*
「おっ、いずみんじゃん」
窓から射し込む光を受けて金色に輝く頭が、ひょいとこちらを向いた。
もしもこれが小説か漫画だったら、まさに『太陽みたいな』と表現されそうな、屈託のない笑顔が私を見ている。
彼は「やっほー」と軽く手を上げて、まるで何年も前からの大親友に対するような気さくさで、私に挨拶をした。
「あ……」
うわ、最悪。めっちゃ苦手なひとの隣になっちゃった。
そんな感情が顔に出てしまっていないか不安になりつつも、私は必死に表情筋を動かし、なんとか笑みを浮かべて答える。
「どうも……よろしく」
「俺ら、なにげに初絡みじゃね? よろしくなー、いずみん!」
同じクラスとはいえ、これまで接点は一切なく、まともに話したこともないのに、いきなりあだ名で呼んでくる、この距離感がバグっている感じ。こういうところが、特に苦手なのだ。
そういうことをしても、自分のキャラなら許される、という自覚があるのだろう。たしかに彼なら許されるだろうなと、客観的に見て私も思う。
いつでも絶やさない明るい笑顔、誰にでも分け隔てなく接する人懐っこい性格。
そういう内面的な特長だけでもだめで、外見もやっぱり大事だ。
彼は、たとえばアイドルみたいにずば抜けて綺麗な見た目をしている、というわけではない。でも、清潔感があり、すらりとした体型で姿勢がよく、歩いているだけでなんとなく目立つ。顔立ちも、華やかな目鼻立ちではないものの、ひとつひとつのパーツの配置が整頓されていて、バランスがいい。ファッションやヘアスタイルも、垢抜けて洗練されていて、よく言う雰囲気イケメンというやつだ。
だから彼は人気者だし、男女ともに友達が多く、いつも人の輪の中心にいる。
でも私は、こういうちゃらちゃらした人は苦手だ。
ちゃらちゃらした格好ができる時点で、私とは根本的に、スタート地点から違うことが分かる。気が合うわけがない。
制服を着崩したり、おしゃれな髪型をしたり、メイクをしたり『するのを許されるかどうか』以前に、そういうことを『してみたいと思える』のは、まずもって自分に自信があるからだ。自信を持てるような素材を持って生まれたからだ。
誰だって、いくら磨いても宝石にはならないと初めから分かっている道端の石ころを、時間も手間もかけて必死で磨いたりはしないだろう。輝く宝石の原石ならまだしも、石ころに生まれたら、宝石になる夢は諦めるしかないのだ。
髪を明るく染めたり、シャツの第二ボタンまで開けたり、可愛いアクセサリーを身につけたり、スカートを短くしたりしたいと思ってできるのは、一部の人間だけ。容姿が優れているとか、運動神経がいいとか、コミュ力が高いとか、そういう、いわゆる『特権階級』の人気者だけ。『それ以外の人間』がそんな格好をしようものなら、『自分の分際をわきまえていない、イタいやつ』という烙印(らくいん)を押される。
私は石ころだし、分相応を知っているから、おしゃれやメイクなんて一生しない。
持って生まれた違いはそれだけではない。ちゃらちゃらした格好をしている人は、そういう格好をしても許される家庭環境も持っているということだ。
たとえば私がすごく美人だったり可愛かったりしても、私の親は、私がスカート丈をいじったり髪を染めたりしたら、卒倒するか怒り狂うだろう。『こんな娘に育てたつもりはない』とか言って絶縁されるかもしれない。
彼の金色に輝く髪の隙間で日射しに煌(きら)めく銀色のピアスや、開いた襟元から覗く紫色の派手なTシャツや、手首に巻きつけられたブレスレットを横目に見ながら、私はふうっと溜め息をついた。
つまり、私が持っていないもの全てを、彼は生まれながらに持っているのだ。
だから、羨ましすぎて、苦手だ。
「はーい、お引越しは終わったかな? そろそろ静かにしてね」
教壇のほうから聞こえてきた担任の先生の声で、我に返った。
今は月曜一限のホームルームの時間。先週二学期の中間テストが終わったので、席替えのくじ引きをして、一斉に新しい席に移動したところだった。
私は窓側二列目の、いちばん後ろの席を引き当てた。そして、窓際の列の最後尾、つまり私の真横が彼だ。
「じゃあ、座席表を配るので、自分の名前を書いていってね。座席表を回してる間に、提出物の回収と、ノートの返却、あとプリントの配布と――」
先生が指示をする間に、教室を支配していた席替えの興奮が徐々におさまっていき、通常運転に戻る。
大量のプリントが配られている間に廊下側からひとりずつ回ってきた座席表が、やっと私の列に辿り着いた。前の席の女子から紙を受け取り、『泉水(いずみ)』と自分の名前を書き込んだあと、隣に目を向けた。
彼は前の席の男子と楽しそうにおしゃべりをしていて、こちらに気づかない。なんとかあちらから気づいてもらえないかとしばらく待ってみたけれど、無理そうなので、声をかける決意を固める。
彼のようなカースト最上位の人に、私のような下位の人間が呼びかけるのは、たとえるなら雑用係が不敬にも王様に声をかけるようなもので、かなりの勇気を要する。
「――あの、龍ケ崎(りゅうがさき)くん……」
金色の頭を揺らして、ぱっと振り向いた彼は、にこりと私に笑いかけた。
「日和(ひより)でいいよ! みんなそう呼んでるし」
うえ、と私は思わず内心で呻(うめ)く。
でいいよって、なにその謎の許可、全然求めてないんですけど。たしかにうちのクラスの人も他のクラスの人も、男女問わずみんな『日和、日和』って呼んでるのは知ってるけど、でも私は別にあなたのこと、下の名前で呼びたくなんかないんですけど。みんながみんな、あなたと仲良くなりたいと思ってるわけじゃないんですけど。
でも、いいよと言われたのにあえて違う呼び方をしたら、まるで厚意を無下にするようで、失礼どころか、それこそ自分が『わきまえていないやつ』になってしまうので、私はへらりと笑ってみせた。
「じゃあ、日和くん……」
はいどうぞ、と座席表を差し出して言うと、彼はありがとー、と受け取りながら、にかっと笑った。
「『日和くん』って。めっちゃ可愛い呼び方してくれんじゃん」
「え……っ」
男子を呼び捨てにするなんて発想が私には全くなかったので、迷いなく『くん』づけにしたのだけれど、まさかこんな反応をされるなんて。
予想外の展開に動揺するあまり、頬に熱が集まるのを感じる。それでさらに焦って、ますます顔が熱くなってしまう。
「あははっ、真っ赤じゃん!」
彼がいつもの人懐っこい笑顔で言った。
私は心の中で『無神経!』と悲鳴をあげる。なんでスルーしてくれないの。友達でもなんでもないんだから、ここは気づかぬふりで流すところでしょ。ただでさえ恥ずかしいのに、もう最悪だ。
「照れてんの? いずみん、かっわいー」
にこにこして彼は言った。からかうふうでも、馬鹿にするふうでもなく。
もう本当この人最低、と叫びたかった。
言っていいことと悪いことの区別もつかないの?
彼女でも女友達でもない、ただのクラスメイトの女子に、『可愛い』なんて危うい単語を軽く言えちゃうところ、こういうところもすごく、特に苦手だ、苦手を通り越して無理だ。
異性に『可愛い』と言ったり言われたりなんて、彼の生きる遥か雲の上の世界では日常茶飯事なのかもしれないけれど、私にとっては今まで一度も経験したことのない非常事態なのだから。
もし、百歩ゆずって、私の顔が実際に、誰が見ても可愛かったり美人だったりするなら、冗談交じりの『可愛い』くらい言ってもいいかもしれない。それは女優さんやアイドルの子に言うようなのと変わらないから。
でも、現実の私はこれだ。こんな地味な容姿の、しかも赤の他人の女子に向かって『可愛い』なんて、冗談にもならないのだ。
こっちだって反応に困る。『いや、全然可愛くないし』なんて真面目に返したら、逆に『可愛い』と言ってもらったのを真に受けてしまった自意識過剰で冗談の通じない面倒くさいやつになってしまうし、『ありがとう』なんて答えた日には自己評価大間違いのイタいやつ確定だ。
ああ、本当に、生きるのって難しい。
とりあえず、この場での最適解は『全てなかったことにする』だという結論に達して、私は「あはは」と曖昧な笑いを返して前に向き直る。
それから彼のほうは一切見なかった。
正直なことを言わせてもらえば、もう二度と私には話しかけないでほしいし、目も合わせたくないくらいだ。
それくらい、私は彼――龍ケ崎日和が苦手だった。
*
昼休みはいつも、香織(かおり)ちゃんと早(さ)希(き)ちゃんが私のところに来てくれる。彼女たちとはクラス替えをしてすぐに仲良くなり、以来ずっと一緒に行動していた。
周りの空いている席から椅子を借りて、私の机を三人で取り囲む。
「もうやだー、午前中だけで二回も当てられたんだけど!」
香織ちゃんが、お弁当箱の蓋を開けながら泣きそうな顔で言った。彼女は一限目の席替えで、残念なことに最前列のど真ん中、教卓の真ん前を引き当ててしまったのだ。
早希ちゃんが「分かるー」と口をへの字にして頷いた。
「私も去年一回あの席になったけど、この学校の先生たち、軽い感じでめっちゃ当ててくるよね」
「ほんとそれ! 出席番号順とか席順じゃなくて、たまたま目が合った生徒に気軽に当てる的な」
「ほんとやめてほしいよね。こっちにだって心の準備ってもんがあるじゃんね」
「そうそう!」
彼女たちの心の内は、私にもよく分かる。いきなり問題に答えろと当てられることも嫌だけれど、急にクラスのみんなからの注目を浴びるのもつらいのだ。みんなに見られていると思うと緊張して頭が真っ白になって、分かっていた答えも分からなくなってしまったりする。そういう心の動きを口に出すのはさすがに情けなさすぎるので言わないけれど。
「いずみんはいちばん後ろだもんね。いいなあー」
香織ちゃんが羨ましげな表情でこちらを見て言うので、私は笑って「えへへ、めっちゃラッキーだった」と答えた。
「本当いいなー、替わってほしい! お願い、お願い!」
若干の本気が混じったトーンで手を合わせて言われ、私は辟易(へきえき)する。
この場合、どういう返しをすれば、相手の気分を害さず、場も白けさせずにいられるだろうか。
笑顔を貼りつけたまま頭をフル回転させ、でも結局いい答えは見つけられず、曖昧に笑うことしかできなかった。
微妙な空気になりかけたのを察してくれたのか、早希ちゃんが私の手もとを覗き込んで「わあ」と歓声を上げた。
「いずみんのお弁当、今日もすごーい!」
「あはは……」
私は笑いながら自分の弁当箱の中身に視線を落とす。
赤、黄、緑、白、黒、薄茶、ピンク、オレンジ。目がちかちかするほどの色彩に溢れ、細かい飾りがたくさん施された、いわゆる『デコ弁』、デコレーション弁当だ。
毎日早起きをして、薄暗いキッチンで背中を丸めてちまちまと作業をしているお母さんの後ろ姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。
