天音によるバスケの指導は時間ギリギリまで続けられた。他のスポーツを楽しむ余裕もなくなってしまい、時間を使ってしまったことを謝ると「気にしないで」と微笑んだ。これはこれで楽しかったようで、満足はしているみたいだ。まだ少しだけ打ち足りないとぼやいていたけれど。
それから受付でリストバンドを返した。そのまま施設を出るのかと思いきや、彼女は出口ではなく物販コーナーの方へと吸い寄せられていく。着いていくと、ストラップが売っているコーナーの前で立ち止まった。
「これ、お揃(そろ)いで買おうよ」
迷いなく手を伸ばして取ったのは、ボーリングのピンの形をしたストラップだった。
「なんで、ボーリングしてないのに」
「だって、野球のバットとかバスケットボールの形だったら、部活動やってる人と被りそうでしょ?」
「別に被ってもいいんじゃない?」
特に考えもせず意見を言うと、信じられないといった風に口をぽかんと開けた。
「杉浦くんは女心をわかってません」
「本当に付き合ってるわけじゃないから、気にしなくてもいいと思うけど」
「うわー白けるなぁ。女心を勉強するチャンスなのに。そんなドライに振る舞ってたら、本当の彼女ができた時に長続きしないよ」
決してその言葉を真に受けたわけではないけれど、合わせておかなければへそを曲げるかもしれないと思って、仕方なく乗ってあげることした。きっとこれが、女心をわかってあげるということでもあるんだろう。
「わかったよ。じゃあそれで」
「じゃあ、って何?」
「君は案外、細かい奴だな」
オブラートに包まず言うと、彼女はなぜか声を出して笑った。なんだか気味が悪くなって、一歩距離を取る。
「え、どうしたの……?」
「いや、そんなストレートに言われたことなくって嬉しかったの。私って、実は細かい女の子なんだよね」
「みんなストレートに言わないのは、君がクラスの人気者だからだよ」
「うん、自覚ある。でもそういうの、ちょっと気にする時もあるんだよね。他の誰かに相談しても、贅沢な悩みだなって思われるのが関の山だから話したことなかったけど」
「それじゃあ、どうして俺に話したの?」
「杉浦くんは口が堅そうだから。悩んでることが、ぽろっと口からこぼれ落ちそうになるんだよね」
「悩みがあるなら、言ってくれてもいいのに」
ちょっとしたお悩み相談室なら、いつでも無料で開講できる。だけど彼女は、また笑顔でのらりくらりとかわしてきた。
「それじゃあ、杉浦くんが記憶を全部取り戻したら、その時は相談に乗ってもらおうかな」
とても遠回しな、今はまだ無理という意思表示。どうして話してくれないんだろうと、心の内側にモヤモヤしたものが溜まったが、勘違いも甚だしいのかもしれない。俺は、天音の本当の彼氏じゃないんだから。
「ストラップ、今はお金ないから代わりに買ってもらってもいい? 元の体に戻ったら、ちゃんと返すから」
不自然に話を転換させたが、天音は気にした様子もなく「返さなくてもいいよ。私って案外尽くすタイプなのかも」と冗談混じりに言った。彼女と関わる上で、詮索するという行為は最大のタブーなんだと、遅ればせながら理解する。
天音がそれを望むなら、お節介を焼こうとせずに鈍感な男でいよう。その方が、今みたいな不自然な空気にならずに済む。
お揃いのストラップを購入すると、さっそく「学校のカバンに付けようね!」と、はしゃぐように言った。
「嫌だよ。なんでそんな目立つようなことを率先してやらなきゃいけないんだ」
「見せつけるために買ったの! 私たちだけ楽しんでも、証拠がなかったらみんな信じないでしょ?」
そういえば、今日の目的をすっかり忘れていた。周りのクラスメイトが交際していることを疑い始めているから、こうやってデートをしているんだった。確かに、証拠がなければ信じてはくれないかもしれない。そんなに都合良くはいかないと思うけど。
「天音は案外頭が回るね」
「デートが楽しかったからって、当初の目的を忘れたりしたらだめだよ」
「そうだね。本当に、すっかり忘れてた」
正直に言うと、目を丸くした後、今日一番なんじゃないかというほどに、彼女がはにかんできた。
「忘れちゃうほど楽しかったんだ。そっか、良かった」
そのホッとした表情が、あまりにもかよわい少女のように映ったから、橋本が天音に固執する理由がなんとなくわかってしまった。彼も、そんな天音の姿を見たことがあったのかもしれない。
出口へ向かう時、彼女は「ありがとね」とお礼を言ってきた。鈍感なふりをして首を傾げたけれど、その感謝の意味はなんとなく理解できた。どうやら、聞かないでいることは正解だったらしい。
施設を出た後、ほんの少しだけ心が高揚していたことに気付いて、変な勘違いをする前に早く帰らなければとぼんやり思った。だからせめて恋人らしいことを最後にやろうと決めて「駅までは送ってくよ」と、隣で帽子を整えている天音に提案する。彼女は、不思議なものを見るようにこちらを凝視してきた。
「お昼は用意するからって、昨日言ったけど」
そんなことも、いつの間にか忘れてしまっていたらしい。
今日は休日だけど、家族は夜ご飯の後まで遊びに行って帰ってこないから。
頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに天音は話す。
