空が青い。こんなにのんびりとしていて馬鹿らしい日々が訪れるとは――。喧騒の中で殺し屋ジャックはため息をつく。正確に言うと、元殺し屋と言ったほうがいいのかもしれない――。

 ここは、裏社会とは程遠い場所。小学校の校庭だ。しかも、任務のためにいるわけではない。純粋なるかくれんぼに参加している。とは言っても、みつかったら殺されるリアルかくれんぼじゃない。普通に見つかったら鬼になるあの遊びだ。俺様も落ちぶれたものだな。ため息しかでない。このまま、みんながいない場所に移動して午後の授業はさぼるとするか。俺は危険と隣り合わせの暗殺の仕事をしてきたのだが、今は小学生をしている。冗談ではない。本当の話だ。

「遠藤豆太くん」
 空を眺めていると、視線を感じる。あぁ、一体どんなセンスでこんな名前を付けたのだろう。名字と名前のバランスは考えるべきだ。もし、こんな名前ではなければ、俺は表社会で普通に会社員をやっていたかもしれない。あえて、俺は裏社会を選んだだけだ。とりあえずここは返事をしておこう。しなければ、がみがみうるさい説教が飛んでくる可能性が高いからな。
「はい」

 俺の名前は殺し屋ジャックだ。純日本人であり、本名は遠藤豆太だ。幼少期にジャックと豆の木という話にかけて、エンドウ豆から連想できるジャックと言うあだ名がつけられた。正確に言えば、15年くらい前の話だが、ここにきてまだ間もない俺は、あだ名すらもない。

 親兄弟とも縁を切って殺し屋をはじめとする裏取引や恐喝などの闇稼業を行っていたのだが、国の犯罪者更生プログラムとやらで、体を小さくされて小学生として生活することになってしまった。

 国は更生プログラムを使って一部の悪人を更生させるという取り組みを始めたらしい。悪人全員が対象ではなく、ほとんどの犯罪者は刑務所で生活するという流れは変わっていない。試験をして、更生が可能かもしれないと思われた何名かが極秘で人生をやり直しさせてもらっているらしい。肉体年齢が下がれば、結果的に長く生きることはできるし若返ることは悪くはない。しかし、小学1年生となると体力面では大人の状態に比べるとかなり劣ってしまうし、走る速さや腕力は大人に比べるとだいぶ劣る。

 小学校にいる時間以外は基本的に孤児院で生活させられている。俺の左腕には自力では取り外し不可能なリストバンドがある。GPSが埋め込まれているらしく、下手に逃亡すると電流が流れる。苦痛が続き、死に至る可能性もあるのでうかつな行動はできない。この俺様ともあろうものが、実に情けない。

 とは言っても、一般人に恐怖を与えないように、元殺し屋だということは伏せられ普通の小学生として生活させられている。もし、小さな体で犯罪を犯そうとすれば、興奮するときに脳に出る分泌物が反応し、俺の体に電流が走る仕組みになっている。左手のリストバンドは興奮したり、秘密を暴露しようとすると電流が発動するシステムになっているらしい。どうにも馬鹿げたシステムに巻き込まれてしまった。まるで西遊記の孫悟空だ。

 幼少期の教育が足りていなかったから、もう一度教育し直して更生させるという理屈は当事者には迷惑なことだ。本当に幼少期の脳になるわけではない。大人の頭脳のまま記憶も消されないまま子供として生活することは、とんでもなく大変なことだ。

 精神年齢が違うものと共同で小学校生活を送るなんて実に馬鹿げている。低レベルなネタで本気で笑う小学生の男子共にはついていける気がしない。本当に小学1年生であれば、本気で笑うこともできたのかもしれない。そんなことも忘れるくらい歳を重ねたのかもしれない。

 ちなみに、もう一人元大人の女がこのクラスにいる。俺よりも少し前から小学生をやっているらしい。あいつはかつて、闇の組織で、詐欺師兼殺し屋として所属していた記憶がある。大人として会話ができるのは小学校ではひとりだけだ。

「ねぇ、豆太くん」
 顔は幼いが、大人だった時の表情が残っている。通称フラワー。
「ジャックと呼べ」
 俺は、本名はできれば避けて生きていきたい。なぜそんな名前を付けたのだ? 俺は親を昔から恨んでいた。

