「おーい、いずみーん」
 学校の外の道を、駅のほうに向かって駆けていると、突如後ろから私を呼ぶ声がした。
 驚いて振り向いた私の目に、軽やかな足取りでこちらに向かって走ってくる日和くんの姿が飛び込んできた。私は驚きに目をる。
 彼とは保健室を出るときに別れたはずなのに、しかもまだ授業中のはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。まさか私を追いかけてきたのだろうか。ありえない、どうして。
 わけが分からないながらも、私は追いつかれないようにスピードを上げ、必死に足を動かす。
「いずみん、どこ行くの?」
 でも、相手はさすが現役バスケ部員。一瞬で追いつかれてしまった。
「な……なんで……?」
 私はぜえぜえ息を切らしながら訊ね返した。
 質問の意図を汲んでくれたのか、日和くんが「実はさ」と説明してくれる。
「いずみんが走ってひとりで校門から出てくのが、教室の窓から見えたから、どうしたんかなーって気になってさ」
「そう……だったの……」
 私は深呼吸をしながら息を整え、彼を見つめる。
 外の光の下で見る彼の金色の髪は、学校の中で見るよりもずっと淡く透き通っている。
 素直に、すごく綺麗だなと思った。日和くんには、明るく澄んだ髪色が本当によく似合う。
 私たちはどちらからともなく脇道に入り、路肩の植え込みを囲うレンガの花壇に、並んで腰を下ろした。
 とても静かだった。聞こえるのはかすかな鳥の鳴き声だけ。頭上には背の高い木が並んでいて、私も日和くんも、全身を優しい木洩れ陽に包まれている。
「えー……ワタクシゴトで恐縮ですが……」
 しばらくして、唐突に日和くんが口を開いた。そして、ポケットから取り出したスマホの画面を、私に向けてくる。
「え……?」
見ていいのかなと戸惑いつつ、私は彼の手もとに目を落とした。
「これ、中学時代の俺」
「……?」
 そこに映っていたのは、たぶん卒業アルバムかなにかの個人写真のページを、スマホのカメラで撮ったらしき画像だった。
 拡大された画面の中には数人の男子の顔写真があり、でもぱっと見ただけではどれが日和くんなのか分からず、写真の下の名前をひとつずつ確かめていく。
「………えっ?」
 思わず声を上げてしまった。
『龍ケ崎日和』という名前の上にあるのは、私の知る彼の姿とはほど遠い、まるで別人の写真だった。
 もっさりとした真っ黒な髪、重たい前髪の下には分厚い眼鏡。そのせいで目が小さく見えて、たしかに顔立ちを見れば面影はあるものの、これだとはっきり示されないと、日和くんだとは確信できない。
また、その表情は硬く暗く、服装も詰め襟の喉元のホックまでぴっちり留められていて、いかにも生真面目そうな、堅苦しい印象。今のイメージとは正反対だ。
 驚きのあまり、隣に座る彼を無言でじっと見つめることしかできない。
ふわふわの明るい髪、澄んだ大きな瞳、柔らかい表情、着崩した制服。
 やっぱり別人だ。
 高校デビュー、というやつなんだろうか。でも、だとしたらなぜ、隠しておきたいであろう昔の写真をわざわざ撮影してスマホに保存していて、しかも私に見せてくれるのだろうか。
 日和くんが私の反応を見て「びっくりだろ?」と照れくさそうに笑った。
「さすがに変わりすぎててちょっと恥ずいんだけどさ。でも、このころのこと忘れたくないというか、忘れちゃいけないというか……だからまあ、いつでも見返して思い出せるように、スマホで撮っといたんだ。過去の自分に戻っちゃわないように、教訓としてさ」
「教訓……?」
 すると彼はふっと目を細めて「うん」と頷き、頭上に広がる空に視線を投げた。それから静かに口を開く。
「俺の家、昔から病院やってて、いわゆる『代々医者の家系』ってやつでさ。めちゃくちゃ厳しくて、幼稚園のころから家庭教師とかついてて、医者になれなきゃ人間じゃない的な。そういう、昭和のドラマかよ、みたいな家なんだよ」
「そう、なんだ……」
 そんな話は全然聞いたことがなかった。
 なんとなく、彼の性格や振る舞いから、おおらかで温かい家庭で育ったのだろうと思っていたのだけれど、どうやら私の予想は大外れだったらしい。
 そういえば龍ケ崎総合病院とかいう有名な大病院が市内にあるな、と思い出した。もしもあれが日和くんの家だとしたら、私には想像もできないくらいの立派な家なのだろう。それこそまさに雲の上の世界だ。
