きっと出逢うべき人がいて。
きっと果たすべき約束があって。
どこで誰と交わしたのか、そんなことは分からないのに。
わたしはずっと、その奇跡を知っている。
真っ黒な世界を変えてしまう、たったひとつの特別な光を、いつだって探している。
*・*
さらりと風が吹き、流れるように髪がさらわれていった。
高校の入学式翌日。
まだクラスメイトの顔と名前が一致せず、慣れない制服に身を包んでいる、そんな日の放課後。
わたしは、海が見える屋上で、ある男子と対面していた。
「……あの、わたしに何か用ですか」
身構えながら問いかけると、フェンスに身を預けていた彼は、ゆっくりと身体を起こした。
細い黒髪が光に溶けて、淡く輝きだす。
「……お前さ」
初対面にも関わらずこうして屋上に呼び出し、挙句の果てにお前呼びまでしてくる彼は一体何者なのだろう。
人生一度きりの高校生活初の放課後を、こんなことに使ってしまったわたしの身にもなってほしい。
そんなことを考えていると上から、
「おい」
と低い声が降ってきた。
変な人に目をつけられてしまった、と心の中でため息を吐く。
そのまま静かに待っていると、少しの静寂のあと、言葉が落とされた。
「前向けよ」
顔を上げろ、ということだろうか。彼の声からは、隠しきれない不満が滲み出ていた。
どうして怒られなければいけないのだろう。
うつむきたくなる気持ちだって、少しは分かるでしょ。わたしの態度が気になるのなら、いちいち話しかけてこないで。
そんな言葉が渦巻くけれど、出すわけにはいかないと必死に呑み込んだ。
「あの……何か」
相手の意図がわからなくて、躊躇いがちに訊ねる。
その瞬間、彼の顔がますます歪み、眉間には深くしわが刻まれた。
……いったい何なんだ、この人は。
わたしたちは初対面なのだから、わたしが彼にぞんざいに扱われる理由も、わざわざ話を聞く義務もないはずだ。
内面を詳しく知らなくても、現段階で既に彼への好感度は低い。
普段なら心地よいはずの春風も、今はぬるくて苛立ちが募る。
じっと見つめていると、彼もわたしをまっすぐに見つめ返した。
────息を呑むほど綺麗な瞳だった。
「……わたし……っ」
────この瞳を、彼の色を、知っている。
何の根拠もなく、唐突にそう思った。
断片的な記憶が蘇るように。ぼんやりとしていて、だけど確かなものが何か、わたしの中に流れ込んでくる。
何かを知らせるように、心臓が鼓動を速めていく。
(わたしは何を忘れてる?)
大切な、特別な何かを、わたしはずっと昔から探し続けている。
じっとこちらに向けられた瞳は、何を考えているか分からないほど、怖いくらいに澄んでいた。
鮮やかな光が彼を照らし、硝子玉のような瞳の中に、鮮烈な赤が混ざる。
「……お前」
二度目のお前呼びには、もう違和感を感じなかった。
一度目で慣れてしまったのか、それとも彼の不思議な瞳にとらわれてしまったのか。
そんなことをひとつずつ確かめている時間などないまま、彼の薄い唇が言葉を紡ぐ。
「────俺のこと好きになるよ」
止まっていた時間の歯車が、今再び動きだす音がした。
眩さに目を細める黄昏時。
これが、すべての始まりだった。
「栞!」
名前を呼ばれて、ドリブルしていた手を止める。胸の前で構えたボールを勢いよく押し出すと、ボールはまっすぐにキャプテンの手へと渡った。
「リバウンド!」
キャプテンがシュートを放った瞬間、体育館に響き渡る大きな声。
まだシュートが外れると決まったわけではないのに、"入らなかった"ときのために、選手たちは激しく身体をぶつけてポジションを競い合う。
……どうせ、入るのに。なんて無意味なことなんだろう。
こんなことを思っている中途半端な自分は、ここに立つのにふさわしくない。そう分かっていても、心の中で生まれる気持ちはどうしようもなかった。ぼんやりしていると、わたしの肩に相手の選手がぶつかってきた。
……痛い。本当にやめてほしい。
自分勝手な思考に堕ちていく。相手の選手はもちろん悪意など全くなく、額に汗をかきながら一生懸命わたしの身体をおさえようとしている。
小柄なのに、すごいな。
バスケが好きなのか、嫌いなのか。はたまたどちらでもないのか。
分かりきっているはずの答えを、その表情から読み取ろうとしてしまう。
くだらないことを考えているうちに、ボールは綺麗な弧を描いて、ゴールに吸い込まれていく。ナイシュー、とベンチから声が上がった。そしてまた地獄のディフェンスがやってくる。狭いコートの中を往復するのに加えて、ボールを扱わないといけないなんて。
走りながら、オレンジ色のゴールを見遣る。
あの小さな籠の中に、この球を入れる。たったそれだけのために、血が滲むような努力と練習を積む。
それなのに、一度も試合に出ることなく引退を迎える選手は山ほどいるのだ。
(なんて理不尽な世界なんだろう)
自分が「そっち側」ではないことに感謝しなければならないのかもしれない。
それでも。
……いったい何が楽しいんだか。
そう思わずにはいられなかった。
「おつかれ、栞ちゃん。ナイスアシストだったよ!」
「あ……うん。ありがと」
試合終了後。差し出されたドリンクを受け取ると、にこっと眩しい笑顔が向けられた。
彼女の名前は小鞠可奈。
わたしの親友である彼女は、わたしと同じバスケ部員で、試合後はこうしてサポートにまわってくれる。ベンチメンバーであるにも関わらず、試合に出ているわたしに嫌な顔をひとつもせず、話しかけにきてくれる。
「今日の相手はすごく強いところなのに、勝っちゃうなんて。このままいくと、今年は全国大会出場できちゃうかも」
ふわりと花が咲いたように、嬉しそうに笑う可奈。本当にバスケが好きなんだな、と心から思った。
「……いけたらいいね」
唇を震わせ、そう言うのが精一杯だった。可奈はこんなにも純粋に、わたしのことを応援してくれているのに。
なのに、わたしは。
「あ、男子はまだやってるよ」
可奈の声を受けて、ふと床に落としていた視線を上げる。可奈の視線を追うと、男子側のコートは、まだ試合の途中だった。目を凝らすと、点差は二点差でうちの学校が負けている。
「残り時間二十秒ってことは、ラストプレーじゃんっ」
きゃあっと可奈が声をあげた。接戦ということもあってか、ギャラリーからも他コートからも、多くの注目を浴びている。
ボールを持っているのはうちの学校だった。キャプテンがなにやら手で指示を出している。二十秒あれば、じゅうぶん攻める時間はある。確実に二点をとるか、あるいは。
(まさか、ね)
浮かびそうになった可能性を慌てて否定する。
さすがに無理だ。そんなことをできる選手なんていない。
……ただ一人を除けば、だけど。
タイマーの数字がどんどん小さくなっていく。
しばらくドリブルをついて様子を見ていたキャプテンが動き出すのと同時に、各場所に散らばっていた選手も動き出した。
残り、五秒、四秒、三秒。
キャプテンが中に切り込んでいく。
……やっぱり、二ポイントか。そりゃそうだ。
相手の学校はスタメンが継続して出ている。
つまり、相手のチームは体力がものすごく削られているということだ。
それに引き換えうちのチームは、同じ実力の選手を交代させながら使っていたため、バテるなんてことはないだろう。
一か八かにかけるより、延長戦に持ち込んだほうが良い。妥当な判断だ。
そう思った時だった。
キャプテンはレイアップのために上げていた右手を突然下げ、後ろにボールを飛ばした。
……え。
会場の空気がざわりと揺れるのと同時に、"彼"がそのボールを受け取る。
彼は────スリーポイントラインの外側にいた。
中からの攻撃を阻止すべくディフェンスが集まった隙をついての策だった。
……まさか。
ふと頭をよぎった策を確かめている時間なんてない、瞬きほどの一瞬に、彼は迷いなくシュート体勢をつくる。お手本のような、伸びやかで美しいシュート体勢だった。タイマーが0に変わる直前に、彼はシュートを放つ。
彼の手から離れたボールは美しい弧を描き、まっすぐゴールに吸い込まれていった。
そして、ブザーが鳴る。
会場全体から声が上がり、プレーをしていた選手もベンチにいた選手も全員が彼の元へ駆け寄った。彼は揉みくちゃにされながら、笑顔を浮かべるでもなく嫌そうな顔をするでもなく、無表情のままでいる。それでもハイタッチには素直に応じたり、先輩に声をかけられた時には礼儀正しく礼をしていて、周りの気分を害すようなことは何一つしていない。