高校は自宅から遠いので、家を出る時間は中学のころより一時間以上早い。
『もう高校生だし、毎朝早くて大変だろうし、普通のお弁当でいいよ』
お母さんの機嫌がいいときを見計らって言ってみたけれど、当然ながら断られた。
『お母さんがやりたくてやってるんだからいいのよ』
そう言われると強くも出られず、恥ずかしさともやもやを抱えながらも、幼稚園児向けのような可愛らしすぎるお弁当を毎日食べている。
「いずみん、愛されてるねー」
香織ちゃんがプチトマトをつまみながら言った。早希ちゃんも同意するように頷く。
「いずみんママ、めっちゃ優しいんだろうなあ」
「だろうねー、羨ましい! うちのお母さんなんてほぼ鬼だよ、怒るとマジでやばい。ちょっと反論したらすぐキレて『スマホ解約するよ!』とか脅してくるしさー」
「うちもうちもー。喧嘩した次の日のお弁当、全部嫌いなおかずにされたり」
「つらいよねー。いずみんのお母さんは優しいから、絶対そんなことしないんだろうね」
「いいなー、いずみんは」
ふたりが私を羨望の眼差しで見つめる。
私はまた「あはは」と笑いながら、いつもの癖でカーディガンの袖をぎゅっとつかみ、手のひらのあたりまで引き伸ばした。
そのとき、「なあなあ」と横から声がした。なにげなく見ると、日和くんがこちらに目を向けている。
「あのさあ、いずみん」
「え……っ」
まさか自分が声をかけられているとは思ってもみなかったので、心底驚いた。
住む世界が違うのに、どうしてわざわざ雲の上から地べたの人間に話しかけてくるのか。
ほら、香織ちゃんと早希ちゃんも、固まってしまったじゃないか。
彼女たちも私と同じで、彼のようなカースト上位の人間に向き合うと萎縮してしまい、コミュニケーション能力が著しく低下する。仲間内だけで話すときは普通に盛り上がって騒いだりできるのに、上位の人たちが近くにいて話を聞かれていると分かると、急に言葉が出なくなり、表情筋も固まってしまう。
誰に対してもどんな状況でも、いつもと同じ態度でいつもと同じように会話できるというのもまた、最上位の人たちの特権なのだ。それ以外の人間は、彼らの顔色や反応を窺わずにはいられない。
「ちょっと質問していい?」
彼は先生に発言の許可を求める小学生のように、ぴんと右手を挙げてそう言った。
「え……うん、なに?」
質問は受け付けません、なんて答えられるわけがないので、私はへらりと笑う。
「いずみんってさあ、なんでいっつも長袖なん?」
どきりと心臓が跳ねた。
でも、大丈夫。慣れている。ふうっと細く息を吐いて、気持ちを落ち着けた。
わずかに顔をうつむけて、グレーのカーディガンに包まれた自分の腕を見る。
本来なら十月の初めから冬服を着ることになっているけれど、今年は例年より気温も湿度も高い日が続いていて、臨時措置として衣替えは延期されていた。だから、みんなまだ夏服だ。
そんな中で私だけ、夏服の上に長袖のカーディガンを羽織っている。それも気温にかかわらず毎日。
目立って当然だ。自分でもよく分かっている。
真夏にもずっとカーディガンを手放さない私は、去年も今年も何度かこの手の質問を受けた。さすがに誰も日和くんのように直球では訊かないけれど、「長袖そろそろ暑くない?」などと遠回しにさりげなく探られるのだ。
本当なら『日焼けしたくないから』と返したいところだし、『肌が弱くて、日焼けすると荒れちゃうから』なんて答えられたらいちばん説得力があるのだろうけれど、美人でも可愛くもおしゃれでもない、色白でもない私が日焼け対策で長袖を着ているなんて、『美白の前にやることあるでしょ』などと思われるに違いない。
似たような理由で、『寒がりだから』『冷え性だから』も使えない。そういうのは、華奢な身体つきでいかにもか弱そうな女の子が言うからこそ成り立つのであって、私みたいにしっかり脂肪がついていて骨格にも恵まれてしまった中肉中背女子は、なんとなく口にしづらい。下手をすれば、心配してもらいたがっているかまってちゃんと思われかねない。それは絶対に避けたい。
ちょっと考えすぎかな、被害妄想かなとも思うけれど、考えすぎなくらいのほうがいいのだ。考えなしの言動で大失敗をしてしまうくらいなら。
そういうわけで、今回も私は、これまでに考え抜いて出した最善の答えで返す。
「なんか、長袖が好きで……」
我ながらよく分からない答えだ。
でも、この答えなら自意識過剰感も出ないし、ただの好みで夏場も長袖を着ているちょっと変わった子と思われるくらいで済むだろう。これ以上掘り下げられることもないはずだ。
「へえ、そうなんだー。教えてくれてありがとな」
わざわざ訊いてきたくせに、彼はあっさりと引き下がり、再び仲良しの男子と話し始めた。
たいして気にもなってないなら、わざわざ訊かなくてもいいのに。いい迷惑。
そんな思いを押し殺しつつ、
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」
香織ちゃんと早希ちゃんにそう告げて、私はそそくさと席を立った。
トイレの洗面台の前に立ち、カーディガンの袖口が濡れないように軽く捲り上げる。
手を洗いながら、鏡に映る自分を見つめる。
ちょっと袖を上げすぎていることに気づいて、慌てて引き下げた。今は誰もいないけれど、いつ人が入ってくるか分からない。
袖に触れた手が濡れていたせいで、カーディガンに水滴がついていた。すぐに生地に吸い込まれ、かわりに少し暗く変色して水染みになる。
ふう、と息を吐く。
正直、いつでも長袖を着ているのは面倒くさい。夏は本当に暑くて汗が止まらないし、手を洗うときにいちいち濡れないように袖を捲るのも面倒だ。
でも、着ないわけにはいかないのだから仕方がない。
家から電車で一時間近くかかるこのB高校をわざわざ選んだのだって、校則が厳しくなくて、髪色や服装の自由度が高いので夏場のカーディガンも許されるという理由からだ。
私が生まれ育ったこの町は、いわゆる地方都市で、田舎というほどではないけれどまだまだ古い価値観が残っている。そんな土地柄、身だしなみに厳しい学校が多い。
だからどうしても自由な校風のB高に入りたくて、自分の学力に見合わないくらい偏差値が高かったけれど、合格するために必死に勉強したのだ。
寝る間も惜しんで参考書や問題集に向き合う私の姿を見て、お母さんは『やっとお勉強の大切さを分かってくれたのね』と喜んでいたけれど、実はただただ長袖を着たかっただけだなんて知られたら、大いに失望されるだろう。
*
自宅マンションに辿り着き、エントランスに入ってインターホンの前に立つ。
部屋番号と呼び出しボタンを押すと、すぐにお母さんの『お帰りなさい、今開けるわね』という高い声がホールに響き渡った。同時に自動ドアが開き、私は中へ入る。
エレベーターを待つ間にふと、いつまでこんなことを続けるのだろうか、と考えてしまった。
だって、私も家の鍵を持っているのだから、自分でエントランスのドアを開けて中に入ることはできるのだ。そのほうがずっと早いし、私もお母さんも楽だ。
それなのに、お母さんは、私が自分でそうすることを嫌がる。
『お母さんが子どものころ、誰もいない家にひとりで帰って自分で鍵を開けて入ってすごく寂しかったから、あなたには同じ思いをさせたくないの』
たまになら別にいいけれど、さすがに毎日は面倒くさいし、もう高校生だから寂しいなんて思わないし、やっぱり時間がもったいないと思う。そんなことはもちろん口に出しては言えないけれど。
エレベーターに乗り込んで、十階のボタンを押す。
途中、立体駐車場のある二階で止まり、人が乗ってきた。サングラスをかけて、高級ブランドのバッグを持って、颯爽(さっそう)と歩く綺麗な女の人だ。さらさらの長い髪、つやつやのネイル、きらきらのアクセサリー。都会ではないものの大きめの駅と商業施設に隣接したこのマンションには、こういう雰囲気の住人がわりと多い。
小学四年のとき、一度だけ同じクラスの女の子がうちに遊びに来たことがあった。クラス替えで仲良くなって、『いずみんちに遊びに行きたい』と言われたのだ。
それまで私は家に友達を呼んだことがなかったので、お母さんは前日から張り切って手作りのケーキやクッキーを焼き、新鮮なフルーツを買ってきてジュースを絞り、帰り際には高そうな箱に入った手土産のお菓子まで渡していた。
『いずみんのおうち、すっごーい! お金持ちなんだね、お姫様みたい!』
友達は興奮した様子で帰っていき、次の日にはクラス中の人に、『いずみんの家はお金持ちで、お姫様みたいな暮らしをしている』と言って回った。
悪意はなかったと思う。彼女はとても素直で無邪気な子だったので、ただ自分の見たものをみんなと共有したかっただけなのだ。
でも、彼女の話を聞いた一部の人が面白がって、私に『姫』とあだ名をつけた。姫なんて呼び名が似合わないことは、自分がいちばんよく分かっている。私は言葉にならない気まずさと居心地の悪さを味わい、もう二度と友達を家には呼ばない、と心に決めた。
たしかにうちはお父さんが小さいけれど会社を経営をしていて、裕福なほうだとは思う。でも、そんな、みんなから羨ましがられるような家では決してないのだ。
エレベーターを降りて部屋に向かう。お母さんが玄関ドアを開けて待っているのが見えた。
ただいま、と声をかけると、「お帰りなさい」といつもの満面の笑みが返ってくる。
家の中に入って玄関のドアが閉まるとすぐにお母さんの笑顔は消え、まるでお医者さんに検査の結果を訊ねるかのような深刻な表情で、こう言った。
「数Ⅱのテスト、どうだった?」
私は溜め息がこぼれそうなのを必死にこらえる。
これはテストのたびに行われる恒例行事だ。試験が終わってから成績表が出るまでの約一週間、お母さんは毎日その日に返却されたテストを出すように言い、ひとつずつ答案をチェックして、ああだこうだとコメントをする。
「まだ返ってきてないよ」
私が荷物をおろしながらそう答えると、お母さんの顔が落胆の色に染まった。
「どうして? 今日は数Ⅱの授業があったはずでしょ」
私の時間割までしっかり把握しているのだ。小学生でもないのに。
「採点が間に合わなかったみたい。返却はあさっての授業だって」
「まあ、まだ採点が終わってないの? なにをしてるのかしら、数Ⅱは林(はやし)先生よね」
不満そうな顔で先生を責めるような言い方をするお母さんに、内心呆れる。なんでこんなに偉そうなんだろう。
「なんか出張があったから採点できなかったって言ってたよ」
「なにも採点がある時期に出張しなくてもいいでしょうにねえ。テストの結果をやきもきして待ってる生徒の気持ちも考えてほしいわよね」
