帝が訪れない間も、咲子は堀川の女御に呼ばれては楽しいひと時を過ごしていた。互いの部屋を何度か行き来し、生まれ育った地のことや、宮中での出来事など、様々な話をするうちに、咲子は堀川の女御と次第に仲良くなった。気軽に話し合える友人がいることは、なんて楽しいことなのだろうと、咲子は嬉しく思っていた。
そんなある日のことである。話が一息つくと、堀川の女御はおもむろに視線を庭に向けた。
「そうだ桐壺の更衣、あちらの夜顔(よるがお)が綺麗に花を付け始めたのですよ」
 堀川の女御は庭に植えられた花のつぼみを指さした。
「夜顔ですか?」
「夜顔の花をご覧になったことはありますか? 名前の通り夜にしか咲かないのです」
「いえ、見たことはありません」
「それなら桐壺の更衣、もしよかったら今夜見に来てくださいな」
「ですが――」
「夜はみなさん寝静まっておられますし、少しくらいなら部屋を抜け出してきてもきっと大丈夫ですよ。とても綺麗な花が咲くのです、どうしても桐壺の更衣にも見てもらいたくって」
 堀川の女御があまりに必死に訴えるので、咲子は迷った。帝は物忌みで咲子のもとを訪れることができないのだから、少しくらい桐壺を空けても大丈夫かもしれないとも思う。
 堀川の女御がこんなにも必死に言ってくれるのだから、断るのは失礼だわ。
 悩んだ末に、咲子は頷いた。
「わかりました、ほんの少しだけでもよろしかったら」
「来ていただけますか……。では、私も庭でお待ちしておりますよ。必ずお越しください、約束です」
「はい、約束です」
 咲子がにっこりとほほ笑むと、堀川の女御は曖昧な笑みを浮かべた。
 あんなにも懸命に誘ってくださったのに、どうしてこんな顔をされるのだろう……。
 咲子は堀川の女御の表情が少しだけ気になった。だが、それも一瞬のこと、堀川の女御はにこりと笑顔を浮かべたので、咲子は見間違いだろうとそれ以上は気にかけなかった。
「月が高い位置に昇ったら庭にいらしてください。あの夜顔のもとに」
「わかりました」
 堀川の女御と約束を交わし、咲子は桐壺へと戻った。
 その夜、辺りが寝静まった頃、咲子は桐壺を抜け出し堀川の女御がいる雷鳴壺を訪れた。約束の時間、月は空の高い位置で輝いている。
 だが、女御と約束した夜顔の場所には誰も来ていない。咲き始めたと聞いていた夜顔も、つぼみを付けてはいるもののそのつぼみもまだ固く、花は一つも咲いていなかった。
 おかしいわ……。
 咲子は固く閉ざされた雷鳴壺を見つめる。
「堀川の女御、私です、桐壺の更衣です。どこにいらっしゃいますか?」
 小さな声でそうささやいた時、がさがさと何かが走り去るような音がした。鳥だろうか――。
 咲子は空が白む頃まで待ったが、結局堀川の女御が姿を見せることはなかった。
 翌朝、後宮にはとある噂が広まっていた。というのも、桐壺の更衣が夜中に男と逢引きをしていたというのである。
「夜に桐壺から出て行くところを、藤壺の女御付きの女官が見ていたそうですよ」
「堀川の女御付きの女官は、桐壺の更衣が居た場所から、男が走り去るのを見たそうです」
「帝が物忌みでお一人で過ごしていらっしゃるというのに」
「なんてはしたない。これは帝への裏切りにほかなりません」
 このような噂が立てば帝の寵愛が離れるのも時間の問題だろうと、みな、咲子を笑ったのである。
 帝のお耳にも入っているのでしょうか、どうしよう、帝は私が裏切りを働いたと思って心を痛めておられるかもしれない……。
 陰口には慣れている咲子であったが、噂の内容に帝が心を痛めるのではないかと心配した。
 帝のこと以外にも、咲子には悩ましいことがあった。
「えぇ……曲水の宴以降、少し優しくしたらずっと付きまとわれてしまって……。その、桐壺の更衣には本当に困っていたのですよ」
 咲子を雷鳴壺へ呼んだ本人である堀川の女御は、咲子のことを聞かれる度にそう答えているようなのだ。挙句、咲子が雷鳴壺を訪れたときに関して尋ねられると、「あの日は、私も夜中に目が覚めまして。男の立ち去る音を聞いたような気がします」と答えているらしい。
 これにはさすがの咲子も動揺を隠せなかった。
 堀川の女御はどうしてそんなことを仰っているのだろう。私は、何か勘違いをしてしまったのだろうか……。
 仮に咲子が「堀川の女御に呼ばれて夜顔を見に行ったのです」と真実を告げたところで、誰も信用しないことは目に見えている。
 咲子がなんと言っても信じてもらえるはずはない。それでも、普段話しかけてくることもない妃たちが意地悪く「雷鳴壺にまで行って何をされていたのですか」と問いかけてくる。そのたびに咲子は「夜顔を見に行っておりました」と堀川の女御の名を伏せて答えた。
