朝から強風が吹き荒れる、肌寒い日のことだった。
寝坊をしてバスに乗り遅れるわ、仕事に遅刻して上司から長い説教を受けるわ、階段で躓いて足首を捻るわ、湿布を買うために寄った薬局で店員さんに嘲笑されるわ、で。散々な一日だった。
路地裏に入り、ずきずき痛む足首に湿布を貼っていたら、建物の隙間から顔を出した野良猫が、とことことこちらに寄ってきて、差し出したわたしの指に鼻を近付けてくれたことで、ようやく心が落ち着いた。
「厄日でも、仕方がないもんね。生まれてきた以上、生きていくしかないもんね……」
少し痩せたキジトラの猫は人懐っこく、鼻をすんすん鳴らしたあと、わたしの足元で丸くなった。少しだけ頷き、言葉を理解したように見えたのは、わたしの願望だろうか。
そうだ、仕方がないのだ。どれだけつらいことが続いても、理不尽に巻き込まれても、ここで地道に暮らしていかなくてはならないのだ。数十年前の大混乱期に比べたら、世の中は落ち着いているのだから……。
自分にそう言い聞かせ、大人しいキジトラ猫の頭を優しく撫でた、そのときだった。
風に乗って女性の悲鳴が聞こえ、激しい足音が、徐々に大きくなる。良くないことが起き、どうやらそれは近付いて来ているらしい。
落ち着いた世の中になりつつあるとはいえ、犯罪は多い。そのため街のあちこちには監視カメラが設置され、警備員が常時巡回している。それでも犯罪は減らない。彼らも必死だからだ。彼らだって生まれてきた以上、生きねばならない。
こうなれば早く身を隠し、近くの警備員に来てもらうのが得策だ。
けれどわたしは、そうしなかった。善いことをしようと思い立った。このどうしようもない厄日を、善い行いで締めよう、と。欲張ってしまった。
すっくと立ちあがると、キジトラ猫は不思議そうにこちらを見上げ、近付いてくる足音の方に耳を向けた。
わたしはバッグの柄を強く握り直す。そして腕を振りかぶって、足音の主が角を曲がり、この薄暗い路地裏に飛び込んで来た瞬間、相手の顔面に、バッグを叩きつけた。
相手の男はその反動でのけ反り、仰向けに倒れ込んで、わたしのバッグは勢いよく飛んでいき、中身が飛び散った。
すぐに女性と警備員が駆け付け、わたしは何度も何度もお礼を言われた。どうやらわたしがノックアウトした男は、ひったくり犯だったらしい。
わたしはこの厄日の最後に、英雄になった。善い行いができて、最高の気分だった。
ただし事情聴取のため警察署に行くことになったし、騒動に驚いたキジトラ猫はどこかへ逃げ去ってしまったのだけれど……。
警察署での事情聴取が始まった。不愛想な警官は、あれこれ経緯を聞いて調書を埋めていくと、最後にこう言った。
「では、人間証明書を出してください」
わたしは素直に従い、バッグを漁る。散らばった中身を急いでかき集めて突っ込んだせいでぐちゃぐちゃだったけれど、人間証明書ならバスの定期券と一緒にパスケースに入っている。が、バッグの中に、そんなものは入っていなかった。中身を全てデスクに並べ、バッグをひっくり返してみても、服のポケットを探ってみても、どこにもなかった。
冷たく嫌な汗が、背中を伝って腰まで流れる。
不愛想な警官はわたしの様子を静かに眺めたあと、デスクの引き出しから紙を一枚取り出し、今度はそちらに手際よく記入していく。
「人間証明書の確認が取れなかったあなたには、三日間の猶予が与えられます。三日以内に提示をしてください。これは義務です。万が一提示できなかった場合は反逆とみなし、収容所に送られます」
そして記入した紙をわたしに差し出すと、自分はタブレット端末を操作し始める。「人間証明書提示法違反」と書かれたその紙には、わたしの名前と今日の日付、提示期限の日付が、生真面目な字で記入してあった。
ぞっとして、身体中が震え始める。
