にぎわう食堂の一角で、青年が行儀悪く頰づえを突いている。
定食のコロッケをモソモソと口に運び、二つある内の一つを食べ切ったところで箸を置いた。椅子の下からショルダーバッグを引き出して、サイドポケットからケータイを取り出す。脚でバッグを元の位置に押し込みつつ、ケータイの電源を入れた。
先刻まで受けていた講義の講師は、講義中はケータイの電源を切ることを推奨している。第一回の注意事項で、たとえバイブレーションでもケータイを鳴らした者はカバンごと廊下に放り出すと宣言しており、実際に先日、実行していた。特に大事な連絡の心当たりもないので、青年は素直に従って電源を切っていた。
トレーを横にずらして、ケータイを目の前に置く。メッセージの受信はない。こちらから発信したいこともない。青年は画面を落とそうとして、手を止めた。
液晶の向こう、就学前だろう年頃の少女が、こちらを見上げてふにゃんと柔らかく笑っていた。跳ねクセのある黒髪が、オレンジのポンポン飾りで高い位置に結ばれている。桃色のほほもボールを抱えた小さな手も、ぷくぷくふっくらしている。青年は笑み崩れた。
かわいい。
声には出なかった。心の内でつぶやいたつもりだったのに、唇は動いた。
「あれ。飛野、妹いるのか?」
すぐ後ろから声が飛んで来て、青年、飛野一馬は我に返った。振り返ると、一人の青年がきつねうどんの乗ったトレーを持って立っていた。その後ろでも男女が各二名、彼の肩越しにこちらをうかがっている。五人は同じ学科の学生で、先の彼と女性の片方はさっきまで同じ講義を受けていた。
彼が一馬の横に座り、他の面々もそれぞれ席に着く。テーブルには、きつねうどん、醤油ラーメン、カレー、月見うどんが並んだ。男の一人はカバンを席に置くと、財布だけ持って券売機の方へ向かった。
「かわいいな。でも、飛野とはあんまり似てないかも。」
「妹じゃねえからな。」
横からのぞき込んでくる相手から隠すように、画面を消す。一馬は姿勢を正すと、ケータイをズボンのポケットにしまいながら定食のトレーを引き寄せた。
「あれ? じゃあイトコとか? めいっこ?」
「いや、彼女。」
「えぇっ!?」
きぱっと返して、一馬は食事を再開させる。四人が驚きの声をあげた。女性二人の声は悲痛で悲鳴に近い。一馬は先日の誕生日で二十歳になったはずだ。写真の相手とは親子に近い歳の差がある。
「飛野、お前、ロリコンだったのか……?」
「ていうか、親御さんはっ? 親御さんの許しは得ているのか!?」
しばらく間を置き、男の一人がぼう然とつぶやき、もう一人が身を乗り出して騒ぎだす。女性達は青ざめて押し黙っている。そんな状況の中でも、一馬はペースを少しも乱さずに、コロッケやキャベツを口に運ぶ。対して、手をつけられていないラーメンとうどんは刻一刻と伸びている。
「……の、小さい頃の写真。」
「えっ?」
「部屋の片付けてしてたら昔の写真が出てきてな、髪長いの懐かしかったから、写メってきたんだ。」
空になった茶わんをトレーに戻して、一馬が続ける。言葉が脳に到達して、彼らは胸をなで下ろした。どっと空気が緩む。
「なぁーんだよ、もう。驚かせやがって。」
騒いでいた男が、椅子に座り直してケラケラ笑う。それぞれ箸やスプーンを手に持つ。
「そういえば、飛野君って飲み会から帰る時、いつも電話入れてたよね。あれって、もしかして彼女さんに?」
「いや、それは単に家に連絡してただけ。」
未成年である一馬が夜遅く帰ることを親代わりの人達が心配して、飲み会の後は電話を入れることを約束させられていた。酒を飲んでいないかどうかの確認でもあったようだ。二十歳になったことで解約されたが、一馬としては電話をする口実がなくなって少々寂しい。9時前であれば、彼女が電話に飛びついて来るのだ。
隣に座っていた青年がうどんをたぐりながら、口を開く。
「で、彼女さん、今いくつなんだ?」
「案外年上?」
「いや、年下。今年小四。」
最初のように簡潔に答えて、一馬は残っていたみそ汁をすする。
ずるるんっと箸を滑って麺が出汁の中に沈む。カレーのスプーンが転げる。
「ジャスト十歳差!?」
「つぅかどっちにしろ犯罪!?」
***
駅を出た時は、まだ空に雲の形も見えて、街灯の光は付いているのか分からない程ぼんやりしていた。我が家を視界に認めて、見上げた曲がり角の街灯は、闇夜を背に強く白く存在を主張していた。日が沈むのが早くなったものだ。
一馬は、一辺の光もこぼさない冷たく沈んだ自宅の前を通りすぎる。薄いブロック塀を挟んだすぐ隣では、カーテンの隙間や、玄関ドアの飾り窓からオレンジの光が漏れていた。
バッグのサイドポケットからジャラリとキーホルダーを取り出す。三つ付いている内の一つ、赤いネコのカバーの鍵を選んで挿し込む。ドアを開けて中に入ると、廊下の奥に声をかける。
「ただいまー。」
廊下に上がり、慣れた足取りで左の部屋へ入る。洗面台で手を洗っていると、とたとたと軽い音が聞こえてきた。手をタオルで拭きながら廊下をのぞく。向かいの階段を小学生ほどの少女がリズム良く降りてくる。短く切りそろえられたクセ毛がひょこひょこと揺れていた。ぱっちりした大きな目が、一馬の姿を捉えてぱぁっと輝く。
「カズ兄っお帰りなさーいっ!」
「スズ、ただいま。」
少女が飛びついてくる。一馬は両腕を広げてしかと受け止めた。少女は額をぐりぐりっと一馬の腹に擦りつけると、満足気にへへっと笑う。一度体を離し、一馬の手を引いて廊下の奥、リビングへ誘う。元気にドアを開け放った。
「お母さんっ。カズ兄!」
「ああ。カズ君、お帰りなさい。」
「ただいま、おばさん。」
少女の声に、台所のカウンター向こうから女性がこちらを振り返った。女性がにこりと微笑む。しかし、ほほに手を当てて、それを困り顔に変えた。
「ごめんね。ご飯まだ出来てないの。もうちょっと待っててね。」
「いえいえ。むしろ、俺がいつもより早いのに乗れちゃったんで。」
「でも、おなか空いたでしょう。何か摘まんでる?」
「んー、大丈夫っす。」
「カズ兄。テレビ、クイズやってるの。いっしょにやって!」
母との会話は区切りがついたと判断したのだろう。周りをちょろちょろしていた少女が、ぐいぐいと一馬の腕を引く。一馬は笑ってそれに従う。ソファに座ると、少女は当然のように膝に乗り上げてきた。一馬はソファ横にバッグを降ろす。よいしょ、と据わりを整える彼女を、腰に手を回して支えてやる。
「こら、鈴っ。カズ君疲れてるんだから、降りなさい!」
飛んで来た声に、少女の肩がびくっと跳ねた。眉が八の字に下がる。
「ごめんなさい……。」
一馬の胸を押して降りようとする、小さな体をぐっと引き留める。一馬は台所へにこりと笑みを向けた。
「大丈夫っす。スズ、軽いですから。」
「そう? ごめんねぇ、いつまでも甘えん坊で。」
「いえいえ。」
にこにこ笑う一馬にもう一度謝って、女性は調理台に向き直る。くいくいっとシャツが引かれた。視線を下ろせば、大きな瞳がじぃっと見上げていた。
「カズ兄、つかれてるの?」
きゅっと八の字の間にシワが寄る。一馬は笑みを深めて、ぎゅうっと少女を抱き締めた。
「ちょっとなぁ。でも、スズがぎゅうってしてくれたら元気出るよ。」
すぐに細い腕が抱き返してきた。背中まで回らない小さな手は、服にしがみつくような形になる。きつく目をつむった丸い顔が、一馬の胸に押しつけられていた。
込み上げる愛しさに、一馬の手にも力が込められる。
今はまだ、この幸せは自分のものだ。
***
一馬の両親は共働きで、仕事柄家を空けることも多かった。幼い一馬はよく隣の夫婦に預けられた。どういう関係なのか、母と学生時代からの知り合いだということしか一馬は知らない。
一馬が高校生の頃に両親が別々に外国に行ってしまい、一人暮らし状態になると、朝食、夕食もお隣のお世話になるようになった。一年に1、2回帰ってくる両親も、空港から真っ直ぐお隣にやってくるのだから、飛野家にとって自宅はすでに寝室兼物置と化してきている。
鈴が生まれたのは、一馬が小学生の時だ。第二の両親となっていたお隣夫婦に生まれたその子を、一馬はそれはもう可愛がった。自分はこの子の兄だと、この子は自分の妹だと、そう疑わなかった。膝に乗せて学校で習った歌を歌ってやった。散歩についていってベビーカーを押したがった。鈴が歩くようになると、出掛ける度に手をつないだ。
***
小学生の頃は、昼間は誰もいない自宅ではなく、隣の奥さんが迎えてくれるお隣に真っ直ぐ帰ってランドセルも預けていた。中学生になれば、一人で家にいたって平気だし、どこへでも遊びの当てがある。それなのに一馬は、制服から着替えるためだけに自宅に寄り、お隣に向かった。
チャイムを鳴らすと、内側から勢いよくドアが開いた。幼子がドアノブにぶら下がっている。伸びたクセ毛が今日は黄色いリボンでポニーテールにされていた。
「カズにぃっかえりーっ!」
一馬はため息をつくと、鈴のほほを両側から捕まえてぐにっと引いた。柔らかくてよく伸びる。
「すーずー。誰か確かめないで開けちゃダメだろー?」
鈴は不思議そうに目をぱちぱち瞬かせる。
「カズにぃだよ?」
「いやいや。」
飼い主の帰りを察知する犬猫じゃあるまいし、足音や気配だけで相手が把握できる訳がない。
「とにかく、今度から俺だって分かるまでダメだ。分かったか?」
「うん?」
「俺の声が聞こえたら開けるんだ。分かったな?」
「うんっ。」
念を押すと元気にうなずかれるが、通じている気がしない。一馬は鈴を抱き上げて家に上がる。
「スズねー、カズにぃわかるよ。ちがうひと、あけないよ。」
マイペースな幼子は、脚をぷらぷら廊下を運搬されながらも、のんびりとおしゃべりを続ける。
「カズにぃ、だいすきなの。」
一馬は鈴を抱き直して、リビングのドアを開ける。部屋の奥では鈴の母親が、掃除シートで床を磨いていた。ぺこりと頭を下げる一馬に、にこっと笑いかけてくれる。
「だからねー、カズにぃきたの、わかるよ。いちばん、おむかえするの!」
ふふんっと、自慢気に胸を反らせて、鈴は一馬を見上げる。一馬は自分のほほが緩むのを感じた。
「一番にお出迎えできるのは、玄関でずっとカズ君待ってるからでしょう?」
「! いっちゃだめっ。」
割り込んできた母の言葉に、鈴がぱっと顔を赤くした。掃除の手を止めて母親は「ごめんね。」と謝るが、その声も表情も楽し気だ。釣られて一馬も笑った。腕の中で鈴が暴れだした。危ないので降ろしてやると、駆けだしてソファの裏へと隠れた。
宿題なんて、寝る前にやればいい。
鈴が生まれる前と変わらず、友人と約束のない日はお隣にお邪魔した。むしろ、まだ一人では外遊びが出来ない鈴のために、毎日のように通った。
***
中学二年生のある日、何となく席の近い男子数名で昼食を囲んだら、馬が合い、そのまま共に過ごすようになった。他の面子が遊びに出る中、妹分を優先するあまり、付き合いの悪い一馬を仲間外れにすることもなく、学校では小突き合って笑い合った。
定期テストが近くなると、彼らはよく一馬の家に集まった。リビングのテーブルにそれぞれノートや教科書を広げるが、漫画やゲームを持ち込む者がいて、勉強は遅々として進まない。
一馬はよくその場に鈴を呼んだ。どうせ皆グダグダしているのだから、幼子一人がおやつを食べていても問題あるまい。膝に乗っけた妹分の、チョコや砂糖に汚れた手とほほをかいがいしく拭いてやる一馬を、友人達は「シスコン」と呼んでからかった。
皆、鈴に対して好意的だったが、一度だけ、帰り際に眉根を寄せてこう言われたことがある。
「お前って、何かいっつも子守りしてるよな。本当の兄貴でもねぇのに、お前に頼り過ぎじゃね。」
一馬の親でもないのに、鈴の両親はいつも一馬の面倒を見てくれた。それに、そもそもの前提がおかしい。鈴の両親は、一度だって一馬に鈴を押しつけたことはない。勝手に兄貴だと気負って、一馬が鈴を構っているのだ。気負うという言い方も適切ではないだろう。ただ、「カズにぃ」とあの子に呼ばれるのが好きなのだ。
カズにぃ、と自分の名が繰り返される。小さな手を伸ばして、一所懸命に駆けてくる。小さな体を迎えると、柔らかい熱がくっついてくる。まあるいほほを赤く染めて、きゃらきゃらと笑う。自分にたどり着けてうれしいと、抱き締められてうれしいと、全身で教えてくれる。
その様子が可愛かった。真っ直ぐにぶつけられる「好き」が一馬の胸をくすぐった。
***
一馬が高校に上がる頃には、鈴にも友達が出来ていて、母親に連れられて友達の家に行くことが増えた。公園で遊ぶ時なら、一馬が付き添うこともあった。
一馬は園児の兄としては歳が離れている方だが、父親や先生よりは若い。ある日、友達の中で好奇心の強い子が、なじみのない年頃の一馬に興味を示して抱っこや肩車をねだった。すると、砂遊びしていたはずの鈴がスコップを放り出してすっ飛んで来た。