「やっぱりエースだよねえ、星野くん」
輪の中心にいる彼を恍惚と見つめる可奈の声で、自分がしばらく彼を見つめていたことに気がついた。慌てて視線を戻して可奈を見ると、そこにはとろけそうな笑顔が咲いている。
「はあ……本当にかっこいい。いつかあんなふうになりたいなあ」
「別に……あの局面で普通スリー打つ? 無茶にもほどがあるでしょ」
先に口をつくのは非難の言葉。
心の中ではすごいと思っているのに、それを口に出すのはものすごく苦手だ。
……あの局面でスリーを打てる度胸があるのも、ちゃんと決める実力を兼ね備えているのも、本当はすごいと思うし尊敬している。
練習しているからこそ生まれる自信だということも、理解している。
「でもちゃんと決めきるんだもん。すごいなあ」
「まあ……うん」
曖昧に頷くのが精一杯な自分自身に嫌気が差す。
星野のことになると、わたしはなかなか素直になれない。
そんなことはいけないと、分かっているのに。
暗澹たる思いに陥っていると、となりで男子チームを眺めていた可奈が、「あっ、星野くんこっちくる!」と小さく声を上げた。声のトーンが上がり、可愛らしい声にさらに甘さが増す。
ぞろぞろと歩いてきた男子たちは、タオルで汗を拭きながら、アリーナを出ていくところだった。
その中に、星野もいる。
星野は試合終わりだというのに涼しい顔のまま、ユニフォームで汗を拭っていた。
「うわっ、腹チラとかご褒美じゃん。ねえ、栞ちゃん」
汗を拭ったせいで持ち上がったユニフォームとズボンの間から、割れた腹筋が一瞬、わずかにのぞいた。それを見た可奈が振り向いてわたしに同意を求めてくる。
男子の────しかも星野の腹を見て、いったい何がいいんだか。
わたしには到底理解できない、と思いつつ、曖昧に笑って誤魔化しておく。空気を悪くするようなことを言って、可奈との友情を壊したくはない。
星野がアリーナから出ていく瞬間、こちらに視線を向けた。
一瞬、目が合う。
周りの喧騒が消えて、何も聞こえなくなった。
まるで時間が止まったようなその数秒の後、どちらからともなく視線を逸らす。となりでは可奈が「今絶対こっち見たよね!?」と騒いでいる。
……ああ、何もかもが憂鬱だ。
きっと、いや、絶対に勘付かれている。力を抜いてプレーしたことを、絶対に気付かれてしまっている。
なんとなくそんな気がして、沈む気持ちを堪えるように、深く息を吐き出した。
*
「なんだよ、さっきのプレーは」
遠征のための貸切バスに乗り込んだ途端、後ろの席から声が飛んできた。驚いて視線を遣ると、そこにいたのは、不満げに眉を寄せる星野だった。
……最悪だ。
誰も乗ってないからてっきり一番だと思ったのに、まさか星野がいたなんて。
こんなことなら他のメンバーと一緒に来ればよかった。今から戻ろうか、と思ったけれど、「おい、成瀬」と呼び止められ、それもできずに仕方なく来た時と同じ席に座った。
それにしても、男女合同の貸切バスなんて。
うちの学校は田舎で部員数も少なく、そうなってしまうのは仕方がないのかもしれないけれど、どうにかしてほしいものだと思ってしまう。可奈は「星野くんと一緒のバスなんて最高!」と喜んでいたけれど、今のわたしの状況になったら絶対に考えをあらためてくれるだろう。
居心地が悪すぎて吐きそうだ。
「……なんであんなやる気がないプレーするんだよ」
やっぱり、見ていたんだ。気付かれていたんだ。
当たってほしくない予感が当たり、どんよりと気分が落ち込む。
答えたくなくて口を結んだまま俯き、しばらく黙っていると、後ろから苛立たしげな舌打ちが聞こえた。
「お前、相手に失礼だと思わないのか。選手として恥ずかしくないのかよ」
無視を決め込むわたしに、星野は容赦なく言葉をぶつけてきた。
腹立たしく思ったけれど、下手に言い返すよりは黙っている方がずっといい。そうした方が、人を傷付けることがないから。
いくら悪いことを思っても、負の感情を抱いても、それを表に出さなければ【性格がいい】と評してもらえる。
たまに、「あの人は本当に性格がいい」だとか、「〇〇ちゃんはああ見えて性格がものすごく悪い」だとかいう話を耳にすることがあるけれど、性格が良い悪いの判断基準は【表に出すか出さないか】だとわたしは思っている。
だから、今回も声を出さないつもりだった。何を言われても動じることなく、無視しようと心に決めていたのに。
「仲間に見せつけてんのか? "わたしはやる気がなくてもつかってもらえます"ってアピールしてんのか」
「……は?」
その言葉を聞いた瞬間、黙ってはいられなかった。低い声が口から洩れる。
「だってそういうことだろ。お前の代わりに出たい奴が山ほどいるなか、つかってもらってるくせに本気でやらないってことはそういうことだろ」
「……違うし」
「どう違うんだよ」
星野の言葉は、鋭い刃物のようにわたしの心を容赦なく抉った。厳しいほどの正論に、何も言い返すことができなかった。
ああ、嫌だ。やっぱり苦手だ。
わたしは彼が、苦手だ。
「星野には、関係ないでしょ」
「あ?」
「わたしがバスケを頑張っても頑張らなくても、星野には全然関係ないでしょ。ほっといて」
とんだ八つ当たりだ、と自分でも思ったけれど、苛々を隠せないまま言い放って、固く口を結ぶ。もうこれ以上言葉が出てしまわないように、自分を押しとどめた。
顔が見えなくても、星野がふ、と声を出して蔑むように笑ったことで、嘲笑を浮かべているのが想像できた。押し黙るわたしをまるで嘲るように笑う星野は、「くだらねえ」と吐き捨ててそれきり何も言わなかった。沈黙が流れて、気まずい空気のままお互いに何も言わず、ただ時間の流れを待つ。
おもむろに窓の外に視線を遣ると、夕暮れ時の鮮烈な光が、わたしの目にまっすぐに届いた。それさえ鬱陶しくて、遮断するように固く目を瞑る。けれど、防ぎきれない光はまぶたの裏でも分かるくらいに明るかった。目を閉じたまま、仕方なく通路側に顔を向ける。
『仲間に見せつけてんのか?』
先ほどの星野の言葉を頭の中で反芻する。何度も頭の中で流れてくる苦言に、思わず顔を歪めた。
……星野にわたしの何が分かるんだ。
口をつきそうになった言葉を呑み込んで、わたしはしばらく目を瞑ったままでいた。
そうしていると、「あれ、もしかして栞ちゃん寝てる?」と可奈の声が聞こえてきて、ぞろぞろとチームメイトたちがバスに乗り込んでくる音が聞こえた。
なんだか返事をするのも面倒で、そのまま寝ているふりをする。
そうしていると自然と睡魔が襲ってきて、今度こそわたしは本当に、ゆっくりと意識を手放した。
「成瀬。ここの書類作成がきちんとできてないんだけど」
「え、わたしはちゃんとしましたよ」
「いや、成瀬はできているかもしれないけどな。この班のリーダーは成瀬なんだから、できていないところはリーダーの成瀬にしっかりまとめてもらわないと困るんだよ」
いかにも正論だと言ったように書類を差し出す担任の顔を見上げる。顎に生えている髭が視界に入り、なんだか不快な気分になった。理不尽な言動で生徒を叱りつける彼は、当然生徒からの人気は底をついている。じっと見ていると、先生は困ったように眉を寄せて、大きなため息をついた。
「まったく……成瀬には期待してるんだ。問題児が多いグループで大変だと思うが、まあ上手くやってくれよ」
書類を押し付けるようにして、「あー、忙しい忙しい」とわざとらしく呟きながら、先生は足早に教室を出ていった。
大人はずるい、と思う。どうしたって、仕事という壁を盾にされたら、それ以上踏み込んではいけなくなってしまう。素直に頷くしかなくなってしまう。そんなの卑怯だ。
(わたしも忙しいんですよ、先生。決して暇なわけではないんです)
そう言えたら、どんなに楽か。
結局は引き受けるしかない自分の弱さが悔しい。
「まあ上手くやってくれよ……か」
わたしだって、好きでこのメンバーになったわけじゃない。問題児と呼ばれるような男子とグループを一緒にしたのは先生じゃないか。みんなの意見も聞かず、一人で勝手にグループを決めてしまったのは先生なのに。
頭の中で毒を吐きつつ、一人取り残されたわたしは息を吐いて書類に視線を落とした。
「なにこれ、全然できてない……」
