季節は巡り、木の葉が色づく秋になった。
高校二年生の秋といえば、浮かんでくるのは高校生活における大きなイベントの一つとも言える修学旅行。
「どこ行くー?」
「渡月橋とかどう?」
「せっかく神社多いんだからさ、俺たちの班は神社めぐりしようぜ!」
クラスの端々からそんな声が上がっている。
行き先は京都で三泊四日。都会の学校はもっと長いのかもしれないけれど、田舎に住むわたしたちからすれば十分長い旅行だ。グループになって、自由行動の行き先を決めるこの時間に勝る授業が、果たしてあるだろうか。
「私たちはどこに行く? 栞ちゃん」
机の上にある『修学旅行のしおり』を開きながら、可奈がにっこりと笑いかけてきた。わたしもしおりに視線を落とす。表紙には、クラスで一番絵が上手いと言われている羽宮さんのイラストが大きく描かれている。
独特な絵だ、と思った。羽宮さんの絵をこうしてちゃんと見たことはなかったから、少し驚く。言い表すなら、個性的、という言葉がしっくりくるような。彼女にしか描けない、彼女だけの絵。上手いというのはもちろんだけれど、それよりも芸術性が高いと言う方が頷ける。それくらい、心を掴む不思議な絵。これは間違いなく天賦の才だ。根拠はないけれど、そう思わせてしまう彼女の絵は、やはり素晴らしいのだろう。
「……うーん。わたしは特に、どこでも」
そう言って、班のメンバーを見渡す。可奈、香山くん、そして────星野。幸か不幸か、くじ引きにより決まってしまったメンツは、正直良いのか悪いのか分からない。それでも、まったく知らない人たちじゃなかっただけ良かったと思うべきなのだろう。余計なことをしなければ、ちゃんと楽しめるはずだ。
「みんな、行きたいところある?」
行事ごとは毎度のことながら、自然な流れで班長になってしまったわたし。問いかけてみると、可奈は考え込み、香山くんは柔らかく微笑み、星野は瞑目してしまった。
「僕はみんなに合わせるよ」
笑顔のまま、香山くんが言った。わたしは内心、だろうな、と思う。香山くんは、そんな人だ。あまり個人の考えを主張しない控えめな性格で、いつもにこにこと笑みを絶やさないイメージ。それを長所と捉えるか短所と捉えるかは相手次第だ。だからこそ、夏祭りの時の可奈への勢いには驚いた。なんというか……漢を感じた、というか。
どういう繋がりなのかは分からないけれど、香山くんは星野と謎に仲が良い。仲が良いというか、星野があまり人と群れる性格ではないため、唯一話しているところを見る相手、と言った方が正しいかもしれない。夏祭りの時も一緒に来ていたし、星野も香山くんのやや強引な行動にヤレヤレといった様子で、あまり迷惑には思ってなさそうだった。
「お前、それでいいのかよ香山」
「えっ?」
黙っていた星野が口を開いて、香山くんを鋭い眼差しで見つめる。香山くんは驚いた顔をして一瞬固まったけれど、すぐに何か思いついたようで「いや……えっと……」と言葉を濁した。
「どこか行きたいところあるの? 香山くん」
訊ねると、香山くんは左右に瞳を揺らしたあと、
「清水寺に、行きたいです……」
と、か細い声で告げた。
「えっとじゃあ、わたしたちの班は清水寺に行くってことでいい? あとは周辺のお店を巡って時間を潰せばいいだろうし。とりあえずメインは清水寺で」
意見を聞いてまとめると、まず香山くんが「それがいいです!」と賛成し、それから可奈も「いいね!」と頷く。星野は黙ったままだったけれど、小さく頷いて賛成を示した。
「清水寺かあ……紅葉、綺麗だろうなあ」
「だね。超楽しみ」
はやくも修学旅行に思いを馳せる可奈にコクコク頷いて、修学旅行のしおりをめくる。
