空は一日曇ったまま。それでもだんだん暗くなっていた辺りに夕方くらいかなと予想がついた。そろそろ帰ろうかな、あのお家に。
と、その前に。昨日案内してもらった海へ寄って帰ろうとピンときた。私の為にあの子が用意してくれた大切な場所だったから、落ち込んだ心を慰めてもらおうと思ったのだ。昨日の消しゴム達はまだ元気にしているのだろうか。
門からスタートして図書館の前を通り過ぎ、昨日の案内通りに海へと向かう。すると堤防の前に佇む人の影が一つ。
「ライオンさん!」
三角の耳にスッと伸びた尻尾。間違いなく本人である。駆け寄り隣に立つ私を見下ろす彼は、目が合うとまたあの時の様ににこりと微笑んで、「どうだった? 街探検は」と尋ねてくれた。良かった。部屋を出て行ってしまったけれど、やっぱり拒絶された訳では無かったらしい。
「えっと、すごくくたびれた。だいぶ歩いたもので……」
「一日中歩いてたもんね」
「う、うん……」
……でも、なんだろう。何か変だ。私の事をなんでも知ってるのはいつもの事としても、ライオンさんってこんな雰囲気だったっけ。
「あ、そうだ。私すっかりこの街にはお城があるものだとばかり思ってたけど、違ったんだね。ライオンさんはお城に住んでると決めつけてたよ」
「なんでそう思ったの?」
「んー、やっぱりライオンは百獣の王だし、お城が似合う素敵な街並みでもあるし、ファンタジー感に引っ張られたのかも……」
「うん。でも間違って無いよ。昔はあったんだ」
ふと、遠い海の先へ視線を戻したライオンさんは穏やかな表情で、固い声で話しだす。
「だから俺はライオンで、王様だった。君の勘は間違ってないよ。君は全部間違ってない」
私に視線を戻したのはライオンさんで間違いないはずなのに、その表情から、口調から、そこに居るのはもう違う人格を持った人なのだと察した。今まで会った誰とも違う。もしかしてあなたは……
「君、なの?」
「…………」
微笑んだまま、その問いに彼はゆっくりと口を開いた。
「本当は、ライオンになんてなりたくなかったんだ。だから城なんて無い方が良いと決めたのに、ライオンのままの自分は何も変わらなかった。俺の根っこは偉そうで自分勝手でひとりぼっちのまま」
そう言う彼は自嘲的な笑みを浮かべていて、そんな事ないよと言ってあげたかったけれど、口を挟める雰囲気では無かった。きっと今は聞く時間なのだと思った。彼の語る、彼自身を。
「外向きの犬の自分は人との関わり方として楽だけど、何か違う。あんな風になりたかった訳じゃない。子供なんてもっと手に負えない。自分勝手なわがままばかり込み上げて、制御出来なくなる」
「…………」
「だから、猫に憧れたんだ。自立して自制心もあって気遣いも出来るのに、決して無理はしない。そんな人になりたいと思ったけど、向こうから嫌われた。猫の自分になれなかった。猫であると現実が分かるんだ。間違っていると冷静な自分に否定されて、自分の本心と行動の差が埋められなくなる。君と居る今だって本当は間違ってるのは分かってるんだ」
じっと彼は、私を見つめる。その瞳は寂しげで、頑なに自分を受け入れられない、冷え切った瞳をしていた。
「全部、君の言う通り。ライオンも犬も猫も、君の出会った子供の俺と同じ。全部が俺で間違いない。でも、これで俺は君に全てを見せたけど、俺が誰だか君に分かる?」
「…………」
「……分からないよね。君は知ってるけど、分からないんだよ」
そして、「おやすみ」と彼が言うと、空は瞬く間に夜を連れてきて、私はまたあの家へと戻っていた。大人しくベッドに潜って、考える。先程の彼の言葉を何度も反復する。
『——君は知ってるけど、分からないんだよ』
責められている様にも、諦められてる様にも感じた。期待されている様にも、恐れられている様にも。
今の私は君の内面を知った。でも、君が誰だかまだ分からない。分からないから、君はそんな事を言ったんだよね? つまり私は分かるはずなんだよね? 私は君を知ってるんだよね?
