春那所以子が誕生したその日も、同じだけの布団の温もりを共有し、電気を消して互いにおやすみを交わした。由枝子が「人間が一番楽にお金を稼ぐ方法」について話し出したことに、前触れはなにもなかった。




「印税2億とかあったらさ、真秀と世界に逃亡できるね」



君と、世界に逃亡出来たら。
そうしたら、今よりは世界に適合できるような気がするな。


「由枝子は小説家を目指すの?」
「夢にはしない。実現するまでの時間が未知だから。合わなかったらすぐやめるよ」
「書くとしたらどんな話?」
「真秀と私の話。拾われる無職の男と、反抗期が終わらない女子大生の壮絶なドラマ。名前は……マヒロにしようかな。そんで私はサエコ」
「一文字ずついい感じにとったなぁ。ペンネームは?」
「ユエコは生かしたい。真秀が読んでくれる名前だからね。苗字はそうだなあ……春、はるな……ハルナユエコ、とか? まーじで思いつきだけど。漢字は適当でいいかなぁ。3か月後に締切の文学賞があるらしいの。どうせなら、目標があったほうが楽しいよね」
「応援してる」

「真秀は、本当にいいの?」
「いいって、なにが?」





「こんなにも私が真秀に好きだってこと、文字に起こしても」



好きだと言われたのはじめてだった。首を回して由枝子の方を向けば、暗闇の中で輝く瞳と目が合った。恋とはいったい何なのか。人を好きになること、愛することとは、なんなのか。ふたり分の呼吸が聞こえる真っ暗な部屋の中に、漠然とその答えがあるような気もしていた。


──どうしたの、そんなに驚いて。冗談じゃないよ、最初から、私は君に一目ぼれしてたんだから。真秀、私はね。真秀と居る時間に、これまでにない光を感じてる。真秀のためならなんでもできそう。真秀の人生を一度壊した世界のこと、不条理だって謳ってやりたい。真秀とすごす日常の、大好きなこと。私の言葉で文字に起こしたら、読んだ人みんな真秀の魅力に気づいちゃうね




「世界に逃亡しちゃおうか? 真秀と私の物語に入る資金でさ」
「夢にはしないんじゃなかったの?」
「印税はオマケだよ。私の夢は、真秀と世界を歩くこと」






水瀬 由枝子は俺の光であり、唯一の救いであり、そしてある意味、俺の人生をとことん甘やかす最大の敵だった。