ふと、窓際の景色を見る。月がきれいだ。悪い世界じゃないな。しかし、今後俺は配偶者を見つけることができるのだろうか。職場には男性が多くあまり対象になる人間がいない。ならば、仕事以外で探すしかないということか。ハードルが高いな。少しばかりアルコールが入っていたせいだろうか。
 ひかりの顔がちらちら頭をよぎる。そして、今何をしているのだろうかなんて考える。馬鹿げているな、明日になればまた会えるというのに――。

 しばらくそんなことを考えていたが、結局俺はいつのまにか眠っていた。労働と言う慣れない仕事は俺の体を蝕んでいるようだ。元々労働向けの体じゃないんだ。魔王だからな。

 早朝に起きて、仕事の準備をする。身の回りのことは全部自分でやるという生活は生まれてはじめてだ。魔界では当然のように家来が世話をするし、一人で外出は極力せず生きて来た。魔界には能力が計り知れない猛者も多いが、この国は弱者の塊だ。自分で朝食を用意して食べるのも面倒で、俺は何も食べずにスーツに着替える。この世界の正装をして実習をする。

 この頃、この世界も悪くないと思えるようになってきた。我々の世界に比べると空は青く雲が白い。この世界のことは教科書でしか学んだことはないが、実際に見ると写真で見たよりも透き通ってすがすがしい気持ちになる。鳥のさえずりというのも初めてだが、悪くない。むしろ心地いい。朝の空気も魔界とは全然違う。空気のすがすがしさは教科書では体感できない。それゆえの実習なのかもしれない。職場の近くを住処としているので、通勤時間はそれほどかからない。そして、13歳から15歳のガキ共も思ったよりもずっと心根がいい人間が多い。この世界もそんなに悪くない、そんな感想だ。

「おはよう。昨日は助かったわ、ありがとう」
「おまえは、いつも俺に対して敬語を使わないんだな。俺の国ではそんな奴は一人といないがな」
「ここは人間界よ。あなたは魔王じゃないし、上下関係もないでしょ」
「昨日は楽しんだのか?」
「めちゃくちゃ楽しかったよ」

 そうなのか、いい感じになったのだろうか。

「でも、付き合えないっていったけどね。いい友達ならっていうことで」
「そうか……」
「なにその反応」
「別に」

 心のどこかで安堵している自分がいることに気づかぬふりをする。

「あんた、婚活しなきゃだめなんでしょ」
「仕事の実習がうまくいっても嫁が見つかるまでは帰れないからな」
「案外大変なのね」
「そうだ、おまえに嫁のフリをしてもらって実習を終わらせるというのもありだな。唯一俺の正体を知っている人間は貴重だ。その手を使わないなんて、もったいないと思わないか」
「でも、そんなことしても本当の結婚相手がいないのは困るんじゃない?」
「結局だめになったということにして、適当に魔界から嫁を探すというのもありらしいからな」
「でも、そんな面倒に巻き込まれるのはごめんだわ」
「そこをなんとか。嘘の恋人でいいから。そうだ、俺がのちにフラれた設定にしよう。報酬ははずむぞ」
「報酬って?」
「俺の魔力があれば、おまえの望みをかなえることができる。欲しい洋服やアクセサリーなどなんでも出すことは可能だ」
「悪くない話ね」

 ひかりはにやりとして、了承する。

「嘘の結婚相手として、一度大魔王に会ってくれないか」
「あなたのお父さん?」
「そのとおり。王妃になる人に待遇は悪くしない。もちろん、それ以降うまくいかなかったことにしてしまえば不利益はない」
「でも、夜神は魔界でいい人見つけられそうなの?」
「人間界で出会いを求めるには広すぎるし、時間が足りない。魔界のほうがじっくり時間をかけて選ぶことができるからな」
「あなたのこと1ミリも好きな気持ちはないけれど、報酬があるなら協力しましょう。会うのは一度でいいんでしょ」
「じゃあ、今夜顔見せしよう。そんなに時間はかからない」
「でも、普段着のままでいいの?」
「かまわない。行き帰りは俺が魔界の入り口を開けるからついてくれば大丈夫だ」
「滅多に魔界なんて行けないもの。面白そうね」