それなら、俺に付き合わずに天音も遊びに行けば良かったのに。
そこはまあ、高槻家の複雑な家庭の事情があるから。察して欲しいな。いつも迷惑を掛けちゃってるから、今日はお昼ご飯も御(ご)馳(ち)走(そう)してあげる。
そんな提案をすることに、おそらく彼女も相当の勇気が必要だったはずだ。もし断られたりしたら恥ずかしいどころの騒ぎではないし、ようやく自分で口にした『家庭の事情』とやらも抱えているはずだから。
一番見られたくない場所にわざわざ俺を招待したのは、きっと彼女なりの深い理由があるんだろう。もちろん断ることもできたし、断る権利もあったけど、天音が傷付いてしまうのはわかりきっていたから、頷く以外の選択肢がなかった。
高槻家の玄関の鍵を開ける時、逡巡するように少しの間、固まっていた。決意がまとまるのを待つと、自分の家だというのに恐る恐るといった風に、緩(かん)慢(まん)な動作で開錠する。
「どうぞ。今、スリッパ出すから」
中は薄暗かった。本当に家族はいないようで、天音は近くにあったスイッチを押して廊下を明るくする。リビングに案内されると、彼女の匂いが濃くなったような気がして、不自然に鼓動が速まった。
「そこの椅子、どこでもいいから座ってて。すぐに用意するから。杉浦くん、食べられないものとかないよね?」
「あ、うん……」
言われた通り椅子に座る。キッチンは部屋を見渡せる開放的な造りになっていて、食事の用意をしている天音の姿もばっちり視認できる。全体的に綺麗に片付いていて、椅子はちゃんと四つあって、家庭の問題なんてどこにもないんじゃないかというほどに整然としていた。整いすぎていて、不気味に思えてしまうくらいに。
「料理してる間、暇だから何か話してようよ」
キッチンから天音の声が飛んでくる。なぜか、背筋を正した。
「よそ見できるぐらい、料理の腕は上手いの?」
「まあね。必要な時は自分で料理してるから。今日みたいに家族が出かけてる時とか」
「そうなんだ」
「今日みたいな日、基本的に私は一緒に行かないから。別に杉浦くんを優先したわけじゃないし、気に病まなくてもいいからね」
玉ねぎを荒く刻む音が、リビングに寂しく響く。不意に天音が一人で料理を作っている姿を想像してしまって、心がきゅっと縮まったような気がした。いつも教室でみんなに囲まれている姿ばかりを見ているから、かもしれない。
「こういう時ってさ」
「んー?」
「逆に、何話したらいいかわからなくなるよね。いつも天音とは教室で話してるのに」
本当のデートでこんな沈黙が起きたら、相手に好印象は持たれないんだろう。
「実は私も、基本的には聞き手に回ることが多いから、相手がどんどん話してくれないと、間が持たないタイプなんだよ」
「それはちょっと意外だな」
とは言いつつも、天音は基本的に自分のことをあまり話したがらないから、その自己評価は正しいのかもしれない。彼女はいつも、相手の話を引き出すのが上手いんだ。
「実は昨夜、杉浦くんと会話が続くか不安だったの」
「君に限って、そんな乙女みたいな悩みを抱えないだろ。今朝、ちゃんと眠れたって話してたじゃん」
「ちゃんと眠れたのは本当。でも、不安は不安だったよ。朝、一番初めの会話は何にしようとか」
「そうやって悩んだ結果が、あれだったんだ」
「会話は繋がったでしょ? まあ、杉浦くんが気付かなかったこともあるんだけど」
おそらくハンバーグを作っている天音は、言いながら一生懸命タネをこねていた。
「手伝おうか?」
「いいよ、今日は全部私がやるから。それより、昨日の私とは違うところを探してみてよ」
「そんなこと言われても、いつもまじまじと見てるわけじゃないからな」
彼女の機嫌を取るため、仕方なく観察してみる。ハンバーグのタネをこね終わったのか、一度水道水で手を洗う天音の頬は、なぜかいつもより紅(こう)潮(ちょう)していた。
「さっきメイク直したの? 顔が赤いけど」
「君がじろじろ見てくるからだよ!」
探してよと言ったのはそっちなのに、憤慨してため息を吐きながら濡れた手をタオルで拭く。それから指先で、乱れてしまった前髪を整え始めた。そういえば、今日は何度か帽子と一緒に前髪も整えていたような気がする。
「そんなに前髪が鬱陶しいなら、切ればいいのに」
何かこだわりがあるのかと思って触れずにいたことを言葉にしたら、口をぽかんと開けて、次の瞬間にきりりと眉を内側に寄せた。
「切ったの! 昨日の夜!」
「あぁ、そうなんだ……」
「君はたぶんモテないね」
きっぱり言われてしまうと、本当にそうなんじゃないかと思ってしまう。モテるかどうかはわからないけど、これからは意識的に気を付けることを心に誓い、帽子をかぶってたから気付くわけないだろという言い訳は、喉の奥へと飲み込んだ。
「今、細かい女だって思ったでしょ」
「そこまで酷いことは考えてない」
「それ以下のことは考えてたんだ」
人の揚げ足を取ってくるのは、細かいというよりも面倒くさい。これも、ため息を吐くことでやりすごして言葉にはしなかった。
「大変だね。これから天音と付き合うことになるかもしれない男の人は」
「それは暗に、私のこと面倒くさい女だなって言ってるのと同じだよ」
