ベンチに座って梅ヶ枝餅に舌(した)鼓(つづみ)を打った後、自分がまとめたメモ帳を読み返している天音に「そういえば、どうして昨日怒ってたの?」と、宇佐美が平然とした顔で訊ねた。オブラートに包まず直球で聞いたものだから、緊張で背筋が張り詰める。
「怒ってるように見えた?」
「天音って、怒ったら目が笑わなくなるし」
「そっか、目が笑わなくなるのか」
 今の状態を確認するためか手鏡を取り出すと、そこに自分の顔を映し始めた。
「今日は普通だよ」
「杉浦くんも、怒ってるって思ったの?」
「何か含みはありそうだったかな」
「それじゃあ、普通にバレちゃってたんだね」
 俺が指摘をすると、案外あっさりと認めた。
「怒ってたの?」
「怒ってたというか、なんというか。乙女心は複雑なんだよ」
 歯切れの悪い話し方は珍しいが、冗談を言うのは相変わらずだった。
「二人だけの秘密みたいな感じだったのに、あっさり真帆に話しちゃうんだーとは思ったかな」
「あれだけ一緒に考えてたのに一言も相談しなかったのは、ちょっと申し訳ないなって思ったよ。でも、あのタイミングで言わなきゃ不誠実かなって思ったんだ」
「そっか。そう思ったならしょうがないよね。まあ、なんとなく察してたんだけど。私も、まだまだ子どもってことだね」
「天音は私よりずっと子どもでしょ」
 驚くことに宇佐美がそんな発言をして、さすがの天音もきょとんと目を丸くした。ということは、宇佐美よりは大人だという自覚が天音にもあったということだ。お互いに、とても失礼な奴である。
「どうしてそう思うの?」
 二人の背丈の違いを思い浮かべながら訊ねてみると、宇佐美はしたり顔で話した。
「だって、飛行機で怖がってたじゃん。近くにいたから知ってるもん。私、それ見て逆に怖くなくなったし」
「あー」
 無邪気な勝ち誇った笑みを見せられ、天音も乾いた笑いを漏らす。そういう程度の低いことでマウントを取ろうとする姿勢は十分子どもだ。思ったけど、口にはしない。
「そっかー真帆は大人だね」
「でしょ?」
「うんうん」
 遠からず天音も似たようなことを思ったのか、いつの間にか我が子を見守るような眼差しに変わっていた。この二人は案外、相性がいいのかもしれない。
 学問の神様を祀(まつ)っている神社だからか、それから自然と会話の内容が自分たちの希望する進路の話へと移り変わっていった。とはいえ俺は春希の進む道なんて知ったこっちゃないため、今回は聞く側に回ることにする。天音も、どうせこの件については、はぐらかして話さないだろうと思っていた。それなのに。
「私は、お母さんからお医者様になりなさいって言われてるんだよね」
 とてもあっさりと、自分で将来の話を口にしたから驚いた。いいのかよと視線を送ると、もういいのと言うように、彼女は笑った。
「お医者様って、医学部に通わないとダメなんだよね? すっごい大変なんじゃないの?」
「そうだよ。お金も、すごーくたくさん掛かっちゃうの」
「やっぱそうだよね。私なんか、今から頑張っても普通に無理なとこだ。裕福じゃないし、そもそも学力も足りてないし」
「天音の気持ちはどうなの?」
 思わず、訊ねていた。聞いてもいいのかわからなかったけど、今のはお母さんの希望を口にしただけで、天音の本心が含まれていなかった。だから、どう考えているのかが、知りたかった。
「とても素晴らしい仕事だと思うよ。お父さんも、やりがいを持って仕事してるみたいだし。この頃は、二人きりの時によく話を聞いてるの」
「お父さん、お医者様なの?」
「そうだよ。血は繋がってないんだけどね」
 カミングアウトの連続に、宇佐美は口を開いたまま放心した。俺はと言えば、それとは違う理由で固まってしまう。あれだけ必死に隠していたことを、次々と暴露していくものだから。
「それって、もしかして……」
