試験明け初の英語の授業。終わりのチャイムが鳴り、日直の合図で礼をとる。教師が教室を出て行く。露華は丸付けされた答案用紙を手に、セイカの下へ駆け寄った。

「見て見て! これで5教科全部クリア!」
「アンタよくそんな赤点ギリギリのもの掲げられるわね。」
「えへへー。英語は最難関だったからねー。喜びもひとしおだよー。」
「ふーん。何点上がったの?」
「2点。」
「それもう時の運じゃないの。」
「でもでも、理科と社会はホントびっくりするほど上がったもん。セイカちゃんありがとね。」
「あら。感謝は形で示して下さる?」
「今月は! 今月は勘弁して下さい!」

 ***

 朝の緊張した面持ちから一転、帰ってきてからずっと上機嫌の露華を見て、チャレンジが成功したことを母も察していた。しかし、夕食の後、前回の点数表と今回の5つの答案用紙を見ると、父とそろって目を丸くした。理科の用紙を持ってため息をつく。

「晃司くんをぶら下げただけでこんなに効果があるなんて……。これ期末も使えるわね。」
「今度は俺をぶら下げてくれ。」
「公園で懸垂でもしててちょうだい。」

 わっと父がテーブルに突っ伏すのに構わず、露華は母の方へ身を乗り出した。

「ねえ、これでいいよね? コージくんと美術館行っていいよね?」
「ええ、もちろん。電車とかもいくらかかるか、きちんと調べるのよ。」
「うん! わたし、コージくんに話してくる!」

 ケータイは自室に置いたままだ。たーっと廊下を抜けて飛び込む。机の上からひったくるようにして薄い端末を拾って、ぼすんっとベッドに身を投げた。

――コージくんコージくん。今平気?
――大丈夫だよ。
――今日テスト全部返ってきたの。点数全部上がったの!
――それはすごい。がんばったな。
――うん! それでね、もう遊んでいいの。コージくん次の土日空いてる?
――土曜が空いてるよ。日曜は用事入っちゃったけど。

 返答に一瞬ドキリとする。
 危なかった。件の特別展示は来週の水曜日まで。中学生である露華や平日に仕事がある晃司が行けるチャンスは今週末だけなのだ。
 あのね、と切り出す言葉を打つ間に、晃司からメッセージと写真が届く。

――植物園に行こう。

 写真には白い背景、おそらくテーブルの上だろう、そこにチケットが2枚映っている。今コスモスが見頃を迎えているあの植物園のものだ。
 まだ、美術館への行き方を調べてはいないが、植物園は一度行ったから何となく分かる。一日に両方行くことは無理だ。
 震える指で文字を消し、新しい文面を打つ。

――もう買ったの?
――うん。もうテスト終わる頃だと思ったから。ゴールデンウィークに行った時、秋の花も見てみたいって言ってただろ。
――うん。言った。

 一緒にお出かけするのは、いつもうれしい。
 晃司が誘ってくれることも。会えない間気に掛けてくれていたことも。露華の言ったことを覚えていてくれたことも。
 いつも、うれしいのに。
 今日は、胸がぎゅうーっと重くなった。

「露華、そろそろお風呂入っちゃいなさい。」

 ドア越しに聞こえた母の声に、のろのろと身を起こして返事をする。

――お母さんが呼んでるから、ごめんなさい。おやすみ。
――うん。おやすみ。また明日。

 露華はぽすんと身を横たえて、クッションに顔をうずめた。

 ***

 翌朝、セイカが教室に入って来たのを見て、露華は席に着いたまま手を振った。しかし、友人は露華の顔を見るなり表情を曇らせた。自身の席を素通りして、真っ直ぐこちらへやって来る。

「どうしたの? 2点アップじゃだめだったの?」

 露華は驚いて首を横に振った。

「ううん。あー、英語は特に言及されなかったな。でも、他の教科はすっごく褒められたよ!」
「じゃあ、どうしたの?」
「どうもしてないけど。……え? わたし何か変?」

