩なのに。苦手なはずなのに。今は誰よりもわたしを励ましてくれる、心強い背中だった。ドクン、ドクンと鼓動がうるさい。
緊張感に包まれる中、放たれるフリースロー。ガコン、という音が響き、生まれた安堵と落胆、わずかな焦り。二本目がガコン、と音を立てたとき、身体は動き出していて。
必ず、とってくれる。先輩は、とってくれるはずだ。必死に自分のチームのコートに走る。
残り、五秒。
「栞────!」
ロングパスを受け取って、スリーポイントラインギリギリに足を揃える。
完全フリー。こんな機会、そうそうない。決めなければ、絶対に。これを外せば────。
ぶわっと脳内に先輩方の顔、中山さんたちの顔、そして可奈の顔が浮かんだ。手から力が抜けるような嫌な感覚がして、足が震える。
それでも必死に己を奮い立たせて、オレンジ色目掛けてボールを放った。ボールは弧を描いてまっすぐにゴールに飛んでゆく。
うだるような暑さのなか、誰もが息を呑んでボールの行く末を見守るなか。一瞬の静寂に響くリングの音とともに。
────夏が、終わった。
「ごめ……ごめんな、さいっ……」
コートを出るところまでは我慢していた。ちぎれてしまうのではないかと思うくらいに唇を噛みしめて、なんとか堪えていた。けれど、礼をしてコートから出た瞬間。ダムが決壊したように、涙が溢れて止まらなくなる。
「栞ちゃん……」
となりにいる可奈は、どう声をかけてよいか分からず困っているようだった。変な励ましをしない方が良いと思ったのか、何も言わずにただわたしの背中を撫でてくれている。
わたしがもっと真面目に練習していれば。全ての練習、試合に全力で取り組んでいたら。怪我さえしなければ。押し負けることがなければ。
どうしようもない後悔があとからあとから襲ってくる。何かひとつでも違えば、結末はきっと変わっていたはずだ。今から過去に戻って、もっとしっかり練習しろと自分を叱りたい。そんなできっこない考えさえ浮かんでしまうほど、悔しい。
「────栞」
突然頭に手がのったかと思うと、わしゃわしゃと撫でられた。
「……っ、真波、せんぱいっ」
「なーに泣いてんの。みっともない顔しちゃって」
「決められなくて、本当にごめんなさい……っ。先輩たちの、最後の夏だったのに」
言葉にして輪郭を持たせると、試合に負けたという事実が重くのしかかってきて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「あんたには来年があるでしょう。次頑張ればいいのよ」
「でもっ……先輩は」
「泣くほど慕われてたかなあ、あたし」
苦笑した真波先輩は、わたしの額にデコピンをくらわせた。
「……った」
「泣くな。今まできついことたくさん言っちゃって悪かったね。栞には期待してるからさ……これでも」
ぶわっとまた涙が込み上げてくる。だめだ、こんなの。普段厳しかった分、優しくされると耐えられるはずがない。
「四番背負って、来年こそ勝ち進みなよ。あたしも麗華もそれを望んでる」
「わたしが……キャプテン……?」
勝ちたいと願えなかったやつが、キャプテン番号など背負えるはずがない。四番をつけるということは、実力はもちろん、試合態度、コート外での礼儀や人間性、その他さまざまな面において注目されるということだ。常にみんなを引っ張っていけるような、誰よりも勝ちたいと願える人でないと務まらない。それくらい、大きな存在なのだ。心強い背中なのだ。
……四番の背中というものは。
「……わたしにはそんな資格、ないです」
「資格? そんなもの、あたしたちにだってないよ」
「ねえ麗華?」と同調を求めた真波先輩は、かつてより柔らかい瞳でまっすぐにわたしを見つめた。
「資格なんて、そんなのいらない。必要なのはあんたの気持ちと、チームメイトたちの気持ちなんじゃないの?」