彼の寂しげな瞳だけが、目を閉じても浮かび上がって消えなかった。私が君を笑顔にしたい。私に出来る事ならなんでもしてあげたい。私を求めてくれるのなら。
次の日から、私は一人、街の中を探索する日々が始まった。街を自由に歩き回って答えへ繋がる欠片を探し、そして夕方になる頃にまたあの海で彼に新たに生まれた疑問に答えてもらう。そんな一日の繰り返しが今日で三日目となっていた。
今日までに分かった事といえば二つ。彼の為の物はこの街に存在しないという事と、この街から私一人では出られないという事。
初日にお城以外の彼の家の様な物を探してみたけれど残念ながら見つからず、お城だけでなく、彼は自分の為の物の何もかもをこの街から消してしまったのだと教えてもらった。
ならば街の外にあるのではと思い立ち、次の日は街を出ようと試みたものの門はびくともせず、どこを探しても外へ繋がる入り口は見つからなかった。その日の海では彼に寂しい顔をさせてしまい、自分の軽率な行動に反省する事となった。
そして迎えた今日、三日目。今日は街の中に彼の物が無いのだとしたら他の誰かの物ならあるのかもと、もう一度街を歩き回ってみる事に。
結果、今誰かが住んでいる家や働いている人が居るお店、という物は無かったけれど、どちらもすぐに使い出す事が出来る状態で存在している事に新たに思う事が見つかった。もしかしたら、家も店も本当は必要とされた事があるもので、だからそのままの状態でここにあるのではないのかなと。
だってこの街に彼の為の物は無いはずだから、自分の為に用意したのならもうここから無くなっているはずだ。誰かの為のものだから綺麗な状態で存在しているのかもと思うと、とても自然な事の様に感じたのだ。
「この街には昔、誰かが居た事があるの?」
相変わらずの曇り空の下。彼と並んだ堤防の前で、海を眺める彼に問う。すると彼は驚いた表情で私を見た後、寂しそうな微笑みを浮かべて横に首を振った。
「居ないよ。居て欲しいと思った事はあったけど、俺の夢の中にまでは呼べなかったんだ。なんでか分からないから色々用意してみたりもしたんだけど、呼べない理由はよく分からないままだった。みんな次の日には俺との出来事を忘れてるからかなぁと今は思ってる」
「そうなんだ……じゃあ今まで色んな人の夢の中に入ってきたんだね。誰の夢にでも入れるの?」
「うん。それも何故だかはよく分からないけど」
そして少し考える様な間をおいて、ある日急に出来たんだ、と彼は教えてくれた。それは確か、自分の心の内側と、人と関わる外側の違いに悩み始めた頃からだったのだと。
「夜になると色々考えるんだけど、寝る前に考えてた人がそのまま夢に出てくる様になった時には驚いた。何度か繰り返す内に今がどっちの夢なのかとか、相手の夢だとあんまり自由に出来ないなとか、決まりみたいな物もなんとなく感覚で分かる様になってきて……」
ピタリと、そこで彼は言葉を止める。どうしたのかと首を傾げると、ふと彼が、海を眺めていた視線を私の方へと向けた。
「あのさ、この海が欲しかったんだ」
「この海が? なんで?」
「だって、君は俺の夢に入って来れたから。次に来てくれた時にこの海があれば、君を喜ばせる事が出来ると思ったんだ。初めて一緒に海を見た時の君が忘れられなかったから」
「うん……それは本当にありがとう。あの時君は黒猫だったよね?」
「そう。理想の自分で君に会いたかったから。でも首輪をしたのに猫が嫌がって、その後上手くいかなくなったけど。俺の中の猫は今では完璧に他人だよ」
「そうかな? 私は猫さんも含めてみんな同じ部分を持ってると思うけどな」
「違うよ。アイツは違う。だってアイツはきっとこんな事はしないよ」
そう言うと、彼はスッと人差し指を伸ばして、えいっと指を振る。すると、海で変わらず楽しそうに泳いでいた私の消しゴム達が、ポンッと一斉に消えてしまった。そこに残されたのは灰色の寂しい海と波の音だけ。
「俺はあの消しゴム達が嫌いだ。誰かが君を喜ばせた証拠が、君の心の中に大切に残ってるのが嫌だ」
「……え?」
「ここには俺と君だけで良いよ。ひとりぼっち同士の俺達で居たいんだ」
君に俺より仲良しの人が出来るのが怖い、言葉を失う私を前にポツリと告げられたその言葉と同時に、ポツリ、ポツリと降り出したのは雨。
雨脚は段々と強くなり、呆然と佇む私に彼は家へ帰る様促した。止まっていた思考をどうにか動かして、君は?と尋ねたけれど、微笑んだまま何も答えてくれなかった。
そして、また明日と彼は言う。これはいつもの終わりの合図だ。もう話は終わったから帰れと告げられていて、その言葉にいつも素直に従ってきた。……でも、今日は違う。こんな雨の中を一人で放っておく訳にはいかない。
「あのさ、うちにおいでよ。一緒に帰ろう」
「……え」
「え、じゃないよ。風邪ひいちゃうよ」
「ひかないよ。分かるでしょ?」
「でもこのままじゃ雨はやまないでしょう?」
