嫌だ、最悪だと溢す。何度もなんども。何度もなんども、彼は地面に向かって吐き捨てる。もう嫌だ、消えたいと。

 途端。何かが近づいてくる気配がして、私はハッと我に返った。こんな事になるなんて思いもしなくて、引きずられる様に私も軽くパニックになっていたけれど、ここはあの樹海。今はそんな場合では無いのだと気がついた。来る。あの黒い影が、彼の思いに応える様に近づいてくる。私が何とかしないとっ、


「な、中川君、聞いて。私は見つけられて嬉しかったよ。中川君だって知れて良かった」

「そんな訳ない。玉木さんは俺みたいな奴は嫌いだ」

「嫌いじゃないよ! ずっと尊敬してたよ、中川君の事。知る前からずっとそう」

「知ってたら尊敬なんてしてないくせに。こんな俺見てどう思う? これが俺だよ、喚き散らして、みっともない、情けない!」

「情けなくなんてないよ! 中川君はそんな自分を全部抱えて生きてきたんでしょ? すごいよ!」

「……すごい? どこが」


 ずんっと、重い声色だった。ひたすらに前を見ず、自分に投げかける様に地面に向かって話していた中川君が、ゆっくりと私へ目を向ける。真っ黒な——まるで恨みのこもった瞳だった。


「いいよね、玉木さんは。心が強くて綺麗だから、嘘つく自分も弱くて情けない自分も居ないもんね。君に俺の気持ちなんて一生分かんないよ」

「! そんな事ないっ、私にだって嫌な自分も嫌いな事もあるよ!」

「でもなんとかなるでしょ? クラスで一人浮いてても何にも気にしないで居られる人に、愛想振り撒いて媚び売らないと生きていけない俺の気持ちなんて分かる訳ないんだよ!」

「!」

「始めからずっと、なんでこんな事になってるのか玉木さんには分からないだろ? もう良い、もう良いよ」


 もう良い、終わりだと中川君が吐き捨てると、彼の背後に影がゆらゆらと集まってくるのがぼんやりと分かった。ぼんやりと、意識の外側での事だった。

 そっか……そういう事だったんだ。

 彼の言葉で全てが理解出来た。何故私がここに呼ばれたのか。何故私を必要としてくれたのか。それが分かった瞬間、段々と世界が色を無くしていく。


「……一人でも平気な私はもう居ないよ。一人でも平気なら今、私はここに居ないもの。だって、ひとりぼっちの私を見つけたのも、ひとりぼっちが寂しい事を教えてくれたのも、私の窮屈な毎日の他の世界を見せてくれたのも、中川君だよ」


 君が私を必要としてくれるのなら。私と同じ様に大切に思ってくれているのなら。私はなんでも頑張れた。なんだってしてあげたかった。私を変えてくれた君だから、私には君の気持ちが分かるから、だから私が助けたいと思っていた。


「私は君を受け入れてる。どんな君でも君が好き。だから現実で会おうって、私、伝えてきたはずなのに。ずっとずっと、夢の中でどんな君にも、伝えたはずなのに……」


 私の声は結局、君には届いていなかったんだね。私の思いは君に必要とされなかった。君は私を受け入れてはくれなかった。


「君は私の事を、信じてくれないんだね」


 もう何も見えないし、何も聞こえない。そんな自分になりたかった。消えてしまいたかった。誰にどう思われても平気な強さを持っている訳じゃない。私は知らなかっただけだ。信じた相手に否定される辛さを知らなかっただけ。同じだけ信じ合っているのだと思っていた。私たちは特別な二人なのだと。それはただの私の勘違いだった。

 誰でも良かったのだ。結局、彼の夢の中に入れるのなら誰でもよくて、それがたまたま私だった。ただ、それだけの事。それを私は、初めて人と心を通わせたと勘違いして、浮かれて、間違えてしまった。

 人に拒絶される事がこんなに辛いと思わなかった。それすらも知らなかったのだ。そんな私が、彼を助けられるはずがない。


「……ごめんなさい、ここに来たのが私で」


 ごめんなさい。あなたの期待に応えられない私で。


「もう……駄目だ」


 消えたいと、心の底から思った。この気持ちも今やっと理解出来た。この世界から居なくなってしまいたい気持ち。ようやくあなたの気持ちが理解出来たから、少しは許してくれるかな。

 大きな影が、私の目の前に立っていた。それは彼の背後にいた、あの黒い影。それが今、私の形をして、私を上から覗き込んでいる。大きな、大きな黒い影。それが段々私にのしかかる様に覆い被さって——私は、闇に飲み込まれた。


