生まれつき、心臓に穴が空いていた。手術によって治すことはできるけれど、十三歳になるまで生きられないかもしれない。幼い頃から体が弱く、心臓に欠陥を抱えていた工藤春希は、市立病院へ入退院を繰り返していた。
 自宅や学校で過ごすよりも、病院のベッドで横になっている時間の方が長かった春希は、必然的に周りの子供たちとの会話についていけなくなっていた。たまに小学校へ登校しても、いつも独り。彼の生きる世界で信頼のおける相手は父親と、底抜けに明るくポジティブな母親だけだった。

「僕の病気は、治らないの……?」

 小児科病棟のベッドで横になり、いつも不安に押し潰されそうになりながら春希は訊ねる。まだ幼かったが、彼は自分の病気がとても重いものなのだと自覚していた。

「大丈夫! きっとお医者様が治してくれるわよ!」

 リンゴの皮を剥いてくれていた母が手を止めて、温かな優しい手のひらで頭を撫でてくれる。

「だってお母さんも、子どもの頃はハルとおんなじだったもん」
「おんなじ……?」
「お母さんも、体が弱かったの。でもほらこの通り、今はハルのお母さんになってるでしょう? だから、大丈夫!」
「でも、怖いよ……大人になれないかもしれないのは」
「大丈夫、大丈夫よ。ハルは立派な大人になれるから」

 言い聞かせるように、小さな体を抱きしめてくれる。母の声は温かみに満ちているけれど、体はやせ細って骨ばっていることを春希は知っている。母の体から浮き出た肋(ろっ)骨(こつ)が、抱きしめてくれる時にいつも頬に当たるのだ。
 だから本当は治ってなんかいなくて、自分のために強がってくれていることも薄々察していた。それでも春希は、そんな母の愛にいつも救われていた。


 ある日、病院を一人で徘(はい)徊(かい)していると、屋上の扉が開いていることに気付いた。扉には赤い文字で『立ち入り禁止』と書かれているが、漢字の読めない春希にその意味はわからなかった。
 この頃はあまり外に出ていないから、久しぶりに薬剤の臭いが混じっていない、新鮮な空気が吸いたかった。春希は重たい鉄扉を小さな体で押し開けて、こっそりと屋上に足を付ける。
 昨日降った雨なんて嘘のように空は青く澄み渡っていて、ここ数日沈んでいた心がほんの少しだけ晴れたような気がした。大空を見上げていると、この悩みがあまりにもちっぽけなものに思えてきてしまうのは、自分だけだろうか。もし叶(かな)うのなら、遠くの空を自由に飛び回っているあの鳥のように、どこか知らない場所へ行きたいと強く願った。
朝目が覚めたら、名前も知らない誰かになっていたらと空想してしまうこともある。そうすれば、何もかもが上手くいくのかもしれない。
 けれど屋上の端には、それらの思いを阻害するかのように大きな鉄の柵が張り巡らされている。飛んで、どこかへ行きたいと願っても、幼い子どもの体ではここを乗り越えることなんてできやしない。誰かと入れ替わることも、できるはずがない。
 それでも鉄柵にしがみつき、精一杯背伸びをして地上を見下ろしてみると、色とりどりの車の群れがそこからは見えた。病院の敷地内へ、救急車が入ってくる。遠くを見渡すと、自分が通っている汐月第三小学校も見えてしまった。
一気に憂(ゆう)鬱(うつ)な気分が心を支配する。
 ここから飛び降りれば、いなくなることができるのだろうか。ふと考えたけれど、まだダメだと思った。今いなくなれば、こんな自分を愛してくれている両親が悲しんでしまうから。
 だから、鉄柵から手を離そうとしたところで。

「おいお前、そこで何してるんだよ」

 突然、後ろから誰かに話し掛けられた。悪いことをしているような気がして慌てふためいた春希は、逃げるように鉄柵に背中を張り付ける。

「何だよお前、今死のうとしてたのか?」
「えっ?」

 そこにいたのは、悪いことを咎めに来た大人ではなく、自分と同い年くらいの子どもだった。それが春希にとっては、余計に都合が悪かった。学校でも上手く周囲の人間と話すことのできない春希は、自分と同じ子どもに若干の苦手意識を抱いていたからだ。
 黙っているのは印象が悪いと思って、精一杯の声を絞り出す。