そうやって再び揚げ足を取ってくると、途端にハッとした表情を浮かべた。
「こういうこと言うから、細かくて面倒くさいって思われるのか……」
「別にクラスメイトからそんな風に評されてるわけじゃないんだから、いいんじゃない?」
「……そう?」
機嫌の上がり下がりの激しい彼女は、心を落ち着かせるためか長く息を吐いた。おそらく自分に対して不器用なんだろう。
それからハンバーグを焼いている間、再び沈黙が降りてきた。香ばしい肉の焼ける匂いをかぐのに集中していても良かったが、ふと思い出して相談事を投げ掛ける。
「近いうちに、病院に行ってみようと思うんだ」
「病人でもない人が、そんなに都合良く散策できるかな」
「黙ってたら少しはウロウロできると思って」
焼き上がったハンバーグをお皿に移し替える天音が、初めよりもどこか他人事のように話を聞いている気がするのが、なぜか引っかかった。
結局のところ、天音にとっては他人事でしかないけど。それに手がかりが何も見つからないんだから、仕方がないと言えば仕方がない。
「本当は私も行ってあげたいんだけど、実はあの病院で知人が働いてるの。だから私が行ったら目立つだろうし、迷惑掛けたらその人に悪いかなと思って。ごめんね」
「いや、いいよ」
身勝手にも一方的に寂しさを感じていると、ご飯をよそいながら理由を説明してくれた。その心遣いだけで、十分だった。
「わかったことがあったら、すぐに教えてね。私なりのペースで考えてるから。申し訳ないことに、時間が解決するのを待つしかないかなって思い始めてるんだけど」
「気に掛けてくれるだけで嬉しいよ」
キッチンから運んできたお皿の上にはハンバーグと、いつの間に作ったのかポテトサラダが載っていた。ご飯とお味(み)噌(そ)汁(しる)も二人分よそってくれて、向かい合ってテーブルに座る。拙い感想だけど、彼女の作った料理はとても美味しそうだ。
「ほら、食べなよ」
急かすように言う彼女は、箸を置いたまま食べようとはしない。どうやら先に感想が欲しいようで、お腹が空いているだろうから「いただきます」と言って、遠慮なくハンバーグを一口頂くことにした。口に入れて、咀(そ)嚼(しゃく)して、飲み込む。
「どう?」
「驚いた」
「それだけ?」
「いや、想像していたよりも、ずっと美味しくて。肉汁が内側から溢れてくるね。家庭料理でも、こんな風に作れるんだ」
「それは粉ゼラチンを混ぜてるからだよ。よくわかんないけど、保水してくれるんだって。ネットに書いてあったの。あと、牛乳の代わりに豆乳を入れてるから、ちょっと健康的なの」
先ほどまでと比べて、わかりやすいほど饒(じょう)舌(ぜつ)に話してくる。初めて料理を褒めてもらった子どものような無邪気さだった。
「料理、上手なんだね。意外だった」
「上手、なのかな。でも、ずっと練習はしてるの。だけど友達はおろか家族の誰にも食べさせたことないから、わかんないや」
珍しく控えめなその言葉の裏には、確かに自信のなさがうかがえる。いつもの彼女だったら、意外って馬鹿にしてるでしょと、揚げ足を取ってくるところだ。耳に入らないほどに感想が気になっていたらしい。
しかしこれは、おそらく誰に食べさせても美味しいと言われる出来だろう。
「そんな恐る恐る訊ねずに、自信持っていいと思うよ」
「持てたらいいんだけどね。今まで自分のために作ってたから、私の好みの味付けがみんなの好みとは違わないかなって、ちょっと不安で。まあこれからも、誰かのために作ることはないんだけど。とりあえず、杉浦くんのお口に合って良かったよ」
ホッとしたように言ってから、ようやく遅れて料理に箸を付けた。なんだか今日の彼女は、どこか遠慮がちで、自身なさげで、ほんの少しだけよそよそしく見える。この家に入ってから、隠れていた弱さが露(ろ)呈(てい)したような、そんな感じだ。
「こんな美味しい料理だったら、毎日食べたいくらいだよ」
「そう言ってもらえるのが嬉しいことなんだって、今日初めて知った。お世辞でも、ありがとね」
決してお世辞なんかじゃなかったけど、それを言ってしまえば今の言葉が愛の告白に捉えられてしまうような気がして、訂正はしなかった。
最後の一口まで味わい「ごちそうさま」と伝える。すると彼女は動かしていた箸を止めて、空になった茶(ちゃ)碗(わん)の上へと置いた。
そのあらたまった所作に、何か大切な話を切り出されるんだという予感を覚えた。
「もし大事な話があるんだったら、食べ終わってからにしなよ。せっかくの美味しい料理が、終わった頃には冷めるかも」
「杉浦くんは、案外鋭いね」
「君ほどじゃないよ」
俺が春希じゃないと気付けたのは、天音だけだったから。
それからしばらく、お皿の上の料理がなくなるまで、これからのことを考えていた。
目下の不安は、修学旅行の日までに春希に戻らなければ、俺が参加しなければいけないということだ。旅行へ行くぐらいなら、この場所で少しでも手がかりを探していたい。けれどそれは、同じ修学旅行のクラス委員をしている天音に迷惑を掛けるということだから、自分の目的を優先させるわけにもいかない。
思案していると、天音は手を合わせて「ごちそうさまでした」と、食事終了の言葉を口にした。
