海色の世界を、君のとなりで。

「りんご飴ある! あっ、こっちには綿飴があるよ!」

 大会が終わり、やって来た念願の夏祭り。わたしの浴衣の袖をちょんと引っ張りながら飛び跳ねる可奈は、黄色の地に真っ白な百合が咲いている浴衣を着ている。髪には浴衣に合った、可愛らしい花の髪飾りをつけていて、彼女が跳ねるたび、控えめに揺れている。
 穢れない彼女の象徴である純白は、夜の暗さにも溶けずに、その存在を美しく主張していた。

「そんなに急がなくても、りんご飴も綿飴も逃げないから」

 苦笑しつつ、手を引かれるまま彼女についていく。するすると人混みをすり抜けていく彼女が目指すのは、かき氷屋台のようだった。

「え、かき氷?」
「うん!」
「りんご飴と綿飴は?」
「それも食べるよっ」

 にっこりと笑った可奈は、列の最後尾に並んだ。ワクワクを隠しきれていない顔で「何味にしよう」と悩んでいる。彼女はわたしが思っていたより、意外と食いしん坊なのかもしれない。そんなことを思いながら、彼女の後ろに並ぶ。

「イチゴひとつお願いします!」
「じゃあわたし……ラムネで」

 王道なイチゴを頼んだ可奈は、満面の笑みでかき氷を受け取った。わたしもラムネを受け取り、人が少ないところに腰掛けて、かき氷を口に運ぶ。

「んっ! 美味しい!」
「ほんと。美味しいね」

 しゅわっとした感覚が口の中に広がり、夏らしい爽やかな味がした。かき氷を食べるのは何年ぶりだろうか、と頭の片隅で考えながら、イチゴのかき氷を食べる可奈を見つめる。

「……そんなに見られると、恥ずかしい、っていうか」

 わたしの視線に気付いた可奈が、ほんのりと顔を赤くさせて瞳を揺らした。

「ごめん。見惚れてた」

 かき氷を食べる可奈が、女のわたしから見てもあんまりにも可愛かったから、ついじっと見つめてしまった。きっと彼氏の前でもこんな感じなんだろうな、と思う。可奈の彼氏は毎日この可愛さと真正面から向き合わないといけないってことだ。可愛さを感じる分、自らの命の危機も感じて生きていかなければならないだろう。そこまで考えて、ふと思いついてしまった。

「可奈……今さらだけど、お祭りに一緒に来るの、わたしでよかったの?」

 可奈に彼氏がいるとかいないとか。そういう恋愛系の話はわたしたちの間では皆無だ。それは、やめようね、などと話したわけではなく、不思議と感覚的に話してはいけないような、独特なオーラというか雰囲気のようなものがある。

 可奈の恋愛話に全く興味がないと言えば嘘になるけれど、無理して聞き出そうとするくらい気になるわけでもなかったので、そのあたりはぼかして曖昧にしていた。可奈もわたしのことについて何も訊いてくることはなかったので、お互いにあまり干渉しないようにしていたのだ。けれどわたしが聞かされていないだけで、こんなにも可愛い可奈には当然彼氏がいるだろうから、年に一度のお祭りにわたしなんかと来ていてよかったのか、さすがに心配になった。

「どうして? もしかして私とは嫌だった?」
「いや、そんなことはないんだけど。可奈は彼氏がいるだろうし、その人とじゃなくてよかったのかな、って……」

 そう言った瞬間、ふっと可奈の顔に影がかかったように見えた。けれどそれは一瞬で、可奈は口角を上げて首を横に振った。

「ううん、いいの。栞ちゃんがいいの!」
「ほんとに? ……いや、嬉しいんだけどさ。こんなふうにはっきり言われるとさすがに照れる」

 えへへ、と笑った可奈は「栞ちゃん、ラムネ一口ちょうだい」とわたしに向き直った。

「うん。いいよ」
「やった! じゃあ……」
「はい、あーん」

 氷をすくって差し出すと、可奈はピタリと動きを止めた。パチパチと何度も目を瞬かせて、まっすぐにわたしを見つめてくる。絡まる視線のなか、時が止まったような気がした。

「なに、どしたの」

 ゆら、と可奈の瞳が揺れる。驚いたように硬直する可奈に、こっちまで何かあったのかと不安になってくる。もしかして、間接キスとかを気にするタイプなのだろうか。

「可奈?」
「……あ、ごめんっ。いただきます」

 そんなわたしの不安をよそにパクッとかき氷を食べた可奈は「……美味しい」と呟いて視線を逸らした。
 以前お弁当の卵焼きをもらったとき、箸のことをあまり気にしているふうではなかったから、今回はたぶん、わたしの思い過ごしだ。差し出したかき氷のストローを、不恰好になってしまった氷にさしたそのとき。


小鞠(こまり)さん……?」

 小さくて控えめな声が横から聞こえて、声がした方をパッと振り向く。カップから小さな氷の塊が地面に落ち、すうっと地面で溶けて消えていった。

「なん……で」

 可奈の苗字を呼んだ彼よりも先に、彼の隣にいる男子に視線が吸い寄せられて、思わずそんな呟きが洩れる。目に入る信じ難い光景に目を見開くわたしに、"彼"は軽く手を上げていつものようにへらりと笑った。

「よう」
「どうして……」
「どうしてってなんだ。俺だって祭りぐらい来る」

 何度かの言葉のラリーをしているわたしたちの横で、さっき可奈に声をかけた彼────香山(かやま)くんが照れたように頭を掻いた。

「こんなところで会うなんて……奇遇だね。小鞠さん」
「えっ、あ、うん。そうだね」

 にわかに困惑気味の可奈にふわりと笑いかける香山くんは、自らのとなりにいる男子に「な、星野?」と同意を求めた。星野は小さく頷いた後、肩をすくめて天を仰ぐ。そんな適当な返しで満足したのか、香山くんは可奈の方を向いてにっこりと笑い「会えて嬉しいな」と告げた。

「小鞠さん、今日はどれくらいまでいるの?」
「あ……えっと、花火が上がるまでは、いるつもりだけど……」
「そっか」

 香山くんの視界には、わたしのことなどまるで入っていないのだろう。言葉が向かうのも、瞳が向けられるのも、すべて可奈だけだ。

(そりゃそうだよね。そんなの分かりきったこと)

 何の需要もないわたしなんかを見るより、思わず抱きしめたくなるくらい可愛らしい可奈を見た方がいい。お祭りというイベントだからこそ、普段話しかけることができない分、勇気を出す場でもある。それは分かっているけれど、それでも少しだけ……さみしい。劣等感はそれなりに抱くから、可愛い子のそばにいると余計に自分が惨めに思えてきてしまう。

 可奈のことは大好きだけど、羨望の眼差しを向けてしまうのも事実。となりを歩きたくない、なんて。そんな身勝手で理不尽なことすら浮かんできてしまうときがある。可奈は何も悪くない。わたしにとって、大切な親友なのに。彼女のとなりに並ぶと、周りから比較されて嘲笑われているような気がして、ひどく落ち着かなくなってしまうのだ。

「もしよかったらだけど……」

 自らのズボンの裾を掴んだ香山くんが、まっすぐに可奈を見つめている。星野はそのとなりで黙って空を見上げて、これから続く言葉を悟っているような顔をしていた。なんだか居心地が悪くて、わたしも同じように空を見上げる。もう暗くなってしまった空には、小さく星が輝きだしていた。
 今日の花火は、綺麗に見えるだろうか。
 そんなことを思いながら、耳だけは意識を香山くんの言葉に集中させる。

「花火、一緒に見ない? もちろん成瀬さんも一緒でいいんだ」

 おお、と心の中で声が洩れる。なんだかわたしだけ雑な扱いをされた気がするけれど、まあ聞こえなかったことにしよう。香山くんの真意は正確には分からないけれど、可奈を誘うという行為自体、とてもハードルが高いことなので驚きが隠せない。勇気ある行動に、内心で大きな拍手を送った。

「え、と……栞ちゃん、どうする?」

 困ったように眉を寄せて訊ねてくる可奈。誘われたのはあなたなんだよ、と思うと同時に、わたしにきちんと訊いてくれるところがまた彼女らしいなと思った。ちらと香山くんに視線を遣ると、祈るような目でこちらを見ている。わたしに承諾してほしいという気持ちが前面にあらわれていた。

「可奈は、どうしたいの?」

 ここはやはり、本人の気持ちがいちばんだ。もし可奈が嫌なら、それは十分断る理由になる。

「私は……栞ちゃんに選んでほしい」

 上目遣いで言われてしまえば、誰だって簡単に断ることなどできない。男性からの誘いをまったく関係ないわたしが決めるなんて、まったくもって理解不能すぎる話だけれど、可奈がそれを望むのなら仕方がない。もう一度香山くんに目を向ける。香山くんは顔の前で手を合わせて、ガバッと頭を下げた。

「……あー、じゃあ一緒でいいんじゃない? 大人数で見た方が楽しいだろうし」

 結局、圧に負けてしまった。小さく息を吐きながら言うと、香山くんは「ありがとう」と途端に目を輝かせた。

「可奈、ほんとにわたしが決めてよかったの?」
「うん。ありがとうね、栞ちゃん」

 どこか寂しげに目を伏せる可奈を「あっちに座ろうよ」と香山くんが促す。そのまま図々しくも、ノーリアクションの可奈の肩を抱いて、ずんずんと歩き出してしまった。

「可奈……」

 呟きが、果たして届いたのか否か。あっという間に香山くんに連れていかれてしまった可奈は、人混みに紛れて消えてしまった。一瞬見えた(かげ)りは、きっとわたしが生み出してしまったものだ。途端に罪悪感に苛まれる。香山くんにとってはいいことをしたかもしれないけれど、可奈にとってあれが果たして良い選択だったのか、きっぱりと頷けるわけではない。


「……浴衣」

 残されたもの同士、気まずい沈黙を破ったのは星野だった。「ん?」と聞き返すと「それ、向日葵(ひまわり)か」とまた返される。

「いや、どうやったらこれが向日葵に見えるの」
「じゃあ、何の花だ」
「……菖蒲(あやめ)だよ」

 ふうん、と呟いた星野は、くるりと背を向けて歩き出す。涼しそうな白いTシャツから伸びる白い手を頭の後ろで組んで、空に顔を向けながら足を進める星野。モデル顔負けのスタイルが一際目立っていて、私服に少しときめいてしまった自分が悔しい。

「待って……! 場所分かるの?」
「香山から連絡きてる」

 片手でスマホを振る星野に追いついて、となりに並ぶ。星野はわたしにスマホの画面を見せて苦笑した。

「いいベンチが空いてたんだとさ。座る順番もほら、決められちまってる」

 そこには添付されたベンチの写真と、『星野、成瀬さん、小鞠さん、僕の順番でよろしく!』というメッセージが表示されていた。一応わたしと可奈が隣になるように配慮してくれたみたいだけど、それにしても可奈のとなりをがっつりキープしようとしている姿勢に、星野と同じく笑いが洩れる。もっとも、それは呆れからくる笑いだ。

 星野が歩くたび、周りの可愛い女の子や綺麗なお姉さん方がきゃあっと小さな悲鳴をあげているのがうかがえた。ちらちらと控えめに視線を向けているようだけれど、残念ながらバレバレだ。本人はまったくと言ったように気にしておらず、ああそうか、普段から慣れているんだな、と格の違いというものを見せつけられたような気分だ。

 嫉妬に溢れた視線を受け、逃げ出したくなっているわたしに星野が視線を移す。思わず「ひぇっ」と間抜けな声が飛び出した。
 何か変な箇所があるのだろうか。彼の視線は、わたしの浴衣に向いている。

「その色……いいんじゃねえの」
「え?」

 その色、がわたしが着ている浴衣の地の色のことだと気づいたのは、言われてから少し後のことだった。まさか褒められるとは思っていなかったからだ。
 淡く紫を帯びた青。暗くて深いこの色は、深海をあらわすときに使われる紺青色(こんじょういろ)。一目見ただけで心惹かれるほど綺麗で、落ち着きがあって、わたしはものすごく気に入っている色だ。

「なんか大人っぽくて、お前に合ってる」
「……え、なんか今日、変だよ。酔ってる?」
「まだ飲めねえよ馬鹿」

 頭を小突かれそうになるけれど、星野は振り上げた左手を止めて、何もしないままおろした。いつもの星野とは違う不可解な行動に首を傾げると、「今日はさすがにだめだろ」と返ってくる。