この修学旅行で、大切なものと出会うことになるなんて。この時のわたしには、知る由もないことだった。
◇
「わあ……綺麗すぎる」
「絶景だねー!」
目の前に広がる紅の葉。その美しさに思わず息を呑む。
「清水寺で大正解だったね! すごく修学旅行っぽいもん」
となりで目を輝かせる可奈にうなずいて、鮮やかな紅葉を眺める。清水寺。京の都。ついにきた修学旅行、なかなか順調な進みで自由行動までくることができた。
後ろをちらりと振り返ると、やけにそわそわした様子の香山くんと、それを呆れ顔で見ている星野。いったいどうしたんだろう、と不思議に思いながら、嬉しそうに紅葉を見る可奈に視線を戻す。
「綺麗だね、栞ちゃん……っ」
「うん、可愛い」
「……も、紅葉を見てよ栞ちゃんっ」
相変わらず可愛らしく照れた顔をする可奈にクスクスと笑って、紅葉を瞳に映す。可奈は反応が面白いから、時々からかいたくなってしまう。
「それにしても、本当に綺麗……」
「うん。なんだか心まで綺麗になりそう」
「可奈は十分きれいだよ」
そんなふうにやりとりをしながら、視線は前だけを見つめる。
どうしてあんなに綺麗な紅が出せるのだろう。息をするのも忘れてしまうくらい、ぐっと人を惹きつける溢れんばかりの魅力。
清水寺に来てよかった。本当に、よかった。香山くんナイスだよ、と心の中で称賛をおくったその時だった。
「小鞠、さんっ」
少し裏返った声が、可奈を呼ぶ。その声に、既視感ならぬ既聴感をおぼえる。くるりと振り返った可奈をまっすぐに見つめる香山くんは、ぶるぶると唇を震わせながら、何度も自らの拳を握りしめる。
これはいったい、何が始まってしまうのだろう。
困ったように眉を寄せる可奈は、不安げな瞳でちらりとこちらを見た。
「可奈……」
助けようと名前を呼んだ途端、パッと手を掴まれて振り返る。そこには、色素の薄い綺麗な顔があった。
「……星野」
何するの、と眉を寄せるものの、どこまでも無表情の星野に手首を掴まれたまま強く引かれる。当然のことながら、力の差は歴然だった。細身のくせに意外と力があるんだな、なんて、本人に言えば怒られてしまうようなことをぼんやりと思う。ずるずるとわたしを引きずるようにして二人のそばから離れた星野は、人気のないところまでくるとようやく手を離した。
「な、なにするの。可奈たちとはぐれちゃったじゃん」
「その方がいいんだよ」
「は……?」
何を言っているんだこの男は、と目線をきつくして睨むと、彼はやけに真剣な表情で息を吐き出した。
「……好きなんだって」
「え?」
「小鞠さんのこと。香山、好きなんだってさ」
突然の告白に目を瞬かせる。首を傾げるわたしに、星野は大きくため息を吐いて少しかがみ、言い聞かせるように目線を合わせた。
「ここは清水寺、そして修学旅行ときた。ほら、清水の舞台から飛び降りる思いで、って言うじゃねえか」
「えっと……それはつまり……告白?」
「そういうことだよ」
ええ!?と自分でも予想以上の声量が出てしまい、慌てる。周りにあまり人がいなくてよかったとホッと胸を撫で下ろした。
「香山くんが……可奈に?」
「それ以外誰がいんだよ。前々から頼まれてたから、俺は役目を果たしただけだ」
夏祭りの日。あの誘い方はもしやとは思っていたけれど。本当に、可奈のことが好きだったなんて。人間界に舞い降りた天使級に可愛い可奈だから、好意を持たれるということに関してはそんなに驚きはしない。それでも、リアルタイムで告る告られる状態になっているのなら、驚かずにはいられなかった。
どうりでそわそわしていると思ったら。香山くん、ここで告白するつもりだったんだ。
「それにしても、こんなにごった返してるとはな……」
「香山くんすごいね。普通に尊敬する」
