手を離してくれたのは、職員室前に着いた時だった。それまで手を繋いでいた俺たちは、偶然通りがかった生徒たちに奇異の視線を向けられ続けた。

「はー緊張したっ!」

 いつの間にか彼女の顔は火照ったように赤くなっていて、先ほどまで繋いでいた手をうちわ代わりにして扇(あお)いでいた。

「もしかして、気でも触れたの?」
「どうにかしなきゃと思って、思わず開き直っちゃった」

 行き当たりばったりな思考に、思わずため息が漏れた。

「馬鹿だろ。もう言い訳の余地ないぞ。教室に戻ったら、俺たちはそういう目で見られる」
「言い訳する必要なんてないよ。黙って春希くんがいじめられてるのを見てるのも、そろそろ良心が咎(とが)めたし、杉浦くんならその後なんとかしてくれるだろうなって思ったし」
「なんとかしてくれるって……別に、黙って見てれば良かったんだよ。俺は何言われても、いちいち気にしたりしない」
「傷付かないからって見て見ぬふりするのは、やっぱりダメだと思うの。誰かがなんとかしなきゃ、何も変わらないから」
「明日、もし俺が春希に戻ったらどうするんだ」
「その時は、あらためて春希くんに説明するよ。だからとりあえずしばらくの間は恋人のふりをよろしくね! 私もちゃんと合わせるから」

 自分の言いたいことだけを伝え終わると、すっきりしたのかノックもせずにずかずかと職員室へと乗り込んでいった。勝手な奴だと思ったが、その行動の裏には確かに現状をどうにかしたかったという思いが含まれているのかもしれない。

 それが春希に対してなのか、俺に対してなのか。おそらく前者だろうなと思いながら、仕方なく彼女のことを追い掛けた。一緒に担任教師にスリッパを返すと、俺たちを見て呆れたように「浮かれるのもいいが、ほどほどにしておけよ」と釘を刺してきた。浮かれているのは、突然故意に日常を壊して興奮している、天音だけだ。

「私、こう見えて彼氏作ったの初めてなんだよね」

 修羅場の巻き起こっていた教室へ戻る彼女の足取りは、なぜか先ほどよりも軽やかになっていた。対照的に、俺の足は靴下の中に鉛が入っているんじゃないかというほどに重たい。

「目玉焼き作ったの初めてなんだよね、みたいなテンションで言われても困るんだけど。というか、付き合ってないからな」
「わかってるって。一時の気分だけでも味わわせてよ」
「天音なら、わざわざ選ばなくても彼氏ぐらいすぐに作れるだろ。なんでそこまでハードルが高くないことに、いちいちテンションぶち上げてんだよ」
「私だって誰でもいいわけじゃないもん。こう見えて、昔から純愛を信じてるんだから」

 何が純愛だ。そういうのは小学生を境に卒業しておくべきだろ。
思うだけで言葉にはせず、密かにため息を吐いた。

 二人仲良く職員室から戻ってくると、口裏を合わせていることを知らないクラスメイト達から、再びどよめきの声が上がった。

「……マジで付き合ってんの?」
「だって私、さっき聞いたもん」
「なんで工藤みたいな根(ね)暗(くら)と……」

 真偽の定まらない情報と、ほんの少しの春希に対する侮蔑の言葉が入り混じる混(こん)沌(とん)とした空間は「お前ら、早く席につけー」という気(け)怠(だる)そうな担任教師の一声によって一旦調和を取り戻した。
 これ幸いと思い、言われた通り席に座って辺りを見渡してみると、ちらちらとこちらの様子をうかがうような視線が散見される。こんなにも荒っぽく教室に爆弾を落とすことが、本当に正しかったのかはわからない。わかるはずもない。
その答えは、きっと天音にしかわからないのだ。


 ほどなくして朝礼が終わり、担任教師が教室から出て行った。すると案の定、立ち上がってどこかへ行こうとする天音を取り囲むように、クラスメイト達の輪ができた。

「ちょっと、私トイレ行きたいんだけど!」
「ねえ天音、本当に工藤なんかと付き合ってるの?」

 昨日、昇降口で鉢合わせたテニスラケットの女の子が、真っ先に天音の身を案じている。胸元にネームプレートを付けていないから、名字はわからなかった。

「本当だけど」
「あいつに騙(だま)されてるんじゃないの……? なんか弱みとか握られてた? 失恋して弱ってるところを付け込まれたとか?」
「失恋って。私、春希くんが初めての彼氏だよ?」

