高嶺先輩の余命宣告を知っていたのは身内と香椎先輩だけだったこともあって、翌日に学校側にはご両親が、宮地さんには香椎先輩から伝えられた。
話を聞いた宮地さんはがっくりと肩を落として頭を抱えた。持病を抱えていたことは知っていたとはいえ、突然余命宣告を聞いたら誰だってすぐに受け入れられない。しかし、宮地さんは早々に頬を叩いて切り替え、文化祭に展示する絵についてさらに詳しく話を聞かせてほしいという。
「描くものが第八美術室なんだろ? 千暁の下描きなら、きっと悠人が描きやすいものにすると思うんだ。だからどんな部分に使うとか詳しく教えてくれ。お前さんたちに渡す灰を、俺が完璧に仕上げてやる」
「宮地さん……ありがとうございます」
香椎先輩と一緒に頭を下げると、「乗り掛かった舟だ」と宮地さんが鼻で笑った。
それから、長いようで短い夏休みが始まった。
香椎先輩は宮地さんの工房で、私は入院中の高嶺先輩の元で製作の準備に取り掛かることになった。
私にできることは限られているけど、点滴が繋がれて不便な時にフォローできる人間がいた方がいいと、香椎先輩から打診されたのだ。幸い、高嶺先輩が入院している病院は学校から徒歩で十分もかからない場所だ。香椎先輩も工房の作業が終わったらこちらに顔を出すことになっている。
もちろん毎日とはいかず、私がアルバイトに入っているときは香椎先輩が見に行ってくれている。
つい最近、バイト帰りに焼き菓子を持って行ったら香椎先輩が全部独り占めしようとしていて、さすがの高嶺先輩も取り合っていた。
木炭で描かれる美術室は、日に日にその姿を露わにし、どこか寂しさが滲み出ているように見えた。プリントアウトした写真に描くアタリをつけて見比べながら、高嶺先輩は慎重に描いていく。
……そういえば、絵を描いている高嶺先輩をじっと見るのは初めてかもしれない。
美術室でそれぞれ描く時間はしんと静まっていて、時折唸り声が聞こえても誰も目を向けるようなことがない。それほどまでに集中して絵と向き合っていた。下の階にある金工室でトンカチで叩いた音も、学校の外周を列になって走る部活の掛け声も、不思議と何も入ってこない。集中して作業するにはうってつけの場所だった。
それに特等席からの光景で中心にいたのは香椎先輩だった。イーゼルに立てかけられたカンバスの前に立っていたのは、いつも香椎先輩だったからだ。
だから新鮮に見えるのかもしれない。高さのある椅子に座り、片足を折り曲げて描く高嶺先輩が、カンバスの前に立つ姿が。
「……ああー……ダメだ」
ふと、高嶺先輩が空を仰いだ。その反動で左腕に繋がった点滴の管が揺れる。サイドテーブルの上に木炭を置いて、煤が付いたままの指で写真の端にある棚をさす。
「なぁ佐知、ここの棚って何が入ってたっけ?」
「えっと……ああ、絵の具です。芸術コースの予備分が入らないからこっちに仮置きしてるって言ってた分です」
「ああ、そっか。滅多に来ない芸術コースの……」
「そういえば、夏休み前に来てましたよ。休み期間中でも来る生徒がいるから、今のうちに補充したいって」
「へぇ。先生?」
「三年生です。同じクラスだったのかな、香椎先輩と話していました」
私はその時、長引いたホームルームが終わって駆け付けて入れ違いになってしまったのだが、珍しく香椎先輩が浮かれた顔をしていた。聞けば、芸術コースの生徒が昨年出展した『明日へ』のカンバスについて聞かれたらしい。当時は描かれた工程を聞いてぞっとしたが、どうしても気になっていたという。ただ、周りが否定的で孤立することが恐ろしかったたため、今まで言い出せなかったと今更明かされた。香椎先輩が理事長先生の弟さんが運営する博物館に寄贈された話をすると、今度見に行くと張り切っていたそうだ。
「……それ、香椎が話したのか?」
「楽しそうに話してましたけど……何か不味いことでも?」
「いや……アイツ、クラスでも絵や美術部の話題は出さなかったから。芸術コースって、別にクラスが分けられているわけじゃないし。だからクラスメイトに話すのが珍しいなって思っただけ」
「意外でした?」
「そうだな。……いや、俺がただ心配性なだけか」
高嶺先輩はどこか寂しそうに呟いた。小学生からの付き合いだからか、離れていくこと誇らしく思う反面、寂しいのかもしれない。高嶺先輩は大きく伸びをすると、また木炭を手に取った。
「香椎が頑張ってるなら、俺も頑張るしかないな!」
「……そうですね」
入院って、本当は治療に専念するためのものなんだけどな、とは喉から出かかっても言わない。それはもう、美術部の三人で決めたことだ。
「クラスメイトといえば……佐知は大丈夫なのか?」
「え?」
「桑田さんだっけ。喧嘩したままじゃなかった?」
喧嘩別れをしてから――半ば強引に香椎先輩に止めてもらったようなものだけど――、早紀とはあの日から視線を交わすことすらなくなった。
あの場にいたクラスメイトの子達が一度だけ、私に声をかけてきたことがある。私が離れた後、いつも集まっているグループに入ってきた早紀は事あるごとに私を悪く言っていたのだという。聞いていた話と違ったことに気付いて謝りたいと言ってきた。
……と言われても、私に実害があったわけではないし、彼女たちは話を聞いていただけ。直接何か関わりがあった訳でもないのに謝られても困ると言うと、ホッと胸を撫で下ろしていた。
あの後早紀は大丈夫だったか尋ねると、プライドの高い彼女らしく、当たり散らしていたものの、最近はすっかり大人しくなっていたそうだ。それから夏休みに入ってしまったから、今はどうしているかは分からない。
「あの後ちゃんと話してないだろ。いいのか?」
「……それどころじゃなかったんですよ、高嶺先輩」
高嶺先輩の入院騒ぎでそれどころじゃなかった。それを理由にするつもりはないけれど、ようやく思い出した私は、さーっと血の気が引いていくのを感じた。
あれはどっちが悪いとかそういう話じゃない。自分よりも劣る私がいることで輝こうとする早紀と、自分でしたいことを決めて一人で行こうとする私――どっちも自分を曲げられなかっただけだ。
ううん、私はもっと質が悪いかもしれない。早紀の近くにいて依存することで、切り抜けてきた場面は少なくない。
「私、ちゃんと早紀と話します。完全に縁を切ることになっても、後悔しないように」
「……頑張れよ。きっと佐知なら大丈夫だ」
いつもの笑みを浮かべた高嶺先輩は、またカンバスに目線を戻した。