 真っ暗闇の中、シクシクと泣く声が響いている。誰の声だろうと思ったら、それは私の声だった。シクシク、シクシクと泣いている。そうか、私は泣きたかったのかと、ストンと心に落ちてきた答えがカチリとはまった。そういえばもうずっと泣いていなかった。いつからかなんてもう分からない。それはずっと昔の話で、そんな自分の事はもうすっかり忘れていた。

 忘れるくらい昔なのだから、物心つく頃にはそうだったと思う。ずっと頑張ってきた自覚はあるけれど、それが私の当たり前だったので、悲しくて泣く様な事はいつの間にか無くなっていた。だって、親の言う事はいつも正しくて、その通りにすれば大人はみんな私を褒めてくれたから。えらいね、すごいね、しっかりしてるね。頑張る私に与えられる言葉。その言葉が私を支え、私という人間を作ってきたと思う。

 正しければ褒められるし、間違えれば怒られる。だから幼い私は褒められる為に正しい事を優先して行動する様になった。怒られるのは出来ていない証拠だから、出来ないで褒められない自分はどうしても受け入れられなかったのだ。だって私は出来る子だと、大人はみんな言っていた。出来るのが私だから出来ないのは私では無いと。私にとって間違える事は大人に自身を否定される事と同じ意味を持っていた。

 大人に否定されるのが怖かった。なぜなら、彼らに認められる事が私の全てだったから。認められて、褒められる、それが自分。だから私は自分の感情よりも正しい事を優先してきて、今の何も無い私が居る。

 勉強が出来る事。規則正しい事。聞き分けが良い事。この毎日を繰り返す事は将来の幸せに繋がっているのだと、大人の言っている事から考えればすぐに理解出来る事だった。だからこれで間違っていないと、窮屈でつまらない毎日も、これしか出来ない私も、今だけの辛抱だと受け入れてきた。

 それが、私の意思だと思っていた。そんな私はずっとひとりぼっちだったけれど、それでも大丈夫だった。だって大人からの未来の保証があったから。それが無くなる事の方が怖かったから。そこに残される何も出来ない自分を知りたく無かったから。ずっとずっと、ずっとそうだった……でも、今は違う。


 ——真剣に考えられる私は正しいと、私を受け入れてくれた君の声がする。

 ——でもそんな事よりも大事な物があるのだと、その為に全力を尽くしていた君を知る。

 ——だから私では駄目だったのだと、今、目の前で私を突き放す君に出会う。


 私は、中川君という一人の人間を知り、彼の事を心から信じた。頼りにしてもらえた事、心を見せてもらえた事で、初めて自分に別の価値を与えてもらえた気がした。人に必要とされる事の意味を知り、大切に思い合う相手がいる幸せを与えてもらった。だから私も中川君に同じ気持ちを返していきたいと、思っていた、のに。

 ……そんな相手に否定される事。それは今までの何より辛い事だと知った。信じて全てを受け入れた相手に、私は受け入れてもらえなかった。猫さんは忠告してくれていたにも関わらず、そうならないと、私なら何とかなると自惚れていた。だから今、私は一人、暗闇の中。

 下へ、下へと落ちていく——思い出せと、以前の私が耳元で囁く。私の現実を。私の毎日を。私は大人に褒められる為の事以外に何をしてきた? ずっと大人が敷いたレールの上をただ歩いてきただけで、一歩もはみ出す事はなかった。それを受け入れて、自分で考える事を放棄してきた。そんな私が今、彼に何をしてあげられる? 

 言われた通りにする事しか出来ない私なのだから、彼の思いを受け入れ、大人しくあの場に留まる事がきっと正しかったのだ。それを、自分の考えで勝手に動いて、今の私なら出来ると自惚れて、彼の望みを叶えてあげる事が出来なかった。

 そう。全部ぜんぶ、言葉に従わなかった私が悪い。大人の言う事を聞く様に、彼の言う通りにしていればこんな事にはならなかった。もしかしたら、中川君が信じてくれたのは言う事を聞く、間違えない私だったのかもしれない。それがこんな事になったから拒絶されたのだ。私はただ、言われた通りに求められる事をしていればそれで良かったはずなのに。


 ——もう、元の自分に戻りたい。その方が良い。

 心に決めた途端、目を閉じた様に真っ暗だった辺りが段々と白んでいき、もやもやと周りの空気を変え始める。何か紙の捲れる様な音と共に周囲に色がつき始めて、もしかしてここはと場所に検討がついた瞬間、私は机に向かって座っていた。テキストを開いていて、隣には家庭教師の先生もいる。やっぱり。ここは私の部屋。今日もまた勉強の、私の毎日がかえってきた。


「あれ? 手が止まってるけど……分からない?」


 先生がノートを覗き込んでそっと尋ねてくるものだから、慌てて「大丈夫です」とだけ返した。分からないとは極力言いたく無かったから、ノートとテキストをもう一度確認しようと手元へ目を向けると、そこには何故か私を見上げる海の仲間達消しゴムが。


