彩氷の異端審問官《インクイジター》

 月のない夜だった。
 上村(かみむら)一季(かずき)は、その日も遅くまで街へと繰り出していた。
 最近、中高生を標的とした怪事件が発生していて、家でも学校でも警戒しろとの注意を受けている。知っていても従う気にはなれなかった。
 予定に入っていた塾には向かわず、気になっていた書店や電気店などを巡り、どこかで夕飯をすませようと思った時だった。
 通り慣れた駅近くの商店街。
 小さな路地へ足を向けた。
 理由は特にない。たまたま気になっただけ。少しの好奇心。
 単なる暇つぶしに今まで通ったことのない道を歩いてみたかった。
 そんなささいな気まぐれから何かがずれていって。
 当たり前だと思っていた日常は崩れていく。
 最初は見間違いかと思った。
 景色の向こう側。路地の反対側が陽炎のように揺らめいていた。
 色は緋。
 思わず頭上を見上げる。星のない空が薄いカーテンに覆われていた。
 何度も瞬きをして目をこする。目の前の景色は変わらない。
 じきに耳鳴りもしてきた。異質な空間へと迷い込んだような気がしてくる。
 わずかに覚えた恐怖。それでも好奇心の方がまだ勝っていた。
 周囲を見渡しながら路地を進む。薄暗く細い道幅は、ジグザグに曲がっていてわずかに通りの向こう側が見える。先に進もうとした瞬間、
 アスファルトの地面に添えられた手が見えた。
 ぎくりとして足をとめる。
 路地裏で人が倒れていた。それも複数。
 異様な光景に思考が停止する。
 あと五歩で交差する路地。わずかに開けた空間には六人。女子高生と思われる。意識を失っているらしくぴくりと動かない。
 そこで一季も異常を感じとる。病気か怪我か事件か事故か。
 いやな予感がするものの、行動には移せない。経緯がわからないということもある。しかし、事情を知っても動けるかは別の話だ。
 つまりは、そんな状況に置かれた経験がないともいえる。すでに正常な判断は難しい。
 実際に一季にできることは目の前の状況を眺めることだけだった。
〈時の流れは残酷ね〉
 頭の中に女の声が響いてきた。
 続けてため息がもれる。
〈これだけの人間の魔力を集めても、ほんの雀の涙。嘆かわしいこと〉
〈無駄口をたたくな。マスターの元に戻るぞ〉
 男性の声音だった。
 残念そうに呟く女性の声とは違い、諫める口調はぞくりとするほど冷たい。
 壁に身を隠しながら、様子を窺う。
 視線を這わした先を確認して目を瞠る。 
 女子高生たちの前には白銀の狼と黒豹が屹立していた。
〈マスターの結界を通り抜けてくるとは……魔力超過(イクシーダー)か〉
〈それもかなり。思わぬ収穫だわ〉
 口にして狼と豹が振り向いた。二匹同時に。
 こちらの存在を気付かれている。
 音は立てていない。動きも最小限だった。
 すぐにその認識は間違いだと気付く。最初から存在を知られていたのだ。
 ぞくりと背筋に冷たいものが走る。とっさに逃げだす。後方へつま先を向けるも、
〈動かないでね〉
 眼前には豹がいた。一瞬のうちに先回りされている。
 狼は動いていない。その意味は退路を塞がれたも同然。挟み撃ちにされた。
 身体が動かない。鼓動も早くなる。呼吸も乱れていく。
 後悔もできない。恐怖もない。目の前の現実を受け入れられないだけだ。
〈おとなしくしてね。死にたくはないでしょう?〉
 優しげな言葉とは裏腹に迫るのは死の恐怖。
 ゆっくりと近づく豹を見つめる。
 かたかたと震える手足。器に注がれた水のようにゆっくりと迫る何か。
 豹と共に近づいて、限界を迎える。
 心臓を鷲づかみにされた、その瞬間、
「そうはいくか」
 そっけない声とともに何かが頭上から降ってきた。
 弾丸のような早さと突風のような衝撃に襲われ、かたく目をつぶる。
 痛みはない。
 うっすらと片目だけの視界には虹の粒子が瞬いた。
(……雪?)
 一季は思わず見惚れた。
 すぐに思い違いだと気付く。春先の今、雪が降るほどの低い気温ではない。
 頭上には雪のように降り注ぐ粒子がいくつも舞っていた。それを追うように視線を下ろしてぎくりとする。
 自分の一歩前、先ほど豹がいた場所に氷注(ひょうちゅう)がいくつも突き出ていた。まるでアスファルトの地面から発生したかのように。
 治まりかけていた鼓動がまたうるさく騒ぎ出す。
 さきほどまでの状況よりも、さらに信じられない出来事が起きている。そう確信したからだ。
〈貴様……何者だ!〉
 声を張りあげたのは豹だった。飛んで避けたらしい。
 姿勢を低くして威嚇するも、相手は意に介さない。
 氷柱(ひょうちゅう)の向こう。何者かが一季と向き合うように片膝をついていた。
 ゆっくりとした動作で立ちあがる。
「そう聞かれて答えるヤツがいるかい?」
 振り返った相貌は自分とそう変わらない少年だった。
 レザージャケットにシャツ、スキニージーンズという服装。背は高い。
 端正な顔立ちには、場違いと思える強気な笑みを浮かべていた。 
 狼も警戒するように頭を下げる。口元からは牙を覗かせていた。
〈俺たちを殺さなかったこと……じきに後悔することになるぞ〉
「問題ない」
 少年は、ざっと靴底をこする。次にわずかに足幅を広げた。
 その瞬間、足元から光があふれる。視線を落せば地面に陣が浮き上がっていた。
「今から殺す」
 牽制以上の明確な殺意。
 突き刺さるような空気。生きた心地がしなかった。感覚がすでに麻痺しているように。
 少年が腰を落とした。豹とじりじりと間合いを詰める。
「やめ……ッ!」
 一季は声をあげた。
 止めたかったのか。
 助けてほしかったのか。
 誰も傷つけたくなかったのか。
 理由はわからない。けれど、身体が勝手に動いた。
 手をのばして、何かに触れようとした時、
 視界が暗転する。身体が強く引かれた。
「な……ツ!」
 一季は驚くしかなかった。
 正面には豹と対峙していた少年が自分に殴りかかろうとしている。
 心臓が絞めつけられる。身体が硬直した。
 相手も動きを止める。眼前に拳が突き出された状態で。
 一季が地面にへたり込む直後、女性の哄笑が響いた。
 頭上を見れば、ビルの隙間から緋色の陽炎が薄れていく。完全に消失した時には女性の笑声も聞こえなくなった。
 やがて舌打ちが聞こえてくる。
「空間転移か。逃げ足の早い」
 苛立たしく呟いたのは少年だった。
「あんた一体……」
 一季はのろのろと立ちあがる。
 何を話していいのか。何を訊けばいいのか。
 まとまらない思考。
 それでも言葉を紡ごうとすれば、
「待て」
 はっきりとした声音に遮られた。
 今さらになって一季は気付く。
 突然、現れた彼は何者なのか。
 自分に危害を加えないという保証はどこにもなかった。
 三度、襲われる恐怖。
 今度こそ、生命を狙われたら抗う術はない。
 すでに精神状態は恐慌寸前だ。次の瞬間には、何が起こるか予想もできないし、一季も自分が的確な状況判断ができるとは思えなかった。
 また、行動に移すことなど論外だった。
 もちろん、そう明確な判断ができたわけではない。飽和する一歩手前のメンタルでは何も考えることができない。それが身体の動きを鈍くさせていることも。
 翻弄されるしかない。
 抵抗の意思すら奪われた一季はじっと見返すことしかできない。
 それを知っているのかいないのか、やがて少年が神妙な面持ちで告げる。
「腹が減った」
 ゴロゴロと雷のような音があたりに響く。
 今度こそ一季の頭の中は真っ白になった。
「おお、うまそう!」
 向かいに座る少年の表情は輝いていた。
 夕飯のメインはキチンカツ。
 春菊のナムル、ポテトサラダ、オニオンスープ。
 あれから、一季は自宅マンションへ戻った。腹をすかした危険人物と一緒に。
 少し落ち着きを取り戻した今なら、とんでもないことをしたと自覚できる。だが、もう遅い。
「ここんとこまともな飯、食ってなかったんだよな」
 パンッと両手を叩く。勢いのいい「いただきます」の挨拶らしい。
 何故、こんなヤツと食事をする羽目になったのか。思考能力が低下していた自分をたこ殴りにしたい。
 だが、まだできることはあると思いなおす。
 箸を持ちながら、一季は口を開いた。
「なあ、あんた」
「あ。うまい。カツのソースは味噌を使ってんのか」
「一体さっきのは……」
「ポテトサラダもあっさりしてるし。隠し味は、酢と砂糖か?」
「どういうことなんだ?」
「あー。オニオンスープが沁みる……」
「ちょっとは他人の話を聞け!」
 バンッとテーブルを叩いて抗議する。ついでに椅子からも立ちあがった。勢いで。
 頬を膨らませた少年と目が合う。普通に食事できる神経がわからない。
 こちとら、死ぬかもしれない思いをしたんだ。
 せめて、ことの詳細を聞かないと割に合わない。
 そんな気持ちを込めて睨む。
 対する少年は箸を止めたまま、表情を変えない。しばしの間、沈黙が流れる。
「ま、いいか。飯の代金分は教えてやる。別に隠すほどのもんでもねーし」
 だったら早く教えんか。
 言い方がいちいち腹立つが文句を口にする気力は薄れている。
 疲労なのか、苛立ちなのか。とにかく、事実が知りたい。その一点にこだわる。
 一季は気を取り直して質問してみた。
「で、あんたは何者なんだ?」
東堂(とうどう)嵐士(あらし)。おまえと同じ征渓(せいけい)高校の生徒」
 びしりと青筋が浮かぶ。
 そんなことを訊いたんじゃない。
 同時に、何故、通っている学校がわかったのだろうと首を傾げる。
 彼の服装で気が付いた。制服か。
 そんなささいな観察すら見抜けなくなっている。思考力はかなり落ちているとみていい。だが、不安という感情は厄介なもので、正確な情報がないと手に入れるまで求めてしまうものだ。心身の疲労など忘れて。
 もう一度、駄目もとで聞き直した。
「普通の高校生は物質を凍らせることなんてできないと思われるのですが」
「人間、気合いがあれば何でもできる」
 口調を丁寧にしてみても、またもやふざけているとしか思えない返答だ。
 ぎろりと睨んでやる。
 ふざけるのも、いい加減にしろ。
 こちらの気持ちが伝わったのか、少年は説明し直した。
 その表情は渋い。かなり気乗りしない反応だった。
「早い話、俺はある犯罪者を追ってる。それがおまえと接触した。おまけにおまえは生命を狙われている。また遭遇する可能性が高い。以上」
 今度は簡潔すぎる。
 逆に頭に入らない。
 倒れていた女子高生は?
