まぶたを開けると、無機質な白い天井がそこにあった。もしかすると元の体に戻れたのかもしれない。期待しながらゆっくり体を起こすと、ベッドの軋(きし)む音が鳴った。

「あ、起きた」

 声のしたすぐ隣に顔を向けると、宇佐美が本を読む手を止めてこちらを見つめていた。不機嫌そうに眉を寄せていて、なぜか今は黒いふちの眼鏡を掛けている。体が元に戻っていないことには落胆したけど、知っている顔がすぐそこにあって安心した。

「眼鏡、似合ってるじゃん」

 正直な感想を伝えると、宇佐美はすぐに眼鏡を外して「うるさい、死ね」というお礼の言葉をくれた。小顔にその大きな眼鏡は、かわいげがあるのに。
 彼女は本を閉じる。

「それじゃあ、私もう行くから」
「ちょっと待てよ。せめて説明してくれ」
「私、保健委員。とても不本意だったけど、天音から一時的にあんたのこと任されたの」
「じゃなくて、なんで俺がここにいるんだ」
「覚えてないの?」

 正直に頷くと、持ち上げかけていた腰を下ろして、これまでの経緯を教えてくれた。

「掃除が終わったら、あんたがいきなり情緒不安定になったの。僕は、なんでここにいるんだー!って、大声で叫んでて、それを近くにいた天音がなだめてた」
「そんなことが……」

 推測でしかないが、もしかすると一時的にこの体に春希の意識が戻っていたのかもしれない。俺に記憶はないけれど。その代わり、夢の中で春希の思い出を見ていたことは、覚えている。

「天音のおかげであんたが落ち着いて、それから意識を失ったんだよ。救急車を呼ぶ話も出たけど、眠ってただけみたいだったから。でも、先生が親御さんに一応電話するって。天音は、私が事情を説明してくるからって言って、そっちに行った。もうそろそろ来るんじゃない? あんたのママを連れて」

 宇佐美の説明が終わると、タイミングよく保健室のドアが開いた。そこには父親と天音の姿があり、俺を見ると彼女は一目散にこちらへと走ってきた。

「春希くん! 大丈夫⁉」
「ああ、うん。ごめん、天音」
「頭とか打ってない? 気持ち悪いとか、ない?」
「別に、どこも。ただ……」

 宇佐美がいる手前本当のことを言えずに口ごもると、それだけで察してくれたのか頷いてくれた。

「それは、今はいいから。ありがとね、真帆。春希くんのこと見ててくれて」
「別に私は何も……てか、あんたたち本当に付き合ってたんだ。そっちの方が驚いた」
 宇佐美はそれから、様子をうかがっている父親と、天音のことを交互に見てから「帰るね」と言って立ち上がった。
「ありがと、宇佐美」
 お礼を言って、また悪態を吐かれるかと思ったが、宇佐美は何も言わなかった。荷物を持って保健室を後にする時、父親から「息子と仲良くしてくれて、ありがとね」と言われ「……ごめんなさい」と、謝罪の言葉を口にして去っていった。

 保健室を出て行く彼女の背中には、申し訳なさが滲んでいるような気がした。ああ見えて、性根のところでは優しい奴なんじゃないかと、勝手に想像してしまう。

「ハルは女の子にモテモテだな」
「そんなんじゃないって」
「とりあえず、どこも異常がなさそうで安心したよ。一応万が一のことはあるから、病院には連れて行くけどね。天音さんも、家まで送ってあげるよ。息子とのこと、いろいろ聞かせてくれ」
「春希くんのことが心配なので、お言葉に甘えさせていただきますね」

 それから気を使ってくれたのか、父親は先生に挨拶をしてくると言って、一旦若者だけにしてくれた。戻ってくるまでに話を済ませなければと思い、単刀直入に先ほど夢で見たことを話した。

「杉浦くんが、春希くんの夢を見てたってこと?」
「そうなんだ。それで宇佐美から聞いたんだけど、俺は教室でいきなり取り乱したんだろ? その時、この体に春希が戻ってたんじゃないかな」
「それは、たぶんそう。雰囲気的に。でも杉浦くんは、元の体には戻ってなかったんだ」
「……忘れてるだけなのかも。でも、収穫はあったんだ。俺は幼い頃、春希と会っていたかもしれない」
「というと?」
「夢の中に、ナルミっていう男の子がいたんだ。病院の屋上で落ち込んでたら、その子に励まされた。根拠はないけど、夢で見たあの子が俺なんだと思う。そうじゃなきゃ、意味もなく春希の思い出を見たりしないから」

 自分という存在を掴めるんじゃないかと、ほんの少し興奮していた。だから一度そうと決めつけたら、本当にあの子が俺なんだという確信めいた予感が心の内に渦巻いた。

「後で、父親に春希が入院してた病院のこと、聞いてみるよ。その病院の屋上に行ってみたら、また何か思い出すことがあるかも」

 気付けば、いつの間にか天音はメモ帳を取り出して、俺が熱く語っていたことをまとめていた。
『春希くんの夢。病院の屋上で会ったナルミくん=杉浦くん?』
 その文章の前に、杉浦市、汐月町、三船町とメモしてあるのが目に入る。一人の時も、俺のことを考えてくれていたみたいだ。