「まあ、そんなこんなで、ガキのころから勉強漬けでさ。中学でもずーっと勉強ばっかしてたんだよ。本当に、まさに食べる時間と寝る時間以外はずっと机にかじりついてた。俺、元がそんなに頭よくないからさ、時間かけてやるしかなくて……」
「………」
 私はひっそりと唇を噛む。自分の浅はかさが憎らしかった。
 日和くんは大して勉強しなくてもいい点数がとれるのだと思っていた。努力しなくても、持って生まれた才能で好成績を維持できるのだと。
 違ったのだ。全ては彼がこれまでに積み重ねてきた結果だった。
 それを、なにも知らずに勝手に羨んで、勝手に妬んで、私はなんて失礼なことを考えていたのだろう。
「俺さ、昔からバスケが好きだったから、中学では絶対バスケ部に入りたかったんだ。でも親に相談したら、『だめに決まってるだろう、手に怪我でもして勉強に支障が出たら困る』って許されなかった。だから諦めた」
 日和くんが毎日生き生きと部活に向かう姿を思い出す。今、彼があんなにも楽しそうに部活に行っているのは、昔ずっとバスケをすることすら許されなかったからなのだろう。
「そんなふうにやりたいこと全部我慢して、医者になるために必死に勉強してきたのにさ、一回だけ、中三の夏休みの模試で、大失敗しちゃったんだ」
 夏が受験の天王山よ、中三の夏が人生を左右するのよ――何度も何度も聞かされた言葉が、真剣なお母さんの声が、頭の中で再生される。
 日和くんも同じだったのだろうか。私は苦い気持ちで彼を見つめた。
「絶対に第一志望A判定とれって、前の晩も夜中まで勉強させられてて、寝不足でフラフラの状態で模試受けに行ったら、途中で気分悪くなっちゃったんだよな。それで全然集中できなくて、いつもなら解ける問題も全く解けなくて、結果返ってきたら、案の定C判定。本番でもないのに、死ぬほど怒られたよ。こんな落ちこぼれはうちには要らん、存在自体が恥ずかしいって、人格まるっきり否定みたいな怒り方で……」
 彼は向こうを見たままゆっくりと瞬きをした。
「なんか、その瞬間、もういいや、ってなった。なんか糸が切れて――」
 うん、と私は頷いた。
 何年もずっと張り詰めていた、必死に引っ張っていた心の糸が、ぷつんと切れる音を、ついさっき私も聞いた。
「父親の母校のA高に行けって言われてて、ずっと志望校にしてたんだけど、受験のとき勝手にB高の願書にすり替えたんだ」
 A高は、県内トップの進学校だ。県内どころか全国から生徒が集まってくるような有名私立高校で、ほとんどの生徒が最難関大学に行くという。そこを志望していたというだけで、中学時代の日和くんがいかに優秀で、しかも努力していたのか分かる。
「ばれたとき、もちろん死ぬほど怒られたけど、もうどうでもよかった。なに言われても無視してB高受けて、今はもうすっかり諦められて、放ったらかしだよ。家庭内勘当みたいな」
 日和くんが金色の髪をつまんで、にかっと笑う。
「で、今は解放されて、こんな感じで好き勝手やって、念願のバスケ部入って。人生超ー楽しい!」
 太陽のような笑顔。
 これまでは苦い羨望の気持ちで眺めていた彼のその笑顔を、今は純粋な尊敬の眼差しで見つめる。
 日和くんは、自分の足で檻の中から抜け出し、自分の力で壁を乗り越えてきた。
『私がもっていないもの全てを、彼は生まれながらに持っている』。
 そう思っていたけれど、違った。もともと持っていたのではなく、自分で手に入れたのだ。
 私にはできなかったことを、彼は成し遂げた。
 無意識のうちに、カーディガンごしに自分の両腕を抱きしめる。まだ癒えない傷が、ずきりと痛む。
 檻の中に閉じ込められていることを、嫌だ嫌だと思いながらも、自分の中で不満を溜め込むだけで、私はなにも行動には移さなかった。
 お母さんから離れたいけれど、離れるのは怖かった。
 お母さんに嫌われたら、お母さんに見捨てられたら、ひとりになってしまう。それは嫌だった。それは怖かった。
 だから、耐えればいいと思った。我慢していれば、いっぱいいっぱいでもなんとか頑張っていれば、まだお母さんに期待していてもらえる。
 親の束縛から逃れた日和くんを尊敬するし、羨ましいとも思うけれど、たぶん私には真似できない。同じようにはできない。
 きっとこれからも、この腕でストレスを解消しながら、心の痛みを身体の痛みでごまかしながら、自分をだましだまし生きていくのだろう。
 そういう頑張り方しか、私は知らない。
 日和くんみたいには、なれない。
「――そういう自分の経験があったからさ」
 彼が再び私に目を向け、微笑みを浮かべて言った。