 その度に妃たちは「それは本当ですか? 苦しい言い訳ですね」「夜顔など一つも咲いておりませんよ」「もう少しましな言い訳を思いつかないのでしょうか」とクスクスと笑い合う。
 もしかしたら、女御は夜顔の花のことではなくて、他のことを示していたのかもしれない。きちんと堀川の女御に確認をしてから庭を訪れるのだった。
 咲子は自分の軽率な行動を悔やんだ。
「せっかく帝が宴の席を設けてくだり、堀川の女御に仲良くしていただいたというのに……」
 咲子の噂はその日のうちにあっという間に広まり、どこに行っても「帝を裏切った」と後ろ指をさされるようになった。咲子が廊下を通るたびにみな冷たい目で咲子を見るのだ。
 当然堀川の女御が以前のように話しかけてくることもない。咲子は再び孤独になった。
 噂が立ってから数日が経ったある日、仕事を終え、桐壺に戻る途中で藤壺の近くを通ると話し声が聞こえてきた。咲子は思わず足を止め、会話に耳をそばだてる。堀川の女御の声がしたからだ。
「桐壺の更衣の一件はずいぶんな騒ぎになっていますね。上手くいきました、本当に面白いこと」
「はい……本当に。噂というものが広がるのは本当に早いものでございますね、私も驚いております……」
 話している相手は藤壺の女御だ。二人が、咲子のことを話している。その内容は、咲子にとって驚くべきものだった。 
「よかった。あんなに注意したというのに、堀川の女御は桐壺の更衣とあのまま仲がよくなってしまったのだと思って心配していましたよ」
「と、とんでもございません。は、始めこそ気まぐれにかまっておりましたが。そうですよ……藤壺の女御のご指示がなければ、あんなにも仲良くなんて、いたしませんよ……」
「そうでしょうとも。更衣の身分、いいえ、そもそもは梨壺の女御の下女でしたね。どういう経緯で帝に気に入られたかわかりませんが、私は端から気に入らなかったのです。あなたもそうでしょう?」
「え、えぇ……仰るとおりでございます」
「えぇえぇそうでしょうとも。それにしても、上手くいきましたね、あの生意気な娘の鼻をへし折ってやれましたよ。本当にいい気味」
「え、えぇ、本当にその通りです」
 高らかな藤壺の女御の声が響く。笑い合う二人の声を聞いていられなくなった咲子は逃げるように桐壺へと帰った。
 全部、嘘だったのだ……。
 ここにきてようやく咲子は自分が堀川の女御に騙されたのだとわかった。
 堀川の女御のことを信じていた、初めてできた友達だと思い込んでいた。全部嘘だったのだ。本当に、私はなんと愚かだったのか……。
 堀川の女御は藤壺の女御と手を組み、端から咲子を陥れるつもりだったのだとようやく気が付いた。
 堀川の女御のことを友人だと勘違いした自分が腹立たしい。堀川の女御は、藤壺の女御に言われて咲子にすり寄ってきていたのだろう、それに気が付かなかった自分の愚かさに腹が立った。

 数日が経ち、物忌みが明けた帝が、咲子のもとを訪れてきた。当然噂のことは帝の耳にも届いているだろう。帝が噂についてどう思っているのかが恐ろしかった。
 帝は、私に幻滅しておられるかもしれない。
 訪れた帝に、咲子はひれ伏した。
「大変申し訳ありません」
「それは、何に対する謝罪だろうか?」
「帝が私のためにと曲水の宴まで開いてくださったというのに、私の軽率な行動で帝にご心配をかけ、その上みなさまの信頼を損なうことになってしまいました」
 庭の地面に額を付けたまま、咲子はそう告げた。帝は咲子のもとに腰を降ろす。
「咲子、それでは真相がよくわからない。あなたが悪いのだと聞こえてしまう。ほら、顔を上げてくれ」
 帝は咲子が不義理を働いたとは思っていないのだろうか、酷く優しい視線を向けてくる。
「私をお疑いにならないのですか?」
「あなたは私のことを噂に踊らされるような底の浅い人間だと思っているのか? それは心外だ」
「そのように思ってなどおりません! 帝は誰よりも聡明であられます」
「安心してよい、私はあなたのことを信じている。あなたが私を裏切ることなどないことは、私が一番よくわかっている」 
 そう言って優しく咲子の身を包む帝に、咲子は震える声で尋ねた。
「……私を信じてくださるのですか?」
「当たり前だ」
「……ありがとうございます。本当に、嬉しい……」
 嬉しい、帝は私を信じてくれる……。このような時にでも……。
 帝のぬくもりに心がゆるみ、咲子は思わず涙を流した。一筋、安堵の涙が流れ落ちる。