 露華はペタペタと自身の目元やほほに触る。

「変というか、元気がないわよ。」
「んー、眠いからかも。ほら、テスト勉強がんばったから、まだ疲れてるのかな。」
「じゃあ、今日明日は早めに寝なさい。晃司さんにそんな顔見せたら心配されるわよ。」
「だいじょーぶだよ。コージくんに会ったら元気になるもん。」

 にへらっと笑ってみせるが、友人は納得のいかない様子で更に顔をしかめた。

 どうしたらいいのか、そればかり考えて、先生の声も教科書の文面も何も頭に入ってこない。座学ばかりで実習の類がなかったのは幸いだった。どんな失敗をするか分からない。

 帰路を自転車で駆けながら、またぐるりと思考を巡らせる。
 晃司にお礼がしたかった。何かしてあげたかった。だから、あのチケットを無駄にするのはだめだ。美術館に行くことは諦めないといけない。
 他にできること。土曜日に出かける時に自分が昼食代をもつ。今回は取っておいて、クリスマスや誕生日にいつもより豪華なプレゼントを贈る。
 後者の方が晃司は喜びそうだ。これがきっと一番良い。
 ああ、でも。
 じわりと涙がにじむ。

 露華自身が、晃司とあの絵を見たかったのだ。

 ***

 夕食、露華が目の前の食物を黙々と口に運んでいると、突如バチンと音をたてて父が箸を置いた。露華はぱちりと目を瞬かせた。父がじっと見つめてくる。

「露華。晃司くんを美術館に誘えたのか?」

 露華はもぐもぐとそしゃくを続けた。いつもより多くかんでいる。ただの時間稼ぎだ。
 どう言おう。素直に、別の所に行くと言っていい、はずだ。予定が変わることなんて世の中いくらでもあるのだし、誰が悪いことでもない。

「晃司くんにちゃんと話しなさい。」

 露華が口を開く前に、父がそう続けた。

「露華がどうしたいのか、ちゃんと聞いてもらいなさい。」
「でも、コージくんきっと困るよ。……わたし、いやだ。」
「同じ結果になるとしても、それを飲み込めないなら、お前一人で結論を出したらダメだ。自分には分からないことでお前が悲しんでる方が、あの子は困るだろう。少なくとも、お前がそんな顔をしてたら、あの子も楽しくないはずだ。」

 晃司はいつもやさしい。もし、露華が浮かない顔をしていたら心配してくれるはずだ。理由が分からなければ、自分のせいだと勘違いするかもしれない。晃司は何も悪くないのに、そんなのはダメだ。
 露華はこくんとうなずいて食事を再開した。

 ***

 ベッドの上、クッションを挟んで壁によりかかる。赤いメンダコのぬいぐるみを膝に抱いた。ケータイを両手に持ち、ゆっくりメッセージを打つ。

――今、電話して平気?

 送信して、そわそわする気持ちを落ち着けようと、目の前のメンダコの耳をいじくる。すると、手元から鉄琴を奏でる音がして飛び上がりそうになった。音の出所、ケータイを見れば晃司から電話が来ている。
 文字で返事が来るものと思っていたから、完全に油断していた。わたわたと混乱しながらとにかく画面をタップする。
 耳に寄せるが何も言えずにいると、向こうが先に口を開いた。

『ロカ? どうしたの?』
「あ、あの、いま、へーきなの?」
『うん。メシも終わったとこ。で、どした。土曜日のこと?』
「えと……、」

 また不安な気持ちが首をもたげる。せっかくのお出かけにケチをつけるような話をして、晃司は嫌な気持ちにならないだろうか。本当に平気だろうか。
 うつむいた視線の先にはぬいぐるみのつぶらな瞳があった。

 かわいかったのだと、言っただけだったのに。
 リンゴみたいに赤くてまん丸で、リスみたいな小さな耳と目がかわいかったのだと、ただそれだけ。お小遣いの三倍もするから手が出せなかったことも、友人達の買い物を待つ間、未練がましく見つめ合っていたことも言わなかった。
 言わなかったのに、今露華の膝の上にいるのだ。
 植物園のことだって、沢山おしゃべりした中のたった一言だったのに、そんなことを晃司はいつも大事にしてくれる。

