高槻が話し合いの場として選んだのは、校舎四階にある空き教室だった。

 今からここで、修学旅行の打ち合わせとやらを始めるのだろうか。それにしてはやけに静まり返っていて、そういう明るい話し合いをするような雰囲気じゃなかった。高槻も、今から向かい合って会話をする気なんて微塵もないのか、椅子に座らず窓際で部活動の始まったグラウンドの方を眺めていた。

「用があるなら早めに済ませようよ。俺も、早く家に帰りたいし」

 急かすように言うと、高槻は探るような視線を向けてくる。それから窓際を離れ詰め寄ってきた。綺麗な瞳が近付いてきて、思わず半歩後ろに下がる。

 先ほど自分で閉めたドアに、背中がぶつかった。

「君、春希くんじゃないよね?」
「……は? 何言ってんの。春希だけど」

 思わず、否定する。

「君が春希くんのふりをしてるのは、わかってるんだよ。だって春希くんは、私と二人きりの時は名前で呼んでるから」
「……久しぶりだから、忘れてたよ。ごめん、天音」

 取り繕うように言うと、呆れたように目を細めてきた。

「今さらそんな言い訳するの、苦しすぎない? ここで嘘を重ねるよりも、早めに正直に話した方が今後の自分のためになると思うんだけど」
「自分のためって?」
「嘘を塗り重ねる人に、今度からは優しくしてあげないよってこと。私、口だけの人は嫌いなんだ」

 天音は手近な椅子を引いてちょこんと座った。まだ、一応弁解の機会は与えてくれるらしい。

「君が自分の下駄箱の場所がわからなくてあたふたしてたのも、座る席を探してたのも気付いてたよ。見ていてかわいそうだったから、私は善意で助けてあげたのに」

 そういう君は、私の恩に仇で返すんだね。
 悲しさと失望の入り混じった瞳を向けてくる。なんだかいたたまれない気持ちになって、咄嗟に言い訳の言葉を探してしまった。

「ごめん。別に嘘吐くとか、そんなつもりはなくてさ。気付いてるって、知らなくて……俺も、どうすればいいかわからなかったんだ」
「それは、君が工藤春希じゃないって認めるってこと?」
「あぁ」
「なんだ、やっぱりそっか」

 認めると、漂わせていた哀愁を綺麗さっぱり取り払って、気付けば先ほどまでの調子を取り戻していた。

「……今の演技だったの? ちょっと申し訳ないなって思ったんだけど」
「君だって朝から演技してたんだから、おあいこだよね。それに、口だけの人は本当に嫌いだよ」
「ああ、そう……」

 少し長い話になりそうだったから、天音にならって椅子に座った。

「君は、春希くんのお兄さん?」
「工藤家は、父さんと春希の二人暮らしみたいだよ」
「だよね、知ってる」
「知ってんのかよ」
「だって私、春希くんとは仲良しだから」

 春希のことを名前で呼んでいるあたり、それは本当だろう。面白くもない俺のツッコミにへらへらと笑っている彼女は、頭の中で何を考えているのかわからない。

「俺は、杉浦鳴海っていう名前なんだ」
「……すぎうらなるみ?」
「知ってるの?」
「いや、知らない。誰? 杉浦鳴海って」

 一瞬だけ見せた思わせぶりな表情は、どうやら気のせいだったようだ。紛らわしい態度を取るなと思ったが、その言葉は喉の奥へと飲み込んでおく。
 身勝手ながら天音に落胆していると、おもむろにカバンの中からファンシーな柄のメモ帳を取り出した。何をするのか見守っていると、ボールペンを取り出して一番上の行に『杉浦なるみ』と俺の名前を記入する。

「ナルミって、成功の成に海って書くの? それとも、海鳴りの方?」
「後者だけど、何してんの?」
「考え事をする時、メモするのが癖なの」
「もしかして、手伝ってくれるの?」

 彼女はあらためて『鳴海』と書き直すと、次の行に『元の体に戻る方法』と書き加えた。

「春希くんも、いきなり君の体と入れ替わって困ってるかもしれないからね。見過ごせないよ。別に君のためとかじゃないからね」

 最後の一言は余計だったが、元の体に戻る方法を一緒に探してくれるなら、なんでも良かった。変な奴だけど、人並みの優しさはちゃんと持ち合わせているらしい。
 しかし名前以外の情報が何もないため、メモ帳に記入されたそれに顔を落としたまま、しばらくお互いに首を傾げた。

