庵の中には白い斎服に身を包んだ若い娘が顔を青くして座っていた。目はうつろで、自分の身の上に起きることに恐怖しているのがありありと分かった。新菜も父・泰三に贄となるよう言われた夜、己の生きた道と翌日に途切れる自分という存在を受け入れがたい気持ちで震えていた。彼女の心のうつろさが身に染みて分かってしまう。
(ああ、胸が痛む……。こんなこと、止めさせなければならないのに、私は村の人を説得する術も、あの子を逃がす手立ても、持っていない……)
そう思い悩んでいた、その時。
「やあ、新菜さん。そこで何をしているのかな?」
突然背後から声を掛けられて、飛び上がるほどに驚いてしまう。振り向けば、緑青の着物に身を包んだナキサワがそこに居た。背後には簡素な井戸があり、ナキサワはそこから出てきたのかと推測する。
「ナキサワさま……」
「君は宮奥に居るものだとばかり思っていた。何をしに、この村に?」
「ナキサワさま、お力を貸して頂けませんか? この建物の中に居る少女が、もう直ぐ天雨神さまへの贄として池に沈められてしまうのです」
「ほう、贄として。しかしそれを決めたのは人間だろう。人の決めたことに、僕たち神が出来ることはない。願われれば別だけどね」
ナキサワは娘が贄になるのを止めないと、全く悪びれもなく言った。
「そんな……。あの子は私です。私も少雨のため、湖に身を投げろと命じられました。同じ境遇にいるあの子を、何とかして救ってあげたいのです……」
新菜にはミツハが現れたが、あの子にはおそらくそれは望めない。であれば、彼女が池に沈む前に助けてやりたい。沈まなければ、呪詛を唱えなくてもいいようになる。新菜は再度、ナキサワに縋った。
「私に契約を持ちかけて頂けたのなら、同じお気持ちであの子を救ってはいただけませんか? あの子が贄になる意味はないのです」
「そうは言っても、僕はあの子と何の契約もしていないし、彼女とのつながりは一切ないよ」
尚もきっぱりと言うナキサワに、新菜は涙を浮かべた。
……おそらくこれが神という存在なのだろう。自身に与えられた役割に忠実に願いを叶えている。神それぞれに役割があるからこそ、干渉し合わない。そういう事なのだろう。でも、いっとき……、いっときあの子の助けになってくれれば……。新菜は彼女を助けられない無念の気持ちで涙を零した。その涙を、ナキサワが指でそっと拭った。
「この涙はとても清い。君は真実、人に心を寄せることが出来る心やさしい巫女なんだね……。我欲でなにもかもを欲する鈴花とは大違いだ」
「では……」
ナキサワの言葉に期待を寄せた新菜だったが、しかし君の望みは叶えられない、とナキサワは言った。
「僕に出来ることは井戸の水を潤すことだけ。他には何も出来ないよ」
残念だけど、とナキサワは新菜の隣に立った。それでも新菜は彼女の呪詛を止めなければならない。ミツハと約束したのだから。
新菜は再度、明り取りの窓から庵の中を窺った。娘がブツブツと唱えているのは祝詞だろうか。声が小さすぎて聞こえない。目を凝らすが、唇の動きからも、言葉は読み取れなかった。
ふと、ナキサワに似た知った気配が娘に近づくのを感じた。……これは水宮で会ったヤマツミの気配ではないだろうか。彼が娘を助けようとしているのだろうか。新菜は目を凝らしたまま、ヤマツミの姿を探したが、気配だけで姿を見ることが出来ない。ヤマツミが彼女を助けてくれればいいのだが、と新菜は祈った。
(ああ、胸が痛む……。こんなこと、止めさせなければならないのに、私は村の人を説得する術も、あの子を逃がす手立ても、持っていない……)
そう思い悩んでいた、その時。
「やあ、新菜さん。そこで何をしているのかな?」
突然背後から声を掛けられて、飛び上がるほどに驚いてしまう。振り向けば、緑青の着物に身を包んだナキサワがそこに居た。背後には簡素な井戸があり、ナキサワはそこから出てきたのかと推測する。
「ナキサワさま……」
「君は宮奥に居るものだとばかり思っていた。何をしに、この村に?」
「ナキサワさま、お力を貸して頂けませんか? この建物の中に居る少女が、もう直ぐ天雨神さまへの贄として池に沈められてしまうのです」
「ほう、贄として。しかしそれを決めたのは人間だろう。人の決めたことに、僕たち神が出来ることはない。願われれば別だけどね」
ナキサワは娘が贄になるのを止めないと、全く悪びれもなく言った。
「そんな……。あの子は私です。私も少雨のため、湖に身を投げろと命じられました。同じ境遇にいるあの子を、何とかして救ってあげたいのです……」
新菜にはミツハが現れたが、あの子にはおそらくそれは望めない。であれば、彼女が池に沈む前に助けてやりたい。沈まなければ、呪詛を唱えなくてもいいようになる。新菜は再度、ナキサワに縋った。
「私に契約を持ちかけて頂けたのなら、同じお気持ちであの子を救ってはいただけませんか? あの子が贄になる意味はないのです」
「そうは言っても、僕はあの子と何の契約もしていないし、彼女とのつながりは一切ないよ」
尚もきっぱりと言うナキサワに、新菜は涙を浮かべた。
……おそらくこれが神という存在なのだろう。自身に与えられた役割に忠実に願いを叶えている。神それぞれに役割があるからこそ、干渉し合わない。そういう事なのだろう。でも、いっとき……、いっときあの子の助けになってくれれば……。新菜は彼女を助けられない無念の気持ちで涙を零した。その涙を、ナキサワが指でそっと拭った。
「この涙はとても清い。君は真実、人に心を寄せることが出来る心やさしい巫女なんだね……。我欲でなにもかもを欲する鈴花とは大違いだ」
「では……」
ナキサワの言葉に期待を寄せた新菜だったが、しかし君の望みは叶えられない、とナキサワは言った。
「僕に出来ることは井戸の水を潤すことだけ。他には何も出来ないよ」
残念だけど、とナキサワは新菜の隣に立った。それでも新菜は彼女の呪詛を止めなければならない。ミツハと約束したのだから。
新菜は再度、明り取りの窓から庵の中を窺った。娘がブツブツと唱えているのは祝詞だろうか。声が小さすぎて聞こえない。目を凝らすが、唇の動きからも、言葉は読み取れなかった。
ふと、ナキサワに似た知った気配が娘に近づくのを感じた。……これは水宮で会ったヤマツミの気配ではないだろうか。彼が娘を助けようとしているのだろうか。新菜は目を凝らしたまま、ヤマツミの姿を探したが、気配だけで姿を見ることが出来ない。ヤマツミが彼女を助けてくれればいいのだが、と新菜は祈った。