「余計なお世話だって分かってるけど、自分を顧みない頑張り方をしてる人がいると、声かけたくなっちゃうんだよな」
 まるで見守るような眼差しを向けられて、胸がざわざわする。。
「いずみん見てると、まるで昔の自分を見てるみたいな感じがして、なんか気になってさ。もしかしていずみんも、あのころの俺みたいな状況なのかもって思ってた」
 彼がなにかと私に話しかけてきた理由が、やっと分かった気がした。
 それに、と日和くんが視線を落とす。そこには私の腕がある。
「……真夏でもずっとカーディガンで、体育のときもいつも長袖の体操服だし、なんでかな、もしかしたら見られたくないなにかを、その下に隠してるのかなって……なんていうか心配で、ずっと気になっててさ……」
 私は黙って自分の腕を抱いた。
「これがいい機会だからさ、戻ったらお母さんと、ちゃんと話してみたら?」
「………」
 私はうまく答えられなくて俯く。自分にそんなことができるとは思えなかった。
 正直、お母さんに言いたいことはたくさんある。
吐き出しそうになっては言葉にできなくて飲み込み、ずっと溜め込んできた思い。
 でも、きっと言えない。だって、これまで何年もずっと、口答えせずに言う通りにしてきたのだ。今さら反抗なんてできるわけがない。
 肩を並べて腰かけたまま、私たちの間に微妙な沈黙が流れる。
「いずみんの名前ってさ、誰がつけてくれたの?」
 ふいに日和くんが訊ねてきた。私はどうして今そんなことを、と不思議に思いながらも答える。
「お母さんだけど……」
「そっか。いい名前じゃん」
「……私は、好きじゃない」
 ひとりごとのように答えると、彼は大きな瞬きをひとつして、口を閉じた。
私も黙ったまま、ゆっくりと瞬きをして空を見上げた。
秋らしい、細かい雲に彩られた空。でも、どこかくすんでいる気がする。
「……なんか、変な……」
 ふと日和くんが呟く声がした。隣に視線を向けてみると、彼はきょろきょろと周囲を見回している。
「焦げ臭いにおい、しない?」
「……そう?」
 私には分からなかった。もしかして気まずさをごまかすためなのかと邪推する。
「ちょっとだけど、なんか燃えてる……みたいなにおいがする気が――」
 日和くんが首を捻りながら言ったそのとき、風向きが変わったのか、私の鼻にもそのにおいが届いた。
「あ、焦げ臭い……かも」
 私が言うと同時に、日和くんが腰を上げる。
「なんだろう。落ち葉を燃やしてるだけとかだったらいいけど、それにしては変なにおい……」
 うん、と私は頷いた。
 焦げ臭いにおいの中に、鼻をつくような刺激臭も混じっている。
「もしかして……火事?」
「………」
 日和くんが「ちょっと見てくる」と駆け出したので、私も慌てて追いかけて脇道から出た。
 視界が開けた途端、西のほうの空に、黒に近い灰色の煙がもくもくと立ち昇っているのが見えた。
 煙突から出る煙とは全く違う、太くて色の濃い煙だ。異様な光景だった。
「火事だ……!」
 日和くんが小さく叫ぶ。
 そのころには、あたりに充満する焦げ臭さもかなり強くなっていて、私たちは急いで煙のほうに向かって走り出した。
 においが強いわりには、煙の元は予想以上に離れた場所だった。
 火事のにおいってこんなに遠くまで届くのかと、ぞっとする。
 五分ほど走って駆けつけた住宅街の真ん中に、近所の人たちだろうか、数人が集まっている場所があった。あたりは焦げ臭いにおいと漂う煙に包まれている。
 人々の視線の先には、あちこちの窓から炎と煙を噴き出す家があった。見たこともないくらい真っ赤な炎と真っ黒な煙だ。
「誰か、誰か助けて……!」
 ふいに声がして、私と日和くんは同時にそちらに目を向けた。
燃える家の裏手のほうから、中年の女性が姿を現した。塀によりかかるようにして、よろよろとこちらへ歩いてくる。でも、途中で力尽きたように倒れ込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
 日和くんがさっと駆け寄り、私も慌ててついて行く。周りの人たちも気づいて、「どうした、大丈夫か」と集まってくる。
 女性の顔も服も煤で真っ黒だった。「誰か」と繰り返しながら立ち上がろうとしているのに、どこか痛めたのか、具合が悪いのか、全く立てないようだ。
「大丈夫ですか、痛いところは――」
 支えながらそう問いかける日和くんに、
「おばあちゃんが!」
 彼女は必死の形相でつかみかかり、叫んだ。
「足の悪いおばあちゃんが、まだ中に……!」
 彼女が指さした先には、煙と炎に包まれた家がある。