促されて振り返ると、穏やかな顔で微笑むみんなの姿があった。可奈、中山さんたち、他の二年生のみんな、後輩たち。誰もが微笑んで、頷いてくれる。唇を噛んでいると、中山さんが一歩前に出た。
「栞にしかできないよ。────栞がいいよ」
「私もっ。栞ちゃんがいちばんふさわしいと思う!」
「中山さん……可奈……」
背中を押してくれる存在は、わたしがバスケットを続ける理由は、こんなにもすぐそばにあったのだ。気付けていなかっただけで、こんなに近くに存在していた。
「ほら。みんなあんたを認めてるんだよ。とっくに」
「……わたし、勝ちたいって気持ちをずっと保てていなくて、何度も諦めそうになって」
「でも諦めなかった。少なくともあたしは、あんたが頑張ってたのを知ってるよ。それがたとえ何のためにバスケをしているか分からずだったとしても、あんたは今まできつい練習にも厳しい言葉にも耐えてきた。これは事実でしょう?」
息を吐いた真波先輩は、強い光を宿した瞳でわたしをまっすぐに射抜く。
「勝ちたいって願った何よりの証拠があるじゃない」
「え……?」
真波先輩が手を伸ばして、そっとわたしの頰に触れた。その瞬間、新たな涙の粒がつうと頰を伝う。
「この涙は嘘偽りのものじゃない。悔しいから溢れる涙でしょう、栞」
「……っ」
止まらなかった。ぽろぽろといくつもの涙が零れ落ちて、何度拭っても一向におさまることはなくて。
「私も栞にキャプテンをしてほしい。真波が言う通り、怪我をしてもコートに立って一緒に戦ってくれた。怖かったはずなのに、スリーポイントを打ってくれた。栞がキャプテンになる理由として十分だと思うけど?」
同じように微笑む麗華先輩は、わたしの肩にそっと手を置いた。
「……お願いできるかな。キャプテン」
本当に、わたしでいいの?
もう一度振り返ると、相変わらず包み込むような優しさで背中を押してくれるみんなの笑顔。
「はい」
こくりと頷くと、拍手の後、一気に和やかな雰囲気に包まれた。
「もう、真波ったら。"成瀬ちゃん"から"栞"に呼び方が変わっちゃってるね」
「う、うるさいっ! なんか気付いたら呼んでただけだしっ」
「うふふ、素直じゃないんだから」
笑い合う先輩たちの目には、うっすらと涙の膜が浮かんでいるように見えた。けれどそれには気付かないふりをして、中山さんたちのところに行く。中山さんのとなりには可奈がいた。
「……その、中山さんたち」
三人の前に立ってゆっくりと深呼吸をする。
「本当にご……」
「────ごめん」
わたしが言うより先にそんな言葉が贈られる。驚いて顔を上げると、三人はわたしに頭を下げていた。
「すごい酷いこと言ってごめん」
「カッとなって口走っていいことじゃなかった」
「あんなこと言うのは間違いだった。無責任な言動だったと思う」
続くように謝られて、どうしたらいいか分からなくなる。謝らなければならないのは、わたしのほうなのに。
「か、顔あげて」
ゆっくりと顔を上げた彼女たちは、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。確かに互いの意見や思いの食い違いはあったけれど、悪いのは彼女たちだけではない。
「わたしの方こそ、嫌なこと言ってしまってごめん。正直、あのときはたしかに本気でやってなかったの。いい加減だったの。だから中山さんたちの言ったことは、間違いじゃないんだ。それがあんまりにも正論だったから余計に悔しくなって、完全に八つ当たり。本当にごめんなさい」
頭を下げると、同じように「顔あげて」と返ってくる。視線を上げると、そこには強い瞳があった。決意を秘めるようなまっすぐな視線がわたしに降り注ぐ。
「嫉妬してたの。自分も栞みたいにコート上で堂々とプレーできたらいいのにって思うだけで、何もしてなかった。栞が裏でしてる努力、見せずにしてる努力のことを考えてなかったから、あんなふうに言ってしまったの」
「中山さん……」