「あら、かつて殺し屋として名をとどろかせていた呼び名でいいの?」
「実際俺は幼稚園時代からジャックと呼ばれていたんだ」
 少し俺の瞳をじっと見つめたフラワーは馬鹿にした表情と笑いを同居させ、失礼な大笑いをする。
「ジャックの本名が遠藤豆太とはね。腸がよじれそうだわ。初めて知ったときには仰天の事実だったわ」
 小さな体でケラケラと大笑いをする。

「実際、何人もの腸を見て来たんだろ」
「昔の話よ」
「花……味わいのある名前じゃないか」
 フラワーの本名をつぶやいて大笑いすると花は激怒する。

「豆太は黙りなさい」
 睨んだ目が普通ではない怖さがある。普通の人間ならば背筋がぞくっと凍り付くだろう。

 これが、ランドセルを背負った小学1年生の会話だということは普通ではないけれど、元殺し屋だから仕方がない。フラワーも俺同様、名の知れた暗殺者だった。一度味わった殺し。一度嗅いだ血なまぐさいものを忘れることはできないものだ。

「運動会のダンスの練習をします」
 担任教師が楽しそうに説明を始める。本当ならば、煙草を吸って、酒を飲んでいたいものだが、それは許されないらしい。そして、更生プログラムのリストバンドは、未成年に許されていない行為は許さないらしい。酒を飲めばアルコール濃度の高まりでしばらく電流が激しく体内に流れる仕組みらしい。煙草も同様で、ニコチンに反応するらしく、激しい電流に逆らってまで摂取する気持ちにはなれない。

「今日はうさぎさんぴょんぴょんのダンスをします」
 担任教師がとんでもない提案をしてきやがった。うさぎさんダンスとは……罰ゲームの極み、極刑じゃないか。きっと更生プログラムを考えた奴は、恥ずかしい極みの刑を俺に課そうとしているに違いない。
 
「踊りの練習をします。頭に両手を持ってきてぴょんぴょん、とびとび。先生の真似をして踊ってください」

 なんともおかしなダンスだ。腰を振りながら手で耳の形を作るらしい。そして、ぴょんぴょん飛ぶだと? 俺を何様だと思っているんだ。殺し屋ジャック様だぞ。

 真剣な表情の担任教師と共にクラス全員が真剣なまなざしで真似をする。その滑稽さに笑いをこらえる。これは、拷問か。きっと俺のプライドをズタズタにしようというのだろう。だから、俺はそのまま真似をせずただ見ているだけという選択をした。リアルに幼児期はこんなダンスを踊っていたのかどうかも俺の記憶にはない。あったとしても事実を抹消たのしかもしれないが、そんなダンスを踊ったとしても踊らなかったとしても俺はきっと闇の組織に入ってしまっただろう。つまりこんなことはやってもやらなくても同じということだ。

 他クラスとの合同練習に関しては、ガキ大将のような中心的存在の1年生男子が俺を威圧する。体が華奢な俺は体格差では圧巻される。殺しの術は心得ている故、瞬殺は可能だ。しかし、殺す時に感じる脳の中のアドレナリンを抑えることはできない。殺人をするときの特別な高揚感をリストバンドは感じ取ってしまい、殺そうとした暁には気絶するまで電流が流れると説明された。

「ちゃんとやれよ」
 腕組みしたガキ大将の山下が見下ろす。この男は、背が高くガタイがいい。ぱっと見高学年くらいには見えるだろう。せめて俺もこれくらい背が高ければ、筋肉質の小学生だったのならば、少しは戦いに有利だったのだがな。あいにく俺は小学生の頃はひょろっとしていて背が低かった。そのまま過去の体型が再現されている。実に優秀な再現だ。

「どこから来たんだ?」
 転校生である俺に山下が問いかける。いかにも俺の島でなにをしているという風を吹かせている。こういう奴はどこの組織にもいるのだが、先輩風を吹かせる輩はだまらせてやりたい。しかし、ここは小学校。相手は小学生。歯を食いしばって我慢だ。かつての俺ならばこんな奴は瞬殺だったのだがな。