もし、提出できるレベルを五と仮定するならば、この書類の完成度はニだ。半分にすら到達していない。提出期限は明日だというのに、この記事の分担である男子たちは、丸投げしたまま帰ってしまったり、部活に行ってしまったようだった。
そのうちの数人はおそらく部活中だと思うので、今からでも持っていけば多分間に合う。けれど、部活中のところに乗り込む勇気も、そんなことをしてまでお願いする気力も、わたしにはなかった。もし、明日になってやらずに持って来られては堪らない。あの男子たちは平気でやりかねない。それくらい、彼らへの信頼度は底をついていた。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
こんなことなら、女子組がもう少し多く受け持つべきだった。そうすれば、容量良く進められたというのに。もっと計画性を持ってできたはずなのに。なのに、彼らはそれをぶち壊した。そしてきっと悪びれもせず、明日もふらふらと学校に来るのだろう。
そう思うと、腹が立って仕方がなかった。どうして真面目にやっている人が、こんな役を背負わなければならないのだろう。憤りを抑えるように目を閉じると、先生の言葉が蘇ってくる。
『成瀬には期待してるんだ』
期待? ……冗談じゃない。思い返すたび反吐が出る。わたしは何でも屋じゃない。これから書かなければならない量を考えただけでも頭痛がしてくるようだ。
それも、たった一人で、たった一日で。
完全に不可能ではない量ではあるものの、随分と時間がかかってしまうことは目に見えていた。頑張れば、きっと今日中に終わる。帰ってから取りかかっても、頑張り次第で二時間あれば終わるだろう。それでも、自分の時間を彼らのために使うのは、なんだか癪に触るものだ。どうして、と思わずにはいられない。
悪いのは明らかに男子なのに、どうして先生は彼らには何も言わず、わたしに押し付けるのだろう。責任は彼らにあって、わたしにはないはずなのに。
……リーダーだから。
そんな理由だけで、全ての責任をわたしが負わなければならない。それが、とてつもなく悔しかった。
こうして『真面目だから』『しっかりしているから』という理由だけで重荷を背負わされるリーダーは、いったい何の利益を得られるのだろう。誰もが当然の如く仕事を押し付けて、まるでわたしが快く受け入れているかのように、嫌な仕事をさせられる。
学校では『人間は誰もが平等だ』なんて言うけれど、果たしてそれは本当だろうか。平等であるならば、リーダーなんていらない。責任を負う役割なんて、誰一人としていらないのだ。
「真面目」や「しっかり者」の判断基準はいったいなんなのだろう。
わたしだってみんなと同じようにまとめ役なんてしたくないし、課題だって提出するのは面倒くさいと思う。先生にいちいち笑顔で接するのも疲れるし、はやく家に帰って好きなことをしたい。
それでも、投げ出さずにやっているだけだ。
鉛のような感情が、ふと口から溢れる。
「好きでやってるわけじゃないのに……」
悲しい、むなしい、息苦しい。
目を瞑って、ふ、と息を吐き出す。
────抑えて、おさえて、見せないで。
出しちゃだめだ。自分のためにも、周りのためにも。わたしの言葉は、みんなを不幸にするから。いくら思っても、それを言の葉にのせてはならない。
心の中で唱えて、己を戒める。
深呼吸をしたら、それでおしまい。
机の上に書類を置いて、個人ロッカーに向かう。学級委員の仕事があって、鞄の準備がまだできていなかったのだ。クラスメイトたちはとっくに帰宅したり、部活に行ってしまったため、教室にはわたしだけが一人取り残されているみたいだ。
黙々とロッカーから鞄と資料をとって、再び席に着く。引き出しの中にしまったままの教科書類をがさっと取り出すと、ずしりと重かった。
窓に視線を遣ると、わたしの沈んだ気持ちには似つかわしくない、真っ青な空が広がっていた。雲一つなく、美術に疎いわたしが見る限りでは一色で染められた空。けれどきっと、この空は一色じゃなくて、少しずつ変化しながら広がっているのだろう。
引き寄せられるように窓に近寄って、その窓を開ける。その瞬間、あたたかな春風がふわりと入ってきて、髪の毛が揺れた。
「はぁ……」
ため息がこぼれ落ちる。
だめだ。新学期だというのに、ちっとも楽しくないし、むしろ疲労が半端じゃない。
窓から少し身を乗り出してグラウンドに視線を遣ると、野球部が部活をしているのが小さく見えた。野球のルールはいまいちよく分からないけれど、ボールを投げたり、バットで打ったり、塁に向かって走ったりするのでものすごく大変なスポーツであることは理解している。
もう少し手前に視線を遣ると、そこでは陸上部がトレーニングをしていた。後輩らしき女の子に、クラスメイトの河野さんが笑顔で何やら話しかけている。
そうか、わたしたちはもう先輩なのだ。
改めて実感する。初々しく入学したあの日から月日はあっという間に流れ、わたしは今や新入生を迎える在校生の一人となっているのだ。最近、時の流れが驚くほど早い。などと、現役高校生である現在ですでに思っている時点で、将来が心配になってくる。
『お前、俺のこと好きになるよ』
その途端、脳内でリフレインする言葉に、慌てて頭を振った。入学式を思い出すたび、こうして流れてくる記憶。声も、表情も、空気の硬さも、瞳の奥の柔らかさも。すべてがあのときと同じように蘇ってくる。
「……っ」
最悪だ。忘れようとしていたのに、また思い出してしまった。窓を閉めて、ガチャリと固く鍵をかける。蘇る記憶にも蓋をして、頭の中で鍵をかけた。
(部活、行かないと)
部活の存在を思い出し、どんよりと気分が落ち込む。怒りやらなんやらですっかり忘れていたけれど、今日は普通に部活の日だった。時計を見ると、開始時刻をとっくに過ぎている。完全な遅刻だった。
────もういっそ、帰ってしまおうか。
そんなずるい考えが浮かび、目を瞑って天井を仰いだ。大きなため息をゆっくりと吐きだす。ため息を吐くと幸せが逃げる、なんて言うけれど、もとよりわたしに逃がせるほどの幸せなどない。
いつからわたしはこんなふうに思ってしまうようになったのだろう。もともとバスケは嫌いじゃなかったし、サボるだとかは基本できない質だった。それなのに、今では引退を心待ちにしている自分がいる。いかに楽をして部活を終えようかと考えている自分がいる。
机の上に積み重ねた教科書を鞄に詰める。ただひたすら、無心の作業だった。
こうしてたくさんのものを持って帰るのは、家で予習復習をするためだ。
授業で分からなくならないように。小テストで良い点がとれるように。そんな思いで日々怠らず続けている努力の甲斐あってか、大きく失敗はしていない。なんとか授業も理解できている。
ただ、油断は禁物。二年生での学習定着が受験の合否を大きく分けるのだと、塾の先生が口を酸っぱくして言っているから。
「……何してんだよ、こんなとこで」
鞄に視線を落としていると、ふいに耳に届いた言葉にびくりと肩が跳ねる。心臓が揺らされたような感覚だった。
そんな、嘘でしょ。
最初は聞き間違いかと思った。けれど、聞き間違えるはずがなかった。一年間ずっととなりで聞いてきた声を、今さら間違うはずがなかった。
「……星野」
そろりと視線を上げると、教室の戸のそばで眉を寄せている星野と目が合った。彼はまっすぐにわたしを見据えたまま、目を逸らさない。
「お前、なにしてんの」
「先生に、頼まれごとしてたから遅くなって。今は鞄の準備、かな」
何かが詰まってしまったように声が出しづらい。それでもなんとか絞り出して小さく答えると「あっそ」と興味のなさそうな声が返ってきた。自分から訊いてきたくせに、呑気なやつだ。
ため息を吐きそうになるけれど、なんとか堪える。
そんなわたしを一瞥もせずに、星野は黙ってわたしの前の席に座った。何も言わないで、ただ窓の外を眺めている。彼の行動が読めなくて、わたしはやや困惑しながら訊ねた。
「どうしたの、星野」
「……別に」
そっけなく返される。突き放す口調というよりは、これが彼の普通なのだ。たいていのことには興味がない。そして、自分のことにもあまり踏み込まれたくなさそうな、牽制をするような、不思議な空気を纏っている。