私の点数についてやきもきしているのはお母さんのほうでしょ、と言えたらどんなにすっきりするだろう。
「ああ、本当に、数Ⅱは何点なのかしら。あなたは数Bは悪くないけど、Ⅱのほうは一学期さんざんだったものね。今回はせめて平均点プラス十点はとれてないと……」
高校生の我が子の各教科のテストの点数を、こんなにも気にしている親は、かなり少数派なんじゃないかと思う。溜め息を飲み込むのに必死だった。
香織ちゃんや早希ちゃんと話していても、赤点をとってしまったり順位が大きく下がったりしたら小言を言われるらしいけれど、うちのお母さんのように細かいことまで把握していちいちアドバイスをしてくるようなことはないらしい。私は彼女たちが心底羨ましかった。
「他のテストはどうだったの?」
やっぱり深刻な調子で訊ねられ、私は黙って鞄からファイルを取り出し、古典と化学とコミュニケーション英語の答案用紙をお母さんに手渡した。この三科目は暗記の割合が高いので、テスト勉強は頑張って詰め込みさえすればなんとかなるから、いつもながら点数は悪くない。
お母さんは三枚の答案をさっと確認し、小さく頷いた。
「まあまあね。でも誤字とケアレスミスで三点も落としてるじゃない、もったいない。次は気をつけなさいよ、見直しまで気を抜いちゃだめって言ってるでしょう」
「はい……ごめんなさい」
「それで、偏差値と順位はいつ出るの?」
お母さんは答案の返却以上に、成績表の配布を心待ちにしているのだ。
「来週の月曜日の予定だって」
「はあ……遅いわねえ。金曜日までに出してくれたら、週末にお父さんに見せられるのに……」
お父さんは、残業や接待などで忙しいのを理由に、毎日のように会社に泊まり込んでいて、家にはほとんど帰ってこない。
『お父さんね、どうも会社の近くにマンションを一部屋借りてるみたいなの。そんなにうちに帰りたくないのかしら……』
いつだったか、珍しくお酒を飲んでひどく酔っ払ったお母さんが、泣きながら私にそんな話をしたことがあった。毎日会社に泊まるというのも現実的ではない気がするので、本当にそうなのかもしれない。
でも毎週土曜か日曜の夕方だけは、お父さんは家に帰ってくる。大量の洗濯物を持ち帰ってきてお母さんに渡し、かわりに洗濯済みの服を持っていくために。
滞在時間は一時間にも満たず、私の成績表なんて見せても、興味もなさそうにちらりと目を落とすだけだ。それでもお母さんは、毎週土曜の午前中はいつお父さんが帰ってきてもいいように家中を大掃除して、飲んでもらえるか分からないお茶とコーヒーと、口もつけられない軽食を用意して、テスト後なら私の成績表も準備して、お父さんの帰宅を心待ちにしている。お父さんに『家の管理も娘の教育もしっかり手が行き届いているアピール』をしたいのだ。
私はもう、いい点数を見せてお父さんに褒めてもらうことも、私という存在に関心を持ってもらうことも、小学生のころから完全に諦めている。それなのにお母さんはまだ、お父さんに家庭を顧みてもらうのを諦めきれないらしい。どうせ無駄なのに。付き合わされて身の程に合わない好成績を必死に維持しないといけない私の身にもなってほしい。
お母さんは、お父さんと世間体にしか興味がないのだ。私自身には興味がない。
お母さんにとって子どもは、ただお父さんに『よくやってるな』と認められたり、世間の人から『すばらしい教育をしてるんですね』と褒められるために必要な材料でしかない。
だから、ほら、こういうことを笑顔で言うのだ。
「あなたがもっと勉強を頑張って、自慢の娘になったら、きっとお父さんはもっと家に帰ってきてくれるわよ。お母さんもできる限りサポートするから、一緒に頑張りましょう」
「……うん」
私は別にお父さんに帰ってきてほしいなんて思っていない。むしろ今さら毎日のように帰ってこられたりしたら困る。
小さいころはお父さんがたまに帰ってくると無条件に嬉しくて、つきまとうように後を追い回してしゃべりかけ、学校のことや習い事の話をしたりしていた。でも、面倒くさそうな顔で適当な相槌だけを打たれていることに気づいてしまってからは、なにも話さなくなった。
今となってはもう親戚のおじさんが定期的に訪ねてくるというくらいの感覚で、どんな顔をすればいいか分からないし、話すこともないし、ただただ気が重い。
「ああ、今日はなんだか疲れたわ」
お母さんがふうっと大げさな溜め息をついて言った。
「お母さん、もう部屋で休むわね。悪いけど、晩ごはんは冷蔵庫の中のもの、適当に食べてちょうだい。色々入ってるから」
「はーい……」
お母さんが寝室に入っていくのを横目に見ながら、洗面所で手を洗ってうがいをする。
自室で制服を脱いで部屋着に着替えてから、キッチンに入る。
冷蔵庫を開けて中を確認する。保存容器の中に、お弁当の残骸が入っていた。
型抜きをされたあとのスライスチーズとハムと薄焼き卵の残り、切り刻まれた焼き海苔の切れ端、半分にされたウィンナー、ばらばらに裂かれたカニカマ、ブロッコリーは茎だけが使われて頭は残っている。
これも、私と同じだ。
お母さんが毎日朝早くから丹精込めて作るあのきらきらのお弁当も、お母さんがお母さんの中での『理想の母親』でいるための道具。
もっと皮肉な言い方をすれば、世間から『いい母親』だと評価されるために欠かせないパーツなのだ。
お母さんは昔から、『夫婦関係も親子関係も良好な、幸せいっぱいの家庭』と周囲の人に思われることに全力を注いでいる。本当は幸せなんかじゃないと自覚しているからこそ、幸せだと思われたいのだ。
ああ、でも、それは私も同じか。
ふと気がついて、口もとが歪んだ。
私だって、誰にも家のことを話さず、黙っている。素敵なおうちだね、優しいお母さんだねと言われたら否定せず、にこにこしている。
私も周りから不幸だと思われたくなくて、必死に装っているのだ。
ふと、シンクに包丁が一本置かれているのに気がついた。
流し台の上の蛍光灯の光に青白く照らされ、鈍く光る刃。
いつの間にか、右手が、包丁の柄を握っていた。
はっと我に返り、頭をよぎった思いを、誘惑を、慌てて振り払う。
今はだめだ、ここではだめだ。お母さんに気づかれたら大変だ。
残り物の夕食をさっと終えて自室に戻り、机の前の椅子に腰かけて、今週提出の課題に取りかかった。
明日もあさっても塾があるから、今日のうちに半分は終わらせておきたい。
まずは必須の課題を早く終わらせて、予習と復習にしっかり時間を割かないと、すぐに授業についていけなくなってしまう。
私の通っている高校は、服装など校風は自由だけれど、県内トップレベルの進学校なので勉強に関してはしっかりやらないといけない。特に私はかなり無理をして入ったので、スタート地点からみんなより出遅れているのだ。
それなのに『お父さんに自慢の娘だと思ってもらえるような成績』をとらないといけないから、みんなと同じように普通に勉強していたって全然だめだ。だから私は一年生のころから部活にも入らずに週五日は塾に通い、家でも食事の時間以外はほぼずっと机に向かっていた。
「ふう……疲れた」
二時間ほどで集中が途切れ、溜め息と共に手を止めた。
ずっと俯いていたので肩と首が痛い。ペンを握りしめている右手の指が軽く痺れている。
さすがにちょっと休憩するかと思い、息抜きがてらスマホで軽くSNSをチェックすることにした。
誰かが親の愚痴をつらつらと並べている。親ガチャ失敗、と嘆いている。それを知り合いの誰かに見られる前提で書いている。
いいなあ、と思った。
友達に打ち明けられる不満でいいなあ。愚痴を吐けていいなあ。
私にはできない。友達がいないわけではないけれど、打ち明け話はできない。本当にしたい話は、誰にも言えない。
今は香織ちゃんと早希ちゃんと仲が良くて、毎日色んな話をするし、彼女たちの家のことや親への不満なども日常的に聞いているけれど、聞けば聞くほど、私は言えないなあと思う。だからいつも黙ってにこにこ聞いている。
そんな私を、彼女たちは、不満もないくらい優しくてすばらしい親を持っていて羨ましいと思っているらしいけれど、実際はこう(、、)だ。
彼女たちは親の文句を言ったりもするものの、その根底にはちゃんとゆるぎない愛情があり、信頼関係が築かれているのが、はたから聞いていても分かる。
嫌よ嫌よも好きのうちとか、可愛さ余って憎さ百倍とかいう言葉があるけれど、そういうことなのだろう。大好きな親だからこそ、甘えられる相手だからこそ、遠慮なく文句も口にできるのだ。
だから、私は、言えない。
『私はお母さんもお父さんも大嫌い』だなんて、言えない。
友達とどんなに仲良くなっても、本音で話すことができないので、心を開けない。
いつだって、周りとの間に、見えないけれど高くて分厚い壁がある。
「あーあ……」
鍵つきの引き出しを開け、中に入っているカッターを手に取る。刃を繰り出して、デスクライトの光に当てる。
目の前には、やらなくてはいけない課題や、予習復習用のノート、塾の宿題などがうず高く積み上がっている。まだまだ時間がかかりそうだ。いつ寝られるだろうか。今日もまた五時間眠れたらいいほうかな。
「はあ……」
また溜め息が洩れる。
なんのために頑張っているのだろう。
誰のために生きているのだろう。
そんな意味のない思考に、ふいにとらわれてしまう瞬間がある。
なにもかも放り出してしまいたくなる瞬間がある。
疲れているのかもしれない。すぐに集中力が切れてしまうのも、そのせいだろう。
疲れているからといって、足を止めて休むわけにはいかない。走りつづけないと、すぐに置いていかれてしまう。私はサラブレッドではないから、厳しく地道な訓練に日々耐えるしかないのだ。
でも、と心の中で誰かが呟く。
いつまでこんな毎日が続くんだろう。
いつまで頑張れば終われるんだろう。
ふと浮かんだ疑問を、ぶんぶん頭を振って追い払った。
大丈夫、大丈夫。
気分を変えるためのいちばん効果的な方法を、ちゃんと知っているから。
私はお守りのようにカッターを握りしめ、左腕の袖を捲り上げた。
*
その日は朝から、なんかいな、と思っていた。
身体が熱っぽい感じがして、でも腕や脚の表面や指先は冷たい。
頭にがかかったようにぼんやりしていて、授業中も先生の話になかなか集中できないし、気がつくと板書をとる手が止まっている。
昨日の晩、中間テストの解き直しの残りを夜中の一時すぎまでやっていて、いつもよりさらに睡眠時間が短かったからかもしれない。
睡眠は大事だと分かっているけれど、でも、お母さんに昔から『テストは終わったあとのほうがもっと大事なのよ』と言われていて、だからどんなに疲れていても、やらないわけにはいかないのだ。