「ところで、麦茶飲む?」
「長くなるならお願いするよ」
一旦落ち着かせるための小休憩を挟んだから、先ほどよりも緊張感のようなものは取り払われていた。けれど麦茶を持ってきて再び向かい合った時、思い出したように背筋を正してくる。
茶化したりせずに、俺も話を聞く体勢を取った。
「話してなかったんだけどさ」
「うん」
「今、恋人のふりをしてるのは、私の個人的な都合のためでもあるの」
「それはもしかして、橋本のこととか?」
言いづらそうにしていたから核心を突いてみると、当たったのかぎこちなく笑った。
「やっぱり、気付いてたんだ」
「気付いてたというか、今予想した。天音に都合の良いことがあるとすれば、仮の彼氏を作ってそういう目で見られないようにすることぐらいだったから」
「そういう目で見られないようにというか、もっと単純に言うと彼に諦めて欲しかったんだよね。私に恋人ができたら、また前みたいに普通の友達に戻れるかもって思ったから」
「願望を否定するようで申し訳ないけど、無理だと思うよ。橋本はたぶん、さっさと別れろと思ってる」
「うん。だから、迷惑掛けてごめんねってこと」
手持ち無沙汰になったのか、居心地が悪くなってしまったのか。天音は無意味に机の上で指先をいじり始めた。しかしすぐ後に、意を決したのかお祈りをするように両手を握り合わせる。
「昨日のバスケの試合を見てたら、さすがに申し訳なくなったの。だから、私から始めておいて、とても勝手なのはわかってるけど、君が続けたくないって言うなら、それに従おうと思う。またいじめられたりしないように、私も頑張るから」
「頑張るって、何を?」
「たとえば春希くんのいいところを、みんなにわかってもらう、とか」
肝心な時に、いつもの行き当たりばったりが出てきて苦笑する。なんだか久しぶりに思えて、懐かしさすら感じた。
「いいよ、別にこのままで。今の君にはいろいろ思うところがあるのかもしれないけど、一番最初は、いじめを見て見ぬふりしてるのが嫌で始めたんだろ? それがたまたま、天音の方にも益があったってだけなんだから。利害関係が一致したって考えればいいじゃん」
「なんで。昨日は、もうやめたいって言ってなかった?」
「言ったっけ、そんなこと。まあいいや。君にバスケを教えてもらったし、次に試合をする時は、そこまで一方的にやられないよ。もしそんな情けないことを本当に話してたなら、たぶんいけ好かないあいつにむしゃくしゃしたんだ。たぶん、きっと、それだ。忘れてよ。男として恥ずかしいから」
我ながら、苦しい言い訳を並べたと思う。けれど、ここまで必死に彼女のことを擁護して、この関係を繋ぎ止めようとしているということは、やっぱり俺も今のままがいいと心のどこかで考えているんだろう。だから今だけは自分に嘘を吐かないでいようと決めた。
「それにさ、中途半端にやめるなら、なんでストラップ買ったんだよ。俺、家に帰ったらさっそく付けるつもりだったんだけど。俺だけ楽しみにしてたの? 馬鹿みたいじゃん。初めて君からもらったものだから、嬉しかったのに」
つい、言わなくてもいいことまで口走ってしまったことに、気付く。まくしたてるように言ったから聞き逃してくれても良かったのに、耳ざとく細かい彼女は、ちゃんと言葉尻までを捕らえていた。驚いたように目を見開いたのが、何よりの証拠だった。
「……嬉しかったの?」
「いや、そんなこと言ったっけ……」
「言った、絶対言った。嫌そうだったのに、ほんとは嬉しかったんだ」
「だから、人の揚げ足ばかり取るのやめろよ。細かいんだよ、天音は」
「それじゃあ、このままでもいいの?」
期待のこもった綺麗な眼差しで見つめられて、首を横に振れる人なんているのだろうか。少なくとも俺には、無理だった。
「……いいよ。元に戻るまでの間だけど」
「やった!」
先ほどまで握り合わせていた両手でガッツポーズをしてくる。子どもかよ。
最後はなんだか言わされたような気がして、どことなく腑(ふ)に落ちない。天音のことだから、最初からこうなることを予想していたんじゃないかと疑ってしまう。けれど、さすがにそこまで都合の良いことはないだろう。
「好きな人ができたらちゃんと言えよ。その時は、一方的にこの関係も解消するから」
「好きな人ができたらって、私こう見えて好きな人ちゃんといるよ?」
高揚したテンションがそうさせたのか、彼女は珍しく自分のことを話した。しかもその内容は、俺がまったく予想もしていなかったもので。
自分が動揺しているのがわかった。その理由までは、よくわからなかった。
「……そうなの?」
「まあね。私も、こう見えてちゃんとした感性持ってるし、何より華の女子高生だから。でも安心してよ。今すぐどうにかできるような話でもないから」
「……その相手って、一応聞いてもいいの?」
完璧な天音が、好きになった相手。純粋に、興味があった。わざわざ仮の恋人を立てるんだから、そういうことには疎いんだろうと勝手に想像してた。
意中の相手がいるなら、こんなことをしていていいのだろうか。
「杉浦くんは、口が堅いから」
あらためて確認するように言った天音は、今日は二人だけの空間だというのに、囁(ささや)くようにその名前を言葉にした。
