途中におやつ休憩を挟みながらも、家中の窓をピカピカに磨き上げ、夜。ツヤツヤほかほかの白いご飯と、醤油の匂い香ばしい生姜焼きを囲んだ夕食。
 魅月は、いつも通り咲耶花の隣に座った。しかし、つーんとした態度で誰とも目を合わせない。ご飯と豚肉、千切りキャベツを黙々と口に詰め込んでいる。
 おやつをもらったハムスターのようだ。

「ごそさま!」

 彼は自分の皿を空にすると巣穴、ではなく自室のある二階へと帰ってしまった。叔父がため息をつく。

「サヤカぁ、お前今度は何言ったの?」
「私っ!? 私じゃないよ、おじいちゃんだよ!」

 叔母や祖母の話を聞くに、午前中の魅月は実に良い子で、クリスマスツリーの片付けを手伝ったという。それが祖父とのビデオ鑑賞を飛び出してからこの態度なのだから、真っ先に咲耶花に理由を求めるのはおかしい。
 叔父の目が、ぽりぽりとピーナッツを食べている祖父に向く。

「親父、何言ったんだよ?」
「普通に話してただけだ。ほら、一緒に何とかファイブを見とったら、記念回だか何とかで、昔サヤカが好きだったのが映ったんだ。」
「ちょっと。」

 嫌な予感に、咲耶花は思わず声をあげた。もちろん、ここで遮ったって祖父が昼間こぼした言葉を回収することは出来ない。

「懐かしかったんでな、サヤカがこの青いのが好きだったって話しただけだ。」
「そ、それだけ?」

 それなら特に問題はない。ほっと胸をなで下ろす。

「ああ。いっつも、咲耶花が青いタオルを首に巻いて遊んでたって。」
「ぐぅ……っ!」
「あら、懐かしいわねぇ。」

 咲耶花がうなる横で、祖母がのほほんと笑みを浮かべる。叔母が続いた。

「ブルーホークね。私はホワイトピジョンやらされたわねー。」
「遊ぶ度に、咲耶花にタオルケット巻かれてたわねぇ。」
「そうなんですよ。でもあれ、すぐ外れちゃうし動きにくかったんで、私、ここにお邪魔する時はカバンに白いポンチョ入れるようになりました。」
「ああ。そういえば、いつの間にか。」
「実家に置いて来ちゃったんですよね。まだあるかしら。」
「今やってるののピンクの子も、似たような服着てるねぇ。」
「サヤカちゃん、着る?」
「着ません。」

 話題がぐりっと返ってきたので、咲耶花は直ぐさま首を横に振った。顔を隠すようにうつむく。まだ両親がいなくて良かったと思う。あの二人も加われば、大人達は延々と咲耶花の歴史を語っただろう。

 覚えていることを語られるのは気分が悪い。自分は何でそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、恥ずかしく思ったりする。
 覚えていないことを語られるのは居心地が悪い。自分は本当にそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、疑わしく思ったりする。
 アルバムにたくさん残った写真と、叔父と叔母が大好きだった自分の気持ちから、逃れようのない事実なのだろうと観念している。魅月の目に入る前に、あれらの写真をどこか奥深くに封印するのが咲耶花の目下の野望である。

 撃沈しながら咲耶花が決意を強くしていると、叔父が再び口を開いた。

「したのはその話だけ? サヤカの話だけ?」
「その頃の話を他にもした気がするが、まあ、サヤカの話だったな。」

 祖父がうなずくと、叔父が顔をしかめた。次の黒歴史が掘り返される前にこの場を去ろうと、咲耶花は小鉢のほうれん草をせっせっと口に運んでいた。叔父の顔を見て、首をかしげる。叔父の目がこちらに向いた。

「やっぱ、サヤカが何か言った?」
「言ってないよ。こっち来てすぐあれだったもん。」

 最後の一口を飲み込む。咲耶花はお茶のグラスも空にすると、自分の食器と魅月が残した食器を重ねた。グッと足に力を入れて、イスを押しながら立ち上がる。

「まじかー。じゃあ別件か?」
「何かあったの?」

 叔父ががしがしと頭をかく。祖母のグラスにお茶を注いでいた叔母が、叔父の顔を伺う。その後ろを回って、咲耶花はシンクへ皿を運んだ。

「さっき、店の前をミツキが通ってなぁ。……大嫌いって言われた。」
「え。何を?」

 声に出した叔母だけでなく、咲耶花も祖父母も不思議そうに叔父を見やった。固いピーナッツをかんだように、叔父は顔をゆがめていた。

「俺を。」
「えぇっ!?」
「それは悲しいわねぇ。」

 声をあげたのは咲耶花だ。持ったままだった皿がすれてガチャリと音をたてた。祖母はグラスを軽く傾けたまま、眉をハの字にしている。

 魅月は、言葉にはしないが父親が大好きなはずだ。
 幼稚園の頃に描いた”将来の夢”だって、描かれていたのは自転車とスパナを持った魅月の姿だった。あの自転車は持ち上げていたのか、ただ手の近くに描いてあったのか、未だに判別がつかない。その横には、叔父と祖父がいた。三人とも、首にタオルを掛けて、手袋をして、にこにこ笑っていた。
 彼は真っ直ぐに父親の背中を追っていたはずなのに。