 楽しそうな顔をするんだな。偽りの恋人は。

 仕事が終わり、からすが鳴く黄昏時。定時が過ぎると学校付近の竹林へ行く。

「このあたりなら、誰も来ないだろう。さあ、手をつなぐぞ」
「手をつながないとだめなの?」

 嫌そうな素振りをされると少々心が痛む。嫌がられていることは重々承知していることだ。

「仕方ないだろ。俺の手を握っていろよ。時空の間は風が強い。吹き飛ばされないようにしろ」
「わかったわよ」
 
 しぶしぶ手をつなぐ。魔界への移動のためとはいえ、女性と手をつないだのは初めてかもしれない。腕を地面と平行にする。手のひらをひらいて、妖魔の力で時空の穴を開ける。空間がゆがみ穴が開く。そこへ飛び込む。一瞬強い風が吹く。目を開けていられないけれど、それはほんのわずかな時間だ。しばらくすると風が生暖かくなる。瞼を開けると、紫色の空が広がる。到着してもひかりはすぐには手をふりほどかないことにどこかむずがゆい気持ちになる。案内するという意味で俺は手をつないだまま進んでいく。

「ここが魔界?」
「そうだ。俺はここの大魔王になる、そのためにほんの少しだけ協力を頼む」
「空は紫色だし、雲はピンク色なのね。木の色は緑ではなく青いのね」
「ここの色彩は人間の世界とはだいぶ違うんだ。だから、青い空に白い雲は初めて見たんだ」
「ここがあなたが生まれ育った故郷なのかぁ。死ぬまでに一度は異世界に行ってみたかったのよね」
「生涯で1度だけだが、貴重な体験だろ? この先が俺の家であり、魔王城だ」

 そびえたつ大きな建物を指さす。漆黒色の建物は重々しい雰囲気をかもし出す。

「本当に王子様だったんだぁ」
「まあな」

 門の前に着くとたくさんの家来たちが出迎える。俺にとっては当たり前の光景だが、ひかりはかなり驚いている様子だ。門が開く。大魔王のいる部屋まで歩く。全員が頭を下げる通路を抜けて進む。

「最上階が大魔王の部屋だ」
「大魔王ってなんだか怖そうじゃない?」
「どうだかな」
 俺は、あまり父親のキャラクターを知られたくなかったがこの際仕方がない。父親は俺に対してかなり甘いのだ。エレベーターに乗り、部屋の前にたどりつく。相変わらず掃除が行き届いていて清潔感がある廊下だ。

 ドアを開けると――
「怪ちゃん、おかえりー。何日も会えなかったからパパめっちゃさびしかったよぉー」
 ひかりが石像のように固まっている。そりゃそうだ。こんなにごつい強面の大魔王が、怪ちゃん呼ばわりしてしてパパと言っているんだからな。

「ママも寂しかったわぁ。まぁその素敵なお嬢さんは将来のお嫁さんになる方?」

 母親は見た目は普通だが、俺に対しては基本的には甘い。そして、子離れできずにいるところがある。

「はじめまして、照野ひかりです」
「実習先で出会った妖魔力のある人間なんだ」
「まぁ、私も昔、人間界でパパと出会って結婚したのよね。人間出身なの。よろしくね」

「魔王家は人間と結婚することによって、栄えてきたんだ。どうやら混血のほうが丈夫で優秀な子供が生まれるらしい」

「怪ちゃんのどこに惹かれたのかな? まぁ惹かれるポイントはたくさんあったと思うけどねぇ」
 大きな大魔王が見下ろしながら、俺を好きになったポイントを聞いてきた。これは、ピンチかもしれない。ひかりは俺に対して1ミリも好きだと思っていないのだろうからな。

