それは、ある快晴の日だった。
 彼が、私に話しかけたのは。

 *

 俺は、夢を見ていた。
 高いところで一つに結った小柄な女子が屋上に立ち、涙を流しながら笑っている、そんな夢。
「ありがとう。大好きだよ、陽空(ひそら)
 なんで俺の名前を知ってるんだ?
 ——こいつは、誰だ?
 
 ちょうどいいところで俺は夢から覚めた。
 あの小柄な女子が目に焼き付いて離れない。
 制服は俺の通っている高校のものだった。
「探してみるかなー」
 俺はのっそり起き上がり、まだ寝ている身体を引き摺って階下へ降りた。

 登校しているとき、いつも思う。
 なぜこんなに暑いのだろうと。
 いや、暑くて晴れている方が俺にとっては良いのだけれど。
「はよー陽空ー」
「はよー」
 ボーッとしていたら、幼馴染の日向(ひなた)が話しかけて来た。
「お前、なんか調子悪そーだぞ? まだ寝てたほうがいいんじゃねぇか?」
「保護者かよ、起きてられるわ。……知らねぇ女が夢に出てきたんだよ」
「えぇ? それはぁ、未来の陽空クンの彼女だよぉ」
 身体をくねらせ、上目遣いでこちらを見る日向。正直言ってクソうぜぇ。
「阿保かよクソが」
「きゃー陽空クン酷いぃ」
「棒読みで言ってる時点でそう思ってねぇんだろ」
「……バレた?」
 マジで殴ろうかと思っていたから、降参してくれてありがたい。
「お前も災難だよなー。変な病気になってさぁ?」
「仕方ねぇだろ。治療法ねぇけど、一応死なねぇし」
 俺は、日向の言う通り病気を患っている。
 太陽の出る時間しか起きられない、悪趣味な病気だ。
 さっきも言ったが、治療法は無い。死にはしないから、まだいいけれど。
「死ぬなんて物騒なこと言うなよー! こえーだろ! 俺、陽空がいなくなんのやだー! 陽空ー! うわー!」
「うっせえな、死なねえわ! 黙れ!」
 日向の口を塞ぎ、一発脹ら脛に蹴りを入れる。
「って! なにすんだよてめぇ!」
 こいつ、喧嘩よえーくせにイキりやがって。
「あのなぁ、俺は時間が限られてんだよ。日向の茶番に付き合う暇はねぇ」
「へいへい。わかったよーだ」
 そうやってふざけあってるうち、学校に着いた。
 そのとき、向こうから、見知った小柄な女子が近づいてくる。
「あ、日向くん、おはよ! 陽空くんも」
「おっ、(そら)。はよ」
「空ちゃんおはよ! 今日も可愛いね! 大好きだよむぐぐ!」
「人前で叫ぶな!」
 愛の言葉を叫ぶ日向の口を、華麗な技で塞ぐ空。
 一ノ瀬空は、日向の彼女だ。数ヶ月前できたらしい。日向繋がりで俺とも仲良くなり、今は下の名前で呼ぶほどだ。
 白雪のような肌に似合う大きな瞳。小さめな鼻にぷっくりとした唇。髪はショートで、日向が可愛いと言うのも無理はない。
「まったく……日向くんはいっつもこうなんだから……」
 ぶつぶつ呟く空の頰は、林檎のように真っ赤だ。
「ごめんって空ちゃん。教室行こ?」
 日向の声が空の怒りを静めたらしく、彼女は素直に頷いた。
 歩きながら、たわいもない話をする。
 時折惚気を聞かされ、気づけば教室に着いていた。
「あれ、まだ夜空(よぞら)来てないんだ」
 クラスの真ん中の空席を見ながら空が言う。
「夜空?」
「うん。月野(つきの)夜空。あたしの親友なの。ちょっと事情があって、いつも休んでんだよね。今の時間帯なら来れるはずだけど……」
 事情?
 聞き返そうと思ったが、空がこれ以上聞くなという表情をしていたのですんでのところでやめた。
 プライベート空間に土足で踏み入るようなことはできない。
 日向も不思議そうな顔をしていた。
「ああ、月野か、あの美少女の」
 急に日向が呟く。
 不思議そうな顔していたけれど、月野が誰だってことだったのだろうか。
「日向くん? あたしを差し置いて夜空に惚れるつもりなのかなー?」
 鋭い眼光になった空が日向を睨む。
「えっ? いやいや、そんなわけ! 空ちゃんの方が可愛い! 好き! 好き好き好き好き! 大好き!」
「はあ!? 何言って! こんな人前でっ!」
 空がおちょくった癖に頰が真っ赤だ。
「おっはよう!」
 突然、背後から高い声が聞こえた。
「私の話してたの? なになに聞きたい!」
 この声——月野夜空の声だ。
 振り向いて確認する。
 さらさらの黒髪を高く纏め、大人っぽい微笑みを浮かべる女子。月野だ。
 ……こいつ、どこかで見たような……。
 なにか大事なことを忘れている気がする。
 深い思考の海に潜ろうとしたが、やめた。空が大声を出したからだ。
「わっ、夜空、今来たの!? 急に話しかけるからびっくりした!」
「あははっ、ごめんごめん! 気になって盗み聞きしてたー」
「いや、やめろよ」
「ふふっ」
 俺は特大の溜め息をついた。