 工藤春希の扱いが、まるで昨日テレビで見た、不倫の発覚した芸能人のようだ。
どうして他人の色恋沙汰に、そこまで必死になって盛り上がることができるんだろう。確かに春希は内気な奴で、クラスの人気者らしい天音ではつり合いが取れていないのかもしれない。けれど、それで周囲の人間が不利益をこうむることがあるのだろうか。

 ここにいる人たちは、他人の物差しを認めてあげることができない人たちばかりだ。
そのことに軽く苛立ちを覚えながら窓の外を眺めていると、話し掛けてきた奴が一人だけいた。

「おい工藤、マジに高槻さんと付き合ってんの?」

 首だけをそちらに向けると、『明(あけ)坂(さか)』と書かれているネームプレートが目に入る。明け透けな態度が印象の男だ。

「そういうことは、天音に聞いてよ」
「だって、向こうは男子禁制の記者会見みたいになってんじゃん。男の俺にはハードル高いって」
 横目で輪の方を見てみると、未だに人だかりが絶えていない。人の壁の隙間から見えた天音は、困ったような表情を浮かべつつも、どこか楽しそうに笑っている。
「高槻さんは、橋本と付き合ってるって説が有力だったのにな」
「俺が、なんだって?」

 気付けば今しがた噂(うわさ)をしていた橋本康平が、明坂の後ろに立っていた。薄く笑みを浮かべているその表情の意味を、読み取ることはできなかった。

「これまでにも、何度か天音が言ってただろ。俺とは付き合ってないって。俺も、ちゃんとみんなに説明してたけど?」
「いや、だって信じらんないじゃん。二人とも仲良さげに話してるし、たまに一緒に下校してるし」
「それは天音と俺が幼馴染で、誰よりも一番あいつのことを理解してるからだよ」

 今のセリフは明坂に説明しているようで、なぜかこちらを見つめながら言ってきた。わざとらしく首を傾げると、勝ち誇るように薄く笑ってくる。もしかすると、マウントを取られたのだろうか。
それなら、橋本は大きな勘違いをしている。俺と天音は、別に付き合っていない。

「橋本は悔しくないのかよ。やっぱり狙ってたんじゃないの?」
「どうだろうね。ああ見えて、気難しい奴だからな。家庭内のこともあって」
「そうなん?」
「母が、いわゆる毒親なんだ」
「毒親って?」

 聞き慣れない単語に言葉を挟むと、そんなことも知らないのかとでも言いたげに、わかりやすくため息を吐いてきた。

「天音の将来に過干渉気味なんだよ。いい大学へ進学して、いい職場に就職することがすべてだと思ってる。怒る時は、ヒステリーを起こすそうだ」
「うわ、いるよなぁ。そういう親。うちもそれだわ。飯食ったらゲームの前に勉強しろって」
「お前はいつもテストが赤点スレスレだからな。構ってくれてるうちが華だよ」
「なんだよそれ。俺はスポーツで推薦取って、しっかり大学に行くんだよ」
「スポーツの推薦も、そんなに甘くないけどな。ところで、お前はどうするつもりなんだ?」

 いきなり、話の矛先がこちらへと向いた。春希の将来のことなんて知ったこっちゃない俺は、最低限嫌みを言われたりしないように、無難な回答を頭の中で組み立てた。

「これから勉強頑張って、少しでもいい大学に進学するよ。ちゃんと親孝行もしたいし」

 工藤家のことは、まだよくわかっていない。けれど、男手一つで高校生の息子を育てるのは想像しているよりずっと大変だろう。昨日も、夕食はオムライスを用意してくれた。どうやら、春希の好物らしい。
 そんなささやかな幸せに満ちていた食卓のことを知る由(よし)もない橋本は、また俺の回答を一笑に付してくる。

