今度は新菜が膝をつく番だ。天雨神の前に手を付き土下座して、地面に額が付くまで頭を下げる。神さまとお会いしたことを忘れるばかりか、神さまからの贈り物についてさえ全く覚えていない自分を、新菜は叱咤した。

ざりざりとした土の地面に額を擦りつけていると、肩を下から掬いあげられて、上体を起こす形になった。自然、天雨神と向き合う形となる。美しいかんばせが目の前に迫り、いっときどきりと胸を鳴らした。天雨神はそのままの姿勢で、手の指を揃えて手のひらを額に当てると、やや瞑目してそれから残念そうに、そうか、と呟いた。

「君は私に新しい命をくれた代わりに、記憶を封じてしまったのだな。あの時は私も君の力に縋るしかなかったから仕方ないが、そうなるとますます申し訳ないと感じざるを得ない。では、この首飾りを求婚の印として君に渡したことも、忘れてしまっているのだな。それで飛び出していることにも頓着しないのか。まあ、先ずその首飾りを着物の中に仕舞いなさい。それは大事なものだからね」

きゅ、求婚!?

いきなり飛び出たとんでもない言葉に、新菜は顔を赤くするより青くした。全く、自分は覚えていない所で一体この神さまに対して何をしでかしたのだろうか?

「そんなに青ざめなくともよい。あの時君は、ごく真面目に私の望みを聞いてくれた。その結果が記憶の欠如ならば、私にはその記憶の分、君を助ける義務がある。それは分かるね?」

天雨神の言葉に頷けば、彼はおそらく誠心誠意に新菜を助けてくれるのだろう。しかし神がいち個人を助けるというのは、果たして神の道理からは外れないのだろうか。そう神さまに問うと天雨神は美しい顔をふわりと和らげて微笑んだ。

「それが恋というものなのだろう? 私には初めてのことでよく分からぬが、神に祈る人の心は良く聞き及んでいるよ」

「ご、御慈悲とは違うのですか?」

神さまが人を相手に恋をするなんて信じられない。そう言うと天雨神はそうだなあ、と視線を森の梢の方にやり、しばし考えた後、こういう答えはどうだ、と新菜を驚かせた。

「神の身で過ごす三年は短い。だが君を見送ってからの私の三年は、確かに人の時間のように長かったと思うのだ。これは君に恋い焦がれていたからという証拠にはならぬだろうか」

ぽかんと。本当にぽかんと目の前の神さまを見た。

彼が言った言葉に似たような内容の話を、新菜は天雨家の侍女や下働きの女たちから話で聞いていた。誰それともう三日会っていない、だの、今度はいつ会えるだろうか、だのと、それはそれは賑やかに、そして生き生きと頬を紅潮させて話していたのを思い出したのだ。天雨神が言う言葉が本当であれば、それは使用人たちの色恋話と変わらないような気もする。ただ、新菜に対してそれに頷けと言われても、難しい所だった。

新菜に恋の経験はない。そんなことよりあの家で受ける折檻に耐え続ける日々だったので、恋などというものに割く心の余裕がなかったのだ。日々、市子や鈴花の顔色を窺い、怒声と折檻を受け、彼女たちの気持ちに歯向かわないように努めて生きてきた。恐怖と怯えにすり減った心は、使用人たちの色恋話を遠くに聞いていたのだ。

恐る恐る、口を開く。