「亡くなったとかじゃないよ。離婚して再婚したの。私が小学生の時に」
「マジ……やば……」
俺が思いのほか衝撃の表情を浮かべていなかったからか、宇佐美はうかがうようにこちらを見つめてきて「知ってたの?」と遠慮がちに訊ねてくる。
「まあ、もう天音が話したから言うけど、知ってた。でも、少し前に偶然成り行きで知っちゃっただけ。必死になって隠してたのに、話しても良かったの?」
 会話のボールを天音に投げてみると、今度は複雑な表情をたたえながら「今なら、ちゃんと話せるかなと思って」と、これまた行き当たりばったりなセリフを吐いた。
「そんな大事なこと、話してくれてありがと……でも、私なんかが聞いても良かったの?」
「杉浦くんと真帆は特別。どのみち、いずれ二人にはもっと詳しく話さなきゃいけないと思ってたから」
 それは、天音と仲良くしているからだろうか。それだけが理由じゃないような気もした。いつも、いつだって天音の発言には、何かしらの裏の事情も隠されているような気がする。
「……天音のお母さんって厳しい人だよね? 何度か見たことあるけど」
「厳しいね。でも、やることやってたら、大抵のことは許してくれるから。放任主義なんだよ、うちは。怒るとヒステリー起こすところが大変だけど。そういえば、お母さんと最後に話をしたの、いつだったかな」
「思い出せないくらい前なの?」
「ううん。今思い出した。四月の、三者面談の時だ」
 それはまた、随分前だなと思った。
「一緒にご飯食べる時に話さないの?」
「一緒に食べてないんだよ。私、こう見えて反抗期がずっと続いちゃってて。ちょっと前までは、お父さんのことも避けててね。だって、いきなり知らない人が家にやってきたら、戸惑っちゃうでしょ?」
「笑わないからな」
 一応釘を刺しておくと、天音は「ありがと」と礼を言った。宇佐美は笑うどころか、他人の家の話だというのに泣きそうになっていた。俺も初めて聞いた時は、何もしてやれないもどかしさを感じた。
「それで、何の話をしてたっけ」
 俺に打ち明けてくれた時よりもハイペースで話しているせいで、心が追い付いていないんだろう。天音の息がほんの少し上がっている。軽くなるように背中をさすってあげると、「ありがと」と言って笑った。
「天音が考えてる、将来に対する気持ちだよ」
「そっか。そうだった」
 一度深呼吸をしてから、話を戻した。
「正直、なりたくない。目指すのが大変とか、仕事が大変だからとかじゃないよ。人の生き死にに関わることが怖いの。それに慣れちゃいそうになる自分が嫌だ。血を見るのも嫌いだし」
 それはもう、どうしようもないほどにしっかりとした理由だった。なれるなれないよりも、向き不向きの問題だからだ。
「やっぱり、お母さんに言えないの?」
「面と向かって話ができないの。だから、勉強だけはしっかりやってる」
 まず、こんなモチベーションですんなり医者という職業に就くことなんて、到底不可能だ。天音ならばそれをやってのけるかもしれないけど。
「天音がやりたいことはないの?」
 今度は宇佐美が訊ねた。しかしその質問に首を振る。
「やりたいことがあれば、説得材料になるんだけど。高校二年じゃ、将来やりたいことなんてなかなか見つからないよね」
「まあ、確かに……私も、全然未知だし」
「お父さんは、天音の将来について何か言ってるの?」
「お父さんは、やりたいことをやりなさいって言ってくれてる。でも、基本仲が悪いからね。うちの親」
 せっかく再婚したというのに、仲が悪いなんて。これ以上は、きっと踏み込まない方が良いんだろう。天音の問題ではなく、俺から見れば第三者である父親と母親の問題になってしまうから。
 次の言葉を探していると、天音は気分を転換するように、自分の太ももを両手で一度叩いた。
「でも、ちょっと前向きになった。真帆のおかげで」