「そういえば汐月町って、昔ここにあったんだろ?」
「そう。私も忘れてたんだけど。二つの町が杉浦市に吸収合併されて、今の杉浦市になったの。そういえば、大人たちが文句言ってたの覚えてる。俺たちの町をなくすなって」
「……そうだったんだ。それなら、余計にこの推測が信(しん)憑(ぴょう)性(せい)を増すよ。たぶん俺も、この辺に住んでた。だから汐月町の名前を覚えてたんだ」

 点と点が、線で繋がったような気がした。ただ、俺という存在を思い出したとしても、どうすれば元の体に戻ることができるのかは、皆目見当もつかない。
 でも、記憶さえ取り戻すことができれば、もしかしたら……。

「杉浦くん、体に障(さわ)るかもしれないから。ちょっと興奮した脳を落ち着けて」

 突然、天音が人差し指を額に押し当ててくる。そのおかげか、寝起きから動き続けていた脳の回転が急にストップする。俺と比較して、彼女は驚くほどに冷静だった。

「……ごめん」
「そんなに焦らないでね。ゆっくり、そのうちまた勝手に戻るかもしれないから」
「……そうだね。ちょっと、急ぎすぎた」
「ところで、屋上のナルミくんは、君の目にどんな風に映った?」

 問われて、正直な感想を口にする。

「自分で言うのもなんだけど、春希の支えになれてたと思う。あいつ、めちゃくちゃ落ち込んでたから。誰かが強引にでも引っ張ってあげなきゃいけないんだ。その相手が、俺で良かった」
「そっか」

 拙(つたな)い感想を聞いた天音は、どこか嬉しそうだった。

「もし、元の体に戻れたら、その時は俺と春希と天音の三人で会おう。俺たちがいたら、きっと春希は寂しくなくなるから」
「そうだね。杉浦くんの言う通りだ」
 そんな口約束を忘れないためにか、天音はメモ帳に『三人で会う』と書いてくれた。
 それが、ただ純粋に嬉しかった。
 

 帰りの車の中で、並んで後部座席に座っている天音に「良かったら、今度お家にいらっしゃい」と父親が誘った。いきなりそういうのは早すぎるし、そもそも付き合っているふりをしているだけなんだから、彼女は断るだろうと思っていた。
それなのに、

「ぜひ」

 と、満(まん)更(ざら)でもなさそうな表情を見せた。何を考えているのか、いまいちよくわからない奴だ。

「その時は、ご迷惑じゃなければ手を合わせさせてください」
「なんだ、聞いてたんだね」

 おそらく母親のことを言っているんだろう。俺も、おおむね父親と同じような感想を抱いた。どうやら春希は、天音にだけは家族のことを話していたらしい。わざわざクラスメイトの母に手を合わせるなんて、優しい奴だ。
 天音を家まで送り届けてから、その足で病院へ向かった。到着したのは杉浦病院で、どうせなら屋上へ上りたかったけど、今日は診察に来ただけだから抜け出すことはできなかった。
 簡単な診察の結果、体に異常は見られないとの診断が下された。どうやら、医者でも俺と春希の間に起こっている不可解な現象に気付くことができないらしい。ということは、自分たちでどうにかしなければいけないということだ。
 杉浦病院という大きな手がかりとなりそうな場所へ来れたというのに、結局何の収穫も得られないまま家に帰ることとなった。
 その帰り道、車で夜道を走りながら、何げない風を装って訊ねた。

「子どもの頃に俺が入院してた時、一緒に遊んでた子がいたでしょ? 覚えてるかな」
「遊んでた子? あぁ、もしかしてナルミちゃんのこと?」

 いきなりナルミという名前が出て、ほんの少し腰を浮かせた。

「そう! その子の名字とか知らない? もしかしたら、杉浦とかじゃなかった?」
「名字は知らないな。ナルミですとしか、挨拶されなかったから」
「そっか……」
「あの子はお母さんによく懐(なつ)いてたね。お母さんも、あの子のことをハルと同じくらいかわいがっていたよ」
「そうなんだ……」

 俺が春希の母親に懐いていたことがわかっただけで、一応は収穫だと言えるのかもしれない。それに、父親とも面識があったみたいだ。果たしてこれを、偶然と片付けてしまってもいいのだろうか。

「それで、そのナルミちゃんがどうしたんだ?」
「今、どうしてるのかなって。病院に行ったから、ちょっと思い出した」
「なるほどね。あの子、突然遊びに来なくなったから。元気にやってるといいな」

 それからまた、思い出したように話す。

「そういえば、二人で画用紙に絵本を描いて遊んでただろう? 今も持ってたりしないの?」
「絵本?」

 自分が絵を描いて遊んでいるところなんて想像ができなかった。けれども仮にその絵本を春希が所有しているのだとしたら、何か手がかりになるかもしれない。

「ちょっと探してみるよ」
「そうしてみなさい」

 家に帰りご飯を食べ、夜眠る前に母親の写真の前で手を合わせた。息子のように慕ってくれていたと知って、嬉しかったのかもしれない。その記憶が、俺の中に存在しないことが、とても悲しかった。
 春希の部屋を物色することに抵抗はあったけど、一度だけと言い聞かせて絵本がないか軽く探させてもらった。
しかし、そう都合良く物事は運ばないことを思い知らされる。
 結果だけ言うと、春希の部屋にその絵本は存在しなかった。