私にだって自分の意思がある。私にだって好きに生きる権利がある。私にだって、私だけの大切な今がある。想いがある。世界がある。
「私は……私は、何でも言う事をきく、良い子なんかじゃない……!」
——その時。
「!」
ギュッと包まれる温もりにハッとすると、私は中川君の腕の中に居た。強く、強く抱きしめられている。
「やめて! 離して!」
「嫌だ。ごめんね、玉木さん。ごめん」
「信じられなくてごめん」そう、静かな声で彼は告げた。離れようともがいても、その腕は私を逃さない。
「俺は玉木さんを信じてる。本当だよ」
「嘘だ、中川君は私を信じてない。だから私の言葉はいつも届かないし、私を突き放したんでしょう? 夢に入れるなら誰でも良かったならもう放っておいて欲しい」
「違うんだよ。初めから玉木さんだって分かってて、玉木さんだから俺は夢に入ったんだよ。玉木さんじゃないと嫌だから、君との思い出を辿ってここまで来たんだ」
「嘘だ……そんなの、嘘だよ」
そうなの? ありがとう、なんて、以前のように簡単には受け入れられなかった。だってもう、信じた後に裏切られる悲しみを知ってしまったから。
違うって、否定したかった。中川君の言葉は全部受け入れたくなかった。全部、全部嬉しくなってしまうから、無くなった後の悲しみにきっともう耐えられない。信じられない。中川君の言葉は信じたくない。だって全部根拠がない。信じる為の証拠が無い。だって、
「私には、そう思ってもらえるだけの価値がない……」
すると、ガバッと、くっついていた身体を離して中川君が私と目を合わせた。怒っている。険しいその表情は、彼の見せる初めての表情だった。
「誰が言ったの? そんな事」
「…………」
「君は俺にとって大切な人だよ、そんな事言わないで。……って、俺が言っても信じてもらえないかもしれないけど……」
怒っていたと思ったら、次は悲しんでしょんぼりとする彼が目の前に居る。ころころ表情が変わる彼になんだか懐かしさを感じた。なんだろう……あぁ、そうか。きっとこれは犬くん。
「……どうしたら信じてもらえる?」
困りきった顔をして真っ直ぐに私に尋ねる彼を見つめながら、今までの彼らとのやり取りを頭の中で振り返っていた。
みんな、みんな優しかった。みんな私を大切に思ってくれているのだと伝わって来て、だから私は彼を見つけられた。みんな同じ一つの存在で、全部が中川君の全て。私が見つけたかったあの子。私が信じた、優しい君。それがあなただった。
すっと心が落ち着いて、そうだなと、なんだか納得した。中川君は中川君で、私は私。きっと同じ気持ちだと、私はあの時君を信じた。その気持ちに嘘は無かった。
「……じゃあ、私を見つけて」
信じたかった。大好きな君だから。本当は探しに来てくれて嬉しかった。だから……また会えると、信じても良いかな。
「待ってるね」
そう告げると、私はそっと目を閉じる。ここは私の夢の中。だったら、私の意思で抜け出す事も出来るはず。
目を閉じたまま心でゆっくりと数を数える。三つ数えた所で目を開くと、そこは見知った私の部屋のベッドの上だった。閉じたカーテンの隙間から光がもれて、外ではもう太陽が昇っている事が分かった。朝だ、朝が来たのだ。
これで長い夢はもうおしまい。私は、現実に戻ってきた。
ずいぶん長い事家を空けていた様な気がするけれど、実際には一晩の出来事だった。長い夢の後の気怠さが身体に残っている事以外何も変わらない。いつも通りの朝だった。
身支度を整え、家を出る。まだ朝の早い時間。何の部活にも入っていない普通の生徒であればまだ家を出る様な時間では無かったけれど、でもそれが私の毎日だったから。今日も私はこの時間に学校へと向かう。
来て、くれるだろうか。彼の返事は聞かなかった。来ても来なくても、彼が決めた事ならもうそれで良いと思った。これで終わりにしようと決めていたから。
学校に着いて、階段を上がり、閉まっていた教室の扉に手を掛ける。ガラリと開いた、扉の向こう。しんと静まり返った朝の教室がそこにはあった、けれど。
「おはよう、玉木さん」
「え?……あ、えっと……」
おはようと、言うべきなのは分かっている。けれど言葉が出て来なかった。
なんで? どうして? そんな事ばかりが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、一向に何も出来ないでいる。ここで待っていると伝えなかったはずなのに。私が勝手に今日で終わりにすると決めたのに。なのに、彼は居た。ここで私を待っていてくれた。
扉の前で呆然と佇む私に、彼はにっこり笑って中へ入る様手招きするので、ぎこちない足取りで私は彼の所まで一歩一歩向かった。
ドキドキ、ドキドキ、心臓が大きく動いている。
「早く会いたくてすっごい早く来ちゃった。玉木さんより早く着けて良かった」
「あ……うん」
「俺の事、分かる?」
「…………」
信じられない。信じられないけど、分かってる。ちゃんと、あなたの事は分かっている。
「……中川君」
ポツリと呟く様に彼の名前を告げると、彼——中川君は嬉しそうに、うんと頷いた。なんだろう、本当に? これは夢?