「どうして私?」
「真帆も、逃げずに立ち向かって戦ってるから」
「背中を押してくれたのは、天音じゃん……」
 どこか照れくさそうに話す。
「逃げるなって言ったのに、私がいつまでも逃げてたら示しがつかないよ。とりあえず修学旅行が終わったら、一度話してみるつもり」
「いい結果が出るように、応援してるよ」
 言葉で励ますことしかできなかったけど、俺とは違って宇佐美は急に立ち上がって「お参りしとこう!」と高らかに宣言した。これにはさすがに、天音と一緒に呆気(あっけ)にとられる。
「ここ、学問の神様だよ?」
「いいじゃん。神様なんだから、ちょっとぐらい大目に見てくれるでしょ。それに、三人分のお願いだよ。絶対にご利益あるって!」
 明坂みたいなことを言い出すものだから、軽く吹き出してしまった。天音もそうだったのか、口元を押さえる。
「それじゃあ、お参りしとこうかな」
 天音が同意してくれたことによって、俺たち三人は本殿へと戻ることになった。大きな綱を揺らして、鈴の下で俺は祈った。
天音の迷い事が、いつかすべて晴れますように、と。

「なんだか頭が良くなった気がするぜ」
 集合場所に現れた明坂が嬉しそうにそんなことを言うものだから、逆に頭が悪くなったんじゃないかと憂う。逆効果だったとしたら、それはご利益がなかったわけではなく、きっと神罰によるものだろう。
 持ち直していた明坂に対する株も、一瞬にして底値まで下落した。
「あんたはそのくらい楽観的な方が性に合ってるのかもね」
 もはや諦めたように姫森が言う。彼女のカバンには、さりげなく学業成就のお守りが付いていた。宇佐美も偶然同じものを購入していて、同じ場所に付けている。
 俺は購入するつもりはなかったけど、天音が鈴の付いた赤青色違いの開運お守りを指差して「これ、お揃いで買おうよ」と言ったから、青色を買った。曰(いわ)く、破損してしまったストラップの代わりらしい。堂々としていれば別れたと疑う人もいないと思ったけど、今の彼女の中では別の意味が含まれているような気がした。わざわざ口実を使わなかったから、それがなんだか、無性に嬉しかった。
「今度は落とさないようにしなきゃね!」
「気を付けるよ」と、不器用に笑う。ちりんと優しい鈴の音が鳴った。
 それからまた各地を転々としながら、短い旅の出発点でもあった旅館へと戻ってくる。到着した頃にようやく思い出したけれど、俺と天音と宇佐美は絶賛修羅場中だと噂されているのだ。
くだらないと思った。宇佐美もそうだったのか、「もう大丈夫だよ」と笑った。夕食の時間も、この五人で席を隣り合わせ集まって食べた。それを笑いものにする奴らがいたけど、もう俺も気にはしなかった。

昨日と同じく、橋本は教師の点呼が終わると別の部屋へと向かった。何かまた嫌みを言われたような気がしたけど、適当に相槌を打っていたから内容は忘れた。
「もう放っとけよ」
 言いながら、明坂は布団の中へ潜り込んだ。俺も、明坂に続いて布団に入る。
「明日で終わりだな」
 彼が言った。どこか、名(な)残(ごり)惜しさを含んでいるような響きをしていた。
「もっと遊んでいたかった?」
「ま、案外楽しかったからな」
「同じグループになったこと、後悔してない?」
「なんで」
「なんだかんだ、いろいろあったじゃん。姫森と明坂は、なんというか巻き込んじゃったから」
「それもまた、旅のいい思い出だろ」
 珍しくいいことを言う。柄にもなく感傷的な気分に浸っているのだろうか。
 いつもとは違う天井で、普段暮らしているところから離れた場所で、クラスメイトと一緒に床に就く。そういうのも案外、悪くなかった。
「俺、春希に誘ってもらえて良かったと思ってるよ。なんというか、なんだかんだみんな、いいところがあるんだなって気付けたし」
「そう?」