「何組の者だ?」
 あいにく俺はどこの組にも所属しておらん。あえて言えば、1年1組といったところか。

 うさぎさんぴょんぴょんの歌が鳴り響く。歌詞は妙に明るく、甲高い歌声はどんよりとした気持ちにしかならない。どんな暗殺よりも厄介で恥ずかしいダンスだ。そう思いながら、仕方がなくジャックは一時的に避難するのだった。

「保健室行ってきます」
「一人で行ける?」
 心配そうな教師。教師も俺の素性は知らない。知ってしまうと普通に接することができなくなるのであえて国は秘密にしている。よってただの子供だと思っているようだが、大人に戻った暁には見ていろよ。睨みを利かすが、教師は既にこちらを見ていなかった。

「フラワーはあのダンスを踊ったのか?」
 休み時間にさりげなく聞く。

「郷に入れば郷に従え。暗殺の常識でしょ。あなた、個人的に嫌だからってうさぎさんぴょんぴょんダンスを放棄するなんて」

「今は暗殺者じゃない。もう捕らえられた俺たちは手のひらの上で転がされているだけだろ。そもそもあのこっぱずかしいダンスを踊っても俺たちは元の体には戻れないし、無意味だ」

「そうね、このリストバンドがある限り逃げることは難しい。犯罪を犯すことは己の死を意味する。更生プログラムを受けている者は、犯罪を犯せば容赦なく殺されることもあるものね」
 ため息交じりにリストバンドをながめる。

「かつては俺たち殺し屋も普通に小学生生活を送っていたわけだしな。フラワーはなぜ、殺し屋になったんだ?」
「詐欺の才能があることに気づいたからかしらね」
「ジャックは?」
「仲間だと思っていた奴が組織に所属していてな。誘われたんだよ。その男は今は組織を抜けてどこで何をしているかもわからん」
「友達を失ったのね。私は詐欺師だったから、今は小学生を騙すことを楽しんでいるけどね」
「今は暗殺はできないからな。日々、校庭で鬼ごっこやドッジボールをしているがな」
「へぇ、そんな悪人面が追いかけてきたり、ボールをぶつけてきたら正直怖がるでしょうね、だったらその悪人面で学校の悪事を制裁してみたら?」
「悪事を制裁?」
「いじめをなくすとか、悪い教師を追い詰めるとか。暗殺するわけじゃないけれど、社会的に暗殺するってことよ」
「俺はそんなにボランティアなんぞ好きじゃないからな」
「鍵盤ハーモニカを持ちながらのジャック。どんなカッコいいセリフもかカッコ悪く見えるわ」

 次は音楽だ。鍵盤ハーモニカを用意しておくことは、かつて殺し屋だった俺から言えば入念な事前準備はどんな想定外の事態が起きても対処しやすいってことだ。

「ジャックは血の香りが恋しくないの?」
「血の匂いはもう忘れた。俺と言う存在も忘れたんだ」
「ランドセルを背負って言う台詞じゃないわ」
 フラワーは赤いランドセルを片手にため息をつく。
「漆黒のランドセル、俺のカラーにぴったりだろ」
「真紅のランドセル、かつての私のカラーだったわ」
 二人は無言でランドセルを背負い、下校の準備をする。共に己の色を纏う。昔の自分を思い出しながらも、今の自分を受け入れざるおえないという諦めの心を持つ。運命に抗えない苦しみが襲うが、自分ではどうにもできないことが世の中にはある。現実を知ったうえで俺たちは子供を演じる。

「私たちってたくさんのものを失ったわね。自由、大人としての尊厳、それに引き換え安全で平和な暮らしが手に入った。いい子にしていれば待遇は悪くない」

「でも、監視がついて知恵がついたまま体だけガキになってしまった。これは俺たちは望んでいなかった末路だ」

「でも、私たちは平凡な大人として普通に暮らしていたらどうなっていたのかしらね?」
「さあな。俺は前の生活は楽しかったけどな」

 フラワーとの会話は唯一の俺のオアシスとなっていた。素の自分でいられる唯一の相手は自分と同じ境遇で、同じ秘密を持つ仲間だ。秘密の共有をできる仲間は精神的に大変ありがたい存在だ。もし、大人のままであれば、こんなに同じ女性と会話することも何かを共有することも生涯なかったと思える。闇の組織にいれば俺たちは交わることのなかった漆黒と真紅の色味だ。今でこそ小学生の姿であり、前科者だということがジャックとフラワーとを唯一結びつける理由となった。

