翌日学校で見た天音は、いつも明るいけど、今までよりほんの少しだけ憑(つ)き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていた。姫森も気付いたのか、珍しくわざわざ彼女がいない時を見計らってこちらへとやってきた。
「天音、もしかしてなんかいいことあったの?」
「知らないけど。新しい友達でもできたんじゃない?」
「また? 一緒に遊べる時間がもっと少なくなっちゃうじゃん」
「心配しなくても、天音にとって君は十分特別な人だと思うけどね」
「そ、そう?」
思いのほか今の言葉が嬉しかったのか、恥じらいを隠すように指先で頬を掻いた。
「まあ、あんたが天音と付き合い始めたせいで、私との時間も減って残念だったんだけどね。けど、あの子にとっては良かったのかも。明るくなったし、私には与えられないものを、与えられてるみたいだし。ただの根暗だと思ってたけど、案外人付き合い上手だね」
「それ、いいこと言ってるように見えて、普通に失礼だからな」
「いいじゃん別に。天音のこと、これからもよろしくね。あの子は強いから、人に頼るって言葉を知らないのよ。たまに、相手さえよければ自分のことを顧(かえり)みなくなる時があるから。そういう時は、ちゃんと守ってあげなさい」
「何それ、君は俺の母親?」
「気持ち悪いこと言わないで。どちらかというと、私は天音の母親だから。それじゃ、修学旅行は同じグループ同士、楽しみましょ」
ひらひらと手を振って、姫森は自分の席へと戻っていく。
次の授業の準備をしていると、チャイムが鳴って天音が戻ってきた。その足は、リズムを刻んでいるかのように軽やかで、機嫌良く鼻歌まで歌っている。
きっと、学校以外にも自分の居場所ができたんだろう。こちらにまで、彼女から湧き出ている喜びが、届いてきそうだった。
空港に向かうバスの中で無駄にテンションの上がっていた明坂は、機内に乗り込む前の手荷物検査の際に、青ざめた表情を浮かべていた。
「飛行機、落ちたりしねーよな……?」
「落ちるわけがないだろ」
周りを不安にさせるような発言はやめて欲しい。案の定、それに触発された宇佐美が「こ、怖いこと言わないでよ。この前、修学旅行の飛行機が墜落する小説を読んだんだから!」と、珍しく怯えた様子を見せた。
馬鹿にしているわけじゃないけど、いつも気丈に振舞っている彼女が非現実的なことに怯えているのを見ると笑ってしまう。天音は、まったく怖くないのか涼しい顔をしていた。
「こういう時、私もこわーいって言った方が、春希くんは気を使ってくれるの?」
「やめろよ、気持ち悪いから」
「ひどい!」
耳のそばで響いた抗議の声にうんざりしていると、教師陣が「順番に機内に乗り込むぞー」と号令を掛けた。ちょうどいいやと思って、うるさい天音のことは無視して歩き出す。
搭乗通路を渡って機内に入り、事前に割り振られたシートに座った。
「よっこいしょっと。短い間だけど、よろしくね!」
天音が隣に座っているのは偶然などではなく、二人一緒に修学旅行のクラス委員をやっているからだ。俺たちは出席番号や男女の割り振りなど関係なく、強制的に前方の教師陣に近い位置へ配置された。
それから二人で点呼を取って、全員搭乗しているのを教師に報告する。後は離陸するだけという時になって、シートベルトを締めていると天音が「……落ちたりしないよね?」と、明坂みたいなことを訊ねてきた。
「一日に何便飛んでると思ってるんだよ。偶然、今日俺たちの乗る飛行機が墜落するわけがないだろ」
「だよね」
「なんだよ。怖いのか」
「ほんの少しね」
強がっているのか、不器用に微笑んでくる。手元が覚束ないのか、装着しようとしているシートベルトが何度か空振りしていた。仕方ないから、代わりに差し込んでやる。
「怖かったなら、最初から強がるなよ」
