「あの……、鯉黒さんは昔からこの宮に?」

「そうです。雨を祈祷する地の民の神事の際に、贄として首を落とした状態で湖に投げ込まれたのをミツハさまがお救いになられました。鯉黒は人間を憎んでいますが、それは新菜さま個人に対するものではありません。新菜さまは花嫁さまとして、この宮においでくださって良いのだと思います」

「ありがとうございます、チコさん」

鯉黒を救ったミツハの気持ちはどんなものだったのだろう。眷属を殺され、自らが宿る湖に投げ込まれる。そんな人間の暴挙を、眉を顰めず見ていたとは思えない。新菜はミツハの気持ちを聞こうと面会を申し出た。

「ああ、鯉黒のことか」

「はい。……ミツハさまは、人の行いを愚かだと思われますか」

新菜が問うと、ミツハは寂しそうな笑みを浮かべた。

「……人は漫然とそこにあるものに慣れるのが早いと思うよ。我々天がいくら恵みを与えても、日々そこに当然あるものとして受け止める。いや、地の民だけならまだいい。しかし今は、天宮家すらも我々の犠牲を当たり前と受け止めている。

我々五柱はもとはが巫の宮巫女としか契約しない理だった。しかし人の世で巫の血を引く者が少なくなり、我々五柱はやむなく巫以外の巫女とも契約を試みてきた。だがそれは私たちの力という大きな代償と引き換えだった。

新菜。君は昨日、言霊の力を使ったが故に代償を支払ったと言ったね。逆に巫の血を引かない娘は、言葉に責任を持たない。我々は、そういう相手に名を預け続けてきたんだ。
その結果、我々五柱の神力は恐ろしいほど弱まった。昨今、地の世界の天気が荒れるのはその所為なんだよ」

なんと……。それでは父が鈴花を宮巫女にしたことも、ミツハに無理を強いていたという事なのだろうか。

「そうだ。それなのに天宮家は、五柱が味方しないとなると贄を送って恩恵を受けようとしてきた。それでもだめなら、末の神だのみをする。
私はね、新菜。もう人々に期待するのはやめているのだよ。君も見ただろう? 湖の傍(はた)の古ぼけた祠を。あれが私に対する、地の民の評価だ。今、井戸の神と堤の神が地下に染み込んだ水を躍起になって集めている。そうやって上面を整えて日々過ごして、いよいよ駄目になったら、なにを犠牲にしてもかまわないといった様相で縋ってくる地の民に、呆れを感じているのだよ。
鯉黒はそういった地の民の愚の行いの犠牲者だ。私が彼を救うことも、地の民により一層怒りを感じることも、おかしくないとは思わないかい?」

黙るしかなかった。本当にその通りだったから。こんな状態で、新菜が命を賭したところで、ミツハの情に訴えて一時しのぎの雨を賜るくらいしか出来ない。俯いて聞いていた新菜が顔を上げると、ミツハは口の端(は)を歪めていた。

「……では、これからも雨は賜れないのでしょうか」

「そうだな、君に神事で呼ばれるのであれば、まだよいだろうな。あの時……、君が私を助けてくれたあの時、君は何も対価を求めなかった。そんな我欲のない人間がいるのかとハッとしたよ。君の行いは、願いに請われて恩恵をもたらす我々神のようだった。そういう者が私を呼ぶなら、私は喜んでこの手を貸そうと思うよ」

買い被りすぎだ。新菜はミツハの痛みの一端も知れていない。長くの間に人々から見捨てられた祠。それでも責務として鈴花の呼びかけに応えてきたミツハ。鈴花をはじめ、歴代の巫女たちの求めに応じてきたミツハのやるせなさは如何ほどだっただろうか、新菜にははかり知ることが出来ない。鯉黒がこの宮にたどり着いたときのミツハの本当の辛さだって分からないのに、神としての責務を負ってきたミツハの空虚さを知れるはずがない。

せめて。

「……私がミツハさまを幾ばくかお慰めできたら、ミツハさまのお辛さは、少しは軽減されるでしょうか」

「ああ、新菜、我が巫女姫。私を救ってくれた君だからこそ、今度もそうであると私は信じているのだよ」

人からこのように頼られることはなかった。今まで使われても必要とされてこなかった新菜に、ミツハの言葉は深く染み込んだ。

(私は、ミツハさまを、お救いしたい)

新菜の瞳に光が宿る。ミツハが深く微笑んだ。