荒れた声でチコが呼ばれて部屋から出て行ったので、気になって廊下を覗いてみると、ヤマツミとナキサワが応接間から出てくるところだった。ナキサワの着物が濡れていて、新菜は咄嗟に部屋に備えられていた新しい手拭いを持って玄関に向かった二人の所へ駆けて行った。

「あの、ナキサワさま。お召し物が濡れておられます。お風邪を召されるといけませんので、拭ってください」

二人が出ようとしていた玄関で振り向き、新菜を見た。ナキサワは、これはありがたい、と手拭いを受け取ってくれた。

「こんなにやさしいお嬢さんなら、僕とも契約してくれませんかね? ねえ、新菜さん」

急に巫女の話を振られて新菜が驚いていると、ナキサワは新菜の驚きに構わず続けた。

「悪い話ではないと思いますよ。鈴花はヤマツミさまと僕の二柱と契約しているけど、新菜さんが僕を呼んでくれるなら、僕は新菜さんと契約し直しても良い。僕にとって巫女姫が誰であろうと、地の民に井戸の水を届けることは変わりませんからね。それにあなただって、ミツハさまと僕と契約すれば、鈴花を見返せるでしょう? どうです?」

見返す……。

憎悪ありきの言葉がナキサワから飛び出て驚く。ナキサワは鈴花のことを好いてはいないのだろうか?ナキサワの心中が読めず、返答を躊躇う。しかし。

「私は……、御前に立つことも許されない身でした。ナキサワさまと契約するには役不足かと思います……」

それに。

「それに、今はミツハさまの為にお尽くししたいのです。私を初めて受け入れて下さった方なのです。ミツハさまの思いに応えたい、そう思ってます。ミツハさまには献上した名を忘れてしまうという失礼をしているので……」

「ほう? 名前を?」

ミツハの思いに応えるためにも、忘れてしまった三年前の記憶を手繰らなければならない。その片鱗でもつかめれば、ミツハが喜んでくれるかもしれない。そう思って言葉を継ぐと、突然チコが口を挟んだ。

「新菜さま! お話はそのくらいにしましょう。ナキサワさまたちはお帰りになられます。ナキサワさま、新菜さまはまだ宮奥に慣れておられません。あまり強引にお話を勧めるのは如何かと思います」

新菜とナキサワの間に体を滑り込ませたチコは、まるで新菜を守るみたいにして新菜を背に庇った。

「ははっ、よくしつけられた童だ。分かったよ、今日の所はお暇するとしよう。新菜さん。契約の件、ちらりとでも良いので考えてみてください」

では。

そう言ってナキサワはヤマツミと一緒に帰って行った。何故かチコが大きなため息を吐いている。

「チコさん……?」

なにか失敗をしてしまっただろうか。そう思っていると、チコは、仕方ありません、と新菜を振り向いた。

「新菜さまは帝の前に立ったこともなければ、宮奥に来てまだ間もない。名についての重要性を御存じないのは、おっしゃらなかったミツハさまの落ち度です。ですから新菜さまは、今後もミツハさまのことだけお考え下さい」

チコはにこりと笑ったが、新菜の心には不安がよぎった。失敗を咎められないというのは、辛いものだ。だからミツハに直接謝罪した。