緑濃い山中。新菜は鈴花の使う神具の手入れを怠ったとして、罰として三日間家を追い出されていた。食べるものもなく、山中に実っていた木の実で飢えをしのいでいたところ、あの湖の傍の祠の前に来た。新菜は苔むした祠に対して拝礼をし、随分忘れ去られてしまっている神さまの気休めにでもなればと、その場でひふみうたを唄った。
唄い終わると、知らぬ間に美しい青年が祠の隣に立っていた。
『どなたでしょうか?』
記憶の中でミツハにそう問いかける新菜に、ミツハは、唄を聞かせてもらった、ありがとう、と言った。言ってから、ミツハが苦しそうに片膝をついた。慌てた新菜は、ミツハに手を差し伸べて、聞いた。
『大丈夫ですか? どこか痛むのですか?』
手を握った一瞬あと、生い茂る木々の葉の間から、にわか雨が降り注いだ。空を仰ぐと眩い太陽の光も差していて、そこに大きくはないが美しい虹が掛かった。
『君』
ミツハが新菜を呼ぶ。はい、と応えた新菜に、ミツハは、私に名をくれないか、と願った。
『君の力で私に命を与えて欲しい。私は今の名のままでは枯れてしまう。新しい名をつけて、力を分けて欲しい』
新菜は不思議とこの時、ミツハが人ではないことを悟っていた。その言葉を素直に受け取り、今しがた見た、美しい景色とミツハの美しさを重ねた。唇が、動く。
――――【虹天さま】、と
ふう、と目を開ける。目の前には天帝とその上の舞宮の天井。天井がミツハに繋がっているような感覚を覚えた。新菜は天を向くと祈りの言葉をミツハに捧げる。
「【祈り願う地の民に代わり、我、天雨新菜が虹天さまに請う】。地に雨を。恵みの雨をくださいませ」
澄んだ高い声でそう告げると、舞宮の天井からミツハが……、現身のミツハが新菜の許にひらりと舞い降りてきた。そうして新菜の手を取り、その場に膝まづく。
「新菜、我が巫女姫。君の願う通りに。地に雨を。恵みの雨をもたらそう」
『我が巫女姫』。ミツハは新菜を見つめて嬉しそうにそう言い、新菜の額に口づけた。ミツハの唇が触れたところが熱を持ち、ミツハの印(しるし)である印(いん)が朱に浮かぶ。……母の額にもあったそれ。巫が天神に認められた印だと言っていた、それ。それからミツハは腕をゆるりと降ると、窓の外の雷鳴は止み、代わりに穏やかな雨が降り注いだ。
きらきらと。
きらきらと、銀糸の雨が降り注ぐ。
新菜はその景色を窓の外に見ると、その場で朗々と告げた。
「【天末に祈りを】。神さまは祈りを欲しておられます。贄も供物も要りません。ただ、祈りを欲しておられます」
この先、祈りで困る神さまが居なくなれば、自分の記憶などどうでもいい。新菜は穏やかな顔で微笑んだ。
三年ぶりの静穏な雨は、その後しばらく降り続いた…………。