「カズにぃダメ! スズのカズにぃなの!」
鈴と遊ぶことが減っていて少し寂しかったが、こうした鈴のヤキモチを見られるのは楽しかった。
鈴が小学校に上がると、制限はあるものの一人で遊びに出られるようになって、一馬の子守りは完全に必要なくなってしまった。帰り道に一馬が公園を通り掛かると、イロオニやカクレンボの最中でも鈴が手を振ってくれるのはうれしいけれども。
「やっと自由になったんじゃん。なんでそんなに弱ってんだよ。」
別々の高校に入った後も、友人達との付き合いは途切れず、体の空いた一馬は遊びの誘いに応じることが多くなった。妹分の近況を聞かれて、ため息混じりに話す一馬を友人達は不思議がる。
自由って何だ。胸に穴が空いて、風通しが良くなることか。
***
高校三年生の秋。クラスメイトの話を聞きながらコロッケパンをかじっていると、ケータイが鳴った。そういえば電源を切っておくのを忘れていた。続く音が鬱陶しい。今からでも切ろうと思ったら、内容だけでも確認したらどうだ、と話していた当人が勧めるので画面を見た。
友人の一人から、週末にある地元の祭りの誘いだった。受験のストレスがたまっているのだろう、次々と参加表明されていく画面を見ながら、手早くメッセージを打つ。
――スズと行くから、パス。
すかさず、人数分「シスコン」の四文字が送られてくる。うるさいケータイを今度こそ切って、一馬はそれをバッグの中に放り込んだ。
去年は、鈴とその両親と一馬の四人で祭りに出掛けた。鈴の父親は一馬が小さい頃から射的が得意で、変わらぬ腕前に鈴は手をたたいてはしゃいでいた。しかし、今年は鈴と二人で行くことになっている。新しい浴衣を買ってもらったという鈴が、「デート」だと宣言していたからだ。
当日の五時過ぎ、一馬が鈴を迎えに行くと、玄関で出迎えてくれた鈴の母は、心配そうに表情を曇らせていた。
「カズ君、ホントに良いの? やっぱり私も行こうか?」
「大丈夫っすよ。はぐれないよう、しっかり手をつなぎますから。」
「そうじゃなくてね、鈴と二人っきりじゃ、せっかくお友達に会っても一緒に遊べないでしょう?」
思ってもみなかったことに、一馬は一瞬だけ目を見張った。思い返してみると、去年友人達とすれ違った時も、あっちに合流しても良いと言われたような。一馬はすぐに笑みを取り戻した。
「あいつらとはしゃぐより、俺はスズとゆっくり回る方が好きですから。」
「そう?」
心配を上手く拭うことは出来なかった。鈴の母の顔は晴れない。それでも、これ以上言葉を重ねることは難しいと思ったのだろう、握りしめていた小さな財布を手渡してくれた。
「これ、好きに使ってくれて良いからね。」
「ありがとうございます。」
落とさないように、鍵を付けているチェーンとつなぐ。
「ところで、スズは?」
「なんか、もじもじしちゃって。鈴ーっ。そろそろ出て来ないと置いてかれちゃうわよーっ。」
置いて行く訳がない。口にせず、苦笑するに留める。
慌てた足音をパタパタと響かせて、鈴がリビングから駆けて来る。白地に赤い丸が散った浴衣に、赤いふわふわした帯を締めている。帯は去年と同じもので、淡く色の抜けた端が鈴の跳ねるのに合わせて柔らかく揺れるのが、金魚のひれのようだった。
「もう。そんなに走ったら崩れちゃうでしょう?」
そのまま土間に降りて下駄を履こうとした鈴を捕まえると、母親は浴衣を直し始める。
一馬は、赤い丸に柄があるのを認めて、最初は水風船なのだと思った。しかし、それは白い梅の花が描かれた緋色の”鈴”だと一拍空けて気がついた。
探したのか、たまたま見つけたのか、彼女の名前に合わせた柄。派手さはないけれど、赤が鮮やかに染めぬかれて美しい。大きな鈴がコロコロと転がって、周りにピンクやブルーの小さな花が散っている。
妹分が元気に走り回っている姿が連想されて、一馬は笑みをこぼした。母親から解放された鈴が、きょとんと目を瞬かせて一馬を見上げている。
「よく似合ってる。」
「ほんとっ?」
大きな目がぱぁっと光を散らす。うなずいてやると、まあるいほほを上気させて、きゃーっと声をあげた。花の形の髪飾りを避けて、頭をなでる。
「さ、行こう。」
差し出した一馬の手を、小さな手がきゅっと握った。
***
歩きながら食べるのは鈴には難しいし、何より転んだ時に危ない。一馬は道の端の縁石に腰かけて、隣に座る鈴がチョコクレープと戦っているのを見守っていた。といっても、半分はすでに一馬が引き取っているので、鈴は優勢である。
次はしょっぱいものを食べたがるだろうか。いや、向こうにあるスーパーボールすくいをやりたがるだろうか。視線をちょっと鈴から外し、並ぶ屋台を追う。
「ごちそうさま!」
空っぽになった包みを見せる手も、なぜか誇らしげな顔もベタベタとクリームが付いてしまっている。一馬は出掛けに渡されたウェットティッシュで、それらを奇麗に拭ってやった。包みと一緒に、辺りに設置されているゴミ箱へ捨てる。
手をつなぎ直して人波へ戻る。鈴が屋台の一つを指差す。
「わたあめっ!」
「ん、食べる?」
「んーんっ。いまじゃないの。わたあめおっきいから、おとうさんとおかあさんとたべる。」
「じゃあ、帰る時に買おうな。」
「うんっ。」
こくりっとうなずく鈴に微笑んで、先へ促す。
「飛野君?」
声と共に横から誰かが進み出てきた。聞き慣れない声だったが、呼ばれたからには無視する訳にもいかず、立ち止まる。
深い青の浴衣に黄色の帯、クセのない黒髪は肩で切りそろえられている。少女は一馬の顔を真っ直ぐ見つめて、もう一度「飛野君。」と呼んだ。しかし、一馬には相手が同い年くらいであることしか分からない。鈴が両手でぎゅうっと一馬の手を握った。
少女は驚きに目を見張って、でもうれしそうに正面に立つ。
「久しぶり。来れないって聞いてたのに。」
どうにも正確に情報が伝わっていないようだが、一馬が友人の誘いを蹴ったことが、どうして知らない少女に伝わっているのだろう。考え込みそうになって思い出す。あの誘いには「女子も来るから来い」という一文があった。この少女はその女子の一人か。
押し黙る一馬を、驚いていると判断したらしい、少女は慌てた様子で言葉を重ねる。
「三年ぶりだよね。知ってるかな、ナホと寺島君が同じ高校なんだよ。それでね、寺島君達とお祭り行くからって、ナホが私も誘ってくれたんだ。」
寺島は友人の一人で、祭りに行こうと今回最初に言い出した奴だ。ナホというのは、彼の話によく出てくる高木の下の名前だったはずだ。この交友関係から見て、少女は中学の時のクラスメイトなのだろう。見覚えがあるような気がしてくるが、やっぱり思い出せない。
「あのね、良かったら……」
照れ隠しにうつむいて、そこでようやく少女は一馬に連れがいることに気がついた。大きな目にじぃっと見つめられて、あ、と息を飲む。言葉が空く。自分の勘違いを取り繕おうと、瞳が泳ぐ。
「……あの、待ち合わせ、すぐそこで、その、妹さん、一緒でも良いと思うし、飛野君も……」
「いや、俺は」
遠慮するよ。続けるはずだった言葉がするりと抜け落ちた。
片手を捕まえていた熱が、すっと離れたからだ。途切れた一馬の思考に悲鳴のような声が被さる。
「かえる!」
声に釣られて見下ろすと、大きな目に涙の膜が張っていた。真っ赤になった顔で、大きく息を吸って、鈴は叫ぶ。
「わたし、かえる! さきにかえるから!」
白い袖と赤いひれがふわっと翻った。鈴が来た方へと駆けて行く。
「はっ? おいっスズ!」
小さな白と赤はあっという間に人波に沈んでしまう。ほうけている推定元クラスメイトのことなんて構っていられない。一馬も慌てて駆けだした。
日の傾いた道を泳ぐ白を、必死で追う。屋台が途切れる区画で、鈴は横切った男性の足に自身の足を引っかけて、べしゃっと転んだ。自分のせいかとうろたえる男性に、追いついた一馬がすみません、と頭を下げる。鈴を抱き上げて立たせた。
「ほら、スズ。人の多いとこで走っちゃダメだって、おばさんも言ってたろ。」
「ごめんなさいぃ……。」
痛みのためか、他の理由か、ぼろぼろと涙がこぼれていく。
「俺にじゃないだろ。」
ため息混じりに指摘すると、しゃがんだ一馬の肩を支えに、鈴は男性を振り返った。
「ごめんなさい……っ。」
「いやいや、こっちこそごめんね。」
男性は恐縮した様子で連れの女性と逃げて行く。女性の方は心配そうにチラチラとこちらを振り返っていた。
一馬は正面からケガの有無を確かめると、パタパタと土ぼこりを払った。髪飾りが落ちているのを見つけて、拾いあげる。ひっくひっくとしゃくりあげる鈴の手を引いて、道の脇に避難する。
再びしゃがんで、目元を擦る小さな両手を捕まえた。
「びっくりしたぞ。急にどうしたんだ。」
手で顔を隠せなくなった鈴は、ぐっと唇を引き結んでうつむいた。まあるいほほを、涙が後から後から伝っていく。
一馬はため息をついて、落ちてきている前髪を髪飾りで留めてやった。さっきと位置が変わったが、まあ良いだろう。
「怒んないから、言ってみ。」
鈴が手をぎゅうっと握りしめる。
「ほん、とは……スズはおかあさんと、いこうって……おかあさんが……。カズにい、おともだちといっしょって……。そっちのが、いいって……。カズにい、もうおっきいのに、かぞく、で、いくの、おかしいって……っ。」
懸命に言葉を紡ぐのに、のどが引きつって度々途切れる。話し切ったのか、堪えられなくなったのか、ひぃぐっと大きく声を跳ね上げて、鈴は取り戻した両手で口を塞いだ。
鈴の手を引いて外遊びに連れ出した回数は数え切れない。お使いにだって行った。二人きりのお出掛けなんて珍しくもないのに、兄貴分と祭りに行くのを「デート」と称すなんて、女の子らしいおませだと思っていた。
一馬を友人達に譲りたくなくて、誰にも文句を言われたくなくて、考えついたのが、家族ではなく恋人としてデートに行くことだったのだろう。
そうして武装した幼い乙女心は、少女の登場と発言で挫けてしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙混じりで小さく繰り返される。一馬はぐりぐりと鈴の頭をなでた。
「何を謝ってんだよ。」
「カズにい、いっしょ、わがままいった。おともだち、まってたのに。」
鈴の涙は止まらない。一馬が思っている以上に、鈴の両親は一馬が鈴に時間を割いていることを気にしていたのか。一馬が知らない所で鈴は注意されていたのかもしれない。
一馬は指で涙を拭おうとして、拭い切れないなと、ポケットからウェットティッシュを取り出した。涙でベタベタになったほほを拭う。またぽろりとこぼれた雫に、ハンカチを持ってくれば良かったとぼんやり思う。
「ワガママなんかじゃないだろ。友達と行くのはちゃんと断ったんだ。俺もスズと来たかったんだから。」
ぱちぱちと鈴が目を瞬かせる。
自分はどこかおかしいのかもしれない。
友人達の言う子守りを、苦に思ったことなんて一度もない。
自分を前にはにかむ年頃の少女より、まるいほほを真っ赤にしてきゃーっと喜ぶこの子の方が可愛い。
自分を真っ直ぐ追いかける大きな目が可愛い。
自分にすがりついてくる小さな手が可愛い。
幼い心にもて余すほど自分を想ってくれる、鈴が愛しい。
「俺はスズとのデート、楽しみにしてたよ。」
「……ほんと?」
特別意識していたわけではないけれど、いつだって鈴と出掛けるのは楽しいし、可愛い背伸びを否定する気もなかった。
「俺がスズにウソついたことあるか?」
小さな頭が横に振られる。その頭をくりくりなでる。
「だろ? 知らない人に何言われたって気にしなくて良いんだ。むしろ、鈴は怒って良かったんだぜ、邪魔すんなって。俺もスズもデートだと思ってるなら、それはデートなんだから。」
涙はとうに止まっていた。赤くなっている鼻を拭ってやる。一馬は笑みをからかうものに変える。
「でも、怒りのあまり、彼氏ほっぽって走りだすのはNGな。」
「……ごめんなさい。」
しゅんっとうつむいてしまった顔を、髪をかき上げるようになでて上向かせる。
「手をつないでくれたら、許してあげる。」
ぱっと飛びつくように手を取られた。ぎゅうっと力が込められる。応えて一馬も握り返す。
「んじゃ、スズ。次は何食う?」
「……タコヤキ。」
「おし。あの店で良いな。」
一馬は立ち上がりながら、きょろっと辺りを見た。一番に目についた屋台へ向かう。鈴が振り返って後ろをうかがう。少女を探しているようだ。一馬は強く鈴の手を引いた。
一舟頼むと威勢のよい声が返ってきた。まん丸のタコ焼きがひょいひょいと軽やかに舟に乗り込む様を、鈴がきらきらした目で見つめている。一馬のポケットでケータイが震えた。
この近くにいるだろう友人からメッセージだ。鈴に500円玉を握らせて、自分はちょっと端に避ける。
――すずちゃん、大丈夫か?