「だって、さっきまでは大丈夫だったんだもん。それに怖いって言ったら、気持ち悪いって思うんでしょ?」
「なんでそのままの意味で受け取るんだよ……もう離陸するから、手でも繋いどくか?」
「……そうする」
そんな話をしていると、焦る天音を急かすように、機長からもうすぐ離陸しますというアナウンスが入った。それが余計に不安な心を刺激したのか、軽く握っていただけの手の力を強めてくる。
握り返すと、少しは震えが収まったような気がした。しばらく後に、飛行機がゆっくり動き出す。窓際の席に座っているから、機体が地上を離れる瞬間が視覚的にわかった。やがて空へと上昇していき、体にわずかな重力がかかる。深い水の底にいるような、耳の奥の微(かす)かな不快感が押し寄せてくる。しかし、気付けば機体の揺れも収まっていて、雲の上を飛行していた。
それでもしばらくの間は手を握っててやると、慣れたのかもう諦めたのかは知らないけど、いつの間にか握りしめてくるのをやめていた。
「窓の外、見てみなよ。綺麗だから」
おっかなびっくりではあったけど、天音は窓の外へと視線を移す。そうして、感嘆の息を漏らした。
「綺麗……」
当たり前だけど、雲の上は見渡す限りの青空だった。まるで天国へとやってきたみたいで、亡くなった人はお空に昇って行くという比(ひ)喩(ゆ)も、あながち間違いではないのかもしれないと思った。
「もう大丈夫?」
「ありがと。雲を見てたら、なんだか逆に落ち着いちゃった」
「どうして?」
「天国みたいだなって」
俺と、同じことを考えていた。
「春希くんのお母さんも、この空のどこかにいるのかな」
「どうだろうね。でもこんなに広かったら、どこかを自由に飛んでたりするのかも」
「もしここにいるんだとしたら、残された私たちは安心できるよね。だって、こんなにも綺麗なんだから」
雲(うん)海(かい)を見下ろす瞳は憂いを帯びていて、哀愁が漂っていた。他人事ではないんだろうなと、その目を見て察する。いくら優しい彼女でも、クラスメイトの母親のことを思って、こんなにも寂し気な表情を浮かべたりしない。
だから春希の母親を思うその瞳には、名前も知らない別の人の笑顔も映っているんだろう。今すぐ俺を押しのけ、澄み渡る雲海へと身を投げ出すんじゃないかと思えて、咄嗟に手を掴んだ。
飛行機の窓なんて、空の上で開くわけがないのに。
結局、飛行機は墜落することなく目的地へ到着した。空港を出ると、眩い日差しに目を細める。普段より随分南の地域のせいか、気温も何度か上がっているような気がした。
「やっぱり、どうせ行くなら東京が良かったわ。なんでまだ春なのに暑いのよ」
青空を見上げながら、宇佐美はここでも悪態を吐く。東京へ行けば、今度は人の多さに文句を言いそうだ。結局どこに行っても不満はあるんだろう。
なんだかんだで目的地に到着してしまったが、俺は未だに工藤春希のふりをしている。正直なところ楽しみではあったけど、申し訳なさもあった。
「せっかくの旅行なんだから、いろいろ気にせずみんなで楽しもうよ」
浮かない顔をしていたらしく、天音が気遣うように肩を叩いてくる。
「何? 楽しみじゃなかったの?」
俺たちの様子を見ていた宇佐美が、口を尖らせながら不満げに言った。
「いや、楽しみだったよ」
「それならもっと楽しそうにしなさいよ」
彼女は彼女で、和ませようとしてくれているんだろう。どうやら自分で考えているよりもずっと、気分が落ち込んでいるらしい。病院へ行ってから天音と今後のことを話したけど、結局打つ手なしという結論が出てしまったからだろうか。
一生このままなんじゃないかと思う時もあったが、とにかくあまり考え込まない方向へ意識をシフトした。俺が考え事をしていると、気にしてしまう人がいるから。それが最近まで一人だけだったのに、いつの間にか二人に増えている。申し訳なさも、二人前だった。