「急にどうしたのかしら。」

 叔母も不思議そうだ。叔父が悲しそうにうめいた。

「うぅ。てっきりサヤカが、ファザコンの男はないわ、とでも言ったのかと思ったのに。」
「いったいどういう話の流れでそうなるのよ。」

 咲耶花はやっとシンクへ皿を置いた。蛇口から細く水を出して手を洗う。

「父ちゃん何かしたか? って聞いても、そのまま走ってっちゃってな。サヤカぁ、理由聞いてきてくれよぉ。」
「うーん。」

 流し下のタオルで手を拭いながら、首をひねる。自分も現在進行形で無視されているのだけれど。怒りの対象が叔父ならば、落ち着いてきたところで口をきいてくれるだろうか。

「まあ、聞けたらね。ごちそうさまでしたー。」

 大人達に頭を下げて、咲耶花はダイニングを出た。

 ***

 ケータイの画面の中には、一筆書きの角張ったハート。指で真ん中をつつっとなぞると線が引かれて、ハートが二分される。
 それで、えーと、次はどこを切れば良いんだ。

 三人掛けのソファに、咲耶花が仰向けに転がっている。片側の肘掛けにフカフカとした厚みのあるクッションを立てかけ、それに頭を預ける。伸ばした脚が交差していた。つま先がリズムを取るようにぷらぷら揺れる。
 父が見れば、だらしがないと叱るだろうが、生憎来るのはまだ先だ。応接用の豪奢なソファとマーブル模様のテーブルも、年明けまで仕事の予定はない。
 ここは小さい頃からのお気に入りの場所。家族はみんな心得ているので、入浴の順番が回ってくれば、呼びに来てくれる。

 ぎゅっと眉を寄せて、手の中の画面をにらむ。迷いを体現するように、右手の人差し指がくるくる回る。夢中になり過ぎていた。敵の接近に気がつかぬほどに。
 どすんっと腹部に重みが掛かった。驚きに緊張した咲耶花の体が、スプリングの反動でぐらぐら揺れた。中途半端に浮かせた自分の腕の間から、咲耶花は相手の姿を認める。くの字に曲がってソファに沈んだ咲耶花の腰に、魅月が伏せるようにしがみついていた。
 押しつけられたほほと、シャツを握る手から、ぽかぽかといつもより高い体温が伝わってくる。着ているのはパジャマだ。水色の地に、丸っこい自動車があちこち走っている。

 魅月が風呂から上がったのなら、そろそろ咲耶花の番のはずだが、呼びに来たにしては様子がおかしい。口をききたくないから、タックルしたのだろうか。
 画面を見ると、先程の弾みで触れたのだろう、変なところに線が引かれていた。やり直しボタンを押して、一つ前の手順に戻す。魅月の、まだ湿っぽい頭をなでた。動く気配がない。咲耶花が上半身を起こすと、小さな手にぎゅうっとさらに力が込められた。
 咲耶花はわざと唇をとがらせた。

「ちょっとー。お姉ちゃん、立てないでしょー?」

 魅月は、不満があればすぐ言う子だ。それでも要望が通らなければ、じぃっとにらんでくる。今日は、最初の驚いた目を見て以降、全然目が合わない。

「いったいどうしちゃったの。ちゃんと言葉にしてくれないと、お姉ちゃんもパパも分からないよ。」

 パパ、という言葉に魅月の頭がかすかに揺れる。しばらく待つが、反応がない。咲耶花は、ケータイをテーブルの上に伏せた。

「とーちゃんなんて、だいっきらいだ。」

 ぽつりと、小さな声が落とされた。不満そうな響きは、前髪の奥にぶすくれた顔を想像させる。

「そう? じゃあ、お姉ちゃんがパパもらっちゃおうかな。」

 咲耶花のからかいに、ぱっと魅月の顔が上がった。ぎゅうっと口をへの字に曲げていた。眉にも、まぶたにも、顔の全体に力が込められている。
 アルバムの中で、自分も同じ顔をしていた。赤ん坊の魅月と、それを抱いた叔父の隣で。
 ぐぐっと眉を寄せたまま、魅月が再び口を開いた。