少し近づけたと思えば、スッと離される。逆に離れようとすると、いつのまにか前よりも近づいている不思議な距離感のなかでわたしたちは過ごしている。仲がいいのか悪いのか分からない。苦手だと思うことはあるけれど、なぜか嫌いにはなれないからだ。
(好き……っていうのも、違うけど)
脳内で一人会話を繰り広げつつ、ふと彼の服装に目を遣ると、彼が部活のTシャツを着ていることに気がついた。
「部活……じゃないの?」
小さく問いかけてみると、真っ黒な髪を揺らして、くるりと星野は振り返った。カラコンでもつけているのかと疑いたくなるような色素の薄い瞳が、まっすぐにわたしを見ている。途端に動悸がして、呼吸が苦しくなって、思わずその瞳から逃げるように目を逸らした。
「それは、お前もだろ」
クスリと悪戯っぽく笑った星野が、椅子にもたれて息を吐いた。ふっと空気が緩むのを感じる。
どことなく気まずい空気が和らいだことに安堵し、ロッカーからとってきた資料本を持ち上げた時だった。ひらり、と書類の何枚かが床に落ちた。慌てて拾おうとするけれど、それより先に星野が手を伸ばしてすばやくそれを拾う。
「なんだよ、これ」
「それは……」
言い淀んでいると、再び射抜くような視線が向けられた。ドキリと心臓が大きく鼓動して、額に汗が滲む。視線の鋭さだけで、責められているような気持ちになった。嘘をついても、すべてお見通しだと。海の色をした瞳が、そう言っている気がした。
言ってしまおうか。心の内をすべて話してしまおうか。
家に帰って一人でやるのは、苦しい。わたしばっかりがやらなきゃいけないなんて、嫌だ。
ふと口を開きかけて、慌てて固く口を結ぶ。
きっと、話し出したら止まらなくなってしまう。すべて、声に出してしまう。もし、取り返しがつかないことになったら遅いのだ。
──── 過ちを、繰り返すわけにはいかない。
「ほら。この書類、明日が締め切りでしょ。ちょっと間に合わなくて」
結局、言えなかった。脳内に潜むもう一人の自分が、言ってはいけないと叫んでいた。刺すようなまなざしから逃げるように、視線を床に落とす。
けれど、ドン! と音を立てた星野に、びくりと肩を震わせながら顔を上げる。そのまま引きつるような笑みを浮かべて、何事もなかったようにふるまおうとした。
(大丈夫。わたしはちゃんと、笑えてる)
……笑えている、はずだ。
何度も何度も暗示をかけるように、ひたすら繰り返す。
星野はわたしを真正面からまっすぐに見つめている。まるで嘘を見抜くかのように────否。
「嘘つくんじゃねーよ」
あっさり見抜かれてしまった。どうしよう、と焦る気持ちとは裏腹に、淡い嬉しさが心の中に生まれたような気がした。
彼はいつだって、わたしの嘘を見抜いてくる。大抵はそれによって損をすることが多い。けれどたまに、本当にごくわずかではあるけれど、気付いてくれて嬉しいと感じる時がある。
彼はこうして唯一、わたしの"無理"に気付いてくれる存在だった。
書類の文字を目でなぞった星野は、わたしの机に書類を置いて「シャーペン」と一言呟いた。
「……え」
「もたもたしてねえで、はやく貸せよ」
差し出したシャーペンをひったくるようにして受け取った星野は、カチカチと数回のノックの後、何かを書き始めた。驚いて凝視していると、紙の上にすらすらと文字が書き込まれていく。あっという間に達筆な美文字が並んでいった。
「……星野、どうして」
星野は一度視線を上げて、ちらりとわたしを見た。それからまた紙に視線を落として、黙々と文字を書き続ける。
(もしかして、手伝ってくれるの?)
心の中で思うだけで、口には出さない。
きっと、これ以上訊けば鬱陶しいと思われてしまう。最悪の場合、じゃあやめる、なんて言って放りだしてしまうかもしれない。そんなことは絶対に避けたかった。無駄に一年間一緒にいたため、大まかな星野の性格は分かってきたつもりだ。
「お前もやれよ。間に合わねえんだろ」
やや荒い口調の星野に促されて、ペンケースから水色のシャーペンを取りだす。
「どうせ発表テーマ同じだし。そこにある資料使って書けばいいんだろ」
確認されて小さく頷くと、星野はそれに対して反応せず、また視線を紙に落とした。
(やっぱり、手伝ってくれるんだ。部活中のはずなのに、わたしのために、きてくれた?)
天地がひっくり返ってもありえないようなことに思考が突き進んでいく。まさかそんなわけない、と脳内で否定を繰り返し、シャーペンを強く握った。
本当はこれから部活に行くつもりだったけれど、こうなったら予定変更だ。仕上げてから部活に行くしかない。星野が原稿を作成してくれているようなので、わたしはポスターの作成をしよう。
たくさん文字を書かないといけない原稿を任せてしまって大丈夫だろうかと思いつつ、なんだかんだいって、本人が選んでやっているのでまあ良いのだろうという考えに至る。
太陽の光が差す中、二人で黙々と作業をすること三十分程度。カチ、カチと静かな教室に時計の秒針の音が、やけに大きく響いている。
その間わたしは定規で線を引きながら、彼と過ごした一年間のことをぼんやりと思い返していた。
入学式翌日の変な発言のあと、わたしはそれなりに彼を警戒していた。だからあまり近づかないようにしていたのだけれど、向こうはまるで懲りずに、熱心に絡んできた。近づくなオーラをそれとなく出していても、まったく気遣うようすなどなく、いつも裸足で踏み込んでくる。
彼は土足じゃない。いつだって、正直でまっさらな裸足で、わたしを連れ出そうとするのだ。
それなのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
そして気づけばわたしのほうが、彼を目で追うようになった。わたしから話しかけにいくことも増え、一緒に帰ったこともあった。友情の延長。そんなふうに、わたしは彼との関係性を捉えていた。
不思議だけれど、恋愛とは少し違うような気がする。彼のことを素敵だと思う時もあれば、苦手だと感じる時もある。好きと嫌い、その狭間に立っているような人だった。
そう思い込んで自分を納得させないといけない理由が、わたしにはあったから。
(違う。星野は、そんなんじゃ)
ぎゅっとシャーペンを握る。同じように、心臓がキュウッと縮むような気がした。そして、
「────なあ、栞」
ドクッ、と大きな音を立てる。いいや、違う。心臓だけではなくて、身体中に鼓動が響き渡るような感覚がした。ふわふわとした感覚に包まれ、頭も心臓もどうにかなりそうだった。
星野はたまに、わたしを名前で呼ぶ。単なる彼の気分なのだろうけれど、それでもわたしの意識はそのたびに、彼に引っ張られてしまう。
彼がわたしを名前で呼ぶときは、彼が別の誰かに変わる、合図だから。
「な、なに」
「今日の部活は、サボろうぜ」
にっ、と笑顔が向けられる。これ以上見ていると何かが起こりそうな気がして、思わず目を背けた。視界からその笑みを追いやり、刺々しい自分を呼び起こす。
「サボるって……この前部活に対して熱い思いを語ってなかったっけ。この間、怒ってきたじゃない」
「それはそれ、これはこれ。そりゃあ、部活の時はいつだって本気だよ。やってることに手は抜かない。でも、たまには休憩だって必要だろ?」
星野らしいと言えば星野らしい考えだった。『やると決めたら全力でやる』というのが、彼のモットーらしい。適度に休憩をしながら、楽しくバスケをしているのだ。ただ、決めるときは決めるのだから、そこが彼の魅力であり憎らしい部分でもある。
シャーペンを走らせる星野の手元を見つめる。細くて長い指。わずかに浮き出た血管。ふと男性らしさを意識してしまって、どうしたらいいか分からなくなった。
視線を彷徨わせていると、再び「栞」と名前を呼ばれた。慌てて返事をしたけれど、思わず声がひっくり返ってしまい、顔に熱が集まる。うつむいたわたしに、小さな笑いが降ってきた。
「お前、なに緊張してんの」
「し、してない。星野相手に、緊張なんてするわけないじゃん」
「あっそ」
放るように言いながら、星野はまだクスクスと笑っている。囁くように笑うのは、普段教室で無表情を極めている星野には見られないことで、なんだかおかしな気持ちになる。彼がわたしのことを名前で呼ぶのも、こんな顔をするのも、ふたりきりの時だけだから。
いったい何がおかしいんだか。もしかして、この嘘すら見抜かれている?