こんなに嬉しいのに、これが現実だと受け入れられない。信じられない。今自分の身に起こっている出来事だと思えない。
「……あのさ、俺、初めて知ったんだ」
じっと私を見つめる中川君が言う。それは席に着く様促されて、言われるがまま私が自分の席に着いた時の事だった。中川君は私の前の席に座っていて、私達は机を挟んでお互いに向かい合うようにして座っている。
「玉木さんに、信じてくれないの?って言われて、それで悲しむ玉木さんを見て、俺が信じない事で相手を傷つける事があるんだって初めて知ったんだ。ずっと知らなかったんだ、俺は自分の事ばっかり考えてたから」
ごめんねと、中川君は視線を机の上に移して呟いた。眉根を寄せて、険しい表情。嫌気が差している、とでもいうような。
「どうせこんな俺を知ったら嫌いになるくせにって思ってたんだ。玉木さんにって事じゃなくて、ずっと誰に対しても。仲良くしてくれる友達にも、先生にも、親にも。何も知らないくせにって、卑屈な事ばっか。いつも誰かに傷付けられてる様な気がしてた」
「……そう、だったんだね」
そうか。それがあの時の小さな男の子だったんだ。私と会う前から君はずっと傷付いて、心が疲れ切っていた。そんな君に、私は出会った。
「玉木さんはさ、そんな俺の弱音を受け止めてくれたよね。どうしたら良いのか一緒に考えてくれて、すごく嬉しかったんだ。現実の俺は人にそんな風に甘えたり出来ないけど、夢の中で玉木さんになら出来た。……なんでか分かる?」
「……分からない」
分かる訳がなかった。中川君の周りには沢山頼りになる人が居るはずなのに、その中ではなく何にも出来ない私を頼ってくれたなんて、どう考えても可笑しな話だった。
怪訝そうにする私を見て、中川君は困った様に笑う。そして、「だって俺は知ってたから」と、私から目を離さず、しっかりとした口調で言う。
「玉木さんはそんな事で揶揄う様な人じゃない。玉木さんならきっと真剣に考えてくれるって。俺、ずっとそんな玉木さんみたいになりたいって思ってたから」
「……え?」
「誰にも流されないで、本当に大切な事、正しい事を貫く姿勢に憧れてたんだ。一人で背筋を伸ばして席に着く玉木さんは、すごくかっこよかったよ」
「…………」
……そんな風に思ってくれていたなんて。
クラスでひとりぼっちの私。言われた通りにしか生きてこなかった私。そんな風に言って貰える様な人間じゃないのは確かだったけど——その言葉で、今までの私が全て肯定された様な、孤独に手を差し伸べられた様な、そんな気がしてたまらなかった。
彼は、私を知っていた。知っていて、私を選んでくれた。そう伝えてもらえた事がどれだけ嬉しい事か……感動で、胸が震えた。
「だから俺は君の夢の中に入って……それで、傷つけた。信じられなくてごめん。信じられない俺でごめん。俺はいつも人を信じられない、ダメな理由がようやく分かったんだ」
君が教えてくれたんだよと、中川君は優しい声で私に言う。けれどその一方で、自分の事は厳しい声で話し続ける。
「誰に対しても、きっと信じてくれない。きっと真剣に考えてくれない。きっと心の中では笑ってて、いつか裏切られるはず……ずっとそんな風に思ってたけど、それってさ、よく考えたら直接言われた訳じゃ無いんだ。なのに俺が勝手に予防線はってそれに疲れて、ぐるぐるぐるぐる、それの繰り返し。俺は信じて貰えなくて傷付く怖さを知っていたのに、それと同じ事を玉木さんにやったんだ」