お母さんは『子ども四人全員を東大に現役合格させたスーパーママの教育術』みたいな本を愛読書にしていて、私が小さいころから進学塾の保護者向け講座を受講したり、有名な教育評論家や予備校講師の講演を聞きに行ったりして、そこで仕入れてきた効率のいい学習法をいつも熱心に私にレクチャーする。
『テストが終わったら全教科の全問題の解き直しをすること。なにも見ないで解いて全問正解できるようになるまで、何度でも解き直しなさい』
小学生のころからそう決められていて、毎回お母さんのチェックが入るのだ。
だから今回も、学校の課題や塾の宿題を終えたあとに、毎日二教科ずつ解き直しをしていて、昨日は数Ⅱと物理の三回目だった。どちらも苦手科目なのでなかなか終わらず、寝るのが遅くなってしまったのだ。
「うおー、いずみん!」
突然隣から聞こえてきた底抜けに明るい声で、私ははっと我に返った。
「また満点じゃん! すっげー」
今は英文読解の授業中で、英単語の小テストを隣の席の人と交換して相互採点している最中だった。
私のテストに丸つけをしていた日和くんが、目をきらきらさせて「マジすげえ」と大げさに騒いでいる。
彼と隣の席になって二週間ちょっと。別世界の住人なのだから極力関わらないでおこうと思っていたのに、彼のほうからなにかと話しかけてくるので、結局毎日何回も言葉を交わしていた。
「スペルも完璧だし! ってか古文単語とか世界史の小テストも毎回満点だよな」
「え……あ、うん、まあ……」
「どうやったらそんな覚えられんの? 記憶力どうなってんの? 天才なん?」
あまりにも真っ直ぐな言葉を向けてくるので、どんな顔をすればいいか分からず困った。私が天才なんて、あるわけがない。
採点を終えた日和くんのテストを返しながら、「そんなんじゃないよ」と小さく笑って答えた。
「私、帰宅部だし、趣味もないし、ひま人だから、勉強に使う時間がいくらでもあるってだけ」
褒められるのは苦手だ。自分がそんな優れた人間ではないと、よく分かっているから。
「暗記がちょっと得意なだけだよ……。応用力はないから、本番のテストだと大していい点とれないし」
定期テストでは、どんなに頑張って全範囲を暗記していても、それだけでは解けない応用問題が出されるので、満点はとれない。本番に弱いからケアレスミスもしてしまう。
だから、せめて小テストでは満点をとって、平常点を稼いでおこうという魂胆なのだ。通知表で少しでもいい評価を得るために。
すごいことでもなんでもなく、ただ打算的なだけ。
すごいと言うなら、むしろ日和くんのほうだ。
バスケ部の彼は、毎日朝練をやったあとに授業を受けているようだし、帰りのホームルームが終わるとすぐに大きなスポーツバッグを抱えて体育館に向かう。土日も練習や試合でつぶれることが多いらしい。たぶん部活が忙しくて勉強は課題だけで手一杯で、小テストの勉強時間などまともにとれないはずだ。
それでも毎回彼の小テストは8割以上は正解しているし、定期テストや実力テストではかなりの好成績をおさめている。きっと地頭も効率もいいのだろう。
この学校には、そういう人がけっこういる。去年首席入学して以来ずっと学年一位をキープし続けているという隣のクラスの女子も、陸上部に入っていて熱心に活動しており、しかも県大会まで進むほど速いらしい。まさに文武両道だ。
彼らのような人と私は、生まれつき素質が違うのだ。ガリ勉と本物の秀才の違いだ。
私はこの学校の誰よりも膨大な時間を勉強に使っていると思う。それでも、なんとかぎりぎり上位と呼べる順位に食い込める程度だ。いかに私が人より劣っているか、よく分かる。
それでも日和くんは、私を見ながら「どっちにしろすげえよ」と繰り返す。
「小テスト毎回満点とかマジですごいと思う。一回でも油断したりサボったりしたら無理じゃん。いずみんはずっと気い抜かずにめっちゃコツコツ勉強してるってことだろ。そんなん、なかなかできないよ、尊敬するわ」
「ええ〜……」
卑屈な思いから苦い笑みを浮かべる私に、彼はにかっと笑って言った。
「そんないずみんに、花丸をあげよう!」
一瞬、聞き間違いかと思ってきょとんとしてしまった。
「えっ……」
やっとその意味に気づいた私が止める間もなく、彼は私の小テストの得点欄に、びっくりするほど大きな字で『10』と書き、それを大きな丸で囲んで、さらにぐるぐるとたくさんの花びらを描き込んだ。
「はい、どーぞ!」
「あ……うん……」
手渡された紙を受け取り、目を落とす。
まるで小学一年生のひらがな練習のノートのような、紙面の余白もないくらいの、特大サイズの花丸。
「……ふふっ」
あまりの大きさに、思わず笑ってしまった。
自然と頬が緩み、口角が上がり、顔が綻ぶ。
花丸。
こんなものをもらったのは、いつぶりだろう。
自分の努力を褒められたのは、いつぶりだろう。
もう何年もの間ずっと、子どものころの百倍も千倍も頑張っているのに、誰からも花丸なんてもらえなかった。『頑張って当然』だと、『それでもまだまだ足りない』と、自分でも思っていたし、お母さんからも思われていた。
「………」
なんだか、言葉にならない思いが、唐突に込み上げてきた。
どんどん膨らむ感情が喉を塞いで、うまく声が出せなくなった。
なんとか絞り出した小さな声で、ひとことだけ伝える。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
日和くんが楽しそうに笑う。それから、『いいこと思いついた』とでも言いたげにぱちんと手を叩いた。
「じゃ、今度俺が満点とれたら、いずみんの花丸ちょうだい!」
「えっ」
花丸なんて、描いたことがない。ちゃんとうまく、綺麗に書けるだろうか。
しかも、私みたいな地味な人間が、人気者の日和くんのテストに花丸をつけるなんて、許されるのだろうか。あまりにも分不相応なんじゃないか。
もしも他の人に知られたら、『身の程も知らずに、調子に乗っている』と思われてしまうに違いない。
でも。
私の手の中に咲いている、大きな大きな花丸を見つめる。
これをもらったときの、照れくさくて気恥ずかしくて、でも嬉しくて、胸が温かくなる気持ち。
なんの見返りも求めず与えてくれたものを、ひとりじめして、返せるのに返さないなんて、それこそ身の程知らずで調子に乗っていると思った。
だから。
「れ、練習しとく……ね」
ぽそぽそと答えると、日和くんは「やった」と花が咲いたように笑った。
「よっしゃ、次は満点とるぞ!」
彼が気合を入れるようにそう言うので、なんだか申し訳なくなる。
「いや、あの、大した花丸は書けないけど……」
彼は今度はおかしそうに肩を揺らして笑った。
「なんだそれ、花丸に大したも大さないもないだろー」
その言葉に、私は思わず片手で口もとを押さえ、小さく噴き出した。
「あはは。『大さない』って。初めて聞いた」
「あ、やっぱ変か?」
彼が照れたように笑う。
「なんか口なじみ悪いなと思ったけど、他の言い方が思いつかなくてさあ」
「たしかに、正解はなんだろね。『大したことない』かな? でも長いよね」
「長いよなー。『花丸に大したも大したことないもないだろ』……噛みそう。やっぱ会話のテンポって大事じゃん?」
「あはは、そうだね」
いちばん苦手だと思っていた相手と、まさかこんなふうに楽しく会話して笑い合う日がくるなんて、思ってもみなかった。
これが席替えの醍醐味ってやつかな、なんて思っていたそのとき。
「でもさあ――」
ふと日和くんが声を落とした。
見ると、とても真剣な表情を浮かべていたので驚く。
いつもにこにこ笑っている人が急に真面目な顔をすると、妙な迫力があった。
「いずみん、頑張りすぎてない?」
え、と目を丸くして、私は彼を見つめ返す。
予想もしなかったことを訊かれて、反応に困った。
冗談か軽口かなと思ったけれど、彼はやっぱり真剣な顔をしている。
「いずみん、どの教科でもいつも小テスト満点だし、抜き打ちの復習テストも満点だったし、毎日死ぬほど勉強してんだろうなって」
日和くんがふいにこちらに身を乗り出し、
「なんか今日は、顔色も悪い気がするし……」
覗き込むように私の顔を見つめて言った。
「頑張りすぎてんじゃない? あんまり頑張りすぎると倒れちゃうよ」
真っ直ぐな瞳が私を映している。
光に照らされて、淡い茶色に透き通る、澄んだ瞳。
そんな綺麗な眼差しを向けられているのが苦しくなって、私はふいと顔を背けた。
「……普通だよ」
なんとか作り笑いを浮かべて答える。
日和くんは、「ならいいけど……」と、まだ少しなにか言いたげな表情で言った。
*
日和くんの予言が当たった……わけではないと思うけれど、午後になって急に体調が悪化した。
胸のあたりがぐるぐるする。気分が悪い。吐き気がする。
額やこめかみにじっとりと脂汗が浮いているのを感じた。
お昼のとき、食欲がなかったのに、香織ちゃんたちに心配をかけたくなくて、それとお母さんの機嫌を損ねたくなくて、無理してお弁当を残さずお腹に詰め込んだ。あれが良くなかったのかもしれない。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。それしか考えられなくなる。
でも、授業中にいきなり席を立って、『体調が悪いので保健室に行かせてください』なんて、そんな目立つことはしたくない。
じっと座っていれば、きっとよくなる。
我慢していれば、嫌な気持ちは通り過ぎていく。今までずっとそうだったんだから。
でも、気持ちが悪い。むかむかする。頭が痛い。
吐き気と頭痛を紛らわすためには、もっと強い痛みが必要だった。
きつく唇を噛み、右手で左腕をぎゅうっとつかんで、カーディガンの上から爪を立てた。
「いずみん」
こつこつ、と音がする。重たい頭をなんとか動かしてゆっくりと目を向けると、隣の日和くんが、眉をひそめてこちらを覗き込んでいた。
「いずみん、大丈夫?」
大丈夫、と答える前に、視界がぐにゃりと歪み、急に薄暗くなった。
力が入らない。姿勢を保っていられなくて、身体が大きく傾いていくのが自分で分かった。でも、どうしようもなかった。
そのまま倒れ込んで、硬い床に全身を強く打ちつける――と覚悟していたのに、衝撃は訪れなかった。
なんとか薄目を開けて、ぼやけた視界で周囲を窺い、倒れる寸前に誰かに抱き止められたのだと分かった。
そのまま身体をふわりと抱き上げられる感覚。
心地いいぬくもりに包まれながら、私は意識を手放した。
*
目を覚ますと、保健室にいた。
白い天井と、四方を囲む薄水色のカーテンでそれを理解する。
ゆっくりとベッドから身を起こし、自分の腕を無意識に見つめていたら、
「泉水さん、起きた? 体調はどう?」
養護教諭の先生が、カーテンを開けて顔を覗かせた。
「あ……すみません、平気です」
私は軽く頭を下げて答える。まだ少し頭がぼんやりしているものの、気を失ったようにぐっすり眠ったおかげか、倒れる前の吐き気はすっかりよくなっていた。