「私の好きな人は、工藤春希くんなんだよ」
恥じらいながら口にしたその名前を聞いて、今すぐにどうにかできる話じゃないという言葉の意味を理解した。
それから受付でリストバンドを返した。そのまま施設を出るのかと思いきや、彼女は出口ではなく物販コーナーの方へと吸い寄せられていく。着いていくと、ストラップが売っているコーナーの前で立ち止まった。
「これ、お揃(そろ)いで買おうよ」
迷いなく手を伸ばして取ったのは、ボーリングのピンの形をしたストラップだった。
「なんで、ボーリングしてないのに」
「だって、野球のバットとかバスケットボールの形だったら、部活動やってる人と被りそうでしょ?」
「別に被ってもいいんじゃない?」
特に考えもせず意見を言うと、信じられないといった風に口をぽかんと開けた。
「杉浦くんは女心をわかってません」
「本当に付き合ってるわけじゃないから、気にしなくてもいいと思うけど」
「うわー白けるなぁ。女心を勉強するチャンスなのに。そんなドライに振る舞ってたら、本当の彼女ができた時に長続きしないよ」
決してその言葉を真に受けたわけではないけれど、合わせておかなければへそを曲げるかもしれないと思って、仕方なく乗ってあげることした。きっとこれが、女心をわかってあげるということでもあるんだろう。
「わかったよ。じゃあそれで」
「じゃあ、って何?」
「君は案外、細かい奴だな」
オブラートに包まず言うと、彼女はなぜか声を出して笑った。なんだか気味が悪くなって、一歩距離を取る。
「え、どうしたの……?」
「いや、そんなストレートに言われたことなくって嬉しかったの。私って、実は細かい女の子なんだよね」
「みんなストレートに言わないのは、君がクラスの人気者だからだよ」
「うん、自覚ある。でもそういうの、ちょっと気にする時もあるんだよね。他の誰かに相談しても、贅沢な悩みだなって思われるのが関の山だから話したことなかったけど」
「それじゃあ、どうして俺に話したの?」
「杉浦くんは口が堅そうだから。悩んでることが、ぽろっと口からこぼれ落ちそうになるんだよね」
「悩みがあるなら、言ってくれてもいいのに」
ちょっとしたお悩み相談室なら、いつでも無料で開講できる。だけど彼女は、また笑顔でのらりくらりとかわしてきた。
「それじゃあ、杉浦くんが記憶を全部取り戻したら、その時は相談に乗ってもらおうかな」
とても遠回しな、今はまだ無理という意思表示。どうして話してくれないんだろうと、心の内側にモヤモヤしたものが溜まったが、勘違いも甚だしいのかもしれない。俺は、天音の本当の彼氏じゃないんだから。
「ストラップ、今はお金ないから代わりに買ってもらってもいい? 元の体に戻ったら、ちゃんと返すから」
不自然に話を転換させたが、天音は気にした様子もなく「返さなくてもいいよ。私って案外尽くすタイプなのかも」と冗談混じりに言った。彼女と関わる上で、詮索するという行為は最大のタブーなんだと、遅ればせながら理解する。
天音がそれを望むなら、お節介を焼こうとせずに鈍感な男でいよう。その方が、今みたいな不自然な空気にならずに済む。
お揃いのストラップを購入すると、さっそく「学校のカバンに付けようね!」と、はしゃぐように言った。
「嫌だよ。なんでそんな目立つようなことを率先してやらなきゃいけないんだ」
「見せつけるために買ったの! 私たちだけ楽しんでも、証拠がなかったらみんな信じないでしょ?」
そういえば、今日の目的をすっかり忘れていた。周りのクラスメイトが交際していることを疑い始めているから、こうやってデートをしているんだった。確かに、証拠がなければ信じてはくれないかもしれない。そんなに都合良くはいかないと思うけど。
「天音は案外頭が回るね」
「デートが楽しかったからって、当初の目的を忘れたりしたらだめだよ」
「そうだね。本当に、すっかり忘れてた」
正直に言うと、目を丸くした後、今日一番なんじゃないかというほどに、彼女がはにかんできた。
「忘れちゃうほど楽しかったんだ。そっか、良かった」
そのホッとした表情が、あまりにもかよわい少女のように映ったから、橋本が天音に固執する理由がなんとなくわかってしまった。彼も、そんな天音の姿を見たことがあったのかもしれない。
出口へ向かう時、彼女は「ありがとね」とお礼を言ってきた。鈍感なふりをして首を傾げたけれど、その感謝の意味はなんとなく理解できた。どうやら、聞かないでいることは正解だったらしい。
施設を出た後、ほんの少しだけ心が高揚していたことに気付いて、変な勘違いをする前に早く帰らなければとぼんやり思った。だからせめて恋人らしいことを最後にやろうと決めて「駅までは送ってくよ」と、隣で帽子を整えている天音に提案する。彼女は、不思議なものを見るようにこちらを凝視してきた。
「お昼は用意するからって、昨日言ったけど」
そんなことも、いつの間にか忘れてしまっていたらしい。
今日は休日だけど、家族は夜ご飯の後まで遊びに行って帰ってこないから。
頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに天音は話す。
それなら、俺に付き合わずに天音も遊びに行けば良かったのに。