「え?」
「……綺麗にしてんだろ。崩れたりしたらいけねえから」

 トクン、と決して鳴ってはいけない音が鳴ったような気がして、慌てて視線を空に投げる。

 どうか、聞こえていませんように。
 この気持ちが、勘違いでありますように。

 そっと目を閉じてそんな祈りを、静かに煌めく星々に込めた。
***

 ヒュー、と小さな音が聞こえた次の瞬間。

────ドンッ。

 視界いっぱいに、大きな花がひろがった。その迫力に、思わず息を呑む。呼吸が、止まったかと思った。あまりに美しくて、言葉が出なかった。目を見開いて、満開の花によって彩られている夜空を見つめる。

……こんなに、綺麗だったんだ。

 心臓の音と花火の音が、同じくらい大きく響いている。心が震えるほど感動したとき、声は声にならないのだと認識させられた。魂を抜き取られたように呆然としながら、空を瞳に映す。
 次々とあがる花火が、夜空を彩っていく。色鮮やかな世界が目の前に広がった。

「綺麗だね……」

 夜空を見上げながら、感嘆の声を洩らす可奈。その声を聞きながら、わたしは夜空から目を離せないでいた。

 花火なんて、小さい頃から何度も見ていた。花火を見たのは、決してこれが初めてではない。それなのに、どうしてこんなにも心が動かされるような気持ちになるのだろう。

 心にぽっかりと空いた隙間をあの一瞬で埋めてしまうような、そんな圧倒的な力。泣きたくなるくらい、綺麗で、美しくて。

 わたしの右には可奈、そして左には星野がいる。何にも代え難い二人が、ここにいる。
 そのことが、わたしの心をこんなにもあたたかくさせるのだ。二人がどんな顔をしているのかは分からないけれど、思っていることはきっと同じ。

────綺麗。

 それはわたしたちだけではなく、ここにいる人たちみんなが、同じように思っているはずだ。
 年齢や性別、歩んできた人生と、これから歩む人生。そんなものは別々で、まったく知らない人たちなのに。この瞬間だけは、同じものをみんなで見上げて、綺麗なものを共有している。同じ心の動きを体験して、誰もがこの景色を目に焼き付けている。

(それって、すごいこと)

 決して交わらない運命で、関わることのない人たちであったとしても、同じ時間を共有している。そんな連鎖の中で、わたしたちは生きている。

 このまま時が止まればいいのに。この幸せな一瞬が、永遠に続けばいい。

 そんな叶いもしないことを願いながら、わたしはただひたすら、夜空に溶ける大輪の(しずく)を見つめ続けていた。



「送ってくよ」

 そんな言葉が可奈にかかったのは、花火が終わり、ぞろぞろと人の波が流れだした頃だった。

「一人で帰るんでしょ、小鞠さん」
「え……あ、うん。まあ……」
「だったら暗くて危ないし。送っていくよ」

 歯切れの悪い返事をする可奈は、ちらりとわたしに視線を遣った。そんな可奈に小さく首を振って、気にしないで、と伝える。
 わたしと可奈の家は、この祭りの場所からは互いに反対の場所にあるから、必然的に一人で帰ることになってしまうのだ。辺りはもう暗くて、たしかに可奈を一人で帰させることに多少の不安はあった。香山くんが名乗り出てくれるのであれば、可奈も一人で帰るよりは安心だろう。

「じゃあ、お願いしようかな」

 可奈の言葉に香山くんはぱあっと顔を明るくして「任せて」と意気込んだ。

「じゃあな、星野。あと、成瀬さん」
「あ……うん。ばいばい、可奈」

 小さく頭を下げただけの星野とわたしに向けて、香山くんが手を振る。けれどわたしは可奈のことで頭がいっぱいだった。どこか暗い彼女の名前を呼んで、手を振る。返ってきたのは弱々しい笑顔だけだった。

「気をつけて……」

 可奈の背中が小さくなっていくのを見送る。
 田舎の夜道は人通りが少なくて心配だけど、香山くんがそばにいるなら大丈夫だろう。ひょろっとしていて、お世辞にも屈強とは言い難い彼だけれど、それでもれっきとした男の子だ。自分から送ると言いだしたのだから、きっと何かあれば可奈のことを全力で守ってくれるだろう。
 ただひとつ気になることがあるとすれば、さっきの可奈の憂いを帯びた表情だけ。


「────帰るぞ」

 二人の背中が夜の闇に消えたところで、星野が言った。ずんずんと歩き出す背中を見つめていると、くるりと振り返った星野が「何してんだよ」と訝しげに眉を寄せる。

「え?」
「帰るっつってんだろ。来いよ」

 彼の言葉は喧騒にかき消されることなく聞こえているけれど、頭の中でその意味を上手く理解できない。パチパチと瞬きを繰り返していると、「チッ」と苛立たしげに舌打ちした彼はつかつかとわたしのもとへ戻ってきて、立ち尽くすわたしの手を強引に掴んだ。

「行くぞ」

 そのまま手を引かれて、歩きだす。突然のことに頭が真っ白になった。

 ……どうして。

 目の前でさらりと揺れる黒髪を見つめながら、心の中で問いかける。繋がれた手にすべての意識が引っ張られて、まともにこの状況を理解することができなかった。灯りのない薄暗い道を、星野に手を引かれたまま歩く。

 ドク、ドクと鼓動の音が鳴り響いて、星野に聞こえていないだろうか、と心配になった。
 会話を交わすこともなく、独り言を言うでもなく、ひたすら無言のまま歩く。気を張り詰めていないと、お互いの息遣いすら聞こえてしまいそうで、空気を吸えない呼吸を何度も繰り返す。

「お前も」

 ふいに、くるりと振り返った星野の顔を、わずかな月明かりが照らす。ドクンッと身体全体から鼓動が鳴った。今までにないような感覚だった。まっすぐに見つめてくる綺麗な瞳は、海に夜を溶かしたような藍色。それなのに、空に輝く星を凝縮させて詰め込んだような、夜の闇に負けないほどの煌めきを宿していて、その瞳から目が離せなくなる。

「女なんだから、一人だと危ねえだろ」

 ふっとその瞳が細められる。その瞬間、ぶわっと心の奥底から身体中を駆け巡るものがあった。

 ────だめだ。よくない。

 パッと繋がれていた手を振り払う。本能がこれ以上はだめだと叫んでいた。

 彼が一瞬目を見開いた。慌てて目を逸らして、胸の前で拳を握りしめる。

「……こういうの、やっぱ、違うよ」

 手を繋ぐ、という行為は普通、恋人とかそういう関係に近い人たちがすることだ。わたしと星野はそういう関係ではないのは明白で、だからこそ違和感がありすぎる。

「ここでいい。ありがとう、送ってくれて」
「おい、しおり……」

 すぐそこに家は迫ってきていた。これくらいなら、わたし一人でも帰れる。星野が今どういう顔をしているのか確認するのがなんだか怖くて、うつむいたままお礼を言って逃げるようにその場を去った。




「……っ、は……」

 空気が薄い。浅い呼吸を何度も繰り返して、街灯のない暗い道を走る。

 なんで。どうして。
 だめだよ────そんなの。

 走りながら、あの場面で手を振り払ったのも、逃げるようにここまで来たのも、すべて正解だったと思った。少しだけ惜しかった、なんて、決して思ってはいけない。
 わたしは"普通"ではないのだから。

「……っう」

 なぜだか無性に涙が込み上げてきた。拭うこともせず、感情にまかせてただひたすらに走る。涙のあとを夜風が撫でて、通り過ぎてゆく。唇を噛みしめてもとめどなく溢れてくるそれは、暗い道路にわずかなシミをつくった。

「もう、やだ……」

 どうしてわたしは自分の気持ちを表に出してはいけないのだろう。


 このまま夜に紛れてしまいたい。こんな自分、大嫌いだ。もしも存在を消すことができたなら、どんなにいいだろう。わたしが、成瀬栞という存在が、初めからこの世になかったのなら、きっとこんな感情を味わうことなんてなかったはずなのに。
 夜は感情の波が激しい。
 たとえ自分がどんなに幸せでも、つらいことがなくても、なぜか涙があふれてくる夜がある。自分自身、いったい何が哀しくて泣いているのかわからないのに、あとからあとから涙が出てきてしまって。誰もいない世界に自分だけポツンと取り残されてしまったような不安に襲われて、眠りにつけない夜がある。
 決して人には言えない。どうせ共感してもらえないから。

『なにそれ、病んでるふり?だっさ』

 痛いやつ認定されて、そんな言葉を言われてしまうのが目に見えているから。


 共感してもらえない孤独というものは、はかりしれないと思う。自分のものでさえよくわからないのに、ましてや相手の孤独を理解(わか)ってあげることなんて不可能だ。いつなんどきも孤独はその人のそばにいて、少しでも隙を見せると(むしば)もうとしてくる、深い深い闇。

 うう、と変な呻き声が洩れた。
 自分が情けなくなる。それと同時に、いつも楽しげに笑っているクラスメイトが猛烈に羨ましくなった。自分を見失ってしまうほどの闇も、苦しみも、何一つ背負っていないように見えてしまう。それは単に隠すのが上手いのか、本当に何も持っていないのか。後者の方が多いのだろうと考えてしまう自分の卑屈さと嫌らしさに、また涙が溢れてきた。

 ついさっきまで花火に感動していたのに、今抱いている感情は真逆だ。我ながら情緒が不安定すぎて、呆れと同時に笑いが込み上げてきた。

 泣きながら笑っている。笑っているのに泣いている。

 はたから見ると本当にどうしようもなく変人だ。
 そう思いながらひたすら走っていると、家の玄関まであっという間に着いてしまった。家の前のあかりすら灯っていない。目を瞑って、ゆっくりと深呼吸をする。

 ……きっと今日も、いつもと何も変わっていない。

 それはいいことであり、悪いことでもある。それでも、どうしようもないからわたしは同じような毎日を繰り返していくしかない。真っ暗な玄関には一足の靴が綺麗に揃えられていて、心の中で、やっぱり、とため息をついた。落胆に近いけれど、これはもはや諦め。期待の欠片すら、そこにはなかった。

「ただいま……」

 無駄だと分かっていても、一応リビングに顔を出す。電気もエアコンもついていない部屋の中で、お父さんが一人、静かに座っていた。カラカラ、と年季の入った扇風機がらしくない音をあげて回るのが視界に入る。わたしの声にゆっくりと振り返った父の顔は、暗くてよく見えない。助かった、と思った。

「おい、凪海(なみ)

 自室へ行こうと身をひるがえした途端、飛んできた声にビクリと肩が跳ねる。久しぶりにきいた父の声は、ひどく掠れていて聞き取りづらかった。驚いて硬直していると、さっきよりも大きな声で再び「凪海」と呼ばれる。

「わたしは……お母さん、じゃないよ」

 震える声で言うと、「そうか」と小さな呟きが返ってきた。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚になる。

「……ごめんね、わたしで」

 そんな言葉を置いて、自分の部屋に飛び込んだ。


 どんなにいいことがあっても、楽しいことがあっても、その二倍悲しいことや辛いことが増えていく。学校にも家にも、居場所があるようで、ない。一瞬でもいいから、すべてから解放されるような場所に行ってみたい。きっとそこは、以前わたしが望んだ何もない世界。

「苦しい……」

 どこにいても苦しくて、何をしていても呼吸がうまくできない。

 幸せそうに見える人はきっと、幸せを見つけるのが上手なんだと思う。ごくありふれた日常の中で幸福を得ることができる人は、長い人生の中でも両手で抱えきれないほどの幸せを感じながら生きていくのだろう。

 暗い部屋で静かに目を瞑る。まぶたの裏に、さっき見た花火の情景が浮かんだ。花火が上がった瞬間、たしかに心が動いたはずなのに、もうその感動は薄れてしまって思い出すことができなくなってしまっている。楽しい記憶がつらい感情で塗り替えられてしまったことにまた哀しみを感じるくらいなら、初めから楽しい思いなんてしないほうがいい。
 どんどん暗い気持ちに陥っていくのを打ち消すように、部屋のあかりをつけた。

「まぶし……」

 明るい、何もかも。
 暗い部屋に急にあかりがついたとき、しばらく眩しすぎて目を開けていられないように。暗い世界に慣れてしまったわたしにとって、周りの世界は明るすぎる。眩しすぎて、目を開けていられないほどに。

 きっと今日の出来事だって、星野の中ではほんの些細なことにすぎなくて、この先思い返して語り合うことなんてないだろう。それは分かっているのに、わたしの中でなかったことにできるかと問われたら、その答えは否だ。

 かすかな胸の高鳴りも、たしかな感動も、ついしてしまった拒絶も、小さく生まれた哀しみも。すべてわたしの心の中に残って蓄積されていく。

 蓋のない箱の中に、ゆっくり、ゆっくりと。
 季節は巡り、木の葉が色づく秋になった。
 高校二年生の秋といえば、浮かんでくるのは高校生活における大きなイベントの一つとも言える修学旅行。

