張り倒してやりたい。
春のぽかぽかした日差しの下で、そんな物騒な気持ちになったのはどうしてか。
彼女が、何の予告もなく自分の前に現れたからか。その笑みが、能天気の極みだったからか。今年の桜が、もう散ってしまったからか。
とにもかくにも、沙穂が悪いのだ。
***
六月。人生二回目の入学式も、もう二ヶ月前のこと。規模が大きくなった校舎にも、変わった通学路にも、3倍になった学級にも慣れて、すっかり緊張感が薄れてきた。
教室の廊下に面した一角で、男子が5人、まばらにイスを集めて辺りの机に昼食を広げている。教室のあちこちで楽しげな声が交わされているが、特に元気なのは、この中の一人だ。身振り手振り、昨日見たドラマの話をしている。
「そこでバットを振りかぶり!」
「あれはホッケーのスティックだよ。」
「あり? そうだっけ?」
握りしめているクリームパンまで振り回した所で、隣に座っていた橋場凍雨が口を開いた。
ささいな間違いではあるが、二つを取り違えたままでは、後に困ったことになるはずだ。凍雨も同じドラマを見ていたのである。
そっかそっか、とうなずいて矢中が話を再開させる。それを聞きながら、凍雨は弁当を口に運ぶ。今日の卵焼きはオムレツ風で、ケチャップが挟んである。おいしい。
と、大きなまん丸おにぎりをほお張っていた外口が、いきなりガタンっと立ち上がった。その目は、教室と廊下を隔てる窓へと向いている。今は風通しのために開いていた。
「沙穂ちゃん!」
「あ! ホントだ、沙穂ちゃん!」
続いて矢中も立ち上がる。後田が深くため息をついている。窓の傍に座っていた前島が、ペットボトルに口をつけたまま、ひょいと横に退いた。窓に外口と矢中が飛びつく。そこから廊下へ飛び出しそうな勢いだ。
廊下を通っていた女性は、その姿に驚いて、抱えていた冊子の束をぎゅっと抱き締めた。ビクッと跳ねた体に合わせて、首の後でまとめたおダンゴが揺れる。
「沙穂ちゃん、何してんの? こっちにいるの珍しいねー。」
「沙穂ちゃん、一緒にお昼食おうっ!」
身を引いた沙穂のカーディガンをわしっと矢中がつかむ。沙穂はきゅっと眉をつり上げた。元来の彼女の顔立ちのせいか、迫力はない。
「二人ともっ、先生でしょ。先生!」
精一杯怒って見せるが、外口も矢中もにやにやと笑っているだけだ。
「沙穂ちゃん先生、何してるのー?」
「図書室に、借りたもの返しに行ってるんです!」
「沙穂ちゃん先生、お昼ー。」
「職員室で食べます!」
”ちゃん”が外せなかったからか、彼女の眉は未だに角度がついたままだ。片手で冊子をしかと抱き込んで、空いた手でカーディガンの裾を取り戻そうとしている。
苦戦している様子を見て、哀れに思ったのだろう、後田がもう一度ため息をつく。
「矢中、先生を放せ。」
「えー?」
矢中は不満そうに眉を寄せた。前島がにこにこと笑う。
「このままじゃ、稲宮先生がお昼ご飯食べ損ねちゃうよね。矢中はそんなに先生にイジワルがしたいの?」
「えー……。」
眉は寄せたまま、唇もとがらせているが、それでも矢中はぱっと手を開いた。
「ありがとー、二人とも。」
ほっと息をついて、沙穂が逃げていく。外口がひらひらと手を振る。矢中も倣って振る。
「またねー、沙穂ちゃーん。」
「次は一緒にお昼食おー。」
沙穂は手を振り返しはしたが、矢中の言葉には苦笑をこぼした。それを見送って、外口も矢中も先程まで座っていたイスに戻る。
騒ぎの間も、凍雨は黙々と食事を続けていた。ただ一人だけ、廊下から目を背けながら。
***
借りたイスを元に戻した後も、5人は外口の席を中心にその一角に残っていた。
後田と外口が、英語の教科書の疑問について話している。平行線のまま終わった、登場人物の会話が気になるのだそうだ。こうじゃないか、ああじゃないか、と口にする度に、横から前島が適当に茶々を入れている。
矢中は腹が満たされたせいか、他人の机に突っ伏して寝始めている。矢中と後田は隣のクラスだ。本格的に眠り込まれると面倒くさいので、凍雨は強めにその背をたたいた。
「ねむれーよい子よー。」
「あやしてるんじゃないよ。」
たたくのに合わせて勝手に歌う外口をにらむ。そうしている間に予鈴が鳴ってしまった。仕方なく、思いきり張り手を喰らわせる。
「ぎゃぴっ。」
奇声をあげて矢中が飛び起きた。きょろきょろ辺りを見回す矢中を、後田が廊下へと連行していく。
凍雨は二列向こうの、自分の席へと戻った。そろそろ、次の授業の準備をしておいてもいいだろう。すとんっと席に着き、机横に掛けていたカバンから教科書類を取り出す。上に乗せる時、前島が机の向こうに立ち、こちらの顔をのぞき込んでいることに気がついた。
腕を組み、じぃっと見つめてくる。凍雨は顔をしかめた。
「何?」
思わず低い声が出たのに、前島が気にする様子はない。いつもの軽口と変わらぬ調子で、言葉を寄越した。
「橋場ってさ、稲宮先生のこと嫌いなの?」
「あー! それ、俺も気になってた!」
食いついたのは外口だ。まだ矢中達と話していたのか、廊下へ身を乗り出していたのに、ぐりんと勢いよくこちらを振り返った。
「凍雨ってばさー、沙穂ちゃんが来るとすーぐどっか行っちゃうじゃんっ。この間もさ、いると思って振り返ったらいねぇでやんの。すげぇ恥かいたんだぞー、俺!」
ぎゃいぎゃい吠える声から、凍雨はぷいと顔を背けた。前島がいやに真面目な顔で、ふむふむとうなずく。
「これはもう、まさに、何かあると言ってるようなもんだよね。」
「えー、マジで嫌いなの? 沙穂ちゃん良い子よー?」
「先生相手に、子って言うのはどうかと。」
「何、お前までそんなお堅いこと言っちゃうの? 良いのよ、女はいくつになっても乙女なのよって、ばっちゃが言ってたし。」
「じゃあ、田村先生も乙女ってことだね。」
「えー。マジかよー。なんか萎えるわー。」
二人の話が、女性教員の乙女判定に移る。
脱線していく話に耳を傾けながら、凍雨は詰めていた息をふっと吐いた。知らずに力を込めていた指先が、少ししびれていた。
***