聴覚以外の感覚なんて信じていなかった。あの子から手紙をもらうまでは。
インターネットの怖さは散々知っていたはずなのに、また小さなやらかしをしてしまった。推し作家の文庫本発売日、あとがきのネタバレを踏んでしまった。
歌手をしていた頃のフォロワー数七十万以上のアカウントではなく、情報収集と知人の近況を知るためだけのプライベートアカウントのタイムラインに容赦なく流れて来たあとがきの全文。無断転載はいつになっても撲滅されることはない。
推し作家、朝名愛のデビュー作『大都会のセイレーン』の文庫本を買いに書店へ向かう。彼女が当該作品で新人賞を受賞したのと、俺が悪意にさらされて引退を余儀なくされたのはほぼ同時期だった。
『大都会のセイレーン』に信じられないほどはまった。主人公のキラは俺がこうなりたいと思う偶像そのものだったから。同時に朝名愛のファンになった。
彼女の二作目以降は酷評されがちだが、俺は結構好きだ。主人公にキラほどの魅力がないと世間は言うが、等身大の主人公たちに俺は共感した。
彼女の本を読んだきっかけは、俺が歌手Rampageだった頃にファンレターをくれていた女の子と同じ名前だったから。何万通と手紙をもらう中、朝名愛の名前が印象に残ったのは彼女の便箋からはいつも花の香りがしたからだ。どこかあたたかい雰囲気で優しいあの香りにやすらぎを感じていた。
初めてファンレターをもらったのはもう5年も前だが、あれから毎年春先に花屋の前を通るたび彼女の手紙に似た香りがして、そのたび顔も声も知らない女の子に思いを馳せた。
今となっては彼女から手紙をもらうこともないが、あの香りは今でも鮮明に思い出せる。それは今までに聞いたどんな音よりも俺の心に深く刻み込まれている。これが嗅覚の魔術なのだろうか。
悶々としたまま花屋の前を通ると覚えのある香りがした。もうそんな季節か。今朝目にしてしまったネタバレには、「朝名愛は憧れの歌手・慧のために小説を書いている」「スノードロップの香りのファンレターを慧に送った」とあった。
今日はやたらと手紙の花の香りに似た香水をつけた女性とすれ違う。しかし、まったく同じ香りではない。同じ花だけど違うメーカーの香水。そんな微妙な違いが分かるような人間ではないはずなのに確信があった。
俺は花屋に入って白い花を指差す。
「すみません、この花の名前を教えてください」
「スノードロップですよ」
店員が微笑んだ。自惚れではないかと不安だったが、ようやく答えが出た。手紙をくれたあの子は同姓同名ではなく、本当にあの後小説家になった。そして、彼女が慧と呼び慕う歌手はRampageだと。
「これで花束を作っていただけますか?」
気づけば衝動買いをしていた。
大きなスノードロップの花束を抱えて、本来の目的である書店へ向かう。よく考えてみれば、本を買ってから花を買うべきだった。
百貨店から出てきた女性二人とすれ違う。彼女たちもまたスノードロップの香水をつけていた。
「ラスイチ買えてよかったね」
「ねっ。それにしてもセイレーン効果すごくない?」
社会現象にまでなった『大都会のセイレーン』のあとがきの影響は大きく、早くも各所でスノードロップの香水が飛ぶように売れているらしい。
この分だと自分こそが慧だと出版社に花束を贈る偽者も続出していることだろう。いくら詮索するなと忠告したところで心無い大衆は既に慧の正体の考察をブログに載せている。中には、Rampageという正解にたどりついた者もいるだろう。俺は自分が本物だと証明する術を持たない。
早くも花を買ったことを後悔しながらも、書店に到着したので気持ちを切り替える。ハードカバー版を何度も読み返した名作『大都会のセイレーン』を手に取ってレジへと向かった。