件の少女は無事友人達と合流したようだ。
――平気。捕まえた。
――良かった。
良かった、と口々に安堵の言葉が送られてくる。心配をかけたことをわびる。
――二人もこっち来いよ。
誰かの一言に、行かない、と返信しようとして指が止まる。
一馬は考え込むように視線を下へと逃がした。そこにひょこっと鈴が入り込んでくる。
「カズにいっ。ハコがすっごくあっつい!」
「焼きたてだからなぁ。ヤケドしないように、気をつけような。」
「うんっ。」
カツオブシやらがはみ出ている箱を大事そうに抱えて、鈴が道の端へ向かう。一馬はさっとメッセージを送ると、ケータイをポケットに戻した。
――デート中。邪魔すんな。
タコ焼きを食べている間、ずっとポケットの中が騒がしかった。
***
鈴が生まれた時から、傍にいるのが当たり前だった。鈴が自分を呼べば、傍へ駆けつけるのが当たり前だった。小さな手が伸ばされた時、自分の両手が塞がっていれば酷く悔やんだ。
一馬は自分を犠牲にしている訳ではない。鈴に尽くしている訳ではない。鈴が一馬を望んでくれる以上に、一馬が鈴を望んでいるだけ。一馬は追って来る鈴を待ってやっているのではない。鈴が駆けて来るのを待ちわびているだけ。
いつからなのか、一馬にはもう分からない。
可愛い、うれしい、と受け入れ続けた「好き」は、一馬の胸の奥の奥へと流し込まれて、気がついた頃には妙な形で凝固してしまっていた。
後はもう、鈴が一馬を呼んでくれる度、少しずつかさを増していくだけ。
***
テレビ画面の下部には、不思議な語感でカタカナの羅列が四つ並んでいる。内二つが、実在する生物の和名なのだそうだ。
一馬の膝の上で、リモコンをぎゅうぎゅう握りしめて、鈴が頻りに首をかしげている。
「スベスベマンジュウガニはいるんだよ。知ってるもん。本にのってたよ。」
「へえ。旨そうな名前だな。」
「食べられないよ。毒あるんだって。」
「何だ。こしあんでも入ってるのかと思ったのに。」
「でも、丸くてかわいかったよ。」
もう一つの正解はどれなのか、脚をぷらぷら揺らして、鈴は再び悩み始める。
ブーブーと微かな振動音が聞こえた。ソファ横のバッグの中でケータイが自己主張している。
「ちょっとごめんな。」
落とさないように鈴の腹に手を回すと、体を傾けてバッグを探る。手に取ってすぐぱっと画面を表示する。
友人が、サイクリングに行くぞ! と参加者を募っている。確か彼はつい昨日も、発表がどうだ資料がなんだと騒いでいたはずなのだが。すぐにでも飛び出して行きたいのか、候補も用意せずに次の日曜日を指定している。
一馬はさらっと返事を打つ。その日はすでに先約がある。
――デートなんで、パス。
「ロリコン」の四文字がポコポコと画面を埋めていくのを無視して、一馬はケータイを放った。ぽすっと間の抜けた音をたててバッグの上に着地する。
鈴がこちらを振り仰いだ。
「カズ兄? お話いいの?」
「ん? いいのいいの。」
ぐりぐりと頭のてっぺんを顎でえぐる。「やめてー。」と鈴がきゃらきゃら笑いながら一馬の顔を押し返す。
鈴が望んでくれる限り、一馬はこの場所から動かない。
END
張り倒してやりたい。
春のぽかぽかした日差しの下で、そんな物騒な気持ちになったのはどうしてか。
彼女が、何の予告もなく自分の前に現れたからか。その笑みが、能天気の極みだったからか。今年の桜が、もう散ってしまったからか。
とにもかくにも、沙穂が悪いのだ。
***
六月。人生二回目の入学式も、もう二ヶ月前のこと。規模が大きくなった校舎にも、変わった通学路にも、3倍になった学級にも慣れて、すっかり緊張感が薄れてきた。
教室の廊下に面した一角で、男子が5人、まばらにイスを集めて辺りの机に昼食を広げている。教室のあちこちで楽しげな声が交わされているが、特に元気なのは、この中の一人だ。身振り手振り、昨日見たドラマの話をしている。
「そこでバットを振りかぶり!」
「あれはホッケーのスティックだよ。」
「あり? そうだっけ?」
握りしめているクリームパンまで振り回した所で、隣に座っていた橋場凍雨が口を開いた。
ささいな間違いではあるが、二つを取り違えたままでは、後に困ったことになるはずだ。凍雨も同じドラマを見ていたのである。
そっかそっか、とうなずいて矢中が話を再開させる。それを聞きながら、凍雨は弁当を口に運ぶ。今日の卵焼きはオムレツ風で、ケチャップが挟んである。おいしい。
と、大きなまん丸おにぎりをほお張っていた外口が、いきなりガタンっと立ち上がった。その目は、教室と廊下を隔てる窓へと向いている。今は風通しのために開いていた。
「沙穂ちゃん!」
「あ! ホントだ、沙穂ちゃん!」
続いて矢中も立ち上がる。後田が深くため息をついている。窓の傍に座っていた前島が、ペットボトルに口をつけたまま、ひょいと横に退いた。窓に外口と矢中が飛びつく。そこから廊下へ飛び出しそうな勢いだ。
廊下を通っていた女性は、その姿に驚いて、抱えていた冊子の束をぎゅっと抱き締めた。ビクッと跳ねた体に合わせて、首の後でまとめたおダンゴが揺れる。
「沙穂ちゃん、何してんの? こっちにいるの珍しいねー。」
「沙穂ちゃん、一緒にお昼食おうっ!」
身を引いた沙穂のカーディガンをわしっと矢中がつかむ。沙穂はきゅっと眉をつり上げた。元来の彼女の顔立ちのせいか、迫力はない。
「二人ともっ、先生でしょ。先生!」
精一杯怒って見せるが、外口も矢中もにやにやと笑っているだけだ。
「沙穂ちゃん先生、何してるのー?」
「図書室に、借りたもの返しに行ってるんです!」
「沙穂ちゃん先生、お昼ー。」
「職員室で食べます!」
”ちゃん”が外せなかったからか、彼女の眉は未だに角度がついたままだ。片手で冊子をしかと抱き込んで、空いた手でカーディガンの裾を取り戻そうとしている。
苦戦している様子を見て、哀れに思ったのだろう、後田がもう一度ため息をつく。
「矢中、先生を放せ。」
「えー?」
矢中は不満そうに眉を寄せた。前島がにこにこと笑う。
「このままじゃ、稲宮先生がお昼ご飯食べ損ねちゃうよね。矢中はそんなに先生にイジワルがしたいの?」
「えー……。」
眉は寄せたまま、唇もとがらせているが、それでも矢中はぱっと手を開いた。
「ありがとー、二人とも。」
ほっと息をついて、沙穂が逃げていく。外口がひらひらと手を振る。矢中も倣って振る。
「またねー、沙穂ちゃーん。」
「次は一緒にお昼食おー。」
沙穂は手を振り返しはしたが、矢中の言葉には苦笑をこぼした。それを見送って、外口も矢中も先程まで座っていたイスに戻る。
騒ぎの間も、凍雨は黙々と食事を続けていた。ただ一人だけ、廊下から目を背けながら。
***
借りたイスを元に戻した後も、5人は外口の席を中心にその一角に残っていた。
後田と外口が、英語の教科書の疑問について話している。平行線のまま終わった、登場人物の会話が気になるのだそうだ。こうじゃないか、ああじゃないか、と口にする度に、横から前島が適当に茶々を入れている。
矢中は腹が満たされたせいか、他人の机に突っ伏して寝始めている。矢中と後田は隣のクラスだ。本格的に眠り込まれると面倒くさいので、凍雨は強めにその背をたたいた。
「ねむれーよい子よー。」
「あやしてるんじゃないよ。」
たたくのに合わせて勝手に歌う外口をにらむ。そうしている間に予鈴が鳴ってしまった。仕方なく、思いきり張り手を喰らわせる。
「ぎゃぴっ。」
奇声をあげて矢中が飛び起きた。きょろきょろ辺りを見回す矢中を、後田が廊下へと連行していく。
凍雨は二列向こうの、自分の席へと戻った。そろそろ、次の授業の準備をしておいてもいいだろう。すとんっと席に着き、机横に掛けていたカバンから教科書類を取り出す。上に乗せる時、前島が机の向こうに立ち、こちらの顔をのぞき込んでいることに気がついた。
腕を組み、じぃっと見つめてくる。凍雨は顔をしかめた。
「何?」
思わず低い声が出たのに、前島が気にする様子はない。いつもの軽口と変わらぬ調子で、言葉を寄越した。
「橋場ってさ、稲宮先生のこと嫌いなの?」
「あー! それ、俺も気になってた!」
食いついたのは外口だ。まだ矢中達と話していたのか、廊下へ身を乗り出していたのに、ぐりんと勢いよくこちらを振り返った。
「凍雨ってばさー、沙穂ちゃんが来るとすーぐどっか行っちゃうじゃんっ。この間もさ、いると思って振り返ったらいねぇでやんの。すげぇ恥かいたんだぞー、俺!」
ぎゃいぎゃい吠える声から、凍雨はぷいと顔を背けた。前島がいやに真面目な顔で、ふむふむとうなずく。
「これはもう、まさに、何かあると言ってるようなもんだよね。」
「えー、マジで嫌いなの? 沙穂ちゃん良い子よー?」
「先生相手に、子って言うのはどうかと。」
「何、お前までそんなお堅いこと言っちゃうの? 良いのよ、女はいくつになっても乙女なのよって、ばっちゃが言ってたし。」
「じゃあ、田村先生も乙女ってことだね。」
「えー。マジかよー。なんか萎えるわー。」
二人の話が、女性教員の乙女判定に移る。
脱線していく話に耳を傾けながら、凍雨は詰めていた息をふっと吐いた。知らずに力を込めていた指先が、少ししびれていた。
***
橋場一家がこの町に引っ越したのは、凍雨が小学四年生の冬のことだった。
単純に父の仕事の都合だ。母は、四月まで凍雨と元の町に残りたいと訴えていたのだが、それはかなわず、中途半端な時期の転校となった。
凍雨は、新しいクラスになじむことが出来なかった。