 帝が信じていてくれたことが嬉しいのと同時に、堀川の女御に裏切られたこと、いや、端から友達ではなかったことがあまりに悲しかった。静かに泣いていた咲子が落ち着きを取り戻すと、帝は優しくささやいた。
「私は噂など信用していない。あなたの言葉で聞きたい。どうか、私に真実を教えてくれ」
 咲子は曇りない瞳で帝を見つめ、強い口調で言い切る。
「私は、決してあなたのことを裏切ったりはいたしません。不義理を働くくらいなら、死んだ方がましです」
 力強い咲子の言葉に、帝はほほ笑みを見せた。
「それは私が一番よくわかっていると言ったはずだ。だが疑問も残る。雷鳴壺に行ったのは本当のことなのだろう。あなたはなぜ夜にあの場所に? もしかして、誰かに呼び出されたのではないか?」
 咲子は堀川の女御の名を出すかどうか悩み、答えた。
「ただ、夜顔を見に行っただけなのです」
「夜顔――」
 帝はわずかに首を傾げた。それから咲子を立たせると、着物に付いた土を払ってくれる。
「いけません! こんなことを帝がなさっては」
「まだわからないのか。私はあなたのためにならなんでもしたいと思っているのだ。もう幾度となく伝えているかもしれないが、私はあなたのことを心から大切に思っている。私の皇后になるのはあなた以外に考えられない。今はまだ障害が多く、難しい状況にある。だが、どうか私を信じて待っていてほしい」
「いつまでもお待ちしております。私は気が長い方だと言いましたでしょう? 待つのは得意なのです」
「待てと言ったのは私だが、そんなに悠長なことを言われると困ってしまうな」
 帝は咲子の手を取った。先日までは見られなかった痣がある。咲子が仕事中に他の妃から新しく付けられたものだった。帝は自分の手で優しく咲子の手を包む。
「私が無理矢理あなたを妃にしたことで、あなたを傷つけるものがいるのだろう。今回のことも誰かがあなたを陥れたのだと私にはわかる。予想がついていたことなのに、思うように守ることもできず、止めさせることもままならない。辛い思いをさせて本当に申し訳ない」
「そんなことを仰らないでください。私はとても幸せなのですから……」
 咲子は自信に満ちた声で答えた。
 私は幸せなのだ、幸せ過ぎて怖いだけ……。この幸せを、失うのが怖い。
「だが――」
「私の幸せは、私が決めるのです。私は、帝といることができたら幸せなのです。だから、どうか気に病まないでください。先ほどは帝の優しさに心が緩んでしまいましたが、私はこんなことではめげません」
 堀川の女御のことは、気が付かなかった自分が悪いのだと、咲子は気を取り直した。
 もう、過ぎたことは忘れよう。帝と一緒にいる時間を、悲しい気持ちで過ごしたくはないわ。
 咲子はそう思い柔らかな笑顔を見せる。
「咲子――」
 帝は一層強く咲子を抱きしめると、名残惜しそうに咲子の頬に触れた。
「戻らねばならないのが本当に口惜しい。このままあなたと夜を過ごせたらいいのに」
「今のままでも、私は十分に幸せです。さぁ、お戻りになってください」
 咲子に促され、帝は桐壺を後にする。堀川の女御との一件でささくれ立っていた咲子の心は、帝と会えたことで穏やかになっていた。

 翌日、帝は龍の中将を呼び出した。帝の表情を見て、中将は肩をすくめてみせる。  
「言われなくともなんとなくわかるぞ、あれだろう? 桐壺の更衣に掛けられている疑いの件だ。左大臣は桐壺の更衣をすぐに処分しろと喚いていたぞ」
「左大臣の言うことは受け流した」
「だろうな、あのジジイ青筋を立てていたぞ。まぁ、どうぜ濡れ衣なんだろう?」
「話が早いな。おまえも濡れ衣だと思うかい?」
「当たり前だ。おまえがいながら他の男と逢引きできるような器用な女には見えないからな」
 中将も咲子のことを信頼しているようであった。端から噂と思って取り合っていなかったのが見て取れる。
「私には咲子に罪がないとわかっている。だが、そうなると咲子を陥れた人間がいることになるだろう? そこで、いくつか調べてほしいことがある」
「そんなの、桐壺の更衣に誰に騙されたのか聞けばいいだろう?」
「咲子の口から聞き出して犯人を処分出来るのならいいが、咲子は弱い立場の人間だ。咲子の証言一つでは私以外誰も信じないだろう。だからおまえに証拠を見つけてほしい。噂では男がいたというが、本当にそこに男がいたのか。もしもいたとしたら誰がいたというのか」
「無茶を言うな。そんな雲をつかむような話、わかると思うか?」
「雷鳴壺に所縁のある者の実家から調べてくれ。そこで浮かび上がらなければ、他の妃の実家、女官の実家と少しずつ範囲を広げていく」
「おい、それを俺一人にやれって言うのか、無茶を言うな」
 帝の言葉に中将は呆れたような顔になる。
