「……ふっ」

「?」

「あはははっ!」

「!」


びっくりした。猫さんは急に爆笑し始めた。あのクールな猫さんが、思いっきりお腹を抱えて笑っている。信じられないものを見たと、目をまん丸にする私に、「あーおかしいっ」と、涙を拭いながら猫さんは息を整える。


「君は賢いんだか馬鹿なんだか分かんないね、不思議な人だよ。それならきっともう、僕の出る幕は無い」

「え?」

「さぁ、中に入って。君の思う場所へ繋がるから、この家はそういう場所。君の好きにすると良い」


どういう事だと、言葉の意味を捉えきれない私を、猫さんは次の行動へと促す。彼はさっぱりした顔で私を家の中へ入れると、扉の手前に立っていた。


「猫さんは来ないの?」

「ずっと居るよ、君の傍に」

「そう言って居なくなるくせに……」


家に入ってくれないという事はそういう事だ。私を慰める為だけの綺麗な嘘を付く猫さんは、一体私をいくつの子供だと思っているのだろう。


「いいよ、行ってくる。困った時はまた呼ぶからね」


不貞腐れながらも「行ってきます」と、扉を閉めると、「またね」という猫さんの声が聞こえた。

次に扉を開けた時、そこにはもう猫さんの姿は無く、代わりに赤茶色のレンガ道が森の奥へと続いていた。

私はまた戻ってきた。



生い茂る木々に見覚えがある。ここはスワンボートで辿り着いた先の森だ。レンガ道から外れる前の場所。真っ直ぐ進むべきだった場所。

家から一歩外へ出て、玄関の扉を閉める。よし、もう道を外れないぞと心に決めて前を向くと、道のずっと先から何かがこちらに向かって歩いて来ているのが目に入った。何か……というか、あれは、人?

理解した瞬間、ギクリとした。人といえば、脳裏に過ぎったのはあの少年の形をした黒い影。この世界で出会った人間はあの時の影しか居ない。それ以外で居るとしたら探しているあの子かなとも思ったけれど、こんな所で出会う訳がないのだ。だって、この世界にあの子の姿を探しに来た訳ではないと、もう私は知っている。こんな風にあの子と出会うはずが無い。

どうしようかともたついている内に段々近付いてくるその人は、まだまだ遠い先の方でピタリと足を止めた。顔がこちらを向いている。どうやら私の存在に気付いた様だ。

遠くても何となく見つかったという事は分かり、今私達の目が合っている様な気すらする。どうしようかと次の行動を決めかねていたその時、急にその人は動きだした。


「!」


段々スピードを上げてこちらへ向かって歩いてくる。始めはゆっくりだったその人がとうとう走り出したと分かった瞬間、私は咄嗟に振り返っていた。後ろのもと来た家に逃げ帰ろうと思ったのだ。安全だと言われた家の中に——しかし、そこにもう家は無かった。何も無い、ただレンガ道の続く森が広がっているだけ。私が出た瞬間、家は消えてなくなっていたのだ。


「っ!」


ガッと急に両肩を掴まれるように手が置かれて、心臓が飛び上がる。はぁはぁと、荒い呼吸が背後で聞こえていた。振り返って家が無い事に絶望したその一瞬。その一瞬で、あれだけあった距離をこの人は詰めたという事……? つまり、この人も普通の人では、無い?

肩を掴まれる手の力は強く、もう逃さないと言わんばかりだった。恐怖でカチカチになって動けない身体を、くるりと反転させられる。強制的に向き合わされたその先、俯き加減のまま肩で息をするその人の、前髪からのぞく上目遣いと目が合った。

——瞬間、ハッとした。その目は綺麗な金色だったから。それにどこか既視感が……あ、そうだ。この金色の目は……っ、


「猫さん……?」

「は?」

「! あ、いや……」


「すみません……」と、自然と謝罪の言葉を溢しながら視線は斜め下へと逃げていった。単語一つに対して返って来た嫌悪感が凄まじかったのだ。とても目を見て向き合ってはいられなかった。どうやら猫さんと間違えられた事が相当その人の心を逆撫でしたらしい……いや、猫さんと間違えた訳ではないんだけど……。


