グレゴール・ザムザは朝起きて自分が巨大な虫になっているのを発見したそうだが、それに比べれば姉の身に起こったことはまだマシだったと思う。
 なかなか起きてこない姉を起こしに行った先で私が見つけたのは、手のひらサイズにデフォルメされた姉の姿だった。






「いやー、まるでカフカだよねー」

 発想は同じだったが、受け取り方はまったく別だった。
 姉は笑い、私は眩暈を起こした。
 笑い事ではないと思う。
 少なくとも私は自分の身にそんなことが起きたら現実逃避して二度寝するか、その必要もなく気絶したことだろう。

 暢気に「おはよー」と笑う身長僅か数cmの姉を目撃し、私が現実と戦う準備を整えたのはそれから5分後だった。
 人生で最も長い5分だった。
 一体何が起こったのか、一体どういうことなのか、これは現実なのか、どうしたらよいのか、何が正しい対応なのか。
 ぐるぐると思考を廻らせ、私は言った。

「おはよう姉さん。朝御飯のサイズ修正が必要ね」
「食費が浮くねー」

 異常な現実との戦い方は、決して直視しないことだ。
 私は現実から半分ほど目を逸らして受け流し、とにもかくにも姉をつまみ上げて手のひらに載せ、食卓に向かった。

 食器棚で一番小さな食器である薬味皿に、つい先程作り上げて並べた朝食を解体して姉のサイズに合わせて再構築し、盛り付けてやる。
 米粒に、目玉焼きの白身と黄身を少量ずつ。漬物と残り物の煮物も小さく刻んでやる。サラダはまあ、千切りキャベツならこのまま野菜スティックめいて食べられるだろう。
 味噌汁は迷った挙句、スポイトで飲ませてやることにした。
 爪楊枝を更に削って作ってやった即席の箸で、姉がちまちまと食事を始めたのを眺めながら、私も自分の食事に手をつけた。本来なら姉が食べる分だったのも、勿体無いので私が食べた。

 早食いの私が早々に食べ終えても、姉はこんなちっぽけな膳の半分をようやく片付けた辺りだった。
 普段なら私はさっさと洗い物に移るのだが、今日はさすがにそんな気分になれなかった。

「いっちゃん、おみそしるー」
「はいはい」

 スポイトに本当に少量の味噌汁を採ってやり、口元に宛がって飲ませてやる。
 何だか本当に小動物みたいで、頭が痛くなってくる。

 何なのだろう、この生き物は。

 千切りキャベツを口いっぱいに頬張るようにハムスターよろしくこりこりと齧る姉を眺めて、私は頭痛が酷くなるのを感じた。
 先程眩暈を起こしたついでに気絶でもしておけばもっと楽だったのだろうか。根本的な解決にはなっていないが、それでも気持ちは救われたことだろう。

 いや。そんなことではいけない。

 異常な現実を直視してはいけないが、それは向き合わずに済ませようということではない。逃げてしまえば楽なのは確かだが、逃げることでは何も解決しない。
 少しずつでも受け入れて、妥協して、折り合いをつけていかなければ。
 先生もそう言っていた。多分。
 先生は何時も嫌なことばかり言うが、何事も逃げてはいけないのは確かだ。

 第一、自分の安らぎの為に逃げ出してしまっては、一番大変だろう姉があまりにも哀れだ。
 まあ、その大変な筈の姉はなんら気にした様子も見せずにキャベツをこりこりやっているが。

「……………どうしよう」

 暢気な姉に任せてはなあなあで終わってしまいそうなので、悩むのは私が引き受けることにする。
 テーブルに突っ伏して、善後策を模索する。
 と言っても、そもそも何が原因でどんな結果の為にこんな事態に陥っているのか全くわからないので、如何ともし難い。
 大体なんだ縮むって。
 ちっちゃくなるって。
 人間みたいな高等生物が、複雑な構造が、そんな簡単にサイズを変えられるわけないじゃない馬鹿なの?