「君は、本当に何も覚えてないの? 通ってた学校とか」
「学校に通ってたのかも覚えてない」
「工藤春希っていう名前に聞き覚えは?」
「今日初めて聞いた、と思う……」
「今朝、起き上がった時に頭でも打った?」

 後頭部を手のひらでさすってみたけれど、そこにこぶのようなものはできていない。

「これは前途多難だね」

 現状ほとんど何もわからないのに、嫌な顔を浮かべず、むしろ楽し気に天音は微笑んだ。

「ごめん。解決の見通しが何も立たなくて」
「君が謝ることじゃないよ。それに、いきなり元の体に戻ることもあるかもしれないし。何年か前に流行った映画で見たよ、そういう展開」

 流行った映画というのも、俺にはどんな映画なのかわからなかった。そもそも見ていないのか、忘れているのかも定かではない。

「とりあえず、今日はもうお開きにしよっか」
「修学旅行の打ち合わせって奴は、進めなくていいの?」
「それはもう、春希くんが登校してない間に私の方で勝手に進めておいたから」
「要領がいいんだね」
「面倒くさいことは、早めに終わらせておきたいだけ。本当は、春希くんと一緒に進めたかったんだけどね」

 おそらくそれは、一人より二人の方が早いという効率の話ではないんだろう。春希と一緒に進めたかったという言葉の裏に、ほんの少しだけ寂しさのようなものが見て取れた。

「また何か思い出したことがあれば教えるよ」
「役に立つかわからないけどね。一応、連絡先も交換しておこっか。スマホ持ってきてるよね?」

 今朝適当に持ってきたカバンの中を漁ってみると、ノート類と一緒に彼女が持っているものと似た形状の電子機器が入っていた。取り出して、とりあえず眺めてみるけれど、使い方がいまいちよくわからない。

「もしかして、原始人?」
「馬鹿にしてんの?」
「冗談だよ。その機種、たぶん顔認証あると思うから、開いたら設定してあげる」

 言われた通りに電源を入れると、何もしていないのにロックが解除された。鍵を掛けられるものを、他人が勝手に盗み見てもいいのか迷ったが、問題解決のためだと自分に言い聞かせ、彼女に手渡す。
 天音は慣れた手つきでスマホを使いこなし、連絡先を登録してから簡単な説明をしてくれた。
それから途中まで一緒に帰ろうということになり、昇降口へ向かう。外履きに変えている時、テニスラケットを持った女の子が走り寄ってきて、天音はしばらくその人の相手をしていた。
天音は友人が多いようで、ここまでにも何人かの生徒に話し掛けられ、そのたびに隣にいる俺は訝し気な目を向けられた。今回も例に漏れず、ラケットを持った女の子はこちらに聞こえる声量で「工藤と一緒に帰るの……?」と、不満そうに訊ねていた。
隣にいると迷惑が掛かるんじゃないかと思い、何食わぬ顔で離れようとする。家までの帰り道は、今朝記憶したから不安はなかった。それなのに、

「ちょっと待ってよ、春希くん。今日は一緒に帰る約束だったでしょ?」

 黙っていればいいのに、わざわざこれみよがしに呼び止めてくる。仕方なく足を止めた。

「……天音、もしかしてだけど、工藤に弱みとか握られてる?」
「春希くんは、そんなことするような人じゃないよ。今日は修学旅行の話し合いがあったから、途中まで一緒に帰ろうかって私が誘ったの」
「そうだったんだ……でもその話、橋本は知ってるの?」
「なんでそこで康平の名前が出てくるの?」
「だって、ほら……」