 空いてる左手で、ぎゅっと胸元へ抱き寄せた。

「あのね、テレビで美術館の話してたの。」
『美術館?』
「隣の県の大きいとこ。晃司くんの持ってる本の人、特別展示があるんだって。」
『んー? お、おー、これかな?』

 タブレットか何かで調べているらしく、向こうで晃司が得心している。

「コージくんに何かしたくて、わたしが美術館連れて行きたくて、テストがんばって、臨時のお小遣いもらったんだけど……展示もう終わっちゃうから……。」
『ホントだ。……そっか。ごめんなぁ、タイミング悪かったな。』
「そんな! コージくんは悪くないよ!」

 苦い声がこぼされて、露華は思わず首を横に振った。晃司を責めるために話したかったわけではない。

「それでね、何か代わりに、わたしができることないかなって、」
『いや大丈夫。美術館に行こう。』

 きっぱりと言われて、露華は目を瞬かせた。

「でもコージくん。もうチケットが……。」
『植物園のは大丈夫だよ。日付が決まってるやつじゃないから。期限も大丈夫。こっちはまた今度行こう。』

 きゅうっと両手に力がこもる。

「じゃ、じゃあいいの? 美術館行けるの? コージくんと?」
『うん。行こう。』
「や……やったぁー!!」

 露華は今度こそ飛び上がった。ぽーんとメンダコとケータイが宙を舞う。ぬいぐるみを両手で抱き留めてはっとした。シーツにぽすんと着地したケータイへ身を乗り出す。

「ダメだからね! 美術館のお金はわたしが払うんだからね!」
『分かってるよ。楽しみにしてるから。』

 晃司の声は笑いを含んで揺れている。露華はぎゅうっとぬいぐるみを抱きしめて顔をうずめた。

 ***

 特別展示がある最後の週末だからだろう、美術館は盛況だった。流されるほどの密度ではないのだが、はぐれないようにと露華は晃司へ身を寄せる。手をつなぐかと聞かれたが断った。この歳ではもう気恥ずかしい。

 露華はほうっと絵を眺めた。
 画集では分からなかったが、近くで見ると絵の具の盛り上がりや筆の跡がよく見える。写真より色に奥行きがある。重さや明るさが塗り込まれていて、額縁の中の街や湖は空間そのものを切り取ったみたいに鮮やかだ。
 絵画の中に入り込んだような心地で進んでいくと、一際大きな空間に出た。壁一面を覆うように、春の花畑が広がっている。画集にも載っているあの絵だ。

「え……。この絵こんなに大きいの?」

 慌てて自分の口を両手で塞ぐ。露華の声としてはいつもより小さいものだったが、美術館で許される声量ではなかった。晃司が肩を揺らしているのに気がついて隣をにらむ。案の定、彼は片手で口元を隠して笑っていた。
 いつまでもむくれていてもしかたないので、そろそろと絵に近づく。

 錯覚しそうになる。
 空は晴れてどこまでも高く澄み、あたたかい日差しを浴びて花々は風に揺れている。美術館の外では、道の脇に落ち葉が降り積もり空は薄雲をまとっているのに、そのことを一瞬忘れてしまう。
 部屋は薄暗くて絵だけが照らされているから、重く茂った森の中から春を見ているみたいだ。

 晃司が傍らに立った。
 軽く腰を折って首を傾げる。隣から露華の顔をのぞき込む時、彼はよくそうした。柔らかな髪が額に掛かる。甘い垂れ目を更に緩めて、ほほ笑んだ。

「ありがとう、ロカ。俺はこの絵がもっと好きになったよ。」

 その声に、小さい頃のことがよみがえった。

 彼の膝の上、背中が彼のぬくもりに触れている。
 長い腕が囲い込むように本を、その中の花畑を広げている。
 声が降ってくる。やさしく、やわらかく、降り積もるみたいに。

――俺はね、この絵を見るとお前を見つけた日のことを思い出すよ。ロカ。

 露華は隣へ手を伸ばして、大きなあたたかい手を握った。垂れ目がはたっと見開かれる。すぐ笑み崩れたのを確認して、露華はぷいっと顔を背けた。
 やはり、恥ずかしかった。


 END