車に撥ねられた時の感触や衝撃を覚えている。そして、意識が遠のく感覚も。
 けれど、遠のいた意識が再び戻った先は、知らない家のベッドの上だった。ぼうっと天井を見ていると「おう。起きたか」と声を掛けられた。
 低い声の先には、ある男が腕を組み、壁にもたれて立っている。
 その男は黒髪に目つきの悪い、真っ黒な瞳をした、私より少し年上に見える男だった。
「家に帰ってきたら玄関の前に女が転がってるから驚いたよ」
 と、全然驚いていなさそうな素振りで言った。
「あなた、誰?」
「人の名前聞く時は自分から名乗れよ。まぁ、いいか。俺はコウキ」
「…………コウキ」
「そう。お前は?」
「私は、……マリア」
 この時、嘘をついた。
 私は一時的に自身の記憶の一部を失っていた。咄嗟にコウキが着けていた聖母マリアをモチーフにしていたペンダントが目に入って、『マリア』と名乗った。
 コウキは疑問に思ったのやら思わなかったのやら、ただ一言「そうか……」とだけ呟いた。
「で?意識戻ったんなら自分家帰れよ」
「帰れない」
 だって、私は自分の名前すら思い出せない。帰る家がどこにあるのかも覚えていない。
「はぁ?」
「帰れない」
「理由は?」
「言えない」
「警察呼ぶぞ」
「警察が来たら、コウキに無理矢理連れ込まれたと言う」
「何だよ、それ。脅しかよ、めんどくせぇ。家上げるんじゃなかった」
 コウキは心底面倒くさそうに、ため息を吐いた。
「ごめんなさい。けれど、本当に自分の家に今は帰れない。無理を承知で言う。暫くここに置いて欲しい。家事はする。コウキのプライベートに立ち入ったりはしない。お願いします。お願いします!」
 私は必死だった。必死に頭を下げた。
 死のうとして車に撥ねられたはずなのに、起きたらコウキの家だったなんて、どういう事だ?しかも自分が誰かも分からない。生きているのか死んでいるのかも分からない。パニックになるな、という方が難しかった。
「訳ありの子猫を拾っちまったって訳か……まぁ、部屋余ってるし。好きに使えば?」
 まさかの返事だった。
「え……?ありがとう……。いいのか?コウキってお人好しなんだな」
「追い出すぞ?」
「訂正する。コウキは優しいんだな」
「それで良し」
 満足そうにコウキは微笑んだ。

 そこから私とコウキの奇妙な同居生活が始まった。