こんな人混みの中想いを伝えるなんて、なかなかできることではない。それに、言ってはいけないかもしれないけれど、普段優柔不断でのほほんとしているあの性格。公開告白的なものを出来る人間とは到底思えない。
「香山はああ見えて、やるときはやる男だからな。言えずじまいはないと思うぜ」
わたしの心を読んだかのように、星野がそう言った。どこか誇らしげに言う星野を見ていると、なんだか無性に嬉しくなった。自然と笑いが込み上げてくる。
「何笑ってんだ」
「いや、なんか。星野もちゃんと信じられる友達がいるんだなって」
「なんだそれ。馬鹿にしてんのか」
眉間にしわを寄せる星野。しばらく顔を見合わせて、それからどちらからともなく噴き出した。
「……おもしれ」
「なにが?」
「お前の顔」
「ねえそれただの悪口!」
まったくこの男は。どこに行っても変わらない。せっかくの修学旅行だというのに、彼といるとなんだか日常生活のままの気分だ。それでも悪くないと思えてしまうわたしは、すでに手遅れなのかもしれない。
「たぶん、まだ終わってねーだろうし」
告白の結果はどうであれ、今戻るのは危険だろう。二人の問題に、部外者が関わるべきではない。後頭部で手を組んだ星野に軽くうなずく。
「……俺たちも時間潰しすっか」
「え」
「どうせ暇だろ。一緒にぶらついてやるよ」
こうしてふいに、わたしの胸を高鳴らせるのも。この男は、どこに行っても変わらない。
「美味そうだな」
清水寺参道は、たくさんの店舗と多くの人で賑わっていた。和風な街並みはまるで時代を遡っているようで、思わずふ、と息が洩れる。
右にも左にもたくさんのお店があって、美味しそうな食べ物が売られている。あんみつ、わらび餅、桜餅、みたらし団子。この道はどこまで行っても甘味処で溢れている。星野は視線を動かしながら、「美味そう」と再度呟いた。
「何か食べる……?」
「お前の奢り?」
「なんでよ」
ケラケラと笑う星野は、「嘘だよ」と言ってくしゃりとわたしの頭を撫でた。いや、撫でた、というより髪をかき乱した、という方が正しいかもしれない。
「ちょっと!」
「悪い」
言葉にしただけで全然反省の色が見えない彼。いつものことだ、と嘆息して、乱れた髪を整える。しばらくお店を眺めながら歩いていたそのとき。
「……あ」
一つのお店の前で、思わず足が止まる。甘味処ではないそのお店には、キラキラとした小物が飾られている。まるで見えない糸で引き寄せられるように、気付いたら近寄っていた。
「綺麗……」
思わず手に取ってじっと見つめる。
淡い海色をしたスノードームが煌めくネックレス。こういうものはガラスドーム、とも言うと聞いたことがある。そっと逆さにすると、星屑のようなたくさんの粒がキラキラと降った。
海の中の世界だ。濁りのない、真っ青な海の色。煌めく粒は、海底に沈むようにひらひらと舞い、粉雪のように降り積もる。
その世界は、涙が出そうになるくらい、ひたすら美しかった。
「……欲しいのか」
横から覗き込むようにして、星野が訊ねてくる。首を振って、わたしはそのネックレスをそっと机に戻した。
「ううん。ちょっと気になっただけ」
あまりにも、綺麗だったから。心が動くのを、はっきりと感じてしまったから。気付いたら、手に取っていた。
でもそれはきっと、海への憧れ。
この目で直接見られないからこそ、この小さな世界に閉じ込めておけたらどんなにいいだろうと、夢をみてしまっただけだ。
わたしには、綺麗すぎるから。美しすぎる世界だから。
わたしが手にすることなんてできない─────許されない、世界。
そのまま店を出ようとするわたしに、星野は訝しげな視線を向けてきた。思わず足が止まる。