「宇佐美とか、男子の俺から見たら、口も性格も悪い奴にしか見えなかったから」
「言いすぎだろ」
「言いすぎじゃねーよ。春希のこと、いじめてたんだから。でもさ、どうしようもない奴でも、変わることってできるんだな。元の印象が最悪だったから、本当はいい奴だったとは絶対に思わないけど、今のあいつは悪くはないなって思うよ」
「そういう嫌なこと、忘れてやれよ」
「忘れねーよ。ああいう奴がいたんだってことを覚えとかなきゃ、いつか俺も同じ間違いをするかもしれねーから。過去はさ、簡単に消せねーんだよ」
 普段はふざけていて、何も考えていないようにも見えるけど、明坂にも明坂なりの信念というものがあるんだろう。知らなかった。俺は彼という男を、少しみくびっていたのかもしれない。
「どうしたら、過去の罪は許されるの?」
「春希が許してくれたら、許されるんじゃない?」
「それじゃあ、宇佐美はとっくに許されてるよ」
「お前さ、春希じゃないだろ」
 虚を突かれる。暗がりの中、思わず明坂を見た。どういう表情をしているのかは、わからなかった。
「……いつもの冗談?」
「外れってわけじゃないだろ。なあ、杉浦」
 驚いた。まさか、名字で呼ばれるなんて。ということは、彼は本当に知っているということだ。
「……天音か、それとも宇佐美から聞いたの?」
「宇佐美も、杉浦のことを知ってんのか」
 つい、口を滑らせる。降参だというように、ため息を吐いた。
「気を付けてたつもりなんだけど。一応、どうしてわかったの?」
「駅前で、高槻さんが春希のことを杉浦って呼んでるのが聞こえたんだよ」
「なるほどね。そんな前から知ってたんだ」
「俺、案外知らないふりするの上手いだろ?」
 得意げに言ってきて、正直負けたと思った。
「ごめん、隠してて」
「そんなん言ったら、俺だって知ってたこと隠してたんだからさ。あ、別に事情とかは話さなくていいからな」
「なんで。一番知りたいところじゃないの?」
「たぶんそれ聞いたって、馬鹿だからわかんねーと思うし。でも一応、春希はちゃんと戻ってくるんだよな?」
 確証なんてなかったけれど、俺は「戻るよ」と口にしていた。戻らなければ、いけないから。
「杉浦は? 春希が戻ってきた後に、ちゃんと会えんの?」
「天音と宇佐美とは、会おうって約束してるよ」
「それじゃあ、俺とも約束な。体育館で、春希も混ぜてバスケしようぜ。俺も、実は春希のことよく知らねーから」
「わかったよ」
 いつになるのかはわからないけれど。その約束は、ちゃんと守りたいと思った。
 それから目をつぶって、お互い寝ることに集中する。けれど先に入眠してしまった明坂のいびきがとてつもないほどうるさくて、なかなか寝付くことができなかった。
 眠いけど、寝ることができないのは苦痛だ。可能ならば別の部屋で寝たいが、俺は橋本のように男の友人が多いわけではないから、選択肢はここしかない。
「さすがに、天音たちと寝るわけにもいかないからな……」
 もし彼女たちから許可をもらえても、教師に見つかれば平穏な学校生活は無事に終わりを告げるだろう。
「散歩でもするか……」
体を動かして、少しでも寝られるようにしよう。そう思い立って、こっそり部屋を出た。
日中より薄暗い旅館の廊下は、物陰から幽霊が飛び出してくるんじゃないかと身構えてしまう。少しの物音にも敏感に反応してしまって、自分が案外びびりなんだということを自覚した。
どうにかして人には見つからずエレベーターに乗り込み、一階まで下りる。フロントの方を物陰から覗き見たが、幸い従業員は立っていなかった。
ホッとしたのも束の間、背後から物音がして慌てて振り返る。見ると、エレベーターが二階、三階と上昇していた。誰かが触らなければ、それは動くはずもない。ということは、上階で誰かがボタンを押したということで。もしかすると、一階まで下りてくるのかもしれない。
