本を読まない人がいる。ニュースを見ない人がいる。見て見ぬふりを、してくれる人がいる。俺と由枝子は、遠い遠い田舎の街に出ることにした。思うほど世界は優しくないが、世界を多く知らない街も、確かにこの世には存在していた。

そこは緑が魅力的だった。空が青かった。夜は星がよく見えた。朝は小鳥のさえずりで目が覚めた。




俺たちは、旅に出た。

『空虚』の話題は徐々にテレビや雑誌から遠のいていくと同時に、春那 所以子は幻となった。デビュー作で大賞受賞、その後消息不明。前代未聞の、自由奔放な若手作家。SNSは元々やっていなかったため、一切の感想、意見、誹謗中傷、罵詈雑言は由枝子の元には届くことがなかった。

サエコとマヒロの物語は終わった。『空虚』は、彼女の最初で最後の傑作となった。


もう、文字は書かないそうだ。

春那所以子は、そうして小説家をやめた。




「真秀も一緒に有名人になるなら、春那所以子も悪くなかったと思えるよ」
「うん、そっか」
「サエコがマヒロを好きだったこと。春那所以子が、『交際相手と見られる男性』を好きだったこと。真秀が、私の空虚な人生に現れてくれたこと。世界にそれが伝わるなら、もうなんでもいいかもしれない」
「うん。俺も、そう思う」
「真秀が本当にクズだったとしてもいいよ。私、真秀ならなんでも許せそう」
「それは複雑かも」


あはは、ごめんね。君が笑っている。ニュースを見ていた時の無表情なんかじゃない。俺の知っている、柔らかい笑みだ。



「ねえ真秀、真秀と私の物語はさぁ」


彼女の双眸が、俺を捕らえた。




​「私たちの物語は、誰にも真似出来ないよ。土砂降りの日に死にかけの真秀を拾ったこと、君の頑張った日々の話を聞いたこと、真秀に一目惚れしたこと。あぁあと、一緒に印税の話をしたこと。物語にしたいほど、真秀との一瞬を全て文字にしておきたいと思えたことも全部、私たちだけの物語で、奇跡なんだ。それにね、真秀。『無職無一文』って、肩書きだけ聞いたらだいぶ酷いけど、そうなった経緯があるでしょう。就職して、沢山働いて、苦しいことも沢山あってさぁ。ね、心が死んじゃうまで頑張ったんだよ。真秀が死ななくてよかった、あの日私と出会った時まで、ボロボロながらに生きてくれたから、私たちは出逢えたの。人は分かり合えないけどね、真秀のことは、分かってあげたかったの。真秀には、自分よりやばい人を見て安心したかったって言ったけどね、本当は違ったんだ。真秀のことが放っておけなかった。一目惚れだったから、真秀から目が離せなかったの。ここでまた、新しい日々が始まるよ。私たちの人生は、まだまだこれからでしょ?ね、大丈夫。私は春那 所以子に助けて貰ったから、数年は真秀と生きる資金がある。ねえ真秀、私はさぁ」


静寂に落ちた声は、愉悦に近かった。



「君と生きれて、幸せだ」