「……ほんとに、いらねえの?」
「え」
まっすぐ、射抜くような視線。一度捉えたものは逃さないような、迷いのない瞳。
嘘つくな、と。ここでもまた彼はそう訴えているような気がした。
「気になってるんだろ。買えば?」
「……でも」
買ってしまったらきっと、海に行きたくなってしまう。でも、それは許されないこと。心も身体も、拒絶反応を起こしてしまうから。いつかの日のように、自分を抑えられなくなるだろうから。揺らぎそうになる気持ちをかき消すようにぶんぶんと首を振ると、星野はひとつ息を吐いて目を伏せた。
「買ってやる」
一言呟いて、わたしの言葉を聞くより先にレジへ持っていってしまった。そして素早く会計を済ませ、あっという間に戻ってくる。
「ほら」
「……え」
差し出された小さな袋には、先ほどの海色のネックレスが入っていた。それでも彼はいつも通り、なんでもないような顔をしているから、表情と行動のチグハグさに余計に混乱する。
「……お金、返すよ」
「いい」
「え、でも……」
「うっせーな。黙って受け取っとけ」
星野はそう一言だけ呟き、ずんずんと歩き出してしまった。慌ててその背中を追う。
「……」
少し前を歩いている彼の表情は見えない。
ねえ、星野。
いったいどんな顔をしているの? どういう気持ちでこれをくれたの?
訊きたいことは山ほどあるのに、わたしはそれすら訊くことができない。まるで口が糸で縫い付けられてしまったみたいだ。
「……お前は、分かりやすいんだよ」
「え?」
「なんでもねえよ」
聞き返したわたしにやや乱暴に言い放って、星野は前に進んでいく。
可奈たちとそろそろ合流しなくていいの、とか。時間大丈夫かな、とか。
そんな心配事は、頭にふっと浮かんだけれど。
────もう少しだけ、ふたりきりでいたい。
そんなよこしまな気持ちが邪魔をして、言葉にならないまま消えていった。
高校二年生の秋といえば、浮かんでくるのは高校生活における大きなイベントの一つとも言える修学旅行。
「どこ行くー?」
「渡月橋とかどう?」
「せっかく神社多いんだからさ、俺たちの班は神社めぐりしようぜ!」
クラスの端々からそんな声が上がっている。
行き先は京都で三泊四日。都会の学校はもっと長いのかもしれないけれど、田舎に住むわたしたちからすれば十分長い旅行だ。グループになって、自由行動の行き先を決めるこの時間に勝る授業が、果たしてあるだろうか。
「私たちはどこに行く? 栞ちゃん」
机の上にある『修学旅行のしおり』を開きながら、可奈がにっこりと笑いかけてきた。わたしもしおりに視線を落とす。表紙には、クラスで一番絵が上手いと言われている羽宮さんのイラストが大きく描かれている。
独特な絵だ、と思った。羽宮さんの絵をこうしてちゃんと見たことはなかったから、少し驚く。言い表すなら、個性的、という言葉がしっくりくるような。彼女にしか描けない、彼女だけの絵。上手いというのはもちろんだけれど、それよりも芸術性が高いと言う方が頷ける。それくらい、心を掴む不思議な絵。これは間違いなく天賦の才だ。根拠はないけれど、そう思わせてしまう彼女の絵は、やはり素晴らしいのだろう。
「……うーん。わたしは特に、どこでも」
そう言って、班のメンバーを見渡す。可奈、香山くん、そして────星野。幸か不幸か、くじ引きにより決まってしまったメンツは、正直良いのか悪いのか分からない。それでも、まったく知らない人たちじゃなかっただけ良かったと思うべきなのだろう。余計なことをしなければ、ちゃんと楽しめるはずだ。
「みんな、行きたいところある?」
行事ごとは毎度のことながら、自然な流れで班長になってしまったわたし。問いかけてみると、可奈は考え込み、香山くんは柔らかく微笑み、星野は瞑目してしまった。