魔法の様になんでも思い通りに出来る世界だから、きっと彼の言う通り、風邪なんてひく事も無いのだろう。ここは彼の世界だ。彼の心が思うままの世界。だから風邪の一つもひかないだろうけど、でも、降り続ける雨をやませる事は出来ないはず。
だって気分で世界が変わるのだと、前に猫さんが言っていた。彼の心が晴れ無い限り、この世界に晴れ間はこない。だから私は始めから分かっていた。ずっと曇り空の理由を分かっているから、一生懸命街を歩いた。早く君を本当の笑顔にしてあげたかったから。
「うちにおいでよ。風邪をひかなくても、雨に濡れれば心は落ち込むでしょう? 落ち着くまででいいからさ」
雨をやませてあげたい。これは君の心に降る雨だ。落ち込んだ心を一人で晴らすには沢山の時間が必要なのだと、今の私は知っている。君と関わり、変わる事が出来た私には分かる。ずっと変わらないと思っていた自分の世界は、一人では難しくても、誰かに受け入れてもらう事で簡単に形を変える事があるのだと。
「……で? 落ち着いたら君はずっとここに居てくれるの?」
「……え?」
「今落ち着いて、それで満足して、で、君はまたこの世界を出る為に頑張るの?」
びっしょりと濡れた髪から覗く力の無い金の瞳が、ジッと私を覗き込む。返す言葉が見つからない私を見て、彼はふと、小さく嘲笑う様に口角を上げた。
「なんかもうよく分かんないや。見つけてもらいたかったはずなのに、もうこのままでいいや、とも思うんだ。もう全部受け止めてもらえたし。今が一番幸せなんだと思う」
すると、雨が徐々に小降りになっていく。ポツリ、ポツリ——ピタッとやんだ、雨。
「そうだよ。もう君がこっちに来てくれて、俺を見つけてくれて、俺は今幸せなんだ。だからなるべく長くこの幸せを続けさせて。君なら分かってくれるよね?」
雨は止んだ。雲の切れ間に、空が顔を出す。段々と広がる夜空には綺麗な星が瞬いていて、月明かりが差し込み海の輝きを照らし出す。穏やかな波の音が響く、神秘的な海の夜景。額に飾られた絵画の様に間違いの無い景色だったけれど、私はその景色の美しさを受け入れる事は出来なかった。
ただただ、その美しさに焦る。悠長にしていられないと思った。早く二人で外へ出ないと。早くそんな事はないのだと証明しないと。この景色は彼が答えを受け入れてしまった結果だ。きっと私が間違った方へ彼を導いてしまったのだ。
彼が満足するまでずっとここで寄り添ってあげる事も出来るけれど、きっとそれは間違っている。それでは彼をここから出してあげる事が出来ない。……そう。きっと外へ出られないのは私じゃない。ずっとここに居た彼だったのだ。それが、ひとりぼっちの答えだった。
悲しくなって、じっと佇む彼をギュッと抱きしめた。あの時の小さな彼にしてあげた様に、少しでも心が軽く、柔らかくなります様にと。私が出来る事をしなければと思った。今の所、私は何も出来ていない。彼を助ける事も、応えてあげる事も出来ていない。
早く見つけないと。それが私に出来る事。それが、私が彼の為に出来る事。
待っててと告げると、私は走り出した。一つ、明日向かおうと思っていた場所がある。街は探し尽くしてしまったし、他にもし探し切れていない場所があるとしたらここだと思っていたのだ。この場所にきっと何かあるだろうと予感がして、私は全速力で走る。少しでも早く、早く君を見つけないと!
ついた!と、肩で息をしながら扉を開けた。壁面にぎっしりと詰まった本に、天井まで続く螺旋階段。そこは始めに案内されて以来、一度も訪れていない場所。図書館だった。
この図書館もまた、私の為に用意された場所だと聞いていた。だからここに彼の手掛かりは無いだろうと後回しにしていたのだ。どの本を選んでも私の知っている物しか存在しないのだから、この場所で新たに何かを得る事はないのだろうと。
しかし、今はそんな事を言っている場合ではない。可能性があるのならとにかく進まなければならないと、目の前の本棚と向き合う様に立つ。変わらず背表紙の文字ははっきりと読めないけれど、お構いなしに片っ端から取り出してはパラパラとめくり、中身を確認して閉じていった。何度もなんども、小さな違いでも何かの変化でも、なんでも良いから生まれて欲しいと願っていた。
けれど、ここは私の図書館。そこにあるのは私がひとりぼっちで読み上げてきた本の数々。私しか知らない私の思い出がそこにはあったけれど、何度も繰り返す内に、そのどれもが私がひとりぼっちである証明の様な気がしてならなかった。誰に繋がる情報も無い。だってここは、私の図書館なのだから……。
——と、諦めかけたその時。少し先にある一冊の本が目に入り、ふと、初めてここに訪れた時の事が頭を過ぎる。そういえば魔法使いのお話の本だけが、本を読む前から背表紙にある題名を読む事が出来たのだ。これも同じ様にはっきりと形を持った何かが書かれている様に見えた。
階段を上がってその本の前に立つと、やはり読み取る事が出来る文字でしっかりと表記されている。それは魔法使いの物とは違う本の題名だった。
「夢の、成り立ち……」