「一人でやれとは言わない、右大臣にも協力してもらう」
「右大臣ねぇ、それは頼もしい味方だ。左大臣に次いで顔が広いからな。だが、万が一左大臣家が絡んでくることがあれば話しは難航するぞ」
「左大臣家の人間だったとしたら、私が直接左大臣を糾弾する」
「上手くいくかねぇ」
「とにかく時間が惜しい、まずは探し始めてくれ。そして、夜顔だ」
「夜顔?」
「私が記憶している限り、あの庭に夜顔はなかった。誰かが植えるよう指示を出したはずだ。それが誰なのかを突き止めてほしい」
「そんなのが関係あるって言うのか?」
「わからない、もしかしたらないかもしれない」
「はぁ? そんな曖昧なことを調べろって言うのか。本当に人使いが荒いな。おまえがそんな性格だとは知らなかった。桐壺の更衣が関わると、おまえは人が変わったようになる」
「変わってなどいない、私の本質がこれなのだ。どうやら今までは猫を被っていたようだ」
 中将は「はいはい」と軽く答えると、清涼殿を後にした。
 日々の(まつりごと)の間も、咲子のことが頭をかすめる。一日でも早く皇后にしたいという気持ちは、日に日に強くなるばかりだった。視線は自然と左大臣へと移る。
 太政大臣のいない現朝廷において、政治を牛耳っているのは間違いなく左大臣であった。左大臣家は代々公卿(くぎょう)に就き、権力をふるっては私腹を肥し続けているのを帝もよく知っていた。瑛仁帝が帝位についたときには、すでに左大臣はその権力を使って周りを蹴落とし、公卿、殿上人を自分の息のかかった貴族に変えてしまっていた。
 今や左大臣と関係のない貴族と言えば、龍の中将と右大臣くらいなものである。他の貴族たちは左大臣の指示がなくては誰も動きはしない。帝は日に日に自分の首が絞められているのを感じていた。今に、左大臣なしに朝廷は動かなくなる。そうさせるわけにはいかない。
「そういえば、最近東宮が学問に励んでおられるようですね」
 話し合いが終わると、左大臣が話しかけてきた。
「そのようだな」
「どうでしょう、一つ新しい教育係を私に揃えさせてくださいませんか? 今いる者は生前、東宮のお母様が用意したもの、あれでは教養が足らないかと」
 笑顔を浮かべつつも、左大臣の目は一つも笑っていない。
 なるほど、今度は東宮に取り入り、ゆくゆくは摂政にでもなるつもりか。
 帝は首を横に振る。
「教育係は今のままでいい。東宮もやる気を出しているところだ、人を替えて合わなかったら困る」
「ですが!」
「それよりも、東宮が落ち着いて勉学に励めるよう、要らぬ声をかけぬよう願いたい」
「私が東宮の邪魔をしているとでも仰られるのですか?」
「なにも左大臣のこととは言っていない。それとも、何か心当たりがあるのか?」
 そう言い放つと、左大臣は赤ら顔を更に真っ赤にした。必死で怒りを抑えているようだ。帝は左大臣の様子など気にも留めず、清涼殿へと戻り、中将の帰りを待った。
 すっかり日は落ち、夜の帳が降り始めたころ、帝は寝所を抜け出す。咲子が更衣となってからというもの、夜が来るのが待ち遠しいと思うようになった。夜の闇は、自分から帝の皮を剝がしていくようだ。
 桐壺を訪れると、咲子は月を眺めていた。
「そんなに月を見つめて、まるでかぐや姫のようだな」
「帝! ようこそおいでくださいました」
 自分の姿を見ると、咲子は花が綻ぶように笑う。その姿が愛しくてたまらなかった。
「私を置いて月に帰るつもりか」
「私には帝のもと以外に帰る場所はありませんよ」
「そもそも私はあなたを手放す気がない。仮に帰る場所があっても帰しはしない」
「私は帝と供におります。何があっても」
 咲子は微笑んで見せるが、本当は心細いに違いない。一日も早く咲子に掛けられた疑いを払ってやらなければ。
帝はそう強く誓った。

 中将が清涼殿へと現れたのは七日ほど経ってからだった。その間、毎晩のように忍んで咲子のもとを訪れていた帝だが、咲子が気丈にふるまっていることに心を痛めるばかりだ。早く濡れ衣を払ってやりたいと思いながらも、思うように証拠は見つからず、疑いを晴らすことができない日々に苛立ちを感じていた。 
「なにかわかったのか?」
「わかったから来ているんだろう? まずはあの夜、雷鳴壺に出入りしたらしい人物を洗い出した」
「さすがに早いな、それで?」
「恐らく、堀川殿の屋敷に勤める家来である可能性が高い……っておい、そんなに怖い顔をするな」
 堀川と聞いて思わず怒りがにじみ出る。堀川の女御が咲子を騙して陥れたのだろうというのが帝の予想だった。
「聞けば何度か忍び込んでいたかもしれない。だが、その男が出入りしていたのは桐壺の更衣が入内する前からの話しだ。桐壺の更衣とは関係ない」