 隣にいることが心地いい、そんなことを感じるようになっていたのはいつからだろうか。それは自然な流れだったと思う。小学生ながら大人びた表情のフラワー。ほどよい厚みのある唇がとても艶やかだ。口紅をぬらずともほどよい赤みと弾力を帯びた濡れた唇は思わずどきりとする。そんなことを悟られないように視線を逸らす。彼女の口調や声のトーンはとても心地いい。少し鼻にかかる声も低めのボイスも愛おしいと思えるようになっていた。それに気づいた時、俺は勝手に赤面する。

「何顔を赤らめているの?」
「別に。暑いだけだ」
 視線を逸らす。

「たしかに暑いわね」

 青い空の下で澄み切った風を浴びながらフラワーが上着を脱ぎ、ノースリーブのシャツ一枚になる。どうにも大人だったころの異性に対する感情があふれだしそうになる。一度知った大人としての気持ちを忘れるということは人間難しいらしい。風が彼女の髪の毛を優しく撫でる。細く艶のある髪の毛がふわりと広がり美しさに釘付けになる。子供なのに大人の部分を持ち合わせている彼女は唯一無二の存在だ。彼女の傍に少しでも長くいたい。ずっと一緒にいたい。俺はいつしかそんなことを密かに望んでいた。

「今日、夕食後、施設の屋上に集合な」
 遠回しにデートの誘いだ。勝手に色々な場所に行くことができない俺たちは、施設の屋上で夜な夜な語り合うことが日課になっていた。屋上へは自由に出入りができるようになっているが、星空しかない空間は本当の子供には退屈らしく、滅多に出入りする者はいない。星空の下は二人だけの本音で悩みやこれからのことを語り合える場所となっていた。そして、いつしか毎日決まった時間に、二人きりのデートの時間を過ごすようになっていた。

 お互いに好きだなんて言わずに友達関係ではあったが、二人の間には普通の友達以上のきずなが存在していた。少なくとも俺はそう思っていた。前科があっても一人の人間として人を愛することができるなんて自分自身が一番驚く。人を人と思わずに殺し屋として生きていた自分が、一人の人間を特別大切に思うなんて普通ありえない。でも、恋愛感情はどうにもならないし、非常に本能というものは正直だ。


 ある日の放課後のことだ。いつも通り掃除の時間が終わり、遊びたい者だけが校庭で遊んで帰ることとなっている。もちろん俺は遊んで帰るつもりはなかった。しかし、小学生というのは集団で群れたい性質を持っているらしい。誘いの声が聞こえる。
「おーい、豆太も校庭で遊んでいこうぜ」

 一瞬戸惑い逃げようとする俺を見てフラワーが声を発する。
「暗殺者の心得は? 郷に入れは郷に従えでしょ」

 彼女の圧には逆らいづらい。
 仕方なく、俺は無言でランドセルを置いて、校庭に向かう。

「キャー」
「助けて」
「怖い」
 遊んでいたガキどもが大声で叫びながら逃げ惑う。何があったのだろう。異変を察知する。

「蜂が飛んできた。刺されたら大変だ」
 校庭ではガキどもが逃げ惑う。たかが虫一匹に大げさだな。
俺は落ちていたボールを拾い虫にむかって高速球を投げた。かつて培った動体視力がものを言う結果だ。あっという間に敵である一匹の蜂は俺の投げたボールと壁の間に挟まれ死んだようだ。摩擦で一瞬煙が見えた。

「すごいな、助けてくれてありがとう」
「豆太、かっこいいよ」

 小学生たちがこちらへかけて来る。まるで胴上げされそうな勢いだ。
 なんだなんだ? 殺すという行為に初めて感謝されたな。殺し屋時代も依頼者に感謝されることもあったが、ここまで爽快な感謝はなかった。後ろめたさがつきまとうお礼だった。なのに、今はどうだ? 虫一匹を殺しただけで英雄扱いだ。所変われば扱いが変わるというものだな。