「どこ行くー?」
「渡月橋とかどう?」
「せっかく神社多いんだからさ、俺たちの班は神社めぐりしようぜ!」

 クラスの端々からそんな声が上がっている。
 行き先は京都で三泊四日。都会の学校はもっと長いのかもしれないけれど、田舎に住むわたしたちからすれば十分長い旅行だ。グループになって、自由行動の行き先を決めるこの時間に勝る授業が、果たしてあるだろうか。

「私たちはどこに行く? 栞ちゃん」

 机の上にある『修学旅行のしおり』を開きながら、可奈がにっこりと笑いかけてきた。わたしもしおりに視線を落とす。表紙には、クラスで一番絵が上手いと言われている羽宮(はねみや)さんのイラストが大きく描かれている。
 独特な絵だ、と思った。羽宮さんの絵をこうしてちゃんと見たことはなかったから、少し驚く。言い表すなら、個性的、という言葉がしっくりくるような。彼女にしか描けない、彼女だけの絵。上手いというのはもちろんだけれど、それよりも芸術性が高いと言う方が頷ける。それくらい、心を掴む不思議な絵。これは間違いなく天賦の才だ。根拠はないけれど、そう思わせてしまう彼女の絵は、やはり素晴らしいのだろう。

「……うーん。わたしは特に、どこでも」

 そう言って、班のメンバーを見渡す。可奈、香山くん、そして────星野。幸か不幸か、くじ引きにより決まってしまったメンツは、正直良いのか悪いのか分からない。それでも、まったく知らない人たちじゃなかっただけ良かったと思うべきなのだろう。余計なことをしなければ、ちゃんと楽しめるはずだ。

「みんな、行きたいところある?」

 行事ごとは毎度のことながら、自然な流れで班長になってしまったわたし。問いかけてみると、可奈は考え込み、香山くんは柔らかく微笑み、星野は瞑目してしまった。

「僕はみんなに合わせるよ」

 笑顔のまま、香山くんが言った。わたしは内心、だろうな、と思う。香山くんは、そんな人だ。あまり個人の考えを主張しない控えめな性格で、いつもにこにこと笑みを絶やさないイメージ。それを長所と捉えるか短所と捉えるかは相手次第だ。だからこそ、夏祭りの時の可奈への勢いには驚いた。なんというか……漢を感じた、というか。
 どういう繋がりなのかは分からないけれど、香山くんは星野と謎に仲が良い。仲が良いというか、星野があまり人と群れる性格ではないため、唯一話しているところを見る相手、と言った方が正しいかもしれない。夏祭りの時も一緒に来ていたし、星野も香山くんのやや強引な行動にヤレヤレといった様子で、あまり迷惑には思ってなさそうだった。

「お前、それでいいのかよ香山」
「えっ?」

 黙っていた星野が口を開いて、香山くんを鋭い眼差しで見つめる。香山くんは驚いた顔をして一瞬固まったけれど、すぐに何か思いついたようで「いや……えっと……」と言葉を濁した。

「どこか行きたいところあるの? 香山くん」

 訊ねると、香山くんは左右に瞳を揺らしたあと、

「清水寺に、行きたいです……」

と、か細い声で告げた。

「えっとじゃあ、わたしたちの班は清水寺に行くってことでいい? あとは周辺のお店を巡って時間を潰せばいいだろうし。とりあえずメインは清水寺で」

 意見を聞いてまとめると、まず香山くんが「それがいいです!」と賛成し、それから可奈も「いいね!」と頷く。星野は黙ったままだったけれど、小さく頷いて賛成を示した。

「清水寺かあ……紅葉、綺麗だろうなあ」
「だね。超楽しみ」

 はやくも修学旅行に思いを馳せる可奈にコクコク頷いて、修学旅行のしおりをめくる。
 この修学旅行で、大切なものと出会うことになるなんて。この時のわたしには、知る由もないことだった。





「わあ……綺麗すぎる」
「絶景だねー!」

 目の前に広がる紅の葉。その美しさに思わず息を呑む。

「清水寺で大正解だったね! すごく修学旅行っぽいもん」

 となりで目を輝かせる可奈にうなずいて、鮮やかな紅葉を眺める。清水寺。京の都。ついにきた修学旅行、なかなか順調な進みで自由行動までくることができた。
 後ろをちらりと振り返ると、やけにそわそわした様子の香山くんと、それを呆れ顔で見ている星野。いったいどうしたんだろう、と不思議に思いながら、嬉しそうに紅葉を見る可奈に視線を戻す。

「綺麗だね、栞ちゃん……っ」
「うん、可愛い」
「……も、紅葉を見てよ栞ちゃんっ」

 相変わらず可愛らしく照れた顔をする可奈にクスクスと笑って、紅葉を瞳に映す。可奈は反応が面白いから、時々からかいたくなってしまう。

「それにしても、本当に綺麗……」
「うん。なんだか心まで綺麗になりそう」
「可奈は十分きれいだよ」

 そんなふうにやりとりをしながら、視線は前だけを見つめる。
 どうしてあんなに綺麗な紅が出せるのだろう。息をするのも忘れてしまうくらい、ぐっと人を惹きつける溢れんばかりの魅力。
 清水寺に来てよかった。本当に、よかった。香山くんナイスだよ、と心の中で称賛をおくったその時だった。

「小鞠、さんっ」

 少し裏返った声が、可奈を呼ぶ。その声に、既視感ならぬ既聴感をおぼえる。くるりと振り返った可奈をまっすぐに見つめる香山くんは、ぶるぶると唇を震わせながら、何度も自らの拳を握りしめる。

 これはいったい、何が始まってしまうのだろう。

 困ったように眉を寄せる可奈は、不安げな瞳でちらりとこちらを見た。

「可奈……」

 助けようと名前を呼んだ途端、パッと手を掴まれて振り返る。そこには、色素の薄い綺麗な顔があった。

「……星野」

 何するの、と眉を寄せるものの、どこまでも無表情の星野に手首を掴まれたまま強く引かれる。当然のことながら、力の差は歴然だった。細身のくせに意外と力があるんだな、なんて、本人に言えば怒られてしまうようなことをぼんやりと思う。ずるずるとわたしを引きずるようにして二人のそばから離れた星野は、人気(ひとけ)のないところまでくるとようやく手を離した。

「な、なにするの。可奈たちとはぐれちゃったじゃん」
「その方がいいんだよ」
「は……?」

 何を言っているんだこの男は、と目線をきつくして睨むと、彼はやけに真剣な表情で息を吐き出した。

「……好きなんだって」
「え?」
「小鞠さんのこと。香山、好きなんだってさ」

 突然の告白に目を瞬かせる。首を傾げるわたしに、星野は大きくため息を吐いて少しかがみ、言い聞かせるように目線を合わせた。

「ここは清水寺、そして修学旅行ときた。ほら、清水の舞台から飛び降りる思いで、って言うじゃねえか」
「えっと……それはつまり……告白?」
「そういうことだよ」

 ええ!?と自分でも予想以上の声量が出てしまい、慌てる。周りにあまり人がいなくてよかったとホッと胸を撫で下ろした。

「香山くんが……可奈に?」
「それ以外誰がいんだよ。前々から頼まれてたから、俺は役目を果たしただけだ」

 夏祭りの日。あの誘い方はもしやとは思っていたけれど。本当に、可奈のことが好きだったなんて。人間界に舞い降りた天使級に可愛い可奈だから、好意を持たれるということに関してはそんなに驚きはしない。それでも、リアルタイムで告る告られる状態になっているのなら、驚かずにはいられなかった。

 どうりでそわそわしていると思ったら。香山くん、ここで告白するつもりだったんだ。

「それにしても、こんなにごった返してるとはな……」
「香山くんすごいね。普通に尊敬する」

 こんな人混みの中想いを伝えるなんて、なかなかできることではない。それに、言ってはいけないかもしれないけれど、普段優柔不断でのほほんとしているあの性格。公開告白的なものを出来る人間とは到底思えない。

「香山はああ見えて、やるときはやる男だからな。言えずじまいはないと思うぜ」

 わたしの心を読んだかのように、星野がそう言った。どこか誇らしげに言う星野を見ていると、なんだか無性に嬉しくなった。自然と笑いが込み上げてくる。

「何笑ってんだ」
「いや、なんか。星野もちゃんと信じられる友達がいるんだなって」
「なんだそれ。馬鹿にしてんのか」

 眉間にしわを寄せる星野。しばらく顔を見合わせて、それからどちらからともなく噴き出した。

「……おもしれ」
「なにが?」
「お前の顔」
「ねえそれただの悪口!」

 まったくこの男は。どこに行っても変わらない。せっかくの修学旅行だというのに、彼といるとなんだか日常生活のままの気分だ。それでも悪くないと思えてしまうわたしは、すでに手遅れなのかもしれない。

「たぶん、まだ終わってねーだろうし」

 告白の結果はどうであれ、今戻るのは危険だろう。二人の問題に、部外者が関わるべきではない。後頭部で手を組んだ星野に軽くうなずく。

「……俺たちも時間潰しすっか」
「え」
「どうせ暇だろ。一緒にぶらついてやるよ」

 こうしてふいに、わたしの胸を高鳴らせるのも。この男は、どこに行っても変わらない。





「美味そうだな」

 清水寺参道は、たくさんの店舗と多くの人で賑わっていた。和風な街並みはまるで時代を遡っているようで、思わずふ、と息が洩れる。

 右にも左にもたくさんのお店があって、美味しそうな食べ物が売られている。あんみつ、わらび餅、桜餅、みたらし団子。この道はどこまで行っても甘味処で溢れている。星野は視線を動かしながら、「美味そう」と再度呟いた。

「何か食べる……?」
「お前の奢り?」
「なんでよ」

 ケラケラと笑う星野は、「嘘だよ」と言ってくしゃりとわたしの頭を撫でた。いや、撫でた、というより髪をかき乱した、という方が正しいかもしれない。

「ちょっと!」
「悪い」

 言葉にしただけで全然反省の色が見えない彼。いつものことだ、と嘆息して、乱れた髪を整える。しばらくお店を眺めながら歩いていたそのとき。

「……あ」

 一つのお店の前で、思わず足が止まる。甘味処ではないそのお店には、キラキラとした小物が飾られている。まるで見えない糸で引き寄せられるように、気付いたら近寄っていた。

「綺麗……」

 思わず手に取ってじっと見つめる。
 淡い海色をしたスノードームが煌めくネックレス。こういうものはガラスドーム、とも言うと聞いたことがある。そっと逆さにすると、星屑のようなたくさんの粒がキラキラと降った。

 海の中の世界だ。濁りのない、真っ青な海の色。煌めく粒は、海底に沈むようにひらひらと舞い、粉雪のように降り積もる。
 その世界は、涙が出そうになるくらい、ひたすら美しかった。

「……欲しいのか」

 横から覗き込むようにして、星野が訊ねてくる。首を振って、わたしはそのネックレスをそっと机に戻した。

「ううん。ちょっと気になっただけ」

 あまりにも、綺麗だったから。心が動くのを、はっきりと感じてしまったから。気付いたら、手に取っていた。

 でもそれはきっと、海への憧れ。
 この目で直接見られないからこそ、この小さな世界に閉じ込めておけたらどんなにいいだろうと、夢をみてしまっただけだ。

 わたしには、綺麗すぎるから。美しすぎる世界だから。
 わたしが手にすることなんてできない─────許されない、世界。

 そのまま店を出ようとするわたしに、星野は訝しげな視線を向けてきた。思わず足が止まる。

「……ほんとに、いらねえの?」
「え」

 まっすぐ、射抜くような視線。一度捉えたものは逃さないような、迷いのない瞳。
 嘘つくな、と。ここでもまた彼はそう訴えているような気がした。

「気になってるんだろ。買えば?」
「……でも」

 買ってしまったらきっと、海に行きたくなってしまう。でも、それは許されないこと。心も身体も、拒絶反応を起こしてしまうから。いつかの日のように、自分を抑えられなくなるだろうから。揺らぎそうになる気持ちをかき消すようにぶんぶんと首を振ると、星野はひとつ息を吐いて目を伏せた。

「買ってやる」

 一言呟いて、わたしの言葉を聞くより先にレジへ持っていってしまった。そして素早く会計を済ませ、あっという間に戻ってくる。

「ほら」
「……え」

 差し出された小さな袋には、先ほどの海色のネックレスが入っていた。それでも彼はいつも通り、なんでもないような顔をしているから、表情と行動のチグハグさに余計に混乱する。

「……お金、返すよ」
「いい」
「え、でも……」
「うっせーな。黙って受け取っとけ」

 星野はそう一言だけ呟き、ずんずんと歩き出してしまった。慌ててその背中を追う。

「……」

 少し前を歩いている彼の表情は見えない。

 ねえ、星野。
 いったいどんな顔をしているの? どういう気持ちでこれをくれたの?

