歩きながら食べるのは鈴には難しいし、何より転んだ時に危ない。一馬は道の端の縁石に腰かけて、隣に座る鈴がチョコクレープと戦っているのを見守っていた。といっても、半分はすでに一馬が引き取っているので、鈴は優勢である。
次はしょっぱいものを食べたがるだろうか。いや、向こうにあるスーパーボールすくいをやりたがるだろうか。視線をちょっと鈴から外し、並ぶ屋台を追う。
「ごちそうさま!」
空っぽになった包みを見せる手も、なぜか誇らしげな顔もベタベタとクリームが付いてしまっている。一馬は出掛けに渡されたウェットティッシュで、それらを奇麗に拭ってやった。包みと一緒に、辺りに設置されているゴミ箱へ捨てる。
手をつなぎ直して人波へ戻る。鈴が屋台の一つを指差す。
「わたあめっ!」
「ん、食べる?」
「んーんっ。いまじゃないの。わたあめおっきいから、おとうさんとおかあさんとたべる。」
「じゃあ、帰る時に買おうな。」
「うんっ。」
こくりっとうなずく鈴に微笑んで、先へ促す。
「飛野君?」
声と共に横から誰かが進み出てきた。聞き慣れない声だったが、呼ばれたからには無視する訳にもいかず、立ち止まる。
深い青の浴衣に黄色の帯、クセのない黒髪は肩で切りそろえられている。少女は一馬の顔を真っ直ぐ見つめて、もう一度「飛野君。」と呼んだ。しかし、一馬には相手が同い年くらいであることしか分からない。鈴が両手でぎゅうっと一馬の手を握った。
少女は驚きに目を見張って、でもうれしそうに正面に立つ。
「久しぶり。来れないって聞いてたのに。」
どうにも正確に情報が伝わっていないようだが、一馬が友人の誘いを蹴ったことが、どうして知らない少女に伝わっているのだろう。考え込みそうになって思い出す。あの誘いには「女子も来るから来い」という一文があった。この少女はその女子の一人か。
押し黙る一馬を、驚いていると判断したらしい、少女は慌てた様子で言葉を重ねる。
「三年ぶりだよね。知ってるかな、ナホと寺島君が同じ高校なんだよ。それでね、寺島君達とお祭り行くからって、ナホが私も誘ってくれたんだ。」
寺島は友人の一人で、祭りに行こうと今回最初に言い出した奴だ。ナホというのは、彼の話によく出てくる高木の下の名前だったはずだ。この交友関係から見て、少女は中学の時のクラスメイトなのだろう。見覚えがあるような気がしてくるが、やっぱり思い出せない。
「あのね、良かったら……」
照れ隠しにうつむいて、そこでようやく少女は一馬に連れがいることに気がついた。大きな目にじぃっと見つめられて、あ、と息を飲む。言葉が空く。自分の勘違いを取り繕おうと、瞳が泳ぐ。
「……あの、待ち合わせ、すぐそこで、その、妹さん、一緒でも良いと思うし、飛野君も……」
「いや、俺は」
遠慮するよ。続けるはずだった言葉がするりと抜け落ちた。
片手を捕まえていた熱が、すっと離れたからだ。途切れた一馬の思考に悲鳴のような声が被さる。
「かえる!」
声に釣られて見下ろすと、大きな目に涙の膜が張っていた。真っ赤になった顔で、大きく息を吸って、鈴は叫ぶ。
「わたし、かえる! さきにかえるから!」
白い袖と赤いひれがふわっと翻った。鈴が来た方へと駆けて行く。
「はっ? おいっスズ!」
小さな白と赤はあっという間に人波に沈んでしまう。ほうけている推定元クラスメイトのことなんて構っていられない。一馬も慌てて駆けだした。
日の傾いた道を泳ぐ白を、必死で追う。屋台が途切れる区画で、鈴は横切った男性の足に自身の足を引っかけて、べしゃっと転んだ。自分のせいかとうろたえる男性に、追いついた一馬がすみません、と頭を下げる。鈴を抱き上げて立たせた。
「ほら、スズ。人の多いとこで走っちゃダメだって、おばさんも言ってたろ。」
「ごめんなさいぃ……。」
痛みのためか、他の理由か、ぼろぼろと涙がこぼれていく。
「俺にじゃないだろ。」
ため息混じりに指摘すると、しゃがんだ一馬の肩を支えに、鈴は男性を振り返った。
「ごめんなさい……っ。」
「いやいや、こっちこそごめんね。」
男性は恐縮した様子で連れの女性と逃げて行く。女性の方は心配そうにチラチラとこちらを振り返っていた。
一馬は正面からケガの有無を確かめると、パタパタと土ぼこりを払った。髪飾りが落ちているのを見つけて、拾いあげる。ひっくひっくとしゃくりあげる鈴の手を引いて、道の脇に避難する。