「これ、お願いします」
本を買おうとすると、レジを担当していた大人しそうな女性は驚いたような顔をして俺の顔と花束を交互に見比べた。彼女が本に手を伸ばした瞬間、忘れるはずのないあの香りがふわっと漂った。
「880円になります」
彼女の手首が動くたびに、懐かしい香りがする。脳裏に浮かぶ、Rampageとして歌った日々。ファンレターを呼んだ夜。初めて朝名愛の小説を読んだ時の衝撃。引退後の生き甲斐だった彼女の小説を読むひと時。
「好きなんです。朝名先生の小説」
俺は気づけば、魔術にかかったように感情を吐露していた。彼女のブックカバーをかける手が一瞬止まった。彼女は俺を見るとどもりながら答えた。
「キラはカッコいいですよね」
俺に商品を手渡した彼女。やっぱり、あの香水だ。間違えるはずがない。
「キラだけじゃなくて物語の全部が好きです。それと、『大都会のセイレーン』以外の話も全部」
俺の声を聞くたび、彼女はちらちらと花を見たり、俺の持ち物から俺の正体を探ろうとしたりしている。彼女は泣きそうな顔で俺にお釣りを渡した。花の香りのする手が俺に触れる。
「だから」
彼女が朝名愛であってほしいと思った。
「朝名先生には、ずっと物語を書き続けてほしい」
嘘偽りない気持ちを彼女に伝えた。彼女の頬を涙が伝う。
「私は、またRampageさんの歌が聴けたらいいなって願ってるんです。夢物語だって分かってるけど」
一見すると唐突な彼女の言葉。でも、彼女は気づいてくれた。俺がRampageだと。俺が慧だと。
「歌いますよ」
俺は憧れの小説家に花束を手渡した。スノードロップの香水は俺を彼女のもとに導いてくれた。彼女は俺にもう一度歌うための希望をくれた。だから、俺も彼女の道標になろう。セイレーンの歌は人を惑わすことが出来る。ならば、人を導くことだってできるはずだ。
「それで、あなたの呪いがとけるのならば」
fin
インターネットの怖さは散々知っていたはずなのに、また小さなやらかしをしてしまった。推し作家の文庫本発売日、あとがきのネタバレを踏んでしまった。
歌手をしていた頃のフォロワー数七十万以上のアカウントではなく、情報収集と知人の近況を知るためだけのプライベートアカウントのタイムラインに容赦なく流れて来たあとがきの全文。無断転載はいつになっても撲滅されることはない。
推し作家、朝名愛のデビュー作『大都会のセイレーン』の文庫本を買いに書店へ向かう。彼女が当該作品で新人賞を受賞したのと、俺が悪意にさらされて引退を余儀なくされたのはほぼ同時期だった。
『大都会のセイレーン』に信じられないほどはまった。主人公のキラは俺がこうなりたいと思う偶像そのものだったから。同時に朝名愛のファンになった。
彼女の二作目以降は酷評されがちだが、俺は結構好きだ。主人公にキラほどの魅力がないと世間は言うが、等身大の主人公たちに俺は共感した。
彼女の本を読んだきっかけは、俺が歌手Rampageだった頃にファンレターをくれていた女の子と同じ名前だったから。何万通と手紙をもらう中、朝名愛の名前が印象に残ったのは彼女の便箋からはいつも花の香りがしたからだ。どこかあたたかい雰囲気で優しいあの香りにやすらぎを感じていた。
初めてファンレターをもらったのはもう5年も前だが、あれから毎年春先に花屋の前を通るたび彼女の手紙に似た香りがして、そのたび顔も声も知らない女の子に思いを馳せた。
今となっては彼女から手紙をもらうこともないが、あの香りは今でも鮮明に思い出せる。それは今までに聞いたどんな音よりも俺の心に深く刻み込まれている。これが嗅覚の魔術なのだろうか。