「よく考えて思ったの。うち、すごく最低なことをしたって。さっきの試合、全力でたたかう栞を見てたら、自分の発言がすごく適当で、失礼だったって思った。本当にごめんなさい」
「ううん、それはお互い様だから」
傷つけてしまったのは、お互い一緒。どちらかだけが悪いということは絶対にない。
「うちらもコート上でチームの力になれるように頑張る。報われるほどの努力をするよ」
「あっ……それは」
あの日、彼女たちにぶつけてしまった言葉だ。うつむくと、クスリと小さな笑い声が降ってくる。
「なかなかいいんじゃない? 栞らしくて」
あははっと笑った中山さんは、「心に留めておく」と言ってその場を去っていった。中山さんに続くように、あとの二人も去っていく。
「仲直りできたみたいだね。本当によかった」
花が咲くようにふわっと笑う可奈。
この笑顔だ、わたしが守りたかったものは。
彼女がこの笑みを絶やすことがないように、優しい瞳が涙に濡れることがないように、わたしはいつまでもそばで守ってあげたいのだ。出会ったときから、ずっとそう思っている。
「男子も惜敗だったみたい。やっぱり全国の壁は厚いね」
可奈が悔しそうに呟く。今年は男女揃って初戦敗退。来年こそはどちらも勝ち進みたい。いや、絶対に勝ち進む。
「……あ」
ちょうど会場から出てきた星野と視線が絡む。ぞろぞろと待機場所に戻っていく集団の一人に何かを告げた星野は、わたしたちのもとへ走ってきた。
「おつかれ」
「お、おつかれ」
やばい。きっとまだ目が腫れている。隠すようにうつむくと、「前向けよ」と星野の声が降ってきた。恐るおそる顔を上げる。
「どっちも負けたな」
「……うん」
惜敗だったにも関わらず涼しい顔をしている星野。あんなにバスケットに真剣だったのに、悔しいとか悲しいとか、そういう感情はないのだろうか。
「全力で勝負したんだから、後悔なんてねえよ」
わたしの表情から読み取ったのか、星野がそう言って苦笑した。
「そっか。さすが星野だね」
「さすがって、お前も全力だっただろ」
「うん、まあ……」
星野の視線がスッと下に落ちる。
「足、怪我したのか」
言われてようやく思い出した。プレー中は必死で痛みなんて感じなかった。それに、上手なテーピングのおかげで固定されつつも非常に動きやすかった。
「あ……そうだった」
「忘れてたのかよ」
ふはっと笑った星野は、「大事にしろよ」と瞳を和らげた。
「うん。ありがと」
お礼を言うと、星野は「そういえば」と、突然思いついたようにわたしを見た。
「負けたってことは、もうすぐ世代交代するんだよな」
「女子は栞ちゃんが新キャプテンなんです」
星野は、横から声を上げた可奈を一瞥して、またその海色の瞳をわたしに戻す。
「お前にできんの?」
「任されたからには、中途半端はもうやめる。みんなのために、全力でやる」
星野は「ふうん」と興味なさげに呟いて、ゆるりと口の端を上げた。いつもの無関心な態度のように見えたけれど、今は少し違う。なんだかよく分からないけれど、星野にしては明るい表情をしていた。
「星野はキャプテンじゃないの?」
訊ねると、星野は冗談じゃないと言ったように渋い顔をして首を振った。
「俺は誰かさんみたいにくそ真面目じゃねえんだ。そんな重荷背負えねえよ」
「……そう?」
「それに、俺はキャプテンじゃなくてエースなんだよ。四番を背負う面じゃない」
ふっと笑った星野は、瞳を流してわたしを見つめた。
「頑張れよ……って言いたいところだけど、あまり頑張りすぎるなよ。何かあったら言え。お前には────」
続く言葉を、期待してしまう。待っていると、ふっと瞳を細めた星野は、薄い唇で笑みの形をつくった。
「──……俺がいる」
トクン、と確かに刻まれる音。
「分かった。ありがとう、星野」
微笑むと、一瞬動きを止めた星野は、それからぎこちなく笑みを返した。
「りんご飴ある! あっ、こっちには綿飴があるよ!」