再びしゃがんで、目元を擦る小さな両手を捕まえた。
「びっくりしたぞ。急にどうしたんだ。」
手で顔を隠せなくなった鈴は、ぐっと唇を引き結んでうつむいた。まあるいほほを、涙が後から後から伝っていく。
一馬はため息をついて、落ちてきている前髪を髪飾りで留めてやった。さっきと位置が変わったが、まあ良いだろう。
「怒んないから、言ってみ。」
鈴が手をぎゅうっと握りしめる。
「ほん、とは……スズはおかあさんと、いこうって……おかあさんが……。カズにい、おともだちといっしょって……。そっちのが、いいって……。カズにい、もうおっきいのに、かぞく、で、いくの、おかしいって……っ。」
懸命に言葉を紡ぐのに、のどが引きつって度々途切れる。話し切ったのか、堪えられなくなったのか、ひぃぐっと大きく声を跳ね上げて、鈴は取り戻した両手で口を塞いだ。
鈴の手を引いて外遊びに連れ出した回数は数え切れない。お使いにだって行った。二人きりのお出掛けなんて珍しくもないのに、兄貴分と祭りに行くのを「デート」と称すなんて、女の子らしいおませだと思っていた。
一馬を友人達に譲りたくなくて、誰にも文句を言われたくなくて、考えついたのが、家族ではなく恋人としてデートに行くことだったのだろう。
そうして武装した幼い乙女心は、少女の登場と発言で挫けてしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙混じりで小さく繰り返される。一馬はぐりぐりと鈴の頭をなでた。
「何を謝ってんだよ。」
「カズにい、いっしょ、わがままいった。おともだち、まってたのに。」
鈴の涙は止まらない。一馬が思っている以上に、鈴の両親は一馬が鈴に時間を割いていることを気にしていたのか。一馬が知らない所で鈴は注意されていたのかもしれない。
一馬は指で涙を拭おうとして、拭い切れないなと、ポケットからウェットティッシュを取り出した。涙でベタベタになったほほを拭う。またぽろりとこぼれた雫に、ハンカチを持ってくれば良かったとぼんやり思う。
「ワガママなんかじゃないだろ。友達と行くのはちゃんと断ったんだ。俺もスズと来たかったんだから。」
ぱちぱちと鈴が目を瞬かせる。
自分はどこかおかしいのかもしれない。
友人達の言う子守りを、苦に思ったことなんて一度もない。
自分を前にはにかむ年頃の少女より、まるいほほを真っ赤にしてきゃーっと喜ぶこの子の方が可愛い。
自分を真っ直ぐ追いかける大きな目が可愛い。
自分にすがりついてくる小さな手が可愛い。
幼い心にもて余すほど自分を想ってくれる、鈴が愛しい。
「俺はスズとのデート、楽しみにしてたよ。」
「……ほんと?」
特別意識していたわけではないけれど、いつだって鈴と出掛けるのは楽しいし、可愛い背伸びを否定する気もなかった。
「俺がスズにウソついたことあるか?」
小さな頭が横に振られる。その頭をくりくりなでる。
「だろ? 知らない人に何言われたって気にしなくて良いんだ。むしろ、鈴は怒って良かったんだぜ、邪魔すんなって。俺もスズもデートだと思ってるなら、それはデートなんだから。」
涙はとうに止まっていた。赤くなっている鼻を拭ってやる。一馬は笑みをからかうものに変える。
「でも、怒りのあまり、彼氏ほっぽって走りだすのはNGな。」
「……ごめんなさい。」
しゅんっとうつむいてしまった顔を、髪をかき上げるようになでて上向かせる。
「手をつないでくれたら、許してあげる。」
ぱっと飛びつくように手を取られた。ぎゅうっと力が込められる。応えて一馬も握り返す。
「んじゃ、スズ。次は何食う?」
「……タコヤキ。」
「おし。あの店で良いな。」
一馬は立ち上がりながら、きょろっと辺りを見た。一番に目についた屋台へ向かう。鈴が振り返って後ろをうかがう。少女を探しているようだ。一馬は強く鈴の手を引いた。
一舟頼むと威勢のよい声が返ってきた。まん丸のタコ焼きがひょいひょいと軽やかに舟に乗り込む様を、鈴がきらきらした目で見つめている。一馬のポケットでケータイが震えた。
この近くにいるだろう友人からメッセージだ。鈴に500円玉を握らせて、自分はちょっと端に避ける。
――すずちゃん、大丈夫か?