最初の一週間はクラスメイトに囲まれることが多かったが、それがいけなかった。人見知りの嫌いがある凍雨は、大勢にわいわいと話しかけられることに驚いて、彼らを拒絶してしまったのだ。むっつりと黙り込んでしまう凍雨に、やがて誰も話しかけて来なくなった。
凍雨は休み時間も放課後も、一人で過ごすことになったが、それ自体は大した問題ではなかった。凍雨は一人の時間が嫌いではなかったからだ。
ただ、家に帰ると母が質問を重ねてくるのが辛かった。
「今日、何があった?」
「休み時間、何してた?」
「誰か、仲良しになれた子はいる?」
以前は、こんなことを聞いては来なかった。
「べつになにも。」
「本よんでた。」
「とくには。」
凍雨が答える度に、母の顔が悲しそうに曇った。
凍雨は家に帰るのが嫌になった。家にいるのが嫌になった。
ランドセルを自室に置いて、すぐ外へ飛び出すようになった。交わす言葉は減ったのに、”遊びに出る”凍雨を見て、母はうれしそうにしている。凍雨はますます家にいられなくなった。
外でしたいこともないのに。
待っている人もいないのに。
***
凍雨はいつも公園にいた。自宅から小学校とは反対方向にある、小さな公園だ。滑り台と花壇くらいしかない。
そこの滑り台の天辺に腰かけて、日が沈むのを待つ。大体は本を読んで時間を潰すのだが、雨の中に持ち出すわけにはいかず、降った日はぼんやりと雨雲を眺めて過ごす。
それは、二月の半ばの雨の日のことだった。
ぬれた鉄板に座るのは嫌なので、上にビニール袋を敷く。黒い傘を両手でしかと支えて、ぬれる木々を眺める。滑り台の天辺にこうして屋根を掛けると、まるでやぐらだ。そう思うと秘密基地のようで、凍雨の気持ちは浮上してくる。
ぱしゃんと、軽い水音がした。枝から雫でも落ちたのかと、凍雨は気にもとめない。
けれど、ジャリジャリとぬれた土を踏む音が近づいて来るのに気がつくと、身を強ばらせた。ぎゅうっと、傘の柄を握る手に力を込める。
「ねえ、君。」
投げられたのは少女の声だった。クラスメイトのような甲高い声ではない。多分、凍雨よりいくらか年上だ。
「ねえってば。」
大人になりきれていない甘い声が、もう一度飛んでくる。凍雨はふいっと首を反対方向に向けた。
ジャリジャリ。砂を踏む音が真下まで迫る。
「ねえ、君。ここにずっといるよね? どうしたの? 誰か待ってるの?」
問いを重ねる声に、悲しそうな母の顔を思い出す。自分を囲むクラスメイトの煩わしさを思い出す。
凍雨はぐっと眉を寄せた。
「どこか具合が悪いの?」
「うるさい!」
凍雨は立ち上がると、声の方へ思いきり傘を振った。滑り台を見上げて、傘を傾けていたその人は、まともにしぶきを浴びることになった。くりっとした大きな目がぎゅっと閉じる。
「わぶぶ。」
その人が、傘を片手に預けて、もう一方の手の甲で顔を拭う。
その隙に凍雨は走り出した。滑り台を駆け降りて、その勢いのまま公園を飛び出した。
ぬれてぐずぐずになった靴、張り付いて生ぬるい靴下をぽいぽいと脱ぎ捨てる。母が困った顔でタオルを持ってきた。
「ずいぶん急いで帰ってきたのね。どうしたの? お友達とケンカした?」
水たまりも気にせずに走り抜けたせいで、ほほにも泥が跳ねていた。それもタオルで拭われる。
その間重なられる言葉に、凍雨の苛立ちが募っていく。
凍雨は口をへの字に曲げて、自室に駆け込んだ。
***
翌日、滑り台の上で本をめくっていた凍雨は、通りの足音を聞く度に顔を上げた。
犬を連れた老人、買い物袋を提げた女性、カバンを元気に振っている学生が通り過ぎると、ほっと肩から力を抜いた。本へ視線を戻す。
二日目、三日目と平和な日が続くと、凍雨は警戒を解いた。
夢中で文字を追っていると、ぽつ、と紙面に染みが浮いた。あ、と思うと、またぽつり、と雫が落ちてきて、凍雨の首にもひやっとしたものが触れた。本を閉じて胸の下に抱え込む。きょろっと辺りを見ると、視線の先の地面に、ぽつぽつと黒い染みが出来ていく。
雨だ。
傘がない。帰らなくちゃ。
そう思うと同時に、母の顔が頭を過ぎて動けなくなる。
とりあえず、滑り台の下に行こう。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、視界が赤く陰った。驚いて横を向くと、女が立っていた。
公園の前を通る、セーラー服の少女達と同い年くらいだろうか。ぐっと背伸びをして、滑り台の下から凍雨へ赤い傘を差し掛けている。ふわふわとクセのある髪にぽつぽつと雫が落ちている。くりくりした目と、凍雨の目がぱちっと合って、よりまあるくなる。
女はぱくぱくと口を開閉してから、ようやく声を発した。
「あのっそのっ、これ返さなくて良いから! カゼ引かないようにね!」
女は凍雨へ傘を押しつけると、きびすを返して走り去った。振り回している手提げからは青々としたネギがのぞいていた。
帰ってきた凍雨を見て、母はうれしそうに笑った。
「あら。その傘どうしたの?」
バサバサと羽ばたかせて水気を切った赤い傘へ、凍雨は視線を落とした。
「……何だろう。」
凍雨のつぶやきに、母は不思議そうに首をかしげた。
***
凍雨は今日も滑り台の天辺に座っていた。
空には薄く雲が掛かっているが、雨が降る気配はない。しかし、凍雨は本を持って来ていなかった。代わりに赤い傘を抱えている。
じっと通りを見張っていた。
本日二人目で女は現れた。
曇り空のような灰青色のワンピースに、深緑のカーディガンを羽織っている。女はすいっと滑り台へ視線を投げて、ぴしりと固まった。凍雨が自分の方を見ているとは思わなかったのだろう。
凍雨はいつかのように滑り台を駆け降りると、女の前へ立った。ずいっと傘を差し出す。
「あ、どうも。」
女がおずおずと手を伸ばしてくる。その手が傘をつかんだのを見て、凍雨はぷいっと背を向けた。公園の中に戻る。
「ねえ。」
女の声がかかる。凍雨は肩越しに振り返った。
「そこ、好きなの?」
そことは、滑り台のことだろうか。公園のことだろうか。
「べつに。」
答えると、女は眉を八の字にした。そのまま口を開かないので、凍雨はまたぷいと前を向いた。滑り台を坂の方から登る。
天辺に着くと、女が滑り台の根元まで寄って来た。くりっと凍雨を見上げる。
「私も、ここにいて良いかなぁ?」
凍雨は眉を寄せた。
嫌だ。嫌だけど、ここは公園だ。
「すきにすれば。」
女がにこりと笑う。
「ありがとう。」
女は花壇に腰かけた。カーディガンのポケットからケータイを取り出して、ちゃっちゃっと操作してから、またしまう。その後は先程の凍雨のように、通りを眺めていた。
女は、凍雨が帰るまでずっとそこにいた。
***
「私ね、沙穂っていうの。君は何くん?」
公園に来て、滑り台に登る。この女がやって来る。花壇に腰かけてしばらくは静かにしているので、そのままにしていると、ぽつりぽつりと話し始める。それが煩わしくなったら帰る。そうした流れを何日か繰り返した。
昨日から、沙穂は滑り台の階段に腰かけるようになった。
「もう三月なるのに、今日はすごく冷えるね。」
沙穂が自分でしていたマフラーを外して、凍雨の首に巻こうとした。凍雨はそれを左手で払うと、もそもそと膝を抱えた。沙穂が苦笑して、マフラーを自身の膝に置く。
「今日みたいな日は、もっと暖かい格好して来るんだよ。滑り台のこの板だってさ、結構冷たいんだし。」
階段に座り直そうとした沙穂が、「あ。」と小さく声をあげる。凍雨に向き直った。
「今日もさ、お名前教えてくれないの?」
凍雨はぷいっとそっぽを向く。
「しらない人にはおしえない。」
「ううーん。いったい後何回会ったら、知人にランクアップ出来るんだ……。」
沙穂はため息をついて、階段に足をそろえて今度こそ前を向いた。凍雨は顔を少しだけ浮かせて、その背をうかがった。ふわふわした髪が風を含んで揺れている。沙穂は上向いて、空の雲を追っていた。
「なまえなんて、どうしてしりたいの。」
腕の中に吸い込まれるようなぼそぼそした声でも、彼女はちゃんと拾ってくれた。こちらに背を向けたまま、楽しそうな声だけ寄越す。
「名前を知らないと、公園の外で君を見かけても、呼び止められないでしょ。」
「ここ以外でそばによってきたら、ひめいあげてやる。」
「やめてー。ちびっこにそんなことされたら、社会的に死んじゃうー。」
情けない声をあげてから、沙穂は、ああ、でも、とつけ足した。
「ここなら、寄ってっても許しくれるんだ?」
からかうような声音に、凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。ぐりぐりと自身の膝に顔を埋める。
沙穂はなお笑った。歌うような軽やかな声で。
「なら、いいかな。名前、知らなくても。ここで、一緒にいさせてくれるなら。それでいいや。」
沙穂はそれで話を切った。しばらくして、今日の雲の形がどう見えるか話し始めた。
その日から、凍雨の名前を尋ねてこなくなった。
***
沙穂は、ぽつりぽつりと、どうでも良いことばかり話す。
「そこの木にね、冬に赤い花が咲くんだけど、見たことある?」
「私が小さい頃って、外でも男の子達がカードゲームしてたんだけど、今の子はどうなのかな。」
「急にあったかくなったね。もう菜の花が咲いたんだって。」
凍雨が返事をしなくてもお構いなしに、思いついたことから話す。凍雨が本からチラッと目を上げると、にこっと笑う。
「桜はいつ咲くのかな。一緒に見られると良いねぇ。」
前は一日一冊読み終わったのに。
読むスピードが落ちたのは、このおしゃべりのせいで気が散るからだ。
凍雨は本に向き直ると、せっせっと目で文字を追った。
***
昨日は終業式だった。