大会が終わり、やって来た念願の夏祭り。わたしの浴衣の袖をちょんと引っ張りながら飛び跳ねる可奈は、黄色の地に真っ白な百合が咲いている浴衣を着ている。髪には浴衣に合った、可愛らしい花の髪飾りをつけていて、彼女が跳ねるたび、控えめに揺れている。
穢れない彼女の象徴である純白は、夜の暗さにも溶けずに、その存在を美しく主張していた。
「そんなに急がなくても、りんご飴も綿飴も逃げないから」
苦笑しつつ、手を引かれるまま彼女についていく。するすると人混みをすり抜けていく彼女が目指すのは、かき氷屋台のようだった。
「え、かき氷?」
「うん!」
「りんご飴と綿飴は?」
「それも食べるよっ」
にっこりと笑った可奈は、列の最後尾に並んだ。ワクワクを隠しきれていない顔で「何味にしよう」と悩んでいる。彼女はわたしが思っていたより、意外と食いしん坊なのかもしれない。そんなことを思いながら、彼女の後ろに並ぶ。
「イチゴひとつお願いします!」
「じゃあわたし……ラムネで」
王道なイチゴを頼んだ可奈は、満面の笑みでかき氷を受け取った。わたしもラムネを受け取り、人が少ないところに腰掛けて、かき氷を口に運ぶ。
「んっ! 美味しい!」
「ほんと。美味しいね」
しゅわっとした感覚が口の中に広がり、夏らしい爽やかな味がした。かき氷を食べるのは何年ぶりだろうか、と頭の片隅で考えながら、イチゴのかき氷を食べる可奈を見つめる。
「……そんなに見られると、恥ずかしい、っていうか」
わたしの視線に気付いた可奈が、ほんのりと顔を赤くさせて瞳を揺らした。
「ごめん。見惚れてた」
かき氷を食べる可奈が、女のわたしから見てもあんまりにも可愛かったから、ついじっと見つめてしまった。きっと彼氏の前でもこんな感じなんだろうな、と思う。可奈の彼氏は毎日この可愛さと真正面から向き合わないといけないってことだ。可愛さを感じる分、自らの命の危機も感じて生きていかなければならないだろう。そこまで考えて、ふと思いついてしまった。
「可奈……今さらだけど、お祭りに一緒に来るの、わたしでよかったの?」
可奈に彼氏がいるとかいないとか。そういう恋愛系の話はわたしたちの間では皆無だ。それは、やめようね、などと話したわけではなく、不思議と感覚的に話してはいけないような、独特なオーラというか雰囲気のようなものがある。
可奈の恋愛話に全く興味がないと言えば嘘になるけれど、無理して聞き出そうとするくらい気になるわけでもなかったので、そのあたりはぼかして曖昧にしていた。可奈もわたしのことについて何も訊いてくることはなかったので、お互いにあまり干渉しないようにしていたのだ。けれどわたしが聞かされていないだけで、こんなにも可愛い可奈には当然彼氏がいるだろうから、年に一度のお祭りにわたしなんかと来ていてよかったのか、さすがに心配になった。
「どうして? もしかして私とは嫌だった?」
「いや、そんなことはないんだけど。可奈は彼氏がいるだろうし、その人とじゃなくてよかったのかな、って……」
そう言った瞬間、ふっと可奈の顔に影がかかったように見えた。けれどそれは一瞬で、可奈は口角を上げて首を横に振った。
「ううん、いいの。栞ちゃんがいいの!」
「ほんとに? ……いや、嬉しいんだけどさ。こんなふうにはっきり言われるとさすがに照れる」
えへへ、と笑った可奈は「栞ちゃん、ラムネ一口ちょうだい」とわたしに向き直った。
「うん。いいよ」
「やった! じゃあ……」
「はい、あーん」
氷をすくって差し出すと、可奈はピタリと動きを止めた。パチパチと何度も目を瞬かせて、まっすぐにわたしを見つめてくる。絡まる視線のなか、時が止まったような気がした。
「なに、どしたの」
ゆら、と可奈の瞳が揺れる。驚いたように硬直する可奈に、こっちまで何かあったのかと不安になってくる。もしかして、間接キスとかを気にするタイプなのだろうか。
「可奈?」
「……あ、ごめんっ。いただきます」
そんなわたしの不安をよそにパクッとかき氷を食べた可奈は「……美味しい」と呟いて視線を逸らした。