 訊きたいことは山ほどあるのに、わたしはそれすら訊くことができない。まるで口が糸で縫い付けられてしまったみたいだ。

「……お前は、分かりやすいんだよ」
「え?」
「なんでもねえよ」

 聞き返したわたしにやや乱暴に言い放って、星野は前に進んでいく。

 可奈たちとそろそろ合流しなくていいの、とか。時間大丈夫かな、とか。

 そんな心配事は、頭にふっと浮かんだけれど。


 ────もう少しだけ、ふたりきりでいたい。


 そんなよこしまな気持ちが邪魔をして、言葉にならないまま消えていった。
***

「あたし、ちゃんと見てたよー? 可奈が香山に告られてるとこ」
「あ、ウチも見た見た!」

 布団を敷き終わった頃。
 旅館の一室、枕を抱えるようにして布団の上に座った白雪(しらゆき)さんが、にんまりしながら可奈を見た。寝転がったままの涼風(すずかぜ)さんも、口許を緩めて可奈に視線を遣る。

「やっぱモテ女は違うね」
「どこ行ってもモテるんだもん。そりゃ人生大変だなー」

 ケラケラと笑いながら身体を起こす涼風さん。

「せっかくの修学旅行だし? 学年一のモテ女もいることだし?」
「やるしかないっしょ、恋バナ!!」

 おーっ! と盛り上がってしまった二人。
 ちらと可奈を見ると、その横顔に一瞬スッと影が落ちた────ような気がした。けれど、二人はそんな可奈のようすに気付くことなく、話を弾ませていく。

「まず、結果から聞きたいよね。オッケーした? それとも振った?」
「……」
「なんでそんなにだんまりしてるの、可奈ちゃーん」
「教えてよ可奈。恋バナしようよ」

 二人に圧されて、可奈は力なく首を横に振った。

「え、まじ? 振った?」
「香山おつじゃん」

 ケラケラと笑う二人。わたしも告白の結果を気にしていた部分はあった。だからこの手の話になったこと自体、少し二人に感謝するところはある。

「でも、どうして? 可奈好きな人いんの?」

 白雪さんの言葉に、可奈は少し目を伏せる。それから「いないよ」と呟いた。そのようすに、どこか違和感を覚えてしまう。あまり言及しないほうがいいんじゃないか、と唐突に思った。

「ま、まあ誰でも色々あるよ。これ以上きくのはやめよう。ね?」
「そういう栞はどうなのよ」

 慌てて口を挟むと、今度は突然わたしに話の矛先が向いた。内心、やばい、と思いつつも笑顔を崩さないよう集中する。

「彼氏いる? そもそも好きな人とかいるの?」

 ぐっと言葉に詰まる。まさかこんな展開になるとは。

「いないよ。彼氏も好きな人もいない」

 小さく息を吸ってから、はっきりと告げる。返答が遅くなったり、声が震えたりは決してしなかったはずだ。上手くやり切れたはずだ。
 その瞬間、となりにいた可奈がこちらに視線を向けた。綺麗な瞳がゆら、と揺れる。何かに怯えるように、何度も。それから小さく強い光をその目に宿して、可奈は口を開いた。

「星野くんは……?」

 その瞬間、悟った。
 やっぱり、思っていた通りだった。薄々、というより、だいぶはっきりと気付いていた。

 星野を見つめるあの熱を含んだ眼差し。わたしがやむなく星野と過ごした次の日は、いつも少ししつこく感じるくらい問い詰めて。星野がわたしに話しかけてきたときに、となりからにわかに感じていた悋気(りんき)だって。

 すべて、彼女の想いが星野に向いているのなら、納得できる。

 彼女とは、"恋バナ"というものをあまりしてこなかった。可奈が男子から人気であることは知っていたから、きっと少女漫画のような、綺麗で美しくて楽しい恋愛をたくさん経験しているのだと思っていた。だから、わざわざ訊く必要もないだろうと思った。その方が、彼女にとっても楽だろうと。

 星野と可奈。文句の付けようがない美男美女カップルだ。

 ……その方がいい。その結末の方が綺麗だ。初めから、分かりきったことじゃないか。
 どうせわたしは、人を好きになってはいけないのだから。そういう人間として生まれてしまったのだから。だったら、わたしにできることは決まっている。わたしは可奈に向き直って、とびきりの笑顔を見せた。

「ないない! 星野でしょ? あんなやつ、あるわけないよ」

 あはは、とそれはもう豪快に笑ってみせた。首を振って。両手も振って。
 違うよ、と全力で表すように。

「でもさ、星野と栞ってめっちゃ仲良くない?」
「なんか二人だけの世界というか、雰囲気があるよね」

 白雪さんたちが顔を見合わせてそう呟く。やめて、言わないで。これ以上話さないで。心の中では叫んでいるのに、実際に声に出す勇気はなくて、わたしは曖昧に笑みを貼り付けた。この場をしのぐための、苦しくてどこか歪な笑みを。
 それでも、わたしが照れ笑いを浮かべていると誤解した白雪さんが、「そういえば!」と声を上げる。

 次は何を言われてしまうのだろう。耳を塞いでしまいたい気持ちを必死に堪えて言葉を待っていると、

「今日二人でデートしてたらしいね。他のクラスで噂になってたらしいよ」

と、案の定爆弾が投下された。白雪さんの言葉に、涼風さんもうなずいて同調する。どくどく、と自分の鼓動が速まっていくのを感じた。

 これはまずい。
 白雪さんがいうような『デート』はきっと、恋人同士の甘い雰囲気に包まれた空間のことだろう。星野とわたしはまったく違って、デートの『デ』の字もないけれど、一緒に歩いていたのは紛れもない事実だった。
 どう訂正しても、興味津々なようすで身を乗り出す彼女たちを説得できそうにはなかった。

「別に、星野とわたしはそんなんじゃないから」

 逃げ出したくなるのを抑えて、あくまで冷静な口調でわたしは言う。すると、「本当に?」と口許をニヤつかせた涼風さんが、

「そもそも、星野って栞としか喋らないし」

と、ぼやく。すかさず、白雪さんが

「たしかに、女子に興味なさそうだもんね」

とうなずいた。わたしは「そんなことないと思うけど」と消え入りそうな声でつぶやいて、身体を丸める。この空間から今すぐにでも消えてしまいたかった。
 ふと、可奈と視線が合う。

「……栞ちゃん」
「やめて」

 焦って、可奈の声を思わず遮ってしまった。その瞬間、可奈がハッと息を呑む。まるで言い訳をするように、早口でまくし立てる。

「たぶん可奈もみんなも、勘違いしてるから。ほんとに、わたしと星野はなんでもないの。恋人とか、好きだとか、あいつがそんな対象になるわけないじゃない」
「でも……だったらどうして」

 可奈が顔を歪めて、わたしの頬に手を伸ばした。ひやりと触れた可奈の手は、ひどく冷たかった。

「そんなに悲しい顔をしているの……?」

 そう言った可奈は、今にも泣き出しそうだった。眉を下げて、唇を噛み締めて。それでもまっすぐにわたしを見つめている。

「悲しくなんかないよ全然。見間違いだよ、こんなに元気だもん」

 へへ、と笑ってみせる。彼女はいつだってわたしを見ていてくれるから、この中途半端な気持ちだってとっくにバレているのかもしれない。そう思うと、とても怖かった。

「……それより、ひとつ疑問があるんだけど。星野と香山くんっていつからあんなに仲が良いの?」

 気持ちを見透かされるのが怖くて、わたしは強引に話題を変えた。ずっと気になっていたことだったから、なんとか話題につなげることができてよかったと心底安堵した。
 星野と出会ったのは高校生になってからで、それまでの彼の交友関係はまったく知らない。白雪さんと涼風さんは偶然にも星野と小学校から同じということを聞いていたから、何か知っているのもしれないと思ったのだ。

「あー、あそこは前から仲良いよね」
「うん。たしか小三の冬……? くらいからだったかな」

 中途半端な時期に違和感を覚えて首を傾げると、白雪さんは「星野って…」と涼風さんと顔を合わせた。

「小学一、二年は学校来てなかったんだよ。ずっと不登校って感じで」
「入学式から長く休んでる男の子、ってことでまあまあ噂になってた気がする。いったいどんな子なんだろうって誰もが気になってて。一時期、あんまり学校に来ないから病気なんじゃないかって噂もたって」
「えっ、病気……?」

 いつも元気そうな星野とはまったく結びつきそうにないワードに、心臓がドクッと嫌な音を立てる。ぶるぶると身体が震えだし、呼吸が浅くなっていく。目を見開いたわたしに、白雪さんは慌てて首を横に振った。

「でも結果的に星野は普通に冬から登校してきたし、今までずっと元気そうだから大丈夫だと思うよ。きっと家庭の事情か何かなんだと思う。本人も何も言わないから、みんなもそれほど気にしてないし。どうしても入学式から休んでると周りと壁ができちゃったり孤立しちゃうじゃん? そのときに、いちばんに話しかけにいったのが香山なんだよ。だから、その時から二人は仲が良いってわけ」
「そう、なんだ……」

 ────よかった。安堵の息を洩らすと、涼風さんは「やっぱり気になってるんじゃん」と笑った。わたしは慌てて手を振り、否定する。

「ち、違うよ。誰だって不安になるでしょ。ほら、病気とか、普段の生活の中で聞かないし」
「……ふっ、動揺しすぎ」
「違うってばっ」

 声が明らかに裏返っていて、顔が紅潮していくのが分かる。これでは、動揺が伝わってしまう。

「栞は星野のこと本当になんとも思わないの? 好きとかじゃなくても、気になるとか、みんなとは違うとか、特別とか」

 ────特別。
 その言葉だけが引っかかって、やや言葉に詰まると、やっぱりと言った様子で涼風さんが畳み掛けてきた。涼風さんの言葉に白雪さんも続く。

「なんとも思ってないことないんじゃなーい? ねえねえ栞、どうなの?」
「好きなんでしょ、星野のこと。ウチが見る限り、たぶん星野も栞のこと────」
「やめてってば!!」

 自分でも驚くほどの大きな声が出て、二人がハッと息を呑むのが分かった。ドッドッと鼓動がうるさい。

 どうしよう……どうしよう。またやってしまった。とうとう抑えきれずに出してしまった。わたしは何度やっても、冗談を上手く流せないし、物事を穏便に済ませることができない。

「……ごめん、言いすぎた。二人のことなのに、余計な口挟みすぎた」
「つい楽しくて調子に乗っちゃった。ごめんね、栞」

 申し訳なさそうに眉を下げる二人。
 違う、悪いのは二人じゃない。恋バナは修学旅行の夜の醍醐味だ。許容できないわたしがすべて悪いのだ。

「────ちょっと外出てくるね」

 いくら頑張って変わろうとしても、結局は失敗してしまう自分が情けなくて、みじめで、その場に残るのはさすがに耐えられなかった。
 力なく首を振って部屋を出る。どこまでも続く薄暗い廊下は、怖いくらいに静かだった。



「……栞ちゃん」

 ひゅうっと冷たい風が吹き、あまりの寒さに身震いする。ふいに後ろから声がかかり、ゆっくりと振り返る。

「可奈。こんなところに来たら風邪ひくよ」

 旅館の中で、唯一風に当たれるスペース。ベランダのようになっているここは、ちょうど先生たちの部屋から見えない角度にある。とはいえ見回りに来られたらいっかんの終わりだ。

「だから迎えにきたの」

 ふわっと微笑む可奈は、フェンスに寄りかかるわたしのとなりに並んだ。ふう、と息を吐いて、揃って空を見上げる。

「夜風って冷たいんだよ? こんなところにずっと居たら体調崩しちゃうよ」
「……うん。もう少ししたら戻る」
「じゃあ私も栞ちゃんが戻るまでここにいる」

 まるで決定事項とでもいうかのように微笑む可奈は、遠くの方に視線を投げた。

「迷惑かけてごめん。格好悪いとこ見せちゃったよね」
「ううん。全然そんなことないよ。栞ちゃんはいつだって格好よくて可愛い、私の憧れの人だから」

 ぶんぶんと首を横に振る可奈。優しい言葉までかけてくれて、心の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。

