新菜は来たこともない御殿の中を夢中で現実から逃げて、窓から広い庭に出て更にがむしゃらに走っていた。逃げられれば何処でも良いと思った。辛い過去、目の当たりにした血を分けた家族から逃げられれば、何処でも良いと。
急ぎ過ぎて、つま先が地面に引っかかる。転びそうになって、やや足を止める。それでも御殿から遠く走ろうとする気持ちはなくならなかった。
再び走り出した時、ふとあたりに切羽詰まったミツハの声が聞こえた。
『新菜! 其処から動くな! 今、迎えに行く!』
明らかに普通に聞いたミツハの声ではない。感情が、と言うのではなく、振動が。
「ミ、ミツハさま……。でも、私……」
ミツハがああ言ってくれたけど、まだミツハを呼ぶための名前だって思い出してない。ミツハが鈴花を跳ね除けたその根拠が、今の新菜にはない。役立たずなんだ、と知らされてミツハの前になんて居られないと思った。そんな新菜を、ミツハが追う。
『其処から動くな。外に出られては、私も迎えに行けない』
そう聞こえてきたのは胸の中。……着物の袷から飛び出ていた首飾りからだった。
見れば飾りが蒼く光っている。……と思えば、すうと、そこからミツハが抜け出てきた。
「……っ!? ミツハさま!? ……これはいったい……!?」
驚きにその場に立ち止まった新菜を、その場に現れたミツハが抱き締める。間に合わないかと思った、と肩の力を抜くミツハに、申し訳ないことをしたのだと、漸く新菜は思い至った。
「も……っ、申し訳ありません……。お役目も果たさず……」
名前を思い出さないまま、ミツハの前を去ろうとした。ミツハを救うために巫女になると約束した、その約束さえ果たさずにミツハの前から消えようとした。その罪に俯いていると、君を失うくらいなら、雨などいくらでもくれてやる、とミツハが安堵のため息交じりに呟く。
「だが、君が約束を違えない人だという事は知っている」
ミツハは見ていた。ずっと自分の力になろうと努力していた新菜を。だから、本当にミツハの前から居なくなってしまうとは思っていなかった。ただ、傍から居なくなった新菜に動揺した。
「君がずっと接してきた家族だ。思うことも多々あろう。それはそれとして君の心の中で折り合いがつくことを待つよ。だが……」
私の傍から、居なくならないで欲しい。
間近で囁かれた言葉は、使用人たちが色めいていた、焦がれる人からの言葉に似ていた。
そう思いついた時、新菜は混乱する。
(お、お慈悲! ミツハさまは家族から冷たく当たられた私を気遣って言って下さるだけ……!)
そうは思っても、胸が走るのを止められない。
ぎこちなく、やせ細った腕が持ち上げられる。
(いまだけ……。……慰められる振りでも良いから、縋らせて頂けませんか……)
どくどく走る、この鼓動の行方を知らない。
それでも新菜は、おずおずとその荒れた手をミツハの背に回した。
気づいたミツハがより一層、新菜を抱きこむ。
風が流れたのに気づくまで、しばらくの時間を要した……。