以前お弁当の卵焼きをもらったとき、箸のことをあまり気にしているふうではなかったから、今回はたぶん、わたしの思い過ごしだ。差し出したかき氷のストローを、不恰好になってしまった氷にさしたそのとき。
「小鞠さん……?」
小さくて控えめな声が横から聞こえて、声がした方をパッと振り向く。カップから小さな氷の塊が地面に落ち、すうっと地面で溶けて消えていった。
「なん……で」
可奈の苗字を呼んだ彼よりも先に、彼の隣にいる男子に視線が吸い寄せられて、思わずそんな呟きが洩れる。目に入る信じ難い光景に目を見開くわたしに、"彼"は軽く手を上げていつものようにへらりと笑った。
「よう」
「どうして……」
「どうしてってなんだ。俺だって祭りぐらい来る」
何度かの言葉のラリーをしているわたしたちの横で、さっき可奈に声をかけた彼────香山くんが照れたように頭を掻いた。
「こんなところで会うなんて……奇遇だね。小鞠さん」
「えっ、あ、うん。そうだね」
にわかに困惑気味の可奈にふわりと笑いかける香山くんは、自らのとなりにいる男子に「な、星野?」と同意を求めた。星野は小さく頷いた後、肩をすくめて天を仰ぐ。そんな適当な返しで満足したのか、香山くんは可奈の方を向いてにっこりと笑い「会えて嬉しいな」と告げた。
「小鞠さん、今日はどれくらいまでいるの?」
「あ……えっと、花火が上がるまでは、いるつもりだけど……」
「そっか」
香山くんの視界には、わたしのことなどまるで入っていないのだろう。言葉が向かうのも、瞳が向けられるのも、すべて可奈だけだ。
(そりゃそうだよね。そんなの分かりきったこと)
何の需要もないわたしなんかを見るより、思わず抱きしめたくなるくらい可愛らしい可奈を見た方がいい。お祭りというイベントだからこそ、普段話しかけることができない分、勇気を出す場でもある。それは分かっているけれど、それでも少しだけ……さみしい。劣等感はそれなりに抱くから、可愛い子のそばにいると余計に自分が惨めに思えてきてしまう。
可奈のことは大好きだけど、羨望の眼差しを向けてしまうのも事実。となりを歩きたくない、なんて。そんな身勝手で理不尽なことすら浮かんできてしまうときがある。可奈は何も悪くない。わたしにとって、大切な親友なのに。彼女のとなりに並ぶと、周りから比較されて嘲笑われているような気がして、ひどく落ち着かなくなってしまうのだ。
「もしよかったらだけど……」
自らのズボンの裾を掴んだ香山くんが、まっすぐに可奈を見つめている。星野はそのとなりで黙って空を見上げて、これから続く言葉を悟っているような顔をしていた。なんだか居心地が悪くて、わたしも同じように空を見上げる。もう暗くなってしまった空には、小さく星が輝きだしていた。
今日の花火は、綺麗に見えるだろうか。
そんなことを思いながら、耳だけは意識を香山くんの言葉に集中させる。
「花火、一緒に見ない? もちろん成瀬さんも一緒でいいんだ」
おお、と心の中で声が洩れる。なんだかわたしだけ雑な扱いをされた気がするけれど、まあ聞こえなかったことにしよう。香山くんの真意は正確には分からないけれど、可奈を誘うという行為自体、とてもハードルが高いことなので驚きが隠せない。勇気ある行動に、内心で大きな拍手を送った。
「え、と……栞ちゃん、どうする?」
困ったように眉を寄せて訊ねてくる可奈。誘われたのはあなたなんだよ、と思うと同時に、わたしにきちんと訊いてくれるところがまた彼女らしいなと思った。ちらと香山くんに視線を遣ると、祈るような目でこちらを見ている。わたしに承諾してほしいという気持ちが前面にあらわれていた。
「可奈は、どうしたいの?」
ここはやはり、本人の気持ちがいちばんだ。もし可奈が嫌なら、それは十分断る理由になる。
「私は……栞ちゃんに選んでほしい」