「……ねえ、可奈」
「ん?」
「────特別、って何だと思う?」

 ふと口をついた言葉に、自分自身でもびっくりする。無意識のうちに、わたしはあの言葉の答えをずっと考えていた。妙に引っかかりをおぼえた『特別』を見つけたくて、ついそんな質問をしてしまった。けれど友達に訊くなんてどうかしている。わたしは慌てて、答えなくていいよ、と首を横に振る。

「あれ、何言ってるんだろ。ごめん、なんでもな────」
「失っちゃだめなもの」
「……え?」

 ゆっくりと視線を向けると、そこにはひどく切ない表情をした可奈がいた。その顔がひどく大人びて見えて、ドクンッと鼓動の音がする。夜風が頰を優しく撫でた。

「この人がいないと私はきっと生きていけない。忘れようと思っても忘れられない。その人のためなら何だってできる。特別な人って、そんな人……かも」

 最後の方は恥ずかしさが込み上げてきたのか、徐々に声が小さくなっていく可奈。いつのまにか"特別"が、"特別な人"に限定されている。

「可奈にも、そんな人がいるの……?」

 視線を流すと可奈は唇を噛んで、星が輝く空を見上げた。きれいな横顔が、夜空に紛れる。溶けてしまいそうなほど儚かった。

「────いるよ」

 可奈は夜空から瞳を流してわたしを見つめた。それからふわっと、砕けるように笑う。奥深くに憂いが混ざっているような瞳がわたしを映している。

「……栞ちゃんの気持ち、分かるよ。好きになっちゃいけないのに、どうしても好きなんだよね」
「えっ」

 心を読まれたかと思った。必死にとどめている気持ちを見破られてしまったかと思った。暴れだす心臓を抑えるようにして、深呼吸する。それから頭に手をやって、そのまま下にすうっと指を滑らせる。

「……なんて、ね?」

 あははっ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた可奈。

「なんだ、驚いたじゃん」

 同じように笑ってみせると、可奈はより笑みを深めてくるっと身体の方向を変えた。

「寒いし、そろそろ戻ろっか。嫌だって言っても問答無用で連れていくからね」
「……うん。そうする」

 特別。
 わたしはいつかこの答えを見つけることができるのだろうか。正解のないこの世界で、自分なりの、自分だけの正解を見つけることができるだろうか。

 戻ろうとする可奈の小さな背中を、後ろから包み込むように抱きしめる。可奈が小さく息を呑んで「なぁに……?」と呟いた。

「ありがとう、可奈」
「……なにが?」
「────ぜんぶ」

 こうして迎えにきてくれたこと。もしわたしの気持ちに気付いていたとしても、気付かないふりをしてくれていること。誰よりもそばで見守ってくれていること。わたしのそばにいてくれること。わたしに、出会ってくれたこと。

 まだ伝えきれていないたくさんのありがとうを込めて。
 わたしはそっと、大切な存在を抱きしめる力を強めた。


「俺、好きなやついるから」

 その言葉を聞いた瞬間、ドキリと心臓が嫌な音をたてた。バッと咄嗟に身を翻して、壁に隠れる。十二月半ばの今日。窓の外では粉雪が舞い降りて、世界を白く染め上げていた。聞いてはだめだと頭の片隅で思うのに、足が固まったように動かない。息を殺してそろりとのぞいてみると、そこには顔を歪める女の子と、星野の後ろ姿があった。
 ツインテールをゆるく巻いて、メイクもバッチリな彼女は確か同学年で可愛いと噂されている牧野(まきの)さんだ。

「誰? 何組? もしかして他校の子?」

 せめて最後に少しでも相手の情報を聞き出そうとする彼女に星野は「それ、お前に言う必要あんの?」と冷たく言い放った。容赦ない彼の物言いに、牧野さんの顔がみるみる赤くなっていく。

 ……うわ、ひっど。

 彼の性格上、はっきりとものを言うことは分かっていた。けれど、もう少し言い方があったんじゃないの、と思ってしまう。もしわたしが牧野さんの立場だったら、好意を寄せていて勇気を振り絞って告白した相手にあそこまで冷たく言われてしまっては到底立ち直れないだろう。

「その子のこと、どれくらい好きなの?」

 彼女にも相当なプライドがあるようで、顔を真っ赤にしながらも星野に問いかけた。愛の重さなど、星野が答えるはずがない。だって、恋人はおろか好きな人の影すら見せなかったような男なのだ。
 うるせえ黙れと蹴散らされるに決まっている。どこかそんなふうに決めつけながら、彼の返答を待っていると。

「……すげえ好きだよ。誰よりも幸せにしてやるって決めてんだ」

 星野は不機嫌を露わにしながら、「残念ながらそいつにしか興味ねえんだよ」と加えて吐き捨てる。

 その声を聞いた瞬間、心臓が止まったかと思った。
 別世界の、どこか別の次元の星野みたいだった。こんなに不機嫌そうにしながらも、はっきりと答える星野ははじめて見たし、普段何事にも無頓着な彼のこんなに熱い言葉もはじめて聞いた。
 やがてパタパタと音を立てて牧野さんは走り去っていった。

 ずっと息を殺していたので、胸のあたりがひどく苦しい。空気を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

「……あれ」

 それなのに、なんだか胸のあたりがやっぱり苦しい。もやもやというか、むかむかというか、形容するのが難しい感情に包まれているようだった。

「……っ」

 喘ぐような呼吸を繰り返していると、ぐわん、と急に視界が歪む。そしてそのまま、ふらっと身体の力が抜けた。

「あぶねっ」

 咄嗟に伸びてきた腕に受け止められる。この、声は。

「……は、成瀬? お前、いつからここにいたんだよ」

 ぼんやりとする視界の中で、そろりと星野を見上げる。さっきの熱は、もうどこかにいってしまったみたいだった。そこにはいつも通りの星野がいて、そのことにどこか安心してしまう自分がいる。

(ああ……だめだ)

 目を丸くする星野の顔が急激にぼやけていく。

「成瀬?」

 胸の奥深く、すべてをしまい込んでいるような場所から、ぐっと何かが迫り上がってくるような感覚がする。

 意外だった。恋愛だけではなく、人生そのものに無頓着そうな星野が、想いを寄せる女の子がいたなんて。十人に聞けば十人が認めるような美形である彼のことを好きだという女子は何人か耳にしたことがあっても、彼が誰かを好ましく思っているという話は聞いたことがなかった。
 けれどあの性格からして、自分の気持ちや相手との進捗状況をべらべらと喋るようなことはないだろうから、単にわたしが知らないだけかもしれない。

「……おい、成瀬? 大丈夫か」

 焦ったような声と驚きが混ざったような顔を、暗くなっていく視界の隅にぼんやりととらえる。もう、意識を保っているのには限界だった。わたしを支える腕に体重をかけ、そのまままぶたをおろす。

「おい、栞っ」

 その声を最後に、わたしの意識は途切れた。




「────気がついた?」

 柔らかい声がした方を向くと、声によく合った優しい笑顔が向けられる。

「……ここは」
「保健室よ。軽い貧血をおこしたみたい。調子はどう?」

 ベッドに歩み寄ってくる先生は【養護教諭 岡本理子】と書かれた名札をつけていた。基本的に健康体で、保健室に来るのはこれが初めてだったので、当然彼女と言葉を交わすのもこれが初めてだ。

「大丈夫です」

 正体不明のむかむかは消えていて、安堵でふう、と息が洩れる。

「……どうか、されました?」

 さっきからやけにわたしの顔を見てくる先生に訊ねてみると、先生はゆるりと唇の端を上げて笑みの形をつくり、「実はね」と口を開いた。

「ここまで星野くんが運んできてくれたのよ。言わないでって口止めされていたんだけど、我慢できずに言っちゃった。格好いい彼氏がいて、頼もしいわね」

 にんまりする先生は、てのひらを合わせてうっとりとした表情をみせた。そのようすを見て、わたしは慌てて訂正する。

「わたしと星野は、そんなんじゃないんです」
「え……?」
「彼氏、とか。そういうのじゃないです、星野は」

 首を振りながらそう言うと、目を開いた先生は「あら、私ったら勘違いしてごめんなさい」と言って眉を下げた。

「……いえ」
「無責任な発言だったわね。以後慎みます」

 もう一度ふるふると首を横に振る。
 それでもしゅんと落ち込んだままの先生は、体調をうかがうようにわたしの顔をじっと見つめた。

「顔色はだいぶ良くなったわね。身体でどこか気になるところはない?」
「はい。もう大丈夫です」

 倒れるのはこれが初めてなので少々驚きはしたものの、星野がいてくれたからなんとか大事にならずにすんだ。

「体調に少しでも異変があったら、迷わず私に知らせるか病院を受診しなさい。倒れるっていうことは少なくともどこかに異常があるはずだから。万が一、貧血じゃない可能性もあるからね」
「分かりました。ありがとうございます」

 こくりと頷いてベッドから降りる。そのまま保健室から出ようとすると、「ちょっと待って」と突然腕を掴まれた。

「……え」

 振り返ると、真剣な面持ちでわたしを見つめる瞳があった。

「栞ちゃん」
「……はい」
「何か、悩み事があるんじゃない?」

 ドクッと心臓が一度大きく鼓動する。

「どうして……ですか」
「うーん。そんな顔、してるから……?」

 養護教諭の勘というやつらしい。「なんとなくそんな感じがするの」とわたしを見つめる瞳。何人もの生徒たちの相手をしてきているのだ。その目で見守って寄り添ってきているのだ。そんな瞳を誤魔化せるはずがなかった。押し黙ると、先生は切長の瞳をすっと流す。

「保健室を利用するのは、怪我や病気のときだけじゃないのよ?」
「え」

 目を見開くと、岡本先生はわたしの両手をあたたかい手でぎゅっと握った。

「心のケアをすることだって、保健室の立派な役目なの」

 眼鏡の奥にある切長の目がふっと細くなった。それから何度も大丈夫だよ、というように強く手を握られる。

「無理して話せとは言わないわ。けど、先生は栞ちゃんの味方だし、できることなら不安や悩みから解放してあげたいって思ってる」

 大人の、それも女性のあたたかさを感じるのは久しぶりだった。ポロポロと無意識のうちに涙が溢れ出す。

「今の時間は生徒もあまり来ないだろうし、少し話しましょうか」

 シャッ、とカーテンを閉めた先生は、わたしに椅子に座るよう促し、自らは向かいの席に座った。机の上に用意されていたお茶はまるでこの展開を予想していたかのように熱いまま用意されていた。

「ゆっくりでいい。できるところまででいい。栞ちゃんはいつも頑張っているんだから、たまには吐きだすことも大切よ?」

 言葉によって人から傷つけられたり、自分自身を傷つけたりしているはずなのに、言葉によって救われる。言葉を放つことで心に固い鍵をかけているはずなのに、言葉によってその固い鍵を外される。

「……どんな悩みでも、いいですか。引いたり、しませんか」

 人に相談をしたり、思いを打ち明けるということは、とても勇気のいることだ。そしてそれはわたしのように自分を隠して生きているような、嘘偽りの自分のまま生活しているような人ほど困難だ。

「当たり前じゃない。人間一人ひとり違うんだから、悩みの数だって違う。栞ちゃんの悩みや苦しみを完全に理解してあげることはできなくても、理解(わか)ろうと努力するつもりよ」

 まっすぐな瞳。澱みのない目。
 先生なら、きっと真摯にわたしと向き合ってくれるだろう。ただ同情するのではなくて、正しいことを教えてくれるような、そんな気がした。わたしが新たな一歩を踏み出せるように、大切なことを教えてくれる先生なのだろうと、そんな予感がした。

「……わたし」

 しまいこんでいた思いを吐き出す。心の奥底の汚い部分、見せたくない自分。深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。


┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈


 わたしは恋愛をしてはいけない人間なのかもしれない。
 そう思い始めたのは、中学三年生のときだった。正確に言えば、疑惑を持ち始めたのは中学一年生のとき。疑惑が確信に変わったのが、中学三年生のときだった。

『〇〇くんと〇〇さん付き合ったらしいよ』
『〇〇ちゃんってすごくモテるよね〜。可愛いし』
『でもめっちゃ性格悪いって聞いた』

 そんな噂話が飛び交うような年頃。小学生時代のような『みんな同じくらい大好き!』という感覚とはまた違うもの。異性として、恋愛的な意味での"好き"。多感な中高生にはもってこいの話題で、口を開けば恋バナか悪口。そんな年齢だからこそ、感じた違和感ははっきりだった。

『成瀬のことが好きです。付き合ってください』

 わたしは少々……急ぎすぎていたのだと思う。


 わたしは本を読むことが好きだった。長期休暇には、家から近い図書館に通い、たくさんの本を借りて家に帰り読み漁る。色々なジャンルを読んだけれど、やはり一番心惹かれたのは恋愛小説だった。いつかこんな恋愛をしてみたいと夢見ていたし、なにより幼き少女たちに夢を与える作家のことを尊敬していた。