 豹と狼は?
 あんたの目的は?
 そもそも一体、どういう状況だったのか。
 気になる疑問がてんこもりだった。
 要点を説明されただけで「はい。そうですか」とならないのが人情である。
 言いたいことは山ほどあるが、頭の回転が追いつかない。
 どう説明しようか悩んだところで少年こと東堂は、ため息をついた。箸をおいて頭をかきむしる。
「俺、あんま好きくないんだよ。魔術師とか、そういう言葉」
「あんた……まさか魔法使いとかいうんじゃないだろうな?」
 身を乗り出して眉をひそめる。
 魔術師やら魔法使いときた。からかわれているとしか思えない。
 よって、信じない。
 はずだが、あんな現象を目撃した後では話は違ってくる。
 単純に考えて、街中に豹や狼が現れてしゃべっていたことからすでに異常事態である。ましてや、それらに殴りかかろうとした東堂も常識の範疇を超えている。しかも、科学的には説明できない現象が間違いなく起きていた。
(緋色の壁とか氷柱とか)
 ただし、これを他人に話したところで信じてくれるとは思えない。一季だって、他の人間から聞かされたら夢でも見たのだろうと言うに違いない。
 むしろ、夢だと言ってくれたら楽になれるのに。
 とは言っても、ことはそう希望通りにはならないものだ。
「似て非なるものだ。あれは何の代償もなしに発現する奇跡の御業とか、そういう類」
 再び箸をとった東堂が口を開いた。
 魔法の説明らしい。
 内容からすると、神の御業とか、奇跡といった現象だろうか。
「逆に魔術ってのは代償を払って物理法則をほんの少し曲げる術だ。高く跳んだり、早く走れたり、炎や水、時間を操る。錬金術もこの部類に入るが、もともと(なまり)(きん)に変えるなんて無理な話さ。(きん)以上の代償を支払わなきゃならない、割に合わない術もいいとこだ」
「そんなこと」
 ありえない。
 と言いかけて口をつぐんだ。
 実際に、この目で見たもの。
 否定をするには、あまりにも鮮やかで残酷だ。
 あったはずの日常が崩れる一歩手前。非日常の入り口。
 それが一季が立つ現状。
 認めることができない。信じたくない。
 その一方で、自分の見たものを嘘だと決めつけることもできなくて。
 対して、東堂には有無を言わせない雰囲気があった。黙々と食事を続ける。
 事実を告げる者にある自信にも似た直截的な言葉。
 一季の反応も見透かしたような態度だった。
 すでに何度か経験済みのような。
 そんな予想が頭をかすめた時だった。東堂が再び口を開く。
「つまりは、さっきの肉食獣二匹が俺が追ってる犯罪者の情報を持っているかもしれない。まずはそれを引き出したい」
「すると、あんたは……」
「今日はもうやめとけ。いろいろあって疲れてるし、人間ってのはキャパを超えると物覚えが悪くなるもんだ」
 けろりと吐かれた言葉には何の気負いもなくて。
 まるきり他人事だ。
 実際に他人事だろうが、さっきの言葉には気遣いも含まれているようにも思えた。
 てっきり、頭ごなしに自分の都合ばかりを押しつけられると思っていた。何の根拠もなしに。
 これではかえって調子が狂う。
「ごちそうさん」
 いつの間にか、皿はきれいに平らげられていた。
 こちらはちっとも進んでない。まじか。
 驚きつつも旺盛な食欲に圧倒される。
 げふっと息をついた東堂はあたりを見回す。
「さて、と。風呂いい?」
 前言撤回。
 やっぱり、腹が立つ。人の都合などお構いなしだ。
 食事だけじゃなく風呂まで要求してくるとは。
「あんた、かなり図々しいな」
 なけなしの反発心で攻撃してみても、東堂の表情は変わらなかった。
「人ひとり生命助けて一宿一飯なんて、むしろ親切だと思うけど」
「……リビングを出て右手にある。タオルと着替えを用意しとく」
 あっさり反撃された。痛いところを突いてくる。
 結果的には生命を救われた形になるのか。それをちらつかせられたら強気に出れない。
 食欲はとっくに消え失せている。仕方がないので冷めた夕飯にラップをかけて、さっさと準備をする。
 そこで身体が重いことに気付く。疲労がかなり蓄積されている。
「じゃ、おやすみ」
「ここで寝るのかよ……」
 一季は、うめいた。
 風呂からあがった東堂はソファーにごろりと横になる。当たり前のように目をつぶった。
 もう寝息が聞こえ始めている。
 なんというか神経が太いというか、マイペースというか。
 文句も呆れも、失せた。一季も風呂に入ろうと浴室に向かう。
《…………魔力超過(イクシーダー)か》
 あの言葉の意味はどういうことなのか。
 男性の冷たい言葉が耳に残る。
 温水の温かさで身体の疲労が薄れていく。代わりに睡魔が思考を邪魔する。
 眠気と必死に戦いながら、ふらふらとした足取りで自室に向かう。
 いろいろなことがありすぎた。
 どさりとベッドに倒れ込む。
 もう限界だった。
 考えることを止めて、一季は意識を手放した。
 翌朝、起床すると図々しい少年は消えていた。
 夜勤明けの母親に知られたら、どう言い訳しようかひやひやしていたが、とんだ杞憂だった。
 いつものとおり、朝食をすませ、学校に向かう。
 神経が太いのか、鈍いのか。感覚が麻痺したのかもしれない。我ながら、感心する。
「今度は女子高生6人だってよ」
「皆、貧血?」
「まだ意識、戻らないんだって」
「本当に眠り姫みたい」
「かわいそう」
 教室に向かう途中に聞こえてくる最近の話題。
 中高生の少女が、突然眠り続けてしまう不可思議な症例だった。
 検査では何の異常も認められないのに彼女たちは深い眠りに落ちたままだ。
 この街周辺で起きてはいるが彼女たちの通う学校や性格、家庭環境などに共通点はなく、日増しに被害者は増え続けている。
 またマスメディアの無責任な報道により「眠り姫事件」と名前がつけられ、人々の関心を集めている。
「何で女子ばっかり……」
「あーあ、わたしも眠りたーい」
「場所は駅前の商店街だってよ」
「嘘だろ。すぐ近くじゃん」
 耳に入ってきた会話に、ぎくりとした。
 内心ひやひやしてする。
 その場にいたという事実は、こんなにも居心地が悪いものなのか。
 口にしたら、昨夜目にしたものまで話さなくてはいけなくなる。そして説明したところで正気を疑われるだけだ。その場にいた一季ですら信じられずにいる。
 となれば、できることといったら知らぬ存ぜぬの姿勢でいるしかない。
 無関係を装う。
 導き出された結論に対して、戸惑いが捨てきれない。
 そうするしかないとわかっていても、見聞きしたことをずっと黙ったままにしておけるのだろうか。そんな疑念が頭をかすめるのだ。自慢ではないが嘘をついたり、ごまかすといった才能はからきしない。
 いつ口が滑るともわからない。すると今度は、不安を打ち消すように怒りが発生してくる。要するに現状に対する不満から、事情を知ってそうな人物に八つ当たりしたくなったのだ。
(あいつ……同じ学校とか言ってたけど本当かよ)
 昨夜の会話を思い出す。
東堂(とうどう)嵐士(あらし)。おまえと同じ征渓(せいけい)高校の生徒』
 今にして思えば、その場しのぎの言い訳だったのかもしれない。
 彼は私服だったし、あんな個性的な言動だったら校内で有名になっていそうなものである。だが、一季には心当たりがない。見覚えすらなかった。
(まあ、あの女子高生たちが無傷と知れただけましなんだろうけど)
 そうなのだ。今回の事件についての唯一の共通項は、目立った外傷はないという点だった。
 被害者が例外なく健康そのもので、ただ眠り続けているとしか考えられない状態らしい。
 昨夜の女子高生たちも眠り姫の被害者だとすれば、生命に別条はないということになる。不謹慎ではあるが、わずかに安堵する。偶然に居合わせただけとはいえ、何かあっては後味が悪い。
 結局、自分は日常生活に戻ることしかできなかった。
 授業を受けずに真相を突き止めるなんて無謀な真似はできそうにない。
 ようやく自分の教室が見えてきた頃だった。
 苦しかった胸も和らいでくる。
 扉の前で生徒とすれ違う。
 見知った人物だった。
 整った顔とすらりとした体格。知性を感じさせる雰囲気。
 性格も穏やかで、成績も優秀。
 分け隔てなく人と接するため、男女学年を問わず人気がある。
 それもそのはず。
 彼は生徒会長の賢木(さかき)智央(ちひろ)
 同じ眼鏡でも自分とは、えらい違いだ。
「おはようございます」
「おはよう」
 挨拶をすると爽やかな笑顔を返された。一季は複雑な気持ちになる。
 これを目撃するためだけに早く登校する女子も多いと聞く。それを自分に向けるとは、やはり生徒会長の名は伊達ではないなと感心するばかりだ。
 耐えきれなくなって視線を下げれば、視界に入ってきたものに興味を覚える。
(飾り紐?)