「ごめん、ありがと。宇佐美も」
「別に、あんたのために言ったんじゃないから。これから野外炊飯なのに落ち込んでる奴がいたら、空気が悪くなると思ったのよ」
気持ちを切り替えて、俺たちは再び観光バスへと乗り込んだ。初日は山にあるキャンプ場で野外炊飯を楽しんで、午後はラフティングを行う。要するにボートに乗って川下りをするのだ。野外炊飯も川下りも、基本的にはクラス内で決めた自由行動のグループで行う。
キャンプ場へ着くと調理場所の説明がされ、各グループに鍋やまな板や包丁などの必要器具が配布された。この日本には、ガスボンベを差せばスイッチ一つで点火できる文明の利器が存在するというのに、自然の過酷さを実感するためなのか、薪(まき)と新聞紙も同時に配られた。案の定、宇佐美は面倒くさそうに薪の束を見つめる。
「私たちは調理の方を頑張るから、男は火おこし頑張りなさいよ」
「おいおい、楽な方を選ぶなよ」
「楽じゃないから。だいたい明坂なんかに任せて美味しいカレーが作れると思ってるの?」
失礼だが明坂じゃ無理だ。女性陣の中には天音がいるから、まず失敗することはない。こういう時は、大人しく従っておいた方が無難だと思い、明坂の肩に手を置いた。
「明坂には無理だ。サッカー得意なんだろ? それじゃあ、薪割りも得意だよな」
「いや、意味わかんねぇよ。薪割りとサッカーに何の関連性があるんだよ」
「とにかく、力仕事は男の役目だろ。面倒くさいかもしれないけど、俺たちが包丁握ってる隣で天音たちが薪を割ってたら、さすがに罪悪感抱くだろ?」
「まあ、そりゃあそうだけどさ……」
「それじゃあ、一緒に頑張ろう」
上手く丸め込み、二人の言い合いを打ち切ることに成功した。明坂も宇佐美も、気は合わないくせに売り言葉に買い言葉で話すところは共通しているから、誰かが緩(かん)衝(しょう)材(ざい)にならなければ延々と口喧嘩してしまう。それを天音も理解していたのか、教師陣からもらったニンジンを持ちながら苦笑いを浮かべ「ありがとね」とお礼を言ってきた。
言い合いをしているうちに、姫森はピーラーで皮の付いている食材を剥き始めた。
「ほら、俺たちが火をおこさないと料理が止まるから、早く行こうぜ」
「わかったよ……」
納得はしてなさそうだったが、明坂を連れて薪割りの仕事へ急いだ。
あらかじめ場所取りをしていた地点に行き、薪を割って見様見真似で手順通りに組んでいく。簡易的な窯(かま)の一番下に置いた新聞紙にマッチで火をつけ、うちわで適度に風を送り込んでいると、予想していたよりも簡単に火が燃え上がった。
「俺ら天才じゃね?」と、機嫌の良くなった明坂が尊大なことを口にする。
「これなら、無人島とか過去の世界に放り出されても二人で生きていけるだろ」
「無人島とか、ずっと昔の世界にはマッチなんて存在してないからな。一番面倒くさい工程を省いてるから簡単なんだよ」
「そういうことね。結局文明に頼ってんじゃん。なんか中途半端だな、徹底的にやればいいのに」
そんなことを言ってしまえば、食材を切るための包丁やその他いろいろなものを自分たちで用意しなければいけなくなる。それなりに苦労をして成功体験を積めるこれが、ちょうどいい塩(あん)梅(ばい)なんだろう。
適度に薪を追加しながら女性陣を待っていると、ボウルにカットした食材を入れてやってきた。
「お、ちゃんと上手くできてるね。二人ともやるじゃん」
姫森がやる気の出ることを言ってくれる。対する宇佐美は「これくらい、できて当然でしょ」と、素っ気ない。
鍋を宇佐美が設置している時「料理できるの?」と何げなく訊ねてみた。
「今日は大したことしてないけど、まあそれなりにね。ママのを手伝ってるから」
「そっか。仲良いんだな」
彼女の口からは、何度か『ママ』という単語が出てくる。だからただの感想のつもりだったけど、急に宇佐美は頬を赤らめてきた。