 うそ、と私が呟くより先に、彼は駆け出していた。かけらほどの迷いも躊躇もない、驚くほど素早い動きだ。
「――日和くん!」
 私は悲鳴まじりに叫んだ。
「おい君! 危ないぞ!」
「もう玄関まで燃えてる、無理だ入れない!」
「すぐに消防車が来るから待ちなさい!」
 周囲で火事を見ていた人たちが必死に止めようとしたけれど、日和くんは一瞬たりとも足を緩めず、誰かが持ってきた消火用バケツを走りながら引っつかみ、頭から水をかぶった。
 そして、数歩先も見えないような濃い煙の中へ、真っ直ぐに飛び込んで行く。
 彼の姿はすぐに掻き消されたように見えなくなった。
 追いかけなきゃ、と思った。
 ひとりより、ふたりのほうが、助けられる可能性も、助かる可能性も、高いはず。
 頭では分かっているのに、行かなきゃと思っているのに、私の身体は完全に硬直して、一ミリも動かない。
 周囲のもの全てを飲み込もうとするように大きくうねり、どんどん勢いを増す真っ赤な炎。吸い込んだらすぐにでも気絶してしまいそうな、すさまじいにおいの真っ黒な煙。
 怖かった。
 すごく、怖い。
 自分の中の生存本能が、決して近づくなと警告しているのを感じる。
 絡まり合って渦を巻く炎と煙を前に、私は情けなく震えながら立ち尽くすことしかできない。
 日和くんの無事を信じて祈ることしかできない。
 でも、こんな火の海の中に入って、本当に彼は大丈夫なのだろうか。
 煙に巻かれて動けなくなってしまったら……倒れてきた柱や梁に挟まれて動けなくなったら……服に火がついてしまったら……。
 悪い想像ばかりが頭をいっぱいにして、不安と恐怖で押し潰されそうだった。
 瞬きすら忘れて、燃え盛る家を凝視する。
 時間の感覚が消えていた。まだ一、二分のような気もするし、もう何十分も経っているような気もする。
「日和くん……日和くん……」
 そのとき、なにかが破裂するような、爆発音にも近い音が鳴り響いて、二階部分の火の勢いが一気に増した。
 真っ黒に焦げた屋根の一部が崩れ落ちる。きゃああ、わああ、と周囲の人たちが一斉に叫び声を上げた。
 もうだめだ、と思った瞬間。
 がんじがらめの縄が解けたように、私の身体は動き出した。
 行かなきゃ、と思った。
 日和くんは私を追いかけてきてくれた。今度は私が追いかけなくちゃ。
 ポケットからハンカチを取り出し、もうひとつのバケツを借りて水に浸した。濡れたハンカチを口に当てたまま、煙の幕をかき分けるようにして走って家に近づき、玄関に向かう。
 ドアノブに触れた瞬間、あまりの熱さに鳥肌が立った。燃えるように熱い。カーディガンを脱いで手に巻きつけ、再びノブをつかむ。でも、ドアはびくともしなかった。鍵がかかっているのか、なにかで塞がれているのか。
 庭から裏手に回る。窓があったけれど、鍵が締まっていて開かない。
 次の部屋には庭へ出るための掃き出し窓があり、ガラスが割れていた。ちょうど人ひとり通れるくらいの大きさの穴が開いている。日和くんが割ったのかも知れない。
 身をかがめて穴から中を覗き込む。煙でなにも見えない。ばちばちと弾けるような火の音が大きすぎて、なんの物音も聞こえない。
「日和くん! 日和くん、どこ!? 大丈夫!?」
 精一杯の大声で呼びかけたとき、
「大丈夫!」
 奥のほうから応える声が聞こえてきた。日和くんの声だった。
 安堵感に包まれたけれど、一刻の猶予もない状況だ。私は急いでガラスの割れ目に手を差し込み、鍵を開け、窓を開け放った。
 部屋の中に入ろうと足を踏み入れたとき、奥から人影が現われた。
「いずみん! 来てくれてありがとう!」
 私はうまく答えられないまま人影に駆け寄った。
 日和くんが、小柄なお婆さんに肩を貸して支えながら歩いている。勝手に身体が動いて、彼の反対側から支える。
開けておいた窓から外に飛び出す。
 渦巻く煙の中を急いで、燃え盛る家から離れる。
「ああ、出てきた!」
すぐに大人たちが集まってきてくれて、私たちを取り囲んだ。
「よかった、三人とも無事だ」
「すごいな、よくやった!」
彼らは日和くんを労いつつ、お婆さんを引き受けてくれた。
お婆さんはぐったりしていたけれど、ちゃんと意識があって会話もできた。それを見て、ほっと全身の力が抜けた。
サイレンの音が聞こえてきて、救急車が到着した。救急隊員の人たちがお婆さんを担架にのせて運んでくれたので、もう安心だと思った。
「君たちが救出してくれたんだって? 」