 賢木の制服の第二ボタン。そこらから右のポケットにかけて曲線を描く紐。
 刺繍の入った飾緒のようだった。
(鍵か?) 
 彼のような優等生が校則違反をするとは思えなかった。
 アクセサリーの類でないとすれば、ロッカーの鍵などまとめておくチェーンだろうか。
(それとも懐中時計とかか? さすがは生徒会長)
 飛ばし過ぎた発想に自ら苦笑すれば、自分のクラスにたどり着いていた。
「おはよう」
「おー」
 教室に入るなり、挨拶されて返事をする。
 いつものやりとり。
 すっかり元の生活に戻りつつある精神が、再び揺るがされた。
 声をかけてきた人物に驚いて、自然と声が大きくなる。
「おまえ、とうど……っ!」
 名を呼ぶ前に口を塞がれた。それもスパンッと張り手を喰らうような勢いで。不思議と痛みは感じなかった。
「ちょっといいか」
 さらっとした口調で襟首を掴まえられる。その後は問答無用の力で引きずられた。
 教室の注目を集めるものの、それも一瞬。
「なんだ、あれ」
「上村とあいつ、知り合いだっけ?」
「そんなはずないだろ。そもそもあいつ名前は……」
「えーと誰だっけ?」
 素早く教室を離れたこと、一季に声をかけた人物の名前が曖昧なことから、すぐにクラスメイトの関心が失われていった。

 屋上へと続く階段付近。
 昼夜を問わず、人気はない。そこでようやく解放された一季は首を痛むさすりつつ、相手を睨んだ。
「きっと昨日の今日で挙動不審になるだろうから、さっさと釘を刺そうと思った矢先、予想通りの反応(リアクション)しやがって……」
 相手も不満満載らしい。
 思わず、むっとなった。
 一季も不信感を露わにする。
「あんた、何やってんだよ」
「学生の本分」
 嘘くさい。
 まず最初の感想がそれだった。
 目の前の人物は昨夜の危険人物。もとい、夕飯を平らげ風呂まで所望した厚かましい男。
 東堂(とうどう)嵐士(あらし)である。
 そいつと対峙している。
 一季は納得がいかない。
 「何なんだ、その恰好」
 あきれ顔で訊ねる。
 彼の姿は普通の高校生といった恰好だった。
 いや、実際はかなり語弊がある。
 詰襟の学生服は校則通り。大勢のそれと区別がつかない。いや、自分もそうだが。
 相手の服装には違和感を覚えた。
 もっとも気になるのは、年季の入った黒縁メガネなんぞをしている。
 それが影の薄い、存在感をなくしていた。
 昨日の強気な雰囲気はどこへやら。背の高ささえ、忘れそうなほどの地味な印象を受ける。
 対する東堂は髪をかきあげた。眼鏡の奥からわずかに苛立つような表情が見える。
「この方が都合がいいんだよ。実際おまえも気付かなかったろ?」
 一応、理由があるという。
 昨夜とはうって変わって、学校生活では目立たないよう心掛けているようだ。
 一季も指摘されて口ごもる。
 確かに、この姿では廊下ですれ違っても気付かない。というか、意識できないくらいの特徴のなさだ。
「影が薄いと教師にも不良にも目をつけらないし、授業もサボれる。休んでも怪しまれない」
「おい。学生の本分はどこいっちゃったんだよ」
 反射的に突っ込む。
 東堂の言い分は不審者まるだしだ。まるきり面倒を避ける問題児の発言である。
 とはいえ、いつまでも学校の生活態度をあれこれ言っても始まらない。
 今度は一季がため息をついて腕を組む。
「あんなことがあってよく学校これるな」
「その言葉そっくり返すぞ。意外に神経太いんだな」
 ぐっと言葉を飲み込む。
 考えていたことを見透かされているようで、具合が悪い。
 だが、そこは聞かなかったことにした。
 東堂が目の前にいることで状況が変わった。一季としては大事な問題を片付けたい。その気持ちの方が勝っていた。
「ともかく昨日のことを詳しく説明してもらうぞ」
 低い声音で要求する。
 まだ聞いていないことがたくさんある。それを知るまで先には進めない。
 そう宣言するも、東堂の表情は変わらなかった。
 両手をポケットに突っ込み、靴底で床を蹴る。
 ついでに昨夜のようにあっけらかんとした口調で告げてきた。
「それについては同感だ。教えてやるから、うろちょろすんな。おまえ、生命を狙われてっからな」
 と、当たり前のように指を突きつけてくる。
 一季は、ぽかんとなった。
 今、東堂は何と言った?
