そろそろ、時間だ。大きな鏡で姿を確認して、自室を出る。
 修了式の翌日である三月中旬の今日。午前中は他用があると言われてしまったため、午後から彼とある約束をしたのだ。

「……お父さん、行ってきます」

 すごく広くて、わたしが思っているよりもずっとずっと小さい背中。呼びかけると、その肩がわずかに揺れたような気がした。

 わたしは今日、海に行く。大好きなお母さんを奪った海に。悔やんでも悔やみきれなかった海に。海が青いことを、そしてそれがどこまでも広がっていることを確かめるために。
 以前、星野が誘ってくれた海。あのときは断ってしまったけれど、いつまでも怯えているわけにはいかなかった。わたしは、もう今までのわたしじゃない。

「……栞」
「っ!」

 リビングを出ようとしていた足を止めて、振り返る。久しぶりに紡がれた名前は、自分のものなのにどこか他人のもののように聞こえた。懐かしささえ感じさせないそれは、驚きとわずかな嬉しさをわたしに与えた。

「お父……さ、ん」
「今まで悪かった……しおり」

 三音、はっきりと。わたしの耳に届くように、ひどく掠れて震えた声で、こわごわと紡がれる。目頭が熱くなって、気付けばじわりと涙が浮かんでいた。

「……おとう、さん」

 やっと、名前を呼んでくれた。ようやくわたしを、栞のことを見てくれた。色のないその瞳に映してくれた。

「……たくさん迷惑かけて、悪かった」
「ううん……そんなこと、ない」
「栞だって寂しかったはずなのに、父さんがこんなせいで、もっと寂しい思いをさせてしまってすまなかった」

 キラキラと光る指輪を愛おしそうにそっとなぞったお父さんは、俯いていた顔をゆっくりと上げて、わたしを見つめた。

 透明な、琥珀色の瞳。色を取り戻したその瞳は、言葉にできないくらいにとても綺麗だった。お母さんはきっと、お父さんのこの瞳が好きなのだろう。この瞳に惹かれて結婚したのだろうと、すぐに分かった。
 お父さんの世界に、わたしという存在が再び存在した瞬間だった。そのことが、ただひたすら嬉しくて。我慢していた涙が、零れ落ちる。

「これからもう一回頑張ろうと思う。大変な思いをさせると思う。それでも……父さんについてきてくれるか」
「そんなの……」

 ────当たり前でしょう。
 その言葉に、お父さんの顔がみっともなく歪んだ。ぽろぽろといくつもの涙が零れ落ちていく。

「凪海」

 この呟きが向かうのは、わたしではなく遥か彼方にある空の上。お父さんが、お母さんのために紡ぐ名前。大切で、美しい名前だ。

「どうか、見守っていてほしい」

 水縹の空は、どこまでも澄んで、広がっている。わたしたちをいつも見守っていて、優しさで包み込んでくれる空。

「お父さん、お母さんは海にいるんだよ」

 だけどきっと、お母さんは空じゃなくて海にいると思うから。果てしなく広い場所でも、必ずわたしたちのことを見つけてくれる。大好きな海の一部になって、いつでもわたしたちを見ていてくれるはずだから。ふふっと笑ってそう言うと、同じようにぎこちない微笑みが返ってくる。

「栞。いつか一緒に、母さんに会いにいこう。海に、行こう」

 その言葉に、強く頷いた。恐れて両者共に行けなかった海に、行く。わたしたちの新たなスタートだ。

「……良い友達を持ったな。大切にするんだぞ」

 お父さんが言っているのはきっと可奈のことだ。わたしのことだけじゃなくて、お父さんのことも救ってくれた────誰よりも大切な人。

「当たり前だよ。可奈はもうとっくに、わたしの大切な人だから」

 ありがとう、可奈。わたしたちを救ってくれて。長い長い闇の中から引き摺り出してくれて。

 そのときふいにインターホンが鳴った。

「……行ってこい」

 くるりと身体を回されて、トン、と背中を押される。振り返ると、そこには穏やかで優しげな"父親の顔"があった。最愛の人を亡くして、絶望して、それでも懸命に生きて、前を向いて必死に頑張ろうと決意するその顔は、ぎこちなくても、みっともなくても、わたしにとって一番格好いいものだった。