 中学一年生になり、同じクラスの男子から告白された。いつも優しく接してくれ、明るくクラスのムードメーカー的存在の彼に気がついたら惹かれていて、人生初めての"彼氏"という存在に浮かれて付き合うことを承諾した。けれど返事をした、その瞬間。ぶわっとなんとも言えない、言葉では表し難い嫌悪感に身体が包まれ、吐きそうになった。

 気持ち悪かった。相手のことがではなくて、「付き合っている」という事実が。その状況下に置かれているということが、ずっと胸の中に大きなしこりとなって、存在していて。二ヶ月という、中学生にしてはほどほどとも言える期間で別れを告げた。他に好きな人ができた、と嘘をついて。
 それからしばらくして、だんだんその出来事の記憶も消えかかってきた中学三年生の夏。夏休みが始まる少し前に、告白された。相手は他クラスでイケメンと噂される人気者だった。

 一年生のときは、自分が子供すぎただけだったのだ。大人になりたいと背伸びをしてしまっただけだったのだ、きっと。そう思い込んで、必死に自分を納得させて、付き合った。
 けれど、やはりだめだった。一年生のときとまったく同じように、自分でもよく分からない嫌悪感に支配された。手を繋ぐとか、ハグするとか、そういうことに嬉しさやドキドキを見出せなくて、ただただ不快でしかなかった。そういうことを求められても応じることができなかったし、なにより応じられてもおかしくない状況、立場にあるということが気持ち悪くて仕方がなかった。

 そこで、はっきりと気がついた。わたしは、恋をしてはいけない人間だと。そういう人間として、生まれてきてしまったのだと。

 わたしは"普通"ではない。人を好きになって結ばれる。そんな単純で簡単なことすらできない人間なのだと。

 自分でもどうしていいか分からなかった。だって、小説の中の女の子たちは。頑張って恋が実って、それから先の輝く日々を大切に噛みしめて、あんなにも幸せそうだったのに。キラキラしていたのに。どうして、自分は恋ができないのだろう。なんで気持ち悪くなってしまうのだろう。震える指で、検索したあの日。

【蛙化現象】

 液晶画面に映し出されたのは、そんな四文字で。説明欄を見て、まるで自分の説明をされているのかと思った。それと同時に、なんて理不尽で自分勝手なのだろうと自嘲すら浮かべることができた。

 だって、普通に考えておかしい。
 好きな人と両想いになった途端、気持ち悪くなるのだ。嫌いになるのだ。触らないで、近付かないでと思ってしまうのだ。まったく意味がわからない。もし自分がされる側だったら、きっと怒るだろうし意味が分からなくて困惑するだろう。遊ばれた、と思ってしまうかもしれない。
 それでも、好きだった。確かに好きだったのだ、あの瞬間までは。想いが結ばれる瞬間までは、紛れもなく好きだった。間違いなく恋だったのだ。それなのに、どうして。
 コメント欄に無数と溢れる、批判の声。

『自分勝手すぎる』
『恋に恋しているだけ』
『理想高すぎ』
『される側、めっちゃ辛いよ』

……分かっている。そんなことは分かっているのに、気持ち悪いと思ってしまうのもまた事実なのだ。自分の気持ちなのに自分で制御できない。周りの人に理解してもらう以前に、わたし自身がわたしを理解できなかった。

 わたしだって、好きでこうなっているわけじゃない。わたしだってみんなみたいに人を好きになって、結ばれて、幸せになりたかった。画面をスクロールするうちに、目に入ったひとつのコメント。

『本当に好きな人と出会えたら、治りますよ』

 ひどく落胆した。"本当に好きな人"と出会うまで、あと何人と付き合えばいいのだろう。何人の男性を傷付ければいいのだろう。

 そもそも、"本当に好きな人"って何だ。嘘偽りの気持ちで付き合ったわけではない。同情したわけでも圧されたわけでもなく、好きだから付き合ったはずなのに。一年生のときも、三年生のときも、どちらも全力の恋だった。決して遊びだったわけでも、仕方なく付き合っていたわけでもない。

 もしも次好きになる人が本当に好きな人だったのなら、こんな思いもせずに幸せになれるのかもしれない。けれど、そんな保証はどこにもない。これでは、本当に好きな人と出会うまでの人を理不尽に傷付けることになる。

 そんなの、耐えられない。気持ち悪がられて、嫌われてしまうくらいなら、関わらないほうがずっといい。好意なんて、相手に伝えるべきじゃない。
 だから、わたしは。

 きっとこれは誰にも言ってはいけない、と。強く強く心に刻み込んで、これから先、決して恋愛をしないと決めた。

┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈


 ドンッ、と分厚いノートを机に置いた先生は、ペラペラとページをめくり「あった」と呟く。細かく色々な情報が書き込んであるそれは、先生自前のノートらしかった。

「蛙化現象ね……。近年よく耳にするようになった言葉だけど、名前がついていなかっただけで現象自体は昔からあるみたいよ。私も以前少し調べたことがあるんだけどね、女性のうちの約七割以上の人が蛙化現象を経験しているみたいなのよ。だから、結構身近にあるものみたい」
「そう……なんですか?」
「ええ。確実に蛙化とは言えなくても、それに近いような気持ちは経験してる人が多いってこと」

 わたしだけじゃなかったんだ。その事実だけで、幾分心が軽くなるような気がした。わたしだけが抱く気持ちではなくて、割とみんなが通る気持ちのひとつにあげられているものなのだと。

「こんなの理不尽だって、される側の方が何倍もつらいって分かってるんです。でも、人を好きになる気持ちは他の人と変わらず持ってるから……どうしようも、できなくて」
「それで苦しいのね」
「……はい」

 わたしの返答にうなずきながら、先生は顔を上げた。眼鏡の奥にある慈愛に満ちた瞳がわたしを見つめる。

「栞ちゃん。リスロマンティック、って知ってる?」
「りす……ろまん……?」
「リスロマンティック。相手に恋愛感情を持つけど、その相手から恋愛感情を持ってもらうことを望まないセクシュアリティの一つなの」

 初めて聞く言葉だった。先生を見つめ返して、その続きを聞く。

「人間さまざまなセクシュアリティがあるでしょう? 蛙化現象は否定されやすいけど、もしかしたらそれはリスロマンティックっていう性的指向の可能性もあるの。でもこれはあくまで知識として知っていてくれればいいだけ」
「……知らなかったです、そんな言葉があるなんて」
「リスロマンティックの他にも、手を繋いだりキスしたり、そういう身体の接触自体が嫌な人もいて、恋愛とか距離感に対して悩んでいる人は案外多いものなのよ。あとは、もともと好きになる性別が違う場合もあるわ。多種多様ね」

 自分のこの気持ちに特別な名前がついている可能性なんて、微塵も考えていなかった。
 リスロマンティック。この曖昧で理不尽な気持ちは、もしかするとわたしの性格の問題ではないのかもしれない。もともと生まれたときから持っていたもので、それに負い目を感じたり変えようとしなくても良いのかもしれない。
 わたしがそれに当てはまるかどうかは分からないけれど、わたしと同じように悩む人たちの中に、もしかするとリスロマンティックの人がいるかもしれない。もしも存在しているのならば、これに気づくことができるだけで、きっと少しでも救われるのではないか。

 少しでも言葉が浸透し、この気持ちがマイナスなものとして捉えられる機会を減らしたい。今はネット社会、影響力の違いはあれど、誰だってアクションを起こすことができる。そんな時代だ。
 自分の気持ちが、想いが、すべて在るべき場所にカチッとはまったような気がした。

「ただ……最近は【蛙化現象】が間違った使い方をされたり、意味を履き違えて使われるせいで、非難すべきものっていう認識に変わりつつあるから大変なのよね。蛙化現象は、好意が現れた、あるいは言葉にされた瞬間に起こるものであって、それ以外は単なる冷めた言い訳でしかないわ」
「だからネットにも誹謗中傷が多くて……」
「不思議な話よね。好きな人なのに、気持ちを返してもらった途端に生理的に嫌悪感を抱いちゃうんだから。片想いが実って両想いになってハッピーエンドってならないからこそ、人間って難しいなって思うわ」

 岡本先生はお茶を啜った。

「でも人間なんだから、仕方がないじゃない? 抱えるものは一人ひとり違う。それぞれが抱く思いだって違う。そうやって悩んで、葛藤して、ドキドキして、涙を流して。無責任なことは言ってあげられないけれど、いつかきっと、栞ちゃんの苦しみを分かち合える人が現れると思う。私はそう信じてる」

 分厚いノートをパタン、と閉じた先生は、「だからそんなに深刻に考えないで」と目を細めた。

「学生の時に焦るのは分かる。高校生なんて特に恋愛の話は多いから、どうしても周りと違う、って思っちゃうと不安になるよね」
「……はい」
「でもね栞ちゃん。未来はどうなっているか、そんなことは誰にも分からない。この世界に絶対はないし、だからこそ"奇跡"なんて言葉が生まれてる。この世界は、すべて奇跡の積み重ねなの。だから奇跡的な出会いをする可能性だって十分にあるのよ。青春を謳歌するあなたたち学生は余計にね」

 窓から入ってきた風が、髪の毛を揺らして通り過ぎてゆく。カチ、カチと時計の秒針の音だけが響いて、それ以外の時が止まったような感覚に包まれる。

「青……春」

 ずっとずっと、遠い言葉だと思っていた。わたしにはまったく関係のない話だと思っていた。高校生なんて、青春真っ只中と言っても過言ではないくらい、青春という言葉と結び付けられることが多くて。

「青春って……なんですか」

 分からない。今これが青春だ、なんて明確に分かるわけがない。青春の定義がないから。

「難しい質問ね……」

 首を捻った先生は、「強いて言うなら」と言葉を続ける。

「過ぎ去ったときにふと思い出すもの……じゃないかしら」
「……えっ?」
「大人になって振り返ってみたときに、キラキラしてたなあ、とか。楽しかったなあ、とか。そんなことをぼんやり思い浮かべて、ちょっと嬉しくなったりときめいたり、悲しくなったり切なくなったり。そんなものが、青春……なのかもしれないわね」

 見つめると、先生は「ちょっとポエムっぽかったかしら、恥ずかしい」と頬を赤く染めた。青春を語る先生に重なるように、少し幼い高校生時代の先生の姿が見えたような気がした。

「栞ちゃんが自分自身で気持ちを伝えないって決めているのなら、その意思に素直に従ったほうがいいと思う。でもふとした瞬間に、想いが溢れることもある。そのとき、自分を責めたり後悔ばかりしないで。進む道に間違いはない。進んだ道がすべて必然だから」

────進んだ道が、すべて必然。

 ストン、とまっすぐに胸に届く。これから先の未来、何が起きるかまったく分からない。けれど、どんな結末を迎えてもそれは必然だったと言えるなら。いかなる選択をしても、すべてわたしにとって正しいと言えるなら。
 目の前の霧が、少しだけ晴れるような気がした。

「少しは楽になった?」
「……はい。とても」
「それはよかった。いつでも待ってるから、つらくなったらまた来てね。私はいつでも栞ちゃんの味方だから」

 ふわっ、と笑う先生。
 そのときわたしは生まれて初めて、先生という存在の偉大さを感じたのだった。
 ほうっと白い息が暗い空にのぼって消えていく。

「すっかり暗くなっちゃったね」
「うん。冬だから日没早いよね」

 積もっている雪を踏みながら、二人で並んで歩く。冬は日が沈むのが早いので、部活が終わった頃にはもう外は真っ暗だ。

「わ……雪だ」

 空を見上げた可奈がつぶやく。同じように見上げると、暗い空からふわり、ふわりと桜の花びらのような雪が舞い降りてきた。

「……きれい」

 可奈は、淡いピンク色の手袋をはめた手で粉雪をつかもうとする。何度も何度も手を伸ばす可奈はまるで、雪の上を踊る天使のようだった。あるいは、小雪を降らせる雪の精霊かもしれない。きっと可奈に好意を寄せている男子たちが見たら、あまりの可愛さに卒倒してしまうだろう。

「可奈、あんまりはしゃぐと転ぶよ」

 大丈夫!と返す可奈は、夢中で雪をつかまえようとしている。本当に大丈夫かな、と心配になったそのときだった。

「わっ……!」
「可奈っ」

 雪に足をとられて転びそうになった可奈の腕を咄嗟に掴む。けれど、足場が安定していないせいか見事にバランスを崩し、二人して雪の上に倒れ込んでしまった。
 救いだったのは、雪が柔らかくふかふかだったということと、汚れひとつない真っ白な雪だったということだ。