春休み初日、凍雨は昼食を食べてから出掛けた。沙穂はもう公園で待っていた。
けれど、その日の沙穂はじっと地面を見つめていて、凍雨となかなか目が合わなかった。「あのね、」と口を開くのに、そこで言葉を切って、しばらくして近所の犬の話など、どうでも良い話を続けた。帰る凍雨を見送る時、困ったように眉を八の字にしていた。
次の日も、沙穂は先に来て待っていた。
いつもと変わらず、取り留めがないことをぽつりぽつり話す。しばらく黙ってからふいに、
「私ね、遠くの町の大学に通ってるんだ。」
分かるかな、と沙穂が告げた駅名は、県外のものだった。思わず、凍雨は「ウソでしょう?」とこぼした。
「キミは、もうずっとまえから ここにいるじゃない。」
そう、初めて会ったのはもう一月近く前だ。
凍雨の反応が面白かったのか、沙穂がクスクスと笑う。
「大学はね、春休みがとっても長いんだよ。だから、その間、家に帰って来てたの。」
沙穂が体をずらして、凍雨に向き直る。くりっとした目が凍雨を見つめる。
「それでね、明日、学校の方へ戻るんだ。ここに来るのも、今日が最後。」
急に、音が遠くなった気がした。
「今年から色々忙しくなるから、夏もあまり帰れそうにないんだよね。だから、しばらく会えないね。」
風に揺れる木々のざわめきも、近所で鳴いている小型犬の声も聞こえなくなる。
「本当は、ギリギリまでこっちにいようと思ってたんだけど。お父さん達があっちの様子を見たいって……どうしたの?」
途中で言葉を切って、沙穂が首をかしげる。足下に手をついて、凍雨の顔をのぞき込もうとする。
まだチャイムも鳴っていないのに。まだまだ日は高いのに。凍雨の視界は暗くなっていく。胸の内がグラグラと煮立っている。
ここにいたいって、言ったのに。
一緒にいたいって、言ったのに。
一緒に桜を見たいって、言ったのに。
それなのに、遠くに行ってしまうのか。
それなのに、僕を一人にするのか。
凍雨は衝動のまま立ち上がった。その顔を追って沙穂の目が上向く。
「うそつき!」
口を突いて出て来た四文字に、湧いて来る文句を全て込めてたたきつける。
滑り台を駆け降りる。砂地を蹴って、地面を蹴って、公園を飛び出す。その背を、慌てた声が追いかけてきた。
「待って! ねえ!」
アスファルトを蹴って、凍雨は走り続ける。遠く遠く。速く速く。あの優しい声を振り切って。
凍雨が重い足取りで公園にやって来たのは、二日後のことだった。
沙穂の姿はない。滑り台の終点に腰かけて、膝を抱いた。
あの日言っていた通り、沙穂は来なかった。
***
近所の土手で桜が咲いた。クラス替え直後は以前と変わらない生活だった。暖かくなる気候に逆らうように、凍雨の胸は何故だか冷えていった。席替えの後、同じ本を読んでいたことをきっかけに、後ろの席の前島と親しくなった。いつの間にか同じ班の矢中も話に混じっていた。
すっかり寒さを忘れられたと思った頃に、また桜が咲いて、一陣の冷たい風が胸を抜けた。
三回目の桜が咲いた。凍雨は中学生になった。
二年生に、新任の若い教師がいることは知っていた。入学式のその日に、前島が兄から聞いたのだと話していたからだ。けれど、ほとんど接点のない教師のことなど、お互い興味が薄く、慌ただしさの波に飲まれた。
だから、四月の半ば、生活委員の「あいさつ運動」とやらで、あののん気な顔を見た時は驚いた。くりくりした大きな目も、へにゃへにゃした笑みもあの頃のまま。下ろしていたクセのある髪が、後ろでまとめられていることだけが違った。
沙穂は凍雨へ向けてにこりと笑みを浮かべた。「おはようございます。」と、そう声をかけた。
そして、凍雨の後ろにいた女子生徒の一団にも同じ笑みを向けた。一団は二年生だったのだろう、「沙穂ちゃん、おはよう!」と元気な声がかかる。
「先生でしょう?」
本人は低く注意したつもりの声は、迫力に乏しく、「沙穂ちゃんせんせーい!」と楽しげな声が返る。
とぼとぼと下駄箱に着いた時、もう驚きは抜けていた。
凍雨はじっと自身の爪先を見つめた。
グラグラと何かが煮立っている。胸の内で、グラグラ、グラグラと。
何で、こんな所にいるんだ。何で、普通に笑っているんだ。
ああ、張り倒してやりたい。
そうしたら、このムカムカも、イライラも、すっきりするのではないだろうか。
一生徒が一教師を張り倒したりしたら、親を呼ばれて指導を受けることは想像に難くないので、凍雨はその衝動を忘れることにした。
沙穂を視界に入れると、また胸が煮えてくるので、見ないように気をつけている。声を聞くとムカムカするので、すぐに遠ざかるようにしている。
それなのに。
同じクラスの外口と仲良くなった。生活委員に入った外口は、副顧問の沙穂を気に入ったらしく、矢中と一緒に懐いて回るようになった。
のん気な顔が三つも並ぶと、ムカムカも膨れてくる。はしゃぐ声二つと困っている声一つに、胸の内が噴きこぼれそうになる。
一度だけ、矢中を後ろからど突いた。気持ちは晴れなかったし、キャンキャン吠えられて煩わしかった。
***
コンビニに寄りたいと、階段を先に降りる矢中が言った。後田がうなずく。凍雨も否はないので口を挟まない。
「かふぇおーれっかふぇおーれっ。」
機嫌よく歌いながら、矢中がたんたんっと段を跳ばして降りていく。一つ下の階に着いた所で、きゅっと止まった。
「お。沙穂ちゃーん!」
ぱっと顔を輝かせた矢中とは反対に、凍雨はぐっと顔をしかめた。しかし、矢中はすぐにションボリと肩を落とした。凍雨と後田が矢中に追いついて並ぶ。
いつものように駆け出していかない矢中に、後田が首をかしげた。
「どうした?」
「お姉様方、いっぱいー。」
見れば、教室を出たすぐの所で、沙穂が女子生徒に囲まれて眉を八の字にしていた。二年生のグループだ。外口同様に沙穂を気に入っていて、よくああしておもちゃにしている。
今日の標的はそのクセ毛であるらしく、コームを持った一人と、ヘアピンを持った一人が沙穂に迫っている。
たかが一年。されど一年。中学生には大きな差である。しかも、異性の群。あそこに突っ込んでいく勇気は矢中にはないらしく、「ちぇー。」と唇をとがらせている。階段を降りていく。後田も矢中の後に続いた。
苦笑を浮かべる沙穂が、手にしていた教材を盾にして逃げようとしている。しかし、後から少女の一人がその腰に抱きついた。沙穂はそれだけで動けなくなる。情けない悲鳴が、にぎやかな声に遮られる。
「橋場?」
後田の声に振り返る。階段の中程に立ち止まって、後田がこちらを見上げていた。もう踊り場を越えたのか、矢中の姿は見えない。知らない男子生徒が二人、上の階から降りて来て、後田の横を通り過ぎた。
階段と廊下の境に自分が立ち止まっていたことに、凍雨はようやく気がついた。
再び後田が口を開く。
「どうしたんだ? 先生に何か用か?」
「ないよ。」
意識するより早く言葉が滑り出た。
そう。ない。ないはずだ。
まだ不思議そうにしている後田の横を早足に過ぎる。凍雨は努めてその目も廊下も振り返らなかった。
用なんてない。今更話すことなんて何もない。
こっちから呼びかけてなんて、やらない。
***
窓から見える空が暗く灰色によどんできたから、嫌な予感はしていた。降り注ぐ銀線が、すでに作った水たまりでバチャバチャと弾けている。
昇降口の軒下にたたずんだ凍雨は、雨雲に沈んだように暗い校庭を眺めてため息をついた。午前中は晴れていたなんて、自分の記憶の方を疑いたくなる。
だが、その証拠に傘がない。持って来ていない。置き傘は元々していない。凍雨と同じ目にあった者は少なくないようで、いつもは数本置いてある貸し傘も今はない。
日直だからと、担任が用を頼まなかったのなら、前島と一緒に帰ることが出来たのに。
前島は雨の時季でなくともカバンに傘を入れている類の人間だ。ちなみに、矢中と外口は駄目だ。彼らは大雨の日に走り回る類の人間だ。
一か八か、後田が校舎に残っていないか、確認しようと凍雨は下駄箱に引き返した。上がらずに、すのこを挟んで背伸びしながら後田のスニーカーを探す。出席番号を覚えていないので、右上から順番に見ていった。
キュッキュッと廊下を踏みしめる音が近づいてくる。
「凍雨くん?」
棚を追っていた目が瞬く。
女の声だった。凍雨を下の名前で呼ぶ女性は学校にいない。しかし、凍雨を驚かせたのはその違和感ではなかった。
その声が、遠く記憶を揺さぶる、甘く柔らかい声だったからだ。
彼女が廊下からこちらへ入ってきたようで、靴音が変わる。
「どうしたの? 早く帰った方が良いよ。雨、もっと強くなっちゃうって。」
声が、すぐ横まで近づいてきた。
凍雨はぐっと唇をかみ締めた。振り返る。立っていたのは沙穂だ。肌寒いのか、カーディガンの前をかき合わせている。段差の分、リーチがあるはずなのに、凍雨と目線が並んでいる。
沙穂がいる。目の前に。あの頃と変わらないくりっと丸い目で、自分を見ている。
どうしてここに。どうして今更。
どうしてと、そればかりが頭を巡る。その中の一つがぽろりとこぼれた。
「どうして、名前……。」
「ん? あー、外口くんがそう呼んでたから。」
いつのことだろう。沙穂の前で名前を呼ばれた記憶が凍雨にはない。
沙穂の視線が、凍雨の手元と傘立てにチラッと走る。凍雨の目へ戻って来た。
「傘、ないの?」
「……はい。」
何となく気まずくて、凍雨は斜めに視線を逃がした。視界の端では、沙穂が口元に手を当てて何やら考え込んでいる。やがて、ふいっと顔を上げた。
「先生の傘で良かったら、貸してあげる。」
――これ返さなくて良いから!