「……あのさ。ママ、ママって、私子どもっぽいかな?」
「別に気にしなくていいだろ。他の人はどう思うのか知らないけど、そんな風に慕ってくれてた方が、宇佐美のお母さんは嬉しいんじゃないの? 周りがどう思うかより、お母さんのことを気にしろよ」
「工藤、いいこと言うじゃん」
切った野菜を天音と一緒に鍋へと投入していた姫森が、今の話を聞いていたのか口を挟んできた。
「私なんて、素直になりたいけど反抗期の時にいろいろ迷惑掛けちゃったから、いつも気まずいんだよ。だから、普通に真帆が羨ましい」
「私も」
驚いたことに、たった一言だけだったけど天音も姫森の言葉に同調した。
「でもさ、親と二人で買い物行ったり外食してるの見られたら、普通に恥ずくね?」
いい会話の流れだったのに、空気を読まない明坂が余計な言葉を挟んでくる。姫森は、途端に目を白けさせた。
「お父さんとお母さんのおかげで毎日ご飯食べれてるんだから、買い物くらい手伝ってあげなさいよ。あんた、親に買ってもらったスマホで、親に月額料金払ってもらってるのに、SNSに親うぜーとか書き込むタイプの人間でしょ。マジ最低だわ」
「隼人くんがのびのびサッカーできてるのも、優しいご両親のサポートがあるからなんだよ。ちゃんと感謝しなきゃ」
「死ね、明坂」
女性陣から突然の総スカンを食らった明坂は、ほんの少し体が縮こまったような気がする。かわいそうだと思ったが、今の罵(ば)倒(とう)も的を射ているため、フォローを入れることはできなかった。
それからグツグツと野菜を煮込んでいる天音の姿を眺めていると、隣にいた宇佐美が服の袖を軽く引っ張ってきて「……あのね、工藤。さっきはありがと」と囁いた。先ほど明坂に怨(えん)嗟(さ)の言葉を吐いた人間とは思えないほどに、素直な言葉だ。今でもこんなあどけない表情を浮かべられるんだなと、少し意外に思う。強がっているだけで、本質的な部分は幼い頃から変わっていないのかもしれない。
「カレーって、とろみつかない時あるわよね。なんかコツでもあるのかな」
「スプーンを使って何度も味見したりすると、唾液の中のアミラーゼっていう成分と混じって上手くいかないことがあるらしいよ」
「へぇ、さすが天音。詳しいね」
「ネットにそう書いてあったから。予備のジャガイモもあるし、もしシャバシャバになったらすり下ろして入れれば何とかなると思うよ。失敗はしないんじゃないかな」
料理に関して、何も心配はいらなそうだ。あれから宇佐美も隣で炊いているご飯をじっと見守っている。なんだかんだまとまりのあるグループで、今さらながらに安心した。
でき上がったカレーを盛り付ける係は、俺がやらせてもらう。火おこしは力仕事とは言えないほどに簡単な作業だったから、ここで料理の恩を返しておきたかった。明坂は椅子に座り込んで「まだかよー」と催促するだけだったけど。
誰が作ってもカレーは失敗しないとは言うけれど、三人が作ってくれたカレーはとても美味しかった。炊飯器を使えないから難しいはずなのに、ご飯はふっくらとしていていつも家で炊いているものと遜(そん)色(しょく)がないでき上がりだった。
「とっても美味しいよ」
素直な感想を口にすると、姫森が「そりゃあ、天音がいるからね」と誇らしげに持ち上げる。
「風香と真帆が手伝ってくれたからだよ」
「私、お米の係しかしてないし」
「ご飯も美味しいよ。宇佐美が水加減にちゃんと気を使ってくれたからだ」
「そ、そう? まあ、ここに来るまでにコツは調べておいたし、当然よ」
「明坂も、美味しいって思うだろ?」
黙々と食べている明坂に話を振ってみた。
「まあ、うまいな。もうちょっと辛い方が、俺好みではあるけど」
本当に余計な一言が多い奴だ。