先生が「それならよかった」と少し微笑む。
「熱はないみたいだけど、やっぱり顔色があんまりよくないわね。ゆうべはちゃんと眠れた? 朝ごはんは食べた?」
「あ、はい……」
頷いたところで、先生の目が私の腕、いつものように癖で袖口を引っ張っている手のあたりに向けられている気がして、反射的に掛け布団の中に腕を隠す。
すると先生の目がすうっと細くなり、
「あなた――」
となにか言いかけた。びくりと肩が震える。
ちょうどそのとき、ぱたぱたと足音が響いてきた。
「あ、いずみん起きてる! 大丈夫?」
カーテンの向こうに揺れる、太陽みたいな金色の髪。
「日和くん……」
先生の後ろから顔を出した彼は、心配そうな表情を浮かべている。
「龍ケ崎くん、泉水さんの荷物、持ってきてくれた?」
「はい、持ってきました」
「ありがとう。……泉水さん、彼があなたをここまで運んできてくれたのよ。ちゃんとお礼を言っておいてね」
「あ、はい」
先生が再び私の腕をちらりと見て、「また今度ゆっくりお話ししましょう」と言い、カーテンを開けて離れていった。
私は日和くんのほうを向き、「ありがとう」と頭を下げる。
「ごめんね、色々迷惑かけちゃって……」
彼の目の前で気を失ったせいで保健室まで運ばせてしまったことも、さらに荷物までわざわざ持ってこさせてしまったことも、本当に申し訳なかった。
「いや、それは全然いいんだけどさ。具合はどう?」
「あ、もう全然大丈夫。たっぷり休んだから」
「そかそか、よかった。でもマジでびっくりしたよ、急に倒れるから……みんなも心配してたよ」
彼はベッド脇の丸椅子に腰かけ、こちらをじっと見つめて言った。
「やっぱ体調悪かったんだな。すぐ気づけなくてごめん」
どうして彼が謝るんだろう。
そもそも、どうして私なんかを心配してくれるのだろう。
不思議に思いながら、私は首を横に振る。
「ううん、ただの寝不足だから……」
「なんで?」
即座に訊ね返されて、返答に詰まった。
「……なんでって……」
「なんで寝不足なん? スマホ見るのやめられなかったとか? 好きな漫画とかテレビ見てたら止まらなかったとか?」
「や……」
「じゃないよな。いずみんって、そういう感じじゃないもんな。ちゃんと自制できそうだもん」
答えを先回りされて、まごついてしまう。
「いや、あの……勉強、してて……」
もごもごと答えた。
睡眠時間を削ってまで必死で勉強しているというのは、なんだか恥ずかしくて情けなくて、あまり知られたくない。普通に勉強して普通に今の点数をとれているのだと、できれば思われたい。
でも、助けてくれた日和くんに嘘をついたりごまかしを言ったりするのはさすがに気が引けて、正直に答えた。
「私、要領が悪いから……効率よく勉強できる人はいいんだろうけど、私はとにかく時間かけてやるしかなくて」
なぜか言い訳がましい口調になってしまう私を、じっと黙って見ていた彼が、ふと口を開いた。
「……勉強、頑張ってるのは偉いけどさ」
真摯な眼差し。
見られたくないことまで見られてしまいそうで、知られたくないことまで知られてしまいそうで、思わず目を逸らした。
「体壊すほど無理して頑張るのだけは、違うよ。勉強だけじゃなくてさ、習い事でも部活でも趣味でも、なんでも」
「……そうだね」
私は上の空で頷いた。
「あのさ――」
日和くんがなおも続けようとしたとき、保健室の電話が鳴った。先生が受話器をとり、なにか話をしている。
通話を終えた先生が、私を見て言った。
「泉水さん、担任の先生から内線。お母様がもう職員室にいらしてるって」
「え……っ、お母さん?」
「早退の手続きをして、今からここに来てくれるわ」
ぼんやりした頭で、やっと状況を理解した私は、驚きのあまり声が震えた。
「お母さんが……迎えに……?」
先生は当たり前のように「ええ」と頷く。
「あなたが寝てる間に担任の先生にお願いして、お母様に事情を連絡してもらったの。そしたらすぐに迎えに行くって。もう着かれたなんて、本当に急いで来てくださったのね」
「………」
先生が微笑んだ。
「きっとあなたのことが心配で仕方なかったのね。優しいお母様じゃない。今日はもう帰ってゆっくり休みなさい、あと一時間だし」
壁の時計を見ると、ちょうど五、六限目の間の休み時間だった。だから日和くんが顔を出してくれたのかと思う。
でも、ただの寝不足なのに早退なんてしてもいいのだろうか。
迷っていたとき、先生がベッドに近づいてきて、静かに告げた。
「お母様に、それの話、してもいいかしら」
先生の視線は、間違いなく私の両腕に注がれていた。
「だめです!」
私は腕を背中に回し、反射的に叫んだ。
『なにか知ってるんですか』とか、『勝手に見たんですか』とか、問い詰めたいこともあったけれど、まずは、お母さんにばらされるのだけは、なんとしても阻止しないといけなかった。
「やめてください……それだけは……」
懇願するように言うと、先生が「でも」と眉をひそめる。
「黙って見過ごせないわ」
「絶対に言わないでください」
先生の言い分は無視して、繰り返し主張する。
「どうして?」
先生が私の考えを読み取ろうとするように、じっとこちらを見据えている。
「あなたが倒れたって聞いたら心配してすぐに駆けつけてくれて、娘思いのお母様じゃない。それなのに、悩んでることがあっても、お母様には話せない?」
私はふるふると首を振った。お母さんには、いちばん話せない。
「心配……かけたくないし……」
もっともらしい言い訳を思いついたので口にした。先生が口もとを歪める。
「親御さんからしたら、悩んでるのに黙っていられるほうが、よっぽどショックだし心配なのよ」
「でも……言わないでください、本当に」
先生が今度は呆れたように、諦めたように溜め息をついた。
「担任の先生には?」
再び首を振る。もちろんだめだ。担任からお母さんに話が伝わってしまうかもしれない。
「じゃあ、スクールカウンセラーの先生とお話ししてみない? 守秘義務っていうのがあってね、カウンセラーの先生は相談内容を絶対に他の人には話さないから」
私はまたきつく首を振った。
「大丈夫です。自分でなんとかします、できます」
視線を感じる。日和くんが見ている。
クラスメイトにこんなところを見られるなんて、最低だった。なんとか気づかないでいてくれますように、と心から祈る。
そのとき、保健室のドアをノックする音がして、私たちはそちらに目を向けた。
「失礼いたします。娘がお世話になっております」
甲高く丁寧な声が言う。お母さんの、よそ行きの声だった。
「泉水です。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、お母様。お忙しいところ、わざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
すぐに先生がお母さんを出迎え、保健室の中に招き入れた。
「いえいえ、こちらこそ。娘がご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。本当にありがとうございます」
なにか余計なことを言われてしまうのではないかと内心はらはらしていたけれど、先生は事務的な連絡を済ませると私に向き直り、「じゃあ、お大事にね」とだけ言ったので、心底ほっとした。
*
「まったくもう、あなたは……」
ふたりで保健室を出て、来校者用の駐車場に向かう途中、お母さんの小言の嵐が始まった。
「先生方にこんな迷惑かけて……恥ずかしいやら申し訳ないやら……」
周囲に誰もいないのをいいことに、さっきまで先生の前で見せていた、愛情溢れる優しい母親の仮面は剥がれ、苛立ちを隠さない表情がさらけ出されている。
世間体を気にするお母さんからしたら、『娘を睡眠不足のまま学校に行かせた』なんて受け入れがたいことで、母親として監督不行き届きだと思われてしまう、『理想の母親』から遠ざかってしまうのが嫌なのだろう。
「なんで倒れるまで気づかないの? 自分でおかしいと思わなかったの?」
「ごめんなさい……」
倒れたことを心配してくれているんじゃないか、私が毎日どれだけ頑張っているか気づいてくれるんじゃないか、そんな淡い期待が、脆くも崩れ去っていく音が聞こえるようだった。
「寝不足なんて……どういうこと?」
お母さんが大きな溜め息を吐き出しながら、私を問い詰める。
「ちゃんと寝てなかったの? 夜ふかししたの? どうして? いったいなにをしてたの?」
「………」
どうしてって? なにをしてたって?
それはお母さんがいちばんよく知ってるでしょ。
どうせ口には出せないのに、頭の中では反論が渦巻いている。
お母さんの言いつけ通りに勉強してたんだよ。
学校と塾から出される大量の宿題を終わらせたあとに、お母さんが望むプラスアルファの勉強もしてたんだよ。
睡眠時間を削って頑張ってたんだよ。
だから寝不足になって倒れたんだよ。
頑張ってるのねって、偉いわねって、言ってくれるんじゃないかと少し期待してたのに。
身体は大丈夫なのって心配してくれると思ってたのに。
そんな甘い考えに浸っていた私は、なんて馬鹿なんだろう。
お母さんは私じゃなくて、私の成績だけに興味があるのだ。
お母さんの承認欲求を満たせるような『いい娘』の私にしか興味はないし、そうじゃないなら必要のない邪魔な存在なのだ。
そんなこと、分かりきっていたはずなのに。
「いつも言ってるでしょう、自分の体調管理も能力のうちなのよ。どんなに受験勉強を頑張ったって、入試当日に風邪なんて引いたら全部水の泡でしょう。それに、学生のうちは体調を崩したら心配してもらえるけど、社会に出たらそうはいかないの。大事な仕事の日に体調不良で休んだりしたら、『自己管理能力が低い』って評価されて、見限られて終わりよ」
私の気持ちなど知るはずもなく、お母さんはお説教を続けている。
「はあ、まったく……。高校生にもなって自分の体調もコントロールできないようじゃ、大学受験も先が思いやられるわね……」
駐車場に辿り着き、お母さんが運転席のドアを開けた。
私は後部座席のドアの前で動きを止め、立ちすくむ。
「お母さん、自分のことは二の次で全部犠牲にして、毎日毎日あなたのことだけ考えて、必死にサポートしてるのに、どうしてあなたはそうなのかしら……親の心子知らずよね、本当に」
ぷちん、となにかが切れる音がした。
なにそれ。
私は、これまでずっと、お母さんに言われたことを、言われた通りに、必死にやってきたのに。お母さんの期待に応えるために、頑張ってきたのに。
私だって、なにもかも全部犠牲にしてきたのに。
それなのに、たった一度、失敗しただけで、こんなに怒られなきゃいけないの? 呆れられなきゃいけないの?