先生だったらまずいと思い、とにかく知っている道を選んで逃げるように走った。気付けば、昨日宇佐美とやってきたゲームセンターにいた。愉快なBGMを聞きながら息を整えて、落ち着くために自販機でコーラを買う。プルタブを開けて口に含むと、炭酸の弾ける感触で余計に目が覚めた。
ホッと息を吐こうとした時、やってきた方向から人の気配がした。宇佐美と一緒に休憩していた場所だ。思わず物陰に身を潜めたが、こちらまではやってこない。
大人だろうか。見回りに来たのか、それとも俺を見つけて追ってきたのか。どちらにせよ見つかれば、何かしらの責任を負わされそうだ。確か、夜間出歩いているのが見つかったら、廊下に正座させられるんだったか。
部屋は明坂がうるさいから、それもいいかと思ったけど、やはり見つからないに越したことはない。物陰に潜んだままやり過ごそうとしていると、声が聞こえてきた。
「嬉しいよ。こんな時間に呼び出してくれて」
 期待のこもった色が、その声には含まれている。遠くからでも、わかった。そこにいるのは、橋本だった。
「なんで橋本が……」
 しかし、状況的に一人じゃなくて二人いる。耳を澄ますと、いつも聞き慣れている彼女の声が聞こえてきた。
「私が呼び出した理由、康平はわかる?」
 天音だった。驚いて、思わず身を乗り出してしまう。出て行くわけにはいかなかった。でも、耳を塞ぐこともできない。
「それはわからないけど。こんな夜遅くに呼び出すってことは、とても大事な話なんだろ? それこそ、誰にも聞かれたくないような」
「そうだね。大事な話。特に春希くんに聞かれるのは、本当に困る」
 逃げ出したかった。けれどゲームセンターの奥は卓球用の小さな体育館があるだけで、その先は行き止まりだ。戻ろうにも、今二人がいる場所を通らなければいけない。
 つまりこの会話が終わらないと、俺も解放されないということだ。
「工藤か。そういえば、宇佐美に浮気してたんだっけ」
「みんなそう言ってたね。真帆が色目使ったとも言ってたけど」
「どっちも正解かもしれないね。最近、二人は仲が良いから。自由行動のグループも一緒だろう」
「そうだね」
「昨日は、ラフティングの後に宇佐美の手を引いて行った。君という彼女がいながら、手を繋ぐなんて。俺は、二人は本当に浮気してると思ってるよ」
 全部、橋本の勘違いだ。もしくは、都合の良いように解釈してるだけなのか。とにかく、まだそんなことを言ってるのかと腹が立った。
「俺はね、正直彼とは別れた方がいいと思ってるんだ。あんな奴じゃ、君を幸せにはできないよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、引きこもりだったじゃないか。修学旅行の委員も、自分がやりたいって言ったのに全部君に押し付けて。代われるなら、代わってあげたかったよ」
「それじゃあ、先生に言って代わってもらえば良かったんじゃない? 後からああすれば良かったって言うのは、卑怯だと思う」
「俺も、バスケ部で忙しかったんだよ。三年の先輩が引退するからさ、主将を任されるんだ。すごいだろ?」
 天音が、わかりやすく大きなため息を吐いたのが聞こえてきた。
 俺も、正直ここまでとは思わなかった。
ここまで、人の気持ちがわからない奴だとは。
「春希くんが委員に選ばれたのは、みんなが彼に押し付けたからだよ」
「仮にそうだったとしても、最後にやるって言ったのはあいつだろ? 責任感のない奴は、本当に困る」
「一番責任感がないのは、押し付けた人たちだと思うけど。やる気もないのに責任感って言葉を口にしてる人の方が、よっぽど恥ずかしいって。途中で投げ出したのはいけないことかもしれないけど、それでも誰もやりたくなかったことを引き受けた彼は、褒められるべきだよ」
「お前は、昔から優しいからそう思うんだよ」