 何度か男が忍び込んできていたと聞いで、帝は苦い顔をした。咲子に万が一のことがあったらたまらない。
「だが、何度か忍び込んでいたとすると、その理由は何だろうか?」
「さあな、それは俺が考えることじゃない。おまえが考えることでもないだろう? 自ずと真実は見えてくるはずだ。今はその男が忍び込んだことを事実にする何かが欲しい」
「何か裏付けるものはなかったのか?」
「そう簡単にいくか。ここまで調べるだけでも大変だったんだ。俺の仕事はこれだけじゃないんだからな」
 中将は一度眉をひそめ、不機嫌そうな顔になる。それから表情を戻して「次に」と報告をつづけた。
「夜顔のことなんだが、あれは堀川の女御の指示で植え替えられたらしい。女御が夜に咲く花が見たいと掛け合ったそうだ。そこで別の場所で植えられていた夜顔を雷鳴壺の庭に植え替えたと言っていた」
「それはいつ頃の話だ?」
「それも桐壺の更衣が入内する前だ、一年半くらい前だって言っていたかな? それ以来毎年植えられているらしい」
「私は、堀川の女御が咲子をそそのかしたのだと思っている。夜に、夜顔の花を見ようと誘ったのは女御の方だろう」
「だろうな」
「桐壺の付きの女官の話では、咲子は雷鳴壺の庭でずっと女御を待っていた。その時に男が現れた――」
「ということはないだろうな。それなら桐壺の更衣はもっと取り乱したはずだ」
「咲子が無事でよかったが、堀川の女御のことは赦し難い、咲子は堀川の女御のことを信頼し、初めて友人ができたと喜んでいたのだ。それを裏切った罪は重い」
「今まで後宮でのいざこざには見向きもしなかったおまえがすごい変わりようだ」
「当たり前だ」
「暗躍する俺の身にもなれよ」
「感謝している。ありがとう龍」
 帝に礼など言われると、中将は何も言えなくなる。
「最後に、率先して噂を流していたのは藤壺の女御付きの女官たちだったことがわかった。噂は半日足らずで後宮中に広まったようだ。まるで前もって示し合わせていたかのような素早さだな」
「なるほど。そうなると、堀川の女御と藤壺の女御が共犯である可能性も出てくる」
「それを暴くのは難しそうだ。何と言っても相手はあの藤壺の女御だ。仮に堀川の女御がつかまったとしても、女御を切り捨て、自分は知らぬ存ぜぬを通すだろうよ」
 ズシリと、床を踏みしめるような足音がして中将は話を止める。帝の前に跪くと、「引き続き調査いたします」と畏まって下った。入れ替わりに左大臣が入ってくる。
「今のは龍の中将でしたな、あの若造も少しは礼儀を弁えてきたようですな。以前から帝に対してあまりに非礼であるので他の者に入れ替えを検討しておりましたのに」
「龍は私の右腕、簡単に代えることは許さない」
「そうですか、私もあなたの右腕だと思うておりますのに」
 本当に、忌々しいやつだ。
 つまらぬ嘘を吐くものだと帝は今にも出そうになるため息を飲み込んだ。右腕がずいぶんと勝手に動くものだと文句の一つも言ってやりたくなる。
「ところで左大臣、呼びもしないのにわざわざこんなところに姿を見せるとは、何か相談事があるのか?」
「お呼びいただけましたらすぐにはせ参じますのに。帝は私にずいぶんと遠慮していらっしゃる」 
 帝はよくもまあ次から次へと方便が出てくるものだと呆れかえった。
「話したいことがあるなら早く申せ」
「えぇ、ではお言葉に甘えまして、ご相談というのは娘のことです。娘が帝から少しも声がかからないのだとひどく嘆いておりました。寂しさから気を病んで今にも床に臥せってしまいそうです。父親として、可愛い娘のことが心配になりまして、どうか今一度娘を閨に呼んでやってくださいませんか」
「そのような気分にはなれない」
 きっぱりと断ると、左大臣は眉を吊り上げた。顔は笑顔を取り繕っているが、その目は一つも笑っていない。
「聞くところによると、帝は身分の低い妃にずいぶんと入れ込んでおられるとか」
 左大臣が話しの矛先を違う方向へと向けたので、帝は更に眉をひそめた。どうやら、左大臣は咲子のことを言っているらしい。
「何の話だ」
「血というものは本当に恐ろしい。お父上がお嘆きですよ。恐らく母親の血が濃かったのでしょうね、それとも、本当にお父上のお子でしょうか……」
「左大臣、はっきり言ったらどうだ。おまえは私が帝位についていることが気に入らないのだろう」
「いいえいいえとんでもございません。言葉が過ぎました。私の世迷い言でございます。とにかく、これ以上汚れた血が混ざり込むのを懸念しているのでございます。その点、娘は由緒正しい血筋、手前味噌ですが容姿も大変美しく、教養も申し分ないかと。どうかお傍に侍らせてやってください」