俺たちの周りには、和気あいあいと盛り上がっているグループが多かった。それに比べてここは落ち着いているけれど、このメンバーで良かったと思う。今だけは、ここに春希がいればとは、考えないようにした。
「天音、もしかしてなんかいいことあったの?」
「知らないけど。新しい友達でもできたんじゃない?」
「また? 一緒に遊べる時間がもっと少なくなっちゃうじゃん」
「心配しなくても、天音にとって君は十分特別な人だと思うけどね」
「そ、そう?」
思いのほか今の言葉が嬉しかったのか、恥じらいを隠すように指先で頬を掻いた。
「まあ、あんたが天音と付き合い始めたせいで、私との時間も減って残念だったんだけどね。けど、あの子にとっては良かったのかも。明るくなったし、私には与えられないものを、与えられてるみたいだし。ただの根暗だと思ってたけど、案外人付き合い上手だね」
「それ、いいこと言ってるように見えて、普通に失礼だからな」
「いいじゃん別に。天音のこと、これからもよろしくね。あの子は強いから、人に頼るって言葉を知らないのよ。たまに、相手さえよければ自分のことを顧(かえり)みなくなる時があるから。そういう時は、ちゃんと守ってあげなさい」
「何それ、君は俺の母親?」
「気持ち悪いこと言わないで。どちらかというと、私は天音の母親だから。それじゃ、修学旅行は同じグループ同士、楽しみましょ」
ひらひらと手を振って、姫森は自分の席へと戻っていく。
次の授業の準備をしていると、チャイムが鳴って天音が戻ってきた。その足は、リズムを刻んでいるかのように軽やかで、機嫌良く鼻歌まで歌っている。
きっと、学校以外にも自分の居場所ができたんだろう。こちらにまで、彼女から湧き出ている喜びが、届いてきそうだった。
空港に向かうバスの中で無駄にテンションの上がっていた明坂は、機内に乗り込む前の手荷物検査の際に、青ざめた表情を浮かべていた。
「飛行機、落ちたりしねーよな……?」
「落ちるわけがないだろ」
周りを不安にさせるような発言はやめて欲しい。案の定、それに触発された宇佐美が「こ、怖いこと言わないでよ。この前、修学旅行の飛行機が墜落する小説を読んだんだから!」と、珍しく怯えた様子を見せた。
馬鹿にしているわけじゃないけど、いつも気丈に振舞っている彼女が非現実的なことに怯えているのを見ると笑ってしまう。天音は、まったく怖くないのか涼しい顔をしていた。
「こういう時、私もこわーいって言った方が、春希くんは気を使ってくれるの?」
「やめろよ、気持ち悪いから」
「ひどい!」
耳のそばで響いた抗議の声にうんざりしていると、教師陣が「順番に機内に乗り込むぞー」と号令を掛けた。ちょうどいいやと思って、うるさい天音のことは無視して歩き出す。
搭乗通路を渡って機内に入り、事前に割り振られたシートに座った。
「よっこいしょっと。短い間だけど、よろしくね!」
天音が隣に座っているのは偶然などではなく、二人一緒に修学旅行のクラス委員をやっているからだ。俺たちは出席番号や男女の割り振りなど関係なく、強制的に前方の教師陣に近い位置へ配置された。
それから二人で点呼を取って、全員搭乗しているのを教師に報告する。後は離陸するだけという時になって、シートベルトを締めていると天音が「……落ちたりしないよね?」と、明坂みたいなことを訊ねてきた。
「一日に何便飛んでると思ってるんだよ。偶然、今日俺たちの乗る飛行機が墜落するわけがないだろ」
「だよね」
「なんだよ。怖いのか」
「ほんの少しね」
強がっているのか、不器用に微笑んでくる。手元が覚束ないのか、装着しようとしているシートベルトが何度か空振りしていた。仕方ないから、代わりに差し込んでやる。
「怖かったなら、最初から強がるなよ」
「だって、さっきまでは大丈夫だったんだもん。それに怖いって言ったら、気持ち悪いって思うんでしょ?」