 この事態が理解できないのは私の頭が悪いわけではないし、こんな事態が起こったのは私の行いが悪かったわけでもないだろう。
 何で私は自分が悪いわけでもないことでこんなに頭を悩ませて、そして直接被害に遭っている筈の姉はきゃいきゃいと楽しそうにテーブルの上をちょろちょろしているのか。

 頭が痛い。
 少し頭を冷やす為に、私は冷蔵庫を開けて冷えた麦茶のポットを取り出した。

「………あれ。卵もうなかったっけ」

 ついでに中身をチェックしてみると、思っていたより食材が減っている。
 まだ余裕があると思っていたのだが、意外と減りが早い。
 もしかすると姉がつまみ食いでもしたのだろうか。

「………食べたのにちっちゃくなるのかな」

 その分の質量はどこに行ったのだろう、とかまじめに考えてはいけないのだろうか。
 いっそつまみ食いした罰が当たったとか、そのぐらいファンシーな思考のほうがこの場合正しいのだろうか。
 頭痛がする話だ。

 とにかく、と私は一度取り出したポットを、結局飲まずに戻した。

「買い物に行きましょう」

 異常な現実との戦い方は、決して直視しないことだ。
 現実から半分ほど目を逸らして受け流し、心が負けないようにしなくては。
 だから、これは逃避ではない。断じて。







 買い物袋とお財布を棚から取り出し、防犯ブザーを首にかける。
 ブザーはちょっと重くて邪魔臭いのだが、姉に外出するときは絶対するようにといわれているので仕方がない。過保護な姉だ。これくらいで安心してくれるなら安い話だが。

 ………いや、結局これくらいで安心していないのか。

 ちょっと買い物に、と現実から目を逸らした私に、姉は有無を言わさぬ笑顔で付いて行くとのたまった。

 危険だからとか、人に見られたら、とか極めて常識的な私の説得は悉く無視された。
 かわりに、こんな身体で放置されるほうが危険だとか、うっかり何かあっても連絡一つ取れないとか、そういう別の面からの常識で論破された。

 仕方がないので、絶対に私から離れないようにと約束した上で、胸ポケットに入れて連れて行くことにした。
 連れて行くと言うか、持っていくと言うか。

 生き物は生き物だし姉は姉だが、このサイズだともはやパーティメンバーと言うよりアイテム欄を埋める邪魔な品と言うか。もしくは呪われて外せない装備。

 胸元でごそごそ動く暖かい存在にとんでもない違和感と不安を抱きながら向かった商店街で、早速第一の障碍に遭遇した。
 ちょうど商店街入ってすぐの八百屋のおばちゃんである。

 あの特有の「あらあらあらあら」から始まり、こちらのリアクションを待つこともなく接近してくるおばちゃん。
 贔屓にしてはいるけれど、毎度毎度こうも積極的に話しかけられると正直面倒臭い。何だこの強制イベント。

「おはよういっちゃん。今日はなあに? 何にするの? お昼の買出し? いいお茄子入ったわよ。あら、どうしたの、それ?」

 怒濤の勢いで話しかけてきたかと思えば、シームレスに胸ポケットを指摘してくる。
 そりゃあそうだよなあ。膨らんだポケットから姉が顔をのぞかせてにこにこしながら挨拶かませばそりゃあ隠し通せないよなあ。

「えーと……………………えっと」
「大丈夫よ? 落ち着いてゆっくり説明して頂戴ね」
「えー……………………姉が縮みまして」
「縮んじゃいましてー」
「あらあらあらあら、あーちゃん大変ねえ。向日葵の種要る?」
「大変ですねー。ありがたく頂戴しちゃいます」
 
 気遣いはありがたいのだが、説明のしようがなかった。
 あらあらとおばちゃん頬に手を当てているが、大変ねえで済ませていいのかこれは。
 というかなんだ向日葵の種って。ハムスター扱いか。姉も素直に貰ってるし。

 なんとも頭痛のするやり取りが目の前で繰り広げられ、おばちゃんは、気をつけるのよーと一言残して颯爽と商店街の奥へと去っていった。
 間違いなく情報の暴露と拡散がこの瞬間始まったのだろう。おばちゃんネットワークは早くて安くて容赦ない。

 折角なので八百屋でキャベツと玉葱と人参を購入し、おじさんの大変だねえというなんとも代わり映えのしない台詞に苦笑いを返している間に、おばちゃんネットワークのアップロードは終了したらしい。

 その後に向かうどの店でも、またすれ違う度の知り合いにも、何事もなかったかのような挨拶と、大変ねえという同情の言葉と、言葉以上に物語る哀れみの視線を頂戴した。

 何で買い物に来ただけなのにこんなにメンタルにダメージを受けなければいけないのだろう。
 姉はのほほんと挨拶を返し、感謝の言葉を返し、哀れみの視線に微笑んで、そして相変わらず向日葵の種を齧った。
 なんて頭痛がするやり取りだろう。