 意味を理解するのに五秒はかかった。
「何で、それを早く言わないんだよ!」
 そんな話は聞いていない。
 昨夜のことは不可抗力だ。生命を狙われるほどのことをしたとは思えない。
「言ったぞ。ちゃんと昨日。おまえが別のこと気にしてて、スルーしたんだろ」
 けろりと吐かれた言葉に、ハッとする。
『早い話、俺はある犯罪者を追ってる。それがおまえと接触した。おまけにおまえは生命を狙われている。また遭遇する可能性が高い。以上』
 昨夜の会話を思い出して、心の中で絶叫する。
 どっと疲労を感じた。
 何故、聞き逃した自分。いろいろあって接続がうまくいかなかった模様。
 やっぱり大事な要点を聞き逃していた。東堂を恨んでもはじまらない。確かに聞き逃したことは事実だ。
「とりあえず、おまえは目をつけられた。また襲われるぞ」
 対する東堂の目が冷たくなっていた。
 それによってまた日常が薄れていく。恐怖と不安の存在が忍び寄ってくる。
「ここにいたら危険じゃないか?」
 一季はもっとも気になる点を口にした。
 昨夜のようなことが学校で起きるとしたら大騒ぎになってしまう。
 怪我人や死者が出るかもしれない。そんな恐れが頭によぎった。
 けれども東堂は首をふる。
「大丈夫だ。魔術師ってのは夜の活動を好む。人目は少なくなるし、コンディションもベストな状態で挑める。襲撃するとしたら放課後以降だ」
「そんな吸血鬼みたいな……」
 一季は困ったようにうめいた。
 はっきり断言されても、ますます怪しく思えてくる。現実味がない。
 おまけに闇夜を好むとは。どんなアンダーグラウンドの連中なのだろう。
「とにかく教室に戻るぞ。新学期早々、担任に目をつけられたくない」
 不思議な話、このセリフが一番しっくりきた。
 さっさと踵を返す東堂について行く。
 離れてしまった日常を引き戻す言葉。
 まだ繋がっていたい。
 これを手放したくない。
 頼りない直感。
 それでも一季は縋るしかない。
 失う時の重さを考えないようにしながら。

 教室にたどり着いて気付く。
「って、同じクラスなのかよ!」
 たまらず声をあげる。
 すでにホームルームは始まっていた。
 ため息をつく東堂とともに、クラスメイトと担任の注目を一身に浴びる羽目になる。
 日が暮れかけた放課後。
 東堂の言う通り、事件も異変も起こらなかった。
 二学年の教室が並ぶ北校舎。
 一季は何をするわけでもなく机に座っていた。
 どうでもいいことだが、扉に一番近い後ろの席にいるよう指示を受ける。
 指示した当人は前の席に座って、しきりにスマートフォンを操作していた。窓を背にして優雅に長い足を組んでいる。
 室内には他に人はいない。
 手持ち無沙汰な一季は身を乗り出す。
「何してるんだ?」
「昨日の報告」
「報告って……誰に?」
「後片付け役だ。俺ひとりじゃ手に余る」
 それっぽくないなと思った。
 魔術師といったら獣の使い魔を連絡に使うものではなかろうか。
「あのな。眷属(サーヴァント)を使えば魔力を使う。魔力を使えば相手に特定される。わざわざ目立つことしてどうすんだよ」
 考えていたことが顔に出ていたらしい。
 漫画や小説とは違ってわりとシビアな展開だ。蛇の道は蛇といったところか。力を使えば、同じ力を使う相手には筒抜けになるのか。確かにデメリットしかない。
 慌てて話を変える。
「それじゃ……あんたには仲間がいるってことか?」
「そういうことになるか。どいつもこいつも個人主義で協力・連帯なんて言葉は不釣合いな連中ばかりだが」
 東堂の返答は否定より肯定に近い。
 ただし共同や連携なんて言葉は似合わない様子だった。
 なんとなく意味を込めて相手を見つめてしまう。
 視線に気づいた東堂が眉をひそめる。
「なんだ、その目は」
 彼を見ていれば自然と想像がつく。自分は例外だと言いたいようだが。
 一季にしてみれば同じようなものだ。
 眼前の相手に協調性があるとはとても思えなかった。自覚がないあたり、さらに疑いは深まる。
 一方で納得もできた。
 昨夜の件も仲間がいれば、東堂がいた痕跡を消して警察に通報することもできただろう。現に、そうして警察への通報と救急車の手配をしたらしい。手慣れているとしか思えない鮮やかな事後処理である。
 その辺りは聞いても怖いことにしかならない気がしたので別の質問をしてみる。
「じゃあ、あんたはどんな犯罪者を追ってるんだ?」
「おまえも知ってるだろ」
 操作の手をとめて東堂がスマートフォンを見せてくる。
 画面にはニュース速報が流れていた。言われた通り、知っている事件だ。
「眠り姫事件……まさか、これが魔術師の仕業だっていうのか?」
「不可解な事件ほど、その可能性は高い」
 昨日までなら一蹴していたと思われるセリフ。
 今の一季には否定できない。
 無根拠に信じていた現実は、中途半端な距離にある。
 東堂を信じているわけでもない。ただ彼の説明には否定できない『何か』がある。
「魔力を抜かれすぎると睡眠で補おうとする」
 端的に吐かれた言葉に、反応が遅れた。
 意識を失った少女たちには眠っているとしか思えない状態だと聞く。
 東堂の証言はそれを裏付けるような内容だ。
 もっと別の仮説があるはずなのに、一季は何も言えなかった。今の状況では、彼の言葉がもっとも近い。
 日常と非日常の境目。
 自分の立ち位置が曖昧になっていく。
 危うく彼の言葉を受け入れそうになる。
 いつの間にか口の中は乾いていた。
「誰が何のために?」
「それを探ってる最中なんだよ。目的はおおかた研究か実験だろう」
 あっさりと返される。
 当事者ではないからだとは思う。
 けれども全体像が掴めないことは不安だった。
 いや、それ以上に今の状況が不気味に感じる。
 得体の知れない恐怖というものは、思考や感覚が麻痺してしまうものなのか。
 一季はかろうじて浮かんだ疑問を口に出した。
「何の研究なんだ?」
「さぁ。それは俺の知ったことじゃないな」
 東堂は窓枠に背を預けて、天井を見上げる。
 同時に「ただし」と告げてきた。
「どんな研究にせよ、大勢の魔力を大量に集めるのは見過ごせない」
 その言葉は、はっきりと聞き取れた。
 彼の言う通りなら、少女たちの健康を脅かす行為だ。不安に思う家族もいる。
 それらを無視してでも成し遂げたい研究や実験とは何だろう。
 どんなに崇高な目的だとしても、一季にはきれいごとや詭弁としか思えない。
 内心で安堵もする。
 東堂は、むやみに他人を傷つけるタイプではないと判明した。それだけでも大きな安心材料である。他人の犠牲をやむなしと考える人間の側にいたら精神的に危ない。
 けれども、今度は別の考えが頭に浮かぶ。
「……犯人を見つけたらどうするんだ」
 ふと湧いた疑念。
 東堂が横目で見つめてくる。
 真意をはかりかねている。そんな表情だった。
 まっすぐに見つめてくる視線に、多少気後れを感じる。
「その、殺すのか?」
 声が少し上擦った。
 犯人が本当に少女たちの魔力を集めているのだとしたら。
 東堂は自らの手を汚すこともいとわないとしたら。
 急に落ち着かなくなった。
 心臓の動悸を感じ、背筋に寒気が走る。
 おそるおそる相手の反応を窺うと、東堂は強気に笑うだけだ。
「必要ならな」
 返ってきた言葉には、やっぱり気負いがなくて。
 けれど、彼の場合はそっちの方が真実味を増している。
 すでに他人の生命を背負っている者の反応に思えてきた。

 教室内が一瞬だけ暗くなる。
 数秒後、蛍光灯が点滅して消えた。薄暗い闇が降りてくる。
「東堂」
「静かに」
 名を呼ばれて東堂は椅子から立ちあがった。
「おいでなすったようだな」
 軽い口調で眼鏡をはずす。流れるような動きでポケットにしまう。
 強い光を灯す瞳は、横顔からでわかった。
「どうするん……ぐぇッ!」
 ひそめた声が遮られる。
 突然、首が圧迫された。強く引かれたあとの浮遊感。
 襟首を捕まえられ、引きずられていると知った時には乱暴に扉を開ける音がした。
 ガンッと強い衝撃とともに尻餅をつく。
 今度は放り投げられた。文句を言おうと顔を上げる。
 ひゅっと声が詰まった。
 視線の先、目の前に立つ東堂よりも向こう。
 薄暗い廊下には一匹の豹がいた。その背後は黒い影が炎のように揺らめいている。
 豹は、そこから現れたのだろうか。別の空間に繋がっている扉のような。
「昨日と今日で、挟み撃ちとは芸がない」
 軽く笑う東堂のセリフで背後を見る。
 反対側の廊下も黒い影を背後に狼が立っていた。
 肌が粟立つ。
 昨夜の光景が頭をかすめた。寒気とともに心臓が縮むような息苦しさを感じる。
 豹がわずかに首を下げた。
〈それはどうかしら?〉
〈我らが策もなしに再び現れたと思ったか〉
 再び頭の中で声がする。
 昨夜、耳にした男女の声音だ。
 獣が話しているとしか思えない現状でも、東堂の顔色は変わらない。
 むしろ、瞳の輝きが強くなった気さえする。
「そいつは面白そうだな」
 自信にあふれたセリフと一緒に靴底を擦るようにして床を蹴る。
 わずかに姿勢を低くして続ける。
「来いよ。暇つぶしに遊んでやる」