「とーちゃんは、すいようび、ずっとごろごろしてるぞ。」

 叔父と祖父は交代で休みを取っているが、水曜日は店の定休日だ。部品など何かの取り引きがなければ、祖父は祖母を連れて買い物に行く。

「そうだね、お休みだもんね。」

 咲耶花がうなずくと、魅月はさらに眉を寄せた。眉間にしわが刻まれている。

「よる、かーちゃんにかくれて、ラーメンたべてたっ。」
「おにぎり食べてたこともあるよ。」
「ビールのむと、うざい!」
「それはうちのお母さんも一緒だねー。」

 なぜ急に父親のネガキャンを始めたのだろう。不思議に思いながらも、取りあえず思いつくまま咲耶花は打ち返す。
 指先が白くなるほど力を込めて、魅月がぎゅうぎゅうとシャツを引っ張った。

「オレらと やすみちがうから、けっこんしても、いっしょに でかけらんないぞ!」
「結婚?」

 内容が急に変な方向に曲がった。受けきれず、ついオウム返しになってしまう。咲耶花が眉をひそめたからだろう、反対に、ぱっと魅月の顔が明るくなる。

「そう! とーちゃんと、けっこんしないほうがいい!」
「ひどいこと言うなぁ。」

 苦笑する。叔母が聞いたらどう思うのやら。案外けらけら笑うのだろうか。

「パパにはママがいるでしょ。他の人と結婚したりしないよ。」

 一体全体、どこからそんな心配が持ち上がってきたのやら。
 魅月の勢いが削がれる。しゅんっと眉尻が下がる。

「でも、じーちゃんが……。」
「おじいちゃん?」
「……ねーちゃんは、とーちゃんがすきだって。」

 咲耶花はぱちぱちと目を瞬かせた。
 確かに、叔父のことは好きだ。父や母と同じくらい。だって、本当にたくさんたくさん遊んでもらったのだ。
 幼い頃の記憶にはいつも叔父がいる。シマウマに餌を握ったまま渡したために、手をはまれた時も。子供用のジェットコースターに何回も乗りたがって、大人達をグロッキーにさせた時も。
 そこまで思いを巡らせて、咲耶花はふと思い出した。大人達が一二を争うほど繰り返す、あのエピソードを。

「もしかして、私が叔父さんと結婚するって言った話?」

 魅月がまた唇を引き結んだ。くっつきそうな程眉を寄せて、じぃーっと咲耶花を見つめている。真実を見透かそうとしている。
 真剣なその目を見つめ返しているうちに、咲耶花の口元が緩んだ。ぶふっと息がもれる。大きなつり目がぱちりと瞬く。それをのぞき込みながら、咲耶花は口を手で覆った。

「やだ、真に受けたの? それで、お姉ちゃんが本当にパパを取っちゃうと思ったんだ?」

 笑っちゃいけないと思うのに、抑えられない。くくくっと肩が揺れた。

「それね、小さい頃の話だよ。ミツキが生まれるずーっと前。ふふっ。本当に好きだったわけないじゃない。まだ5歳だったんだから。」

 つり目が大きく見開かれる。それまで不思議そうにしていた幼い顔が強張った。唇も、ほほも、握ったままの手も、微動だにしないなか、瞳だけが揺れている。

「ミツキ?」

 咲耶花の指先が、ふっくらした手の甲に触れる。
 ぱっと、膝に掛かっていた重みがなくなる。魅月が身を離したのだ。小さく薄い体がひるがえったと思ったら、ぼすんっと胸元に何かぶつけられた。

「ねーちゃんのバカ!」

 転げるように膝の上に落ちたのは、クッションだった。ソファの反対側に寄せらていたもので、ネコのシルエットが刺繍されている。魅月はもう一つ手に取ると、それを振りかぶった。

「こら! やめなさいミツキ!」

 開いていたドアから叔母が駆け込んでくる。魅月の腕をつかもうとするが、彼はひらりとかわした。クッションが床に落ちる。

「バーカバーカ! かーちゃんもバーカ!」

 捨て台詞を残して、魅月は廊下へ飛び出した。足音が遠ざかり、ドカドカと階段を上がる音に変わる。叔母は追いかけようと一度ドアから身を乗り出したが、放心している咲耶花を振り返って留まった。駆け寄って、ソファの傍らに膝をつく。

「サヤカちゃん? 大丈夫?」
「ああ、うん。」
「ごめんね。後でよく叱っておくから。」
「ううん。私が悪いの。なんか、怒らせちゃったみたいで。」
「怒ったからって、お姉ちゃんに物をぶつけて良い理由にはならないわ。本当にごめんね。」

 申し訳なさそうに眉を八の字にする叔母に、こちらも申し訳ない気持ちになる。咲耶花が頭を下げると、叔母はバスタオルを渡してくれた。

「よくあったまってくるのよ。」

 風呂から上がった後、部屋の前まで行って中に呼びかけてみたが、イトコは返事をしてくれなかった。

 ***