そこはまあ、高槻家の複雑な家庭の事情があるから。察して欲しいな。いつも迷惑を掛けちゃってるから、今日はお昼ご飯も御(ご)馳(ち)走(そう)してあげる。
そんな提案をすることに、おそらく彼女も相当の勇気が必要だったはずだ。もし断られたりしたら恥ずかしいどころの騒ぎではないし、ようやく自分で口にした『家庭の事情』とやらも抱えているはずだから。
一番見られたくない場所にわざわざ俺を招待したのは、きっと彼女なりの深い理由があるんだろう。もちろん断ることもできたし、断る権利もあったけど、天音が傷付いてしまうのはわかりきっていたから、頷く以外の選択肢がなかった。
高槻家の玄関の鍵を開ける時、逡巡するように少しの間、固まっていた。決意がまとまるのを待つと、自分の家だというのに恐る恐るといった風に、緩(かん)慢(まん)な動作で開錠する。
「どうぞ。今、スリッパ出すから」
中は薄暗かった。本当に家族はいないようで、天音は近くにあったスイッチを押して廊下を明るくする。リビングに案内されると、彼女の匂いが濃くなったような気がして、不自然に鼓動が速まった。
「そこの椅子、どこでもいいから座ってて。すぐに用意するから。杉浦くん、食べられないものとかないよね?」
「あ、うん……」
言われた通り椅子に座る。キッチンは部屋を見渡せる開放的な造りになっていて、食事の用意をしている天音の姿もばっちり視認できる。全体的に綺麗に片付いていて、椅子はちゃんと四つあって、家庭の問題なんてどこにもないんじゃないかというほどに整然としていた。整いすぎていて、不気味に思えてしまうくらいに。
「料理してる間、暇だから何か話してようよ」
キッチンから天音の声が飛んでくる。なぜか、背筋を正した。
「よそ見できるぐらい、料理の腕は上手いの?」
「まあね。必要な時は自分で料理してるから。今日みたいに家族が出かけてる時とか」
「そうなんだ」
「今日みたいな日、基本的に私は一緒に行かないから。別に杉浦くんを優先したわけじゃないし、気に病まなくてもいいからね」
玉ねぎを荒く刻む音が、リビングに寂しく響く。不意に天音が一人で料理を作っている姿を想像してしまって、心がきゅっと縮まったような気がした。いつも教室でみんなに囲まれている姿ばかりを見ているから、かもしれない。
「こういう時ってさ」
「んー?」
「逆に、何話したらいいかわからなくなるよね。いつも天音とは教室で話してるのに」
本当のデートでこんな沈黙が起きたら、相手に好印象は持たれないんだろう。
「実は私も、基本的には聞き手に回ることが多いから、相手がどんどん話してくれないと、間が持たないタイプなんだよ」
「それはちょっと意外だな」
とは言いつつも、天音は基本的に自分のことをあまり話したがらないから、その自己評価は正しいのかもしれない。彼女はいつも、相手の話を引き出すのが上手いんだ。
「実は昨夜、杉浦くんと会話が続くか不安だったの」
「君に限って、そんな乙女みたいな悩みを抱えないだろ。今朝、ちゃんと眠れたって話してたじゃん」
「ちゃんと眠れたのは本当。でも、不安は不安だったよ。朝、一番初めの会話は何にしようとか」
「そうやって悩んだ結果が、あれだったんだ」
「会話は繋がったでしょ? まあ、杉浦くんが気付かなかったこともあるんだけど」
おそらくハンバーグを作っている天音は、言いながら一生懸命タネをこねていた。
「手伝おうか?」
「いいよ、今日は全部私がやるから。それより、昨日の私とは違うところを探してみてよ」
「そんなこと言われても、いつもまじまじと見てるわけじゃないからな」
彼女の機嫌を取るため、仕方なく観察してみる。ハンバーグのタネをこね終わったのか、一度水道水で手を洗う天音の頬は、なぜかいつもより紅(こう)潮(ちょう)していた。
「さっきメイク直したの? 顔が赤いけど」
「君がじろじろ見てくるからだよ!」
探してよと言ったのはそっちなのに、憤慨してため息を吐きながら濡れた手をタオルで拭く。それから指先で、乱れてしまった前髪を整え始めた。そういえば、今日は何度か帽子と一緒に前髪も整えていたような気がする。
「そんなに前髪が鬱陶しいなら、切ればいいのに」
何かこだわりがあるのかと思って触れずにいたことを言葉にしたら、口をぽかんと開けて、次の瞬間にきりりと眉を内側に寄せた。
「切ったの! 昨日の夜!」
「あぁ、そうなんだ……」
「君はたぶんモテないね」
きっぱり言われてしまうと、本当にそうなんじゃないかと思ってしまう。モテるかどうかはわからないけど、これからは意識的に気を付けることを心に誓い、帽子をかぶってたから気付くわけないだろという言い訳は、喉の奥へと飲み込んだ。
「今、細かい女だって思ったでしょ」
「そこまで酷いことは考えてない」
「それ以下のことは考えてたんだ」
人の揚げ足を取ってくるのは、細かいというよりも面倒くさい。これも、ため息を吐くことでやりすごして言葉にはしなかった。
「大変だね。これから天音と付き合うことになるかもしれない男の人は」
「それは暗に、私のこと面倒くさい女だなって言ってるのと同じだよ」
そうやって再び揚げ足を取ってくると、途端にハッとした表情を浮かべた。
「こういうこと言うから、細かくて面倒くさいって思われるのか……」