〈減らず口を!〉
〈その喉、噛みちぎってやる!〉
 素早く跳躍して東堂に襲いかかる。
 狼の気配を感じて少し後ろに下がった。反射的に壁に背を向ける。
 東堂は拳を強く握って、距離を測っている。一季が焦って苛立ちを感じるまで、長く。
 豹の牙が届く直前、腕を払った。
〈!〉
 廊下一帯が氷漬けになる。
 天井と床、虹色の氷柱(ひょうちゅう)が無数の牙のようにそそり立つ。
 周囲には雪のように七色の粒子が舞い落ちる。
「最初からおまえらと腕比べするつもりはない」
 幻想的な光景とは裏腹に東堂の声は、冷たく響いた。
 一季が周囲を見渡す。
 五つの教室を巻き込んだ氷は、豹と狼を巻き込んでいた。
 胴体や足が氷漬けにされて動けない。
 もがいて咆哮をあげる。
 東堂はその氷柱(ひょうちゅう)に降り立つ。
 いつでも豹の首を落せる位置だった。
 整った顔立ちは不敵に片笑む。
王手(チェックメイト)だ」
 ぶるりと身体が震えた。
 今頃になって周囲が冷気に包まれていたことを知る。
「東堂……」
「そこでおとなしくしてろよ。眷属(サーヴァント)
 軽く言い放ち、氷柱から降りる。
 駆け寄った一季は豹と狼を見比べた。
「こいつらは一体……」
眷属(サーヴァント)ってヤツだ。魔術師が召喚した悪魔とか天使とか、そんなの」
 東堂の口調は、どこまでも軽い。
 数秒でおとなしくさせた張本人とは思えなかった。
 頼もしい口ぶりも気になったが、発言の内容から別の情報も出てきている。
「けど、そうなると」
「こんばんは。はぐれ魔術師と魔力超過(イクシーダー)
 一季が疑問を口にする前に背後から挨拶を受ける。
 とっさに見返すと狼の背後に、ひとりの男子生徒が立っていた。
 先ほどの東堂の言葉。
 豹と狼が眷属(サーヴァント)という存在なら、呼び出した相手がいるということになる。
 それが、どんな意味をもたらすのか。
 一季は考えることができなかった。挨拶をした人物に驚いたからだ。
「賢木生徒会長……?」
 東堂よりも細い、整った顔立ち。
 知性をたたえる瞳に柔和な笑顔。
 じわじわと恐れを抱く。
 彼の反応が場違いに思っているからだ。
 恐れや混乱、驚きがない。
 それが意味することは。
「おまえ【黄道十二宮(ゾディアック)】の天使だな」
 口火を切ったのは東堂だった。
 彼の問いかけに生徒会長は、さらに笑みを深める。
 その反応に背筋が凍りつく。
 わずかばかりの希望が失われたような、直感が当たった落胆のような。
 再び感じる、非日常の入り口。
 それが昨日より遥かに近く存在している。
 その事実に、身体が硬直する。思考はすでに止まっている。
〈マスター〉
〈申し訳……ありません〉
 やがて、耳に届くのはおずおずとした謝罪。
 豹と狼のものらしかった。
「シュトリー、マルコシアス」
 賢木が名前を呼ぶ。
 つられるように彼を見て心臓が掴まれたような錯覚に陥った。
「おまえたちには失望した」
 賢木には、すでに表情がない。
 冷たい言葉で狼を一瞥すると、黒い炎が現れる。
 女性の絶叫が響き渡った。
 豹と狼を包みこむと、布のように流れて丸みを帯びる。
 炎が球体に変化するとゆっくりと輪郭を小さくして消えた。
 残るのは黒の粒子だけ。
 悲鳴はとっくに聞こえなくなっていた。
 一季には何が起きたかわからなかった。
 ただ、胸に不快なものがじわりと忍び寄ってきた。それが心臓にまとわりついてくる。
 息苦しさを感じていると再び生徒会長が優雅に笑う。
 今朝に見た女子生徒を魅了する、爽やかな表情。
 今の状況では恐怖でしかない。
「改めて挨拶しよう。僕の名前は賢木(さかき)智央(ちひろ)
 新たな闖入者にも東堂は驚かない。
 むしろ待っていたかのような態度だ。ふんと鼻を鳴らし、後方に少しだけ重心をずらした。
「違うだろ。もうひとつの名前があるはずだ。おまえには」
 東堂は確信めいた口調で断言する。
 にらみ合う相手には伝わったらしい。賢木が意味深に笑う。
「……アドナキエル。これを知る意味が君にわかるのかな」
 間をおいて告げられた名前に一季は心当たりはない。
 もちろん賢木の意図など理解できなかった。
 一方の東堂は見当がついていた様子だ。
 生徒会長の言葉に動揺は見られない。
「【九番目(悪の誘惑者)】か。悪魔召喚に大勢を対象にした実験研究……いらなくなった眷属(サーヴァント)は自ら手討ちか。おまえの教会は以前からやることがえげつない」
 あからさまな悪意にも賢木は顔色を変えなかった。
 クラスメイトの着眼点が意外だとでもいうように目をまるくさせる。
「おや。君も魔術師の端くれなら知っていると思うけど。手負いの悪魔ほど始末が悪いものはないよ。契約は命がけだからね。(カテーナ)が切れないうちに片付けるのは初歩中の初歩だよ」
 賢木の口調も軽い。
 東堂が問題視した部分が理解できない口ぶりだった。
 その反応に東堂の表情が固くなっていく。
「おおかた、それも他の手下(サーヴァント)任せだろう」
 生徒会長を見つめる瞳が鋭くなっていく。眉間に皺を寄せた東堂が吐き捨てる。
「自分の手を汚さない人間が魔術師を名乗るな」
 ぞっとするほど冷たく聞こえた。
 今はっきりと感じた。
 東堂の嫌悪。賢木の言動を不愉快に感じているのだ。
 ぶつけられた本人は残念そうに嘆息するだけ。
「そういう君は異端審問官(インクイジター)かな。いつも思うが君らは品がなくて、正気の沙汰と思えない。魔術の構築式に自分の身体を組み込むなんて」
(……インクイジター?)
 一季は眉をひそめる。
 聞きなれない言葉だ。そもそも、はじめから東堂と賢木の会話は理解できていない。
 唯一わかっていることは、双方ともにお互いのやり方が気に入らないように見えるだけだ。
「魔術師を屠るために魔術を使うとは。魔術師の面汚し……いや、魔術を冒涜する裏切り者かな」
「それがどうした。おまえはこれからその面汚しに殺されるんだ。みっともないのはどっちかな?」
 今度は賢木が東堂に攻撃的な発言をする。
 余裕そうに笑いながら切り返された言葉に、賢木は沈黙する。
 表情も消えたことから苛立ちを感じたのかもしれなかった。
 しばらく無言のにらみ合いが続いたあと、
「今回は、お互い痛み分け……というところかな」
 賢木が笑った。
「また改めて伺うよ」
 あっさりと踵を返しても東堂は攻撃しなかった。
 表情を消して、じっと背中を見据えている。
 一季は動けなかった。
 賢木の姿が夜の闇に消えても。
 どくどくと脈打つ鼓動と言いようのない恐怖が、彼の動きと思考を縛りつけている。
 気が付いたら、東堂に引きずられていた。
 長い間、呆けていたらしい。しびれを切らされて帰途についている最中、我に返ったという次第。
 その流れで、また東堂を我が家に招き入れる形になってしまった。
「おまえ、家族は?」
 明かりのついたリビングを見回しながら訊ねられる。
 前回の時といい、人気がないことが気になったようだ。
「父親は単身赴任。母親は看護師だから不規則な勤務が多い」
 何度か聞かれた家の事情。
 ソファに座り、端的に答える。
 いつからだろう。この説明をすると決まって気分が重くなるのは。
「別に珍しくもないだろ。今時」
「ひとり暮らしみたいなもんか。すごいな」
「は?」
「昨日の飯といい、大したもんだ」
 一季は目を瞠る。
 初めてだった。そんな反応されるとは思っていなかった。
『上村、実質ひとり暮らしみたいなもんじゃん!』
『いいなー。今度、遊びに行っていい?』
 反発したいわけでも、肯定したいわけでもなかった。
 友人たちの羨望はとても重くまとわりついて。
 自由と引き換えに孤独なんて言葉は置き去りにされていく。
 一季自身、見失いかけたもの。
 それをすくいあげられた気がした。
 よりにもよって、こんなヤツに。
 認めたくなくて、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「なあ、〝インクイジター〟って何だ?」
 悔しまぎれに訊ねる。
 東堂は、そこを気にするかといった態度ではす向かいのソファに座る。
 ついで長いため息をついた。
「直訳すると〝尋ねるもの〟……よく耳にするのは異端審問官」
 頭をかきながら足を組む。
 吐かれた言葉はかなり不本意らしい。
 魔術の次は魔女狩りか。
 漫画や小説でしか聞いたことのない言葉だ。
 恐れや偏見の暴走の果てに、弱者をいたぶる。
 そんな漠然とイメージしかない。
 異端審問会をよく知らない一季ですら、ネガティブな連想を浮かべるのだ。
 すでに異常な出来事が立て続けに起きている今、その言葉を軽く考えることはできない。
 ごくりと息を飲む。
「あいつらが勝手に名前をつけてるだけだ。自分たちを正当化しろとは言わないがわざわざ異分子になりたがる意味がわからん」
 対する東堂は迷惑というよりは、つけられた名前が不本意といった様子だ。
 確かに、東堂を異端審問官と認めれば対峙する自分を異端と認めることになる。
 東堂の言い分は理解できる。一季も同じ気持ちだ。