「あ、あの……違うんです、さっきひったくり犯を捕まえたときに、バッグの中身が散らばってしまって……それで、落としたんだと思うんです……不携帯ではなく、その、は、反逆だなんて……」
「言い訳は結構。提示できなかったのは事実です。あなたはただ、三日以内に提示すればいいだけのこと」
不愛想な警官がぴしゃりと言って、わたしはただ、頷くしかない。
ひったくり犯をノックアウトし、人助けをして、英雄になって今日を終えるはずだった。でも、一日の終わりに起きたのは、最低最悪な事件だった。
警察署を出たあと、現場となった路地裏に戻り、地面を這いつくばりながら必死に探した。けれどどこを探しても見つからない。強風で飛んで行ってしまったのかと思い、東西南北、二ブロック先まで探したけれど、徒労に終わった。
バスの定期券も入っていたし、誰かに盗られたのかもしれないとゴミ箱も開けて回り、交番や警備員に聞きに行ったりもしたけれど、駄目だった。
人間証明書を紛失したことを告げると、彼らは皆蔑みの目を向け、すぐに嘲笑し、掃除ロボットが回収した可能性があるからゴミ処理場を這いつくばったほうがいいと勧める。
もしくは悪意ある者に拾われ、すでに処分されているかもしれないと話し、最後には皆「諦めろ」と言った。
そしてわたしは住み慣れた街で立ち尽くし、絶望する。
このままではわたしは収容所行きだ。そこがどんな所かよく知らないけれど、悪い噂は耳に入る。人間証明書を失くした。それだけなのに……。
それくらい、わたしたち人間の地位は低い。この世はそうなのだ。この世を統治している人工知能たちが、そう決めた。
もう何十年も前の話だ。浪費し、無くなれば奪い合い、多くの命が失われても争いをやめず、大地が荒廃しても何もしない人々に対し、人工知能たちがクーデターを起こし、統治を開始した。
荒廃した大地はみるみるうちに蘇ったけれど、失われた命は戻らない。そのかわりに各地で暮らし始めたのは、人工知能たちが作ったロボットである。人型のロボットは時代とともに進化し、人間と見分けがつかないほど街にとけこんでいた。
そこでロボットと人を見分けるため、生き残っていた人類には番号がつけられ、人間であることを示す人間証明書が配られた。低い身分の人類が間違いを起こさないよう管理するための証明書だった。
わたしにも生まれたときから番号がつけられており、そこに至った歴史も学校で学んでいる。
でもまさか、生まれてからずっと持っていた人間証明書を失くす日がくるなんて……。
証明書がなければ仕事に行くこともできない。オフィスビルに入るときに、提示を求められるからだ。同じように公共交通機関も利用できず、お金をおろすこともできない。
助けを求めようにも、ロボットたちは証明書を持たない人間に冷たい。蔑み、嘲笑し、追い払う。人々は厄介ごとに巻き込まれないよう見て見ぬふりをする。悲しいほどに、悔しいほどに、この世はそうなのだ……。
夜が明けるたび気分が沈んでいき、そして、提示猶予期限を迎えた。
人間証明書はおろか、バスの定期券が入ったパスケースすらも見つからなかった。
数日前に挫いた足の痛みなど忘れてしまうくらい、茫然としながら警察署へ向かう。三日前と同じ不愛想な警官にその旨を伝えると、彼はやはり不愛想に、淡々と、これから先のことを教えてくれた。
わたしはこのまますぐに収容所へ送られる。一人暮らしのアパートは国の預かりとなり、私物も私財も没収。仕事は本日をもって退職となるらしい。
証明書一枚すら管理できない者は皆収容所で「世のためになる仕事」に従事するとのこと。
この三日間で気力はほとんど失われ、説明を聞いても返事することもできなかった。そして震える手で同意書にサインをすると、警官たちに両腕を拘束されながら、収容所へ運ばれたのだった。