「……そんなことしないし、それに乗り越えられるわけないよ」
「こんな高さ、余裕だろ」

 宣言するとこちらへ近寄ってきて、春希は鉄柵から離れた。今度は謎の子どもが柵に指を掛け、迷うことなく片足を上げる。

「危ないって。それに、お医者さんに怒られちゃう……」
「平気だよ。お前が黙ってさえいてくれれば」

 なんで見ず知らずの子どもの悪行に加担しなきゃいけないんだと思ったが、それを主張する前にその子はもう片方の足も地面から離してしまった。まるで蜘(く)蛛(も)のように鉄柵に張り付き、ゆっくり上っていこうとする。
 春希も、もしやこれは行けるんじゃないかと思い始めた時、案の定すぐに右足が滑った。お尻から落下したら危ないと思って、後ろ向きに躓(つまず)いたりしないように、反射的に間に入って受け止めに入る。
体で止めた衝撃は想像していたよりも随分軽くて、やわらかくて、初めて同世代の子どもに故意に触れた春希は、やや拍子抜けした。後ろから抱きしめる形になってしまったから、遅れて緊張がやってきてすぐに解放する。

「だから、危ないって言ったのに……」
「ごめんな、受け止めてもらって」

 素直に謝るその横顔は、ほんのり赤く染まっていた。できると言って結局できなかったから、恥ずかしいのだろうか。別に、失敗して笑ったりはしないのに。

「これは無理だな。子どもの俺には、高すぎる」
「最初からそう言ってるのに」
「でも無理だと思って、初めから挑戦しないのは良くないと思うんだ。そんなんじゃ、どこにも行けない」

 いったいどこへ行きたいんだろう。見つめていると、履いていたズボンを軽く手で払った。

「どこへ行きたいんだろって思っただろ?」
「え? あ、うん……」
「教えてやるよ。どこへでも、さ」

 意味がわからず首を傾げると、なぜか「へへっ」と得意げに笑った。

「だからもう少し俺たちが大きくなったら、一緒に行こうぜ。どこへでも」
「……無理だよ。たぶん、僕の病気は治らないから」
「何言ってんだよ。早く病気を治すために、ここへ来てるんだろ?」
「そうだけど……」と、春希は煮え切らない態度を見せる。誰もが君みたいに、前向きに考えることはできない。お腹の底から湧いてきた負の感情を慌てて沈めた。
 するとこちらへ、小指を差し出してくる。

「それじゃあ、約束だ。お前の病気が治るまで、俺が付き合ってやる。今度からはいっぱい、遊びに来てやるから」
 それから「助けてくれたお礼だ」と言った。それでも未だうじうじしていると、強引にこちらの手を取って、勝手に小指を絡めてきた。
「指きりげんまん嘘吐いたらはりせんぼんのーます。指切った!」

 合図と共に、契りは断りもなく切られる。春希はただ茫(ぼう)然(ぜん)と、自分の小指を見つめていた。なぜだか、悪い気はしなかった。

「そういえば、名前」

 訊ねられて、春希は『ハルキ』と名乗った。

「ハルキか。かっけぇじゃん。俺、そういうかっけぇ名前好き。お前の名前、羨ましい」
 自分の名前がかっこいいと思ったことのない春希は、どういう反応を見せればいいのかわからなくて、曖昧に微笑んだ。それからずっとチクチクと胸に小さな棘が刺さっていたことに気付いて、思い切って口を開いた。
「お前って言うの、やめて欲しい……」
「なんで?」

 濁りのない瞳を、ぱちくりさせて訊ねてくる。正直に胸がチクチクすると話すと、すぐに「ごめん」と謝ってくれた。それから一度たりとも、こちらのことをお前と呼ぶことはなかった。

「そういえば、君の名前は?」
「俺?」

 訊ねると、しばらくの間の後に答えがあった。

「ナルミ」

 俺の名前は、ナルミっていうんだ。
 君の名前も、十分かっこいいじゃんと、春希は少し羨ましく思った。