 わざわざ自分を異端と名乗る。その真意はどこにあるのか。
 東堂が、どさりと背をソファに預ける。
 疲労を覚えたように天井を見上げた。
「異端審問官なんて時代錯誤もいいところだ」
 まただ。
 東堂の言葉には気負いがない。淡々と事実を告げている。
 それが逆に重みを感じた。
「あの、豹と狼は、どうなったんだ?」
「……」
 思いついたことを訊ねてみる。
 東堂に襲いかかり、動きをとめられた二匹。
 彼らは、どこに行ってしまったのか。
 東堂は、しばらく天井を見上げていた。
 考え事をしているような、言葉を選ぶような仕草に思える。
「たぶん、死んだ。殺されたっていうより、消滅させたって方が近いかな」
 さらりと告げられた答え。
 想像以上の衝撃を受ける。自分の目の前で、とうに奪われた生命があった。
 その重さに絶句する。
眷属(サーヴァント)は大抵、強制的に従わされてるだけだ。召喚した時に鎖をかけて自由を奪う。ただその鎖が緩む時がある。さっきの状況で賢木が戦うとかな。そういう時、眷属(サーヴァント)は命懸けで召喚した魔術師を襲う。殺せば鎖が無効になるから」
 単純に考えて、人間が悪魔を呼び出したとして自由に扱えるはずがない。必ず代償や危険性が付きまとう。それらを無視するには、さらなる手段を用いるしかない。
 東堂は、それ以上は多くを語らなかった。きっと一季の考えなどお見通しで否定する必要がないからだ。
 きっと賢木は眷属(サーヴァント)が自分を襲う前に彼らを殺したのだ。
 仮にも自分に従ってくれたものを躊躇いもなく。
 襲われるかもしれないという確定ではない憶測だけで。
「……そうか」
 かわいそうだ、とは口にできなかった。
 一季は彼らには殺されかけた。彼らの意思は知らない。事情も東堂の予想でしかない。
 確かなことは何もない。
 よく知りもしない自分が言ってはいけないような気がした。
「おまえ。明日、学校休むとか考えてないだろうな」
「え」
 顔をあげると、横目で見つめてくる東堂と視線がかち合った。
 数秒後、彼の発言が耳に届いた。
 理解できて、言外に含まれた意味に震えあがる。
「いやいや! 相手は生徒会長だぞ、学校行ったら殺されるぞ!」
「それは向こうも同じだ。あいつがふたつ名を告げた以上、一刻でも早く俺たちの口を封じたいはずだ」
 両手で手を振って、何かを拒否する。
 どちらにせよ、生徒会長が自分の生命を狙っているとくれば、回避したいと思うのが当然だろう。
 そう説明しようとすれば、東堂が急に話題を変えた。
「普通、魔術師ってのは自らの手の内を明かさない。名前なんてもっての外」
「そうだったら何だっていう……」
「現代の魔術師は別にもうひとつ名前を持つ。いろいろバレることがあるからな」
 反論しかけて、思い出す。
『これを知る意味が君にわかるのかな』
 ぞくりと背筋が震えた。
 あの言葉の意味。東堂の説明で、直感めいたものが浮かぶ。
 嫌な予感だけしかしなかった。
「反対に名乗る時は『これからおまえを殺す』って意味になるんだよ」
 回避不可能の処刑宣告。
 魔術師の世界は本当に殺伐としている。
 正体や秘密を知られたら口を封じる。
 死人に口なし。
 もっとも効果的な秘密保持だ。
「それに忘れたのか? ヤツはおまえを狙ってるんだ。その気になりゃ、ここへ乗り込んでくる」
 胸に鋭い痛みが走った。
 学校という同じ領域(テリトリー)にいる以上、自分の情報も相手に筒抜けになっている。
 当たり前に受け入れていた自分の居場所。
 両親や友人たち。
 それが一季のせいで失われると思ったら怖くなる。
「反対に学校なら放課後までは手を出せない。俺たち以外にも魔術師がいないともかぎらない。下手に怪しまれるより、普段と同じ生活をして自分が力を最大限活かせるところで決着をつけたいと思っているはずだ」
 理屈としては、そうかもしれない。
 現に賢木の襲撃は東堂の指摘通りだった。
 だが、一季の不安はぬぐい切れない。
 今後も同じだという保証はないのではないか。そんな疑念が頭をかすめるのだ。
 それでも東堂はあくまで強気だ。
「しかも戦う相手は俺だぞ。返り討ちにしてやる」
「なに、その無駄な自信」
 もはや反論の気力は削がれた。
 何を言ったところで、この男の主張は崩せない。
 疲労で思考も回らなくなりつつある頃、全く関係のない疑問が口から出ていた。
「あんたは……どうしてこんなことしてるんだ?」
 東堂のしていること。
 それは一季の日常からは大きく離れている。
 賢木のような魔術師を追う理由でもあるのだろうか。
 それとも莫大な報酬が約束されているのだろうか。
 怪我も生命の危険もある。
 学校との両立だって難しいかもしれない。
 東堂のしていることはいいことなのか悪いことなのか、一季にはわからなかった。
 ただ目の前に自分が狙われている事実だけが残る。
 それも東堂にとっては大事ではないことに思えた。
 彼の目的。
 唐突に気付いて気になった。
 東堂は何を望んで『そこ』にいるのだろうか。
 じっと見つめても横目で笑うだけだ。わずかな好奇心のようなものが浮かぶだけ。
 それもすぐに瞳を閉じられたので、別な感情なのかもわからない。
「別に。ああいう連中が気に食わないだけさ」
 答える声音はやはり軽い。
 ここで一季は期待していたことに気付く。
 東堂がどんな経緯で力を持ち、それをどう活かすか。
 そんな経緯を聞きたいと思っていたらしい。
 軽い落胆とともに納得する。
 東堂に拒絶されたかはぐらかされたかは定かではないが、一季も同じだと思いなおした。
 行動の理由なんて誰でも明確に説明できるものではないはず。
 何でも訊ねれば答えが得られるものではない。
 今さらながらに実感する。
「なあ、今日の飯は何にするんだ?」
「…………」
 その日も東堂は夕飯と風呂を要求してくる。
 けろりとした口調に、いろいろ考えてるのが馬鹿らしくなった。
 仕方がないので、豚丼の大盛りを作ってやる。
 当然、完食したのち入浴、爆睡。動物みたいなヤツだった。
 翌日も結局いつもの通りに登校した。
 東堂は、さらに図々しさが増している。
 朝食を遠慮なく平らげた後、引きずるように一季を学校へ連れてきた。首根っこを掴まれた猫の気分だ。
 運よく母親には見られずにすんだが、他のことが心配でメンタルは下降気味。
 いつ受けるかわからない襲撃にびくびくしていても東堂はそっけなく告げてくる。
「あいつらだって無用な騒ぎは起こしたくないはずさ。目的は不明だが自分たちが少数派なのは身に染みてわかってる」
 放課後まで、その言葉の意味を考えてしまう。
 危険を犯してまで他者の魔力を狙ったり、自ら召喚した眷属(サーヴァント)まで手にかけてえたいもの。
 一季には想像がつかなかった。
「生徒会長は何をしたいんだ?」
 ぽろりとこぼれた発言に、東堂が横目で見つめてくる。
 前回と同じく教室で時間を潰す。不用心もいいところだ。これでは襲ってくださいと言っていることと同じではないか。
 そう思いながらも一季は東堂との会話を優先する。他にするべきこともなかったからだ。
 世間で騒ぎになるほどのことを起す目的が気になった。
 完全に東堂の言葉を信じたわけではないが、もし本当のことなら行動を起こすだけの理由があるはず。単純な疑問が、手持ち無沙汰な時間潰しになってくれることを期待する。
 対する東堂はまたもやスマートフォンを操作しながら口を開いた。
「【賢者(けんじゃ)(いし)】」
「え」
「それを量産したいんじゃないか?」
 端的な返答に戸惑う。内容を軽く考えてしまう。もしくは聞き間違いを疑う。
「【賢者(けんじゃ)(いし)】って……映画や漫画の話じゃあるまいし」
 一季は呆れながらも呟く。
 聞き覚えはあるものの、現実には存在しないものだ。
 ファンタジーの物語では度々、耳にしたことのあるアイテムだったと思う。特徴としては能力の底上げをする増幅器といった類ではなかったか。
 あからさまに怪しげな方向性になっていく気がして、一季は警戒を強める。
 ただし、東堂本人にそんな反応は無意味だった。
 ちなみにスマートフォンで何をしているか身を乗り出して見てみたら、ただのアプリゲームだったりする。
「別名【永久(えいきゅう)機関(きかん)】ともいわれる。それがあれば、どんな魔術も代償なしに行えるという」
永久(えいきゅう)機関(きかん)】?」
 オウム返しに訊ねる。
 飄々とした態度を咎めるように睨んでも気付いていない。
「【プロメテウスの火】。【増幅器(タリズマン)】。【ソロモンの小さな鍵(レメゲドン)】。【セントエルモの火】。果ては【ファティマ第三の予言】まで……他にも、いろいろ呼び名はあるが実際にどんな形なのか、どんな作り方なのか、詳しいことは不明だ」
「それ、何か矛盾してないか?」
 いろいろな名前が出てきて頭が混乱しそうだ。
 かろうじて理解できた点について疑問を投げかける。
 どんな魔術も成功させるアイテム。
 けれども形状や製造過程が謎。
 存在そのものを疑うべきなのでは?