「ほら、やっぱり転んだ」
「ごめん栞ちゃん」

 へへ、と笑う彼女はきっとさほど悪いとは思っていない。むしろこの状況を楽しんでいるように見える。

「……ふふ」
「あははっ」

 同時に噴き出す。くるりと寝返りを打つと、同じように寝返りを打った可奈と至近距離で目が合った。互いの吐く息が鼻先にかかってしまうくらいの距離に、思わず息を呑む。しん、と静まり返った世界はまるで二人きりになってしまったかのようで。ふわりふわりと降りてくる雪さえも空気を読んだかのように、静寂の世界に音を消して舞い降りてくる。

 間近で見た可奈の顔は、驚くほどに綺麗だった。白い肌は、雪よりも白く透き通っていて、色素の薄い瞳や鼻筋が通った小さい鼻も、潤った薄い唇も。何もかも、溶けてなくなってしまいそうなくらいに儚くて、綺麗だった。
 少しでも触れてしまえばこの雪に紛れて消えてしまうんじゃないか、なんて。そんなことを思ってしまうほどに美しい。ずっと可愛いと思っていたけれど、この子は"美少女"でもあるのだと。今この瞬間に、そう実感させられた。
 瞳を揺らした可奈は、目を伏せてきゅっと唇を結んでから、仰向けになって空を見上げた。

「栞ちゃん」

 赤い頬を緩めて、ふ、と可奈が白い息を吐く。二人きりの世界の中で、ふわり、ふわりと雪が舞い降りてくる。

「……私、好きな人がいるの」

 その言葉は、はっきりとわたしの耳に届いた。決定的な言葉を告げられると同時に、これで良かったじゃないか、と思った。これで、きっぱり諦められる。
 宣言をするということは、その人に対して本気を出す、ということを示唆している。好きとか好きじゃないとか、蛙化現象だとか。そんな自分の問題以前に、ライバルがこんなにも可愛くて優しくて人気者の可奈である時点で、最初から勝ち目なんてなかったのだ。

 ……そしてきっと、星野の好きな人は可奈だ。ううん、きっとじゃなくて、絶対。
 可奈はいつだって可愛くて、明るくて、性格が良くて、とても素敵で魅力的な女の子だから。男子からも女子からも人気が高くて、みんなの憧れの的だから。
 三人で会う時、なんとなく二人の間に不思議な雰囲気があることを知っている。阿吽の呼吸というか、互いが互いをわかっているような、形容できないそんなものが。もし二人が仲良くしていても、それはわたしが知るべきことではない。もし二人が同じ想いなら、わたしは素直におめでとうを告げるべきだ。やがて二人は付き合うことになるだろう。誰からも応援される美男美女カップルになって、ますます人気が出るだろう。

 ちらりと視線を流して可奈を見る。頬を赤く染めている可奈は、女のわたしが見ても、見惚れるほど可愛かった。数々の男子が惚れるのも分かる。そしてそこには星野も含まれているのだろう。空を見上げたまま、「栞ちゃん」と可奈が名前を呼ぶ。白い息がのぼっていくのを見つめていると、やや長めの沈黙が降りてくる。

「……可奈?」

 名前を呼ぶと、ふ、とわずかな吐息の後、可奈はまたわたしの方を向いた。少しでも近付けば鼻先が触れ合ってしまうくらいの距離で、色素の薄い大きな瞳が、わたしをまっすぐに捉えている。
 白い雪の上にのっていた手を握られる。手袋越しに伝わってくるのは、冷たさだった。それは果たして雪の冷たさなのか、それとも。

「────好き」

 まっすぐに向けられた瞳は、不安げにゆらゆらと揺れていた。これは、可奈がふと見せる瞳。

 とられたくない。

 そんな思いが強く出たときに現れる瞳だ。

「……えっ……?」

 可奈の瞳に映るのは紛れもなくわたしで、紡がれたのは本来星野に言うべき言葉で。息をするのも忘れて、その瞳を見つめ返した。

「私、栞ちゃんのことが好きなの。ずっと好きだったの────」

 どういうこと。いや、そういうこと?
 言葉のそのまま受け取っていいのか分からなくて、どうしていいのかも分からなくて、え、と小さくか細い声が唇からこぼれ落ちる。ぎゅっ、とわたしの手を握る可奈の手に力がこもった。強く、それでいて優しく。彼女はいつもこうだったな、と思う。

「好きになって、ごめん……」

 こうしていつも相手のことを考えて自分を押し殺して、それでも無理していつかは溢れてしまう。思いが口から出るときには、とうに限界は通り越していて。可奈はいつだって、誰かに助けを求めることをしないのだ。自分を責めて、責めて、せめて。
 するりと離れた手。ガバッと立ち上がった可奈は、振り返ることなく走り去っていく。

「……っ、可奈!」

 そんな叫びは────届かず。
 小さくなっていく背中を、降り積もる雪が静かに包み隠していった。
* *

 私が生まれて初めて好きになった人は。

 世界一可愛くて、格好よくて。

 優しくて、強くて。

 大切で、特別な。

 ────女の子だった。

* *

可奈side


『好きです。俺と付き合ってください!』

 あるときは直接言葉で。

『あなたに一目惚れしました』

 あるときは手紙で。

『付き合ってくれない?』

 あるときはネット上で。

『付き合ってほしいんだってさ。どうする?』

 あるときは友達伝えで。

 拒んでも拒んでも、何度も何度もその言葉は贈られてきた。


『人の彼氏取るとか、ほんと最低』

『調子にのってんじゃないわよ』

『お前の顔なんて二度と見たくない。この男たらし』


 違う、私は何もやってない。


『もしかして、アイツと付き合ったのか……?』

『そのネックレス、男から?』

『いい加減俺のこと見てくんねえかなぁ』


 違う、全部ぜんぶ、違う。

 こんなこと、私は望んでいなかった。
 彼氏とか、彼女とか。付き合うとか、別れるとか。好きとか、愛してるとか。本当に興味がなかったのだ。まったくと言っていいほどに。
 カップルを見るたび、幸せになってほしいと純粋に思っていた。だって、肩を並べる男女はどちらも嬉しそうに笑っている。こんなに幸せなことってない。

 恋人が欲しいから羨ましいんじゃなくて、綺麗な恋愛をしていることが羨ましかった。私の中での恋愛は、黒くてどろどろしていて、引き込まれてはいけない闇。それなのに、足掻けば足掻くほど足を取られて、深く、深く()まっていく。

 容姿は整っている方だという自覚はあった。過去の出来事を遡ってみると、認めなければ少しは嫌味になるくらいには。けれどそれを自慢しようとかそういうふうには思っていなかったし、肌の手入れや髪の巻き方、メイクの研究も怠らずにちゃんと努力していた。だから、みんなとなんら変わらない、普通の学生なんだよ、私は。

 成長すればするほど、恋愛の話は増えて、誰が付き合ったとか別れたとか、デートだとか浮気だとか。話を聞くことはあっても自分がしようとか、彼氏を作ろうとか。そうは思わなかったし、そもそも『恋人をつくらないと』という思考に辿り着くこと自体、あまり理解ができなかった。今まで想いを伝えてくれた男の子たちは、私の何を知っていて、どこを好きになったのだろう。そんな、単純な疑問をいつも抱きながら、相手が誰であろうと断っていた。


 新天地、春。誰もが新しい出会いに胸を躍らせ、入学する季節。
 どうせ今までと同じなんだろう。何も変わることなく、わたしは断り続けるだけ。好きな人や恋人なんて、一生できないまま終わるのかもしれない。

「え、まって? めっちゃ可愛くね?」
「うわマジじゃん。ねえ、名前なんて言うの? 何組?」

 ふいに両サイドから挟むように声をかけられ、足が止まる。こういうときは足を止めたらだめだったな、と止まってから思った。遅すぎた、何もかも。
 耳に入ってくる声は低くて。先輩なのか同級生なのかは分からなかったけれど、とにかく大きくて屈強そうな男子ふたり。

「あっれ、無視? 教えてよー」
「怖がられてんじゃん俺ら。優しーのになあ」
「……や、やめてください」

 鞄を握りしめて俯く。それでも、彼らは一向に離れようとしなくて、むしろこの状況を楽しんでいるようだった。

(……さいあく)

やっぱりマスクをしてくるべきだったかもしれない。眼鏡だけでは足りなかった。

「眼鏡、とってみてよ」
「絶対可愛いパターンじゃん」
「やっ……」

 顔に手が伸びてくる。何をするつもりなのか、そんなものは一瞬で分かった。必死に眼鏡を守るけれど、相手は男子、それも二人だ。力の差は歴然で、どう頑張っても敵うはずなかった。眼鏡がずれて、視界にあった囲いがなくなりかけた、その時。

「何してるんですか」

 飛んできた声に、男子たちの動きがピタリと止まる。その声は強いのに、それでもどこか震えていて。まっすぐに、こちらに飛んでくる。

「あ? 何だよお前」
「その子、嫌がってるじゃないですか。離してください」
「なんでお前に指図されなきゃなんねえんだよ」

 男たちの身体の隙間からちらりと見えたのは、長い髪を風に揺らし、まっすぐな瞳でこちらを見る女の子。しばらく黙っていた女の子は、ゆるりと口の端を上げると、片眉をあげて挑発するような笑みを浮かべた。

「入学式からナンパですか。だっさいなあ、もう」
「は? てめえやる気かよ」
「いいですけどわたし、武道を嗜んでいるんです。容赦手加減、できませんよ?」

 ぐっと言葉に詰まった男子たちは、私を掴む手を緩めて「覚えてろよ!」とお決まりの台詞を吐きながら去っていった。

「大丈夫?」

 すぐに駆け寄ってきたその女の子は、私の顔を覗き込んだ。琥珀色の瞳が光を受けて煌めいている。

「あの……武道、やっているんですか」

 助けてもらったお礼よりも先に口をついたのはそんな疑問だった。その子はパチパチと何度か瞬きをした後で、ペロッと舌をだす。

「あんなの嘘だよ。背が高いから強そうに見えるっていう謎理論を利用してみたの。あの男子たちは嘘だって見抜けなかったんだね。ラッキーだった」

 へへ、とお茶目に笑う彼女を見た瞬間、ドクッ、と大きな音が頭に響く。感じたことのないような、世界から音が消えたような感覚になる。

「……助けてくれて、ありがとうございます」
「全然! 可愛いからああいうのまくの大変でしょう。……一年生だよね?」

 こくりと頷くと、花が咲いたような笑みを浮かべる彼女。ぱあっと世界が華やぐような、そんな笑顔。

「わたし、成瀬栞。同じ一年生だから、タメ口でいいよ。あなたの名前は?」
「……小鞠、可奈」
「可奈、可愛い名前だね。よろしくね」

 差し出された手をおずおずと握ると、ぎゅっと強く握り返される。血液がものすごい速さで全身を駆け巡るような感覚がする。

「……その眼鏡」
「え」
「伊達?」

 こてん、と首を傾げて眼鏡を見つめる彼女。

「……うん、伊達」
「じゃあ目が悪いわけじゃないんだ。てことは、さっきみたいな(やから)が寄り付かないようにするためかな?」
「ふふっ……そう」

 自然と笑みが洩れてしまう。なるほどね、と呟いた彼女は、急に私の眼鏡に手を伸ばしてそれをさらってしまった。

「わっ……」
「やっぱ、こっちの方が可愛いよ。眼鏡したって可愛さ隠せてないし。何かあったらまた守ってあげるから、眼鏡外して学校来なよ。そっちの方がいい」

 微笑む彼女が、ふいにある人物と重なる。ドクッ、と一度。その高鳴りだけで十分だった。経験なんて一度もなくて、ずっとずっとわからなかったはずなのに。
 わかってしまったのだ、これがどういう気持ちなのか。

