にぎわう食堂の一角で、青年が行儀悪く頰づえを突いている。
定食のコロッケをモソモソと口に運び、二つある内の一つを食べ切ったところで箸を置いた。椅子の下からショルダーバッグを引き出して、サイドポケットからケータイを取り出す。脚でバッグを元の位置に押し込みつつ、ケータイの電源を入れた。
先刻まで受けていた講義の講師は、講義中はケータイの電源を切ることを推奨している。第一回の注意事項で、たとえバイブレーションでもケータイを鳴らした者はカバンごと廊下に放り出すと宣言しており、実際に先日、実行していた。特に大事な連絡の心当たりもないので、青年は素直に従って電源を切っていた。
トレーを横にずらして、ケータイを目の前に置く。メッセージの受信はない。こちらから発信したいこともない。青年は画面を落とそうとして、手を止めた。
液晶の向こう、就学前だろう年頃の少女が、こちらを見上げてふにゃんと柔らかく笑っていた。跳ねクセのある黒髪が、オレンジのポンポン飾りで高い位置に結ばれている。桃色のほほもボールを抱えた小さな手も、ぷくぷくふっくらしている。青年は笑み崩れた。
かわいい。
声には出なかった。心の内でつぶやいたつもりだったのに、唇は動いた。
「あれ。飛野、妹いるのか?」
すぐ後ろから声が飛んで来て、青年、飛野一馬は我に返った。振り返ると、一人の青年がきつねうどんの乗ったトレーを持って立っていた。その後ろでも男女が各二名、彼の肩越しにこちらをうかがっている。五人は同じ学科の学生で、先の彼と女性の片方はさっきまで同じ講義を受けていた。
彼が一馬の横に座り、他の面々もそれぞれ席に着く。テーブルには、きつねうどん、醤油ラーメン、カレー、月見うどんが並んだ。男の一人はカバンを席に置くと、財布だけ持って券売機の方へ向かった。
「かわいいな。でも、飛野とはあんまり似てないかも。」
「妹じゃねえからな。」
横からのぞき込んでくる相手から隠すように、画面を消す。一馬は姿勢を正すと、ケータイをズボンのポケットにしまいながら定食のトレーを引き寄せた。
「あれ? じゃあイトコとか? めいっこ?」
「いや、彼女。」
「えぇっ!?」
きぱっと返して、一馬は食事を再開させる。四人が驚きの声をあげた。女性二人の声は悲痛で悲鳴に近い。一馬は先日の誕生日で二十歳になったはずだ。写真の相手とは親子に近い歳の差がある。
「飛野、お前、ロリコンだったのか……?」
「ていうか、親御さんはっ? 親御さんの許しは得ているのか!?」
しばらく間を置き、男の一人がぼう然とつぶやき、もう一人が身を乗り出して騒ぎだす。女性達は青ざめて押し黙っている。そんな状況の中でも、一馬はペースを少しも乱さずに、コロッケやキャベツを口に運ぶ。対して、手をつけられていないラーメンとうどんは刻一刻と伸びている。
「……の、小さい頃の写真。」
「えっ?」
「部屋の片付けてしてたら昔の写真が出てきてな、髪長いの懐かしかったから、写メってきたんだ。」
空になった茶わんをトレーに戻して、一馬が続ける。言葉が脳に到達して、彼らは胸をなで下ろした。どっと空気が緩む。
「なぁーんだよ、もう。驚かせやがって。」
騒いでいた男が、椅子に座り直してケラケラ笑う。それぞれ箸やスプーンを手に持つ。
「そういえば、飛野君って飲み会から帰る時、いつも電話入れてたよね。あれって、もしかして彼女さんに?」
「いや、それは単に家に連絡してただけ。」
未成年である一馬が夜遅く帰ることを親代わりの人達が心配して、飲み会の後は電話を入れることを約束させられていた。酒を飲んでいないかどうかの確認でもあったようだ。二十歳になったことで解約されたが、一馬としては電話をする口実がなくなって少々寂しい。9時前であれば、彼女が電話に飛びついて来るのだ。