 視線にそう意味を込めれば、ようやく東堂が顔をあげる。
「それにまつわる逸話があるんだよ」
 わずかに首を傾げて笑う。
 眉根を寄せたその表情はかすかな違和感を覚えた。
 困ったような、迷ったような。
 ほんの少しの拒絶。
 一季が明確に感じる前に、東堂は説明を続ける。
 十七年前、不可能といわれる【永久機関(賢者の石)】を作り出した魔術師がいた。
 長い年月をかけて作りあげられたそれは、完成直後ある教会によって奪われてしまう。
「教会?」
「派閥みたいなもんだ。本来は協会なんだろうが。自分たちの活動理念を信仰と言えなくもないから、こっちの表現を好んで使うようだ」
 東堂はのんきに机に指で文字を書く。
黄道十二宮(ゾディアック)】の天使。それらが彼らが属する教会の名前だ。
 教会の中で優れた十二人の魔術師は、天使の名前を名乗るのだという。
 一季は驚いた。
 教会と聞くと想像以上に魔術師が存在していて、コミュニティを作っているようだ。
 この現代に人知れず息をひそめていた組織があるとは。
 反面まだからかわれているような気もする。
 頭の中の理性が東堂の言葉を疑っていた。怪しい心霊オカルト特番のような、考えることを放棄したくなる。
 もちろん、それでいつもの日常に戻れるわけではないので必死で頭を働かせた。
「それで……その魔術師は?」
「殺されたよ」
 あっさりと返ってきた答え。
 夢のような万能の奇跡を叶える道具を生み出した結果。
 作り出した本人は自身の望みを叶えることもなく、歪んだ欲望を持つ魔術師たちによって奪われてしまう。
 膨大な研究資料も奪われ、実験施設も焼かれた。
「そんで世界中の魔術師教会に対して宣戦布告。この十七年、どこも緊張状態にあるな」
「大事件じゃないか……」
 一季は言葉をなくす。
 想像以上に大事(おおごと)だ。人ひとりの生命が奪われ、生活の拠点を破壊された。
 さらには【永久機関(賢者の石)】を奪った魔術師たちは、世界中の魔術師に対して宣言する。
『我々は神の御業を手に入れた。この力で世界の存在を書き換えよう』
「な、なななな……一体、何を」
「安心しろ。実際は各地で小競り合いしてる程度だ。魔術師同士の戦いなんざ、本当なら不毛なんだ。魔力を使い果たしてどっちかが痛い目を見たら終わる」
 世界の脅威ともいえるテロリストを想像して青ざめる一季に対し、東堂の反応は薄い。
 規模が子ども同士のケンカレベルとでも言いたげだ。笑えない冗談にしてはタチが悪い。
 改めて怪しい話だと警戒心を強めれば、東堂が補足説明をはじめる。
「魔術師ってのは正体が露見することをなにより嫌う。極力、周りに溶け込んで生活してる。自前の研究室や実験施設を持ってるからおいそれと簡単には移動できない」
「はぁ……」
 内容の意図がわからず、生返事になってしまう。
 隠れて生活する魔術師の特性が、どうして大きな事件に発展しない保証となるのだろう。
 一季は単純に首を傾げる。
「騒ぎを起こすと周囲の人間に怪しまれるし、混乱が起きれば真っ先に袋叩きにされる。だから証拠を残すヘマしないし、殺されても自業自得って考える連中なんだよ。自分の研究内容を外部にもらしたマヌケって笑われるんだ」
「そんな……」
 再び言葉を失いかける。
 人とは違う能力を持つ意味。
 人々は不安に陥ると、自分とは違う異質なもの、少数派の人間を排斥してしまう。
 魔術師として生きると決めたなら、その能力は家族にも秘密にする。
 秘密をもらしたりもれた場合、何があっても自分の落ち度。
 一季は複雑な気持ちになった。
 そんな考え方は、どんな事情であっても悲しい気がする。
 複雑な感情の処理に追いつけない一季が今度こそ言葉をなくした時だった。
 東堂が「ただし」と告げて天井を見上げる。
「どんな理由であれ、殺人は大罪だ」
 いつものようにこともなげに吐かれたセリフなのに、やけに耳に残った。
 何も知らない日常にいたままなら、間違いなく当たり前だと思っていたこと。
 それが違った重みを感じた気がした。

 急に視界が点滅する。
 蛍光灯の明かりが消えて、周囲が薄い闇に包まれる。
 前にも似た状況があった。
 一季は不安を感じて席を立つ。
「東堂」
「動くな」
 同じく椅子から立ちあがった東堂は周囲に周囲を窺う。気配を探るように。
「!」
 突然、強く突き飛ばされる。
 一季が壁に背中を打った瞬間、天井が崩れ落ちた。
「東堂!」
 風に舞う粉塵に視界が覆われた。
「噂は本当のようだね」
 落ち着いた声音に、一季はぎくりとする。
 右手にある教室のドア。
 視線を向ければ廊下に賢木が立っていた。
 想像以上の至近距離に驚くも、身体が思うように動かない。尻餅をついたまま、手足を使って距離をとろうとする。
 ゆっくりとした足取りで教室に入ってくる。
 その視線は崩れた瓦礫に向けられていた。
異端審問官(インクイジター)は、その存在故に最小限の魔術しか扱えないと聞いていたけど……」
 考えを転がすように言葉を紡いで、嘆息する。
 あからさまに肩をすくませた。
「いささか面白みに欠けるな。こうもあっさり引っかかるとは」
 興覚めといった口調で心底、残念がっている。
 そんな芝居がかった言動に一季は不気味さを感じた。
 人の生命を軽く考え、簡単に奪う。
 その神経が理解できない。
 そこで賢木がこちらに向き直った。
 じっと見下ろされ、身構える。いつの間にか距離をとることを忘れた。
「なるほど。君の前世は聖人だったんだね」
「?」
 言葉の意味がわからない。
 一方の賢木は考えるような表情で続けてくる。
「どうして僕たち魔術師は人間の魔力を供給源にしてるかわかるかい?」
 急に話を変えてきた。
 会話を引き延ばすべきか。逃げるべきか。東堂の無事を確かめるべきか。
 どくどくと脈打つ鼓動をおさえながら、考えを巡らせる。賢木の真意を探りながら。
「人の魂は不滅だからさ。輪廻を繰り返し、肉体を変えても、その核は変わらない」
 ぞくりと背筋に悪寒が走った。
 心臓を鷲づかみにされる感覚。呼吸がしづらい。
 嫌な予感がする。
 この続きは聞いてはいけない。本能が告げるも、賢木は爽やかに笑ってみせた。
「とはいっても魔力の高低には個人差がある。通常の魔力より遥かに高い、【魔力超過(イクシーダー)】……君みたいな聖人を前世にもつ特異体質はなかなかお目にかかれない」
 ようやく繋がった。
 自分が狙われていた意味。
 偶然、居合わせた口封じではなかった。
 高い魔力を持つ人間。賢木の目的は、最初から変わっていない。
 ただイレギュラーが現れた。それだけのこと。
 賢木は胸の第二ボタンから伸びる紐を手に取る。ポケットから現れた飾緒の先には赤の宝石が輝いていた。
「怖がらなくいい。この【永久機関(賢者の石)】に取り込まれれば、永遠を生きられるよ」
 恐怖は感じなかった。死ぬ実感がない。
 思考は白紙に塗りつぶされている。身体が動かない。
 そっと近づく賢木を拒絶するように目をつぶった。
 痛みもない。触れられた感触もなかった。
 ドッと何かがぶつかる音と鋭い冷気に、目を開いた。
 眼前には目を瞠る賢木と対峙する男子生徒が屹立していた。思い当たる人物はひとりしかいない。
 周囲には虹の粒子が雪のように降っている。
「えげつない趣味してんじゃねーぞ。メガネ会長」
 東堂の一言で、粒子が弾けた。わずかな光を集めて七色に光る。
 賢木は表情を消して一歩、後方へ下がった。
「東堂!」
 名前を呼んで、一季はぎょっとする。
 横顔の東堂が顔面血まみれだった。メガネもレンズもとっくに割れている。
 青ざめた一季は指をさしたまま、口をパクパクさせた。驚いて声が出てこない。
「頭、血、血が……!」
「落ち着けよ。額をちょっと切っただけだ」
 向き直った東堂は困った表情で告げる。
 まるで一季の反応が大げさだとでも言うように。
 メガネを外し、額から流れる血を制服の腕で拭う。
「前言撤回だ」
 賢木は不思議そうに眉根を寄せた。
「わからないな。君ほどの魔術師がどうして異端審問会に属する?」
 考えごとをするように腕を組む。
 対する東堂は表情を変えない。メガネを放り投げ、もう一度、乱雑に血を拭ったあと詰襟の制服を脱ぐ。
 ついでに一季に向って放り投げる。こちらを振り向きもしない。
 文句も言い出せる雰囲気ではなかった。
 見定めるような瞳で賢木は指をさしてくる。
「前にも言ったけど。君のその魔術、かなり危険性(リスク)が高いんじゃないのかな。構築式を身体に取り込んでいる状態だからいつか必ず反動(リバウンド)がくるよ。いいや、言い方を変えよう。それは実質、寿命を縮めていることに等しい行為だ」