 救急隊のひとりが私と日和くんを見て声をかけてきた。
「本当にありがとう。ふたりとも、怪我は?」
「全然大丈夫です!」
 日和くんがにこやかに笑って答えた。
 いつの間にかパトカーも来ていて、警官から「立派なことをしたから名前や住所を聞かせて」というようなことを言われた。私は慌てて首を横に振る。
 彼も同じように首を振り、笑顔で断った。
「いえいえ、大したことしてないんで。お婆さんが大事なくてよかったです。じゃ、俺たち行かなきゃなんで」
日和くんがそう言って、逃げるようにその場を離れたので、私も追いかけた。





騒ぎから少し離れた場所まで来て、ふうと息をついて隣に目を向けると、日和くんが地面にへたり込んでいた。疲れ切った様子で後ろ手をつき、火事のほうをぼんやり眺めている。
「日和くん……」
 よく見ると、彼の顔も身体もところどころ煤で黒くなっていた。
 なにか声をかけようと思って、できれば労いの言葉を、と思ったのに、
「怖かった」
 気がついたらそう囁いていた。
「あんな、危ない……、ほんと、危ないよ……」
 もっと他にかけるべき言葉があると分かっているのに、正直な気持ちを吐露してしまう。
「――死んじゃうんじゃないかと思った」
 彼がしたことは、間違いなく勇敢で英雄的で、とてもすばらしいことだと思う。
 でも、あまりにも危険だった。救助や消防のプロでもなんでもないのに、炎の中に飛び込んで人を助けるなんて。一歩間違えば、自分が命を落としていたかもしれないのだ。実際、助けようとした人が亡くなってしまう事故もたくさんある。
 でも、日和くんはあっけらかんと笑った。
「そんな簡単に死なないよ」
 大したことじゃないというように言って、それから両手で顔を拭う。
「でも、そうだな、たしかに無謀だった」
 良い子は真似しちゃいけません、とおどけた口調で言う彼を、私は思わず睨んでしまった。
 彼は「ごめんごめん」と笑い、そして真剣な表情になる。
「いずみん、心配かけてごめん。あと、心配してくれてありがとう」
 急に真面目な調子で言われたので、気まずさから目を逸らした。
 なんとなくわせた視線が、日和くんの腕に留まる。
真っ赤な血に染まる腕。えっ、と私は叫んだ。
「日和くん、怪我してるよ……!」
 すると彼は、今気づいたというように自分の右腕を見た。
「ああ、窓ガラス割って入ったから」
「血が……血が出てる。痛そう……」
 なにか手当をしなきゃと思うのに、手持ちのものではどうしようもなくて、おろおろと言った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと切れただけで深い傷じゃないし、血もすぐ止まるよ」
 そう笑った日和くんが、ふと真顔になって「それでも」と続ける。
「誰かが傷ついて、血を流してるのを見ると、やっぱり周りはそういう気持ちになるよな」
 なにが言いたいのか分からなくて、私は黙って日和くんを見つめ返す。
 彼の視線は、私の腕に向いていた。
お婆さんを助け出してすぐに、ほとんど無意識のうちに再びカーディガンを着て隠した腕。もしかして、あの混乱の中でも彼に見られてしまったのか。
隠されたものを透かし見るようにしながら、彼は言う。
「俺だって、いずみんには血を流してほしくないし、自分で自分を傷つけてもほしくないと思う」
 その言葉を聞いた瞬間、分かった。
 ああ、やっぱり日和くんは、見たんだ。気づいてたんだ。
私がこの長袖の下に隠しているものを、知ってるんだ。
「いずみんのお母さんも、きっと同じだよ」
「……それは、どうかな」
 私は口もとを小さく歪めた。
 お母さんは、私自身のことなんて、きっとどうでもいいと思っている。
 私が自分の身体になにをしていようがどうでもよくて、ただとにかく『自慢できる優秀な娘』であればいい。そう思っている。
 でもさあ、と日和くんが言った。
「そうじゃなかったら、そんな名前、つけないんじゃないかな」
 私は目を見開いた。
 私の、名前。
 お母さんがつけてくれた名前。
「――!」
 突如、私を呼ぶ声が響き渡った。
 驚いて振り向くと、お母さんが小走りでこちらに向かって来ている。
「え……なんで……」
「勝手に学校を飛び出して、こんなところでなにしてるの!」
 ヒールの音がかつかつ鳴る。その速さがお母さんの怒りの大きさを表しているようで、反射的にびくりと肩が縮んだ。
「こっちのほうがなにか騒がしいと思って来てみたら……。本当にもう、あなたは人の気も知らないで、好き勝手やって!」