目の前の彼女は微笑んでいるのに。焦ったようなあの声がよみがえるのは、差し出される彼女の手が変わらないからだ。
子供が雨にぬれるのは可哀想だと、そう。
受け取る凍雨の心は、あの頃とこんなにも違うのに。
凍雨はふいっと顔を背けた。
グラグラと胸が煮えている。どうして、なんでと沙穂を責めている。
何一つ口に出来ない凍雨を責めている。
今日も沙穂は来ない。
抱いている膝に顔を押しつけて、目からあふれそうになるものを押さえ込む。
「バカ。サホの、バカ。」
今更名前を口にしたって、もうあの人は振り返ってくれない。届かない。
ああ、どうして。一度くらい名前を呼ばなかったんだろう。
どうして。名前を教えてあげなかったんだろう。
どうして。ちゃんとお別れが言えなかったんだろう。
きっと、沙穂は忘れてしまう。名前も知らない子供のことなんて。きっとすぐに。
「あの……。」
先程まで真っ直ぐに飛んできていた沙穂の声が、力なく沈む。
「公園の外で話しかけたから、怒ってるの?」
「え?」
消え入りそうな声だった。それでも、雨音にもかき消されずに確かに聞こえた。思わず沙穂を見る。
振り返った凍雨に、沙穂はビクッと肩を揺らした。本人としては、誰の耳にも届けるつもりのない独り言だったのかもしれない。口元を押さえている。
「今の……。」
「ご、ごめんね。何でもないのっ。傘持ってくるね!」
きゅっと沙穂がきびすを返す。ふるんっとおダンゴが揺れる。
凍雨は逃げていくカーディガンの裾をつかんだ。びんっと布地が張って、沙穂が立ち止まる。
おそるおそる、といった様子で振り返る彼女を、凍雨はぎっとにらんだ。
「僕だって、分かってたの?」
こくり。沙穂がうなずく。
「いつから?」
「……四月に、朝見かけて。」
あいさつ運動の時か。それより前か。どちらにしろ、あの時点で凍雨のことを分かっていたのか。
カーディガンをつかんだままの手に力がこもる。
「それで? 僕が公園の外で話しかけるなって言ったから、律儀に黙ってたの?」
「うん。」
「バカじゃないの。」
「だって、悲鳴あげられたりしたら、今の方が大惨事だよ!?」
沙穂の方が悲鳴のような声をあげた。凍雨は空いている方の手で額を押さえた。何だか頭がぐるぐる回っているようで、頭痛がする。
「怒ってるよ。怒ってたに決まってるでしょ。」
戻って来てたなら、何で教えてくれなかったの。
やっと再会したのに、何でいつも通りなの。
今年も、桜を一緒に見られなかったじゃない。
どうして、他の子ばかり構うの。
どうして、傍に来てくれないの。
四月のあの日からたまっていた文句が、胸の内で暴れている。ぶつける相手は目の前にいる。でも、のどの奥でつかえて、一つも口にすることが出来ない。
一番言いたい、ごめんねの一言も。
代わりにこぼれたのは、弱々しい声だった。
「沙穂のバカ。」
ひゅるひゅると力なく落下する声。それをすくい上げるように、沙穂は凍雨の手を両手で包んだ。へへっと笑う。大人にしては丸みのあるほほに、赤みが差す。
「私のことなんて、覚えてないと思ってた。」
凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。額を押さえていた手を下にずらして、手の甲を目に押しつけた。
***
四限の理科が終わって、ぞろぞろと科学室を出る。
「腹減ったー。」
腹部をさすりながら、たかたかと外口が前を行く。凍雨は前島と並んでその後に続く。階段を駆け上がって、外口が「あ!」と声をあげた。廊下へ身を乗り出す。
沙穂が女子生徒二人と何やら話している。一人がノートを開いて見せているので、授業に関することだろう。
「さーほーちゃーん!」
外口が手を振り駆け出す。沙穂がこちらを振り返る。
びんっ!
「ぐぇっ。」
数歩行って、外口がのけ反った。自身の襟を引っ張りながら、凍雨を振り返る。その目には涙が浮かんでいる。
「何すんだよ凍雨!」
凍雨はきょとりと目を瞬かせた。自分の手が、外口の襟をつかんでいた。
……いつの間に。
横では前島が肩を揺らしている。女子生徒と分かれて、沙穂がこちらに駆けて来る。
「外口くん? 橋場くん? どうしたの?」
くりっとした大きな目に見つめられて、凍雨は外口を放した。外口がけほっとむせる。沙穂は心配そうに眉を寄せて、その背をさすり始める。
む。
「沙穂。」
「先生でしょ。先生。」
沙穂が眉をきゅっとつり上げて、凍雨を見上げる。凍雨は、そのほほをぐにっと引っ張った。大きな目がくるりとさらに丸くなる。
「にゃにするの、ひゃしびゃくん!」
「あっはっはっはっ。急にどうしたの橋場。何したいのお前っ。」
沙穂が非難の声をあげると、とうとう前島が腹を抱えて笑い出した。ここは階段なので、二人の声がよく響く。
前島が何を笑っているのかよく分からないし、自分自身でも何がしたかったのかよく分からない。
「もうっ。何なの!」
手を払った沙穂が、ほほをさすりながら凍雨をにらんでくる。それを見て、なぜか気分が晴れたので、凍雨的にはもう全部解決した。
怒らせて気分が良いなんて、前島が言った通り、自分は沙穂が嫌いなのかもしれない。そういうことにしておこう。
END
小さい頃のことなんて、ぼんやりとしか覚えていない。思い出そうとしても、よぎるのはアルバムに収められた大人の視点ばかりだ。
バレリーナになるって言ったらしい。
ケーキ屋になるって言ったらしい。
ブルーホークになるって言ったらしい。
叔父と結婚するって言ったらしい。
懐かしいと、みんな度々口にするけれど、私は全く覚えていない。
君も、今日を忘れるのかな。
その小さな頭で、たくさんたくさん考えたこと、全部こぼれていってしまうのかな。
その大きな目で、たくさんたくさん見つけたもの、全部見えなくなってしまうのかな。
それを寂しいと思うから、大人は話したがるのかな。
***
風が、冷たさをほほに吹きつけた。交差点に立っていた、10代半ばの少女が、コートの上から自身を抱き締めて体を縮める。なかなか青に変わってくれない信号をにらみながら、マフラーを鼻先まで引き上げる。片手に紙袋がなければ、手をすり合わせていたかもしれない。髪の合間からのぞいている耳が赤くなっている。
信号に浮かぶシルエットがようやく歩き出したのを見て、少女も白と黒のしま模様へ躍り出た。この道路を越えれば、もう少しだ。
かわいい顔を思い出して、足取りが軽くなる。
少女の家と母の実家との距離は、電車で二駅。普段から頻繁に遊びに行っているが、毎年正月は親子三人で泊まりに行っている。祖父の人徳か、年始に客の多い家なので、正月の準備を母が手伝うためでもあった。
クリスマス後、ツリーを片付けるついでに大掃除を仕上げ、終わり次第母子で実家に移る。父は仕事を終えて合流。というのが、毎年の恒例である。
しかし、今年はちょっとしたアクシデントが起きた。転んだ拍子に祖母が腕を痛めてしまったのだ。幸い大事には至らなかったが、今年は祖母にご自愛いただこう、ということで少女、咲耶花が実家の大掃除に参加することになった。
先週の土日にも少し手伝って、高校が冬休みに入った今日、再び向かっている。
母の実家は、祖父が営んでいる自転車屋と隣接していて、叔父もそこで働いている。パンク修理もメンテナンスも面倒を見てくれる、町の自転車屋さん。近所の中学生は、通学用の自転車をここで買う。
最寄り駅から向かうと店の前を通る。あいさつがてら、咲耶花は中をのぞき込んだ。
休暇か休憩か、祖父の姿はない。奥の展示の方に大学生くらいの男性がいて、その人を案内していた叔父が、咲耶花に気がついた。大きな手をひらっと振る。咲耶花も振り返した。
道を曲がって、庭に入る。ジャリジャリ玉砂利を踏んで玄関へ。チャイムを鳴らすとすぐに叔母が出てきた。掃除の途中だったようで、いつも下ろしている髪を後ろでまとめている。
「サヤカちゃん、いらっしゃい。」
「お邪魔します叔母さん。これ、お父さんから。」
「いつものね。お義父さんが喜ぶわ。」
紙袋を渡すと、さっそく祖父に見せに行くのか、にこにこしながら叔母が廊下の奥に向かった。咲耶花は手洗いうがいのため洗面所に寄ると、手を拭くのもそこそこに急いで叔母の背を追った。
天気が良いからだろう、外の光がぼんやりと部屋を渡って、廊下に障子の影を落としている。その影を叔母が踏むか踏まないか、という瞬間、パシンっと強い音をたてて障子が開いた。障子を押さえる手だけでなく、足も肩幅に開いた大の字で立っていたのは、7歳になったばかりの少年だった。
「こら、ミツキ!」
その姿を認めて、叔母が声を飛ばす。丸みのある幼い顔が上がって、大きなつり目がキッと叔母をにらんだ。その目が、後ろに咲耶花を見つけて見開かれる。
咲耶花は、少年、魅月へひらひらと手を振った。
いつもの彼なら、ぱっと顔を輝かせて駆け寄って来てくれる。昨日もらったクリスマスプレゼントの報告もしてくれるだろう。いつもなら。
彼は、きゅっと唇を引き結ぶと顔を伏せた。叔母を突き飛ばすようにして二人とすれ違い、逃げて行ってしまう。どたどたと乱暴に階段を上って行く音がここまで響く。
「え……。」
咲耶花はぽかんとその小さな背を見送った。叔母も驚いたようで、目をぱちぱちと瞬かせている。はっと、我に返って部屋の中をのぞき込んだ。
「お義父さん、どうしたんですか? ミツキ、何かしました?」
畳敷きの部屋の中、テレビの前で祖父があぐらをかいていた。座布団が一つテレビ台にぶつかって曲がっている。画面には、少し前にやっていた戦隊ヒーローが映っている。祖父がリモコンを取ると、合体ロボがポーズを取ったまま停止し、厳つい刑事が顔をしかめている絵に変わった。祖父はポリポリとほほをかいている。
「いやぁ、テレビ見ながら話してただけなんだが。急に怒りだしてなぁ。」
「おじいちゃん、また先の話しちゃったんじゃないの?」
「しとらん。これ、一度ミツキが見とったやつだぞ。」
弁明してから咲耶花に気がつき、祖父がぱっと笑った。手招きする。
「おお、サヤカ。せっかく来たのに帰りおって。じじい不幸者め。」
「学校まだあったんだもん。仕方ないじゃん。」
「俺やミツキより学校が大事なのか。だからミツキが怒ったんだ。」
「ミツキは、今おじいちゃんが怒らせたんでしょ。」
咲耶花は座布団を拾い上げた。孫その2にフラれた祖父を慰めるため、膨れながらも隣に座る。何かあったかいもの作ってきますね、と叔母が台所へ向かった。
***
深見咲耶花は、母方の祖父母の初孫で、10年間一族の末っ子だった。
母の弟である叔父は、物心ついた時からずっと咲耶花の”お兄ちゃん”だった。膝に乗せてもらう権利も、肩車してもらう権利も、自分だけのものだと思い込んでいた。
だから、赤ちゃんのお父さんになってしまった時はとてもショックだった。しかも、初めて会ったイトコは、何だかよく分からない生き物だった。頭が小さくて、それよりもっと体が小さくて、赤くってシワシワしていた。
赤ちゃんって、もっとふっくらしてるんじゃないの? これ本当に人間?
