「僕が連れてきてあげたんだからね」
そう言ってふんっと鼻を鳴らしたと思うと、猫さんは誇らし気な表情で私を見た。私の返事を待っているその様子が可愛くて微笑ましい。
「うん、ありがとう。今日は猫さんと探検しながら海に来れた、良い夢だった」
本当に、夏休みももう終わるのに特にこれといった思い出も無かったから、夢の中でくらい思い出が作れて良かった。とはいえ所詮夢だからどうせ覚めてしまうし、残念ながら本物では無いけれど。
リン、と鈴が鳴った。それは堤防をぴょんと猫が飛び降りた音だった。
「……もうどこかへ行っちゃうの?」
私に背中を向ける形で立つ猫さんを見て、つい引き止めるように訊ねると、
「こう見えてとっても忙しいんだよ」
振り返った猫さんがやれやれといった様子で宥める様に私に告げるので、とっても残念だけど、仕方なく私も受け入れる事にする。
「そっか……また会える?」
「どうかなぁ。猫は好き?」
「好き。いつも猫の動画見て癒されてるの。撫でてもいい?」
「どうぞ」
するりと寄って来た猫の頭を撫でると、金色の目を閉じて身を委ねてくれた。艶々で真っ黒な美しい毛並みだ。時折首輪に着いた鈴がリン、と鳴る。
「首輪の鈴、可愛いね」
「…………」
何度も耳にした鈴の音に、思わずふと出た一言だった。しかしその一言で気持ち良さげに閉じていた瞳が急に開き、ジロリと私を見詰めてくる。そのギンとした目力の強さは私の発言に抗議している様で。
「これは鬱陶しいよ。取りたい。取って」
と、うんざりした顔でまさか私にそんなお願いをする。
「え! そ、そんな事出来ないよ。飼い主さんが悲しむよ」
「この首輪を付けたのは何でなんだろうね。何の為についてるんだろう。君に可愛いと言われる為?」
「いや……えっと、自分の家の猫だって分かる為じゃないかな」
「これがあるから僕は僕であると? そしたらこれが無くなったら僕では無いの?」
「……そういう事では……ないけど……」
なんだか難しい話をする猫さんである。悩み多き黒猫さんなのだろうか……。
「……ただ、飼い主さんも可愛いと思って付けただけなんじゃないかなと思うけど……でも、もしそこまで嫌ならさ、嫌だって言ってみたらどうかな。取っても取らなくても、猫さんが美しい黒猫なのは変わりないから」
「……僕は美しい黒猫なの?」
目をぱちくりさせて問う猫さんに、何をおっしゃる!と一歩前に出た。まさか、ご自覚されてないとは!
「美しいよ! 君の毛並みはまるであの海の様に輝いてる!」
「あはは! あの海の様にって大袈裟!」
私の言葉に、パッと表情を変えて楽しそうに口を開けて笑う猫さんを見て、まるで人間のような顔をするのだなと思った。喋る猫だから表情も豊かなのかな。難しい事も言うし、なんだか妙な雰囲気を持つ変な猫である。そして同じくらいになんだか変な夢である。
猫さんはひとしきり笑い合えたのち、「よし」と切り替えた様に私を見た。
「じゃあ、君を海に連れて来れたから今日はこれでおしまい」
「? 猫さんは私を海に連れて来る為に居たの?」
「そう。君が海に行きたがってたから」
「……そんな事も知ってるんだね……」
私の事がなんでも分かる猫さんは、ふふんと、ドヤ顔をして、尻尾をゆらりと揺らす。そしてなんだか上機嫌な様子でその言葉を告げた。
「君の世界に入るんだから、君の為になりたいじゃない」
「……私の世界?」
「じゃあまた、次の夢で会おう」
「え?」
——そこで、ハッと目を覚ました。私の部屋だ。カーテンの隙間から光が差していて、朝が来ている事が分かった。つまり、夢から覚めたのだ。
当然もう傍にあの黒猫は居ないけれど、なんだかまだふわふわしている様な夢の余韻が続いている。
「……また次の夢で会おうなんて初めて言われたな。次回へ続く、って事?」
私はよく夢を見る。今夢の中に居るのだと気付いた瞬間から、私にとっての大冒険が始まる。大冒険だなんていっても他の人からしたらちょっとした事な時もあるし、本当に映画のような世界を体験する事もある。でも、大体が一話完結。急に始まって急に終わるものだった。また会う約束をするなんて、今まで一度も無かった事。
「不思議な猫さん。また会えるかな」
決まりきった毎日の中に、一つの変化。楽しみな約束。例え私の夢の中、私が作り上げた架空の出来事だとしても、それが私の世界で唯一の楽しみである。
今日も一日が始まる。私がいつもの私になる。やるべき事しか出来ない私だ。下の階から母の声がする。起きなさいと言っている。
今日も一日が始まる。詰まらない、全てが決まりきった私の一日が。
「森……」
真っ暗な森の中。湿気でじめっとしていて、辺りは靄がかかっている。行った事は無いけれど、話に聞く樹海ってこんな感じなのかなという感じ……つまりここは樹海? じっとりと汗をかいて気持ち悪い。纏わりつく空気が暑いのに冷たくて、どこまでも不気味。
これは夢だとすぐに分かった。ということは今日の舞台はここ、樹海だなんて……最悪だ。私はホラーが大の苦手なのに。
「きゃ‼︎」
突然、カサッと草むらから音がした。何? 風? 虫⁇ まさか、幽霊⁈
夢の中だからなんでも起こる。なんでも起こるから、幽霊も居る。絶対に居る!