 橋本康平という人物は、終礼後に天音に話し掛けていた男のことだろう。
天音の、彼氏でもある。

「私、何度もみんなに言ってるけど、康平とは付き合う気ないよ」

 どうやら付き合っているというのは俺の勘違いだったみたいだ。

「それはわかってる。でも後から一緒に帰ったとか知られたら、たぶんめんどくさいじゃん」

 話が長くなることを察し、下駄箱の陰に立ってしばらく待っていると、ようやく解放されたのか申し訳なさそうにこちらへやってきた。

「待たせてごめんね」
「別に、お友達と話してれば良かったのに。一人でも帰れるよ、俺」
「一人でいるより、誰かと話してた方がいろいろ思い出すかもしれないでしょ?」

 確かに、一人で悶々とこれからのことを考えるよりは、第三者の意見があった方が考えを整理できるのかもしれない。
 徒歩で帰るつもりだったが「春希くんは、バスの定期券持ってるよ」と教えてくれた。カバンを漁ると定期券が入っていたため、いつもどのバスに乗っているのかを教えてもらい乗り込む。どうやら春希と天音はいつも同じバスに乗って通学しているらしい。
 後ろの方の席に、並んで腰を落ち着ける。
 それから気になっていたことを単刀直入に聞いてみた。

「もしかして、工藤春希ってみんなに嫌われてるの?」
「嫌われているというか、あまりよくは思われていない、というか」

 心なしか、言葉を選んでいるみたいだ。傷付けるようなことを言いたくないという、優しい気遣いが見て取れる。

「要するに、いじめられてるってことね」
「なんで濁したのに、そんなハッキリ言うのよ!」
「周りの反応を見てればわかるよ。もしかして、上履きも誰かに隠されたのかな」
「それはたぶん、そうかも。確定じゃないけど」
「どうしてそんなことされてるの?」
「学校って、そういう場所だからじゃないかな」

 彼女の言葉に首を傾げると、興味なさげに教えてくれた。

「私たちの世代ってさ、誰かのことをいじめてる時が一番団結力を生むんだよ。春希くんって、なんというか内気な人だから、そういう対象にされやすかったんだと思う」
「もしかして、天音も?」

 春希のことを、みんなと一緒にいじめてたんじゃないか。そんな憶(おく)測(そく)が浮かんだけれど、彼女は否定も肯定もしなかった。

「話し掛けられて無視したり、嫌がらせはしてないよ。でもなんというか、どうすれば解決に向かうのかがわからなくて、どうしようもできなかった傍観者。だから周りのみんなと一緒なのかも」
「傍観者、か」
「春希くんにとっての私は、他のみんなと変わらないのかもね。そんなこと、怖くて本人に聞いたりできないけど……不登校になるぐらいなら、何を犠牲にしてもいいから、助けてあげたかった……」

 後悔の滲んだその表情を見ていると、偽りじゃなくて本気で天音がそう感じているんだということが伝わってくる。痛くて、怖いほどに。

「そう思ってくれてる人が、一人でもいただけで、春希は嬉しかったと思うよ」
「……どうかな。君が元に戻ったら、その時は思い切って聞いてみようかな」
「ところで、橋本とかいう奴と付き合ってなかったんだな」
「急に話変えるじゃん」

 湿っぽい話を続けるのは、やめにしたいと思った。彼女も気持ちを切り替えるように一つ息を吐く。

「康平とはそういうのじゃないよ。ただの中学からの幼馴染。みんな勘違いしてるんだよね」
「付き合う気ないの? 向こうは何だか気がありそうだったけど」
「ないね。ただの友達だし」

 悲しいほどに、さっぱりとした回答だ。

「それじゃあ、それをハッキリと説明すればいいのに」
「それはそれで、余計な波風が立つの。康平、案外クラスの女の子から人気なんだよ。顔が整ってるから」

 それは同意する。平凡そうな春希とは、対極にいるような奴だ。
 しばらくすると停留所にバスが停車した。俺が降りるのは、ここから二駅先で、天音はそこからまた三駅ほど向こうらしい。
なんとはなしに、料金を払ってバスから降りていく人たちを見つめた。最後の人が降りると、「ドアが閉まります。ご注意ください」というアナウンスの後に、前方の扉が閉まる。
 せっかちな人が、次の停留所のアナウンスが読み上げられる前に、降車ボタンを押した。ぴんぽーんという、軽快な音が狭いバス内に響き渡る。

「次は、杉浦病院前。杉浦病院前。お降りの方は、降車ボタンを押してください」

 偶然だろうか。俺と同じ名前の病院に体が反応して、気付けば思わず背筋を伸ばしてバスの向かう先を凝視していた。

「どしたの?」
「いや、杉浦って名前だから……」

 しばらくすると、病院の前にバスが停車する。車窓から、太陽の光に照らされる白い巨塔が見えた。その場所に、見覚えがあるのだろうか。根拠もないのに、その眩いほどの白に視線が釘付けとなった。