「僕はみんなに合わせるよ」
笑顔のまま、香山くんが言った。わたしは内心、だろうな、と思う。香山くんは、そんな人だ。あまり個人の考えを主張しない控えめな性格で、いつもにこにこと笑みを絶やさないイメージ。それを長所と捉えるか短所と捉えるかは相手次第だ。だからこそ、夏祭りの時の可奈への勢いには驚いた。なんというか……漢を感じた、というか。
どういう繋がりなのかは分からないけれど、香山くんは星野と謎に仲が良い。仲が良いというか、星野があまり人と群れる性格ではないため、唯一話しているところを見る相手、と言った方が正しいかもしれない。夏祭りの時も一緒に来ていたし、星野も香山くんのやや強引な行動にヤレヤレといった様子で、あまり迷惑には思ってなさそうだった。
「お前、それでいいのかよ香山」
「えっ?」
黙っていた星野が口を開いて、香山くんを鋭い眼差しで見つめる。香山くんは驚いた顔をして一瞬固まったけれど、すぐに何か思いついたようで「いや……えっと……」と言葉を濁した。
「どこか行きたいところあるの? 香山くん」
訊ねると、香山くんは左右に瞳を揺らしたあと、
「清水寺に、行きたいです……」
と、か細い声で告げた。
「えっとじゃあ、わたしたちの班は清水寺に行くってことでいい? あとは周辺のお店を巡って時間を潰せばいいだろうし。とりあえずメインは清水寺で」
意見を聞いてまとめると、まず香山くんが「それがいいです!」と賛成し、それから可奈も「いいね!」と頷く。星野は黙ったままだったけれど、小さく頷いて賛成を示した。
「清水寺かあ……紅葉、綺麗だろうなあ」
「だね。超楽しみ」
はやくも修学旅行に思いを馳せる可奈にコクコク頷いて、修学旅行のしおりをめくる。
この修学旅行で、大切なものと出会うことになるなんて。この時のわたしには、知る由もないことだった。
◇
「わあ……綺麗すぎる」
「絶景だねー!」
目の前に広がる紅の葉。その美しさに思わず息を呑む。
「清水寺で大正解だったね! すごく修学旅行っぽいもん」
となりで目を輝かせる可奈にうなずいて、鮮やかな紅葉を眺める。清水寺。京の都。ついにきた修学旅行、なかなか順調な進みで自由行動までくることができた。
後ろをちらりと振り返ると、やけにそわそわした様子の香山くんと、それを呆れ顔で見ている星野。いったいどうしたんだろう、と不思議に思いながら、嬉しそうに紅葉を見る可奈に視線を戻す。
「綺麗だね、栞ちゃん……っ」
「うん、可愛い」
「……も、紅葉を見てよ栞ちゃんっ」
相変わらず可愛らしく照れた顔をする可奈にクスクスと笑って、紅葉を瞳に映す。可奈は反応が面白いから、時々からかいたくなってしまう。
「それにしても、本当に綺麗……」
「うん。なんだか心まで綺麗になりそう」
「可奈は十分きれいだよ」
そんなふうにやりとりをしながら、視線は前だけを見つめる。
どうしてあんなに綺麗な紅が出せるのだろう。息をするのも忘れてしまうくらい、ぐっと人を惹きつける溢れんばかりの魅力。
清水寺に来てよかった。本当に、よかった。香山くんナイスだよ、と心の中で称賛をおくったその時だった。
「小鞠、さんっ」
少し裏返った声が、可奈を呼ぶ。その声に、既視感ならぬ既聴感をおぼえる。くるりと振り返った可奈をまっすぐに見つめる香山くんは、ぶるぶると唇を震わせながら、何度も自らの拳を握りしめる。
これはいったい、何が始まってしまうのだろう。
困ったように眉を寄せる可奈は、不安げな瞳でちらりとこちらを見た。
「可奈……」
助けようと名前を呼んだ途端、パッと手を掴まれて振り返る。そこには、色素の薄い綺麗な顔があった。
「……星野」