そして、弱くてごめん。こんな自分でごめんと、中川君は私に謝る。何度も、何度も。自分のせいだ、最低だと私に告げる彼の手は机の上でギュッと握りしめられていて、込められる力が、思いが、とても痛々しかった。
「……もういいよ。もう、ダメだよ」
だから、その力の入った拳の上に、私はそっと手を置いた。固まった心を解してあげたかったから。
「そんな事ばかり言っちゃダメだよ。自分をそんなに責めないで」
「…………」
「私、その気持ち分かるよ。……すごく分かる」
信じた人に裏切られる気持ち。それがとても怖くて、辛い気持ち。傷付かない様、逃げ出す気持ち。
「私ね、ずっといい子でいる事しか出来なくて、大人に言われた通りの自分でしか生きてこれなかった。傷つきたく無くて、ずっと自分自身を曝け出す事から、人と向き合う事から逃げてきたの。だから中川君にも受け入れてもらえないに決まってるって、逃げ出した。だから分かるの、その気持ち」
「…………」
「でも……今こうやって私達は心を見せて合えた。お互いに思いを伝えあえたから、もう大丈夫だと思う。信じられる。少なくとも、私達の間では」
君に知って欲しい。信じて欲しい。君を見せて欲しい。
そして、君と全てを受け入れ合っていきたい。
「私は中川君と、そんな二人になりたい」
同じ気持ちが理解出来たら、もう大丈夫だと確信出来た。信じられる。信じ合えるのだと言い切れる。同じ悲しみを知る私とあなたなら。
中川君は私の手を握り返すと、泣きそうな顔で私を見て、笑った。
「俺も。玉木さんとそうなりたい。玉木さんとが良い」
そして、ごめんねと、お互い謝りあって手を取りあう。全てが丸く収まって、ハッピーエンドにも似た余韻が私達を包み込んだ。
——そこに突然、ガラリと開かれた教室の扉。
「お? 中川じゃん、今日めっちゃ早……え?」
何? どういう事? と、やって来たクラスメイトは、目を丸くして私と中川君を交互に見やる。机の上で手を取り合い、何やら普通じゃない雰囲気の私達にそんな反応が返って来るのは当然の事だった。
どうしようと、慌てて離そうとする私の手を、ギュッと握り直したのは中川君。
「こちらはみのりちゃん。俺の大切な人」
にっこり微笑んだ中川君が堂々と告げたその言葉に、クラスメイトも私も目をまん丸にして彼を見た。すると、へへっと悪戯が成功した子供の様な顔で彼は笑った。
「本当はこっちでもそう呼びたかったんだ。良い?」
「あっ、う、うん。もちろん」
「俺の事も名前で呼んで。あ、でも無理はしないで良いよ。一緒に居てくれるだけで嬉しいから」
「は……はい、分かりました」
目の前には、私の手を取り満足気に微笑んでいる中川君。その彼の笑顔になんだかクラクラしている私がいた。急展開についていけていない。こんな事が現実で起こっているなんて……これは夢? 本当に現実? 今日何度目になるかも分からないその問いに首を傾げる。
手に伝わる温もりに、続々と増える驚きが隠せないクラスメイト達。騒つく教室の喧騒と、目の前で微笑む中川君。そんな周りの状況の全てを確認して、あ、これは現実だと私の意識が受け入れる。……受け入れざるを得なかった。だって、中川君が嬉しそうにしてたから。それは私と同じ気持ちだったから。
それは、とても幸せな事だった。