 もう、会話など一つもしたくなかった。顔も見たくない。帝は一言「下れ」と告げると、左大臣を追い出した。

 堀川の女御と過ごしていた楽しいひと時が幻想であったのだとわかり、咲子は落胆していた。だが、要らぬ心配をかけないよう、それを帝に悟られるわけにはいかない。帝と一緒にいられる夜は、極力笑顔でいようと心に決めていた。
 嫌がらせはあるものの、慶子の世話をしていたころに比べたらその辛さは軽いものである。桐壺付きの女官たちはみな親切であり、その上、今は帝がいてくれる。慶子に仕えて、思い出の少年に恋心を抱いていたころよりも、遥かに幸せであった。
 ただ、幸せな分だけ失うことも怖くなる。堀川の女御との間に芽生えたと思っていた友情は幻想であった。一度得たものが崩れ落ち、咲子は失うことの恐ろしさを味わったのである。帝を失うことなど、恐ろしすぎて咲子にはもう考えることができなかった。
 昼間は相変わらず一人黙々と更衣の仕事をこなし、帝と過ごす短い時間を心の拠り所にしていたのである。 
「咲子殿、遊びに来ましたよ」
「まぁ千寿丸様、お待ちしておりました」
 可愛らしい来訪者に咲子は目を細める。
「もっと早くに来たかったのですが、咲子殿の先生になると約束したので、きちんとお勉強をこなしてから来たかったのです。今日は季語について学んでまいりましたから、咲子殿にもお教えしたいと思います」
「まぁ、それは楽しみですね」
 咲子はこの可愛らしい先生と一緒に、一つ一つ季語を挙げていく。春の季語、夏の季語、秋の季語、そして冬に至るまで、幼い教師はきちんと挙げることができた。 
「千寿丸様、たくさんの季語を教えてくださってありがとうございます」
「また知り得たことがあれば教えに来ますね」
 咲子にお礼を言われ、得意になった千寿丸は嬉しそうに笑った。それから、ひょいと懐から紐のようなものを取り出して見せる。
「そうだ、これを咲子殿にあげます」
「これは、組紐ですか?」
 丁寧に編まれた組紐を見て、堀川の女御のことが咲子の頭をかすめた。
 堀川の女御が持っていたものと模様が似ているけれど、少し違うわ。こちらの方が落ち着いた色味になってる。
「咲子殿、どうされましたか?」
 堀川の女御のことを思い出し、悲しい気持ちになったことが表情に現れていたのだろう。
 いけない、千寿丸様に心配をかけてしまうわ。
 咲子はにっこりと笑顔になる。
「とても綺麗ですね」
「でしょう? 拾ったのです。咲子殿に差し上げます」
「それはいけません。落として困っている方がいるはずです。持ち主を探してみましょう」
 美しい赤い糸で丁寧に編み上げられた組紐を手に取ると、女官たちに尋ね歩くことにする。桐壺の女官たちが知らないと首を横に振るので、他の女官たちにも尋ね歩こうとした。だが、みな咲子が近寄ろうとすると蜘蛛の子を散らしたようにいなくなってしまうのだ。そして影からひそひそとなにか話し合うような声がする。会話一つできる状況ではなかった。
「私では持ち主を見つけてあげられないかもしれません。お忙しい中申し訳ないとは思うのですが、龍の中将様にお願いしようと思います。千寿丸様、この組紐がどこに落ちていたのか教えていただけますか?」
「いいですよ、これは雷鳴壺の庭で見つけたのです」
「雷鳴壺?」
 咲子は眉をひそめる。堀川の女御のことが嫌でも思い浮かび、悲しい気持ちがこみあげてくる。だが、千寿丸を心配させないようすぐに笑顔になった。
「そうだよ、雷鳴壺の茂みの中に落ちていました」
「あら、また茂みですか? 千寿丸様はまるで子狐のように好奇心が旺盛ですね」
 千寿丸から組紐を受け取ると、咲子は女官に頼んで龍の中将に組紐を託すことにした。雷鳴壺の茂みに落ちていたこと、千寿丸が見つけたこと、持ち主を見つけて返してほしい旨を手紙にしたためる。
 もしかしたら堀川の女御のものかもしれない。だけど、自分で尋ねる勇気が出ないわ。堀川の女御に向かって、どんな顔をしたらよいのかわからないもの……。
「大切に編んだ紐が持ち主に届きますように」
 祈りとともに組紐を女官に手渡した。
 組紐を中将へと託してから数日、後宮は大騒ぎになった。騒ぎは遠く、後宮の端に位置する桐壺の咲子の耳にまで届く。
「桐壺の更衣、お聞きになりましたか。あの組紐の持ち主についてです」
「組紐の持ち主が見つかったのですか?」
 それはよかった、と言いかけた咲子の言葉を女官は遮る。
「なんでも堀川中納言殿の家に仕える武士(もののふ)の持ち物だったそうですよ」
 女官の言葉を聞いた咲子は表情を曇らせた。