 *

 一時限目を終え、俺は大きな欠伸をする。
「あーおいくん!」
「なんっ!?」
 急に後ろから肩を叩かれ、変な声が出てしまった。
「っ、月野かよ……驚かせんなよ」
 背後を確認しなくてもわかる。声が可愛らしいから、すぐにわかるのだ。
「ふふっ、よくわかったね」
「お前声特徴的だからな」
「なにそれー? 私の声が変だってことー?」
 振り向くと、少しむっとした顔をして俺を睨んでいる。
 ……美女が睨むとすごく怖い。
「まーまー、ちょっとさ、こっち来てほしくて」
 そう切なげに微笑むと、俺の手を取って歩き出した。
「どこ行くんだよ?」
「秘密っ」
 小さな手の平から伝わる体温は、異常なほど冷たかった。

「とうちゃーく」
 屋上の戸を開け、月野が明るく声を出す。
 青々とした空に、薄っすらと月が見えた。
 なぜ屋上の鍵がかかっていないのだろうか。
 いつの間にか繋いだ手は熱を帯び、恋人繋ぎとやらになっていた。解こうとしても、月野の力が強くて解けない。
「っ、おい月野、」
 離せ、と言う前に月野が俺に、
「連絡先教えて」
 と言ってきた。
 満面の笑みで言う月野に、少しカチンときてしまった。
「……は? そんだけで俺を屋上まで呼び出したのか? 生憎俺は暇じゃねえんだわ。そんだけなら教室戻りてえんだけど。暑いし」
 思わず言葉が口をついて出た。
 しまった、と頭の片隅で思い、違う、と言おうと口を開く。
 が——。
「——だめなの、ここじゃなきゃ」
 真剣な顔で言われ、口を開けたままの状態で固まってしまった。
「ってことで。スマホ、だーして!」
「……」
 黙ってスマホを差し出す。
 にこにこと笑ってはいるが、その顔は『これ以上訊くな』と言っているようだった。
「よーしっ、おっけーだね! んじゃ、暑いし戻ろっか!」
 まったく意味のわからない奴だ。
 だが、なぜか俺はそんな月野から目が離せなくなっていた。

 月野と話したい。
 無意識に思ったら、止まらなくなった。
 二時限目を終え、欠伸を噛み殺して月野の元へと向かう。
「……え」
 月野を見るなり、声が溢れた。
 ——彼女が帰り支度をしていたから。
「あ、青井(あおい)くん。えっとね、急に早退しなくちゃいけなくなって」
 そう言う月野の額には、大粒の汗が浮かんでいる。顔色も悪い。
「どうしたんだよ、そんな調子悪そうにして」
「っ、えっとぉ……」
 ぴくりと肩を跳ねさせ、言葉を濁す月野。
「ね、熱? が、あってぇ……」
「はあ? 熱? じゃあなんでここにいんの。保健室で寝てるべきでしょ」
「っ、あ、うんとー……微熱、で、大丈夫、なの」
 硝子玉のように透けた瞳を逸らし、微かだが唇が震えている。
「あっそ」
 放っておいてほしそうだったので、追求するのはやめた。
「じゃっ、あね」
 ぎこちなく笑み、声を上擦らせながら言う。
「ん」
 少し痛々しく見えて、目を逸らした。
 そうしている間に、月野は教室から出ていってしまった。
 月はまだ出ていた。

