「……お腹痛い」
私はそっとお腹に手を当て、唇を噛んだ。
もう帰らないと。
でも、ここから教室へは結構遠い。養護教諭についてきてもらった方がいいだろうか。
「けほっ、けほっ」
咳も出てきた。一度出だすと止まらなくなるたちの悪い咳だ。
「っ、せんせっ……」
咳き込み、涙を浮かべて養護教諭を探すが、走ると苦しくなるので蹲った。
「けほっ、げほっ、けほっ……」
「月野さん!? 大丈夫ですか!?」
「先生……げほっ」
視界が滲む。私の背を摩ってくれているのはきっと養護教諭だろう。
「少し待っていてくださいね、今咳を止める薬、持ってきますから」
首を縦に振り、口許に手を当てる。
数十秒すると、養護教諭が帰ってきた。
「これ、飲んでください。すぐ効くやつですから、もう少し頑張って。ほら」
錠剤と水を差し出してくれた養護教諭の瞳が心配そうに揺らめく。
私に手渡すために養護教諭が手を動かしたので、紙コップに入っている水が揺れている。私は錠剤を口に含み、紙コップの水を飲んだ。
「……どうですか? 効き目はありますか?」
「けほっ……少しだけ、楽になりました」
「それならよかった……! あの、体調が優れないならベッドで寝ませんか? 楽になると思いますけど……」
養護教諭の言うことに従えば、私は夜までずっと眠ってしまうだろう。だから、私は首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。かなり楽になったので、帰ります。ありがとうございました」
頭を下げる。戸惑っているのが伝わってきた。
「……わかりました。保護者の方には私から連絡しておきます。月野さんは、帰る支度をしておいてください。私が教室まで付き添うので」
「いえ、一人で大丈夫です。……先生が来て、あれってなると思うんです、みんな。そこから私の病気が知られるのは嫌ですから」
虚を突かれた瞳で私を見据え、渋々といった様子で頷いてくれる養護教諭。
「……わかりました。気をつけてくださいね」
「はい」
まだ心拍数が上がっている。それでも、私は歩いた。
廊下を歩いて階段を登る。
「……あ」
立ち止まる。
「空っ……」
「……夜空?」
こちらを振り向いた空は、私を一瞬見たあと、物凄いスピードで走ってきた。
「夜空っ、なんで寝ないの! 体調悪いんでしょ?」
「……バレるの、嫌、だから」
笑顔を作って答えるが、空が納得してくれるとは思えない。
「あたし、教室まで一緒に行くから。途中で倒れたら……」
空が青い顔で言葉を切る。最悪の想像をしているのか、腕が小刻みに震えていた。
「……ありがと」
少し胸が痛くなって、振り払うように前を向いた。
*
眠りから目覚めると、見計らったように電話が来た。日向くんからだ。日向くんに番号を教えたことはないので、空から聞いたのだろう。多分、私を通さず空に聞いた方が早いと感じたから。
「もしもーし。どしたの急に」
『もしもし、月野? ごめん、急に』
日向くんの声は、珍しくとても焦っているようだった。
「いよいよ。どしたん?」
『ああ、えっと、単刀直入に言うと——陽空が倒れた』
「——え?」
——私が涼しい部屋でのこのこと寝ている間に……?
「……最悪」
『え? 何か言った?』
「ううん。なんでもない」
『そっか。……じゃあ、俺から電話して悪いけど切るね。……月野には伝えたかったんだ、陽空のこと』
「……っ」
目を見開く。
『じゃ、また明日学校で』
「……うん、じゃあね」
電話を切ると、ベッドに転がった。
「なんで気づかなかったんだろ……」
青井くんが辛い思いをしていたのに私はぐっすりと眠るだなんて。考えすぎだと言うことはわかる。それでも、性格が性格だから気にしてしまう。
「……夜空? 少し、いいかしら」
こんこん、と控えめにノックをしてこれまた控えめに問いかけたのは、母だ。
「ん、いーよ。どうぞ」
私の返答を訊き、カチャリと戸が開く。
「え……大丈夫?」
母は、私が問うてしまうほど真っ青だった。
「え? ああ……大丈夫よ……。それよりも……夜空。今日、早退したわよね」
「うん……体調悪くなっちゃって」
「…………」
困惑する私の前で、母は下を向いてしまった。
……嫌な予感がする。
「……今日、病院から電話があったの」
たっぷりと間を置いて母が放ったのは絶望的なことだった。
私の病気、『月光病』は、死亡率約0.01パーセントの比較的大丈夫な病気だと、医師から聞いていた。
——でも。
母によると、どうやら違ったらしい。
私が患った病は所謂『奇病』というやつで、現在進行形で研究が進められているものだ。
そこで、新たな情報が見つかったらしい。
——だんだん起きていられる時間がなくなっていって、夜に溶けていく。
溶けるイコール“死”だ。物理的に溶けるのかはわからないけれど、とにかく死ぬらしい。
「え、え、な、なんで……? 私、死ぬの? どうして? なんでよ。なんで私が? ねえお母さん。私……生きられないの?」
心の中がぐちゃぐちゃになっていく。ショックや訳のわからない怒り、悲しみ、虚しさ、孤独さ。そして——絶望、恐怖。
私の言葉を聞くと、母は私を抱きしめた。
肺が圧迫されて苦しくても、どうでもいい。涙が溢れた。
「夜空っ……ごめんね……。丈夫に生んであげられなくて……ごめんね……ごめんね……」
「うっ……っく……」
「あと一年半……頑張ろうね……ごめんね……」
一年半。
それが、私に与えられた猶予。あまりにも少ない。もっと、もっと空や日向くん、そして——青井くんと、遊びたかったのに。
私は、来年の冬、絶望の中で雪降る夜に溶けていく。