「――もう、やだ……!」
気がついたら、踵を返してお母さんに背を向け、走り出していた。
「ちょっと! どこに行くの!?」
驚いたような、焦ったような声を背中で聞きながら、私は目の前の現実から逃げ出した。
*
「おーい、いずみーん」
学校の外の道を、駅のほうに向かって駆けていると、突如後ろから私を呼ぶ声がした。
驚いて振り向いた私の目に、軽やかな足取りでこちらに向かって走ってくる日和くんの姿が飛び込んできた。私は驚きに目をる。
彼とは保健室を出るときに別れたはずなのに、しかもまだ授業中のはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。まさか私を追いかけてきたのだろうか。ありえない、どうして。
わけが分からないながらも、私は追いつかれないようにスピードを上げ、必死に足を動かす。
「いずみん、どこ行くの?」
でも、相手はさすが現役バスケ部員。一瞬で追いつかれてしまった。
「な……なんで……?」
私はぜえぜえ息を切らしながら訊ね返した。
質問の意図を汲んでくれたのか、日和くんが「実はさ」と説明してくれる。
「いずみんが走ってひとりで校門から出てくのが、教室の窓から見えたから、どうしたんかなーって気になってさ」
「そう……だったの……」
私は深呼吸をしながら息を整え、彼を見つめる。
外の光の下で見る彼の金色の髪は、学校の中で見るよりもずっと淡く透き通っている。
素直に、すごく綺麗だなと思った。日和くんには、明るく澄んだ髪色が本当によく似合う。
私たちはどちらからともなく脇道に入り、路肩の植え込みを囲うレンガの花壇に、並んで腰を下ろした。
とても静かだった。聞こえるのはかすかな鳥の鳴き声だけ。頭上には背の高い木が並んでいて、私も日和くんも、全身を優しい木洩れ陽に包まれている。
「えー……ワタクシゴトで恐縮ですが……」
しばらくして、唐突に日和くんが口を開いた。そして、ポケットから取り出したスマホの画面を、私に向けてくる。
「え……?」
見ていいのかなと戸惑いつつ、私は彼の手もとに目を落とした。
「これ、中学時代の俺」
「……?」
そこに映っていたのは、たぶん卒業アルバムかなにかの個人写真のページを、スマホのカメラで撮ったらしき画像だった。
拡大された画面の中には数人の男子の顔写真があり、でもぱっと見ただけではどれが日和くんなのか分からず、写真の下の名前をひとつずつ確かめていく。
「………えっ?」
思わず声を上げてしまった。
『龍ケ崎日和』という名前の上にあるのは、私の知る彼の姿とはほど遠い、まるで別人の写真だった。
もっさりとした真っ黒な髪、重たい前髪の下には分厚い眼鏡。そのせいで目が小さく見えて、たしかに顔立ちを見れば面影はあるものの、これだとはっきり示されないと、日和くんだとは確信できない。
また、その表情は硬く暗く、服装も詰め襟の喉元のホックまでぴっちり留められていて、いかにも生真面目そうな、堅苦しい印象。今のイメージとは正反対だ。
驚きのあまり、隣に座る彼を無言でじっと見つめることしかできない。
ふわふわの明るい髪、澄んだ大きな瞳、柔らかい表情、着崩した制服。
やっぱり別人だ。
高校デビュー、というやつなんだろうか。でも、だとしたらなぜ、隠しておきたいであろう昔の写真をわざわざ撮影してスマホに保存していて、しかも私に見せてくれるのだろうか。
日和くんが私の反応を見て「びっくりだろ?」と照れくさそうに笑った。
「さすがに変わりすぎててちょっと恥ずいんだけどさ。でも、このころのこと忘れたくないというか、忘れちゃいけないというか……だからまあ、いつでも見返して思い出せるように、スマホで撮っといたんだ。過去の自分に戻っちゃわないように、教訓としてさ」
「教訓……?」
すると彼はふっと目を細めて「うん」と頷き、頭上に広がる空に視線を投げた。それから静かに口を開く。
「俺の家、昔から病院やってて、いわゆる『代々医者の家系』ってやつでさ。めちゃくちゃ厳しくて、幼稚園のころから家庭教師とかついてて、医者になれなきゃ人間じゃない的な。そういう、昭和のドラマかよ、みたいな家なんだよ」
「そう、なんだ……」
そんな話は全然聞いたことがなかった。
なんとなく、彼の性格や振る舞いから、おおらかで温かい家庭で育ったのだろうと思っていたのだけれど、どうやら私の予想は大外れだったらしい。
そういえば龍ケ崎総合病院とかいう有名な大病院が市内にあるな、と思い出した。もしもあれが日和くんの家だとしたら、私には想像もできないくらいの立派な家なのだろう。それこそまさに雲の上の世界だ。
「まあ、そんなこんなで、ガキのころから勉強漬けでさ。中学でもずーっと勉強ばっかしてたんだよ。本当に、まさに食べる時間と寝る時間以外はずっと机にかじりついてた。俺、元がそんなに頭よくないからさ、時間かけてやるしかなくて……」
「………」
私はひっそりと唇を噛む。自分の浅はかさが憎らしかった。
日和くんは大して勉強しなくてもいい点数がとれるのだと思っていた。努力しなくても、持って生まれた才能で好成績を維持できるのだと。
違ったのだ。全ては彼がこれまでに積み重ねてきた結果だった。
それを、なにも知らずに勝手に羨んで、勝手に妬んで、私はなんて失礼なことを考えていたのだろう。
「俺さ、昔からバスケが好きだったから、中学では絶対バスケ部に入りたかったんだ。でも親に相談したら、『だめに決まってるだろう、手に怪我でもして勉強に支障が出たら困る』って許されなかった。だから諦めた」
日和くんが毎日生き生きと部活に向かう姿を思い出す。今、彼があんなにも楽しそうに部活に行っているのは、昔ずっとバスケをすることすら許されなかったからなのだろう。
「そんなふうにやりたいこと全部我慢して、医者になるために必死に勉強してきたのにさ、一回だけ、中三の夏休みの模試で、大失敗しちゃったんだ」
夏が受験の天王山よ、中三の夏が人生を左右するのよ――何度も何度も聞かされた言葉が、真剣なお母さんの声が、頭の中で再生される。
日和くんも同じだったのだろうか。私は苦い気持ちで彼を見つめた。
「絶対に第一志望A判定とれって、前の晩も夜中まで勉強させられてて、寝不足でフラフラの状態で模試受けに行ったら、途中で気分悪くなっちゃったんだよな。それで全然集中できなくて、いつもなら解ける問題も全く解けなくて、結果返ってきたら、案の定C判定。本番でもないのに、死ぬほど怒られたよ。こんな落ちこぼれはうちには要らん、存在自体が恥ずかしいって、人格まるっきり否定みたいな怒り方で……」
彼は向こうを見たままゆっくりと瞬きをした。
「なんか、その瞬間、もういいや、ってなった。なんか糸が切れて――」
うん、と私は頷いた。
何年もずっと張り詰めていた、必死に引っ張っていた心の糸が、ぷつんと切れる音を、ついさっき私も聞いた。
「父親の母校のA高に行けって言われてて、ずっと志望校にしてたんだけど、受験のとき勝手にB高の願書にすり替えたんだ」
A高は、県内トップの進学校だ。県内どころか全国から生徒が集まってくるような有名私立高校で、ほとんどの生徒が最難関大学に行くという。そこを志望していたというだけで、中学時代の日和くんがいかに優秀で、しかも努力していたのか分かる。
「ばれたとき、もちろん死ぬほど怒られたけど、もうどうでもよかった。なに言われても無視してB高受けて、今はもうすっかり諦められて、放ったらかしだよ。家庭内勘当みたいな」
日和くんが金色の髪をつまんで、にかっと笑う。
「で、今は解放されて、こんな感じで好き勝手やって、念願のバスケ部入って。人生超ー楽しい!」
太陽のような笑顔。
これまでは苦い羨望の気持ちで眺めていた彼のその笑顔を、今は純粋な尊敬の眼差しで見つめる。
日和くんは、自分の足で檻の中から抜け出し、自分の力で壁を乗り越えてきた。
『私がもっていないもの全てを、彼は生まれながらに持っている』。
そう思っていたけれど、違った。もともと持っていたのではなく、自分で手に入れたのだ。
私にはできなかったことを、彼は成し遂げた。
無意識のうちに、カーディガンごしに自分の両腕を抱きしめる。まだ癒えない傷が、ずきりと痛む。
檻の中に閉じ込められていることを、嫌だ嫌だと思いながらも、自分の中で不満を溜め込むだけで、私はなにも行動には移さなかった。
お母さんから離れたいけれど、離れるのは怖かった。
お母さんに嫌われたら、お母さんに見捨てられたら、ひとりになってしまう。それは嫌だった。それは怖かった。
だから、耐えればいいと思った。我慢していれば、いっぱいいっぱいでもなんとか頑張っていれば、まだお母さんに期待していてもらえる。
親の束縛から逃れた日和くんを尊敬するし、羨ましいとも思うけれど、たぶん私には真似できない。同じようにはできない。
きっとこれからも、この腕でストレスを解消しながら、心の痛みを身体の痛みでごまかしながら、自分をだましだまし生きていくのだろう。
そういう頑張り方しか、私は知らない。
日和くんみたいには、なれない。
「――そういう自分の経験があったからさ」
彼が再び私に目を向け、微笑みを浮かべて言った。
「余計なお世話だって分かってるけど、自分を顧みない頑張り方をしてる人がいると、声かけたくなっちゃうんだよな」
まるで見守るような眼差しを向けられて、胸がざわざわする。。
「いずみん見てると、まるで昔の自分を見てるみたいな感じがして、なんか気になってさ。もしかしていずみんも、あのころの俺みたいな状況なのかもって思ってた」
彼がなにかと私に話しかけてきた理由が、やっと分かった気がした。
それに、と日和くんが視線を落とす。そこには私の腕がある。
「……真夏でもずっとカーディガンで、体育のときもいつも長袖の体操服だし、なんでかな、もしかしたら見られたくないなにかを、その下に隠してるのかなって……なんていうか心配で、ずっと気になっててさ……」
私は黙って自分の腕を抱いた。
「これがいい機会だからさ、戻ったらお母さんと、ちゃんと話してみたら?」
「………」
私はうまく答えられなくて俯く。自分にそんなことができるとは思えなかった。
正直、お母さんに言いたいことはたくさんある。
吐き出しそうになっては言葉にできなくて飲み込み、ずっと溜め込んできた思い。
でも、きっと言えない。だって、これまで何年もずっと、口答えせずに言う通りにしてきたのだ。今さら反抗なんてできるわけがない。
肩を並べて腰かけたまま、私たちの間に微妙な沈黙が流れる。
「いずみんの名前ってさ、誰がつけてくれたの?」
ふいに日和くんが訊ねてきた。私はどうして今そんなことを、と不思議に思いながらも答える。
「お母さんだけど……」
「そっか。いい名前じゃん」
「……私は、好きじゃない」
ひとりごとのように答えると、彼は大きな瞬きをひとつして、口を閉じた。
私も黙ったまま、ゆっくりと瞬きをして空を見上げた。
秋らしい、細かい雲に彩られた空。でも、どこかくすんでいる気がする。
「……なんか、変な……」
ふと日和くんが呟く声がした。隣に視線を向けてみると、彼はきょろきょろと周囲を見回している。
「焦げ臭いにおい、しない?」
「……そう?」
私には分からなかった。もしかして気まずさをごまかすためなのかと邪推する。
「ちょっとだけど、なんか燃えてる……みたいなにおいがする気が――」
日和くんが首を捻りながら言ったそのとき、風向きが変わったのか、私の鼻にもそのにおいが届いた。
「あ、焦げ臭い……かも」
私が言うと同時に、日和くんが腰を上げる。
「なんだろう。落ち葉を燃やしてるだけとかだったらいいけど、それにしては変なにおい……」
うん、と私は頷いた。
焦げ臭いにおいの中に、鼻をつくような刺激臭も混じっている。
「もしかして……火事?」
「………」
日和くんが「ちょっと見てくる」と駆け出したので、私も慌てて追いかけて脇道から出た。
視界が開けた途端、西のほうの空に、黒に近い灰色の煙がもくもくと立ち昇っているのが見えた。