 お母さんはものすごく怒った顔をして、真っ直ぐに私に近づいてくる。そして私の肩をつかみ、思いっきり平手打ちをした。
 ぱんっと鋭い音が鳴り、と同時に衝撃が来て私はよろめく。
 隣にいた日和くんが、「わっ」と声を上げて支えてくれた。
 それでもお母さんの怒りはおさまらず、再び手を振り上げる。
 いつもなら、外で、人目のあるところでは絶対にこんなことはしないのに。
世間体を気にする余裕もないくらい怒っているのだ。これはもう一度叩かれるしかない。
 諦めて目を閉じたとき、
「やめてください!」
 日和くんが叫んだ。目を開けて見ると、彼がお母さんの手首をつかんで止めている。
「なんで叩くんですか……」
「痛い思いしないと分からないのよ、この子は!」
 お母さんは昔からよくそう言っていた。には痛みが必要だと。だから、あなたのために叩いているのよ、と。
 私はいつしか叩かれないために行動するようになり、叩かれる回数は減った。だから、お母さんのやり方は、成功といえば成功なのかもしれない、けれど。
「そんなことないですよ」
 日和くんが、悲しそうに呟いた。
「俺も、覚えてないくらい小さいころから、よく親に叩かれてました。すごく痛くて、怖くて、叩かれたくなくて、とにかく叩かれないようにしなきゃって、それが最優先の行動原理になって、親の顔色ばっかり窺ってました」
 静かに語られる彼の言葉に、私は瞬きも忘れて聞き入る。
「それって……そういう育て方って、教育じゃなくて、支配じゃないですか?」
 お母さんが目を見開いた。
「思い通りにならない子どもに苛々したとき、思いっきり叩いたら、きっとすごくすっきりするんでしょうね。でも、それで子どもの心は、どんどん離れてくんですよ。親に対する純粋な尊敬とか愛情は消えていって、ただただ恐怖の対象になるんです。それって正しいですか?」
「なによ、その言い方は……!」
 お母さんが叫んで日和くんを睨みつける。
「私は宝のことが心配で……! 宝のことを思って……!」
「心配、心配って……」
 日和くんが唇を噛み、悔しそうに言った。
「こんな傷にも気づかないで、なにを心配してんだよ」
 えっ、と私が声を上げる前に、彼は私の腕をつかみ、カーディガンの袖を無理やり捲り上げた。
 現れたのは、傷だらけの腕。
 自分でもいくつあるか分からないくらい、たくさんの切り傷。
その無数の傷痕が、私の手首から二の腕まで、腕の内側のほとんど全部を埋め尽くしていて、まるで不格好な縞模様みたいになっている。
「………」
 何度も何度も、毎日のように、カッターナイフで切りつけた。
嫌なことがあるたびに、悲しい気持ちになるたびに、それを掻き消すように、脆く柔らかい皮膚を切りつけた。
 すっかり治って肌色に膨れた古い傷痕や、まだ真新しく生々しいピンク色をしているもの、治りかけのかさぶたに覆われたもの。昨日切ったばかりの、まだ血が滲んでいる傷もある。
 心の痛みを、身体の痛みでごまかしてきた私の二年間の歴史が、ここに刻まれている。
 私は黙って日和くんの手をほどき、袖を下ろして傷痕を隠した。
 お母さんは、凍りついたように私の腕を見つめている。
「いずみん」
 温かい手のひらが、ぽん、と私の背を押した。
「言いたいことがあるなら、言わなきゃ」
 柔らかくて、優しい声だった。
 彼が私にくれた花丸を思い出す。それだけで全身に熱と力が甦ってくる。
「……うん」
 私は顔を上げ、深く息を吸い込んだ。
 閉じていた胸が大きく開いたような感じがして、声が、言葉が、一気に込み上げてくる。
「――花丸」
 言葉と同時に、涙も溢れた。
「花丸が欲しかったの」
 私は泣きながら、初めてお母さんに本音を告げた。
「はなまる……?」
 お母さんが眉を寄せる。私はこくりと頷いた。
「頑張ってるねって、よく頑張ったねって、花丸をつけてほしかった……」
 なんだか子どもみたいなことを言ってしまっているなと思う。
でも、紛れもなく、これが私の本心だ。
 そうだ、私は花丸が欲しかった。
他の誰でもなく、お母さんから、花丸をもらいたかった。
「頑張るのはつらくないの。頑張っても頑張っても花丸がもらえないのがつらいの。……お母さんの花丸がもらえるなら、いくらでも頑張れるのに……」
 お母さんに認められたかった、褒められたかった。
 幼稚な願望だけれど、ずっと満たされないまま大きくなってしまったから、いつまでも欲しがってしまうのかもしれない。