 商店街の半ばほどで、買い物の途中だけれど、頭痛が酷いので一休みすることにした。
 何度もペンキを塗りなおし、そしてなお剥げてきているベンチに腰掛けて一息。

 ポケットの中でもぞもぞ動く姉を撫でて宥めてやって、ため息。

「姉さん、何で小さくなっちゃったのか、心当たりないの?」
「んー………特にはないけどー」
「ないけど?」
「お姉ちゃんがハムスターに似てたからじゃないかなー」
「……………姉さん本当に気にしてないのね」
「そういうことは、なくもなくもないけど」
「どっちだか……」

 何だハムスターに似てたからって。
 まあ、姉さんはもともと小さいし、全体的に小作りで愛らしい人だから、似ていないことはないけれど。
 やることなすこと全体的にちまちましてたり、ちっちゃい口なのにご飯を一杯頬張ったり、ソファでごろごろしたり、言われてみればハムスターに似てるけれど。
 試しに想像してみたところ、回し車の中で楽しげに走る姉が容易に思い浮かべられたけれど。

「……………もしかして姉さんもともとハムスターだったんじゃ」
「あれー? お姉ちゃんもしかして酷い扱いされてないかなー?」

 そんなことはない。
 すくなくとも向日葵の種を齧りながら膨れたところで、反論の余地はないだろう。
 と言うかその膨れ方は頬袋のそれではないのか。

 デフォルメされた姉のそういった仕草は見ていて可愛らしいものではあるのだろうが、あまりに常識からかけ離れているせいか眺めているとどんどん頭痛が酷くなっていく。
 先生から貰った頭痛薬を飲んだほうがいいかもしれない。
 ああ、でも特に何も考えずに出てきたから、薬を持ってきていただろうか?

「はいいっちゃん、お薬」
「………姉さん………ありがとう」

 額を押さえて堪えていると、姉が錠剤と、水の満たされた水筒のコップを渡してくれた。
 錠剤を口にして、水で流し込む。
 私は以前から酷い頭痛持ちで、苦しそうにしていると何時もこうして姉が助けてくれた。
 先生はあんまり続けて飲んではいけないと言うから、本当に辛いときだけ。

 瞼を掌で押さえて、背凭れに身体をぐったりと預ける。
 暫くそうして休んでいると、じんわりと背中の辺りが暖かくなって、心持楽になってくる。

「うん…………ごめん、姉さん。もう大丈夫」
「大丈夫だよー。もう少し休んでから、帰ろうかー」
「うん………」

 五分か、十分か、姉さんの呼びかけに時々相槌を打ちながら休んでから、帰宅することにした。

「いっちゃん大丈夫ー?」
「ん、もう大丈夫。お薬効いてきたし」
「無理しちゃ駄目だよー」

 姉の心配する声に、少しおかしくなる。
 自分の方がよっぽど大変で奇天烈な目に遭っていると言うのに、妹のいつもの頭痛を心配するなんて、どれだけ過保護なのだろう。

「お昼はオムライスにしようか」
「おー、オムライスー!」
「でも姉さんのサイズは作れないから、私のから取り分けよっか」
「むーしょうがないなー」

 そう言ってはみたものの、やはり頭痛が酷かったせいか、家に帰り着いた頃にはすっかり疲れてしまった。
 頭がくらくらして、眠たい。
 薬を飲んだ後は何時もこうだ。
 先生は副作用は少ないと言うけれど、眠気だって立派な副作用だ。

「少しだけ………少しだけ休んだら、オムライス、作るから……」
「うん、大丈夫だよー。お休み、いっちゃん」

 姉の暖かい声が、ソファに横たわる私に振ってくる。
 だんだんと闇に包まれていく視界に、姉の掌が頭を撫でてくれるのが見えた。

「何にも心配しないでいいからね」

 やさしい、てのひらが。







 妹が少し息苦しそうに寝息を立て始めたのを確認して、私は撫でる手を止めた。
 ソファに横たわる妹の脇と膝の下に腕を通して抱き上げ、そっと部屋へ運んでベッドに寝かせてやる。

 薬の副作用で眠っている間は、夢も見ない。
 身体にとっては不自然な眠りかもしれないけれど、その方が心にとっては優しいだろう。
 最近は眠りも深くなってきているけれど、夜中に眼を覚ますこともまだあるから。

 妹の胸ポケットで大人しくしてくれていたハムスターを優しく取り上げて、ケージに戻してやる。

「お疲れ様、だいふく。大人しくしててくれて助かったよー」

 胸ポケットから飛び出したりしないか不安だったのだけれど、もともと運動嫌いの子でよかった。
 アニマルセラピーの効果を期待して飼いはじめたハムスターだけれど、期待とは違った形で活躍してくれた。

