遠い意識の向こうで、セルヴィウスの声が聞こえていた。
 血が止まらぬ。誰か、セシルの血を止めるのだ。何をしてもよい。何人血を流させてもいい。
 止めるのだ。止めよ。
 悲鳴のようなセルヴィウスの声に、それに似ていながら静かな声音が重なる。
「おいで」
 月の庭を背後に、手を差し伸べた青年の姿があった。氷の粒が月の光をまとい、花のように舞う。
 周囲にはこの世を去った人々の姿も見える。処刑された愛妾や弟皇子が、どこかで奏でられるリュートの音に乗って、滅びた隣国のダンスに興じていた。
 セシルと青年は手を取って踊る。時々頬をかすめるキスに、そのまま眠りに落ちそうだった。
 目の前の彼こそが、セシルの知っているセルヴィウスだった。手をつないで、他愛ない話をして、時々一緒に眠る。そういう兄上が大好きだったのだから。
 けれど遠いところから呼ぶセルヴィウスのもう一つの声も、セシルの知る兄だった。切ないくらいにセシルを欲していた。その声を聞くと心が締めつけられて、目の前のセルヴィウスの姿まで薄くなってしまうようだった。
 ふいにセシルは足を止めて首を横に振る。
「わからない……!」
 セシルは涙をあふれさせて叫ぶ。
「兄上! 兄上! どちらが兄上なの?」
 青年はセシルをみつめたまま動かない。肯定も否定もすることなく。
「わからないの。兄上はどうして私に触れたの? ……どうして私を抱かなかったの?」
 セルヴィウスの即位の日から十年間、何度触れられたかわからない。子を産むことは、いずれ父王や夫となる者に求められることだった。だがセルヴィウスが求めたのはそうではなかった。
 セシルは自分の体を抱きしめてうずくまる。
 このまま眠りに落ちれば、幼い頃のセルヴィウスに会えるような気がした。けれど意識の向こうで呼ぶセルヴィウスには二度と会えなくなる確信もあった。
 生きている世界を後にしたいと願っていたはずなのに、自分の知るセルヴィウスがどちらにいるのかわからない。
 身動きもできずに惑うセシルに、やがて青年が口を開いた。
「あの日、セルヴィウスは君に何と言っただろう?」
 ふいに問われて、セシルは一瞬時が止まったような思いがした。
 記憶が戻っていく。十年前、あの夜。混乱して泣くばかりだったセシルに、セルヴィウスが繰り返し言っていたのを思い出す。
「「泣かないでくれ。痛むことはしない」……」
 それで何度も、セシルの唇を慈しむようにそっと口づけてささやいた。
「……「愛している」と」
 青年はうなずいて問う。
「セシルは、その言葉は嘘だと思った?」
 セシルは首を横に振る。
「彼はその夜、兄上ではなくなったと?」
 それにもセシルはかぶりを振った。彼はずっと優しかった。病弱なセシルをいつも労わり、庇ってくれた。子どもの頃も、大人になってからも変わらなかった。
「セシルに泣かないでほしかったのではないのか? 痛むのを嫌がると思ったから、進まなかったのではないの?」
 そのとき、セシルは遠い日に見た風景を思い出した。
 シーツにくるまって二人くすぐり合った後、笑い疲れてしばらく言葉もなかったとき、セルヴィウスはふいにセシルの頬を両手で包んで言った。
 愛しているよ、セシル。子どもの冗談だったかもしれない。でもセシルは何の疑いもなくそれを受け入れた。あにうえ、あいしてると笑って答えたら、セルヴィウスは抱きしめ返してくれた。
 今、自分の心にきいてみる。どうしてその頃と同じように笑えないの?
 セルヴィウスが、セシルは子を産むしか価値がないなどと、いつ言っただろう。今まで自分の都合の良いところに嫁がせようとしたことがあっただろうか。セシルが泣かないように、寒さも痛みも取り除いてきたはずだ。
 それは一体、誰だったというのだろう。
「……兄上の中には、ずっと兄上がいて」
 セシルは何か大きなものに追い付かれて震える。立ったことがない丘に立った思いがした。そこは風が吹いていて、視界が開けていた。
「私が妹でない自分を、怖がっていただけ」
 セシルの言葉を聞いて、青年はほほえむ。
「奪ってあげよう、セシル。その代わりに自分の望むものをつかみなさい」
 彼はセシルの頬に触れて、その目をのぞき込む。
「言ってごらん。君が欲しいものは何だ?」
 ようやくセシルは彼の正体を理解した。彼はセルヴィウスではない。生まれる前からみつめられていた気がする。セシルを自らの世界に誘いながら、セシルの心がそこにないことにも気づいていた、人にあらざるものだった。
 セシルはその蒼い瞳をみつめ返して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 意識は渦を巻き、やがてゆるやかに浮上し始める。懐かしい場所を離れて、遠いところへ向かう。
 ああ、もう幼いときは戻ってはこない。行こうと、まだ震えている自分の心を抱いて、水面の上へ泳ぎだす。
 もう一度生まれるような心地で、セシルは意識の外にたどり着いた。






 手が包み込まれている。ぬくもりの先を追うと、寝台の傍らにセルヴィウスが座っていた。
「……セシル」
 セルヴィウスは目を上げてセシルを見る。その頬に涙の跡があって、セシルは息を呑んだ。