何するの、と眉を寄せるものの、どこまでも無表情の星野に手首を掴まれたまま強く引かれる。当然のことながら、力の差は歴然だった。細身のくせに意外と力があるんだな、なんて、本人に言えば怒られてしまうようなことをぼんやりと思う。ずるずるとわたしを引きずるようにして二人のそばから離れた星野は、人気のないところまでくるとようやく手を離した。
「な、なにするの。可奈たちとはぐれちゃったじゃん」
「その方がいいんだよ」
「は……?」
何を言っているんだこの男は、と目線をきつくして睨むと、彼はやけに真剣な表情で息を吐き出した。
「……好きなんだって」
「え?」
「小鞠さんのこと。香山、好きなんだってさ」
突然の告白に目を瞬かせる。首を傾げるわたしに、星野は大きくため息を吐いて少しかがみ、言い聞かせるように目線を合わせた。
「ここは清水寺、そして修学旅行ときた。ほら、清水の舞台から飛び降りる思いで、って言うじゃねえか」
「えっと……それはつまり……告白?」
「そういうことだよ」
ええ!?と自分でも予想以上の声量が出てしまい、慌てる。周りにあまり人がいなくてよかったとホッと胸を撫で下ろした。
「香山くんが……可奈に?」
「それ以外誰がいんだよ。前々から頼まれてたから、俺は役目を果たしただけだ」
夏祭りの日。あの誘い方はもしやとは思っていたけれど。本当に、可奈のことが好きだったなんて。人間界に舞い降りた天使級に可愛い可奈だから、好意を持たれるということに関してはそんなに驚きはしない。それでも、リアルタイムで告る告られる状態になっているのなら、驚かずにはいられなかった。
どうりでそわそわしていると思ったら。香山くん、ここで告白するつもりだったんだ。
「それにしても、こんなにごった返してるとはな……」
「香山くんすごいね。普通に尊敬する」
こんな人混みの中想いを伝えるなんて、なかなかできることではない。それに、言ってはいけないかもしれないけれど、普段優柔不断でのほほんとしているあの性格。公開告白的なものを出来る人間とは到底思えない。
「香山はああ見えて、やるときはやる男だからな。言えずじまいはないと思うぜ」
わたしの心を読んだかのように、星野がそう言った。どこか誇らしげに言う星野を見ていると、なんだか無性に嬉しくなった。自然と笑いが込み上げてくる。
「何笑ってんだ」
「いや、なんか。星野もちゃんと信じられる友達がいるんだなって」
「なんだそれ。馬鹿にしてんのか」
眉間にしわを寄せる星野。しばらく顔を見合わせて、それからどちらからともなく噴き出した。
「……おもしれ」
「なにが?」
「お前の顔」
「ねえそれただの悪口!」
まったくこの男は。どこに行っても変わらない。せっかくの修学旅行だというのに、彼といるとなんだか日常生活のままの気分だ。それでも悪くないと思えてしまうわたしは、すでに手遅れなのかもしれない。
「たぶん、まだ終わってねーだろうし」
告白の結果はどうであれ、今戻るのは危険だろう。二人の問題に、部外者が関わるべきではない。後頭部で手を組んだ星野に軽くうなずく。
「……俺たちも時間潰しすっか」
「え」
「どうせ暇だろ。一緒にぶらついてやるよ」
こうしてふいに、わたしの胸を高鳴らせるのも。この男は、どこに行っても変わらない。
「美味そうだな」
清水寺参道は、たくさんの店舗と多くの人で賑わっていた。和風な街並みはまるで時代を遡っているようで、思わずふ、と息が洩れる。
右にも左にもたくさんのお店があって、美味しそうな食べ物が売られている。あんみつ、わらび餅、桜餅、みたらし団子。この道はどこまで行っても甘味処で溢れている。星野は視線を動かしながら、「美味そう」と再度呟いた。