 *

 やっとのことで一日が終わり、俺は帰り支度をする。部活などしている暇はない。
 と、空がこちらに向かってくるのが見えた。
「陽空くん、もう帰るの?」
「おう。俺帰宅部だし」
「陽空くん、足速いし陸上部とか向いてそうだけどやってないんだ」
「よく言われっけど、早く帰んないといけねえんだよ」
「そうなんだ。長く引き止めてごめん。じゃね」
 空が胸の前で手を振るので、俺もそれに倣って手を振った。小さな背中がどんどん遠くなってゆく。
「っつ……」
 急に、頭痛が襲ってきた。頭が割れそうなほど痛み、吐き気もする。
 頭を抑え、鞄を適当に引っ掴んで教室を出る。
「う……」
 気持ちが悪い。吐いてしまいそうだった。
 目眩と眠気も襲ってくる。
 ふらふらとよろめきながら、昇降口へ向かう。
 そのときだ——。
「おいおいおい陽空!? おまっ、病気!」
「ひなった……?」
 ——空とデートをすると言って帰ったはずの日向が俺の肩を担いでいた。
 口許を抑え、身を預ける。
「何してんだよお前! なんですぐ帰んなかったんだよ!?」
「や……人とっ、話して……うっ」
「ぅおいおい話すな!」
 ゆっくりと、でも確実に歩かせてくれる日向。
「そっ、らは……? うっ、」
「空ちゃんは昇降口! てか喋んなって!」
 首を縦に振りながら、唇を噛む。こんな惨めな姿、見られたくなかった。
 そういえば、いつもより症状が重い。それに、発症までの時間が格段に減っている。
 ——『大丈夫です。日光病(にっこうびょう)は命に関わるものではありませんよ』
 医師の言葉が脳内で再生される。
「——ら……!」
 日向の声がする。答えなくては。
 でも、俺の身体は意志に反してぐったりとしてきて、いつの間にか気を失っていた。

 *

「——そうですか、陽空が……。——はい、わかりました。——すみません」
「おにーちゃん、どうかしたの?」
 ボクは、電話を終えた母に問う。
「お兄ちゃん、倒れちゃったって」
 弱々しく笑む母。
「——え」
 声が洩れた。
 お兄ちゃんの病気は知っていた。家に帰ると母が作り置きした夕飯をすぐ食べてベッドでぶっ倒れていたし。
 一度、お兄ちゃんの顔に猫じゃらしをあてたことがある。けれど、くしゃみをすることも目を開けることもなかった。ボクはそこで、物凄い鳥肌に襲われた。このまま一生、お兄ちゃんが目を覚まさなかったら。
 お兄ちゃんに縋り付いて起こそうとしたけれど、いつもみたいに頭も撫でてくれないし、笑ってもくれなかった。
 あの日以来、お兄ちゃんの部屋には入っていない。あのときの恐怖が蘇りそうだから。
「お兄ちゃん、大丈夫なの?」
「——大丈夫よ、空葉(そらは)。お兄ちゃん、きっと、疲れちゃっただけだから。空葉はなにも気にしなくていいのよ」
 母はやはり弱々しく微笑んで、ボクを抱きしめた。
 抱きしめてくれた、というより、母がボクに縋りついた、という表現の方が合っている気がする。母も、きっと精神がやられているのだ。お兄ちゃんが病気と知ってから。
 でも、ちゃんとボクも見てくれている。いつも構ってくれている。——はずなんだ。たまに、母はいつも遠くを見ている気がするからそんなふうに思ってしまうけれど。
 疲れたように、母はそっとボクを離した。
 その瞳に、大きな戸惑いと恐怖、表せないような焦燥感が隠されている気がした。