 思わず笑みがこぼれる。人助けっていうのも悪くはないかもしれないな。社会の悪を制裁するのも悪くはない。悪を退治する掃除屋みたいなものだ。自分が悪側にいたことを忘れて正義面してしまうことで我に返る。俺は、どうして悪に染まってしまったのだろうか。そして、今、充実感を感じているのだろうか。


 刺激もかつてとは違った意味で存在する。俺は本当に大人に戻りたいのか少し悩む。大人であるべきだという概念だとかそういったものが俺を束縛するのかもしれない。こんな毎日も悪くない。だから、ずっとこのまま子供として生きていきたい。そんなささやかな願いを持つ。今が幸せだと思っている自分の思考に驚くが、小さな体にも慣れてきたということだろう。

 空が漆黒に包まれる時間、屋上でたくさんのきれいな輝く星に囲まれた俺とフラワーは、視線を合わす。夜の空気は己を素直にしてくれる手伝いをしてくれる。自己を少しばかり開放する。

「今日は、殺すことで人から初めて感謝されたんだ」
「殺す?」
 彼女の表情が一瞬曇り疑り深い目をする。俺が言うと冗談に聞こえないので、すぐに、否定のジェスチャーをする。

「殺しと言っても、人を殺したわけじゃない。実は蜂が飛んで来たんで、ボールで瞬殺したんだ」
「なあんだ。驚いた。殺しの対象が変われば英雄になれるってことね」

 上目づかいで安堵し少し笑顔を見せるフラワー。彼女の笑みを見る機会は滅多にない。そんな彼女を守っていきたい。そんなことを思うが、口に出せるはずもなく、ただ見つめていると彼女もこちらを見つめる。

「この先、もう一度大人になったとしたら、俺はもう犯罪者にはならない」
 真っ直ぐな瞳で彼女に宣誓する。

「私たちは二度、大人になれるもの。人生をやり直すことは可能よね。まっとうな生き方をするべきよね」
 俺たちの気持ちは同じだと感じる。心の何かがクロスしたような感触だ。

 息を一気に息を吸って言葉を吐き出す。
「大人になったら、俺の嫁になってくれないか?」
 初めて、本気の気持ちを言葉に込める。今まで、ナイフにしか本音を込めることができなかった。でも、今は違うと断言できる。

 暗闇の中で彼女の頬が赤らむ。瞳を大きくして潤ませる。

「これってプロポーズ?」
「そうなるな」
 ここは正直に肯定する。星空の下だとすこしばかり大胆になる。

「でも、私たちは付き合っているわけじゃないし、いきなり結婚? しかもまだ小学一年生よ」
「一緒にいる時間を共にしたい。フラワーのようなしっくりくる女性は滅多にいない。小学生を二回やった俺が言うんだから、間違いない」
 小学生の姿だが、心は本気だ。

 お互い包み隠さず、犯罪者になるまでの話、幼少期の話、恋愛経験も含め何でも話した。共通していたのは本気になれなかったということだった。人を本気で愛したり、何かに本気で取り組むことができない俺と彼女は闇の中に自分の姿を見出した。フラワーの生い立ちは俺よりもずっと過酷で、親にひどく虐げられて生きてきたということだ。その親を捨て、生きるために闇に紛れて生きていた。その中で、一抹の光が闇の組織だった。表の社会で居場所のない大人になりかけた人間に声をかけるのが組織の特徴だ。まだ若い彼女は報酬の素晴らしさに惹かれたらしい。生きていくのに困らない報酬は、何もない若者にはありがたい価値のあるものだった。そんな組織で、生きるために人を殺す。人を騙す。それは仕事だ。

 俺たちは、ただ、まっすぐに職務を全うしていただけだ。それは自分が生きるために必要なことだった。いつのまにか悪いことだという認識は薄れ、事務的な作業になる。自分が生きるためには善も悪も無関係だ。