上目遣いで言われてしまえば、誰だって簡単に断ることなどできない。男性からの誘いをまったく関係ないわたしが決めるなんて、まったくもって理解不能すぎる話だけれど、可奈がそれを望むのなら仕方がない。もう一度香山くんに目を向ける。香山くんは顔の前で手を合わせて、ガバッと頭を下げた。
「……あー、じゃあ一緒でいいんじゃない? 大人数で見た方が楽しいだろうし」
結局、圧に負けてしまった。小さく息を吐きながら言うと、香山くんは「ありがとう」と途端に目を輝かせた。
「可奈、ほんとにわたしが決めてよかったの?」
「うん。ありがとうね、栞ちゃん」
どこか寂しげに目を伏せる可奈を「あっちに座ろうよ」と香山くんが促す。そのまま図々しくも、ノーリアクションの可奈の肩を抱いて、ずんずんと歩き出してしまった。
「可奈……」
呟きが、果たして届いたのか否か。あっという間に香山くんに連れていかれてしまった可奈は、人混みに紛れて消えてしまった。一瞬見えた翳りは、きっとわたしが生み出してしまったものだ。途端に罪悪感に苛まれる。香山くんにとってはいいことをしたかもしれないけれど、可奈にとってあれが果たして良い選択だったのか、きっぱりと頷けるわけではない。
「……浴衣」
残されたもの同士、気まずい沈黙を破ったのは星野だった。「ん?」と聞き返すと「それ、向日葵か」とまた返される。
「いや、どうやったらこれが向日葵に見えるの」
「じゃあ、何の花だ」
「……菖蒲だよ」
ふうん、と呟いた星野は、くるりと背を向けて歩き出す。涼しそうな白いTシャツから伸びる白い手を頭の後ろで組んで、空に顔を向けながら足を進める星野。モデル顔負けのスタイルが一際目立っていて、私服に少しときめいてしまった自分が悔しい。
「待って……! 場所分かるの?」
「香山から連絡きてる」
片手でスマホを振る星野に追いついて、となりに並ぶ。星野はわたしにスマホの画面を見せて苦笑した。
「いいベンチが空いてたんだとさ。座る順番もほら、決められちまってる」
そこには添付されたベンチの写真と、『星野、成瀬さん、小鞠さん、僕の順番でよろしく!』というメッセージが表示されていた。一応わたしと可奈が隣になるように配慮してくれたみたいだけど、それにしても可奈のとなりをがっつりキープしようとしている姿勢に、星野と同じく笑いが洩れる。もっとも、それは呆れからくる笑いだ。
星野が歩くたび、周りの可愛い女の子や綺麗なお姉さん方がきゃあっと小さな悲鳴をあげているのがうかがえた。ちらちらと控えめに視線を向けているようだけれど、残念ながらバレバレだ。本人はまったくと言ったように気にしておらず、ああそうか、普段から慣れているんだな、と格の違いというものを見せつけられたような気分だ。
嫉妬に溢れた視線を受け、逃げ出したくなっているわたしに星野が視線を移す。思わず「ひぇっ」と間抜けな声が飛び出した。
何か変な箇所があるのだろうか。彼の視線は、わたしの浴衣に向いている。
「その色……いいんじゃねえの」
「え?」
その色、がわたしが着ている浴衣の地の色のことだと気づいたのは、言われてから少し後のことだった。まさか褒められるとは思っていなかったからだ。
淡く紫を帯びた青。暗くて深いこの色は、深海をあらわすときに使われる紺青色。一目見ただけで心惹かれるほど綺麗で、落ち着きがあって、わたしはものすごく気に入っている色だ。
「なんか大人っぽくて、お前に合ってる」
「……え、なんか今日、変だよ。酔ってる?」
「まだ飲めねえよ馬鹿」
頭を小突かれそうになるけれど、星野は振り上げた左手を止めて、何もしないままおろした。いつもの星野とは違う不可解な行動に首を傾げると、「今日はさすがにだめだろ」と返ってくる。
「え?」
「……綺麗にしてんだろ。崩れたりしたらいけねえから」
トクン、と決して鳴ってはいけない音が鳴ったような気がして、慌てて視線を空に投げる。
どうか、聞こえていませんように。
この気持ちが、勘違いでありますように。
そっと目を閉じてそんな祈りを、静かに煌めく星々に込めた。