「何か食べる……?」
「お前の奢り?」
「なんでよ」
ケラケラと笑う星野は、「嘘だよ」と言ってくしゃりとわたしの頭を撫でた。いや、撫でた、というより髪をかき乱した、という方が正しいかもしれない。
「ちょっと!」
「悪い」
言葉にしただけで全然反省の色が見えない彼。いつものことだ、と嘆息して、乱れた髪を整える。しばらくお店を眺めながら歩いていたそのとき。
「……あ」
一つのお店の前で、思わず足が止まる。甘味処ではないそのお店には、キラキラとした小物が飾られている。まるで見えない糸で引き寄せられるように、気付いたら近寄っていた。
「綺麗……」
思わず手に取ってじっと見つめる。
淡い海色をしたスノードームが煌めくネックレス。こういうものはガラスドーム、とも言うと聞いたことがある。そっと逆さにすると、星屑のようなたくさんの粒がキラキラと降った。
海の中の世界だ。濁りのない、真っ青な海の色。煌めく粒は、海底に沈むようにひらひらと舞い、粉雪のように降り積もる。
その世界は、涙が出そうになるくらい、ひたすら美しかった。
「……欲しいのか」
横から覗き込むようにして、星野が訊ねてくる。首を振って、わたしはそのネックレスをそっと机に戻した。
「ううん。ちょっと気になっただけ」
あまりにも、綺麗だったから。心が動くのを、はっきりと感じてしまったから。気付いたら、手に取っていた。
でもそれはきっと、海への憧れ。
この目で直接見られないからこそ、この小さな世界に閉じ込めておけたらどんなにいいだろうと、夢をみてしまっただけだ。
わたしには、綺麗すぎるから。美しすぎる世界だから。
わたしが手にすることなんてできない─────許されない、世界。
そのまま店を出ようとするわたしに、星野は訝しげな視線を向けてきた。思わず足が止まる。
「……ほんとに、いらねえの?」
「え」
まっすぐ、射抜くような視線。一度捉えたものは逃さないような、迷いのない瞳。
嘘つくな、と。ここでもまた彼はそう訴えているような気がした。
「気になってるんだろ。買えば?」
「……でも」
買ってしまったらきっと、海に行きたくなってしまう。でも、それは許されないこと。心も身体も、拒絶反応を起こしてしまうから。いつかの日のように、自分を抑えられなくなるだろうから。揺らぎそうになる気持ちをかき消すようにぶんぶんと首を振ると、星野はひとつ息を吐いて目を伏せた。
「買ってやる」
一言呟いて、わたしの言葉を聞くより先にレジへ持っていってしまった。そして素早く会計を済ませ、あっという間に戻ってくる。
「ほら」
「……え」
差し出された小さな袋には、先ほどの海色のネックレスが入っていた。それでも彼はいつも通り、なんでもないような顔をしているから、表情と行動のチグハグさに余計に混乱する。
「……お金、返すよ」
「いい」
「え、でも……」
「うっせーな。黙って受け取っとけ」
星野はそう一言だけ呟き、ずんずんと歩き出してしまった。慌ててその背中を追う。
「……」
少し前を歩いている彼の表情は見えない。
ねえ、星野。
いったいどんな顔をしているの? どういう気持ちでこれをくれたの?
訊きたいことは山ほどあるのに、わたしはそれすら訊くことができない。まるで口が糸で縫い付けられてしまったみたいだ。
「……お前は、分かりやすいんだよ」
「え?」
「なんでもねえよ」
聞き返したわたしにやや乱暴に言い放って、星野は前に進んでいく。
可奈たちとそろそろ合流しなくていいの、とか。時間大丈夫かな、とか。
そんな心配事は、頭にふっと浮かんだけれど。
────もう少しだけ、ふたりきりでいたい。
そんなよこしまな気持ちが邪魔をして、言葉にならないまま消えていった。