困惑を通り過ぎておびえる咲耶花を置いて、大人達は魅月を囲んで笑っていた。
次に会った時、魅月はもちもちふっくらに進化していた。「赤ちゃんだ……。」と当たり前のことをつぶやくと、ツボにはまったらしく、父が涙が出るほど笑っていた。
ぷにぷにでかわいくなったけれど、それでも咲耶花は魅月が嫌いだった。叔父も叔母も、赤ちゃんのものになってしまった。大好きだった祖父母の家にいても、自分がみんなの端っこに除けられてしまったような心地がした。
けれど、魅月が歩き始めると、そんな気持ちはどこかに行ってしまった。家族総出のお出掛けでは、咲耶花がいつも魅月の手を引いた。自分より高い体温に、一人っ子だった自分にも弟が出来たのだと、うれしくなった。
咲耶花が魅月を構うほど、彼も咲耶花を好いてくれた。
咲耶花が座っていると、自分で膝に乗り上げた。お煎餅をあげると、咲耶花自身の真似なのか、口に押し込もうとしてきた。
言葉を覚えると、あれがイヤ、これがイヤと繰り返すようになった。服を選ぶのも、靴を履くのも、自分でやりたがるようになって、大人の手から逃げた。それでも、出掛ける時に咲耶花が手を差し出すと、ちゃんと握り返してくれた。
ある二月の夜、叔母から電話がかかってきた。叔母はすぐに魅月と替わった。彼の第一声は「チョコ!」だった。行ったり来たりする話をまとめると、咲耶花は魅月にチョコレートを渡さないといけないのだ、ということだった。幼稚園でバレンタインデーの存在を知り、いてもたってもいられなくなったらしい。
中学卒業と同時に、咲耶花の友人に彼氏が出来た。話題の半分くらいが彼氏のことになったうえに、遊ぶ頻度が減った。単純な寂しさと、置いてけぼりにされたような悔しさがあった。居間の畳に懐いてぐだぐだ愚痴っていると、小さな手が頭をなでてくれた。「オレがずっと、あそんでやる。」と男らしい宣言を頂いたので、公園に繰り出した。
魅月は牛乳が苦手だった。ある週末、夕食をごちそうになった後、咲耶花が魅月とくつろいでいると、テレビで歌番組が始まった。デビューしたばかりのアイドルがバク転を披露している。咲耶花はその迫力に驚いた。「あの人、脚が長くてかっこいいね。」次の日から、魅月は頑張って牛乳を飲むようになっていた。
そんな素直でかわいい魅月が。魅月が自分を無視して逃げて行った。
先程は、いったい何事かという衝撃の方が強かった。改めて思い返すと、急に心にダメージが入った。
手に力が入らなくなって、握っていた新聞紙が、ずりぃーっと窓ガラスを滑った。いやいや、と頭を振り、力を込めて窓を磨く。
大丈夫。祖父とケンカして虫の居所が悪かっただけだ。自分だって小学生の頃は、友達とケンカをすると両親の前でもぶすくれていた。
だから、クールタイムを挟めば、魅月はいつも通りのはずだ。今は任務を完遂するのだ。
***
途中におやつ休憩を挟みながらも、家中の窓をピカピカに磨き上げ、夜。ツヤツヤほかほかの白いご飯と、醤油の匂い香ばしい生姜焼きを囲んだ夕食。
魅月は、いつも通り咲耶花の隣に座った。しかし、つーんとした態度で誰とも目を合わせない。ご飯と豚肉、千切りキャベツを黙々と口に詰め込んでいる。
おやつをもらったハムスターのようだ。
「ごそさま!」
彼は自分の皿を空にすると巣穴、ではなく自室のある二階へと帰ってしまった。叔父がため息をつく。
「サヤカぁ、お前今度は何言ったの?」
「私っ!? 私じゃないよ、おじいちゃんだよ!」
叔母や祖母の話を聞くに、午前中の魅月は実に良い子で、クリスマスツリーの片付けを手伝ったという。それが祖父とのビデオ鑑賞を飛び出してからこの態度なのだから、真っ先に咲耶花に理由を求めるのはおかしい。
叔父の目が、ぽりぽりとピーナッツを食べている祖父に向く。
「親父、何言ったんだよ?」
「普通に話してただけだ。ほら、一緒に何とかファイブを見とったら、記念回だか何とかで、昔サヤカが好きだったのが映ったんだ。」
「ちょっと。」
嫌な予感に、咲耶花は思わず声をあげた。もちろん、ここで遮ったって祖父が昼間こぼした言葉を回収することは出来ない。
「懐かしかったんでな、サヤカがこの青いのが好きだったって話しただけだ。」
「そ、それだけ?」
それなら特に問題はない。ほっと胸をなで下ろす。
「ああ。いっつも、咲耶花が青いタオルを首に巻いて遊んでたって。」
「ぐぅ……っ!」
「あら、懐かしいわねぇ。」
咲耶花がうなる横で、祖母がのほほんと笑みを浮かべる。叔母が続いた。
「ブルーホークね。私はホワイトピジョンやらされたわねー。」
「遊ぶ度に、咲耶花にタオルケット巻かれてたわねぇ。」
「そうなんですよ。でもあれ、すぐ外れちゃうし動きにくかったんで、私、ここにお邪魔する時はカバンに白いポンチョ入れるようになりました。」
「ああ。そういえば、いつの間にか。」
「実家に置いて来ちゃったんですよね。まだあるかしら。」
「今やってるののピンクの子も、似たような服着てるねぇ。」
「サヤカちゃん、着る?」
「着ません。」
話題がぐりっと返ってきたので、咲耶花は直ぐさま首を横に振った。顔を隠すようにうつむく。まだ両親がいなくて良かったと思う。あの二人も加われば、大人達は延々と咲耶花の歴史を語っただろう。
覚えていることを語られるのは気分が悪い。自分は何でそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、恥ずかしく思ったりする。
覚えていないことを語られるのは居心地が悪い。自分は本当にそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、疑わしく思ったりする。
アルバムにたくさん残った写真と、叔父と叔母が大好きだった自分の気持ちから、逃れようのない事実なのだろうと観念している。魅月の目に入る前に、あれらの写真をどこか奥深くに封印するのが咲耶花の目下の野望である。
撃沈しながら咲耶花が決意を強くしていると、叔父が再び口を開いた。
「したのはその話だけ? サヤカの話だけ?」
「その頃の話を他にもした気がするが、まあ、サヤカの話だったな。」
祖父がうなずくと、叔父が顔をしかめた。次の黒歴史が掘り返される前にこの場を去ろうと、咲耶花は小鉢のほうれん草をせっせっと口に運んでいた。叔父の顔を見て、首をかしげる。叔父の目がこちらに向いた。
「やっぱ、サヤカが何か言った?」
「言ってないよ。こっち来てすぐあれだったもん。」
最後の一口を飲み込む。咲耶花はお茶のグラスも空にすると、自分の食器と魅月が残した食器を重ねた。グッと足に力を入れて、イスを押しながら立ち上がる。
「まじかー。じゃあ別件か?」
「何かあったの?」
叔父ががしがしと頭をかく。祖母のグラスにお茶を注いでいた叔母が、叔父の顔を伺う。その後ろを回って、咲耶花はシンクへ皿を運んだ。
「さっき、店の前をミツキが通ってなぁ。……大嫌いって言われた。」
「え。何を?」
声に出した叔母だけでなく、咲耶花も祖父母も不思議そうに叔父を見やった。固いピーナッツをかんだように、叔父は顔をゆがめていた。
「俺を。」
「えぇっ!?」
「それは悲しいわねぇ。」
声をあげたのは咲耶花だ。持ったままだった皿がすれてガチャリと音をたてた。祖母はグラスを軽く傾けたまま、眉をハの字にしている。
魅月は、言葉にはしないが父親が大好きなはずだ。
幼稚園の頃に描いた”将来の夢”だって、描かれていたのは自転車とスパナを持った魅月の姿だった。あの自転車は持ち上げていたのか、ただ手の近くに描いてあったのか、未だに判別がつかない。その横には、叔父と祖父がいた。三人とも、首にタオルを掛けて、手袋をして、にこにこ笑っていた。
彼は真っ直ぐに父親の背中を追っていたはずなのに。
「急にどうしたのかしら。」
叔母も不思議そうだ。叔父が悲しそうにうめいた。
「うぅ。てっきりサヤカが、ファザコンの男はないわ、とでも言ったのかと思ったのに。」
「いったいどういう話の流れでそうなるのよ。」
咲耶花はやっとシンクへ皿を置いた。蛇口から細く水を出して手を洗う。
「父ちゃん何かしたか? って聞いても、そのまま走ってっちゃってな。サヤカぁ、理由聞いてきてくれよぉ。」
「うーん。」
流し下のタオルで手を拭いながら、首をひねる。自分も現在進行形で無視されているのだけれど。怒りの対象が叔父ならば、落ち着いてきたところで口をきいてくれるだろうか。
「まあ、聞けたらね。ごちそうさまでしたー。」
大人達に頭を下げて、咲耶花はダイニングを出た。
***
ケータイの画面の中には、一筆書きの角張ったハート。指で真ん中をつつっとなぞると線が引かれて、ハートが二分される。
それで、えーと、次はどこを切れば良いんだ。
三人掛けのソファに、咲耶花が仰向けに転がっている。片側の肘掛けにフカフカとした厚みのあるクッションを立てかけ、それに頭を預ける。伸ばした脚が交差していた。つま先がリズムを取るようにぷらぷら揺れる。
父が見れば、だらしがないと叱るだろうが、生憎来るのはまだ先だ。応接用の豪奢なソファとマーブル模様のテーブルも、年明けまで仕事の予定はない。
ここは小さい頃からのお気に入りの場所。家族はみんな心得ているので、入浴の順番が回ってくれば、呼びに来てくれる。
ぎゅっと眉を寄せて、手の中の画面をにらむ。迷いを体現するように、右手の人差し指がくるくる回る。夢中になり過ぎていた。敵の接近に気がつかぬほどに。
どすんっと腹部に重みが掛かった。驚きに緊張した咲耶花の体が、スプリングの反動でぐらぐら揺れた。中途半端に浮かせた自分の腕の間から、咲耶花は相手の姿を認める。くの字に曲がってソファに沈んだ咲耶花の腰に、魅月が伏せるようにしがみついていた。
押しつけられたほほと、シャツを握る手から、ぽかぽかといつもより高い体温が伝わってくる。着ているのはパジャマだ。水色の地に、丸っこい自動車があちこち走っている。
魅月が風呂から上がったのなら、そろそろ咲耶花の番のはずだが、呼びに来たにしては様子がおかしい。口をききたくないから、タックルしたのだろうか。
画面を見ると、先程の弾みで触れたのだろう、変なところに線が引かれていた。やり直しボタンを押して、一つ前の手順に戻す。魅月の、まだ湿っぽい頭をなでた。動く気配がない。咲耶花が上半身を起こすと、小さな手にぎゅうっとさらに力が込められた。
咲耶花はわざと唇をとがらせた。
「ちょっとー。お姉ちゃん、立てないでしょー?」
魅月は、不満があればすぐ言う子だ。それでも要望が通らなければ、じぃっとにらんでくる。今日は、最初の驚いた目を見て以降、全然目が合わない。
「いったいどうしちゃったの。ちゃんと言葉にしてくれないと、お姉ちゃんもパパも分からないよ。」
パパ、という言葉に魅月の頭がかすかに揺れる。しばらく待つが、反応がない。咲耶花は、ケータイをテーブルの上に伏せた。
「とーちゃんなんて、だいっきらいだ。」
ぽつりと、小さな声が落とされた。不満そうな響きは、前髪の奥にぶすくれた顔を想像させる。
「そう? じゃあ、お姉ちゃんがパパもらっちゃおうかな。」
咲耶花のからかいに、ぱっと魅月の顔が上がった。ぎゅうっと口をへの字に曲げていた。眉にも、まぶたにも、顔の全体に力が込められている。
アルバムの中で、自分も同じ顔をしていた。赤ん坊の魅月と、それを抱いた叔父の隣で。
ぐぐっと眉を寄せたまま、魅月が再び口を開いた。
「とーちゃんは、すいようび、ずっとごろごろしてるぞ。」
叔父と祖父は交代で休みを取っているが、水曜日は店の定休日だ。部品など何かの取り引きがなければ、祖父は祖母を連れて買い物に行く。
「そうだね、お休みだもんね。」
咲耶花がうなずくと、魅月はさらに眉を寄せた。眉間にしわが刻まれている。
「よる、かーちゃんにかくれて、ラーメンたべてたっ。」
「おにぎり食べてたこともあるよ。」
「ビールのむと、うざい!」
「それはうちのお母さんも一緒だねー。」
なぜ急に父親のネガキャンを始めたのだろう。不思議に思いながらも、取りあえず思いつくまま咲耶花は打ち返す。
指先が白くなるほど力を込めて、魅月がぎゅうぎゅうとシャツを引っ張った。
「オレらと やすみちがうから、けっこんしても、いっしょに でかけらんないぞ!」
