気付けば、時計の短針が五の数字を回っている。動揺していると時間の感覚を失ってしまうようで、あれから彼女と何を話したのかも忘れてしまっていた。そもそも俺は、なぜ動揺しているのか。その理由すらも、よくわかっていなかった。
 天音の好きな人が、春希だと聞かされただけなのに。
「……杉浦くん?」
 確認するような、うかがう声。テーブルに落としていた視線を上げると、俺を心配する顔がそこにはあった。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
 なんだか、頭が気怠い。半日運動をしたからだろうか。天音と何か大事な話をした気がするが、それがぽっかり頭の中から抜け落ちているような感覚があった。
「ちょっと、疲れたのかも。さっきから生返事してたなら、ごめん……」
「それは別に、いいんだけど……」
 それから少しの間を置いて。
「たくさん運動して、疲れちゃった?」
「楽しかったけど、疲れたよ」
 もしかすると、そろそろ天音の家族が帰ってくるのだろうか。体が重いけど、早めに退散しなければ鉢合わせそうだ。
「ごめん、もっと早く帰るつもりだったのに。長居しちゃって」
「それは別にいいけど……送ってこうか?」
「いいよ。歩いた方が、頭が冴(さ)えそうだから」
 なんとなく、一人になりたかった。
 キッチンに置いた皿を洗って帰ると言ったら、「気にしなくていいから」と止められる。お礼を言って、手伝いはせずに今日は帰らせてもらうことにした。
玄関へ行っても、不安げな瞳をたずさえた天音が、しきりに顔を確認してきた。俺は、作った笑顔を浮かべる。
「大丈夫だって」
「やっぱり、途中まで送る」
「家族が帰ってくる前に、片付けときなって」
 その瞬間だった。俺が鍵を開けて出て行くはずだった扉が、前触れもなく開いた。夕焼けが隙間から差し込み、天音が眩しさで顔を伏せた。
「天音くん」
 驚きの色が含んだ、大人の男性の声。
よそよそしい言い方だったから、父親ではないんだろうと咄嗟に思った。けれども俺を見ると「今日は、娘と遊んでくれてたんだね」と、優し気な声で言った。
 あらためて突然の来訪者を見やるが、あまり天音には似ていなかった。気弱そうな、スーツ姿の男性。この人が、父親。高槻家の複雑な家庭の事情という言葉が頭をリフレインしたけど、この人に何か問題があるようには見えなかった。
 むしろ、普通に優しそうで……
「君は……」
 こちらを見て、天音の父はなぜか薄らと反応を示す。首を傾げると、今まで黙っていた天音に背中を押された。
「体調、悪いんでしょ?」
「え? あぁ、うん……」
「それじゃあ、帰らなきゃ」
 有無を言わせぬ気迫があった。なんとなく、ここに居合わせるわけにはいかなかったんだと、察した。
「もしかして、天音くんの恋人かな?」
 彼女の押す手が、ほんの少しだけ弱まったのを感じる。聞かれたことに返事はしなきゃと思って「そうです」と、短く肯定した。すると安心するように頬を緩ませて「そうか。気難しい娘だけど、よろしく頼むよ」と、お願いされた。
 押される形で玄関を出る時、天音は後ろを振り返らずに「後で、ちょっと聞きたいことがあるので、いいですか……?」と、父親であるはずの人間にあらたまった口調で話した。正直、何が起きているのかさっぱりわからなかった。
「天音くんが。珍しいね。それなら芳(よし)子(こ)さんたちが帰ってくる前に、リビングで話そう」
 対する父親は、どことなく話し掛けられて嬉しそうだった。最後に軽く会釈をすると、玄関のドアは閉められた。それからしばらく彼女の手に引かれながら歩き、公園のそばで急に立ち止まった。
 天音の肩が、震えていることに気付く。
「大丈夫、聞かないよ」
安心させるようにその肩に手を置くと、いつの間にか荒くなっていた呼吸も、徐々に落ち着いていった。
「……ごめん、取り乱して」
「なんというか、上手いこと言えないけど、そういう日もあると思う」
 苦し紛れの慰めの言葉を口にすると、天音は薄く笑った。
「君が理解ある恋人で、本当に良かったよ」
「仮だけどね。今見たことは、なるべく忘れる。その方が、いいんでしょ?」
 訊ねると、天音は控えめに頷いた。
「結構、複雑なの。もし話したら、今までみたいに普通に話せなくなるし、君にも余計な心配を掛けちゃうから……」
「俺は気にしないよ。でも、天音が話したくなった時はいつでも聞くから」