カサッ
「っ‼︎」
もう一度草が動いたのを目視した瞬間、驚きと恐怖で弾かれるように私はその場を飛び出していた。
とにかく全力で走る。全身くまなく鳥肌が立っていて、まるで見えない紐に前へ引っ張られているみたいにすごく速く走れていた。本当の私は運動神経が悪すぎて走るのもめちゃくちゃ遅いのに。それでも、これだけ走れるのだから逃げられるとは言い切れないのが、夢の中の怖い所で。
結局何から逃げているのかも分からないままひたすらに走り続けてついに限界が来た所で、ハアハアと乱れる呼吸と共に膝に手をついた。後ろを振り返ってはみたものの、そこには特に何も不自然なものは見当たらなくて、ほっと胸を撫で下ろす。追われていたのか、それとも振り切ったのか……何にせよ全力で走った身体はずっしりと重たくて、近くの切り株によいしょと座ると汗がぽとぽと垂れて落ちた。
ここはどこなんだろう。冷静になって見回してみても、なにがなんだか分からなかった。森の奥深くに入って来てしまった気がするけれど、実際、景色がどう変わったのかも分からない。逆に同じ場所な気もするくらいに、森の中には目印が少ない事に気がついた。
こんなの、流石に自分の夢の中だとしても不安過ぎる……。
「にゃあ」
「!」
すると急に、鳴き声と共に足元に猫が現れた。艶やかな黒い毛並みに首輪についた鈴。この子はまさか、
「あの時の猫さん……!」
まさかの再会に感激して手を伸ばすと、するりと逃げられてしまった。ぎゅってしたかったのに……一人ぼっちでこんな所に居るのは不安でたまらなかったから、知ってる温もりが欲しかったのに。でもこれで安心だ。猫さんが居てくれたらとても心強い。
「もしかして、あの時の約束通りにまた来てくれたの?」
次の夢で会おうと約束をしてから何日か経ち、丁度今回がその時だった。前回のほのぼの海のお散歩から、まさかの樹海で猛ダッシュである。幸福度の落差が激しい。
「嬉しいな、良かったよ。気付いたらこんな所に居て、どうすればいいのかさっぱり分からなくて……猫さんは何か知ってる?」
「…………」
「あれ? 猫さん? もしかしてお喋り出来ない?」
「…………」
無言である。ただ、ジッとこちらを金の瞳が見つめているだけで、何も話そうとはしてくれない。
そういえば確か前回もそうだった。始めは喋ってくれなくて、海に着いた途端急に現れた猫さんが話し出したのだ。だとしたら、今回もそうなのかな。何か話し出すきっかけみたいなものがあるのかも。
「……ねぇ。もしかして、また私を連れて行ってくれるのかな? どこでも付いてくよ。連れてって」
「…………」
「ここに居ても何も変わらないし、私は猫さんと一緒に行きたいの。私のお願い、聞いてくれる?」
リンと、首の鈴が鳴る。猫は何も言わずに立ち上がるとすらりと歩き出したので、これはきっと了承の意味だと、切り株から腰を上げて迷わず猫の後に続いた。
今回はどこへ連れて行ってくれるのだろう。あれだけ怖かったのに、目的が出来た途端にいつも通りに動き出せるのだから不思議だ。でも相変わらず猫のスピードに着いていくのはとっても大変で、なんでこんなに速いんだろうと思った。茂みに紛れて見えづらいし、また見失ったらたまらない。
「猫さーん、速いよー」
「…………」
チラリと振り返った猫さんだけど、私を一瞥しただけでまた歩き出す。付いていくのも私の仕事なのだろうか、猫側に容赦は無い。いくら私が高校生とはいえ、さっきの全力ダッシュで疲れた身体にはきついものがある。
