土曜日が終わり、日曜日が明けて、平日最初の月曜日。バスに揺られながら、通学カバンに付けたストラップを指先で無意味につつく。天音からもらって、なんとなく気に入ってしまったこれが、新たな騒動の引き金にはならないで欲しいと心から願う。
 一昨日はなるべく忘れると言ったけれど、昨日は部屋に置いてあった漫画を読みながら、頭の中では天音のことを考えていた。家庭に何か問題があるというのは、おそらく誰の目から見ても明らかで、それを知ってしまったからこそ、学校では何も不安に思うことなく笑っていて欲しかった。
 昇降口で靴を履き替えていると「はよ」と、突然挨拶される。春希に挨拶をしてくる奴なんて、この学校では天音ぐらいだが、彼女は面倒くさがって言葉を省略したりはしない。
 振り返ってみると、そこに突っ立っていたのは驚いたことに宇佐美だった。不意に、土曜の夜に見た春希の夢を思い出す。とても信じがたい話だが、彼女とも昔、会ったことがあるらしい。
 そんな宇佐美から挨拶されたことに戸惑っていると、かつては純(じゅん)粋(すい)無(む)垢(く)だった彼女からは想像できないほど不機嫌な表情を浮かべた。
「何、もしかして根に持ってんの。私も、悪かったなって少しは思ってるんだけど」
「……いや、持ってないけど」
「いいね、工藤は。学校一の美人な才女とお付き合いできて」
 嫌みのように吐き捨てると、宇佐美も下駄箱を開けて上履きを取り出した。
「前から思ってたんだけど、なんでいつもそんなにカリカリしてんの?」
「カリカリなんてしてないし!」
 大声で言い返してきて、一瞬、昇降口に静(せい)寂(じゃく)が降りた。それから次第に、喧(けん)騒(そう)を取り戻していく。
「悪かったって。おはよ、宇佐美」
 遅れて挨拶をすると、これ見よがしに大きく舌打ちをして「死ね」と呪いの言葉を放ってくる。随分なご挨拶だと思ったが、会話ができているだけ以前よりはマシだ。
「あんたなんて、また橋本くんにバスケでボコボコにされればいいのに」
「もしかして、宇佐美ってあいつのこと好きなの?」
 体育の時間にも思ったことをストレートに聞いてみると、彼女の顔が突如として真っ赤に染まった。返答なんて、わざわざ聞かなくてもわかってしまうほどに。
「そんなこと、ここで聞いてくんな! それに、わざわざ聞かなくても知ってるでしょ!」
「知らねぇよ、そんなこと」
 言い返すと、躊躇うことなく足のすねを蹴られた。鈍い痛みが走って、思わずその場にしゃがみ込む。こらえきれずに、目じりに涙が溜まった。
「死ね! 死ね‼」
 いつもより二倍の死ねを浴びせてきた宇佐美は、逃げるように去っていった。いったい何なんだよと思いながら、確かにここで訊ねたのは良くなかったと反省する。蹴り飛ばしてくる方が、もっと悪いけれど。
「工藤、邪魔」
 しゃがみ込んだ状態のまま顔を上げると、いつの間にかテニスラケットを持った女の子が立っていた。「ごめん……」と謝罪して、すぐに場所を開ける。
「朝から真帆と喧嘩なんて、本当は仲良しなの?」
「あれで仲良しなわけないだろ」
「あっそ。まあ、天音と付き合ってんだし、今さらまた真帆にアプローチするはずないか」
 話し掛けてきたのは向こうなのに、興味なさそうに言って下駄箱を開けた。
「今さらって、どういう意味?」
「男に振られた傷心に付け込んで、真帆にアプローチしたって噂になってたじゃん」
「……そんなこと、するわけないだろ」
 以前、明坂も似たようなことを話していたのを思い出す。子どもの頃の宇佐美は純粋無垢な少女だったが、今は悪態を吐いて暴力を振るってくるような奴だ。慰めるようなことはあるかもしれないけど、春希が傷心に付け込むなんてことは、考えられない。
「まあ、私は半信半疑で聞いてたよ。工藤みたいな奴が、そんなことできるわけないと思ってたし」
「そう思ったなら、代わりに弁解してくれても良かったのに」
「嫌よ。私までいじめられるかもしれないし、別にあんたとも仲良くないし。まあ、いいじゃん。天音だけは、最後まであんたのこと悪く言わなかったんだから」
 ほんの少しだけど、彼女の浮かべる表情には後悔の色が滲んでいるような気がした。もしかすると、罪悪感を抱いているのかもしれない。それなら、反省の色を示す相手はまったくの見当違いだ。俺は、工藤春希じゃないんだから。
「あんたと付き合い始めてから、天音は前よりもっと明るくなったよ。だから、一応ありがとね。親友として礼は言っとく」
 初めて、薄くだけど笑顔を見せてきた。それが意外だったから、俺は言葉に詰まった。
目の前の彼女も宇佐美も、笑っていれば普通の女の子なのに。敵意を向けてこなければ、どこにでもいるような普通の人で、春希をいじめてしまったのも、きっと魔が差したんだろうなと思ってしまう。許してしまいそうになる。