煙突から出る煙とは全く違う、太くて色の濃い煙だ。異様な光景だった。
「火事だ……!」
日和くんが小さく叫ぶ。
そのころには、あたりに充満する焦げ臭さもかなり強くなっていて、私たちは急いで煙のほうに向かって走り出した。
においが強いわりには、煙の元は予想以上に離れた場所だった。
火事のにおいってこんなに遠くまで届くのかと、ぞっとする。
五分ほど走って駆けつけた住宅街の真ん中に、近所の人たちだろうか、数人が集まっている場所があった。あたりは焦げ臭いにおいと漂う煙に包まれている。
人々の視線の先には、あちこちの窓から炎と煙を噴き出す家があった。見たこともないくらい真っ赤な炎と真っ黒な煙だ。
「誰か、誰か助けて……!」
ふいに声がして、私と日和くんは同時にそちらに目を向けた。
燃える家の裏手のほうから、中年の女性が姿を現した。塀によりかかるようにして、よろよろとこちらへ歩いてくる。でも、途中で力尽きたように倒れ込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
日和くんがさっと駆け寄り、私も慌ててついて行く。周りの人たちも気づいて、「どうした、大丈夫か」と集まってくる。
女性の顔も服も煤で真っ黒だった。「誰か」と繰り返しながら立ち上がろうとしているのに、どこか痛めたのか、具合が悪いのか、全く立てないようだ。
「大丈夫ですか、痛いところは――」
支えながらそう問いかける日和くんに、
「おばあちゃんが!」
彼女は必死の形相でつかみかかり、叫んだ。
「足の悪いおばあちゃんが、まだ中に……!」
彼女が指さした先には、煙と炎に包まれた家がある。
うそ、と私が呟くより先に、彼は駆け出していた。かけらほどの迷いも躊躇もない、驚くほど素早い動きだ。
「――日和くん!」
私は悲鳴まじりに叫んだ。
「おい君! 危ないぞ!」
「もう玄関まで燃えてる、無理だ入れない!」
「すぐに消防車が来るから待ちなさい!」
周囲で火事を見ていた人たちが必死に止めようとしたけれど、日和くんは一瞬たりとも足を緩めず、誰かが持ってきた消火用バケツを走りながら引っつかみ、頭から水をかぶった。
そして、数歩先も見えないような濃い煙の中へ、真っ直ぐに飛び込んで行く。
彼の姿はすぐに掻き消されたように見えなくなった。
追いかけなきゃ、と思った。
ひとりより、ふたりのほうが、助けられる可能性も、助かる可能性も、高いはず。
頭では分かっているのに、行かなきゃと思っているのに、私の身体は完全に硬直して、一ミリも動かない。
周囲のもの全てを飲み込もうとするように大きくうねり、どんどん勢いを増す真っ赤な炎。吸い込んだらすぐにでも気絶してしまいそうな、すさまじいにおいの真っ黒な煙。
怖かった。
すごく、怖い。
自分の中の生存本能が、決して近づくなと警告しているのを感じる。
絡まり合って渦を巻く炎と煙を前に、私は情けなく震えながら立ち尽くすことしかできない。
日和くんの無事を信じて祈ることしかできない。
でも、こんな火の海の中に入って、本当に彼は大丈夫なのだろうか。
煙に巻かれて動けなくなってしまったら……倒れてきた柱や梁に挟まれて動けなくなったら……服に火がついてしまったら……。
悪い想像ばかりが頭をいっぱいにして、不安と恐怖で押し潰されそうだった。
瞬きすら忘れて、燃え盛る家を凝視する。
時間の感覚が消えていた。まだ一、二分のような気もするし、もう何十分も経っているような気もする。
「日和くん……日和くん……」
そのとき、なにかが破裂するような、爆発音にも近い音が鳴り響いて、二階部分の火の勢いが一気に増した。
真っ黒に焦げた屋根の一部が崩れ落ちる。きゃああ、わああ、と周囲の人たちが一斉に叫び声を上げた。
もうだめだ、と思った瞬間。
がんじがらめの縄が解けたように、私の身体は動き出した。
行かなきゃ、と思った。
日和くんは私を追いかけてきてくれた。今度は私が追いかけなくちゃ。
ポケットからハンカチを取り出し、もうひとつのバケツを借りて水に浸した。濡れたハンカチを口に当てたまま、煙の幕をかき分けるようにして走って家に近づき、玄関に向かう。
ドアノブに触れた瞬間、あまりの熱さに鳥肌が立った。燃えるように熱い。カーディガンを脱いで手に巻きつけ、再びノブをつかむ。でも、ドアはびくともしなかった。鍵がかかっているのか、なにかで塞がれているのか。
庭から裏手に回る。窓があったけれど、鍵が締まっていて開かない。
次の部屋には庭へ出るための掃き出し窓があり、ガラスが割れていた。ちょうど人ひとり通れるくらいの大きさの穴が開いている。日和くんが割ったのかも知れない。
身をかがめて穴から中を覗き込む。煙でなにも見えない。ばちばちと弾けるような火の音が大きすぎて、なんの物音も聞こえない。
「日和くん! 日和くん、どこ!? 大丈夫!?」
精一杯の大声で呼びかけたとき、
「大丈夫!」
奥のほうから応える声が聞こえてきた。日和くんの声だった。
安堵感に包まれたけれど、一刻の猶予もない状況だ。私は急いでガラスの割れ目に手を差し込み、鍵を開け、窓を開け放った。
部屋の中に入ろうと足を踏み入れたとき、奥から人影が現われた。
「いずみん! 来てくれてありがとう!」
私はうまく答えられないまま人影に駆け寄った。
日和くんが、小柄なお婆さんに肩を貸して支えながら歩いている。勝手に身体が動いて、彼の反対側から支える。
開けておいた窓から外に飛び出す。
渦巻く煙の中を急いで、燃え盛る家から離れる。
「ああ、出てきた!」
すぐに大人たちが集まってきてくれて、私たちを取り囲んだ。
「よかった、三人とも無事だ」
「すごいな、よくやった!」
彼らは日和くんを労いつつ、お婆さんを引き受けてくれた。
お婆さんはぐったりしていたけれど、ちゃんと意識があって会話もできた。それを見て、ほっと全身の力が抜けた。
サイレンの音が聞こえてきて、救急車が到着した。救急隊員の人たちがお婆さんを担架にのせて運んでくれたので、もう安心だと思った。
「君たちが救出してくれたんだって? 」
救急隊のひとりが私と日和くんを見て声をかけてきた。
「本当にありがとう。ふたりとも、怪我は?」
「全然大丈夫です!」
日和くんがにこやかに笑って答えた。
いつの間にかパトカーも来ていて、警官から「立派なことをしたから名前や住所を聞かせて」というようなことを言われた。私は慌てて首を横に振る。
彼も同じように首を振り、笑顔で断った。
「いえいえ、大したことしてないんで。お婆さんが大事なくてよかったです。じゃ、俺たち行かなきゃなんで」
日和くんがそう言って、逃げるようにその場を離れたので、私も追いかけた。
*
騒ぎから少し離れた場所まで来て、ふうと息をついて隣に目を向けると、日和くんが地面にへたり込んでいた。疲れ切った様子で後ろ手をつき、火事のほうをぼんやり眺めている。
「日和くん……」
よく見ると、彼の顔も身体もところどころ煤で黒くなっていた。
なにか声をかけようと思って、できれば労いの言葉を、と思ったのに、
「怖かった」
気がついたらそう囁いていた。
「あんな、危ない……、ほんと、危ないよ……」
もっと他にかけるべき言葉があると分かっているのに、正直な気持ちを吐露してしまう。
「――死んじゃうんじゃないかと思った」
彼がしたことは、間違いなく勇敢で英雄的で、とてもすばらしいことだと思う。
でも、あまりにも危険だった。救助や消防のプロでもなんでもないのに、炎の中に飛び込んで人を助けるなんて。一歩間違えば、自分が命を落としていたかもしれないのだ。実際、助けようとした人が亡くなってしまう事故もたくさんある。
でも、日和くんはあっけらかんと笑った。
「そんな簡単に死なないよ」
大したことじゃないというように言って、それから両手で顔を拭う。
「でも、そうだな、たしかに無謀だった」
良い子は真似しちゃいけません、とおどけた口調で言う彼を、私は思わず睨んでしまった。
彼は「ごめんごめん」と笑い、そして真剣な表情になる。
「いずみん、心配かけてごめん。あと、心配してくれてありがとう」
急に真面目な調子で言われたので、気まずさから目を逸らした。
なんとなくわせた視線が、日和くんの腕に留まる。
真っ赤な血に染まる腕。えっ、と私は叫んだ。
「日和くん、怪我してるよ……!」
すると彼は、今気づいたというように自分の右腕を見た。
「ああ、窓ガラス割って入ったから」
「血が……血が出てる。痛そう……」
なにか手当をしなきゃと思うのに、手持ちのものではどうしようもなくて、おろおろと言った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと切れただけで深い傷じゃないし、血もすぐ止まるよ」
そう笑った日和くんが、ふと真顔になって「それでも」と続ける。
「誰かが傷ついて、血を流してるのを見ると、やっぱり周りはそういう気持ちになるよな」
なにが言いたいのか分からなくて、私は黙って日和くんを見つめ返す。
彼の視線は、私の腕に向いていた。
お婆さんを助け出してすぐに、ほとんど無意識のうちに再びカーディガンを着て隠した腕。もしかして、あの混乱の中でも彼に見られてしまったのか。
隠されたものを透かし見るようにしながら、彼は言う。
「俺だって、いずみんには血を流してほしくないし、自分で自分を傷つけてもほしくないと思う」
その言葉を聞いた瞬間、分かった。
ああ、やっぱり日和くんは、見たんだ。気づいてたんだ。
私がこの長袖の下に隠しているものを、知ってるんだ。
「いずみんのお母さんも、きっと同じだよ」
「……それは、どうかな」
私は口もとを小さく歪めた。
お母さんは、私自身のことなんて、きっとどうでもいいと思っている。
私が自分の身体になにをしていようがどうでもよくて、ただとにかく『自慢できる優秀な娘』であればいい。そう思っている。
でもさあ、と日和くんが言った。
「そうじゃなかったら、そんな名前、つけないんじゃないかな」
私は目を見開いた。
私の、名前。
お母さんがつけてくれた名前。
「――!」
突如、私を呼ぶ声が響き渡った。
驚いて振り向くと、お母さんが小走りでこちらに向かって来ている。
「え……なんで……」
「勝手に学校を飛び出して、こんなところでなにしてるの!」
ヒールの音がかつかつ鳴る。その速さがお母さんの怒りの大きさを表しているようで、反射的にびくりと肩が縮んだ。
「こっちのほうがなにか騒がしいと思って来てみたら……。本当にもう、あなたは人の気も知らないで、好き勝手やって!」
お母さんはものすごく怒った顔をして、真っ直ぐに私に近づいてくる。そして私の肩をつかみ、思いっきり平手打ちをした。
ぱんっと鋭い音が鳴り、と同時に衝撃が来て私はよろめく。
隣にいた日和くんが、「わっ」と声を上げて支えてくれた。
それでもお母さんの怒りはおさまらず、再び手を振り上げる。
いつもなら、外で、人目のあるところでは絶対にこんなことはしないのに。
世間体を気にする余裕もないくらい怒っているのだ。これはもう一度叩かれるしかない。
諦めて目を閉じたとき、
「やめてください!」
日和くんが叫んだ。目を開けて見ると、彼がお母さんの手首をつかんで止めている。
「なんで叩くんですか……」
「痛い思いしないと分からないのよ、この子は!」
お母さんは昔からよくそう言っていた。には痛みが必要だと。だから、あなたのために叩いているのよ、と。
私はいつしか叩かれないために行動するようになり、叩かれる回数は減った。だから、お母さんのやり方は、成功といえば成功なのかもしれない、けれど。
「そんなことないですよ」
日和くんが、悲しそうに呟いた。
「俺も、覚えてないくらい小さいころから、よく親に叩かれてました。すごく痛くて、怖くて、叩かれたくなくて、とにかく叩かれないようにしなきゃって、それが最優先の行動原理になって、親の顔色ばっかり窺ってました」