「別にクラスメイトからそんな風に評されてるわけじゃないんだから、いいんじゃない?」
「……そう?」
機嫌の上がり下がりの激しい彼女は、心を落ち着かせるためか長く息を吐いた。おそらく自分に対して不器用なんだろう。
それからハンバーグを焼いている間、再び沈黙が降りてきた。香ばしい肉の焼ける匂いをかぐのに集中していても良かったが、ふと思い出して相談事を投げ掛ける。
「近いうちに、病院に行ってみようと思うんだ」
「病人でもない人が、そんなに都合良く散策できるかな」
「黙ってたら少しはウロウロできると思って」
焼き上がったハンバーグをお皿に移し替える天音が、初めよりもどこか他人事のように話を聞いている気がするのが、なぜか引っかかった。
結局のところ、天音にとっては他人事でしかないけど。それに手がかりが何も見つからないんだから、仕方がないと言えば仕方がない。
「本当は私も行ってあげたいんだけど、実はあの病院で知人が働いてるの。だから私が行ったら目立つだろうし、迷惑掛けたらその人に悪いかなと思って。ごめんね」
「いや、いいよ」
身勝手にも一方的に寂しさを感じていると、ご飯をよそいながら理由を説明してくれた。その心遣いだけで、十分だった。
「わかったことがあったら、すぐに教えてね。私なりのペースで考えてるから。申し訳ないことに、時間が解決するのを待つしかないかなって思い始めてるんだけど」
「気に掛けてくれるだけで嬉しいよ」
キッチンから運んできたお皿の上にはハンバーグと、いつの間に作ったのかポテトサラダが載っていた。ご飯とお味(み)噌(そ)汁(しる)も二人分よそってくれて、向かい合ってテーブルに座る。拙い感想だけど、彼女の作った料理はとても美味しそうだ。
「ほら、食べなよ」
急かすように言う彼女は、箸を置いたまま食べようとはしない。どうやら先に感想が欲しいようで、お腹が空いているだろうから「いただきます」と言って、遠慮なくハンバーグを一口頂くことにした。口に入れて、咀(そ)嚼(しゃく)して、飲み込む。
「どう?」
「驚いた」
「それだけ?」
「いや、想像していたよりも、ずっと美味しくて。肉汁が内側から溢れてくるね。家庭料理でも、こんな風に作れるんだ」
「それは粉ゼラチンを混ぜてるからだよ。よくわかんないけど、保水してくれるんだって。ネットに書いてあったの。あと、牛乳の代わりに豆乳を入れてるから、ちょっと健康的なの」
先ほどまでと比べて、わかりやすいほど饒(じょう)舌(ぜつ)に話してくる。初めて料理を褒めてもらった子どものような無邪気さだった。
「料理、上手なんだね。意外だった」
「上手、なのかな。でも、ずっと練習はしてるの。だけど友達はおろか家族の誰にも食べさせたことないから、わかんないや」
珍しく控えめなその言葉の裏には、確かに自信のなさがうかがえる。いつもの彼女だったら、意外って馬鹿にしてるでしょと、揚げ足を取ってくるところだ。耳に入らないほどに感想が気になっていたらしい。
しかしこれは、おそらく誰に食べさせても美味しいと言われる出来だろう。
「そんな恐る恐る訊ねずに、自信持っていいと思うよ」
「持てたらいいんだけどね。今まで自分のために作ってたから、私の好みの味付けがみんなの好みとは違わないかなって、ちょっと不安で。まあこれからも、誰かのために作ることはないんだけど。とりあえず、杉浦くんのお口に合って良かったよ」
ホッとしたように言ってから、ようやく遅れて料理に箸を付けた。なんだか今日の彼女は、どこか遠慮がちで、自身なさげで、ほんの少しだけよそよそしく見える。この家に入ってから、隠れていた弱さが露(ろ)呈(てい)したような、そんな感じだ。
「こんな美味しい料理だったら、毎日食べたいくらいだよ」
「そう言ってもらえるのが嬉しいことなんだって、今日初めて知った。お世辞でも、ありがとね」
決してお世辞なんかじゃなかったけど、それを言ってしまえば今の言葉が愛の告白に捉えられてしまうような気がして、訂正はしなかった。
最後の一口まで味わい「ごちそうさま」と伝える。すると彼女は動かしていた箸を止めて、空になった茶(ちゃ)碗(わん)の上へと置いた。
そのあらたまった所作に、何か大切な話を切り出されるんだという予感を覚えた。
「もし大事な話があるんだったら、食べ終わってからにしなよ。せっかくの美味しい料理が、終わった頃には冷めるかも」
「杉浦くんは、案外鋭いね」
「君ほどじゃないよ」
俺が春希じゃないと気付けたのは、天音だけだったから。
それからしばらく、お皿の上の料理がなくなるまで、これからのことを考えていた。
目下の不安は、修学旅行の日までに春希に戻らなければ、俺が参加しなければいけないということだ。旅行へ行くぐらいなら、この場所で少しでも手がかりを探していたい。けれどそれは、同じ修学旅行のクラス委員をしている天音に迷惑を掛けるということだから、自分の目的を優先させるわけにもいかない。
思案していると、天音は手を合わせて「ごちそうさまでした」と、食事終了の言葉を口にした。
「ところで、麦茶飲む?」
「長くなるならお願いするよ」