俺は、どこまでいっても第三者でしかないから、そう考えてしまう。

教室へ行くと、いつもより空間がざわついていた
その理由を、俺は早々に理解した。今日は先に登校していた天音の長かった髪が、ショートに切り揃えられていたのだ。そんなことでと思うかもしれないが、長髪に見慣れてしまっていたから、椅子に向かっていた足が止まる程度には動揺した。
恐る恐る近付いて席に座ろうとすると、登校したことに気付いた彼女が振り返って「おはよ!」と元気良く挨拶してくる。瞬間、群がっていたクラスメイトの視線が集まった気がして、何もしていないのに後ろめたい気分になった。
「……おはよ。髪、切ったんだ」
 前髪を切ったのを気付かなかったことに激(げっ)昂(こう)されたのを思い出し、とりあえず無難な反応を示しておく。今日の天音は、前髪を切ったというスケールの話ではなくなっているけど。
「うん、気分転換で。どう? 似合ってる?」
 似合っている、とは思ったけれど、やっぱり驚きの方が勝った。
「ちょっと若返ったんじゃない? 似合ってるよ」
「若返ったって、それ老け込んでたってこと?」
「だから、揚げ足取るのやめろって」
 昨日のテンションで話すと、また少しだけ周りがざわついた。めっちゃ仲良しじゃんという言葉が、どこかから漏れ聞こえた。
「あ、それ」
 テニスラケットの女の子が、目ざとく俺のカバンについているストラップを指差した。策士の天音は、周りに見せつけるために購入したそれを、さも恥ずかしそうに手のひらで隠して「わ、ばれちゃった?」と、乙女みたいな反応を見せた。事情を知っているこちらとしては、白々しいことこの上ない。
「ちゃっかりデートしてるんじゃん。仲良しだね」
「風香とも、今度埋め合わせするから」
「別にいいよ。それで工藤に恨まれたら、たまったもんじゃないし」
「そんな小さいことで恨むわけないだろ」
 むしろ友達と遊んで天音が元気になるなら、勝手に持って行ってもらって構わない。
それからチャイムが鳴って、友人たちがはけていった。これでしばらくの間は、二人が別れたという噂話をクラスメイトはしなくなるんだろう。天音の読み通りにことが運んで、そんな都合良くいくとは思わないと考えていた俺は、なんとなくだけど悔しかった。

今日も体育の時間はチーム対抗でバスケの試合をする。待機中、明坂が「土曜日のデート、楽しかったか?」と訊ねてきた。
「そういうこと、気になるんだな」
「駅前で見かけたんだよ。どっかの野球チームの応援にでも行ったん?」
 思考のレベルがこの明坂と同じだということを知って、勝手に複雑な思いを抱いた。
 それから彼は何か言いたげな顔をしていたが、すぐに橋本率いるチームとの試合が始まったため、会話はそこで打ち切られた。
土曜日に天音から習ったことを思い出しながら試合に臨(のぞ)み、俺はそこそこの活躍を見せた。けれどもそれを良くは思わなかったのか、点を入れるたびに橋本の表情がけわしくなっていくことに気付いていた。
そして試合終了の三十秒前。もはや覆せないほどの点差が開いているというのに、俺は悪あがきをするみたいにチームメイトにパスを回し、明坂はそれに応えてくれた。何を必死になっているんだろうと思う。無意味なことに、むきになっている自覚はあった。
ただ、彼女が教えてくれたことを、無駄にしたくなかった。諦めたら、泥を塗ってしまうような気もした。だからブザーが鳴る五秒前に明坂からパスをもらい受けると、教わったことを思い出しながら、床を蹴って跳躍した。手のひらから放たれたボールは、試合終了の合図と共にリングを綺麗にくぐる。
そのことにホッとして、気が緩んだんだろう。後は着地するだけだったのに、最後の最後で足を捻って、無様にもその場に倒れ込んだ。
「春希くん‼」
 天音の、悲鳴にも似た絶叫が遠巻きに聞こえる。大げさだと思った。軽く足を捻っただけなんだから。すぐ立ち上がり、捻った右足を地面につく。その瞬間、激痛が走った。痛みをこらえるように歯を食いしばったのを、誰よりも先に駆け付けてくれた天音は見逃してはくれなかった。
「足、捻ったの……?」
「いや……」
 思わず、強がる。情けないところなんて、見せたくなかった。夢の中の本当の俺は、春希を引っ張って行けるほど強い男の子だったから。
 歩き出そうとすると、膝が震えた。右足首に再度痛みが走って、思わずよろめく。それを天音が支えてくれた時、橋本と目が合った。冷めた目を、向けられていた。
 体育の担当教員が遅れてこちらへとやってくる。
「大丈夫か、工藤。保健室行くか?」
「いや、大丈夫です……」
「大丈夫じゃないでしょ! 絶対よろけてたじゃん!」
「そうなのか?」
 なんとなく、バツが悪かった。天音は本気で俺のことを心配してくれていて、変に強がったから、余計に過保護になった気がする。本当に、情けなかった。