「ここら辺じゃ、一番大きな病院なんだよ」
「……そうなんだ」
「周りに住んでる人は、結構お世話になってるんじゃないかな。春希くんも、入院してたことあるし」
「もしかして、どこか体が悪いの?」

 普通に生活をしていて、異変を感じたりはしなかった。けれど、どこか悪くしているなら、悪化しないように気を使わなければいけない。

「生まれた時から、心臓が悪かったんだって。中学生の時に大きな手術をして完治したらしいんだけど。それまでは体も弱かったから入退院を繰り返してたみたい」
「そうなんだ……」

 なんだかかわいそうだなと、ありきたりなことを思う。内気だという春希の性格は、そんなどうしようもない不運な出来事があって形成されたんじゃないかと、勝手に推測してしまった。
 何名かの乗客が降りた後、先ほどと同じようにドアが閉まる。窓の外をうかがうと、そこを歩いている人たちの足取りが、どこか重く見えた。あの人たちも、何か病気を患っているのだろうか。

「杉浦くん」

 不意に名前を呼ばれ振り向くと、天音は俺を不思議なものを見るような目で凝視していた。そして、初めて彼女から本当の名前で呼ばれたことに、気付いた。

「どしたの、そんなに窓の外見つめて。もしかして、心当たりでもあった?」
「いや……どうだろう」
「希望を壊すようで申し訳ないけど、あの病院の院長さんは杉浦さんっていう名前じゃないからね。ここが杉浦市だから、杉浦病院」
「杉浦市……」

 だとしたら、俺とあの病院に何の接点もないんだろう。天音の想像していた通り、もしかするとあの病院関係者の子どもなんじゃないかとも思ったが、そんなに甘くはなかった。

「そういえば、杉浦くんはどこに住んでたの?」

 訊ねられ、無意識に「汐月……」と呟いていた。それが正しいという自信は、あまりなかった。

「汐月っていうんだ。どこかで聞いたことあるような気がするけどなぁ」
「申し訳ないけど、思い出したわけじゃないから正しいかどうかはわからないな」
「でも調べてみる価値はあるよね」

 気付けば天音はメモ帳を取り出していて、『杉浦病院』と『汐月町』『汐月市』という名前を記録していた。彼女がスマホを取り出し調べようとしたところで、俺が降りる停留所にバスが停まった。出口の扉が、ぱしゅんという空気の抜けた音と共に開く。

「ごめん、行かなきゃ」

 立ち上がると、天音はスマホを膝の上に置いて、手のひらを数回握ったり開いたりを繰り返した。威嚇してるのかと思ったが、どうやら別れの挨拶のつもりらしい。

「また明日。何かわかったことがあったらメッセージ送っとくし、暇な時にでも見ておいてよ。いろいろ大変だろうから、未読無視しても気にしないからね」

 未読無視ってなんだよと思いながら、ささやかな気遣いに感謝した。そして、明日も工藤春希であるかもわからないのに、『また明日』と言われるのは、なんだか変な感じがする。

「ありがと。それじゃあ」

 気付けば彼女にならい、手を開いて、閉じていた。その仕草がなんだか間抜けに思えて、口元をほころばせる。けれど天音が笑ってくれたから、悪い気はしなかった。
 定期券をかざしバスを降りて、自宅への道を歩いていると、ポケットに入っていたスマホが振動した。おそらく彼女からだろうと思い開いてみると、『あまねぇ』というふざけた名前からメッセージが届いていた。

《汐月町、調べてみた》

 そんな短い文章の後に、どこからか引用してきた長文が添付されている。

『汐月町は、かつて〇〇県の南部に位置した町である。二〇××年に三船町と共に杉浦市に吸収合併された』

 どうやら、俺が不意に思い出した汐月町というのは、数年前まで存在していたらしい。果たして偶然なのか、まったくの見当違いのことなのかわからないまま、気付けば心臓が早鐘を打っていることに気付いた。
 立て続けにメッセージが送られてくる。道の真ん中で立ち止まり、そこに表示された文章を声に出して読んだ。

「君はもしかすると、過去から来たのかもね……」

なんちゃって。
面白い冗談でも言ったつもりだったんだろう。『なんちゃって』という文章の後には、女の子が舌を出してとぼけた顔を浮かべているスタンプが押されていた。