隣に座っていた青年がうどんをたぐりながら、口を開く。
「で、彼女さん、今いくつなんだ?」
「案外年上?」
「いや、年下。今年小四。」
最初のように簡潔に答えて、一馬は残っていたみそ汁をすする。
ずるるんっと箸を滑って麺が出汁の中に沈む。カレーのスプーンが転げる。
「ジャスト十歳差!?」
「つぅかどっちにしろ犯罪!?」
***
駅を出た時は、まだ空に雲の形も見えて、街灯の光は付いているのか分からない程ぼんやりしていた。我が家を視界に認めて、見上げた曲がり角の街灯は、闇夜を背に強く白く存在を主張していた。日が沈むのが早くなったものだ。
一馬は、一辺の光もこぼさない冷たく沈んだ自宅の前を通りすぎる。薄いブロック塀を挟んだすぐ隣では、カーテンの隙間や、玄関ドアの飾り窓からオレンジの光が漏れていた。
バッグのサイドポケットからジャラリとキーホルダーを取り出す。三つ付いている内の一つ、赤いネコのカバーの鍵を選んで挿し込む。ドアを開けて中に入ると、廊下の奥に声をかける。
「ただいまー。」
廊下に上がり、慣れた足取りで左の部屋へ入る。洗面台で手を洗っていると、とたとたと軽い音が聞こえてきた。手をタオルで拭きながら廊下をのぞく。向かいの階段を小学生ほどの少女がリズム良く降りてくる。短く切りそろえられたクセ毛がひょこひょこと揺れていた。ぱっちりした大きな目が、一馬の姿を捉えてぱぁっと輝く。
「カズ兄っお帰りなさーいっ!」
「スズ、ただいま。」
少女が飛びついてくる。一馬は両腕を広げてしかと受け止めた。少女は額をぐりぐりっと一馬の腹に擦りつけると、満足気にへへっと笑う。一度体を離し、一馬の手を引いて廊下の奥、リビングへ誘う。元気にドアを開け放った。
「お母さんっ。カズ兄!」
「ああ。カズ君、お帰りなさい。」
「ただいま、おばさん。」
少女の声に、台所のカウンター向こうから女性がこちらを振り返った。女性がにこりと微笑む。しかし、ほほに手を当てて、それを困り顔に変えた。
「ごめんね。ご飯まだ出来てないの。もうちょっと待っててね。」
「いえいえ。むしろ、俺がいつもより早いのに乗れちゃったんで。」
「でも、おなか空いたでしょう。何か摘まんでる?」
「んー、大丈夫っす。」
「カズ兄。テレビ、クイズやってるの。いっしょにやって!」
母との会話は区切りがついたと判断したのだろう。周りをちょろちょろしていた少女が、ぐいぐいと一馬の腕を引く。一馬は笑ってそれに従う。ソファに座ると、少女は当然のように膝に乗り上げてきた。一馬はソファ横にバッグを降ろす。よいしょ、と据わりを整える彼女を、腰に手を回して支えてやる。
「こら、鈴っ。カズ君疲れてるんだから、降りなさい!」
飛んで来た声に、少女の肩がびくっと跳ねた。眉が八の字に下がる。
「ごめんなさい……。」
一馬の胸を押して降りようとする、小さな体をぐっと引き留める。一馬は台所へにこりと笑みを向けた。
「大丈夫っす。スズ、軽いですから。」
「そう? ごめんねぇ、いつまでも甘えん坊で。」
「いえいえ。」
にこにこ笑う一馬にもう一度謝って、女性は調理台に向き直る。くいくいっとシャツが引かれた。視線を下ろせば、大きな瞳がじぃっと見上げていた。
「カズ兄、つかれてるの?」
きゅっと八の字の間にシワが寄る。一馬は笑みを深めて、ぎゅうっと少女を抱き締めた。
「ちょっとなぁ。でも、スズがぎゅうってしてくれたら元気出るよ。」
すぐに細い腕が抱き返してきた。背中まで回らない小さな手は、服にしがみつくような形になる。きつく目をつむった丸い顔が、一馬の胸に押しつけられていた。
込み上げる愛しさに、一馬の手にも力が込められる。
今はまだ、この幸せは自分のものだ。
***