「夜神先生は、ちゃんと教師としての職務を全うしています。慣れない人間界で働くことは予想以上に大変でしょう。しかし、授業内容も余念がないように調べているし、中学生に対しても平等に優しく接しています。真面目で一生懸命なところは尊敬に値します」

 この女、口からすらすらとよく嘘がつけるものだな。俺はあきれてものが言えない。しかし、こうも褒められると嘘だと知っていても照れるじゃないか。

「怪ちゃんは、ひかりさんのどこが気に入ったの?」

 そう来たか。ひかりのいいところを述べればいいのか。俺は一瞬考えるが、思いのほかすらすらと言葉が出る。

「魔界の話をしても、ひるむことなく行ってみたいと言ってくれた。このように勇気と好奇心旺盛な人はそうそういるものではない。そして、いつも俺のそばにいてくれたことは人間界での生活の中でとても心強かった」

 ひかり、こっちを見るな。照れるじゃないか。この言葉は8割本当の気持ちだからな。

「魔界で生活してもいいのかい?」
「はい。夜神先生と一緒ならば」

 本当に詐欺師になれるんじゃないだろうか。こんなに口がうまい人間だとは思わなかったぞ。

「明日も仕事だから、人間界に戻るよ」
 あまり墓穴を掘りたくないと思った俺は、長居は無用だと思う。

「まぁ、残念だわ。また来てね」
 母親は気に入ったらしい。

「若い頃のママそっくりの美人さんだな。怪ちゃんは見る目があるなぁ」
 父親も好感触だ。

「じゃあ、もう少しで実習も終わりだし、大魔王になる資格は与えられるってことだよね」

「そうね。本当に結婚したらね」
 母親の一言が少しばかり気になったが、まさかばれているのではないだろうか。

「じゃあ、また来るよ」
「お邪魔しました」

 これでミッションクリア。俺の未来は約束された。しばらくしたら、別れたと報告すればいいだけだ。協力はもう必要はない。

「じゃあ報酬を渡すよ。何がいい?」
 高価なネックレスでも、車でもなんでも用意しよう。さぁ、何が希望だろうか?

「じゃあ、夜神のお嫁さんにしてよ」
「はぁ?」
 俺は驚きすぎて変な声になっていることに気づく。

「からかうな。大魔王夫婦に申し訳ないという嘘に対する気持ちからそんなことを言っているのだろうが、ちゃんと親には説明する。おまえに嘘をついたデメリットはないぞ」

「さっき、好きなところを言った時、本当に夜神怪って良い人だなって改めて思ったんだ。私は、魔界の空気も嫌いじゃないし、私を嫌いだというのでなければ報酬として受け取ってもいい?」

「何を言っているのかわかっているのか」
 ひかりが頬を赤らめる。信じられないことだが、本気だということだろうか。

「……本当にいいのか?」
 俺はありえない事実にもう一度念を押す。

「あなたこそ、私を王妃にしてもいいの?」
 俺は一瞬息を呑む。一生を決める一瞬だからだ。俺はひかりに対してじっくり向き合う。俺の本当の気持ち――

「……かまわない。他に候補を探す手間も省けるしな」

 俺たちは見つめあう。そして、手をつなぎ人間界に戻る。ひかりは人間界で仕事をしながら魔界で生活をしたいということだった。それは、わが国はじめての王妃の働き方改革だったのかもしれない。

 さらりとした髪の毛も、大きな深い色合いの瞳も、唇の先端も、彼女を作る全ての物質を好きになる。他の人では代替が効かないことが好きだという証なのだろうか。

 のちに知ったことなのだが、俺の母親も最初は婚約したふりをしてほしいと親父が頼んで仕方なく魔界に来たらしい。それが、どうしてなのか長年夫婦としてうまくやっているということだ。

 俺たちは何年先もずっと傍らにお互いを感じながら生きていくのだろう。それを嫌だと思わない、いや、むしろ心地いい。これが好きだという気持ちなのかもしれないな。そして、この話は後世に引き継がれて書籍になって読まれるなんて当人たちは思うはずもない。