「……それやめてって、ずっと前に言ったよね‼」
 思わず背筋が凍り付いた。温度のない淡々とした口調ではなく、それは明らかに熱のこもった声音だったからだ。今までは、心の底から本気で怒っているわけじゃなかったんだと、わからされた。
ギリギリのところで自分を押さえていたからこそ、天音はいつも冷静だったんだ。
「おいおい、怒るなよ。なんでそんなに声を荒げるんだよ」
「私さ、人のことをお前って言うのはやめてって、中学の頃に言ったと思うんだけど」
「言ったっけ、そんなこと。ごめん、忘れてた。今度から気を付けるよ」
「このやり取り、一回目じゃないよ。三回目。この際だからハッキリ言うけど、そういうところが私は合わないと思ってるの」
 まるで、あなたは口だけだと言っているかのようだ。それは、天音が一番嫌う類の人間であることを意味する。
「これからは気を付けるって」
「ほんと、康平は……」
 出掛かった言葉を飲み込んだ。それが、天音の良心だった。そうやって優しさがちらつくから、彼も付け上がるんだ。
「……幸せって、与えられるものじゃなくて、自分で掴むものだと私は思う。もちろん与えられる幸せもあるけど、大切な人と一緒に、同じペースで見つけていくのが、一番素敵なことだと思うの。どちらかが頑張ってても、疲れるだけだから」
「それじゃあ、あいつと一緒にいたら天音がずっと頑張ってなきゃいけないだろ」
「そんなことないよ。みんな、知らないだけ。春希くんは、人の痛みを一緒になって分かち合える人なんだよ」
「天音の悩みに共感できたって、どうにもできなかったら幸せになれないだろ。あいつなんかに、何ができるんだよ。天音のお父さんやお母さんに、ちゃんと意見できるのか?」
「そんなの、康平にだってできないでしょ」
「俺ならできるよ。ちゃんといい大学に入って、その時に言ってやるんだ。あんたの娘は、別に医者になんかなりたくないんだって。天音の両親に宣言するんだ。天音には、天音の人生があるって」
「それ、別にもう私一人だけでも言えるから。修学旅行が終わったら、伝えるつもりでいるし」
「それでも、一度家族以外の人間がハッキリ言ってやるべきだろ! 娘の人生を弄ぶなって! 義理の父親が医者だからって、そんなことまで娘に背負わせるなって! だって、血も繋がってないんだからさぁ!」
「お母さんが私に医者になって欲しい理由と、お父さんが医者だということは、全然イコールじゃないよ。康平は私を助けたくて、事実を自分にとって都合の良い物語に捻じ曲げてる。だいたい、お父さんは私に医者になって欲しいとは思ってない。それはこの前、ちゃんと話をして聞いたから」
 天音の声のトーンが下がっていくたびに、橋本の声に熱がこもっていく様が、聞いていて哀れに思えた。もう、ずっと前から天音は決めているんだろう。天音は決して彼の恋人にはならないし、そんな彼女にいくら自分が有用な人間だとアピールしても、それは一生届くことはない。
「そんな風に一生懸命私のことを考えてくれてるのは嬉しいけど、康平の望むようなものを私は何一つあげられないよ。それに、もうあなたが思ってるほどかわいそうな女の子じゃないの、私は。だから、ごめん。今までずっと、ハッキリ言わなくて」
「なんだよそれ……」
「そういうわけだから」
 話は終わったんだろうか。片方の足音が、遠ざかっていくのが聞こえる。聞き耳を立ててしまったのが、ちょっとだけ申し訳なかった。明日、天音には正直に謝ろう。
 そう考えたところで、声が響く。
「ちょっと待てって!」
 鬼気迫る声だった。彼が発した、天音を引き止めるための言葉だ。その直後、「離して!」と、彼女が叫んだ。反射的に、俺の腰は浮いていた。
「なんで、なんでだよ! あいつ、浮気してたんだぞ⁉ 天音のお母さんや本当のお父さんと同じで、浮気してたんだ! 許せるわけがないだろ‼」