悶々としたまま花屋の前を通ると覚えのある香りがした。もうそんな季節か。今朝目にしてしまったネタバレには、「朝名愛は憧れの歌手・慧のために小説を書いている」「スノードロップの香りのファンレターを慧に送った」とあった。
今日はやたらと手紙の花の香りに似た香水をつけた女性とすれ違う。しかし、まったく同じ香りではない。同じ花だけど違うメーカーの香水。そんな微妙な違いが分かるような人間ではないはずなのに確信があった。
俺は花屋に入って白い花を指差す。
「すみません、この花の名前を教えてください」
「スノードロップですよ」
店員が微笑んだ。自惚れではないかと不安だったが、ようやく答えが出た。手紙をくれたあの子は同姓同名ではなく、本当にあの後小説家になった。そして、彼女が慧と呼び慕う歌手はRampageだと。
「これで花束を作っていただけますか?」
気づけば衝動買いをしていた。
大きなスノードロップの花束を抱えて、本来の目的である書店へ向かう。よく考えてみれば、本を買ってから花を買うべきだった。
百貨店から出てきた女性二人とすれ違う。彼女たちもまたスノードロップの香水をつけていた。
「ラスイチ買えてよかったね」
「ねっ。それにしてもセイレーン効果すごくない?」
社会現象にまでなった『大都会のセイレーン』のあとがきの影響は大きく、早くも各所でスノードロップの香水が飛ぶように売れているらしい。
この分だと自分こそが慧だと出版社に花束を贈る偽者も続出していることだろう。いくら詮索するなと忠告したところで心無い大衆は既に慧の正体の考察をブログに載せている。中には、Rampageという正解にたどりついた者もいるだろう。俺は自分が本物だと証明する術を持たない。
早くも花を買ったことを後悔しながらも、書店に到着したので気持ちを切り替える。ハードカバー版を何度も読み返した名作『大都会のセイレーン』を手に取ってレジへと向かった。
「これ、お願いします」
本を買おうとすると、レジを担当していた大人しそうな女性は驚いたような顔をして俺の顔と花束を交互に見比べた。彼女が本に手を伸ばした瞬間、忘れるはずのないあの香りがふわっと漂った。
「880円になります」
彼女の手首が動くたびに、懐かしい香りがする。脳裏に浮かぶ、Rampageとして歌った日々。ファンレターを呼んだ夜。初めて朝名愛の小説を読んだ時の衝撃。引退後の生き甲斐だった彼女の小説を読むひと時。
「好きなんです。朝名先生の小説」
俺は気づけば、魔術にかかったように感情を吐露していた。彼女のブックカバーをかける手が一瞬止まった。彼女は俺を見るとどもりながら答えた。
「キラはカッコいいですよね」
俺に商品を手渡した彼女。やっぱり、あの香水だ。間違えるはずがない。
「キラだけじゃなくて物語の全部が好きです。それと、『大都会のセイレーン』以外の話も全部」
俺の声を聞くたび、彼女はちらちらと花を見たり、俺の持ち物から俺の正体を探ろうとしたりしている。彼女は泣きそうな顔で俺にお釣りを渡した。花の香りのする手が俺に触れる。
「だから」
彼女が朝名愛であってほしいと思った。
「朝名先生には、ずっと物語を書き続けてほしい」
嘘偽りない気持ちを彼女に伝えた。彼女の頬を涙が伝う。
「私は、またRampageさんの歌が聴けたらいいなって願ってるんです。夢物語だって分かってるけど」
一見すると唐突な彼女の言葉。でも、彼女は気づいてくれた。俺がRampageだと。俺が慧だと。
「歌いますよ」
俺は憧れの小説家に花束を手渡した。スノードロップの香水は俺を彼女のもとに導いてくれた。彼女は俺にもう一度歌うための希望をくれた。だから、俺も彼女の道標になろう。セイレーンの歌は人を惑わすことが出来る。ならば、人を導くことだってできるはずだ。
「それで、あなたの呪いがとけるのならば」
fin