「あの日現れた男は堀川家の武士だったのだということになって大騒ぎですよ」
「それで、例の逢引きは桐壺の更衣への濡れ衣だったのではないかともっぱらの噂です。堀川の女御が男と会っていたのを見つかりそうになり、桐壺の更衣へと罪を擦り付けたのだと」
「桐壺の更衣には帝がただならぬ寵愛を注いでおられるではありませんか。私たちも、他の男と会うなんておかしいと思っていたのです」
 桐壺の女官たちは口々に咲子を擁護する。 後宮は堀川の女御に対する噂で持ち切りになった。後宮に野蛮な武士を呼ぶなどとんでもない、そもそも二人で会うなど帝への裏切りだと、口々に罵り始めた。
 濡れ衣が晴れたのは嬉しいことだが、代わりに堀川の女御の悪口が耳に入るのはいい気がしなかった。
「桐壺の更衣もどうして黙っておられたのですか。本当は堀川の女御に呼び出されたのではありませんか?」
 などと女官に詰め寄られると困り果ててしまった。
 ここは本当に恐ろしい場所だわ……。
 後宮の妃や女官たちの態度を見て咲子は思った。つい最近まで堀川の女御と楽しそうに話していた妃や女官たちはすっかり手のひらを返し、堀川の女御の影口を叩くようになった。
 藤壺の女御の態度は特に顕著で、「私は前々から怪しいと思っていたのです」などと声を高らかにして話していた。
 藤壺の女御は、堀川の女御を見放してしまわれたのだわ。
 以前藤壺の女御と堀川の女御の会話を聞いていた咲子には、藤壺の女御が堀川の女御を切り捨てたのだとわかった。 
 堀川の女御は後宮で孤立し、ついには後宮を去ることが決まった。離縁を願い出たのは堀川の女御の方からだった。
 咲子は一人雷鳴壺に趣き、庭の夜顔を眺めることにした。固く口をつむいでいたつぼみは綻び始め、今にも可憐な花を咲かせそうである。
「桐壺の更衣、私をお笑いになりに来たのですか?」
 雷鳴壺の部屋から堀川の女御が姿を見せた。咲子はそっぽを向く堀川の女御の横顔を見た。心労のためか、ずいぶんとやつれて見える。肌は荒れ、髪の毛にも艶がなかった。
 数日でこんなにやつれて……よほどお辛い思いをされたのだわ。
「堀川の女御、もしかしたら武士が持っていたというあの組紐は、あなたが編んだものではないかと思ったのです」
 咲子が話しかけると、堀川の女御はそっぽを向いたまま言葉を紡ぐ。
「聞きましたよ、組紐を中将殿に渡したのはあなただそうですね、私に復讐をなさるおつもりだったのでしょう? まさか組紐が落ちていたなんて……。あの紐を見た時は肝が冷えました。私は知らないと答えたのに、それを自分のものだと言うなど愚かなこと……。どうやら、天はあなたに味方したようです。濡れ衣が晴れてよかったですね……」
 そこまで言葉にすると、堀川の女御は袖で顔を覆った。すすり泣く声が辺りに響く。涙を流す堀川の女御に咲子は優しく声をかけた。
「あの組紐は、武士にとってとても大切なものだったのでしょう。だからこそ、危険を承知で自分のものだと名乗りを上げたのだと思います。組紐を失うくらいなら、罰を受けた方がよいと思ったのではないでしょうか。彼の武士は処分されるでしょう、もしかしたらあなたも後宮から去らなくてはならなくなるかもしれないと、武士にもわかっていたはずです」
「何が言いたいのです」
「それほど、彼の武士にとって組紐は大事なものだった。あなたと彼の武士は、強く想い合っていたのではないかと思いました。もちろん私の想像にすぎません。夜顔は、夜に庭に出る絶好の口実です。あなたには夜顔を眺めるふりをしてまで会いたいと思う相手がいたのではないでしょうか。ですが、あなたは帝の妃にならなければならなかった。あの組紐はあなたが後宮に入る前に武士に贈ったものなのではないかと、思ったのです」
 やっぱり、組紐を千寿丸様から受け取ったときに勇気を持って堀川の女御に尋ねるべきだった。。そうすれば、あの時堀川の女御に返すことができたのに……。私が臆病なばかりにこんなことに……。
 咲子の言葉に堀川の女御は驚いたように目を見開き、それから視線を落とした。
「ですが、名乗り出たら私にも被害が及ぶことくらい、容易に分かったこと……。彼はなぜそんなことを……」
 咲子にはわかるような気がした。なぜ、武士はその紐を自分のものだと言ったのか――。
「おそらく彼の武士は、自分が勝手にあなたに会いに来たと言うつもりだったのでしょう。そうすれば、自分は罰せられてもあなたのことは守ることができるかもしれない。ですが、どこかで話がねじ曲がったのではないでしょうか。あなたが後宮を去ることになり、彼の武士は悔いているかもしれない」
「……」