「あ、あの、綺麗だなと思いまして」

「あの猫が?」

「いえ! 猫さんではなく……いや猫さんも綺麗なんですけど、そうじゃなくて、その、あなたの目の色が……」


とても綺麗な金色ですね!と、言葉を繋げようと、意を決して前へ向き直った瞬間。


「っ! 耳!」


ぴょこんと、ふわふわの焦げ茶色の髪の毛からのぞく、二つの柔らかそうな三角耳が目に飛び込んできた。こ、これはっ、


「犬くん……!」

「違う。触るなよ」

「あ、す、すみません……」


柔らかそうだと、つい犬くんが恋しくなって撫でようとしてしまった。なんで触ろうとしたのが分かったのだろう。おずおずと、あげようとしていた両手を謝罪と共に下ろした。睨みつけてくる威圧感が凄くて、問答無用で触るような事は絶対に出来なかった。

やれやれと、目の前のその人は溜息をつき、私の肩はようやく解放される。スッと背筋を伸ばしたその人の背は私より高く、歳は私と同い年か少し上くらいの少年だった。金の目に、ふわふわの焦げ茶色の髪の毛に、三角の獣耳。あれ? よく見たら尻尾も……すらりと伸びた先にふさふさがある……あ!


「分かった、ライオンだ!」


そうだ、絶対そう! この子はライオンさんの男の子!


「すごいっ、素敵! ライオンの耳と尻尾が生えてる男の子なんて本の中みたい! こんな所で出会えるなんて!」

「……」

「あ、だから走るのも速いし、威風堂々みたいな雰囲気なんですね! なるほど、正にライオン! すごいかっこいい……! 夢みたい……!」

「……」


すると、「はぁ〜〜」と、彼は更に大きな溜め息を一つ。そこで私はハッと我に返った。

興奮状態でベラベラと喋っていたけれど、もしかしたらとんでもなく失礼な事を言ってしまっていた……? 感情のまま言葉にしていたせいで何を言っていたのかあんまり覚えてなかったけど、ライオンといえば百獣の王だ。礼節をもって対応すべきなのかもしれない。


「す、すみません私とした事が……失礼な事を言ってしまいましたか?」

「……いや、全然。それより怖くないのか? 俺の事」

「? 怖くないです……」

「さっきまであんなに怯えてたのに?」

「それはだって、全部が急だったので……でももう大丈夫です」

「……」

「……ライオンさん?」


どうしたのかと首を傾げると、ライオンさんはじろりと私を何やら物言いたげな瞳で見つめて、はぁ……と、本日三度目の大きな溜息をつく。


「……なら良いけど。それはそれで、おまえはもう少し警戒心をもった方がいいのかもしれない」


眉間に皺を寄せながらそう言うと、ライオンさんは私に背を向け、今走って来たレンガ道を戻り始めた。その背中を見つめながら、行ってしまうなぁ、私もそっちに行くんだよなぁとぼんやり考えていると、私の視線に気付いた様に、くるりと彼が振り返る。


「行かないのか?」


……つまりそれは、着いて行っても良いという事? 一緒にこのレンガ道を歩いてくれるという事?

「行きます!」と返事をして、彼の背中を追いかけた。この世界であの子を一緒に探してくれる人はこの人で間違いないと確信した瞬間、心強さで足取りは軽かった。


森の奥へ続いていくレンガ道を、ライオンさんは真っ直ぐに歩いていく。まるでこの先に何があるのか分かっている足取りだ。それもそうか、ライオンさんは私の来た道と反対側から来たのだから。


「どこに向かってるんですか?」

「街」

「え、この先に街があるんですか?」


まさかこんなに自然溢れる森の中に街があるなんて。あ、だからレンガ道なの? 住人が通る為に舗装してあるって事で合ってるのかな。まだまだ何も見えて来ないけれど、一体どんな街なんだろう。


「ライオンさんは街から来たんですか?」

「そう」

「そこに住んでるんですか?」

「住んでるっていうか、俺の街」

「俺の街」


やっぱり! 彼は王様だったのだ。つまり私は今、ライオンさんの街へ王様直々に招待されているという事か……なんだか恐れ多い事になってきた。


「じゃあ王様のライオンさんがなんで街の外に? 一人でお散歩なんて危ないんじゃないでしょうか……」

「は? 王様?」

「え? あれ? だって俺の街だって」

「俺が支配してるとかそういう訳じゃない。俺の街というか、場所というか。もしかしてライオンだから、とか思ってる? だからさっきから敬語なのか?」

「……」


その返答に、もしかして何もかも違った? 怒らせてしまった?と、次に繋げる言葉も思いつかずにいると、ライオンさんはまたもや大きな溜め息をついた。出会ってからのこの短い期間で四回目だ、さぞ呆れられている事だろう。