私はそっとお腹に手を当て、唇を噛んだ。
もう帰らないと。
でも、ここから教室へは結構遠い。養護教諭についてきてもらった方がいいだろうか。
「けほっ、けほっ」
咳も出てきた。一度出だすと止まらなくなるたちの悪い咳だ。
「っ、せんせっ……」
咳き込み、涙を浮かべて養護教諭を探すが、走ると苦しくなるので蹲った。
「けほっ、げほっ、けほっ……」
「月野さん!? 大丈夫ですか!?」
「先生……げほっ」
視界が滲む。私の背を摩ってくれているのはきっと養護教諭だろう。
「少し待っていてくださいね、今咳を止める薬、持ってきますから」
首を縦に振り、口許に手を当てる。
数十秒すると、養護教諭が帰ってきた。
「これ、飲んでください。すぐ効くやつですから、もう少し頑張って。ほら」
錠剤と水を差し出してくれた養護教諭の瞳が心配そうに揺らめく。
私に手渡すために養護教諭が手を動かしたので、紙コップに入っている水が揺れている。私は錠剤を口に含み、紙コップの水を飲んだ。
「……どうですか? 効き目はありますか?」
「けほっ……少しだけ、楽になりました」
「それならよかった……! あの、体調が優れないならベッドで寝ませんか? 楽になると思いますけど……」
養護教諭の言うことに従えば、私は夜までずっと眠ってしまうだろう。だから、私は首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。かなり楽になったので、帰ります。ありがとうございました」
頭を下げる。戸惑っているのが伝わってきた。
「……わかりました。保護者の方には私から連絡しておきます。月野さんは、帰る支度をしておいてください。私が教室まで付き添うので」
「いえ、一人で大丈夫です。……先生が来て、あれってなると思うんです、みんな。そこから私の病気が知られるのは嫌ですから」
虚を突かれた瞳で私を見据え、渋々といった様子で頷いてくれる養護教諭。
「……わかりました。気をつけてくださいね」
「はい」
まだ心拍数が上がっている。それでも、私は歩いた。
廊下を歩いて階段を登る。
「……あ」
立ち止まる。
「空っ……」
「……夜空?」
こちらを振り向いた空は、私を一瞬見たあと、物凄いスピードで走ってきた。
「夜空っ、なんで寝ないの! 体調悪いんでしょ?」
「……バレるの、嫌、だから」
笑顔を作って答えるが、空が納得してくれるとは思えない。
「あたし、教室まで一緒に行くから。途中で倒れたら……」
空が青い顔で言葉を切る。最悪の想像をしているのか、腕が小刻みに震えていた。
「……ありがと」
少し胸が痛くなって、振り払うように前を向いた。
*
眠りから目覚めると、見計らったように電話が来た。日向くんからだ。日向くんに番号を教えたことはないので、空から聞いたのだろう。多分、私を通さず空に聞いた方が早いと感じたから。
「もしもーし。どしたの急に」
『もしもし、月野? ごめん、急に』
日向くんの声は、珍しくとても焦っているようだった。
「いよいよ。どしたん?」
『ああ、えっと、単刀直入に言うと——陽空が倒れた』
「——え?」
——私が涼しい部屋でのこのこと寝ている間に……?
「……最悪」
『え? 何か言った?』
「ううん。なんでもない」
『そっか。……じゃあ、俺から電話して悪いけど切るね。……月野には伝えたかったんだ、陽空のこと』
「……っ」
目を見開く。
『じゃ、また明日学校で』
「……うん、じゃあね」
電話を切ると、ベッドに転がった。
「なんで気づかなかったんだろ……」
青井くんが辛い思いをしていたのに私はぐっすりと眠るだなんて。考えすぎだと言うことはわかる。それでも、性格が性格だから気にしてしまう。
「……夜空? 少し、いいかしら」
こんこん、と控えめにノックをしてこれまた控えめに問いかけたのは、母だ。
「ん、いーよ。どうぞ」
私の返答を訊き、カチャリと戸が開く。
「え……大丈夫?」
母は、私が問うてしまうほど真っ青だった。
「え? ああ……大丈夫よ……。それよりも……夜空。今日、早退したわよね」
「うん……体調悪くなっちゃって」
「…………」
困惑する私の前で、母は下を向いてしまった。
……嫌な予感がする。
「……今日、病院から電話があったの」
たっぷりと間を置いて母が放ったのは絶望的なことだった。
私の病気、『月光病』は、死亡率約0.01パーセントの比較的大丈夫な病気だと、医師から聞いていた。
——でも。
母によると、どうやら違ったらしい。
私が患った病は所謂『奇病』というやつで、現在進行形で研究が進められているものだ。
そこで、新たな情報が見つかったらしい。
——だんだん起きていられる時間がなくなっていって、夜に溶けていく。
溶けるイコール“死”だ。物理的に溶けるのかはわからないけれど、とにかく死ぬらしい。
「え、え、な、なんで……? 私、死ぬの? どうして? なんでよ。なんで私が? ねえお母さん。私……生きられないの?」
心の中がぐちゃぐちゃになっていく。ショックや訳のわからない怒り、悲しみ、虚しさ、孤独さ。そして——絶望、恐怖。
私の言葉を聞くと、母は私を抱きしめた。
肺が圧迫されて苦しくても、どうでもいい。涙が溢れた。
「夜空っ……ごめんね……。丈夫に生んであげられなくて……ごめんね……ごめんね……」
「うっ……っく……」
「あと一年半……頑張ろうね……ごめんね……」
一年半。
それが、私に与えられた猶予。あまりにも少ない。もっと、もっと空や日向くん、そして——青井くんと、遊びたかったのに。
私は、来年の冬、絶望の中で雪降る夜に溶けていく。