 眠る妹の額に手のひらを当ててやり、大丈夫だと、心配ないと声をかけてやる。
 根気よく声をかけ、相手をしてやることが大事だと先生はいつも言っている。

 地道に介護を続けた甲斐もあって、今日は大分会話が弾んだ。
 最初の頃とは大違いだ。私の存在すらなかったことにして、心の平穏を得ようとしていたあの頃とは。

 妹が私をうまく認識できなくなったのは、三年前のことだ。

 三年前、車に轢かれかけた妹を助けようとして、庇った私は大怪我を負った。
 左足を引きずるようにしてしか歩けないし、顔の左半分はアスファルトで削られて、左目も失明した。
 そして身体は無傷だった妹は、目の前で私が重傷を負ったことで、心に大怪我を負った。

 妹は私を慕ってくれた。とてもとても慕ってくれた。私もそんな妹が大好きだった。
 だからこそ妹は、自分のせいで私が大怪我を負ってしまったと言う事実に耐えられなかった。
 私がどれだけ妹のせいではないと言っても、その頃には妹は私を認識できなくなっていた。

 私が退院できた頃、妹は私のことが見えなくなり、私の声が聞こえなくなり、私のことが記憶から消えていた。
 毎晩のように魘され、まともに眠れなくなり、空ろに謝罪を繰り返しながら、その対象である私を認識できなくなっていた。

 先生は根気よく相手をしてあげなさいと私に言った。
 誰よりも愛する妹の苦しむ姿を見る苦悩よりも、誰よりも愛する妹に認めてもらえない苦痛よりも、誰よりも愛する妹を助けたいと言う気持ちが上回った。

 手当てと言うのは、字面通り手を当てることが語源だと先生は言った。
 ハンド・ヒーリングと言うのは馬鹿に出来ないのだと。
 手のひらのぬくもりが、痛みを癒してくれることもあるのだと。

 私は毎日、魘される妹の手を握り、頭を撫で、大丈夫だと、心配ないと声をかけた。

 やがて妹は徐々に悪夢を見る数を減らし、私の存在を朧気に思い出し、夢現に私の手を握り締めてくれるようになった。

 そしてある日、妹は「姉さん」と呼んでくれた。

 ただし、私ではなく、鏡に映る自分を。

 妹は私の傷を直視できなかった。
 私という現実に直面できなかった。

 先生は、意地悪を言わないでと発作的に激昂する妹に、根気よくカウンセリングしてくれた。そして、私にも。
 そうだ。私にもカウンセリングは確かに必要だった。
 そんなことはないと私は言ったけれど、先生の言うとおり私も磨り減ってきていた。
 妹と向き合うことの苦痛が、苦悩が、妹への想いより勝りかけていた。

 先生は宥めるように言った。

 異常な現実との戦い方は、決して直視しないことだと。
 現実から半分ほど目を逸らして受け流し、心が負けないようにしなくてはと。

 私は妹の壊れた心の見つめ方を改め、自分の心を守りながら妹を癒す方法を学んだ。

 妹は目を覚ますたびに、様々なものに私を見出した。

 着せ替え人形。
 観葉植物。
 つけっぱなしのテレビ。
 目覚まし時計。
 図鑑のゾウガメ。
 オルゴールのバレリーナ。

 つぎはぎしたぬいぐるみに私を見出したときは激しい発作を起こして、先生を呼ばなければいけなかったけれど、妹は徐々に心の平穏を取り戻している。
 品々を通した半分ずれた世界で、妹に合わせて半分ずらした私と会話も出来るようになっていった。

 ご近所の皆さんには多大なご迷惑をおかけしている。
 商店街のみんなには、妹の症状を包み隠さず話して、私が妹に合わせるように、みんなにも妹に合わせて貰い、妹が混乱するようなことは言わないで貰っている。

 みんなは大変だねと、可愛そうにねと憐れんでくれる。 

 けれど、私はこれはこれで幸せだ。

 無邪気に笑いあっていたころにはもう戻れないかもしれないけれど、かつてないほどに私達はお互いを想いあっている。

 妹は私を慕ってくれる。半分ずれた世界で。
 私も妹を愛している。半分ずらした世界で。

 それはお互いに半分ずつは心を通じ合わせていると言うことだ。
 人と人が完全に分かり合えない以上、それはとてもとても深いつながりだと思う。

 先生はそんなことを考える私も治療の対象だと考えているし、私も自分でそう思う。
 ただ、ことさらに急いでなおそうなどとは思わない。

 だって私は現状に満足しているから。

 眠る妹の瞼をそっとてのひらで覆い、妹の体温を感じる。

 しあわせは何時だって、ここにあるのだ。
 私の妹は、ここにいるのだ。
 このてのひらの内に。