「すみません……」と、もはや呼吸のように呟くと、ライオンさんはピタリと足を止めてこちらに向き直った。ギロリと、私を睨む様に見つめてくる。


「だから、さっきからその敬語何?」

「……え?」

「他の奴には使わないのに、何で俺だけ敬語なんだよ」

「……」


何で俺だけ敬語なのっていうのは、他の猫さんと犬さんと比べてという事だろうか……やっぱりこの世界の住人達にはやり取り全てが筒抜けらしい。

何でと言われてもそれは、これだけ威圧感があったらそうなるのでは……だから王様だと思った所もあるし、そもそも今までの子達は本当に小さな動物だったから、人間の形を持つライオンさんとは比べようが無いというか……でもそれをどう伝えたら良いものなのだろうか。


「……怖くないって言ったくせに」


うんうん唸りながら悩んでいると、急な彼の言葉でハッとした。目の前には不貞腐れた様子の彼が居る。なんだ、そういう事だったのか。


「敬語、使わないと失礼かなと思ったもので」

「失礼ってなんだよ」

「うん、ごめんなさい。勘違いしてた。本当に怖くないし、君とも仲良くなりたいと思ってるよ」

「……」


そう、勘違いをしていた。この道を共に歩んでくれる彼もまた、私を受け入れてくれる存在の一人なのだ。夢の中を巡る助けをしてくれる、大切な相棒の一人。となるときっと、よそよそしく遠慮なんてしたらそれこそ失礼なのだろう。


「距離をとりたい訳じゃないし、その方が君が喜ぶかなと思っただけなの。傷付けたならごめんなさい。また何かあったら言って欲しい。私もすぐに言うので」

「……」

「えっと、じゃあ……まず一つ。思いあがりも甚だしいと思ったんだけど、思いついちゃったから聞いてみます。あの、ライオンさんが一人で街の外にいた理由って、もしかして私を探しに来てくれてたから?」

「……」


俯き加減の上目遣いで、じろりと私を見るライオンさん。こんな事を聞いてどんな返事が返ってくるのかと、ドキドキしながら待っていると、


「……当たり前だろ」


その一言をぶっきらぼうに私に返すと、それ以上こちらに顔を向ける事無く、また前に向き直ってライオンさんは歩き出した。そんな彼に、私は思わずにやけだす顔を抑えながらついて歩く。

どうやら納得してくれたらしいし、私を探してくれた事で間違い無かったらしい。私を見つけて駆けつけてくれたあの時の彼を思い出す。あの場面はそんな感動的なシーンだったのかと、逃げようとした自分に少し後悔した。


知る背景が違うだけで、同じ場面がこんなにも違って見えるものなのだ。私を見つけたライオンさんが、私の為に息が上がるほど全力で走ってくれたのだと思うと、今は大切にして貰った感覚で心がムズムズしている。

そういえば、夢の中に入ってからの私はずっと誰かに大切にして貰っている気がする。誰かの心の中心に置いて貰えるのは、私の人生の中で初めての経験かもしれない。こんなに素敵な事は無い。

あの子の夢の中に入れて貰った事によって、私は誰かに想って貰える幸せを与えて貰ったのだ。誰かと繋がる事がこんなにも幸せなのだとしたら、私があの子の事を想う事でも、あの子を同じ様に幸せにする事が出来るのかな。

……同じ気持ちが返せたら良いな。同じ気持ちが伝われば良い。だから早く、あの子に会いたい。この幸せを彼と分かち合いたい。


ガサガサと辺りから生き物の気配を感じても、もう何も怖く無かった。今の私には前へ進む理由しかないのだから、よそ見をする暇なんて無い。ライオンさんに続いてレンガ道を歩き続けると、段々と辺りが拓けてくる。それに伴い空から注がれる太陽の光も増え、明るく周囲を照らし出す。

すると、先の方でぷつりとレンガ道が途切れているのが目に入った。何か大きな壁が通せんぼうするようにレンガ道を遮っている。木々が生い茂っていた時は全然先が見えていなくて分からなかったけれど、拓けてきた事によりそこにある一枚の壁が何なのか、遠くからでも何となく分かった。