「お父さんやお母さんと、春希くんは関係ない! だいたい浮気じゃなかったってこの前お父さんに聞いたし、そもそも春希くんは浮気なんてしてないから! いい加減、なんでも自分の都合の良いように考えるのやめてよ‼」
「あんなの、どう考えても浮気だろ! 宇佐美の奴が、そこのベンチで工藤に寄り掛かって寝てたんだぞ! こんな人気もない奥まった場所で!」
 まずい。そう思った。信じていたものが、崩れていくような音がした。抵抗する物音が、聞こえなくなった。どちらかが、冷静になったんだ。
 気付いて欲しくない。そう祈った。けれど、人の揚げ足を取ることが大好きな彼女が、その言葉で確信を得ないはずがなかった。
「……どうして、ここがその場所だってわかるの。あの写真は、拡大されててどこで撮ったかなんてわからなかったのに」
 黙っていれば良かったのに。黙っていれば、もうほとんど真実が白日の下に晒(さら)されたけど、気付かないふりをしていられた。そういうところが、彼女は本当に不器用だった。
 そして彼も、悲しくなるくらいに、彼女への想いが切実だった。
「そんなの……俺が撮ってやったからに決まってるだろ! 天音はあいつに騙されてるから、誤解を解く必要があったんだ‼」
 救いようのない奴でも、変わることができるんだろうか。それは、否だった。彼女が一度は見逃すことを選んだのに、彼は自分の欲望のために真実を話してしまった。そんな奴に、きっともう天音は優しさなんて振りまかない。
「……私、次はないって言ったよね。春希くんに危害を加えたら、絶交するって」
「そ、そんなの冗談だろ……?」
「冗談で、こんなこと言わないよ。それに、康平は真帆のことも傷付けた」
「あいつだって、工藤のこといじめてただろ! なんで天音は許してるんだよ!」
「真帆は、ちゃんと変われるって信じてたから。私は、ずっと前からあの子のことを理解してるの」
「そんなの、俺だって知ってるよ。中学が一緒だったから。でもあいつも、元は根暗で……」
「もういいよ、話し掛けないで。信じてたのに。そんな良識が欠如してる奴だなんて、思いたくなかった」
「待てよ‼」
 その叫び声と共に、何かが床に叩きつけられるような音が響いた。まさかと、心臓が早鐘を打つ。考えるよりも先に、足が前に出ていた。
 そこで俺が見たものは、床に倒れた天音と、それを見下ろしている橋本の姿だった。あいつが、彼女を突き飛ばした。危害を加えた。俺も、そんなことはしない奴だと信じていたのに。
何も気にせずに、走っておけば良かったと後悔した。
 打ち付けた場所が痛むのか苦(く)悶(もん)の表情を浮かべ、天音はそれでも俺が現れたことに気付いて、目を見開いた。
「……春希くん?」
「なんだと……?」
 理性を失った瞳がこちらを射抜く。驚くほどに、俺の心は冷え切っていた。天音が怒っている時もこんな感じだったのだろうかと、ふと思った。
「……一応聞くけどさ、ストラップも君が捨てたの?」
 答えがどうあれ、俺がこの後に起こす行動は決まっていた。ただ、加減をするかどうかというだけで、しかしどうやらその必要はないようだった。
 彼は、自分の功績を自慢するように、笑った。
「当たり前だろ。お前が、いつも調子に乗ってるからだ」
 信じていたものが裏切られた時、口の中に錆(さび)の味が広がるらしい。とにかく、怒りのせいでどこかが切れてしまったみたいだ。それを舌で味わいながら、彼も同じ目に遭わせてやろうと思った。
 近付いて、俺は躊躇らうことなく拳を振り上げ、橋本の頬を殴りつけた。そんなことをする勇気が工藤春希にはないとでも思ったのか、彼は驚(きょう)愕(がく)の表情を浮かべた。残念だけど、俺は工藤春希じゃなく杉浦鳴海だ。
そのふざけた顔に、もう一発拳を入れる。すると無(ぶ)様(ざま)にも、その場に尻もちをついた。