 ひらひらと桜が舞う春。出会いの、春。
 これが、私が人生初めての恋をした成瀬栞との出会い。そして私の、恋のはじまりだ。


『いつかあんなふうになりたいなあ』

 栞ちゃんの瞳に映れる存在に。
 知ってる?
 星野くんを見る栞ちゃんの目は、いつだってキラキラしているんだよ。

『星野くんは……?』

 お願いだから、頷かないで。
 頷いてしまったら、私の勝算はなくなってしまうから。

『栞ちゃんはいつだって格好よくて可愛い、私の憧れの人だから』

 世界で一番、特別な人。
 世界で一番、近くて遠い人。

『……栞ちゃんの気持ち、分かるよ。好きになっちゃいけないのに、どうしても好きなんだよね』

 ごめん、止められない。分かっているのに、もうどうしようもないの。
 この気持ちは本物で。

────あなたのことが、好きで好きでたまらない。


『あっ、星野くんこっちくる!』

『うわっ、腹チラとかご褒美じゃん。ねえ、栞ちゃん』

『星野くんと一緒のバスなんて最高!』

 バレたくなかった。気持ちが溢れてしまわないように、わざとそんな言葉を言って……なんて、そんなのは半分本当で半分嘘。

 確かめたかった。栞ちゃんが、星野くんに興味があるのかどうか。栞ちゃんがどんな反応を示して、私の言葉に同調するのかどうか。いつも冷たい態度をとる栞ちゃんを見て、安堵していたけれど、それでも、気付いてしまった。その冷たさは、本物じゃない。自分自身を抑え込むようなものだから、本当は、逆なんだって。
 だから私が星野くんを好きだって思わせるように振る舞ったら、諦めてくれるんじゃないか、なんて。そんな汚い考えすら浮かんで。

 人を好きになるということは、こんなにも幸せなのだと。そしてこんなにも苦しいのだと。私に教えてくれたのは、紛れもなくあなただった。

 好きな人のことは、嫌でも分かってしまう。ずっと、誰よりもそばで見ているから。表情の変化や、仕草。照れたときや何かを誤魔化す時に髪を触る癖だって知ってる。修学旅行の日、私の質問に対して答えながら髪を触っていたのだって、見てた。

 分かっていた。好きになってはだめだと。気付いていた。あなたがその瞳に映すのは、私じゃないと。
 それでも、止められなかった。抑えられなかった。
 恋という感情を知らなかった過去の私が聞いたら、いったいなんて言うのだろう。

『……栞ちゃんはさ。長い髪と短い髪、どっちが好き?』

 まだ私の髪が長かったとき。そう訊いたとき、あなたはちょっと止まって、それから柔らかく微笑んで。

『なにそれ。髪切るの?』

 手を伸ばして、私のミルクティーベージュの髪をさらりと梳いた。
 ねえ、知ってる?
 私がこの髪色でいる理由。

『なんか手放せないのよね。ずっと愛飲してるの』

 二人で向かい合ってとる昼食。あなたの手には、いつも紙パックのミルクティーがあった。

『でも、流石に糖分過多かなぁ。可奈は真似しちゃだめだよ』

 口角を上げて可笑しそうに笑い、ストローに口をつけてミルクティーを飲むあなたを見ていると。

……羨ましいな。

 ここまできてしまった私は、もうとっくに手遅れだ。それでも、あなたに愛されているのが羨ましかった。だから私も、あなたの好きなものに少しでも近付きたいと思った。
 この髪は、伝えられない想いの象徴。

『可愛い』

 明るく染められた私の髪を見て、そう言ってくれたとき。

……あなたのものになりたい。

 はっきりと思ってしまった。
 あなたが望むのなら、いくらでも男の子になろうと思った。髪を切って、身体を鍛えて、頑張って身長だって伸ばそうと思った。
 でも、本当は。

────女の子のままの私を、好きになってほしかった。

 だから。

『なにそれ。髪切るの?』

 そう言って、答えを返してくれなかったことがすごく嬉しかった。

 でも、現実はそう上手くはいかないね。
 素敵なヒロインのとなりには、いつだって格好いいヒーローがいて、可愛いお姫様のそばには、イケメンな王子様がいる。きっとあなたは優しいから、それでも私をそばに置こうとしてくれるでしょう? 困って、どうしていいか頭を悩ませて、傷つけないように細心の注意を払って。

 男の子同士、女の子同士の恋愛。
 だんだん受け入れられつつある世の中だけど、それでも非難の声はある。完全に誹謗中傷をなくすことは、不可能だ。
 ただもし、ひとつだけ願いが叶うのなら。

────ずっと、あなたのそばにいたい。

 そう思ってしまうのは、だめですか……?

 返事を聞くのが、怖い。自分で伝えたはずなのに、拒絶されるのが怖い。全部自分のせいなのに。関係を変えようと思って、動いたのは私だ。見ているだけでいい、となりにいるだけでいい。それだけで満足できなくなって、いちばんになりたいと願ったのは私だ。それなのに、勇気がでなくて。
 今まで自分に想いを伝えて、返事を聞いてくれた彼らがいかに凄かったのかを実感した。

 男子だからとか、女子だからとか、そんなのは関係ない。
 結ばれるのは奇跡だ。想いを伝えるのは難しい。同じように苦しいし、届いた時の嬉しさだって同じだ。

 たまたま私が女の子で、栞ちゃんが女の子だっただけ。
 ただ、それだけだ。それだけ、なんだ。

 笑ってしまうほど単純な話。人が人を好きになる。そこに理由や制限なんてない。

 栞ちゃん、しおりちゃん。
 大好き。大好きだよ。世界でいちばん好き。
 必ず、返事を聞きにいく。だけど、今はまだ勇気が出ないの。だから、もう少しだけ待っていてほしい。

 好きになって、ごめん。

 そして────ありがとう。

 雪が溶け、それでもまだ寒さは残る三月初旬。

 雨、降りそうだな。
 どんよりとした雲に覆われている空を見上げながら、重い足を前に進める。春に近付いているとはいえ、まだ寒さが和らぐわけではない。かといってマフラーをするのもなんだか気が引けて、首元には何も巻かない状態で風を感じながら歩を進める。

「……っ」
「あ、すんません」

 ドンッ、という衝撃が肩に走って、思わず顔を歪める。ぶつかってきたのはよく知らない男子だった。すらりとしているのにがっちりした肩まわりや、ガラス玉みたいな透明な瞳や、くっと引き結ばれた唇が、どことなく星野に似ている……ような気がした。一度小さく頭を下げて去っていく彼に悪気はまったくなさそうだったので、特に何も言うことなく会釈だけしておいた。


「……やっぱ、さみしいな」


 つい心の声が洩れてしまう。いつもとなりにいてくれる存在が、最近わたしのそばにはない。"あの日"から、可奈はわたしを避けるようになった。まだ何も言っていないのに、"言えていない"のに、強く拒絶されていて目を合わせることすらできていない。

 気を遣っているのだろうか。わたしが可奈のことを嫌いになったとでも思っているのだろうか。

 冷たい空気に、ほうっとあたたかい息を吐き出す。暗い空は街ごと包み隠してしまうように広がっている。

「……会いたい」

 怖いよね。嫌だよね。
 可奈がわたしを避ける理由のいちばんはきっとこれだ。わたしの口から、拒絶の言葉を聞くのが怖い。しかも相手は同性で、親友なのだから。可奈が抱える怖さは、わたしでは到底理解しきることはできない。
 それは、"告白する側"に立った者でないと、わかることなどできないのだろう。

 それでもわたしは、可奈に会いたい。可奈にとっていい返事をしてあげられてもあげられなくても、今のままでいたい、そばにいたいだなんて。
 そんなのは、わたしの勝手なわがままだろうか。


──
────
───────


「あれ……あれ、ないっ」

 異変に気付いたのは、日が沈んで少し経ったときのことだった。通学路を歩いて下校し、家に帰って首の周りに手をやったとき。あるものが"ない"ことに気付いたわたしは、必死に記憶を巡らせる。

……ないのだ。海色のガラスドームのネックレスが。

 いつも制服の下に隠して身につけていたネックレスがなくなってしまっている。

 どこかで落とした?
 今日の体育の授業のときも部活のときも、着替えるときにきちんと取り外したのを覚えている。着け忘れた……なんてことはないはず。ということは、失くしたのは通学路のどこかだ。
 もしかして、さっき男子とぶつかったときに切れてしまったのだろうか。けれど、ネックレスは何もしなくても切れるときは切れるって言うし……。
 そんなことをうだうだと考えている間にも、辺りは暗さを増していく。

「……探しにいこう」

 部活のジャージ姿のまま、家を飛び出す。暗い世界はいつだって、孤独の闇でわたしを包み込もうとしてくる。それでも。

「お願い、見つかって……」

 祈るような気持ちで呟きながら、ただ一筋の光を必死に探す。暗い道を、走って、走って。がむしゃらに、無我夢中で走る。

 それでも何も見つからないまま、学校のそばまで来てしまった。学校の門は固く閉ざされていて、わたしのかすかな希望でさえも一刀両断するようにどっしりと構えている。
これでは、中に入れない。

「あ……」

 ポツポツと空から粒が降ってくる。やがてそれは、一瞬にして激しいものに変わった。打ちつける雨が、わたしの髪やジャージを容赦なく濡らしていく。慌てて飛び出したため、傘を持っていなかった。

「どうしよ……」

 門から一歩後ずさる。
 これ以上は進めない。門が閉じているということは、そういうことだ。この先に進んではならない。もし進めば、見つかり次第先生に怒られてしまう。だから、だめだ。

 くるりと踵を返して、来た道を歩きだす。これでいいんだ。仕方ないじゃないか。天候も、時間も、なにひとつ味方してくれなかった。ネックレスだって、きっと明日探せば見つかる。通学路のどこかにあるのは確実なのだから、晴れた日にゆっくりと探した方がいい。
 たとえ見つからなくたって────。

「……っ」

 足が、止まった。止めようと思ったわけではないのに、地面に足が縫い付けられてしまったようにピタリと止まって動かなかった。身体が、心が、ここから離れることを拒絶している。

 だめでしょう、戻りなさい。

 そんな声が頭の中で響くような感覚がした。その声は、いったい誰のものなのか。自分のものじゃない。優しくて、懐かしくて、あたたかいその声は。間違った道を進もうとするわたしに、正しい道を教え諭すような、そんな響きをしていた。

『────また、なくすの?』

 柔らかく、それでもたしかな強さを秘めて。

 違うでしょう、間違っているでしょう、栞。

 雨音に紛れるようにして、それでもわたしの耳にはっきりと届いた声は、昔と変わらず穏やかで、強くて、落ち着いている。

『……進みなさい、栞』

 トンッ、と。
 わたしの背中を優しく押してくれた彼女(・・)は。

「……ありがとう」


 わたしがなくしてしまった────大好きな人。



 わたしの無駄な運動神経は、この日のために用意されていたのかな……なんて。大きく高いと思っていた門は、案外簡単に越えることができた。雨で濡れていたとしても、滑ることなく無事に敷地に入ることができて、幾分安堵する。
 生徒はもういない。先生は……どうだろう。数人残っているかもしれないけれど、これだけ暗いからきっと外のようすなんて見えやしないはずだ。

 男子とぶつかった場所まで、下を向きながら歩く。アスファルトは雨で黒く染まり、あたりいったい全て黒色の世界だ。
 空も黒、地面も黒、着ている部活の服も雨に濡れて黒、そんな中で降り注ぐ雨だけは透明なはずなのに、それでも空の色を通して黒く見えてしまうから。

「……まっくろ」

 そんな呟きすら雨に消されてしまう。

「なんか、わたしの世界みたい」

 どこにいっても、どんなときでも光なんて見えなくて。一度消えてしまったら、あかりは再びともることはない。そしてそのあかりを消してしまったのは、正真正銘、自分自身だ。
 もしもこの世に神様がいるのなら、どうか力を貸してください。
 あのガラスドームだけは、"なくしちゃいけないもの"なんです。
 今までなくしたものたちも、本当はすべて守りたかった。……けれどできなかった。

(わたしはもう二度と、同じ失敗を繰り返すわけにはいかない)

 だから、どうか、どうか。

「……あ」

 暗闇の中で、きらりと光ったものは海色。わたしの大好きな人を奪ったのも海色。わたしに愛を与えてくれたのも海色。わたしが恐れるものも海色。

 大切なものは、いつだって海色だった。

 近付いて、その"海色"を拾い上げようと屈む。けれど安堵からか、ガクンと膝から力が抜けてしまって。力なくその場に膝をついて降り注ぐ雨に打たれながら、そのガラスドームを握りしめる。濡れるとか、汚れるとか、そんなのはもうどうでもよかった。見つかるとか、怒られるとか、そんなこともどうでもいい。

 わたしがずっと恐れてきたもの、殻をかぶって守り続けてきた縛りは、これをなくすことに比べたらちっとも怖くない。そう思えてしまう圧倒的な存在に、きっとわたしは出逢ってしまった。

「……よかった、あった……」

 暗い世界。真っ黒な世界。どこまでいっても永遠と続く闇のような世界。
 ただ、そんな世界の中に唯一光るものがあったとすれば。消えてしまったあかりを、再びともしてくれる存在がいるとするならば。



「……何してんだよ、こんなとこで」



 それをわたしはきっと────特別、と呼ぶのだろう。