不安な気持ちを紛らわすために、おろしている髪を手で梳いた。気持ちを落ち着かせるように、何度も髪に指を通す。
「お前それ、癖だよな」
びくっと身体が跳ねた。星野は海色の瞳でわたしの動作をじっと見つめ、言い放つ。薄い唇がゆるりと綺麗な三日月型をつくり、星野が浮かべた艶っぽい表情に、わたしは思わず息を呑んだ。
「え……?」
「髪触るの、お前の癖」
自分ではこの動作が癖だという認識はなかったけれど、言われてみれば癖なのかもしれない。
不安なこと、悲しいこと、嬉しいこと、嫌なこと。ふと感情が動いたとき、無意識のうちに髪を触っているのかもしれない、と思った。
ふっと真剣な表情になった星野は、薄くて形の良い唇をわずかに震わせる。
「────お前が俺に、最初に言った言葉を覚えてる?」
名前を呼んだのは、きっとこれを訊くためだったのだろう。突然、空気がガラッと変わって、星野が星野じゃなくなった。
星野がまとう空気が一気に変わって、いつもの星野を見失う。
わたしは、この雰囲気を纏う星野が、苦手だ。
明確な理由を問われれば「なんとなく」と曖昧に答えるしかないけれど、とにかく苦手だった。すべてを見抜かれてしまうような気がして。彼がわたしにしか見せない顔で、ただそこにいる。
まっすぐに向けられる、いっさい澱みのない瞳を見つめ返す。日差しを受けて煌めく瞳は、どこまでも澄んでいた。
「……『あの、わたしに何か用ですか』だっけ」
出会いというものは時が経てばだいたい薄れていくものだけど、わたしと星野の場合は違う。
はじまりが、強すぎる。
あれだけ強く心に残る出会い方は、これまでもこの先もないと思うくらいだった。
だから、忘れたくても忘れられない。わたしはできるだけ思い出したくないし、記憶から消去してしまいたい。けれど、気を緩めるとふとしたタイミングで頭の中に浮かんできてしまう。
少しだけトーンを落として答えると、星野は瞬きせずこちらを見つめてから「ふーん」と曖昧な相槌をしてシャーペンを置いた。
どうしてそんなこと訊いたのだろう。特に興味がないなら、いちいち思い出させないでほしい。こっちは完全に忘れ去りたいと思っているのに。
「終わり。お前は? まだやってんの」
「え」
原稿に視線を落とすと、もう完成していた。紙を手に取って、文字を目でなぞる。文章も、字も本当に綺麗で、完璧な原稿だった。思わず感嘆の声が洩れる。
「すごっ。本当に終わってる……」
「なんで疑ってんだよ」
ふはっ、と笑う星野は、シャーペンをわたしのペンケースに入れると、頬杖をついた。身体の向きは変えずに、わたしのほうを向いたままで。
「お前もはやくやってしまえよ」
うん、と頷いてペンを走らせる。けれど、手元をじっと見られていて、なんだか落ち着かない。ドクン、ドクンとうるさいくらいに、鼓動が大きく鳴り響いている。
星野はわたしに口出しをすることはなく、黙ってポスターと窓の外へと視線を交互に流している。彼の目が動くたび、ともなって揺れるまつげがすごく長かった。
妙な緊張の中、作業すること十数分。
「……できた」
なんとか書き上げて、ふうっと息を吐く。ペンを置いた途端に、どっと安堵が押し寄せてきた。二人での作業だったから、一人でやるよりも大幅な短縮ができた。それは、文才に恵まれた星野が原稿を受け持ってくれたからというのが大きい気がする。
これで、明日は安心だ。そう思いながら書類をまとめていたときだった。
「……これ、お前の担当じゃないんだろ」
「えっ」
ひら、と書類の一枚を手に取ってふと呟いた星野は、「どうせ押し付けられたんだろ」と小さくため息をついた。唐突に見破ってくるものだから、驚きで目が落ちそうになる。ハッと目を見開いて星野を見つめると、呆れたように眉を寄せた星野が、苛立ったように言葉を吐き出した。
「なんでいつもお前はさ……」
強く言い返せないんだ、本当に口がついてるのか? そんなふうに言われるような気がして、バッと顔を下げる。身構えないと耐えられないようなことを言われてしまうような気がした。
けれど、ふ、とひとつ息を吐いた星野は、そのままのトーンでおだやかに告げた。
「書類の量結構多いんだから、一人で溜め込もうとするなよ」
柔らかい口調に驚いて顔を上げると、そこにあったのはひどく優しい眼差し。いつも鋭くて冷めた視線を送ってくる彼とは似ても似つかないような瞳の色だった。
────これだから、苦手なんだ。
星野は星野らしく、横暴な振る舞いで、わたしを嘲り笑って、馬鹿にしていればいいのに。
こうしてふと優しい顔をするから。
苦手なのに、嫌いになれない。気を抜くと、変な感情が生まれそうになってしまい、自分が間違った方に流れないように、精一杯阻止しなければならなくなるのだ。
「だって、先生に頼まれたから……」
視線から逃げるように顔を背けて、ぼそりと告げる。言い訳をしておけば、いつものように呆れた彼が興味をなくすと思った。それでも、少し声に苛立ちを混ぜた星野は、言葉を続ける。
「無理なことは無理って言えよ」
「言えたら、苦労してないよ」
最初から、星野の言うようにきっぱりと断ることができたなら。男子たちに、強く言う力がわたしにあったのなら。きっと、こんなことにはならなかっただろう。
それはわたしがいちばんわかっている。だけどいくら分かっていても、実際に行動できるかどうかは別問題だ。
「だったら」
星野はふと、そこで言葉を切った。おのずと視線が上がり、瞳に星野が映る。
澄んだ切長の瞳。スッと通った鼻筋。薄くて潤いのある唇。ニキビ知らずの白い肌。
その美しさに、思わず息を呑んだ。あまりに儚くて。消えてしまいそうで。
悔しくなるほどの美貌をじっと見つめる。
時が止まった────そんな気がした。
時計の秒針だけが響く、ふたりきりの教室で。はっきりと、わたしの耳に届いた言葉。
「──── 俺を、頼れよ」
向けられる瞳は、濁りなんてひとつもなく、ただまっすぐで。彼が持つ光はなんて綺麗なんだろう、と思った。
「困ったときは言え。一人で溜め込むな。お前には……俺がいる」
分かったか、と彼らしい乱暴な口調で念を押されてしまえば、素直に頷くしかなかった。先ほどの言葉が繰り返し頭の中で再生される。瞳の熱も、声の柔らかさも、空気の硬さも。きっとまたわたしは、忘れることができないのだろう。
「よし。じゃ、帰るか」
「え、まだ鞄の準備が……」
「おっせーな。置いてくぞ」
その言い方だと、彼の中ではどうやら一緒に帰ることになっているらしい。たしか部活をサボると言っていたっけ、と思い出し、その誘惑するような響きに鼓動が速まっていく。
「ま、待って……!」
ガタ、と椅子を鳴らして立ち上がった彼は、後ろを振り返ることなく教室を出ていく。
わたしは急いで鞄に残りの物を詰め、慌ててその背中を追った。
◇
ふと、わたしたちの関係性はなんだろうって考えたときに。
友達、は少し距離が近すぎて。他人、は距離がありすぎて。
恋人、ではないから、きっと友達と他人の間の関係なんだろうな、と思う。
友達以上恋人未満なんて言葉があるけれど、わたしたちは他人以上友達未満……いや、他人以上恋人未満の方がしっくりくるかもしれない、なんて。当たり前のようなことをぼんやりと思う。それくらい、わたしたちの関係は常に変化していて、広い範囲を彷徨っているから。
明確にこれ、と言える、ピッタリの表現が見つからない。
(それでも下校を共にしてしまうくらいには、それなりに気を許しているんだよね)
彼と一緒に下校するのは、そんなに嫌ではない。むしろ、この独特な空気感が心地よかったりする。
そんなことを考えて、悶々としながら歩く。
「……なんつー顔してんだよ」
わたしの顔を覗き込んだ彼が、訝しげに眉を寄せた。なんつー顔、って。わたしはいったいどんな顔をしているんだろう。それを知っているのは、正真正銘、星野だけだ。