 咲子の言葉に、堀川の女御はすっかり黙り込んでしまった。
「私にも、永く思う相手がおりました。辛く、苦しい日々、彼の人との思い出が私を支えていてくれました。二度と会えることはないと諦めておりましたが、人生とはわからぬもの。今、彼の人と添い遂げることができ、私はとても幸せなのです。堀川の女御にも、思う相手がいらっしゃるなら、諦めないでお父様を説得なさいませ。身分など、気にする必要はありません」
 きっと堀川の女御にとってその武士はとても大切な人なのだ。私にとっての、帝のように……。
「偉そうなことを仰るのね。私はあなたのように強かではありません」
 堀川の女御はそう言いつつも、咲子の言葉に晴れやかな顔をする。
「ですが、少し勇気が出ました。ありがとう」
「よかった」
「桐壺の更衣、私の話を少しだけ聞いてください。彼の者は、私の実父に仕えていた武士の子でした。父の死後、私とともに伯父のもとに来てくれました。楽しい時も、辛い時も、いつも一緒だった……。更衣の言うように、誰よりも大切な人なのです」
 堀川の女御は涙を拭き、咲子を見た。わずかにほほ笑んでいるように見える。
「今となっては信じてはいただけないかもしれませんが、私ははじめ、本当にあなたと友達になるつもりでいたのです。あなたと過ごす時間は本当に楽しかった……」
 堀川の女御の言葉に、咲子は驚き、目を見開いた。
 堀川の女御は本当に友達になってくれようとしていたのだ。あの時間は、偽りではなかった……!
 嬉しさで胸が熱くなる。それから、咲子は優しいまなざしで堀川の女御を見た。堀川の女御は言葉を続ける。
「ですが、ある日私のもとに藤壺の女御がいらっしゃいました。私が彼の武士と逢引きしているのを知っていると言うのです。真実はわかりませんが、一昨年夜顔を植えた後に二度ほど、彼の者が私に会いに来てくれたものですから。それをご覧になっていたのかもしれません。帝への裏切りをばらされたくなければ桐壺の更衣を陥れろと仰られました。私は、本当に弱く、自分の罪をみんなに知られるのが怖くて……。あなたのことを貶めるようなことをしてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」
 ひれ伏す堀川の女御に、咲子は優しく声をかける。
「もうよいのです。それに、信じますよ、私は、自分が本当だと思うことは、信じます」
「本当に……?」
「はい。私は堀川の女御とお友達になれて嬉しかった。一緒に過ごす時間はとても楽しいものでした。それが嘘であったのだとわかり、ひどく落胆したものです。ですが、堀川の女御は今、自分も楽しかったと仰ってくれました。私はその言葉を信じます」
「桐壺の更衣……。ありがとう……、本当に」
 堀川の女御の頬を流れる涙を、咲子は手拭いで拭ってやる。
「実家に戻られましたら、彼の者を処分されないよう必死にお守りになってください。堀川の女御なら、きっとできます。勇気をお出しになってください。あなたは、弱い人間ではありません」
 咲子の言葉に、堀川の女御はようやく泣き止むと表情を引き締めた。目に強い光を宿してうなずく。
「はい、私に出来る全てのことを彼のもののためにしたいと思います」
 それから、と堀川の女御は続けた。
「桐壺の更衣、私はあなたのことが好きでした。もしも罪を赦されるなら、これから本当に友人になってはいただけませんか?」
「もちろんです!」
 咲子が答えると、堀川の女御は笑顔になる。
「文を書かせてください。欠かさず送ります」
「私も、文をお出しします」
 堀川の女御は嬉しそうに笑顔を見せてから、表情を引き締め、声を沈めて咲子の耳元でささやいた。
「桐壺の更衣、藤壺の女御にはよくよく注意してください。自分の手を汚さず、気に入らない人間を貶めようとするお人です。帝の寵愛を受ける桐壺の更衣は藤壺の女御にとって最も疎ましい存在となっております。どうか、くれぐれもお気をつけて」
「忠告痛み入ります。堀川の女御、どうかお元気で」
 見送るものの居ない堀川の女御を、咲子はただ一人見送った。
 最後に堀川の女御の本心を聞くことができてよかったと、咲子は嬉しく思った。それと同時に、藤壺の女御への強い嫌悪感を抱いた。咲子が気に入らないのであれば、直接手を下してくればよいものを、堀川の女御を巻き込み、咲子と堀川の女御の友情を引き裂こうとした。後宮の妃たちの中で最も権力を持つ藤壺の女御と、今後どう渡り合っていくべきか、考える必要がある。こういうことは、一度や二度ではないかもしれない。咲子は高い空を見上げ、これからも帝のもとにいられるよう、強くありたいと思った。