——そして、鈍臭い私は結局大事な猫さんを見失ってしまう事に。なんてことだ……。
「猫さーん、どこー?」
また一人ぼっちに逆戻り。どこかへ連れて行ってくれるつもりだったなら目的地は近いのかもしれない、なんて思うと無闇に動き回る事も出来なくて、ぽつんと途方にくれていた。立ち込める白い靄が濃くて、辺りの様子が全然分からない。なんだか先程よりも濃くなっている気がする。
「……私、帰れるかなぁ……」
夢の中とはいえ不安で一杯だった。このままずっとここに居る事になったらどうしよう。導いてくれる黒猫の姿もない今、恐怖心がむくむくと育っていく。
と、その時だ。
「!」
どこかで何かの音がして、身体が一本の針金になったみたいにピンとした。怖くてまた駆け出したくなったけれど、ジッと堪えて耳をすます。もしかしたら黒猫さんの音かもしれないと、私の全神経を耳に集中させた。一体何の音だろう。
「……——っ、……っ」
……多分これは、草とか、風とか、自然の音ではない。
「……ぐすっ、……ずっ」
鼻を啜る音。人が出す音。誰かが泣いている音。
「……嘘でしょ……」
つまりそれって……幽霊?
絶対にそうだ。幽霊だ、間違い無い。
幽霊が泣いてるんだ!
——リン、
「きゃ‼︎」
鈴の音と共にどこかの草むらがガサッと動いて、思わずその場に尻餅をついてしまった。心臓がバクバクいって、全身に血が巡る。変な所に力が入ってるのに肝心な所に力が入らない。身体が硬るせいですぐに立ち上がる事が出来なくて、もしかして腰が抜けたってこういう事?と頭の中はパニックだ。
——でも、今、リンって鈴の音が鳴った。この音は猫さんだ。猫さんの首輪の鈴だ。てことは近くに猫さんが居るってことだ。
驚いた余韻から少し震える身体でなんとか立ち上がり、音がした方へゆっくりと進む。すると泣いている声がますます大きくなって、段々声の元へ近付いている事が分かった。
怖くて今すぐやめたい……でも、リンと、そこに時々鈴の音が混ざる。そこに猫さんが居るのだと思えば、私は向かうしかない。
そして大きな木の裏。死角になったそこに——居た。
「ぐすっ、ぐすっ」
しゃがみ込んだ、小さな男の子。ぐすぐすと鼻を啜りながら肩を揺らし、じっと俯いている。男の子の足元にあるのは鈴のついた、千切れた首輪。
「こ、れ……猫さんの……」
私の声に、俯いていた男の子が顔をあげる。涙でいっぱいになったまん丸のその瞳と目が合った。
ごくりと思わず生唾を飲むと恐る恐る訊ねてみる。
「猫さんは……?」
「もういない」
「……え?」
「もう、どこかへ行っちゃった。この森の、どこか」
「…………」
「もう嫌だって、首輪を取って行っちゃった……」
そして、千切れた首輪に目をやると、男の子はまた泣き出した。それは飼い猫が突然消えたと悲しんでいる様にしか見えなくて。
「あの黒猫は、君の猫さんだったの?」
「うん」
「そう……そうだったんだ」
だとしたら相当ショックだっただろう。目の前で飼い猫が首輪を引き千切って逃げて行ったのだ。この森の中ではもう見つからない。靄の中へ溶け込むように走り去る黒猫の後ろ姿が、ありありと目に浮かんだ。
「……悲しいね……」
隣にしゃがみ、男の子の背中をさする。私もショックだったけど、この子の気持ちを考えたら私の悲しみなんて大したものじゃない。