ぼんやりと考えながら、視線を前に戻して、少しだけ上を向く。
澄み渡る青空、少し広い道路、左右に生い茂る緑。目に映るのは、いつもと変わらない田舎の風景。
あたたかい風が頬を撫でて通り過ぎてゆく。今日の風は、なぜだかいつもより心地が良い。
「……ねえ、わたしたちって」
ふと声を出すと、わたしに合わせて、星野の足もピタリと止まる。顔を向けた星野と、まっすぐに目が合った。
吸い込まれそうな瞳は透き通っていて、ひどく神秘的だった。それでいて、一度捉えたら離さないような強さを奥に秘めているような。人を惹きつける、不思議な瞳。
花を、空を、雨を、雪を綺麗だと感じるように。
……星野の瞳もまた、綺麗だ。
言葉を続けようと思ったけれど、続けられなかった。口を開いて、訊こうと思ったけれど、訊けなかった。
────関係性に名前をつける必要なんて、果たしてあるだろうか。
そう思うと同時に、多分わたしは怖かったのだ。
明確に、言葉にしてしまうのが。彼から返ってくる答えを聞くのが。
「……なんでもない」
ふるふると首を横に振って、また歩き出す。となりで星野が「相変わらずだな」と可笑しそうに笑った。
「それにしても、やっぱりなんか変な感じ」
「何がだよ」
「こうして星野と帰ってること」
すっ、と遠くに視線を流した星野は「確かにな」と呟いた。どこまでも穏やかで、静かで、あたたかい空気。沈黙の中でも、不思議と気まずさはなかった。
部活を休んで、こうして肩を並べて帰っている。
────紛れもなく、星野とだ。
鬱陶しいと思うことだってあるし、煩わしいと思ってしまうことだってある。喧嘩っぽくなってしまうのは事実だし、口数が少なく、時々発せられる言葉に棘があることも知っている。
それでも、他人、と言い切ってしまうことができないのはなぜだろう。その答えを知るために、わたしは彼のとなりに並んでいるのかもしれない。
「沢原、怒ってるかな」
顧問の名前を出して、星野が天を仰ぐ。わたしも視線を上にしながら、鬼の形相で仁王立ちする顧問の姿を思い浮かべた。
「そりゃ、無断で休んでるんだもん。怒ってるでしょ」
「俺は一応顔出して伝えてきたから、無断じゃねーし」
のんびりと歩きながら、星野が告げた。彼はなんの躊躇いもなく、おだかやなこの時間に爆弾を投下したのだ。
聞き捨てならない台詞に、ピタッと足を止める。
「え、あんたちゃんと言ってきたの?」
「おう」
「じゃあ、無断欠席はわたしだけ?」
さあっと血の気が引いていくわたしに飄々とうなずいた彼は、躊躇なくずんずんと先へ進んでいってしまう。堂々としていて、サボりを大したこととは思っていないようすだった。それよりも、無断欠席だと分かって焦るわたしを、どこか嘲笑うような。
「ちょ、星野……」
声にならない声が消えていく。
背中を向けて、前へ前へと歩く星野は、まるでわたしの声など聞こえていないようだった。
さっきまで、罪の意識は軽かったのに。
自分と同じ状況の人が数人いるだけで、まるで罪が軽くなったかのような錯覚を起こす。やってしまったことは、軽くなることも、なくなることもないのに。それなのに、悪いことをしたのが自分だけだと気づくと、そこでようやく自分がしてしまったことの重さを痛感する。
「わたし、やっぱり戻る」
こんなところにいてはだめだ。すぐに戻らないと。戻ったところで、きっともう遅いと思うけれど。
それでも、衝撃の事実を知った手前、罪悪感を感じずにはいられなかった。
(いや、違う)
自身の言い訳を否定する。
最初から罪悪感は感じていたのだ。それでも、一緒に帰ってみたかった、なんて。きっと、彼の瞳に囚われたせいで、感覚が麻痺してしまったのだと思う。
そう、思うことにする。
くるりと踵を返すと、後ろから「成瀬!」とわたしを呼ぶ声が聞こえた。
「戻らなきゃいけないの。星野はこのまま帰っていいから」
「……違う違う。今の、嘘だから」
「嘘?」
眉を寄せて振り返ると、したり顔の星野と目が合った。彼は悪戯っぽく白い歯を見せて笑い、手招きをしている。
「嘘って、どういうこと?」
「お前のことも俺のことも、ちゃんと顧問に言ってきました。だから、無断欠席ではありません」
「……え、いつ」
「教室に残ってるお前に会う前」
初めからこうなることはお見通しだったかのように、ふはっと笑みをこぼす星野の顔をじっと見つめる。
その顔を見ると、安心したような、それでいて腹立たしいような、複雑な感情が入り混じる。顧問に部活の欠席を伝えていた星野をさすがだと思うと同時に、無断欠席ではないと分かっていた上でわたしをからかっていたのかと怒りたくもなってくる。
やけにのんびりしていると思っていたのだ。
ため息を吐くと、空を仰いだ星野は「まー、サボりには変わりねえけどな」と呟いた。
その顔からは焦りや罪悪感は微塵も感じられない。わたしはそれでも、"サボり"というなんとも学生らしい言葉に淡い憧れのようなものを抱きながら、それをしている今、少々後悔が芽生えていた。誰かに見られたらどうしよう、と心の中ではビクビクして、怯えて。きっと、勘のいい星野には気付かれている。
彼はそれを見て、いったいどんな気持ちだったのか。となりで歩く女が、罪悪感に苛まれ、渋い顔をしているのだ。さぞかし面白かったことだろう。
「うわー。あんた、そういうとこだよ。残念なところ」
「指摘されたところ以外は完璧ってことか。遠回しに褒めてる?」
「いったいどうやったらそんな解釈になるの」
つかつかと歩み寄って、その脇腹を軽く小突く。
「いって!」
「あんたが馬鹿なこというからよ」
「暴行罪で訴えるぞ」
いつものように軽口を叩きながら、再び彼のとなりに並ぶ。視線を絡ませながら、互いに歯を見せて大きく笑った。めいっぱいの笑顔。学校という囲いのなかでは浮かべられない、そんな彼だけに見せる表情。
(ああ、やっぱりここは居心地がいい)
どんなに抗おうとしても、結局はこの結論にたどり着く。
声に、言葉に、行動に出さなければ、いくら心の中で思っていても許されるから。とどめておけば、表面上に出さなければ、大丈夫。
無理やり自分を納得させて、となりを歩く星野を見上げる。
「星野はさ、いつからバスケやってるの?」
ふと気になって訊いてみた。
あれほどの実力を持っているのであれば、歴もそれなりに長いだろうから。単純に、彼に対する興味から生まれた質問だった。
「……小四の頃」
「すご。七年間」
「別にすごかねえだろ。もっと小せえ頃からやってる奴なんてたくさんいる」
「ううん。十分すごいよ」
わたしがバスケを始めたのは、中学二年生の頃だ。それも、自分から望んでではなく、人数が足りないからとたまたま兼部させられただけにすぎない。結果としてチームに求められるようになって、最初入っていた茶道部をやめてバスケ部に転部した。
茶道からバスケ。
イメージだけで言えば真逆とも言えるようなまさかの転部に同級生は驚いていたけれど、正直どうでもよかった。茶道部だって、入りたいけど一人では勇気がなくて入れない、と言った友人に頼まれてなんとなく入部した。だから、辞めるときもたいして何も感じなかった。
ただ、ひとつだけ違うところがあるとすれば。昔から、バスケには興味があったということ。
それはきっと、母の影響。
『しおり。すごいね、かっこいいね』
テレビを食い入るように見つめるわたしに、柔らかな笑みを浮かべる母がいたから────。
「お前は? なんのためにバスケをやってんだよ」
そんな星野の言葉に、ぐんと意識が戻された。星野からの質問を頭の中で反芻する。
……なんのため? そう訊かれると、上手く答えることができない。むしろわたしが訊きたいくらいだ。
────わたしは、なんのためにバスケをやっているのだろう。