「ジャックがいてくれたよかった」
 フラワーが言う台詞は心を撫でる。


「優しいのね。大好きよ、ジャック」
「告白かよ?」
 驚きと同時に嬉しさがこみ上げるが、あえて顔には出さない。

「だって、プロポーズの返事をしていなかったから」
「あれは、その、親に会ってほしいと思ったわけで……」
 嬉しすぎる故声が上ずる。心臓が高鳴る。

「私のこと、嫌い?」
「……好きだけど」

 そんなことを言うと、頬を赤らめながら、照れた表情の彼女が頬にキスをした。大人のキスよりもずっと深い愛情を感じる。

 勢いで、俺は彼女の肩を抱きよせる。瞳を閉じ、唇が重なる寸前、耳をつんざく音が貫く。目の前が真紅に染まる。まるで薔薇の花が散り、地面一体に撒き散らされたかのようだった。正確に言うと、真紅の原因はフラワーの体から大量の出血だった。

 耳をつんざく音は懐かしい拳銃の音だった。拳銃で狙われたのは俺ではなく彼女だったのはなぜなのだろう。俺が彼女の代わりに死んだ方がずっと幸せだ。そんなことを一瞬で考える。撃ったのは闇の組織の者か? 距離の離れた場所から彼女の心臓を貫くとは、相当な腕の持ち主だろう。緻密な狙撃の腕を持つ者はそんなにたくさんこの国にはいないはずだ。

 目の前の彼女は目をつぶったまま動かない。倒れ込む彼女を腕に抱き、血まみれになって涙を流す。この出血量ならば即死だと元殺人鬼には一目瞭然だった。それは、漆黒と真紅が初めて混じりあった瞬間だった。彼女の体温が奪われ、人としての形を失う。息をしていない。重いし動かない。その喪失感は愛おしさが増すほど辛辣なものだった。今まで経験したこともないような苦しみが襲う。俺は、大切な人をどうして守ることができない。この手は何もできない役立たずだ。何のために俺は生きているんだ。血まみれの中で俺は叫ぶ。彼女のからっぽの体を抱擁する。

 人を本当に愛した時、俺は目の前で大切な人を失った。後に知ったのだが、国の暗殺部隊が彼女を銃撃したらしい。それは、正しい悪の裁きに乗っ取っており、悪である彼女は死刑となったらしい。どうにも、この国の死刑制度には納得はいかないが、不意打ちの刑もあるとは聞いていた。俺にとって生に執着する必要がなくなった瞬間でもあった。

 清々した気持ちで階段を上がる。日の当たる階段を一歩一歩進んでいく。天国、いや地獄への階段を歩むのさ。これ以上何も望まない。おいしいお菓子に周囲の気遣い。なんて幸せなのだろう。

 みんなありがとう。悔いはないといったら嘘になるかもしれないけれど、これでよかったのかもしれない。孤独ではない、人間として幸せの絶頂かもしれないな。

 生まれてはじめてのような感動を覚える。涙があふれてきた。殺し屋ジャックが陽の光を浴びた瞬間だ。更生プログラムで人格が穏やかになったときに、死刑にする。もっと言えば、大切なものを奪ってから死刑にする。それはずいぶん残酷な取り計らいだ。殺し屋ジャックとして殺されていたほうがずっとドライな気持ちで階段を上ることもできたかもしれないな。なるほど、これが極刑というものか。

「あなたが殺した人たちには家族や恋人や親がいる。愛する人を失った気持ちがわかりましたか? あなたは愛する人を喪失する刑となり、死刑となります。最期に言い残すことはありませんか?」

「ありがとう。さようなら」
 殺し屋ジャック。いや、遠藤豆太享年21歳。人生最後に、大切な人を失うという気持ちを始めて知ることになる。悲しみの果てに生きる希望を失ったときに己を失うという結果になった。どうせ一人で生きていてもいいことはないだろう。大切な彼女を追ってしまおう。そんなことを思っていた自死願望が最高潮に達した俺には最高の極刑だ。人間らしい感情はどこかに潜んでいたのかもしれないし、本来こちらが本当のジャックだったのかもしれない。

 さわやかな風が吹く晴れた日。殺し屋ジャックの命が刈られた。死神のような殺人鬼だと言われていた伝説の殺し屋は最後の最後に人を愛し失った。失った側の人々の気持ちに気づけたのは彼が案外正常な思考能力の持ち主で、意外と情深い人間だったということだろう。正常な心を持っていても、どこかで間違えると闇に溺れてしまうのかもしれない。