「私、春希くんのこと保健室まで連れて行きます」
「高槻は保健委員じゃないだろ。工藤を理由にサボろうとするな。保健委員は宇佐美だったな」
「保健委員の前に、私は彼の恋人ですから! 連れて行く義務があります!」
「恋人の前に、ここは学校だ! 余計にダメに決まってるだろ!」
 やっぱり、彼女は優しいけれど馬鹿だ。もっと他に、言い方があっただろうに。論破されて、唇を引き結んで、納得できないのか複雑そうな表情を浮かべる。そんな彼女がおかしくて、思わず苦笑した。
 先生に呼ばれてやってきた宇佐美は、心底嫌そうに顔を歪めてくる。けれども保健委員の仕事をまっとうしてくれるようで、天音の代わりに肩を持ってくれた。
「なんでまた私が連れてかなきゃいけないのよ」
「ごめんって」
 愚痴を言われつつも、その体にはしっかりと力が入っていた。安心して、宇佐美に体を預ける。
そして体育の授業が再開されると共に、彼女に保健室へと連れて行かれた。

 保健室の扉を宇佐美はノックしたが、中から返事はなかった。出払っているのだろうか。考えていると、彼女は躊(ちゅう)躇(ちょ)なく扉を開けた。
「誰もいないわね」
「待ってたら来るだろうし、宇佐美は戻っててもいいよ」
「なんで工藤なんかに指図されなきゃいけないのよ」
 言いながら、保健室の中へと入っていく。俺は、養護教諭が使っている高そうな椅子に座らせてもらった。一息ついていると、宇佐美はどこに何があるのか把握しているのか、棚を開けて湿布や包帯を取り出した。
「勝手に開けたらダメだろ」
「馬鹿ね。怪我ってのは、応急手当が大事なのよ。先生が帰ってくるの待ってたら、回復が遅くなるわよ」
「もしかして、やってくれるの?」
「一応、保健委員だからね」
 保健委員にそこまでの仕事は求められていないと思ったが、素直に宇佐美の厚(こう)意(い)に甘えることにした。歩くだけで痛みが走るし、何よりこういうのは彼女の方が得意そうだ。
 必要なものを揃えると、目の前に膝をついた。靴と、靴下を脱いだけれど、なんだか途端に申し訳なさと恥じらいが押し寄せてくる。
「やっぱりいいよ。素足触らなきゃいけないし、体育の後だからくさいだろうし」
「うっさいわね! 気が散るから黙れ!」
思わず口をつぐむ。すると躊躇うことなく俺の足に手を当て、触診を始めた。痛む場所を教えると、慣れた手つきで湿布を貼ってくれる。湿布のひんやりとした感触が、じんじんと痛む患部に染み渡っていく。取れたりしないように、包帯も巻いてくれた。
「……ありがと。慣れてるんだね」
「いつも怪我した時、ママがやってくれてたから」
「へぇ、そうなんだ。ママが」
 手当てで出たゴミをまとめると、宇佐美は「よし」と満足げに呟いた。もう一度、「ありがとう」とお礼を言う。すると、どこか照れくさそうに頬を掻いて、そそくさと備品を棚に戻し始めた。
「……運動、得意じゃないんだしさ。なんであんなに無理したのよ」
「ちょっとだけ、頑張りたかったんだよ。格好悪いよな。結局、怪我しちゃったし」
「まあ、それは別にいいんじゃない。ちょっとだけど、格好良かったし」
 そんな風に俺のことを評してくれたのが、少し意外だった。顔を合わせれば、悪態を吐かれる毎日だったのに。だからいつの間にか少しだけ心が近付いたんじゃないかと思って、思い切って宇佐美に訊ねていた。
「宇佐美って、なんで俺のこと嫌ってんの?」
「……あんた、知ってるでしょ。前に私が橋本くんに告白したのを見てたんだから」
 俺にそんな記憶はないから、春希がその場面に出くわしたのかもしれない。
天音の話していた橋本に告白した女の子というのは、宇佐美のことだったんだろう。その現場を、タイミング悪くも春希が見てしまっていた。
振られた傷心に付け込んだというのは、どうにも俺の知っている春希からは想像ができなかった。もしかすると、慰めたりでもしたんだろうか。それなら、ありえる話だと思った。おそらくこの誤解は、解いておいた方がいい。
「ごめん。もうわかってたら聞き流して欲しいんだけど、俺、別に宇佐美にアプローチなんてしてないからな。そんな気、まったくなかったし」
「そんなこと……今さらあんたに言われなくても最初からわかってるわよ……」
 先ほどまでは威勢が良かったのに、なぜかだんだんと声がしぼんでいった。何か思うことでもあるんだろうか。目を合わせてはくれなかった。だから勝手に納得してくれたものだと判断して、立ち上がる。
「そろそろ行くか」
「……そうね」
 歩き出す時、宇佐美は少しだけこちらを気遣うようなそぶりを見せた。けれども手を貸してもらう必要はなさそうだ。ここに来た時よりも、ずいぶん痛みが引いたから。
これは、宇佐美のおかげだ。それだけは、確かだった。