「苦しいところはないか?」
 体は鉛を詰められたように重いが、かえって痛みは感じなかった。セルヴィウスの方がずっと苦しそうに見えた。
 セシルは喉に息を通して、答えがわかりきっている質問を投げかけた。
「お母様は……」
「もうおらぬ」
 セルヴィウスは短く、感情をこめずに答える。
――王の子など産ませはしない。
 母がどれだけ苦しんだか、その言葉だけで伝わってきた。正妃の義務とされていた王子を産むことはなく、唯一の娘は父王に欲望を抱かれていた。彼女の狂った目には、セシルは父王の子を宿したように見えたのだろう。
 自分の命を捨ててでも、セシルが子を産むことは許せなかった。だからと、セシルはその言葉を告げる。
「私はもう子を宿すことはないのですね」
 体内から流れ出た血、その源を、誰より感じていたのはセシルだった。
 セルヴィウスは唇を噛んで否定する。
「国中から医師を集める。必ず治してみせる」
 セシルはそれに首を横に振った。
 皇族に生まれたセシルもまた、ずっと子をもうけるという呪縛に囚われていた。母の苦しみを痛いほどに知っていたから、盃を受けた。
 ……だから自分の行動に、何も後悔していない。
 セルヴィウスが言葉を重ねようとしたのを、セシルは遮った。
「お願いがあります。今度こそ、これで最後の」
 セシルは手を伸ばしてセルヴィウスの涙の跡に触れる。
「私には嫁がせる価値はなくなりました。だから……兄上。私を死ぬまで抱きつぶしてくださいませんか」
 セルヴィウスはその言葉に息を呑んで、食い入るようにセシルをみつめる。
 長い沈黙の後、セルヴィウスはうめくように告げた。
「……すまぬ」
「兄上?」
 セルヴィウスの頬を涙がつたった。
「いずれ私も母后と同じ仕打ちをするつもりだった。兄として守るなど都合のいい言い訳だ。ただ私が離れたくない一心で、ずっとそなたを後宮に閉じ込めてきた」
 セルヴィウスはセシルの手を取って涙で濡らす。
「セシル、もう私に何も与えてはならぬ。子のことなどどうにでもする。……さあ、私にしてほしいことを言ってくれぬか」
 セシルはセルヴィウスをみつめてふとほほえむ。
 セシルの笑みを見て、セルヴィウスが瞳を揺らしたときだった。
「兄上はまだわかっていらっしゃらない」
 セルヴィウスの目を見返して、セシルは言う。
「兄上は私を包むすべてです。どうか、兄上」
 セシルは子どものように、兄上と繰り返して涙をこぼす。
「兄上が欲しいのです……」
 かすれた声でねだったセシルの唇に、セルヴィウスの唇が重ねられた。
「すまぬ、セシル」
 もう一度謝罪の言葉を口にして、セルヴィウスは言った。
「……ずっとその言葉を求めていた」
 それから何度口づけを交わしたか、セシルは覚えていない。
 けれどいつになく大きなうねりの中でセルヴィウスの鼓動を感じて、体の奥底でつながった喜びを知った。
「気づいたことがある。そなたは私の心臓だ」
 セシルはふと目を開く。窓から差し込む月灯りの中で、セシルとセルヴィウスは生まれたままの姿で重なっていた。
「なぜ今までつながらずにいられたのだろう。セシル、愛している。命ある限り側にいる」
 セシルは手を伸ばしてセルヴィウスの頬を包み込む。
「兄上、愛しています」
 セシルはその蒼い瞳に微笑み返して、ようやく自分からセルヴィウスに口づける。
「ずっと……お側におります」





 それから十年の後、セルヴィウスは愛妾の子ジュリアスに玉座を追われることになる。
 けれど彼は帝位を手放すことに、何のためらいも持たなかったようだった。セルヴィウスは正妃との子である皇太子に帝位を継承させるつもりではあったが、皇子の中でもっとも有能で自分に生き写しのジュリアスは、遠からず帝位を求めるだろうと気づいていた。
 ただ自分が失脚した後もセシルの地位が保証されるよう、あらかじめ書面だけでセシルとアレン公子の婚姻関係を結ばせていた。クーデターが明るみに出たときは既に、セルヴィウスはセシルを連れてル・シッド公国に亡命していた。
 それから十年間、セルヴィウスはセシルの従者として、ル・シッド公国に仕官して暮らすことになる。
 クレスティアを去ったセルヴィウスとセシルは、仲睦まじい夫婦のようだった。気候が温暖なこともあってセシルの体調も上向き、よく二人で手をつないで市場で買い物をしている姿が見られた。
 セルヴィウスが四十五歳のとき、ジュリアス帝は恩赦でセルヴィウスの帰国を許したが、セルヴィウスはクレスティアには戻らなかった。一方セシルは、セルヴィウスがセシルの子としてルイジアナに産ませた息子も成人していて、安心してル・シッド公国を離れられるようになっていた。
 セルヴィウスとセシルは二人で旅行に出かけて、大陸の南の果てや、セルヴィウスの母の故郷である海の向こうの国を見に行った。新しいものをみつけるたび少女のようにはしゃぐ女性と、彼女が転ばないようにしっかりと手をつかんで傍らでほほえんでいる男性は、どこでも人目を引いた。
 その姿を見た楽師がクレスティアにやって来て、夜にたゆたうような唄を作った。
 以後クレスティアの後宮で長く歌われることになる。
 夜と月のような、兄妹の物語。