黙り込むわたしに、星野がいつものように、ふ、と息を吐いた。なかなか答えが出てこないわたしに苛立っているのだろうか。おそるおそる視線を移すと、淡々とした表情でわたしを見ていて、また不思議な気持ちになる。
「単純に好きだから、とかじゃねえのかよ」
「……分からない」
「あ?」
「好きかどうか、分からない」
はっきりと告げた。これは紛れもないわたしの本心だった。
嫌い、と言えば嘘になるけれど、好きかと訊かれて「当然」とうなずけるほどではなかった。
「なんだよそれ。ここまで続けてんのに?」
「だって、辞める理由がないから……」
いつだってわたしは、辞める理由を探している。続けたい理由ではなく辞める理由を探して、ずっとずっと、自分と周囲を騙して生きている。
なんだか居心地が悪くて、話題を変えようと星野に話を振る。
「星野は、どうなの?」
なんだか今日は、質問してばかりだ。星野がいつもより素直に答えてくれるから、それに甘えてしまっているのかもしれない。
「俺は────」
星野はまっすぐ前を向いて、その瞳の奥に強い光を宿したように見えた。不思議な瞳が、より一層煌めいて魅力を増す。
ふとこちらを向いた星野と、ばちっ、と目が合う。海色がわたしを映した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
けれど次の瞬間、すっとその色は消えてしまった。あっという間に光がなくなった目を、少し切なげに細める星野。
「お前と同じようなもんだよ」
その言葉だけで、これ以上入ってくるなと、線を引かれたような気がした。
「……ごめん」
反射的に謝ったわたしを見ることないまま、星野は鞄を肩に掛け直した。
「成瀬」
前を向いたまま、星野がわたしを呼ぶ。ドク、と心臓が大きく鼓動した。ただでさえ静寂に包まれていたのに、かすかな風の音さえも聞こえなくなる。そして、ぽつりと告げられた一言。
「────海、行くか」
彼の唇は震えていた。何が彼をここまで深刻な顔にさせるのか、そんなことは分からない。けれど、いつもの勢いのまま、おざなりな返事をしてはいけないということだけは、唐突に理解できた。それくらい、わたしたちを囲む空気は、張り詰めていて、硬い。
目の前にある分かれ道。右に行けば、わたしの家の方角。左に行けば、海がある。出逢った日、屋上から見た海が、広がっているはずだ。
「寄り道」という、どこかワクワクするようなそんな響きに憧れないと言ったら嘘になる。
けれど。
『────なんて、いなくなっちゃえばいいんだ!』
突然、脳内に流れ込んでくる記憶に、思わず頭を抱えた。
さっきまで聞こえなかった風の音が、鳥の声が、虫の声が、まばらにある民家から聞こえてくる声が、堰を切ったように耳に流れ込んでくる。動悸がして、息が荒くなっていく。肩を揺らして、浅い呼吸を繰り返す。
「う……っ」
痛い、苦しい、息ができない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい────。
キーンと耳鳴りがして、激しい頭痛に襲われる。心臓の鼓動が速くなっていき、どっどっと血液が全身を駆け巡っているのが分かった。
忘れてはいけない痛み。ずっと、覚えていなければいけない苦しみ。
「……おい、大丈夫か」
彼にしては焦ったような声が降ってくる。そして、うずくまるわたしの肩にそっと手が置かれた。
「……ほ、しの。ほしのっ────」
無我夢中だった。
ただひとつ思ったことがあるとすれば、たしかな存在がそばにいるという事実を確かめたかったということ。
確実な何かを求めて必死にしがみつくと、やや静止した後、それ以上に強い力で抱きしめられた。ふわ、とどこか懐かしい香りがわたしを包み込む。強引だけれど、それ以上に優しい力だった。
「お願い、どこにもいかないで……っ」
「落ち着け、成瀬」
「星野……ねえ、ほしのっ」
「言ったろ。俺はここにいる。お前の────栞のそばにいるよ」
何度も流れて、頭にこびりついて離れない記憶が再び流れだす。ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。あとからあとから溢れてくる涙は、星野の服を濡らしてしまう。
「ほし、の。ごめ……濡れ、る」
離れようとしても、背中に回った腕により力が込められるだけ。
星野は何も言わず、わたしを決して離さなかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。長くも短くも感じられた時間のあと。
「ほしの……海には、行けない」
ひとしきり流した涙が乾き、そう告げたわたしの頭を。
「分かった」
小さく頷いて、星野はゆっくりと撫でた。
「───…栞ちゃん! 昨日部活来なかったけど、どうしたの!? 大丈夫だった?」
教室に足を踏み入れた途端、わたしに気付いた可奈が駆け寄ってくる。明るめのミルクティーベージュのボブヘアを、今日は綺麗に外ハネにしている彼女。彼女がわたしのそばに来ると同時に、甘い余韻を残すシャボンの香りが鼻腔をついた。
「今日、外ハネなんだ。可愛いね」
そう言うと、彼女は「ありがとう」と目を細めて嬉しそうに口角を上げた。こういう素直なところも、彼女の魅力の一つだと思う。しばらく頬を緩めていた彼女は、突然思い出したように顔を固くした。
「……って、そうじゃなくて! 連絡もくれないし、返信もこないし。すっごく心配したんだからね?」
唇を尖らせる可奈を見て、たしかに連絡してなかったな、と思い出す。
「私嫌われちゃったかと思ったんだから!」
あの後、どうやって家に帰ったのかよく覚えていない。
気付いたら一人で部屋にいて、泣き腫らした目のままベッドに倒れ込んで、そして朝を迎えていた。スマホを構う時間なんてなかったのだ。
けれど、返信がなかなかこなかったら不安にもなる。わたしだって、可奈から返信が戻ってこなかったら、きっと不安になるだろう。嫌われたと思ってしまうかもしれない。
……悪いこと、しちゃったな。
傷つけてしまったという罪悪感が心を支配する。息を吐き出して、不安げに瞳を揺らす存在をぎゅっと抱きしめた。
「可奈のことを嫌うわけないでしょ。でも、返信できなかったのはごめん。それは良くなかったと思う」
素直に謝罪すると、可奈は腕の中で「いいよ」と呟いた。顔を上げた可奈は、花が咲くようなとびきりの笑みを浮かべた。
「事故にあってたりしたらどうしようって、部活中ずっと不安だったんだ。でも、そんなことなくてよかった。私の思い過ごしで、本当によかった」
「ごめん。ちょっと色々あっただけだから」
「……色々?」
眉を寄せた可奈に、曖昧に頷く。一瞬、彼女の顔にふっと影がかかったように見えた。
(まずい。余計なことを言ってしまった)
途端に後悔に襲われる。今、わざわざ意味深な発言をする必要なんてなかったはずだ。それなのに、ふと口をついてしまった言葉は簡単に取り消すことができない。
「それよりさ、可奈。今日のお昼は、中庭で食べない?」
突然の話題転換に、可奈が「え」と目を丸くする。それでも彼女は優しいから、「うん、そうする!」とすぐに快諾してくれた。
「でも、どうして?」
「いつも教室だとつまらないじゃない? たまには景色を変えてみてもいいかもって」
「たしかに。ナイスアイデアだよ、栞ちゃん」
本当は、星野と同じ空間にいる時間を、少しでも減らしたかっただけ。でも、そんなことは可奈に言えるはずもなく。にこにこと笑みを浮かべている可奈を見ると心が鈍く痛むけれど、それさえも自分の中で正当化して、「でしょ?」と無理やり口角を上げた。
『……ほ、しの。ほしのっ────』
『お願い、どこにもいかないで……っ』
昨日の自分が、いったい何をしてしまったのか。夜が明けて、日が昇って。ようやく落ち着いて、あまりの羞恥でどうして良いかわからなくなる。
なんてこと、したんだろう。