件の少女は無事友人達と合流したようだ。
――平気。捕まえた。
――良かった。
良かった、と口々に安堵の言葉が送られてくる。心配をかけたことをわびる。
――二人もこっち来いよ。
誰かの一言に、行かない、と返信しようとして指が止まる。
一馬は考え込むように視線を下へと逃がした。そこにひょこっと鈴が入り込んでくる。
「カズにいっ。ハコがすっごくあっつい!」
「焼きたてだからなぁ。ヤケドしないように、気をつけような。」
「うんっ。」
カツオブシやらがはみ出ている箱を大事そうに抱えて、鈴が道の端へ向かう。一馬はさっとメッセージを送ると、ケータイをポケットに戻した。
――デート中。邪魔すんな。
タコ焼きを食べている間、ずっとポケットの中が騒がしかった。
***
鈴が生まれた時から、傍にいるのが当たり前だった。鈴が自分を呼べば、傍へ駆けつけるのが当たり前だった。小さな手が伸ばされた時、自分の両手が塞がっていれば酷く悔やんだ。
一馬は自分を犠牲にしている訳ではない。鈴に尽くしている訳ではない。鈴が一馬を望んでくれる以上に、一馬が鈴を望んでいるだけ。一馬は追って来る鈴を待ってやっているのではない。鈴が駆けて来るのを待ちわびているだけ。
いつからなのか、一馬にはもう分からない。
可愛い、うれしい、と受け入れ続けた「好き」は、一馬の胸の奥の奥へと流し込まれて、気がついた頃には妙な形で凝固してしまっていた。
後はもう、鈴が一馬を呼んでくれる度、少しずつかさを増していくだけ。
***
テレビ画面の下部には、不思議な語感でカタカナの羅列が四つ並んでいる。内二つが、実在する生物の和名なのだそうだ。
一馬の膝の上で、リモコンをぎゅうぎゅう握りしめて、鈴が頻りに首をかしげている。
「スベスベマンジュウガニはいるんだよ。知ってるもん。本にのってたよ。」
「へえ。旨そうな名前だな。」
「食べられないよ。毒あるんだって。」
「何だ。こしあんでも入ってるのかと思ったのに。」
「でも、丸くてかわいかったよ。」
もう一つの正解はどれなのか、脚をぷらぷら揺らして、鈴は再び悩み始める。
ブーブーと微かな振動音が聞こえた。ソファ横のバッグの中でケータイが自己主張している。
「ちょっとごめんな。」
落とさないように鈴の腹に手を回すと、体を傾けてバッグを探る。手に取ってすぐぱっと画面を表示する。
友人が、サイクリングに行くぞ! と参加者を募っている。確か彼はつい昨日も、発表がどうだ資料がなんだと騒いでいたはずなのだが。すぐにでも飛び出して行きたいのか、候補も用意せずに次の日曜日を指定している。
一馬はさらっと返事を打つ。その日はすでに先約がある。
――デートなんで、パス。
「ロリコン」の四文字がポコポコと画面を埋めていくのを無視して、一馬はケータイを放った。ぽすっと間の抜けた音をたててバッグの上に着地する。
鈴がこちらを振り仰いだ。
「カズ兄? お話いいの?」
「ん? いいのいいの。」
ぐりぐりと頭のてっぺんを顎でえぐる。「やめてー。」と鈴がきゃらきゃら笑いながら一馬の顔を押し返す。
鈴が望んでくれる限り、一馬はこの場所から動かない。
END