「それじゃあ、これからは気軽に学校を休めないな。そのうち、授業にもついてこれなくなるぞ。そんなことを続けてたら、毎日ご飯を作ってくれている母親が悲しむ」
「そうだね」

 隙あらば棘(とげ)を刺してくる彼に呆れ、適当な相(あい)槌(づち)を打つ。いけ好かない奴だ。彼は言葉を口にするたびに嫌みを吐き出さないと、気が済まない性(しょう)分(ぶん)をしているらしい。
 言いたいことだけ言って満足したのか、目の前から早々にさっさと立ち去ってくれたから、いくらか溜(りゅう)飲(いん)を下げることができた。

「お前、雰囲気変わった?」

 しかし明坂はまだ話があるのか、先ほどまで天音が使っていた椅子を横に向けて、断りもなくそこにどかっと座り込む。

「それ、やめた方がいいと思うよ」
「何が?」
「人のこと、お前って言うの」

 俺には杉浦鳴海という名前があって、春希には工藤春希という名前がある。百歩譲って、君と呼ばれるなら悪い気はしないけれど。
 お前、お前、お前。先ほどまでそこにいた橋本の声が頭の中をちらついて、不快感が込み上げてくる。

「わりい、そういうこと今まで気にしてなかったわ」

 とても小さなことだけど、すぐに軽く頭を下げてくれた明坂は、素直な奴だと思った。それからあらためて「工藤は――」と訊ねようとしたところで、タイミング悪くチャイムの音が鳴り響く。

「ちょっとー! トイレ行けなかったじゃん!」

 言いつつも、天音は輪の中から飛び出して行き、教室のドアを開けて走り去っていった。その必死さに、思わず笑みがこぼれる。あらためて、明坂の方に視線を戻した。

「もし俺が、工藤じゃなかったとしたらどうする?」
「は? 何言ってんの、おま……」

 お前と言い掛け、すんでのところで言葉を奥歯で噛み潰した明坂は、誤魔化すように頭を掻きながら笑って「工藤は、工藤だろ」と言った。

「でも、少し親しみやすくなったよな。前までは、話し掛けないでオーラがぷんぷん出てたし」
「そう?」
「自覚なしだったのかよ。あれか、工藤が変わったのは彼女さんの影響って奴? 俺はまだ、いまいち信じてないけど」
「信じてないのかよ」
「だって、工藤は宇佐美のことが好きだったんだろ?」
「……なんで?」

 思わず、宇佐美がいる教室後方へ視線を向けた。初対面の時から印象最悪だった彼女は、チャイムが鳴っても教師が来なければ問題なしだと言わんばかりに、お友達と賑(にぎ)やかに談笑している。

「この前、気になっていた洋服をママに買ってもらったの!」

 嬉しそうにお友達と話す彼女は、そこだけ切り取れば確かにかわいげがあるのかもしれない。けれど、笑顔の裏にある性悪な部分を、俺は知っている。

「一時期、女子の間で噂になってたぞ。工藤が宇佐美に、アプローチ掛けてたって」
「……ただの噂だよ、そんなのは」
 
 もし明坂の話が眉(まゆ)唾(つば)ものじゃなく事実だとしたら、春希の女性の好みに疑問を感じてしまう。
 くだらない話をしていると、教師が遅れて入室してきた。それと同じくらいに、こっそり天音が戻ってくる。走ってきたのか、肩で息をしながら明坂と交代するように席に着いた。

「大変だったね」
「まったく、他人事みたいに言わないでよ……君も私と一緒に説明してくれれば良かったのに」
「嫌だよ、面倒くさい。天音が撒(ま)いた種だろ」

 不服そうに唇を尖(とが)らせながら、引き出しの中から現代文の教科書を取り出す。その横顔を見つめていると、先ほど橋本が口にしていた『毒親』という単語が頭の中をリフレインした。
 あれは、聞かなかったことにしよう。誰にでも、知られたくないことの一つや二つはある。それが仮に母親のことだったとして、誰に聞いたのかを問い詰められたら、橋本から聞いたと話さなければいけなくなる。あいつはいけ好かない奴だけど、わざわざ告げ口することに意味はない。
 知らないふりをして、いつか天音が話をしてくれた時に相談に乗ってあげるのが、一番正しいんだろう。