「それなのに、お母さんは……私を見てくれない。私自身じゃないものばっかり気にして、周りばっかり気にして、私のことは見てくれない」
 私はそこで言葉を止め、大きく息を吐いた。
「……それが、いちばん苦しくて、悔しくて、寂しくて、つらいの」
「宝……」
 お母さんが呆然と呟いた。
「……なんで、宝って名前をつけたんですか?」
 日和くんが静かに問いかける。
お母さんは彼に目を向け、それから私を見た。そして小さく呻き声を上げ、ふいに泣き崩れた。
「お母さん……」
 思わず近寄ると、お母さんが両腕をこちらへ伸ばして、私を抱きしめた。
 突然のぬくもりに、身体が震える。
 お母さんにこんなふうに抱きしめられるのは、いつぶりだろう。
 いつだったか覚えていないくらい昔だけれど、たしかに私はこんなふうに、包み込むように抱きしめてもらっていた。
「ごめんなさい……。そう、そうだったわね……」
 耳元でお母さんの声が囁く。
「あなたが生まれてきてくれたとき、本当に本当に嬉しくて、可愛くて可愛くて、自分の命より大事で、本当に宝物だと思ったの。だから『宝』って名づけたのよ……」
「え……」
 初めて聞いた話だった。
 お母さんが震える声で続ける。
「本当に大切な宝物だから、元気でいてくれるだけで、生きていてくれるだけでいいって――」
 その声がどんどん涙で滲んでいく。
 お母さんの嗚咽が、私の涙腺を刺激する。
「……そう思ってたのに、お母さん、いつの間にこんなに欲張りになっちゃってたのかしら。あのころの気持ちを忘れて、もっともっとって多くを望んで、自分の理想を押し付けて……ごめんなさい、宝」
 涙が溢れてきた。
 そうだ、私もすっかり忘れていた。
お母さんのことが大好きで、お母さんの笑顔が見たくて、お母さんに喜んでもらいたいから頑張ろう、と思っていた幼いころの、純粋な気持ちを。
 いつの間にか、お母さんの言う通りにすることに慣れてしまった。
不満を抱きながらも、心の中で文句を言いながらも、反論したり話し合ったりすることは諦めていた。
自分で考えて自分で選んで生きるよりも、なにも考えずにお母さんの敷いてくれたレールに乗っているほうが楽だったから。
 私たちがこんなふうになってしまったのは、きっと私にも責任があった。
 私とお母さんは、ずっとふたりきりで過ごしてきて、その間に色々なことがあって、だんだん心が離れてしまった。
「ごめんね」
 お母さんが私の手をとり、そっと袖を捲った。 
「こんなになるまで苦しめて、こんなになるまで気づかなくて、ごめんね……」
「私も……ごめん」
 なんについての謝罪なのか、自分でもよく分からないまま、ごめんと繰り返した。
 ばれないように必死に隠していた傷。
その傷痕を、お母さんの手が、労るようにそっと撫でる。
温かくて、柔らかくて、優しい指だった。
「――花丸よ」
 お母さんが囁いた。
「もちろん花丸よ。宝は誰よりも頑張ってきた。お母さんがいちばん知ってる」
 お母さんの指が、私の手のひらに大きな花丸を描いた。
 それからお母さんは小さく「でも」と呟き、苦しげな表情で続けた。
「……宝がたくさんたくさん頑張ってくれるから、私が望むだけ頑張ってくれるから、それならもっともっとって欲を出しちゃったの。それを叶えてほしくて、それがあなたのためだと思い込んで、ああしなさいこうしなさいってばかり言ってたわね……」
 お母さんは、これまでの記憶をたどるように、過去の自分を省みるように、ぽつぽつと語った。
「……頑張り屋さんのあなたがちゃんと報われるように、立派に育てるのがお母さんの役割だと思ったの。誰が見ても立派だと思ってもらえるように、そしたら将来安心だって……。そんな考えにとらわれて、気がついたらあなた自身を見れなくなっていて、周りの目ばかり気にしてたのね」
 お母さんが苦しげに呟く。
「だめな母親だわ、本当に……」
「なんか、趣味とか見つけるといいですよ」
 日和くんが唐突に口を挟んだ。お母さんが、涙で潤んだ目を彼に向ける。
「俺、バスケ始めたおかげで、人生一万倍くらい楽しくなったんで」
 彼はいつもの人懐っこい笑顔で言う。
「やりたいことに時間使うので忙しいから、自分のことで精一杯で、無駄なこと考えて落ち込んだり、他人のこと必要以上に気にするひまもなくなるし、おすすめです」
 お母さんが少し考えるような顔をして、それから小さく笑って「……そうね」と囁いた。
「……私は、私自身のことをおろそかにして、この子に全てを背負わせてしまってたのかもしれない。私には私の人生があるのよね……」