「なんでそのままの意味で受け取るんだよ……もう離陸するから、手でも繋いどくか?」
「……そうする」
そんな話をしていると、焦る天音を急かすように、機長からもうすぐ離陸しますというアナウンスが入った。それが余計に不安な心を刺激したのか、軽く握っていただけの手の力を強めてくる。
握り返すと、少しは震えが収まったような気がした。しばらく後に、飛行機がゆっくり動き出す。窓際の席に座っているから、機体が地上を離れる瞬間が視覚的にわかった。やがて空へと上昇していき、体にわずかな重力がかかる。深い水の底にいるような、耳の奥の微(かす)かな不快感が押し寄せてくる。しかし、気付けば機体の揺れも収まっていて、雲の上を飛行していた。
それでもしばらくの間は手を握っててやると、慣れたのかもう諦めたのかは知らないけど、いつの間にか握りしめてくるのをやめていた。
「窓の外、見てみなよ。綺麗だから」
おっかなびっくりではあったけど、天音は窓の外へと視線を移す。そうして、感嘆の息を漏らした。
「綺麗……」
当たり前だけど、雲の上は見渡す限りの青空だった。まるで天国へとやってきたみたいで、亡くなった人はお空に昇って行くという比(ひ)喩(ゆ)も、あながち間違いではないのかもしれないと思った。
「もう大丈夫?」
「ありがと。雲を見てたら、なんだか逆に落ち着いちゃった」
「どうして?」
「天国みたいだなって」
俺と、同じことを考えていた。
「春希くんのお母さんも、この空のどこかにいるのかな」
「どうだろうね。でもこんなに広かったら、どこかを自由に飛んでたりするのかも」
「もしここにいるんだとしたら、残された私たちは安心できるよね。だって、こんなにも綺麗なんだから」
雲(うん)海(かい)を見下ろす瞳は憂いを帯びていて、哀愁が漂っていた。他人事ではないんだろうなと、その目を見て察する。いくら優しい彼女でも、クラスメイトの母親のことを思って、こんなにも寂し気な表情を浮かべたりしない。
だから春希の母親を思うその瞳には、名前も知らない別の人の笑顔も映っているんだろう。今すぐ俺を押しのけ、澄み渡る雲海へと身を投げ出すんじゃないかと思えて、咄嗟に手を掴んだ。
飛行機の窓なんて、空の上で開くわけがないのに。
結局、飛行機は墜落することなく目的地へ到着した。空港を出ると、眩い日差しに目を細める。普段より随分南の地域のせいか、気温も何度か上がっているような気がした。
「やっぱり、どうせ行くなら東京が良かったわ。なんでまだ春なのに暑いのよ」
青空を見上げながら、宇佐美はここでも悪態を吐く。東京へ行けば、今度は人の多さに文句を言いそうだ。結局どこに行っても不満はあるんだろう。
なんだかんだで目的地に到着してしまったが、俺は未だに工藤春希のふりをしている。正直なところ楽しみではあったけど、申し訳なさもあった。
「せっかくの旅行なんだから、いろいろ気にせずみんなで楽しもうよ」
浮かない顔をしていたらしく、天音が気遣うように肩を叩いてくる。
「何? 楽しみじゃなかったの?」
俺たちの様子を見ていた宇佐美が、口を尖らせながら不満げに言った。
「いや、楽しみだったよ」
「それならもっと楽しそうにしなさいよ」
彼女は彼女で、和ませようとしてくれているんだろう。どうやら自分で考えているよりもずっと、気分が落ち込んでいるらしい。病院へ行ってから天音と今後のことを話したけど、結局打つ手なしという結論が出てしまったからだろうか。
一生このままなんじゃないかと思う時もあったが、とにかくあまり考え込まない方向へ意識をシフトした。俺が考え事をしていると、気にしてしまう人がいるから。それが最近まで一人だけだったのに、いつの間にか二人に増えている。申し訳なさも、二人前だった。
「ごめん、ありがと。宇佐美も」
「別に、あんたのために言ったんじゃないから。これから野外炊飯なのに落ち込んでる奴がいたら、空気が悪くなると思ったのよ」