勝手にしがみついて、名前を呼んで。大号泣して、挙句の果てには「いかないで」だ。
いったい誰に人生最大の醜態を晒しているんだと、昨日の自分を殴り倒したい気分だ。
『言ったろ。俺はここにいる。お前の────栞のそばにいるよ』
芯のある強い声が、頭の上で響く。思い出した途端、顔に熱が集まっていく。
羞恥とはまた違う意味で。
きっと昨日は、お互いどうかしていたのだ。そもそも、一緒に帰ることになったこと自体が、はじめから大きな間違いで。一瞬で消えてしまう夢のようなものだったのだ。どちらにとっても。たいして気にするようなことではない、そんなもの。
「お、星野!」
そんな声で、視線が教室の戸に引き寄せられる。いつものように、特にセットすることない髪を無造作にかき上げながら、一直線に席に着く星野。一瞬目があったような気がしてドキリとしたけれど、たいして反応を示さないまま着席してしまった。
ほら、やっぱり。星野にとっても、そんなもの。
だから、わたしがいちいち気にする必要なんてない。昨日の出来事はどうせ夢だったのだから。
彼のことだからわざわざ話をしてこないだろうし、わたしだって記憶から消してしまいたいような出来事をいちいち掘り起こしたくもない。
普段なら少し苛立たしく感じてしまう彼の無頓着さも、今日ばかりは逆にありがたかった。
***
「成瀬ちゃん」
昼休み、可奈とともに中庭に向かっている途中で、突然後ろから声をかけられた。振り向いてその姿を認識し、反射的に頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちはっ」
わたしに続くようにして、可奈もペコリと頭を下げた。
「そんなに丁寧にしなくていいのにー。ねえ、麗華?」
「ほんとほんと。気遣わないでいいよ?」
あはは、と笑う彼女たちは、我が女子バスケ部のキャプテン麗華先輩と、副キャプテンの真波先輩。ずっと頭を下げていると「顔あげて」と声が降ってきた。ゆっくりと顔を上げる。
「昨日、部活に来なかったのはどうして?」
あくまで穏やかな口調で、その裏に鋭い棘を潜めて。怖いほどに満面の笑みで、真波先輩が訊ねてくる。
覚悟は、していた。どうせ言われるだろうなと。
それでもせめて部活中だと思っていたのに、よりによってこんな昼休みに。
「今、どれくらい大切な時期か分かってる?」
「……はい」
「私たちはね、もうすぐ引退するの。この夏が終わったら、引退。だから負けるわけにはいかないの。それは分かってるよね?」
「……はい」
夏が終わる。それはすなわち、負けるということ。
もうすぐやってくる夏の大会が、三年生の集大成、引退試合だ。予選、そしてインターハイで勝ち進めなければ、先輩たちは引退する。だから、こんな時期にスタメンのわたしが休んでいる暇などなかった。そんなことは分かっていた。
そしてそれはまた、星野も同じ。でも、彼はきっと大丈夫だろう。先輩からも、後輩からも、顧問の先生からも厚く信頼されているから。
「すみません」
うつむくと、小さく舌打ちが聞こえたような気がした。でもこれは、仕方のないこと。休んだのはわたしが悪いし、先輩にどうこう言える立場じゃないのが後輩だ。
「ったく、ちゃんとしてよね」
「ま、成瀬ちゃんには期待してんだからさ」
うわべだけの言葉を言ってわたしの肩をポンと叩き、彼女たちは去っていった。嵐が過ぎ去っていき、安堵でほう、と息をつく。横に視線を遣ると、可奈が青白い顔をしてわたしを見ていた。
「ごめん、栞ちゃん……」
「え?」
泣きそうな顔で、そんなことを洩らす可奈。これではまるで可奈のほうが叱られたみたいだ。
「どうしたの」
「守れなくて……」
唇を噛み締める彼女は、どうやら罪悪感を感じていたらしかった。そんなもの、彼女が感じる必要などないのに。可奈は優しすぎるのだ。わたしのことをまるで自分のことのように思ってくれる。
一緒に笑って、泣いて、喜んで、怒って。高校に入って知り合って友達になり、さらに友情を深めて親友になった。彼女は知り合ってからずっとこうだ。いつもわたしのそばにいてくれる唯一の存在。わたしにとって、なくてはならない大切な存在だ。
「大丈夫だよ可奈。可奈が謝る必要なんて、少しもないから」
「でも、麗華先輩たち言い方きついし……何も言い返せなくてごめん」
「気にしてないから大丈夫だって」
可奈は少し……いや、かなり心配性だと思う。先輩に言われるのは日常茶飯事でなんでもないことだし、さっきのはまだ優しい方だった。ベンチメンバーである可奈はあまり見たことがないのかもしれないけれど、試合の時のスタメンへの口調はあんなものとは到底比にならないほどだ。
厳しい実力の世界だということを知っているからこそ口調だって荒くなってしまうだろうし、思いが強いからこそ怒鳴ってしまうことだってある。でもそれは、正しいキャプテンと副キャプテンの在り方。
過ぎてしまったことはもうどうしようもない。昨日の自分はサボるという道を選んだ。この事実は変えようがないのだから、反省したらもう割り切って前に進むしかない。
「わ、美味しそうな卵焼きだ」
中庭に鎮座するベンチに並んで座り、なおも暗い顔をしている可奈のお弁当を覗き込む。そこには美味しそうな卵焼きが二つ入っていた。
どうにかして彼女の沈んだ気持ちを上げないと。その一心で、思ったことを声に出してみる。さらりと吹く風に髪が揺れ、石鹸の香りが鼻先をかすめた。
「……一個、いる?」
消えそうな声で訊ねてくる可奈。ここで断ってしまったら、彼女はもっと落ち込んでしまうような気がして、慌てて口の端を上げて笑みをつくった。
「うん。いる」
その言葉に、わずかに目を開いた可奈。少しだけ頰が緩んでいる気がして、小さく安堵する。
「あ……箸、ないや」
しかし、いつも昼食を購買のパンで済ませているわたしは、今日もいつも通り箸を持っていなかった。
(手掴み、はさすがにダメだよね)
そう思うけれどそれしか方法がなく困惑していると、横からスッと箸が差し出された。
「使って」
「いいの? ありがと」
箸を受け取って、卵焼きを掴む。そのまま口に運ぶと、ふわふわの食感と、ふんわりとした甘さが口内に広がった。
「甘っ。美味しい」
「そう、かな」
「うん。めっちゃ美味しい。わたし、これくらい甘い方が好き」
素直に感想を告げると、可奈はパァッと顔を明るくした。思いが顔に出やすいところも、可奈の魅力の一つだ。面を被ることなく、感情と表情が直結している。時にそれは難点になる場合もあるだろうけれど、そんな性格がわたしは結構好きだ。
嬉しいことは全力で表現してほしいし、嫌なことは包み隠さず顔に出してほしい。言葉だけの飾りの関係ではなくて、心から「親友」と呼べる関係性をこれからも続けていきたいから。
「私も……好きだよ」
これくらい甘い方が、と続ける可奈に箸を返して、「ありがとう」と卵焼きのお礼を言った。可奈は丸い目を少しだけ細めて、うん、と呟く。
毎日飲んでいるせいで、もはや相棒とも言える甘めのミルクティーを喉に流し込みながら、頭上に広がる青空を見上げる。
今日の空も、青一色だ。雲一つない、澄み渡る綺麗な空。
「……綺麗」
となりで同じように空を見上げた可奈がぽつりと呟いた。それからわたしに視線を戻して、にこりと笑う。
「栞ちゃん、中庭に誘ってくれてありがとう。こんなに綺麗な空が見られて、私今すごく幸せ」
「こちらこそ、快諾してくれてありがとう」
星野から離れたいがために咄嗟に提案した嘘だったのに、何も言うことなくこんなにも素直に頷いてくれて、お礼まで言ってくれる。まるで自分が悪いことをしているような、モヤモヤとした感覚になる。罪悪感を感じずにはいられなかった。けれど。
「また誘ってね」
そう言って彼女がふわりと笑うから、わたしはいつだって、その優しさに甘えてしまうのだ。