一旦落ち着かせるための小休憩を挟んだから、先ほどよりも緊張感のようなものは取り払われていた。けれど麦茶を持ってきて再び向かい合った時、思い出したように背筋を正してくる。
茶化したりせずに、俺も話を聞く体勢を取った。
「話してなかったんだけどさ」
「うん」
「今、恋人のふりをしてるのは、私の個人的な都合のためでもあるの」
「それはもしかして、橋本のこととか?」
言いづらそうにしていたから核心を突いてみると、当たったのかぎこちなく笑った。
「やっぱり、気付いてたんだ」
「気付いてたというか、今予想した。天音に都合の良いことがあるとすれば、仮の彼氏を作ってそういう目で見られないようにすることぐらいだったから」
「そういう目で見られないようにというか、もっと単純に言うと彼に諦めて欲しかったんだよね。私に恋人ができたら、また前みたいに普通の友達に戻れるかもって思ったから」
「願望を否定するようで申し訳ないけど、無理だと思うよ。橋本はたぶん、さっさと別れろと思ってる」
「うん。だから、迷惑掛けてごめんねってこと」
手持ち無沙汰になったのか、居心地が悪くなってしまったのか。天音は無意味に机の上で指先をいじり始めた。しかしすぐ後に、意を決したのかお祈りをするように両手を握り合わせる。
「昨日のバスケの試合を見てたら、さすがに申し訳なくなったの。だから、私から始めておいて、とても勝手なのはわかってるけど、君が続けたくないって言うなら、それに従おうと思う。またいじめられたりしないように、私も頑張るから」
「頑張るって、何を?」
「たとえば春希くんのいいところを、みんなにわかってもらう、とか」
肝心な時に、いつもの行き当たりばったりが出てきて苦笑する。なんだか久しぶりに思えて、懐かしさすら感じた。
「いいよ、別にこのままで。今の君にはいろいろ思うところがあるのかもしれないけど、一番最初は、いじめを見て見ぬふりしてるのが嫌で始めたんだろ? それがたまたま、天音の方にも益があったってだけなんだから。利害関係が一致したって考えればいいじゃん」
「なんで。昨日は、もうやめたいって言ってなかった?」
「言ったっけ、そんなこと。まあいいや。君にバスケを教えてもらったし、次に試合をする時は、そこまで一方的にやられないよ。もしそんな情けないことを本当に話してたなら、たぶんいけ好かないあいつにむしゃくしゃしたんだ。たぶん、きっと、それだ。忘れてよ。男として恥ずかしいから」
我ながら、苦しい言い訳を並べたと思う。けれど、ここまで必死に彼女のことを擁護して、この関係を繋ぎ止めようとしているということは、やっぱり俺も今のままがいいと心のどこかで考えているんだろう。だから今だけは自分に嘘を吐かないでいようと決めた。
「それにさ、中途半端にやめるなら、なんでストラップ買ったんだよ。俺、家に帰ったらさっそく付けるつもりだったんだけど。俺だけ楽しみにしてたの? 馬鹿みたいじゃん。初めて君からもらったものだから、嬉しかったのに」
つい、言わなくてもいいことまで口走ってしまったことに、気付く。まくしたてるように言ったから聞き逃してくれても良かったのに、耳ざとく細かい彼女は、ちゃんと言葉尻までを捕らえていた。驚いたように目を見開いたのが、何よりの証拠だった。
「……嬉しかったの?」
「いや、そんなこと言ったっけ……」
「言った、絶対言った。嫌そうだったのに、ほんとは嬉しかったんだ」
「だから、人の揚げ足ばかり取るのやめろよ。細かいんだよ、天音は」
「それじゃあ、このままでもいいの?」
期待のこもった綺麗な眼差しで見つめられて、首を横に振れる人なんているのだろうか。少なくとも俺には、無理だった。
「……いいよ。元に戻るまでの間だけど」
「やった!」
先ほどまで握り合わせていた両手でガッツポーズをしてくる。子どもかよ。
最後はなんだか言わされたような気がして、どことなく腑(ふ)に落ちない。天音のことだから、最初からこうなることを予想していたんじゃないかと疑ってしまう。けれど、さすがにそこまで都合の良いことはないだろう。
「好きな人ができたらちゃんと言えよ。その時は、一方的にこの関係も解消するから」
「好きな人ができたらって、私こう見えて好きな人ちゃんといるよ?」
高揚したテンションがそうさせたのか、彼女は珍しく自分のことを話した。しかもその内容は、俺がまったく予想もしていなかったもので。
自分が動揺しているのがわかった。その理由までは、よくわからなかった。
「……そうなの?」
「まあね。私も、こう見えてちゃんとした感性持ってるし、何より華の女子高生だから。でも安心してよ。今すぐどうにかできるような話でもないから」
「……その相手って、一応聞いてもいいの?」
完璧な天音が、好きになった相手。純粋に、興味があった。わざわざ仮の恋人を立てるんだから、そういうことには疎いんだろうと勝手に想像してた。
意中の相手がいるなら、こんなことをしていていいのだろうか。
「杉浦くんは、口が堅いから」
あらためて確認するように言った天音は、今日は二人だけの空間だというのに、囁(ささや)くようにその名前を言葉にした。
「私の好きな人は、工藤春希くんなんだよ」
恥じらいながら口にしたその名前を聞いて、今すぐにどうにかできる話じゃないという言葉の意味を理解した。