「何だよお前……! こんなことして、ただで済むと思ってんのかよ!」
「お前が天音を一番困らせてることに、どうして気付かないんだよ!」
 叫んだ。彼がハッとした表情を浮かべていたけど、もう一発殴らなければ気が収まらなかった。宇佐美の分が、まだだったから。馬乗りになって、もう一発だけ殴るつもりでいた。動き出したところで、俺は何か優しいものに後ろから押さえつけられた。
「もうやめて、杉浦くん……! もう、いいからっ!」
「……は? 杉浦……?」
 橋本が呟いた時、こちらに迫ってくる足音が聞こえた。あれだけ、彼が無様に叫んでいたんだ。むしろ、遅いぐらいだ。なんでこんなタイミングで来るんだよと、自分の不幸を呪った。
「お前ら! そこで何やってるんだ‼」
 やってきたのは、担任教師だった。俺を止めるために押さえつけている天音と、二発殴りつけて横たわっている橋本の姿を目撃されてしまう。もう一度倒れ込んだ彼を見てみると、殴った箇所に青痣(あざ)ができていて、唇から血が滲んでいた。
これはどう考えても、もうダメだ。
 天音が俺を解放する。肩で息をしていると、彼女が震えているのがわかった。泣いていた。泣かせたくないと思ったのに、他でもない俺が、泣かせてしまった。
 担任教師が、こちらに迫る。
「お前が橋本を殴ったんだな?」
「……」
「原因は、痴(ち)情(じょう)のもつれか」
「……」
「ほどほどにしておけよって、俺言ったよな?」
 随分前に、そんなことを言われた気がする。今さら、思い出した。
「先生、違うんです。春希くんは……」
「高槻は黙ってろ。俺は今こいつと話をしてるんだ」
 それからあらためて、担任教師は俺を見る。
「理由はどうあれ、手を上げた奴が一番悪いぞ。見た感じ、正当防衛でもなさそうだ。橋本、間違ってないよな?」
 彼も動揺していた。大ごとになるとは思わなかったんだろう。唇が、震えている。
「いや、あのっ……おれはっ……」
「俺は、一発も殴られてません」
 ハッキリ、真実を口にした。橋本の目が見開かれる。天音が、一歩前に出た。まずいとでも、思ったんだろう。
「先生。ここでのこと、全部お話します。康平とも、一度話し合いたいです。できれば、三人だけで。私も悪かったから。だから、どうかここは見なかったことに……」
「全部、俺がやりました」
「……ちょっと、黙っててよ春希くんは‼」
 その絶叫に、怯んだりはしなかった。俺は、天音を押しのける。それから担任教師を見据えた。
「こいつ、気が動転してるみたいなんで。部屋に戻して、休ませてあげてください。たぶん、そうした方がいいです」
「春希くん‼」
 担任教師が、俺と天音と橋本を見比べていく。誰に話を聞いた方がいいか、思案しているんだろう。殴られた橋本は、目の焦点が合ってない。天音は、見るからに取り乱している。加害者の俺は、一番落ち着いている自信があった。そして、俺がやったんだと罪を認めている。
 選択肢が一つしかないのは明白だった。
「橋本。保健の先生を起こすから、手当てしてもらえ。高槻は今から、女の先生を呼ぶ。部屋に戻れ。工藤は……」
「先生‼」
 納得いかないのか、みっともなく天音が叫んだ。やっぱりこいつは、馬鹿だ。そういうところが本当に不器用だ。大切な誰かを助けたくて、後先を考えないところが。
 それからほどなくして、呼び出された女の先生がやってくる。天音は連れて行かれる時にもがいて、俺の潔白を証明しようとしたけれど、その行動は精神状態が不安定だという推測を裏付けるだけだった。橋本は、何も話さなかった。動揺しているのか、罪を背負った俺をあざ笑っているのかは知らないけど、ただ最後まで、何も言わなかった。
 俺は、担任教師に連れて行かれる。
 楽しかった修学旅行の最後は、とても残念な幕切れで終わってしまった。