 彼女を安心させられそうな言葉だけを選んで伝えた。それが正しいことなのかはわからなかったけれど、落ち着いてくれたのは確かだった。
「帰って、お皿洗わなきゃ。あの人とも、ちょっと話すことがあるし」
 あの人、という他人行儀な言葉に反応を示してはいけない。訊ねれば、天音は困ってしまう。それぐらいのデリカシーは、身につけていた。
 けれども、一つだけ。
「虐待とかは、されてないよな?」
 訊ねた自分の言葉の端に、小さな怒りを滲ませてしまった。もし彼女が複雑だと言った家庭環境の中に、暴力的な事案が含まれているのだとしたら、鈍感な彼氏を装って見て見ぬふりを続けることはできそうにない。
 実家というのは、一番に心が落ち着く場所であるべきだから。
 しかしそんな想像はまったくの杞(き)憂(ゆう)だったようで、余裕を取り戻した彼女は、息を吐くように小さく笑みをこぼした。
「あの人が、私のことを殴ってくるような度胸のある人に見えた?」
「わからないだろ。酒を飲んで、性格が豹(ひょう)変(へん)するかもしれないし」
「杉浦くんが想像してるようなことは、何もないよ。信じられないなら、確かめてみる?」
「どうやって」
「そんなこと、女の子の私に言わせないでよ」
 どうやら、もう冗談も話すことができるらしい。最悪の想像が杞憂だったことにほっとする。
「別に、あの人のことが特別嫌いってわけでもないからね」
「無理に話さなくていいよ。それ以上話してくれるんだったら、口が滑ることを期待しちゃうから」
「優しいんだね。でも私の言葉で勘違いしちゃったら、あの人がかわいそうだから」
 彼女にはこれまでもいろいろあったはずで、心中は穏やかじゃないのに相手のことを慮(おもんばか)れるのは、それこそ優しい奴だと思った。
「帰るよ。今日は、ありがと」
 手を上げた時、ふと思い出して、天音のいつもの癖を真似た。手のひらを開いて閉じると、嬉しそうに同じことを繰り返して、不覚にもかわいいなと思ってしまう。
背を向けて歩き出そうとしたところで、「そういえば」と引き止めてきた。
「そろそろ修学旅行の自由プランの班分けをするんだよ。覚えてる?」
「あーそうだったね」
「予約しておくけど、ちゃんと一緒の班になろうね」
「予約しなきゃ席を取れないほど、人望はないと思うんだけど」
 むしろ予約をしなければいけないのはこちらの方だ。
「そんなことないよ。最近、風香とかが前より明るくなった気がするって言ってたし」
「前より明るくなったからって、わざわざ俺を誘ったりしないだろ」
「それもそっか」
 あっけらかんと言う。
「他のメンバーはどうするの? そのテニスラケットの子も誘うの?」
「何? テニスラケットって」
「だってあの子、テニス部でしょ」
「名前で呼べばいいじゃん」
「別に仲良くもないし。ネームプレート付けてないから、名字も知らない」
「私、同い年の人は名前で呼ぶことにしてるよ。その方が、距離が近くなるし。それに、クラスメイトはみんな友達でしょ?」
「そういうのができるのは天音みたいな女の子だけで、男がやったら気持ち悪がられるんだよ。というより、俺のことは名前で呼んでないだろ」
「それって、今まで呼んで欲しかったってこと?」
 変な返し方をされて、思わず言葉に詰まる。どう呼ぼうと勝手だけれど、揚げ足取りの彼女のことだから、また変な捉え方をしてからかってくるのが容易に想像できた。
 案の定、口元を思いっきり歪ませて、いたずらっぽく微笑んでくる。
「なんだ、かわいいところあるんだね!」
「もう帰るわ」
 また話が長くなることは、これまでの経験で嫌というほど身に染みている。だからこういう時は、無視をするに限る。踵(きびす)を返して歩き出すと「本当に帰るの⁉」と、元気な声が飛んできた。この調子なら、父親と話す時にお通(つ)夜(や)みたいな空気にはならないだろう。
 自宅に帰って、今日のデートのことを父親から訊ねられ、当たり障りのない言葉を返した。楽しかったよという感想だけは、ちゃんと伝えた。そう、俺はなんだかんだ楽しかったんだ。
夜眠る前、机の上のスマホが振動した。どうせ天音だろうと思って確認すると、案の定『あまねぇ』というふざけ倒したような名前からメッセージが届いている。
《今日はありがと。楽しかったよ》
 こちらも素直に「楽しかったよ」と返信した。 
運動をして疲れたおかげで、今日はぐっすりと眠れそうだった。

* * * *