「結婚?」
内容が急に変な方向に曲がった。受けきれず、ついオウム返しになってしまう。咲耶花が眉をひそめたからだろう、反対に、ぱっと魅月の顔が明るくなる。
「そう! とーちゃんと、けっこんしないほうがいい!」
「ひどいこと言うなぁ。」
苦笑する。叔母が聞いたらどう思うのやら。案外けらけら笑うのだろうか。
「パパにはママがいるでしょ。他の人と結婚したりしないよ。」
一体全体、どこからそんな心配が持ち上がってきたのやら。
魅月の勢いが削がれる。しゅんっと眉尻が下がる。
「でも、じーちゃんが……。」
「おじいちゃん?」
「……ねーちゃんは、とーちゃんがすきだって。」
咲耶花はぱちぱちと目を瞬かせた。
確かに、叔父のことは好きだ。父や母と同じくらい。だって、本当にたくさんたくさん遊んでもらったのだ。
幼い頃の記憶にはいつも叔父がいる。シマウマに餌を握ったまま渡したために、手をはまれた時も。子供用のジェットコースターに何回も乗りたがって、大人達をグロッキーにさせた時も。
そこまで思いを巡らせて、咲耶花はふと思い出した。大人達が一二を争うほど繰り返す、あのエピソードを。
「もしかして、私が叔父さんと結婚するって言った話?」
魅月がまた唇を引き結んだ。くっつきそうな程眉を寄せて、じぃーっと咲耶花を見つめている。真実を見透かそうとしている。
真剣なその目を見つめ返しているうちに、咲耶花の口元が緩んだ。ぶふっと息がもれる。大きなつり目がぱちりと瞬く。それをのぞき込みながら、咲耶花は口を手で覆った。
「やだ、真に受けたの? それで、お姉ちゃんが本当にパパを取っちゃうと思ったんだ?」
笑っちゃいけないと思うのに、抑えられない。くくくっと肩が揺れた。
「それね、小さい頃の話だよ。ミツキが生まれるずーっと前。ふふっ。本当に好きだったわけないじゃない。まだ5歳だったんだから。」
つり目が大きく見開かれる。それまで不思議そうにしていた幼い顔が強張った。唇も、ほほも、握ったままの手も、微動だにしないなか、瞳だけが揺れている。
「ミツキ?」
咲耶花の指先が、ふっくらした手の甲に触れる。
ぱっと、膝に掛かっていた重みがなくなる。魅月が身を離したのだ。小さく薄い体がひるがえったと思ったら、ぼすんっと胸元に何かぶつけられた。
「ねーちゃんのバカ!」
転げるように膝の上に落ちたのは、クッションだった。ソファの反対側に寄せらていたもので、ネコのシルエットが刺繍されている。魅月はもう一つ手に取ると、それを振りかぶった。
「こら! やめなさいミツキ!」
開いていたドアから叔母が駆け込んでくる。魅月の腕をつかもうとするが、彼はひらりとかわした。クッションが床に落ちる。
「バーカバーカ! かーちゃんもバーカ!」
捨て台詞を残して、魅月は廊下へ飛び出した。足音が遠ざかり、ドカドカと階段を上がる音に変わる。叔母は追いかけようと一度ドアから身を乗り出したが、放心している咲耶花を振り返って留まった。駆け寄って、ソファの傍らに膝をつく。
「サヤカちゃん? 大丈夫?」
「ああ、うん。」
「ごめんね。後でよく叱っておくから。」
「ううん。私が悪いの。なんか、怒らせちゃったみたいで。」
「怒ったからって、お姉ちゃんに物をぶつけて良い理由にはならないわ。本当にごめんね。」
申し訳なさそうに眉を八の字にする叔母に、こちらも申し訳ない気持ちになる。咲耶花が頭を下げると、叔母はバスタオルを渡してくれた。
「よくあったまってくるのよ。」
風呂から上がった後、部屋の前まで行って中に呼びかけてみたが、イトコは返事をしてくれなかった。
***
次の日、渋い顔をした魅月が、叔母によって朝食の席に連れてこられた。昨日と同じく、黙々と食事を口に運ぶ。
大人達は普段と変わりなく朝食を食べているが、咲耶花は居心地の悪さを感じていた。
昨日のケンカは、咲耶花が悪い。多分。だから、謝るべきだ。しかし、何がいけなかったのかが咲耶花には分からない。笑ったことがいけなかったのかと、寝る前に謝ってみたが、不正解だったようだ。
答えが出る前に完食し、咲耶花は皿を片付け始めた。
***
お昼過ぎに母がやって来た。おやつに食べようと、焼いてきたのだろうチーズタルトを叔母に渡している。娘に会うなり、視線を腰辺りに下げた。
「あれ、みぃ君は?」
そこにいて当然、という母の態度に叔母が笑いをかみ殺している。
「ミツキはちょっと、ご機嫌斜めなんです。」
「やだ、サヤカ。何したのよ。」
「ノータイムで私を疑わないでよ。」
「あんたが原因じゃなかったら、あんたに張り付いてるでしょうよ。」
……自分もよく、両親に怒られては叔父や叔母に張り付いていたので、否定できない。
咲耶花は口をへの字に曲げると、ダイニングから続いている居間へ移った。お茶を飲んでいる祖母の隣に座ると、咲耶花の分も入れてくれた。叔父と祖父は、今日は店で自転車や工具の整理をしている。
湯呑みへ息を吹き込んで、若葉色の水面を揺らす。母が向かいに座った。半眼でこちらをにらんでいる。咲耶花は湯呑みごと両手を胸へ引き寄せた。
「なに?」
「サヤカが悪い。」
「はぁ?」
言われなくてもそんなことは分かっているが、急になんだ。ダイニングへ目を向けると、両手を合わせた叔母が小首をかしげた。話したのか、というか昨日のを聞いていたのか。
祖母が母にもお茶を入れる。行儀悪く頰づえをついたまま、母がそれをすする。
「小さい頃のあんたは本気で、結婚するって言ってたと思うわよ。」
「えー。」
叔父と? 今では考えられない。そもそも出来ないが。
籠に積んであったミカンを母が手に取る。小ぶりで平べったい、おいしそうなやつだ。
「まあ、問題はそこではなくて。あんたはもう少し、みぃ君の気持ちを考えるべきだったわよ。」
「ミツキの気持ち?」
聞き返す咲耶花を見る目がいささか冷たい。使う公式を教えてもらっても、答えを出せないやつを見る目に似ている。
母はミカンを一房口に入れようとして、大きな筋が気になったのか、指で摘まんでピーッとむいた。細かいものはそのままにして、ぽいっと口に入れる。
「……あの子はずぅーっと、あんたのこと好きだって言ってるじゃない。幼稚園に入ったばっかりの頃から。」
バレンタインデーに、ココアクッキーを焼いた。大小2種類のハート型に抜いて。100円ショップで買った白と赤のかわいい袋に、ピンクのリボンを結んだ。
男の子なのだから嫌がるのではないかと、渡す直前に気がついた。
魅月は受け取った。まあるいほほを赤く染めて、「ありがとう。」とはにかんだ。彼は5歳になったばかり。青いタオルを巻いていた咲耶花と同じ歳。
「本人は、至って本気で言ってるのよ。」
くっついた三房のミカンを、母はそのまま口に放り込んだ。
***
小さい頃の自分は、あれになる、これになると毎日の様に宣言していた。
お母さんが大好きなチーズケーキ、いっぱい食べさせてあげたいなぁ。そうだ!
「サヤカ、ケーキやさんになる!」
お父さんを困らせる部長さんは、きっと悪者に違いない。やっつけなきゃ。そうだ!
「サヤカ、ブルーホークになる!」
叔父さんともっと遊びたいなぁ。もっと一緒にいられたら良いなぁ。そうだ!
「サヤカ、おじちゃんとけっこんする!」
どんどん増える、なりたいもの、やりたいこと。
幼い言動を振り回していたものは、何だったろう。恥ずかしい過去だと、逃げ回っているうちに失ってしまった。
***
仲直りは早いうちに。小学生の時学んだ教訓だ。
玄関を確認すると、小さな赤いスニーカーがかかとをこちらに向けて並んでいた。今日は家にいるようだ。咲耶花は二階に上がった。並んだドアの、手前のものの前に立つ。
「ミツキ?」
返答はない。聞こえていた電子音が止まった。カラカラっという軽い音は、イスの脚のタイヤだ。
居留守や立てこもりなど無意味である。この家で鍵がかかる個室は、トイレと風呂場だけだ。
「入るよー?」
無駄な疑問形で声をかけ、ドアを開ける。
正面に勉強机があった。メニュー画面にしただけのゲーム機が放り出されている。横のカラーボックスに本が並び、その上にランドセルが寝そべっている。右に寄せられたベッドは、起きた時のままシーツが乱れている。反対側のクローゼットの横、蓋のない箱が並んでいて、その中におもちゃが押し込まれていた。上にでんとボールが乗っている。
一見すると誰もいないように見える。が、イスの奥、机の下の影から、靴下に包まれた小さな足がのぞいているのを見逃す者はいないだろう。オオカミだって見つけるはずだ。
咲耶花は部屋の中に入ると、カラーボックスの前に座った。ドアの方、魅月と同じ方向を向く。あのね、と声をかける。
「大きくなるとね、好きの形が違う形で見えてくるんだよ。お母さんを好きな気持ちと、友達を好きな気持ちは違う形をしてるんだ。結婚相手への好きもね。」
上級生に憧れを抱いたことこそあるが、咲耶花はまだ恋愛をしたことがない。だから、本当のところは分からない。でも、家族間ですら、両親を想う気持ちと魅月を想う気持ちは違うのだから、そうだと思う。
「叔父さんを好きな気持ちは、お母さんを好きな気持ちと同じ形なんだ。恋人の好きじゃなかった。それでも、本当に好きだったのは確かなのに。思ってた形と違うから本当じゃなかったなんて、おかしいよね。ごめんね。」
咲耶花はとんっとボックスに背を預けた。こぼれそうになったため息を飲み込む。
「ずぅーっとさ、ちっちゃい頃の私ってバカだなぁって思ってたけど、今でも充分おバカだったね、私。」
魅月を馬鹿にしたつもりなんてなかったし、慕ってくれる気持ちを軽んじたつもりもなかった。そのつもりなしにやらかしたのだから、余計に質が悪いと自分でも思う。
もしかしたら、このまま一生許されないかも。一抹の不安が胸をよぎる。
咲耶花が口を閉ざすと、部屋に沈黙が降りた。
ごそごそと布ずれの音がして、まず机の前のイスが押しやられた。続いて、ぴょこっと小さな頭が飛び出る。両手をついた体勢で、魅月が顔を上げる。きゅっとつり上がった目が、咲耶花の顔をのぞき込んだ。
「じゃあ、いまも……とーちゃんのこと、すき?」
「……気になるのはそこなの?」
昔の好きイコール本当の好きとしか伝わっていないのだろうか。
思わず苦笑をこぼすと、むっと魅月が唇を引き結んだ。
このままでは、また叔父がかわいい愛息子から大嫌いと言われてしまう。
咲耶花は、ぽんぽんと魅月の頭をなでた。
「今は、ミツキが一番好きだよ。」
今の自分がもし、何かになりたいと、そう強く思うのなら、きっとこの子が理由だ。
小さな唇にぐぐっと力がこもる。まあるいほほがじわじわと赤くなる。魅月は咲耶花の手をぺいっと払うと、再び机の下に引っ込んだ。
「……オレも……きらいじゃないし。」
「うん、ありがと。」
ぽそぽそと小さな声が聞こえる。もう一度、頭をなでたいと思ったが、これ以上突くと出てこなくなりそうなので我慢する。
咲耶花は立ち上がると、ベッドの枕元に置かれた時計を見た。丸っこいそれは、白黒を組み合わせたサッカーボールを模してある。
「おやつにしようよ。お母さんがチーズタルト作ったからさ。」
「ん。」
咲耶花が戸口に立つと、ぱたたっと小さく、階段を降りて行く音がした。廊下に出てすぐ、咲耶花は下をのぞき込む。逃げて行く誰かさんの足を見た。
また立ち聞きか、似た者夫婦め。いや、きっと心配してくれたのだろう。そういうことにしておく。
***
小学一年生の時の記憶も、咲耶花にはもう遠く、ほとんどのことはぼやけている。
10年後、魅月はこのケンカを覚えているだろうか。
すっかり忘れていて、何だその話は、と困惑するだろうか。
うっすら覚えていて、それ以上はやめろ、と怒るだろうか。
居間に入ると、座卓についた叔父がニヤニヤしていた。皿に乗っているチーズタルトを喜んでいるわけではない。咲耶花はため息をついた。
その横を魅月がすり抜ける。叔父の前に立った。腰に両手を当てて、ふんぞり返る。
「ねーちゃんは、とーちゃんより オレのほうがすきだって!!」
母と叔母が笑いを耐えているのが、視界の端に映る。
かわいい魅月。
そのかわいさを、お姉ちゃんは一生忘れられそうにありません。
できるだけ吹聴しないよう気をつけるので、どうか許してください。
END