「よう……ってお前、何で泣いてんだよ」

 玄関の先には、焦りと困惑がまざったように眉を寄せる星野がいた。

「星野……海に行こう。一緒に、行ってほしい」
「そのつもりでここに来たんだろ。行くぞ」

 細くて白い手が差し出される。長くて繊細な指と、少しだけ骨ばった手。

 以前までは強引に掴まれて、振り払ってしまったその手を。何度伸ばされても、拒んでしまっていたその手を。

 今度はしっかりと、掴んだ。





 サァ────。

 おだやかな(さざなみ)が寄せては返し、また寄せては返す。真っ赤に燃える夕陽が、水平線の遥か彼方に沈みかけている。靴を脱いだ裸足の裏には、ざらざらとした砂の感触がする。
 時間がゆっくりと流れているような感覚に陥り、耳に届くのは静かな波の音だけ。そんな世界を共有していることに、なぜだか涙が込み上げてきそうになった。

「……綺麗だね」

 そんな言葉を呟けば、横から「ああ」と小さく返ってくる声。ふ、と小さく息を吐いて、透き通る海を見つめる。

 ……これで、十分(じゅうぶん)だ。

 ポケットから、切れてしまったネックレスを取り出す。海色のガラスドームを水平線の彼方にかざすと、光に溶けて海色の世界が淡く輝いた。

「成瀬」

 名前を呼ばれて、振り向く。そこには、目の前に広がる海の水と同じくらい透き通った、綺麗な瞳があった。

 ……似ている。ガラスドームの世界に似ている。

「……約束を果たしてくれて、ありがとう」
「約束?」
「ああ。遠い昔の────海の約束」

 その瞬間、星野の姿がある誰かに重なったような気がした。触れたら消えてしまいそうなくらい繊細で、涙を必死に堪えているような、小さな男の子の姿。どうしてか分からないのに、すごく懐かしい。わたしの記憶に眠る少年は、いつか見た幼い笑顔で笑った。ふいに涙が込み上げてきそうになって、ぐっと唇を噛みしめる。海色の瞳を静かに見つめ返すと、ふっとその瞳が細められる。そのとき、思った。

 星野の瞳がガラスドームに似ているんじゃなくて。
────ガラスドームが、この海色の世界が、星野の瞳に似ているんだって。

 初めて見たとき、強く心を惹かれたのは。思わず手に取ってしまいたくなったのは。きっと、星野の瞳に、わたしの心を掴んで離さない不思議な瞳に、似ていたからなんだって。
 ドクンッと高鳴る確かな音から逃げないように、ガラスドームを強く握りしめる。海はいつだってただそこにあって。わたしと人とを繋いでくれる、大切なものだった。

 これから先、またいくつもの年を重ねて。わたしたちはゆっくりと、けれど確実に大人になっていく。そのとき、彼がどんな形でわたしのとなりにいて、どういう立場でわたしが彼と並んでいるのか。今のように肩を並べて、他愛のない話をしているのか。そんなことは、到底分からない。
 けれどふと顔を合わせたときに、この一瞬で過ぎ去ってしまうような、儚くて、輝いていた日々を思い出して、記憶の蓋をそっと開けるように、そんなこともあったね、って。わたしたちが紡いだ一ページ一ページを何度も何度も繰り返して、笑い合えたら。きっと、これ以上の幸せはないだろう。

 気持ちはいつだって変化しうるから。将来、わたしのとなりを歩くのは星野かもしれないし、可奈かもしれないし、二人以外の誰かかもしれない。そのときはきっと、"ちゃんと"笑えている、はずだ。

 水の泡のようにふっと溶けて消えてしまうような、淡くて、夢のような日々。そんななんでもない一日一日を紡いで、物語をつくっていく。大きな出来事がなくても、それもまたわたしたちだけの、世界に一冊だけの本だから。日常を切り取ったような、なんでもない毎日の繰り返し。ふとした瞬間に懐かしさと共にリフレインするような、そんな物語でもいいんじゃないか、なんて。

「ねえ、星野……そばにいたい」

 すっと流れた瞳がわたしを捉える。かつて、わたしが苦手だった瞳。透き通っていて、心の奥まで見透かしてしまうような、そんな瞳。さらりと吹いた春風が頬を撫でて、髪をさらって海に消える。波の音だけが耳朶に響き、海の色をした瞳が今まででいちばん柔らかく、愛しさを含んだものに変わった。