気持ちを切り替えて、俺たちは再び観光バスへと乗り込んだ。初日は山にあるキャンプ場で野外炊飯を楽しんで、午後はラフティングを行う。要するにボートに乗って川下りをするのだ。野外炊飯も川下りも、基本的にはクラス内で決めた自由行動のグループで行う。
キャンプ場へ着くと調理場所の説明がされ、各グループに鍋やまな板や包丁などの必要器具が配布された。この日本には、ガスボンベを差せばスイッチ一つで点火できる文明の利器が存在するというのに、自然の過酷さを実感するためなのか、薪(まき)と新聞紙も同時に配られた。案の定、宇佐美は面倒くさそうに薪の束を見つめる。
「私たちは調理の方を頑張るから、男は火おこし頑張りなさいよ」
「おいおい、楽な方を選ぶなよ」
「楽じゃないから。だいたい明坂なんかに任せて美味しいカレーが作れると思ってるの?」
失礼だが明坂じゃ無理だ。女性陣の中には天音がいるから、まず失敗することはない。こういう時は、大人しく従っておいた方が無難だと思い、明坂の肩に手を置いた。
「明坂には無理だ。サッカー得意なんだろ? それじゃあ、薪割りも得意だよな」
「いや、意味わかんねぇよ。薪割りとサッカーに何の関連性があるんだよ」
「とにかく、力仕事は男の役目だろ。面倒くさいかもしれないけど、俺たちが包丁握ってる隣で天音たちが薪を割ってたら、さすがに罪悪感抱くだろ?」
「まあ、そりゃあそうだけどさ……」
「それじゃあ、一緒に頑張ろう」
上手く丸め込み、二人の言い合いを打ち切ることに成功した。明坂も宇佐美も、気は合わないくせに売り言葉に買い言葉で話すところは共通しているから、誰かが緩(かん)衝(しょう)材(ざい)にならなければ延々と口喧嘩してしまう。それを天音も理解していたのか、教師陣からもらったニンジンを持ちながら苦笑いを浮かべ「ありがとね」とお礼を言ってきた。
言い合いをしているうちに、姫森はピーラーで皮の付いている食材を剥き始めた。
「ほら、俺たちが火をおこさないと料理が止まるから、早く行こうぜ」
「わかったよ……」
納得はしてなさそうだったが、明坂を連れて薪割りの仕事へ急いだ。
あらかじめ場所取りをしていた地点に行き、薪を割って見様見真似で手順通りに組んでいく。簡易的な窯(かま)の一番下に置いた新聞紙にマッチで火をつけ、うちわで適度に風を送り込んでいると、予想していたよりも簡単に火が燃え上がった。
「俺ら天才じゃね?」と、機嫌の良くなった明坂が尊大なことを口にする。
「これなら、無人島とか過去の世界に放り出されても二人で生きていけるだろ」
「無人島とか、ずっと昔の世界にはマッチなんて存在してないからな。一番面倒くさい工程を省いてるから簡単なんだよ」
「そういうことね。結局文明に頼ってんじゃん。なんか中途半端だな、徹底的にやればいいのに」
そんなことを言ってしまえば、食材を切るための包丁やその他いろいろなものを自分たちで用意しなければいけなくなる。それなりに苦労をして成功体験を積めるこれが、ちょうどいい塩(あん)梅(ばい)なんだろう。
適度に薪を追加しながら女性陣を待っていると、ボウルにカットした食材を入れてやってきた。
「お、ちゃんと上手くできてるね。二人ともやるじゃん」
姫森がやる気の出ることを言ってくれる。対する宇佐美は「これくらい、できて当然でしょ」と、素っ気ない。
鍋を宇佐美が設置している時「料理できるの?」と何げなく訊ねてみた。
「今日は大したことしてないけど、まあそれなりにね。ママのを手伝ってるから」
「そっか。仲良いんだな」
彼女の口からは、何度か『ママ』という単語が出てくる。だからただの感想のつもりだったけど、急に宇佐美は頬を赤らめてきた。
「……あのさ。ママ、ママって、私子どもっぽいかな?」