静かに語られる彼の言葉に、私は瞬きも忘れて聞き入る。
「それって……そういう育て方って、教育じゃなくて、支配じゃないですか?」
お母さんが目を見開いた。
「思い通りにならない子どもに苛々したとき、思いっきり叩いたら、きっとすごくすっきりするんでしょうね。でも、それで子どもの心は、どんどん離れてくんですよ。親に対する純粋な尊敬とか愛情は消えていって、ただただ恐怖の対象になるんです。それって正しいですか?」
「なによ、その言い方は……!」
お母さんが叫んで日和くんを睨みつける。
「私は宝のことが心配で……! 宝のことを思って……!」
「心配、心配って……」
日和くんが唇を噛み、悔しそうに言った。
「こんな傷にも気づかないで、なにを心配してんだよ」
えっ、と私が声を上げる前に、彼は私の腕をつかみ、カーディガンの袖を無理やり捲り上げた。
現れたのは、傷だらけの腕。
自分でもいくつあるか分からないくらい、たくさんの切り傷。
その無数の傷痕が、私の手首から二の腕まで、腕の内側のほとんど全部を埋め尽くしていて、まるで不格好な縞模様みたいになっている。
「………」
何度も何度も、毎日のように、カッターナイフで切りつけた。
嫌なことがあるたびに、悲しい気持ちになるたびに、それを掻き消すように、脆く柔らかい皮膚を切りつけた。
すっかり治って肌色に膨れた古い傷痕や、まだ真新しく生々しいピンク色をしているもの、治りかけのかさぶたに覆われたもの。昨日切ったばかりの、まだ血が滲んでいる傷もある。
心の痛みを、身体の痛みでごまかしてきた私の二年間の歴史が、ここに刻まれている。
私は黙って日和くんの手をほどき、袖を下ろして傷痕を隠した。
お母さんは、凍りついたように私の腕を見つめている。
「いずみん」
温かい手のひらが、ぽん、と私の背を押した。
「言いたいことがあるなら、言わなきゃ」
柔らかくて、優しい声だった。
彼が私にくれた花丸を思い出す。それだけで全身に熱と力が甦ってくる。
「……うん」
私は顔を上げ、深く息を吸い込んだ。
閉じていた胸が大きく開いたような感じがして、声が、言葉が、一気に込み上げてくる。
「――花丸」
言葉と同時に、涙も溢れた。
「花丸が欲しかったの」
私は泣きながら、初めてお母さんに本音を告げた。
「はなまる……?」
お母さんが眉を寄せる。私はこくりと頷いた。
「頑張ってるねって、よく頑張ったねって、花丸をつけてほしかった……」
なんだか子どもみたいなことを言ってしまっているなと思う。
でも、紛れもなく、これが私の本心だ。
そうだ、私は花丸が欲しかった。
他の誰でもなく、お母さんから、花丸をもらいたかった。
「頑張るのはつらくないの。頑張っても頑張っても花丸がもらえないのがつらいの。……お母さんの花丸がもらえるなら、いくらでも頑張れるのに……」
お母さんに認められたかった、褒められたかった。
幼稚な願望だけれど、ずっと満たされないまま大きくなってしまったから、いつまでも欲しがってしまうのかもしれない。
「それなのに、お母さんは……私を見てくれない。私自身じゃないものばっかり気にして、周りばっかり気にして、私のことは見てくれない」
私はそこで言葉を止め、大きく息を吐いた。
「……それが、いちばん苦しくて、悔しくて、寂しくて、つらいの」
「宝……」
お母さんが呆然と呟いた。
「……なんで、宝って名前をつけたんですか?」
日和くんが静かに問いかける。
お母さんは彼に目を向け、それから私を見た。そして小さく呻き声を上げ、ふいに泣き崩れた。
「お母さん……」
思わず近寄ると、お母さんが両腕をこちらへ伸ばして、私を抱きしめた。
突然のぬくもりに、身体が震える。
お母さんにこんなふうに抱きしめられるのは、いつぶりだろう。
いつだったか覚えていないくらい昔だけれど、たしかに私はこんなふうに、包み込むように抱きしめてもらっていた。
「ごめんなさい……。そう、そうだったわね……」
耳元でお母さんの声が囁く。
「あなたが生まれてきてくれたとき、本当に本当に嬉しくて、可愛くて可愛くて、自分の命より大事で、本当に宝物だと思ったの。だから『宝』って名づけたのよ……」
「え……」
初めて聞いた話だった。
お母さんが震える声で続ける。
「本当に大切な宝物だから、元気でいてくれるだけで、生きていてくれるだけでいいって――」
その声がどんどん涙で滲んでいく。
お母さんの嗚咽が、私の涙腺を刺激する。
「……そう思ってたのに、お母さん、いつの間にこんなに欲張りになっちゃってたのかしら。あのころの気持ちを忘れて、もっともっとって多くを望んで、自分の理想を押し付けて……ごめんなさい、宝」
涙が溢れてきた。
そうだ、私もすっかり忘れていた。
お母さんのことが大好きで、お母さんの笑顔が見たくて、お母さんに喜んでもらいたいから頑張ろう、と思っていた幼いころの、純粋な気持ちを。
いつの間にか、お母さんの言う通りにすることに慣れてしまった。
不満を抱きながらも、心の中で文句を言いながらも、反論したり話し合ったりすることは諦めていた。
自分で考えて自分で選んで生きるよりも、なにも考えずにお母さんの敷いてくれたレールに乗っているほうが楽だったから。
私たちがこんなふうになってしまったのは、きっと私にも責任があった。
私とお母さんは、ずっとふたりきりで過ごしてきて、その間に色々なことがあって、だんだん心が離れてしまった。
「ごめんね」
お母さんが私の手をとり、そっと袖を捲った。
「こんなになるまで苦しめて、こんなになるまで気づかなくて、ごめんね……」
「私も……ごめん」
なんについての謝罪なのか、自分でもよく分からないまま、ごめんと繰り返した。
ばれないように必死に隠していた傷。
その傷痕を、お母さんの手が、労るようにそっと撫でる。
温かくて、柔らかくて、優しい指だった。
「――花丸よ」
お母さんが囁いた。
「もちろん花丸よ。宝は誰よりも頑張ってきた。お母さんがいちばん知ってる」
お母さんの指が、私の手のひらに大きな花丸を描いた。
それからお母さんは小さく「でも」と呟き、苦しげな表情で続けた。
「……宝がたくさんたくさん頑張ってくれるから、私が望むだけ頑張ってくれるから、それならもっともっとって欲を出しちゃったの。それを叶えてほしくて、それがあなたのためだと思い込んで、ああしなさいこうしなさいってばかり言ってたわね……」
お母さんは、これまでの記憶をたどるように、過去の自分を省みるように、ぽつぽつと語った。
「……頑張り屋さんのあなたがちゃんと報われるように、立派に育てるのがお母さんの役割だと思ったの。誰が見ても立派だと思ってもらえるように、そしたら将来安心だって……。そんな考えにとらわれて、気がついたらあなた自身を見れなくなっていて、周りの目ばかり気にしてたのね」
お母さんが苦しげに呟く。
「だめな母親だわ、本当に……」
「なんか、趣味とか見つけるといいですよ」
日和くんが唐突に口を挟んだ。お母さんが、涙で潤んだ目を彼に向ける。
「俺、バスケ始めたおかげで、人生一万倍くらい楽しくなったんで」
彼はいつもの人懐っこい笑顔で言う。
「やりたいことに時間使うので忙しいから、自分のことで精一杯で、無駄なこと考えて落ち込んだり、他人のこと必要以上に気にするひまもなくなるし、おすすめです」
お母さんが少し考えるような顔をして、それから小さく笑って「……そうね」と囁いた。
「……私は、私自身のことをおろそかにして、この子に全てを背負わせてしまってたのかもしれない。私には私の人生があるのよね……」
あ、お母さんって、自分のこと『私』って呼ぶんだ。
当たり前のことなのに、なぜかびっくりしてしまった。
お母さんは『お母さん』でしかないのだと、思い込んでしまっていた。私の母親である前に、ひとりの人間であることを、なぜか気づけなかった。
お母さんも私と同じ人間だから、弱いところも、間違ってしまうこともある。
それは、見落としがちだけれど、きっととても大事な、忘れてはいけないことだ。
私は、お母さんと話をしているようで、お母さん自身とは話していなかったのかもしれない。だから、『お母さん』の中の『人間』に、気づけなかった。
私たちには、きっと会話が足りなかった。
これまで、本物の会話をしていなかった。
「……お母さん。帰ったら、たくさん話をしよう」
私がそう言うと、お母さんは一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「ええ、たくさん話しましょう」
いいですねえ、と日和くんの明るい相槌が入る。
「たくさん聞かせて。宝が考えてること、嫌だと思ってたこと、お母さんに言いたいこと……」
「うん……。お母さんも、お母さんの話をして。私のお母さんになる前の話も」
「ええ? 面白い話なんか、なにもないわよ……」
「それでも聞きたい」
お母さんがどんな人なのか知りたい。初めてそう思った。
私たちは、また一から築き直さないといけない。
一度崩れて壊れたものを元に戻すのは、きっと時間がかかるし、簡単なことではないけれど。
これからは隠さずに、ちゃんと言葉にして伝えていかないといけない。
向き合うことから逃げてはいけない。
背を向けてひたすら我慢することは、私にとっては、行動を起こすよりも楽だったけれど。これからは、それじゃだめなんだ。
中学生の日和くんが、自分の足で踏み出して、自分の道を歩み始めたように。
私もちゃんと自分に向き合って、自分自身の目標を見つけよう。
それからお母さんと向き合って、自分の言葉で、これからの話をしよう。
そうやって、新しい関係を築いていこう。
「――おうちに帰ろうか、宝」
宝。お母さんが優しく呼ぶ声。
「うん……!」
こんな名前、大嫌いだった。
子どものころは男みたいだとからかわれたし、宝物みたいに大切にされてもいないのに『宝』だなんて、たちの悪い冗談だと思っていた。あまりにも名前負けすぎて、友達から呼ばれるのも恥ずかしかった。だから、名字をあだ名にして呼んでもらっていた。
でも、この名前には、ちゃんと意味があった。愛情の込められた名前だった。
「あなたも、よかったら、うちに寄っていく?」
お母さんが彼に声をかける。汚れた服を指さして、
「そのままじゃ帰れないでしょう。ええと、お名前は……」
「日和です」
彼の答えに、お母さんが目を細めて微笑んだ。
「素敵な名前ね」
「はい」
彼は少し照れくさそうに頷く。
「晴れ晴れとした人生を歩めるように、っていう意味を込めて、つけたそうです」
日和くんが、煤だらけの顔で、でも驚くほど晴れやかな表情で、太陽みたいに笑った。
「……少なくとも俺が生まれたときは、親は明るい人生を願ってくれてたんだなって分かるから――だから、この名前は、俺の宝物です」
そうだ。名前は、宝物だ。生まれたときに贈られた宝物。
「日和くん」
気がついたら、彼の名前を呼んでいた。
ん、と振り向いた彼の明るく澄んだ笑顔を見ると、私の頬も自然と緩む。
「ありがとう」
諦めて沈むままになっていた場所から立ち上がるきっかけを、そして一歩踏み出す勇気を、日和くんがくれた。
きっと彼にとっても苦い過去をさらけ出して、私に見せてくれた。
おかげで、私の目には今、世界がこんなに明るく映る。いつぶりかも分からない心からの笑みを浮かべることができる。
「いい笑顔! 花丸だな!」
日和くんが親指を立てて、嬉しそうに笑った。
無意識のうちに、腕の傷痕を撫でる。
私の苦しみと葛藤と、弱さと狡さが刻まれた傷痕たち。
でも、この傷痕も、宝物だ。頑張って生きてきた証だから。
醜くて、情けなくて、格好悪いけれど。
過去はなかったことにはできないし、したくない。
忘れたくもないし、忘れたらいけない。
昔の写真を残している彼の気持ちが、今ならよく分かる。
だから私は、過去も傷痕も抱えて、歩き出す。
自分で選んだ道を、自分の足で踏みしめる強さを、彼が教えてくれたから。
ふたつの宝物を、大切に胸に抱いて、私は生きていく。