「俺も」

 それだけだった。秘めていた想いを交わすには、不確かで、端的で、短すぎるもの。けれど、それでよかった。わたしたちの間には、明確な言葉なんていらない。はっきりとした関係性なんていらない。
 ただ星野がいて、となりにわたしがいる。わたしがいて、となりに星野がいる。
 それがすべて。

(わたしは彼が好きだ)

 この気持ちは、紛れもなく本物。誰に何を言われようとも、簡単に消すことも、なくすこともできない。ただまっすぐで、時には儚くて、ひたすらに美しいもの。

 そばにいたい。
 となりに並ぶ理由は、それだけで十分だった。そばにいたいと互いに願い、どちらからともなく寄り添い、となりに並ぶ。一言では言い表せないようなわたしたちの関係は、これがすべて。

「急ぐ必要なんてないだろ。俺たちは来年も同じクラスだ。そう断言しといてやる」
「……ふっ、なにそれ」
「言霊ってあるんだよ。信じれば、いつか本当になる。お前も声に出して信じろ、栞」
「信じれば、いつか本当になる……?」

 それは───…わたしたちが出会う前の、ずっとずっと遠い昔。聞き覚えのある言葉に首を傾げる。何か大切なことが思い起こされるような、そんな感覚に包まれる。

「いいから声に出せ。祈れ」
「……分かった。わたしと星野は、来年も同じクラスだよ」

 まあ、いい。思い出しかけた記憶も、彼と過ごすうちにいずれ思い出すだろう。今はただ、彼の言う通り声に出して祈るだけだ。
 来年も今と同じように、彼のとなりで過ごしていたい。ずっと彼のそばにいたい。

「言葉は人を追い込んで、臆病にさせることもあるけど……それ以上に、誰かを救ってやることもできるんだよ」
「星野や可奈がわたしを救ってくれたみたいにね」
「……逆の方が大きいだろうけどな」

 さらりと流れるように告げられた言葉に首を傾げると、ふっと笑みが降ってくる。

「なんで笑うの?」
「お前の顔が……あんまりにも変だったから」
「ねえそれただの悪口!」
「冗談だ、ばーか」

 顔を見合わせて、いつかのように互いに噴き出す。
 きっと来年もわたしたちはこうして笑い合っているのだろう。くだらないことで言い争って、競って、泣いて、また笑って。そんな毎日も悪くない。

「───来い、成瀬」
「えっ……」

 ぐいっと手を引かれて、海に足を踏み入れる。ざらざらとした砂の感触と、足に寄せる波の冷たさが心地よかった。

 これはきっと、夢の続きだ。
 星野は夢の世界にいるわたしを、ここまで連れてきてくれたのだ。いくら手を伸ばしても届かなかった海に、わたしを引っ張ってきてくれたのだ。

「……言っとくけど、これ夢じゃねえからな。現実だ」
「え……?」
「なんでもねえ。独り言」

 まるで心を読んだかのような言葉をくれる星野は、そう言って笑った。美しく煌めく海色の瞳が細くなって、同時にゆるりと口角が上がる。

「綺麗……」

 綺麗だ、何もかも。海も、空も、ガラスドームも、星野の瞳も。
 わたしの心を打って、揺さぶって、簡単には離してくれない。そんな圧倒的な力を持っている。

────他人以上、恋人未満。

 我ながら言い得て妙だと思っていた関係性も、もしかするとこれから変わるかもしれない、と頭の隅でそんなことを思った。淡く、今はまだぼんやりとしているけれど、それでも彼ならきっと本当にしてしまうのだろうと。言ったことは、すべて叶えてしまうのだろうと。世界中にあふれる綺麗なものに負けないほどの美しさを持つ彼を見つめながら思う。

「栞」

 あたたかい響きが、わたしを呼んだ。
 ほのかな香りとともに、はらはらと桜が舞う。いつか大切な人と見た雪のように白い花びらは、淡くピンクに色付いて、海色にまたひとつ色を加える。

「花びら、ついてる」

 海色の瞳が少しだけ近付いて、細い腕が頭に伸びてきた。トク、と小さな鼓動が響くと同時に、爽やかな香りが鼻腔をつく。

 ────ひらり。
 舞い落ちた桜は、水面に浮かんでゆっくりと漂う。
 海色の世界でそっと重なった影を、ただ静かに波がさらっていった。



 海色の世界を、君のとなりで。 了