「別に気にしなくていいだろ。他の人はどう思うのか知らないけど、そんな風に慕ってくれてた方が、宇佐美のお母さんは嬉しいんじゃないの? 周りがどう思うかより、お母さんのことを気にしろよ」
「工藤、いいこと言うじゃん」
切った野菜を天音と一緒に鍋へと投入していた姫森が、今の話を聞いていたのか口を挟んできた。
「私なんて、素直になりたいけど反抗期の時にいろいろ迷惑掛けちゃったから、いつも気まずいんだよ。だから、普通に真帆が羨ましい」
「私も」
驚いたことに、たった一言だけだったけど天音も姫森の言葉に同調した。
「でもさ、親と二人で買い物行ったり外食してるの見られたら、普通に恥ずくね?」
いい会話の流れだったのに、空気を読まない明坂が余計な言葉を挟んでくる。姫森は、途端に目を白けさせた。
「お父さんとお母さんのおかげで毎日ご飯食べれてるんだから、買い物くらい手伝ってあげなさいよ。あんた、親に買ってもらったスマホで、親に月額料金払ってもらってるのに、SNSに親うぜーとか書き込むタイプの人間でしょ。マジ最低だわ」
「隼人くんがのびのびサッカーできてるのも、優しいご両親のサポートがあるからなんだよ。ちゃんと感謝しなきゃ」
「死ね、明坂」
女性陣から突然の総スカンを食らった明坂は、ほんの少し体が縮こまったような気がする。かわいそうだと思ったが、今の罵(ば)倒(とう)も的を射ているため、フォローを入れることはできなかった。
それからグツグツと野菜を煮込んでいる天音の姿を眺めていると、隣にいた宇佐美が服の袖を軽く引っ張ってきて「……あのね、工藤。さっきはありがと」と囁いた。先ほど明坂に怨(えん)嗟(さ)の言葉を吐いた人間とは思えないほどに、素直な言葉だ。今でもこんなあどけない表情を浮かべられるんだなと、少し意外に思う。強がっているだけで、本質的な部分は幼い頃から変わっていないのかもしれない。
「カレーって、とろみつかない時あるわよね。なんかコツでもあるのかな」
「スプーンを使って何度も味見したりすると、唾液の中のアミラーゼっていう成分と混じって上手くいかないことがあるらしいよ」
「へぇ、さすが天音。詳しいね」
「ネットにそう書いてあったから。予備のジャガイモもあるし、もしシャバシャバになったらすり下ろして入れれば何とかなると思うよ。失敗はしないんじゃないかな」
料理に関して、何も心配はいらなそうだ。あれから宇佐美も隣で炊いているご飯をじっと見守っている。なんだかんだまとまりのあるグループで、今さらながらに安心した。
でき上がったカレーを盛り付ける係は、俺がやらせてもらう。火おこしは力仕事とは言えないほどに簡単な作業だったから、ここで料理の恩を返しておきたかった。明坂は椅子に座り込んで「まだかよー」と催促するだけだったけど。
誰が作ってもカレーは失敗しないとは言うけれど、三人が作ってくれたカレーはとても美味しかった。炊飯器を使えないから難しいはずなのに、ご飯はふっくらとしていていつも家で炊いているものと遜(そん)色(しょく)がないでき上がりだった。
「とっても美味しいよ」
素直な感想を口にすると、姫森が「そりゃあ、天音がいるからね」と誇らしげに持ち上げる。
「風香と真帆が手伝ってくれたからだよ」
「私、お米の係しかしてないし」
「ご飯も美味しいよ。宇佐美が水加減にちゃんと気を使ってくれたからだ」
「そ、そう? まあ、ここに来るまでにコツは調べておいたし、当然よ」
「明坂も、美味しいって思うだろ?」
黙々と食べている明坂に話を振ってみた。
「まあ、うまいな。もうちょっと辛い方が、俺好みではあるけど」
本当に余計な一言が多い奴だ。
俺たちの周りには、和気あいあいと盛り上がっているグループが多かった。それに比べてここは落ち着いているけれど、このメンバーで良かったと思う。今だけは、ここに春希がいればとは、考えないようにした。