「……え?」


 先生からもらった後、机に綺麗に並べていたはずのあの消しゴム達が今、私と目が合った瞬間、ぴょんぴょんと思いおもいに飛び跳ね始める。まるで私に向かって何かを訴えかけている様に。

 そこでようやく私は気がついた。そうか、きっとここは私の夢の中。「こら、もう海にはいけないんだぞ」と、消しゴムを叱る先生の言葉に納得した。元の自分に戻りたいと願った結果がこの場所だったのだと。勉強は元の私の毎日に必要なものだったから。ここは、私の世界の中心だった。

 別に勉強が好きな訳でも嫌いな訳でもない。ただ、それ以外を私は知らなかった。それ以外の、今の自分に必要な何かの存在を。それを知ったのは中川君に出会ってからだった。大切な、今の私に必要な物。経験。一人では生まれない何か。……でも、それを知った私は誰にも必要とされなかった。


 今はもう、道を外れるのが怖い。元の自分に戻る為に、私は今日も机に向かっている。消しゴム達はガッカリした様にトボトボと元の並べた位置に戻ると、そのまま動かなくなってしまった。部屋の中にはコチコチと時計の音が響いている。永遠に続いていく、勉強机と向き合う自分。勉強しかない毎日。それがもう——私には耐えられなかった。

 ピタリと手を止めると、「どうしたの? 分からない?」と、先生の尋ねる声がする。分からない? ……分からない。元の自分に戻る方法が分からない。

 どうして? 今まで通り、やるだけなのに。そうでなきゃならないのに。そうすれば、戻れると思ったのに。

 大人に否定されない自分を、今の自分が否定する。戻らなければと思う気持ちと、それは可笑しいと思う気持ち。受け入れられたいから戻らなければならないのに、そんな自分を自分が一番受け入れられない。


「一度知った事ってさ、なかなか消えないよね」


 急に掛けられた声にハッと隣を見ると、先生がじっと私を見つめていた。


「そういう物が積み重なって、人って作られていくんだよ。積み重なったものを崩すのは簡単な事じゃないんだよ」

「…………」

「でも、パッと消えてくれたらいいのになと、思う時があるよね。そんな魔法みたいな事、現実では起こらないけど」

「……!」


 パッと消える、魔法。そのキーワードは私にとってとても身近な物だった。


 そうだ、消してしまえばいいんだ。現実は変わらないとしても、ここは夢の中。夢の中だから、私には出来る。きっと今なら使えるはず。私は知っている。あの丘で、魔法使いが初めて使えたのは消失の魔法だという事を。

 立ち上がると、私は部屋のドアノブに手を掛ける。引き留める声は無かった。どちらにせよ、私にもう迷いは無い。

 扉を開くと、そこは芝生の上だった。見上げれば一面の星空。流れ星が走る夜空を眺める、あの丘の上。きっとここでなら使えるはずだ。あの時使えなかった消失の魔法。今の私なら魔法を使う自分がイメージ出来る。きっと上手くいくはず。

 もう、全て消してしまおう。出会ってからの全部、頭の中から無くなってしまえばいい。きっとこんな感情は要らなかったのだ。知るべきでは無かった。知ってしまったから悲しいのだ。知らないままの私でいれば中川君とも全て上手くいったのに。大きくなった欲を綺麗さっぱり消してしまえば、そうすれば、きっと私は元に戻れるはず。元の、言う事だけを守れる、間違えない自分に。

 人差し指を見つめると、キラリと指先に星の輝きが落ちてきた。きっとこれは合図だと、私はそっとその指を、


「ダメだっ!」


 急に強い力で肩が引かれると、そこに居たのは肩で息をする中川君だった。


「なっ、……」


 なんで? その言葉は、喉の奥に押し込まれて出て来る事はなかった。何故なら大きく息を吸って吐く彼が真っ直ぐに私を見つめていたから。その真剣な、力のこもった強い視線。そんな目で彼から見られた事は今まで一度も無かった。


「今、何しようとした?」


 彼は私の腕を掴むと、そのまま視線を指先へと移す。まるで魔法の有無を確認しているみたいに。


「使った? 使ってない? 俺の事分かる?」

「わ、」


 “分かる” と応えようとして、口を閉じる。もしかしたらここは分からないと答えた方が良いのではと頭を過ったからだ。

 もう全て消してしまうつもりなのだから、今更私から彼に伝える事なんて何も無い。こんな私に何を言われてもきっと迷惑だろうから。


「……分からない」

「! 本当に?」

「うん……分からないよ」


 だからもう帰って良いんだよと、そっと私の腕を掴む彼の手を離す。もう私とは何も無かった事になるから、安心して中川君には次へ行って欲しかった。