 あ、お母さんって、自分のこと『私』って呼ぶんだ。
 当たり前のことなのに、なぜかびっくりしてしまった。
 お母さんは『お母さん』でしかないのだと、思い込んでしまっていた。私の母親である前に、ひとりの人間であることを、なぜか気づけなかった。
 お母さんも私と同じ人間だから、弱いところも、間違ってしまうこともある。
 それは、見落としがちだけれど、きっととても大事な、忘れてはいけないことだ。
 私は、お母さんと話をしているようで、お母さん自身とは話していなかったのかもしれない。だから、『お母さん』の中の『人間』に、気づけなかった。
 私たちには、きっと会話が足りなかった。
これまで、本物の会話をしていなかった。
「……お母さん。帰ったら、たくさん話をしよう」
 私がそう言うと、お母さんは一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「ええ、たくさん話しましょう」
 いいですねえ、と日和くんの明るい相槌が入る。
「たくさん聞かせて。宝が考えてること、嫌だと思ってたこと、お母さんに言いたいこと……」
「うん……。お母さんも、お母さんの話をして。私のお母さんになる前の話も」
「ええ? 面白い話なんか、なにもないわよ……」
「それでも聞きたい」
 お母さんがどんな人なのか知りたい。初めてそう思った。
 私たちは、また一から築き直さないといけない。
 一度崩れて壊れたものを元に戻すのは、きっと時間がかかるし、簡単なことではないけれど。
 これからは隠さずに、ちゃんと言葉にして伝えていかないといけない。
 向き合うことから逃げてはいけない。
 背を向けてひたすら我慢することは、私にとっては、行動を起こすよりも楽だったけれど。これからは、それじゃだめなんだ。
 中学生の日和くんが、自分の足で踏み出して、自分の道を歩み始めたように。
私もちゃんと自分に向き合って、自分自身の目標を見つけよう。
 それからお母さんと向き合って、自分の言葉で、これからの話をしよう。
 そうやって、新しい関係を築いていこう。
「――おうちに帰ろうか、宝」
 宝。お母さんが優しく呼ぶ声。
「うん……!」
 こんな名前、大嫌いだった。
 子どものころは男みたいだとからかわれたし、宝物みたいに大切にされてもいないのに『宝』だなんて、たちの悪い冗談だと思っていた。あまりにも名前負けすぎて、友達から呼ばれるのも恥ずかしかった。だから、名字をあだ名にして呼んでもらっていた。
 でも、この名前には、ちゃんと意味があった。愛情の込められた名前だった。
「あなたも、よかったら、うちに寄っていく?」
 お母さんが彼に声をかける。汚れた服を指さして、
「そのままじゃ帰れないでしょう。ええと、お名前は……」
「日和です」
 彼の答えに、お母さんが目を細めて微笑んだ。
「素敵な名前ね」
「はい」
 彼は少し照れくさそうに頷く。
「晴れ晴れとした人生を歩めるように、っていう意味を込めて、つけたそうです」
 日和くんが、煤だらけの顔で、でも驚くほど晴れやかな表情で、太陽みたいに笑った。
「……少なくとも俺が生まれたときは、親は明るい人生を願ってくれてたんだなって分かるから――だから、この名前は、俺の宝物です」
 そうだ。名前は、宝物だ。生まれたときに贈られた宝物。
「日和くん」
 気がついたら、彼の名前を呼んでいた。
 ん、と振り向いた彼の明るく澄んだ笑顔を見ると、私の頬も自然と緩む。
「ありがとう」
 諦めて沈むままになっていた場所から立ち上がるきっかけを、そして一歩踏み出す勇気を、日和くんがくれた。
 きっと彼にとっても苦い過去をさらけ出して、私に見せてくれた。
 おかげで、私の目には今、世界がこんなに明るく映る。いつぶりかも分からない心からの笑みを浮かべることができる。
「いい笑顔! 花丸だな!」
 日和くんが親指を立てて、嬉しそうに笑った。
 無意識のうちに、腕の傷痕を撫でる。
 私の苦しみと葛藤と、弱さと狡さが刻まれた傷痕たち。
 でも、この傷痕も、宝物だ。頑張って生きてきた証だから。
醜くて、情けなくて、格好悪いけれど。
過去はなかったことにはできないし、したくない。
忘れたくもないし、忘れたらいけない。
昔の写真を残している彼の気持ちが、今ならよく分かる。
 だから私は、過去も傷痕も抱えて、歩き出す。
 自分で選んだ道を、自分の足で踏みしめる強さを、彼が教えてくれたから。
 ふたつの宝物を、大切に胸に抱いて、私は生きていく。