「!」
 驚いて東堂を見る。
 その表情は何も変わっていない。けれど少しだけ揺れた瞳を伏せた。
 肯定のようにも思われる、仕草。
 一季にはわからない。
 どうして、そこまでして戦うことを選ぶのか。
 賢木は笑った。好奇心に動かされる研究者のように。
「それは使命感というやつかい?」
 生命を縮めてまで魔術を行使する理由。
 正義感や責務、義務といった考えからくるものと賢木は推察する。単純な興味から。
 だが、東堂は喉の奥で笑うだけだ。
「そんなご大層なもんじゃない。おまえらにとっては取るに足らないことだ」
 軽い口調で否定する。もっとささいな理由だと。
 東堂は一回だけ大きく息を吸った。
「【永久機関(賢者の石)】を作った魔術師には息子夫婦がいた。十七年前、おまえたちは彼らの口も塞いだと思ったんだろうが、生憎たったひとりの生存者がいたんだ」
 東堂が言っていた十七年前の事件。
 まるで見てきたような口ぶりだった。
 そして、改めて知る生存者の存在。
 それが意味すること。
 同じく察した賢木が驚いたように口を開く。
「まさか。君はッ!」
 自信に満ちた笑みを浮かべながら東堂は指を突きつける。
「そうさ。俺は【永久機関(賢者の石)】を作った日向(ひゅうが)哲史(てつし)の孫だ」
 賢木は茫然としているようだった。
 存在しないものを見たような。
 まるで幽霊でも見るかのような。
 当然かもしれなかった。
 誰が想像できるだろうか。
 殺された母親の胎内で生き延びた、その生命力。
 かすかな偶然が起こした現実を前に賢木の声はかすれていた。
「生きていたのか……あの創造主の末裔が」
「死にきれなかったのさ」
 東堂は軽く告げる。
 まるで他人事のように。
 一季にはその態度が別の意味に思えてきた。
 いつでも軽く淡々と話す東堂の口調は環境の裏返しなのかもしれない。
 あまりにつらい現実を他人の人生のように認識する。
 そう割り切ることで怒りも悲しみも、理不尽さえも飲み込んできた。
 一季はそれを弱いとか卑怯だとは思わなかった。
 真正面から向き合っていたら乗り越えられなかったのかもしれないから。
 賢木は視線をあげた。
 まるで神の奇跡を見たかのように呟く。
「……これも縁なのかもしれないな。【創造主の肉親()】が目の前にいるなんてね」
 ついで手をのばした。
 東堂を誘うように。
「提案だ。僕たちの教会にこないか?」
「!」
 一季は瞠目する。
「亡き祖父の意思を継いでみないかい?」
 賢木の発言が理解できない。
「かつての日向の血筋なら申し分ない。他の十二天使は僕が説得しよう」
 賢木の表情は愉悦に満ちていた。
 思いもかけず、価値あるものを見出したような。真作を発見したような喜びが伝わってくる。
 その言動が不可解だった。
 彼の教会は、東堂の祖父と両親を殺して形見を奪った。そのことに何の贖罪も抱いていない。
 あまつさえ悪びれもせず仲間へと引き入れる。
 一季の認識が間違っているのかと思うほど。
 賢木の提案は常軌を逸している。
 これが魔術師の考え方なのだろうか。
 信じられない世界だ。嫌悪しかない。
 そこで東堂を見る。彼も魔術師だ。
 一季は不安になる。振り向かない彼の返答が怖い。
 もし、賢木の考えに同意することがあったら。
「断る」
 きっぱりとした拒絶。
 即答だった。一季が聞き間違いかと思うほど、はっきりとした声音だった。
「俺は決めたんだ。自分の生まれを知った時、この力を手にした時、自分に誓った。何もかも承知で選んだ」
 淡々と話す言葉とは裏腹に、握られた両の拳は震えていた。
 寒さでもなく、怒りからでもなく。
「おまえたち【黄道十二宮(ゾディアック)】の天使全員を見つけ出し、【永久機関(賢者の石)】を必ずこの手で破壊すると」
 言葉とともにあふれたのは強い決意。
 そうだった。
 東堂はむやみに他者の犠牲を望む人間ではない。今も自分の前に立ち、生命を守ろうとしている。
 途端に恥ずかしくなった。
 東堂の言動には他者を思う心や自分勝手な行いを許さない意思があふれていた。
 それを耳にしていながら一瞬でも疑った自分が情けない。
 一瞬の感情に流されそうになるが、かろうじてこらえる。悔やむのはあとだ。
 まずは、この状況を脱してからだ。
 そう思いなおし、前を向く。
「そうか」
 賢木は小さく呟いた。
「それは残念だ」
 次に肩を落とす。
 一瞬の沈黙。
 賢木と東堂がにらみ合った。直後、双方の足元が爆発する。
 光の輪郭が陣を作り、視界を奪う。
「君は運がない。他の十二天使なら君を祖父と両親のもとへ送ってあげただろう。けど、僕は彼らのように優しくない」
 目をこじあければ、緋色の炎と虹色の粒子が周囲を舞っていた。
 賢木は胸の飾緒をボタンから外す。周囲には炎が燃え盛る。
「この【永久機関(賢者の石)】に取り込むことにしよう。その魔力、永遠に使い続けてあげるよ」
「ほざいてろ」
 穏やかに微笑む賢木。対峙する東堂は吐き捨てた。
 同時に腰を落とす。
 それが合図だった。
 互いに炎と氷をまとわせて高速でぶつかり合う。
 熱気と冷気がまじりあう境目、東堂の拳を賢木が受け流していた。
 やがて賢木が振り払うと氷の粒子が消えた。
 賢木は優雅に笑う。
「それが君の限界だよ。自分の【魔力(オド)】だけじゃ高が知れる。僕は、熾天使と力天使に続いて炎のサインを持っているんだ。相性としては最悪だよ」
 見たかぎりでは、賢木が優勢だ。
 氷の粒子が火の粉に消える。瞬きが鈍い。炎に押されているいるようだった。
「そうだな」
 東堂はあっさりと認めた。
 だが、戦意は失われていない。腰を落として拳を握り直す。
 再び強く踏み込んだ時だった。
「何度、繰り返しても同じだよ!」
 賢木が炎を操って、また攻撃を押さえようとする。
「!」
 炎が消えた。虹の粒子も消えている。
 互いの力を打ち消し合った。相殺したのだ。
 さらに東堂は姿勢を低く保ち、攻撃を避ける。
「だが、おまえの顔面を殴り倒すくらいはできる」
 つまりは賢木の懐に入った。
 虹色の粒子が瞬く。東堂が拳を握りなおした瞬間、爆発した。
「貴様……!」
「とっとと歯、食いしばれ!」
 声を張りあげた東堂が拳を突き出した。
 目を瞠った賢木が防御に徹するも、もう遅い。
 ゴッと鈍い音が響きわたる。
 一季の位置からでは、東堂の背中が死角となって見えない。
 一拍後、賢木がゆっくりと倒れた。
 遠くでカシャンッという音がする。おそらくメガネが落下したのだろう。
 ゆっくり立ちあがった東堂は手をはたいた。
「ったく。始めから終わりまで魔術で片付けようとするからそうなるんだ」
 さきほどのやりとりとはうって変わって力が入っていない。まるで粗大ごみをやっと片付けたような口調だった。
 言葉から察するに、勝敗の分け目はフィジカル面の差かもしれない。
 賢木は優れた魔術師かもしれないが、お世辞にも体格的に恵まれているようには見えなかった。
 身長も平均的。すると、肉体ひとつで戦う東堂とは相性が悪いに違いない。
 一季はおそるおそる賢木を見る。
 胸は上下している。
 よかった。気絶しているだけだ。
 賢木の頬は強く殴られたのに口もとに血がついたくらいだ。あざひとつない。
 きっとこれから腫れ上がるのだろう。
 痛みを想像して首のあたりがぞわりとした。
 東堂は、慣れたことなのか賢木を一瞥もせず、瓦礫の中から荷物を引っぱり出す。
 ついた埃や汚れには頓着しない。かざごそとスマートフォンをとりだし、操作する。
 画面をタップしたあとは耳元に持っていく。
「俺だ。後片付けを頼む」
 それだけを告げて電話を切る。
 一季は、よろよろと歩み寄る。
「賢木は……どうなるんだ?」
「さぁな。俺が決めることじゃない」
 殺されかけたというのに東堂はあっさりしていた。
 強がっているそぶりもない。
 気付いたように賢木が握っていた飾り紐を拾いあげた。
「それが……【永久機関(賢者の石)】なのか?」
 目の前にかざして見つめる。
 宝石のついた飾り紐。これが東堂の家族を奪った理由。
 そして、彼の望みはその破壊。
 願いが叶う瞬間と思い、言葉を飲み込むと東堂は眉根を寄せて顔をしかめた。
「これは本物じゃない」
「え?」
 こぼれた呟きに、ぽかんとした。
「ほとんど魔力がない。きっと本物を模倣したまがい物だろう。ただの振り子(ペンデュラム)だ」
 確かめるように眺めて、賢木の胸の上に置いた。
 もう用はないとばかりに、すぐに立ちあがって踵を返す。
「行くぞ。じきに警察がくる」